タッキーの観てきた!クチコミ一覧

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ボンゴレロッソ 2025

ボンゴレロッソ 2025

A.R.P

小劇場B1(東京都)

2025/02/19 (水) ~ 2025/02/25 (火)上演中

予約受付中

実演鑑賞

満足度★★★★

聖淑高校4期生 3年 2組同窓会を12年ぶりに開催、30歳になる節目の年に集まった13人の悲喜交々を描いた青春群像劇。彼女達以外に2人の女性を加え、15人の女優による遠慮のない会話と演技が可笑しい。なぜ このタイミングで同窓会を行うのかが肝。

その開催場所が 雇われ店長をしているイタリアンレストラン「ボンゴレロッソ」。店の店員が狂言回しを担い、冒頭 この店員が主人公になる女性を早々に明かす。と言っても、最後には別の女性の近未来(数日後)まで言及して…その意味では女30歳、まだまだ若いが それでも色々な事がある。

本作では、たまたま高校時代に優等生であった女性に焦点を当てているが、誰が主人公になってもおかしくない。一人ひとりが卒業後から現在迄の状況を話す、この多様な人生経験が 観ている人の思いに重なるかも知れない。また女子高生の同窓会であるが、男性には男性の30歳が別の形で観えてくるのではないか。

基本コメディであるが、高校時代の文化祭で披露した歌やダンスを交え、面白可笑しく観せている。そして世代間のギャップが時代を感じさせる。時間と言えば、同窓会に集まってくるたびに暗転/明転を繰り返し人数が増える。その時間差を巧く表しつつ、一度に名前や近況が掴めないことから 登場の仕方に工夫を凝らしている。見どころは、30歳女性の複雑な心情、そして12年ぶりの歌・演奏、ダンスを観(魅)せるところ。そのライブ感が実に気持ち好い。
(上演時間1時間45分 休憩なし) 追記予定

『300年の絵画と鉄仮面の姫君』

『300年の絵画と鉄仮面の姫君』

KENプロデュース

萬劇場(東京都)

2025/02/20 (木) ~ 2025/02/24 (月)上演中

実演鑑賞

満足度★★★★

「恋の魔法にかけられた 四人の若者たちの物語」…その四人が ロールプレイングゲームのように恋の話を展開していく。それを歌やダンス そしてアクションで観(魅)せるエンターテインメント作品。物語は、世界の童話集にあるような話を織り交ぜて描いているよう。そこに あまり教訓臭を出さず、逆に物語へ巧く溶け込ませ納得や共感を呼ぶ。

アクションシーンや群舞などが多いことから、舞台空間を広く観せる工夫をし、その魅力を十分に堪能させてくれる。また衣裳も華やかで魅惑的な ベリーダンスイメージである。そのダイナミックな動き、それを引き立たせる音響・音楽、そして照明の諧調が印象的だ。

少しネタバレするが、冒頭 シャハラザード(語り)が この話は眠りにつくまでの物語(枠物語の手法か)と言い、歌いながらその世界へ誘う。M-team(ミュージカル班)を観ているから頻繁に歌とダンスが披露されるが、皆うまい。タイトルから何となく想像できるが 妖(アヤカシ)が登場し、その魔法と「300年の絵画と鉄仮面の姫君」に込められた意味と謎が テンポよく明かされていく。序盤は冗長のように思えたが、妖が登場してからは面白味が加速する。
(上演時間2時間35分 休憩なし) 【M-team】 追記予定

カリギュラ

カリギュラ

カリギュラ・ワークス

サブテレニアン(東京都)

2025/02/14 (金) ~ 2025/02/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

面白い、お薦め。満席
未見の演目「カリギュラ」、本来であれば上演時間3時間位の作品らしいが、それを1時間35分に凝縮したという。事前に難しそうな戯曲だと分かっていたが、本公演は 分かり易さを目指し、創意工夫を凝らし新しい翻訳で挑んだとある。不条理劇は、今まで何作品か観てきたが、本作は その中でも重厚にして濃密 そして心に響く秀作。

説明にもある「どうしてカリギュラが月を手に入れたいのか」「その宣言が自分の名なのか」という根本的な疑問、それを漂流するような会話(言葉)から だんだんと浮かび上がらせる。自分の解釈が正しいのか否か、少なくとも その入り口までは導いてくれるような。そこから先は、観客の想像力・感性に委ねられるが、舞台という虚構にも関わらず 激しく心が揺さぶられる。そんな 力 のある公演。観応え十分。

自分なりの解釈では、不条理 対 不条理 その捉え方 考え方の違い。その相容れない溝に横たわる得体の知れないもの、それは本能なのか感情なのか、いずれにしても 理性を飲み込み良識や常識を殺してしまう怖さ。それは誰が誰をという対立のように見えて、実は…。そもそも良識や常識といった条理とは何ぞやという根本をも問う。

「月を欲する」「宣言が自分の名」の疑問以外に、「正邪」「孤独」「生死」等の命題というか意味を投げかけてくる。その議論が広く深く考えさせる。抽象的とも思える内容、その議論の積み重なりを象徴するかのような舞台セット。そして音響・音楽(上演前の重低音の曲 含め)そして照明が効果的で印象に残る。勿論、俳優陣の演技は確かでバランスも良い。
なお、自分の勝手な思いが1つあるのだが…。
(上演時間1時間35分 休憩なし) 2.17追記

ネタバレBOX

舞台美術は、上手/下手に紗幕があり 上手は劇中のカリギュラの個(寝)室、下手は原作者 カミュの書斎、タイプライターを打ち 独白。この自作を俯瞰するような場面が妙。中央奥にベンチ その両側に本を積み上げ、板(床)上にも至る所に本の山。これは法・秩序や常識を表しており、冒頭 カリギュラがそれを崩すことによって不条理の世界へ という象徴的な場面が印象的だ。
衣装は、大臣などは黒一色、カリギュラの側近は赤基調、当のカリギュラは内に黒、上着は赤という条理・不条理という二面性を表しているよう。

生の喜びは いつも死の怖れであり、死は忌み 生は尊い。その感情を出発点とすれば、カリギュラが愛した妻で 実の妹ドリジュラの死は受け止めがたい。カリギュラにとって人の死は不条理。死は突然やってきて人の幸せを奪う。その不安に苛まれることも不条理の感情、一方 この不確定 幻影を断ち切ることが出来るのは死しかないという矛盾。
人が死という絶望を超えて 永遠性を求めた時、カリギュラになる。理性が崩壊し そこには正義・秩序そして合理的な感情は無になる。死は必然、その不条理を受け入れ 生きている間だけでも条理を尽くす。その条理・不条理を併せ持っているのが 生きている人間、言い換えれば 自分自身の内にカリギュラがおり、絶えず自己対立や対決をしているのではないか。

「月を手に入れる 俺はカリギュラだ!」…天空にある月を掌握することで、自分が神になる。神が人間を創ったのなら、自分が神になって不条理=死を無くす。不可能を可能にするのである。そのためには、この世にある条理を壊す…皇帝(権力者)として勝手な法律を制定し、虐殺と理不尽な圧政を強いる。カリギュラの圧政に対する反乱、しかし、カリギュラ曰く「誰も自分を裁くことなど出来ない、それが出来るのは歴史だ」。

考えてみれば、神だって近親相姦をし、「ノアの箱舟」にある大洪水による殺戮、「バベルの塔」を破壊し人を殺傷し言語の複数化という事態を引き起こした。本作も神のそれに比べれば、自分の不条理など大したことはない。説明にある「自分がもつ権力を神と対比し、カリギュラ自身の『論理』を力づくで正当化」する。独自の論理を持ったカリギュラ、意味合いは少し違うが、そのラストは 滅びの美学を思わせる。そう思わせる演出・舞台技術が実に上手い。

自分の勝手な思い…本公演は、カリギュラの寵愛を受けている詩人だけが男優で、それ以外 カリギュラも含め全て女優で演じている。その演技力は確かだが、理屈ではなく本能的に想像する情景が…。それは 例えば カリギュラが女を犯す といった台詞が陰惨・淫靡といった生々しさを想起させない。これが男優の暴力的な言葉・行為だったら、もっと違った臨場感が…。
次回公演も楽しみにしております。
女性映画監督第一号

女性映画監督第一号

劇団印象-indian elephant-

吉祥寺シアター(東京都)

2025/02/08 (土) ~ 2025/02/11 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

女性の芸術家を主人公にし、彼女たちの視点から社会や世界を見ていく「天井を打ち破ろうとする女シリーズ」の第一作。今作は日本初の女性映画監督 坂根田鶴子を取り上げている。観る前は彼女の評伝劇、それも生涯を描くものと思っていたが、1959(昭和34)年12月(55歳)までの半生で幕が下りる。そこまでに描きたいテーマが鮮明になり、それ以上描くとかえって暈けるといった際どいところまで攻めている。

どんな社会や業界でも 男女の別に関わらず先駆者は苦悩・苦労そして柵(シガラミ)や軋轢等と闘わなければならないだろう。本作では、その人間的な側面と時代という側面ー戦時という背景を巧みに繋ぎ 重層的に描き、同時に一筋縄ではいかない問題提起をしている。単に女性映画監督第一号の坂根田鶴子という一人の女性の生き様以上の問題を投げかける。

本作は 映画的にいえば、彼女の人生を投影することによって、その映像の奥には多くの女性の姿が映っているのではなかろうか。例えば 劇中における映画撮影所、そこでは日本社会で固定化された根深いジェンダー役割が次々に表れる。演劇における個人史と虚構をどう調整するか難しいところ、それを半生に止め 本来のテーマで纏めた手腕は見事。そして、満映時代を映画で言う<光>と<影>にして鮮やかに描き出した。

少しネタバレするが、物語は1959年12月に始まり同年へ回帰する、全14場で紡がれる。勿論、映画監督になりたい確固たる意志、同時に満州映画協会(満映)では、後進の育成等 映画界の環境整備に尽くすという観点も描く。そこに現代にも通じるジェンダー平等といった広がりを感じた。少し気になるのは、満映で撮影していたのは文化映画。単に映画が撮りたいという職業映画人ではなく、溝口健二監督の下でキャリアを積んだのは芸術家としての映画監督、それゆえ文化映画に劇映画の要素を加えるという発想へ。あたり前の意識・行動であるが、何となく「女性のパイオニアが男社会の壁をどう打ち破ろうとしたのか」から離れ、あくまで自分が こう撮りたいという欲望が前面に出過ぎたような印象が…。そのリアルの誇張が、後々 彼女を苦しめることになる。
(上演時間2時間15分 休憩なし) 

ネタバレBOX

舞台美術は、天井にフィルムか階段状もしくは脚立のようなイメージのもの。それも所々朽ちて欠損している。板上は中央に大きな菱型の台、それを支えるように左右に変形した長方体の台。後景は黒紗幕。全体的にはシンメトリーで、場面に応じて丸卓袱台やディレクターズチェアを搬入する。簡素な造作であるが、その作り込まない大きな空間が逆に場所・時間そして状況を巧く表す。

物語は、1959(昭和34)年12月、京都の坂根田鶴子の部屋へ 2人の女性が訪ねて来るところから始まる。そして彼女たちと話しているうちに、自分の身の上を回想するように語り出す。そして 1929(昭和4)年秋、京都・日活太秦撮影所へ場面は転換し、彼女の映画人生と当時の映画界の事情が描かれる。生涯、大きな影響を受けたのが溝口健二監督、そして交友のあった監督夫人 千枝子。それは映画(撮影現場)のみならず、私生活に関わる深いところまで踏み込んでいく。

当時の映画界で女性が監督をしてスタッフや俳優に指示や演出をすることは考えられないこと。長いこと溝口監督の下で助監督に甘んじなければならない、という閉塞感に苛まれていた。そしてやっと「初姿」が監督第1作に、それによって日本映画界に女性監督が誕生したのである。それも溝口監督が監督補導。それが地続きとして 多くの女性監督、最近でいえば 山中瑶子監督などが活躍する場を築くことになる。

いくつもの出来事、転機を通して映画への思いを強くする。それがドイツ映画「制服の処女」から受けた強い衝撃であり、千枝子夫人の錯乱と溝口監督の焦燥、活躍の場のない日本映画界への訣別、そして満州(満映)へ渡航。その時々の状況を分かり易い演出で観せる。突然、歌い踊るといったミュージカル風になったり、映画のワンシーンのように紗幕へ映し出すといった面白さ。本公演を使って現代の映画手法のいくつかを披露したかのようだ。

満映時代の活躍と周落、それを映画に準えれば<光>と<影>になろう。文化映画…何もない荒野を耕すことによって暮らしに潤いを、一方 その開拓は他国を侵略していくという矛盾を孕んでいる。いくら美辞麗句を並べても、相手から見れば違う光景が映る。撮(録)る側と撮られる側、それはまさに盗(獲)る側と盗られる側に他ならない。それを助監督として登用した中国人女性 包琳琳によって知らされる。自分の思い描いた映画とは…満州というユートピアを撮ったつもりが、相手からしたらディストピアに映る。状況閉塞という日本映画界から新天地を求めたが、それが時代に翻弄され といった個人と状況・時代を巧みに描き出した秀作。

演出は、紗幕を利用して 映画シーン(制服の処女)や脚立に乗っての撮影など、奥行きと俯瞰を表す。また戦火は天井のオブジェを赤く染め、業火に見舞われた地獄のよう。下から見上げれば赤い針の山または塔婆の林立である。物語(テーマ性)を強調するかのような演出、舞台技術は効果的で印象に残る。俳優陣は坂根田鶴子(万里紗サン)以外は、複数の役を担っているが、違和感なく演じている。そのバランスの良さも見事。
次回公演も楽しみにしております。
映像都市

映像都市

“STRAYDOG”

赤坂RED/THEATER(東京都)

2025/02/05 (水) ~ 2025/02/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

面白い、お薦め。
1970年代前半、日本映画の低迷期が舞台。映画好きの主人公の過去と現在を行き来し、その哀感と郷愁が相まって叙情豊かな物語を紡ぐ。時代背景には、素朴な日本の原風景と高度成長期へ といった過渡期の世態が垣間見える。脚本(物語)は、斜陽した映画館の中で、若かりし頃の思い出(夢想)に浸っている といった閉塞感を漂わせている。一方、演出は歌や踊りを交えエンターテインメントとして楽しませる。この哀歓するような世界観が好い。

また舞台美術が秀逸で、時代と心情を巧みに表出し 情景も鮮明に映し(描き)出す。その光景は、現在を1970年代前半とすれば、子供の頃は戦後間もない混乱期、青年期は映画全盛期といったことが分かる装置になる。薄昏い中で 手際よく場転換をするが、それによって集中力が途切れることはない。そして この劇場を映画館に見立て、観客を劇中へ誘い込むようなリアリティ。

登場人物は個性豊かな人々で、その化粧や仕草 そして衣裳に至るまで観(魅)せ楽しませる。本筋は、主人公が過去の自分と向き合い、映画こそが生き甲斐だと改めて知る。しかし衰退していく日本映画、それに伴って地方の映画館の行く末も知れてくる。笑い楽しませる中だけに、主人公の悲哀が際立ち印象深くなる。実に巧い。
(上演時間1時間45分 休憩なし)【Aチーム】

ネタバレBOX

舞台美術、冒頭は汚い石塀のよう。それが3つの時代に応じて場転換し、時々の情景をしっかり表出する。戦後間もない時期であろうか 主人公が子供の頃は、下手に手押し井戸と盥・洗濯板といった小道具、青年期は映画撮影所もしくはロケ地。そして現在 1970年代前半の映画館内が飛び出し絵本のように現れる。その館内の左右の壁に「スティング」「パーパームーン」の映画ポスター(両作品とも1973年製作)が貼られており、当時の映画館を彷彿とさせる。

公演は、上演前から既に始まっているような感覚で、幕に“STRAYDOG”に関係した映画が映し出されている。そして売り子に扮した主人公が通路を行き来している。物語は主人公が子供の頃、青年期のシナリオ作家を目指している時期、そして現在 結婚し映画館主、その3つの時代を往還するように紡いだ映画人生劇。主人公の夢と希望、そして現実という悲哀を描き、その背景に時代の流れが透けて見えてくる。何となく「キネマの神様」ー映画に魅せられていた時代を回想 を連想させる。

子供の頃、姉と二人暮らしに跛行の男。姉が見つけた八ミリカメラで遊ぶ様子。その童心、そして姉と男の不穏な関係をうすうす感じ取った心情が切ない。青年期はシナリオ作家として映画撮影に立ち会う。カリスマ映画監督、プロデューサー、二世俳優といった個性豊かな人々との軋轢に苦労している。そして現在、日本映画界は斜陽 映画館を売りマンションへ。子供の頃からの希望、それを転寝しながら見る夢想の中で物語は展開している。

この公演が好いのは、時代の変遷・変化によって浮き沈みする(映画)産業、それに重ね合わせるように映画(人)への思いが切々に語られるところ。物語は映画界を舞台としているが、他の業界でも同じような喜怒哀楽に思いを馳せている。その世態であり風俗史的な内容を舞台という虚構の中で瑞々しく描き(映し)出す。

現在の主人公曰く 夢=思い出を売り払うことは出来ない、しかし それを持ち続けることは重く溺れてしまう。現在も その一瞬を過ぎれば過去、だから残るのは過去しかない。過去のカリスマ映画監督曰く、過去作品の栄光(幻影)を追うのではなく、今できること といった言葉が重い。この現在と過去の対なすような言葉(台詞)が、公演の肝のよう。勿論 映画(芸能)界における往時のパワハラ等、今問題を鏤め 考えさせる。

さて 冒頭の石塀は映画館の裏塀、それをハンマーで壊すことによって光が見え始める。夢想の世界に閉じ籠もり前進出来ない情況からの脱皮。その希望に繋げるためには、敢えて骨太/重厚といった演出ではなく、笑いや憤りを盛り込みノスタルジーを漂わせているようだ。また映画撮影の現場を使っての歌や踊りといったエンタメシーンを盛り込む工夫が好い。
次回公演も楽しみにしております。
おばぁとラッパのサンマ裁判

おばぁとラッパのサンマ裁判

トム・プロジェクト

紀伊國屋ホール(東京都)

2025/02/03 (月) ~ 2025/02/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

面白い、お薦め。
沖縄が、まだアメリカから返還される前の 1960年代が舞台。物語は、サンマに関税が課され価格が高騰することに反対した大衆運動。時代背景の妙、そして現代でも地続きの課題・問題として関心を惹く。日本にとって、沖縄の返還は重要な出来事だが、未だに沖縄におけるアメリカ軍基地問題は解決していない。基地の負担や環境問題、そして一番重要だと思われるのは、沖縄住民の声が反映されていないこと ではないか。

公演は 分かり易い内容で、それをテンポよく展開していく。何より役者陣の演技(台詞回し)が小気味よい。庶民が口にする食材 サンマ、その身近さが現代の物価高騰をも連想し切実になる。その戦う相手がアメリカ、しかも相手が定めたルール(法)に則って争う。それ(困難)をいかに論破するのか。大衆運動を扇動するような熱い演技、その漲る力強さ 高揚感溢れるシーンが なぜか清々しい。

脚本 古川健 氏と演出 日澤雄介 氏、この劇団チョコレートケーキ コンビの公演は面白い。アメリカは姿を現さないが、その見えない影の存在として米軍機の飛行音を轟かす。少しネタバレするが、物語は 大衆魚サンマへの不当な関税撤廃から 未来を守る戦いへ…ここに公演の真のテーマ<民主主義の希求>が浮かび上がる。
(上演時間1時間40分 休憩なし) 

ネタバレBOX

舞台美術は、上手に平板の壁、その前にウシおばぁの家。下手も同じような平板の壁だが、その前は弁護士事務所で机、ソファとテーブル。中央は金網で上部は鉄線のようなもの。その前は階段状になっており奥へ抜ける。

1960年代、まだ沖縄が返還される前の話。アメリカが、サンマに関税を課すという暴挙、それに憤ったおばぁが敢然と立ち向かうが…。文字も読めないおばぁの無茶な奮闘記だが、それには知恵者や仲間が必要。その知恵者=弁護士が法に基づいて裁判所に提訴する。その法そのものがアメリカが定めたもの。関税する品目の定め(法)は、限定列挙で「サンマ」は記載されていなかった。それでも関税するとは如何なものか。そして裁判権そのものが日本に無いという問題。当時の不平等はもちろん不平不満を点描することで、問題の広がりや根深さを浮き彫りにする。

裁判結果(判決)は、勝利し過去の課税分も返還された。しかし、それはウシおばぁ家に限ったことで、今後は課税品目にサンマを加えるという暴挙。あばぁにとって「商売」「お金」は大切だが、それ以上でも以下でもない。しかし、目先の現実主事から「未来を守る」という思いへ変化していく。それは姪に子供が生まれ、その子が安心/安全な暮らしが出来るようにとの思いを巡らせたから。物語は、裁判の成り行きを おばぁ(柴田理恵サン)が語りとして説明するから分かり易い。

アメリカ相手に抗議行動、それが大衆運動としてプラカードやシュプレヒコールといった演出で盛り上げる。その高揚感溢れる思いが、清々しくそして痛快に感じられる。勿論、米軍機であろう轟音が響き、威嚇するような怖さもあるが、それを乗り越えなければ 沖縄の未来はないと。その誇りとしての沖縄民謡が米軍機音を凌駕するように流れた ように思えた。
次回公演も楽しみにしております。
藤戸

藤戸

劇団演奏舞台

演奏舞台アトリエ/九段下GEKIBA(東京都)

2025/02/01 (土) ~ 2025/02/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

面白い、お薦め。
「藤戸」は、能・謡曲の演目として知られているらしいが、この公演では現代語訳を礎に上演しており分かり易い。そして演奏舞台ならではの臨場感溢れる生演奏が心情を揺さぶる。また今回特筆すべきは、生演奏とともに照明・映像(プロジェクションマッピング)が美しく抒情的な雰囲気を醸し出し、意味合いは違うが 能の様式美のようなものを感じた。

謳い文句であろうか「夢か現か幻か…」、この言葉が公演の肝。時は平安時代末期、登場人物は4人で それぞれの立場は明確に描かれている。この観える人物と観えない人物、それを肉体的・精神的な対比として表出していく。そして新領主と領民、母親と息子といった関係性、さらに主人公の心の有り様といった情感が実に巧みに立ち上がる。誰も為政者を罰することが出来ない、そして恨みを抱くものを懐柔しようと…。その如何ともしがたい気持がじっとり纏わりつく怖さ。合戦における生死とは別の生々しさ、それが力のない老婆と亡霊によって脅し迫られるという皮肉。卑小だが気になることが1つ。
(上演時間1時間10分) 【team奏】 2.3追記

ネタバレBOX

舞台美術は中央に白い菱形を重ねたような幾何学衝立、左右にも同型のもの。天井部には照明を房付きの赤い板枠(フレーム)で囲ったもの。シンプルだが、この色彩は源平をイメージさせるもの。また白色は、そこへのプロジェクションマッピングによる効果的な演出を狙っている。この映像が秀逸で、抽象的なものから左右への遠近法を用いて立体的に館(ヤカタ)内を映すなど巧み。狭い空間が一気に広がりを持ち、同時に世界観も豊かになる。途中に床几を持ち込み、武者の立ち 座りといった動作が静かな舞台に動きを現す。

物語は、源氏の武者 佐々木三郎盛綱が先陣をきって藤戸海峡を渡り 平家に勝利した。その功績としてこの地 児島の国の領主になった。領民を前に公正な裁きと安寧を約束した。盛綱は 馬で海峡を渡る際、地元の漁師に浅瀬の場所を教えてもらい、手柄を我がものにするため口封じに漁師を殺した。盛綱の前に漁師の母が現れ、息子は殺されたと訴える。公平な裁きをするためには自分自身を罰せなければ…その苦悩が肝。殺されたところを村人が見ていた、その抗えない事実。しかし その結果手に入れた領主という地位も事実。その相反する行為と結果によって自縄自縛する真情と信条。その葛藤が実によく表現されていた。

一方、従者の謹厳実直で世故に長けた話しぶり、その現実を見据えた対応こそが盛綱の苦悩を一層際立たせる。何の迷いもない、そして最後の判断(裁き)は領主自ら行うものと突き放す。また息子(漁師)を殺された老婆は、息子の無残な死を悲しみ、その下手人を裁きたい。そして殺された息子が亡霊となって…。老婆曰く、この世は仮の宿、その一時でも親子の契りを結んだからには情がある。それに対し、盛綱は瞍となっても心に見えるのは恐ろしい亡霊だけ。これからの人生は、その陰に怯えて暮らすだけ。その孤独・懊悩が老婆や亡霊の対になっているよう。救いは、鮫に殺されたという村人たちの話、犠牲になった人の霊を永さめる供養が…。これらの話の流れが、夢か現か幻か…。

卑小だが、気になったのは盛綱の衣裳。その時代の領主の衣装かどうかは分からないが、従者のそれらしい出で立ち、それに比べると羽織りなどは色鮮やかだが 紐の帯に太刀を差すなど違和感があった。その軽い外見と内面の苦悩する姿のアンバランスが気になった。勿論、役者陣の演技力は確かで観応え十分。
次回公演も楽しみにしております。
一角仙人

一角仙人

演劇ユニット 金の蜥蜴

ブディストホール(東京都)

2025/01/29 (水) ~ 2025/02/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

説明には「能楽『一角仙人』を題材に、神や鬼が跳梁跋扈する時代劇ファンタジー」とある。さらに当日パンフによれば「インドの『マーハーバーラタ』、今昔物語の『天竺編』、歌舞伎の『鳴神上人』そして能楽までアレンジした金の蜥蜴流平安神話ミュージカル」と記してある。長々と引用したのは、これら 取っ付きにくそうな芸能を独自の観(魅)せる公演として仕上げ、楽しませるところが巧くて好い。

また能楽作品を分かり易くとの配慮から用語解説もあり、例えば、三か月も雨が降っていなかったため、雨乞山へ向かった。この山、物語上は架空だが作品のイメージとしての地理的な場所や一角仙人が住む仙境ー御在所山など丁寧な説明がある。もっとも観劇に際しては、その前知識がなくても理解できるよう工夫されている。

時は平安、まだ神と人、あの世とこの世の境目が曖昧で同じ所で暮らしていた時代 という設定。能楽としての能面や装束ではなく、時代劇としての衣裳、そして言葉遣いも現代風で身構えることなく楽しめる。勿論、音響・音楽(音源)は、小鼓・能管・篠笛・龍笛といった和楽器、照明は鮮やかな文様や暖色を照射する美しさ。その舞台技術は、場転換などで効果的な役割を果たしていた。そしてラストは…。
(上演時間2時間 休憩なし) 

ネタバレBOX

舞台美術は 山なりの段差を設えているが、左右は非対称。真ん中の台 下は空洞。場面に応じて屏風状の衝立や障子戸が運び込まれる。段上の一部が半円状 それが開閉し岩を現す。シンプルなセットは、一角仙人と竜神との殺陣シーンを観せるため 広い空間を確保している。上演前の鳥の鳴き声が山奥を思わせる。

物語は、人間を信じない一角仙人と信じる竜神の心の有り様や葛藤、それを人間の所業と絡め描いている。平安時代の朝廷(帝)は、その権力基盤が脆弱で いつ謀反などで崩壊するかといった疑心暗鬼に苛まれていた。知恵者 中宮徳子は、敵対勢力がいる拠点(村)を洪水で流すことを進言する。権力者の陰に女あり。そして朝廷は、巫女の協力によって竜神と契約を結ぶことに成功する。一方、一角仙人は 嘗て人間に欺かれ、額にあった鹿の角を切られた忌まわしい思いがある。人間に対する思いの違いは 戦いで決着を、その結果 竜神は岩山に閉じ込められた。

竜神は、その力をもって人間が必要としている地域へ、必要なだけ雨を降らせていた。その竜神の力がなくなり、三か月間も雨が降らない。物語には河童も登場し、この世は人間だけではなく、妖怪や獣 そして植物など万物が雨(水)を欲していた。ちなみに河童は、シェイクスピア劇における道化師の役割を担わせたのだろうか。さて、人の所業は至る所に影響する、そんな教訓めいたことが浮き彫りになる。何とか雨を降らせたい、そこで 一角仙人に酒を飲ませ神通力を弱めさせ、竜神が岩山から出られるように…。

一角仙人は酒好き、巫女の母娘が 何とか飲ませようとするが、頑として聞き入れない。母が唄い、娘が舞ってもてなす。別シーンでも同じような舞唄を披露し、金の蜥蜴公演らしい魅せる演出が好い。また場転換はすべて暗転、その際 雷鳴といった効果音を轟かす。照明は丸形や幾何学文様といった照射で美しく印象的だ。ラストは朝廷(帝)を始め、今回の騒動を起こした人間が自ら死をもって償おうとする。人間は過ちもするが、悔い改めることも出来る、そんな寓話劇。登場する者(神・妖怪・人間)が全員現れ、踊り歌う祝祭をもっての大団円。
次回公演も楽しみにしております。
メモリーがいっぱい

メモリーがいっぱい

ラゾーナ川崎プラザソル

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2025/01/24 (金) ~ 2025/02/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

面白い、お薦め。
この公演は、川崎市市制100周年記念事業として「若手演劇人によるプラザソル演劇公演」と銘打っている。多くの人に観てもらいたい といった思いからなのだろう、分かり易い物語で 観劇歴が浅い人でも十分楽しむことが出来る。見所は、親子の愛情と地域コミュニティの大切さ、そこに父親がロボットという奇知で興味を惹くところ。その物語を役者陣の確かな演技力で観せていく。まさに演劇による まちづくりに相応しい心温まる公演(物語)である。

説明にもあるが、離島・ロボットの父親・優しく見守る島の人々、それを30年の時間軸の中で純熟するように展開させる。出会いがあれば別れもある、たとえロボットであっても…。偏見かも知れないが、離島の人々にとっては 見知らぬ家族、しかも父親がロボットだから好奇心と警戒心を抱く。それがどう受け入れられていくのか。いろいろなエピソードを回顧するように紡ぎ、じんわりと納得と共感を呼ぶ。

子(娘)の幸せを 願わない親はいないだろう。さてロボットは、その答えのようなものを 娘が連れてきた男を殴ってしまう という行為で表わした。人間と変わらぬ愛情を娘に注ぐ、そんな普遍的な思いが切ない。
(上演時間2時間 休憩なし) 

ネタバレBOX

舞台美術は上手と下手に大きさの違う平台、その中間に小さい平台を重ね合わせ階段状の段差を設える。そこに木椅子3つ。壁は平板模様だが、上手は横向き、下手は縦向きになっており微妙に異なる。そして平台の行き来や段差の上り下りが 場所(空間)や時間そして状況の違いを表す。同時に生きている、動いているといった躍動感を現す。

物語は りつ と登志夫が結婚するため離島の父 大地へ挨拶に行くところから始まる。りつは事前に父親がロボットであることを伝えていない。戸惑う登志夫と大地の行為が波紋と呼ぶ。登志夫は、なぜ父親がロボットなのか、島の人々はどうして不思議がらないのかといった疑問が…それを ばあさんのキヌが回想を交え順々と説明していく。このエピソードが人間とロボットの違いを際立たせ、いかに大地が りつ を大切に育てたか、そして大地が島の人々にとって 役立っているかを点描していく。

大地と りくを この地(離島)へ連れてきたのは翔太、自分で子は育てられない。そこで大地に子育てを。プログラミングされたとは言え、その愛情の注ぎぶりは微笑ましく、実に心温まる。それは りく だけではなく友達に対しても同様。また缶蹴り遊びで 缶を圧し潰したり、運動会の綱引きでは怪力を といった面白可笑しいシーンで笑わせる。その飽きさせない演出が上手い。登場人物は善人ばかり、1人ひとりの見せ場を作り その性格や立場をしっかり立ち上げる。またロボットらしい動きをした大地(豊田豪サン)、物語の語り手でもあるキヌおばあちゃん(内野詩野サン)の演技は秀逸。勿論 音響・照明といった舞台技術も印象的な効果を発揮していた。

人間はいずれ死ぬ、ロボットは永遠かといえば メンテナンスが必要。身近な機器類でも故障すれば修理が必要になるが、型落ち品で部品がなければ廃棄へ。大地もメンテ=バージョンアップが必要になるが、その結果 いままでの大地ではなくなる。その苦渋の選択を翔太が行うが、大地は大地であって他(バージョンアップすることで大地とは違うロボット)に代替が利かないといった悲哀。そこには単なるロボットではなく<大地>という存在が既に認識されている。りつや翔太そして離島の人々との別れ、その後のホッとさせるなようなラストは名場面といっても過言ではないだろう。
次回公演も楽しみにしております。
6回の表を終わって7-0と苦しい展開が続いております(仮)

6回の表を終わって7-0と苦しい展開が続いております(仮)

坂田足立連続デッドボール

駅前劇場(東京都)

2025/01/22 (水) ~ 2025/01/29 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

面白い。
中年男性への密かな応援歌といった物語。タイトルは人生の3分の2(野球で言えば6回ぐらいか)ほど過ぎた中年男の現状を表しているような。舞台は銭湯、その名も招湯。そこへ来る常連客の愚痴、ぼやき、嘆きといった不平不満を笑いと悲哀で綴る。物語は悶々とした胸の内を曝け出すが、実際に行動を起こすかと言えば 二の足を踏む。見所は、その圧倒的な演技力。

まだ何者にもなれない中年男たち、無為に歳月だけが過ぎていくが、それでもよし といった惰性・諦念といった気持もある。ところが或る出来事によって心境の変化がおきる。まずは、草野球チームを作って という前向きな姿勢になること。もう一つが、常連客の1人が夢を叶えようとしていること。この男が 夢から一番遠そうに思えたが、努力は実を結ぶといった教訓じみたことが描かれる。

公演は むさい男=オッサンが「銭湯」と「サウナ」で語る くたびれた話が中心だが、劇中のキャッチボールのシーンは躍動感と迫力がある。なお オッサンたちの背景は 敢えて深追いせず、今の状況を淡々と描く。そこに身近にいるオッサンたちのリアルが立ち上がる。他愛ない会話の中に納得と共感を誘うような。ぜひ劇場で。
(上演時間1時間55分 休憩なし) 

ネタバレBOX

舞台美術は、上手に脱衣所、そこにロッカーや冷蔵庫等、下手にサウナ室があるが直接行き来はしない。上手の暖簾が湯舟やサウナへ通じる入口。また銭湯の出入口近くにマッサージ機を置き雰囲気を漂わせている。

登場人物は6人、銭湯の主人 マスター、常連客の先生・オサム・岡・ユージ・戸塚と素っ気ない名前で、ほぼ今ある姿だけで物語を紡ぐ。そして夫々の会話から関係性や付き合いの長さが何となく分かってくる。常連客の先生は小説家、それも官能小説を執筆しているらしい。オサムは広島出身 独身でバイト暮らし。いい歳をして まだ母親に金を無心している。岡、何かを喋ろうとすると他の誰かが口をはさむ。その正体は最後まで謎のまま。ユージは地元のようで野球愛に溢れ草野球チームを率いている。戸塚は刑務所帰りの元ヤクザ、背中一面に刺青。ほとんど女性に係る話題はなかったが、マスターが婚活を始め、好感度を上げる対策を練る。面白可笑しい会話が次々と…。

話題と言えば野球、それ以外は他愛ないことばかりだが、不思議と現実感がある。マスターの婚活も スケベ心は勿論だが、将来の一人暮らしが心配といった悲哀も滲み出る。毎日明るく元気に過ごすこと、そんな日々に満足しているようだが、いつかは達成感めいたものが欲しい。先生曰くまだ本気を出していない。自分の実力はこんなものではない と言わんばかりだ。そんな中、戸塚が俳優オーディションに通った。それが何とアメリカ(ハリウッドか?)というから皆驚き。端役と思っていたが主役、それもヤクザ映画だから素で出来る。

年齢的に 何かを成し遂げようとするのは難しい、そんな躊躇する気持がどこかある。それでも大声を出し明るく元気、その第一歩が草野球で勝つこと。しかし世の中そんなに甘くはなく連戦連敗で意気消沈しそうになるが…。50歳になろうとする男たちが足掻く姿、それは惨めというよりは開き直りの清々しさを感じる。それがタイトルの最後にある(仮)、つまり苦しいが まだ(人生は)ゲームセットではない。
次回公演も楽しみにしております。
カンテン「The Foundations」Final.

カンテン「The Foundations」Final.

カンテン事務局(Antikame?)

座・高円寺1(東京都)

2025/01/22 (水) ~ 2025/01/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

面白い、お薦め。 [Select B:集]観劇。
「架空畳」の「Φ(ファイ)をこころに、一、二と数えよ」と「劇団だるめしあん」の「バイトの面接に遅刻しそうだったが、どうやら遅刻していたのは世界の方だったらしい」の2作品。

役者陣の演技力は素晴らしく、何もない空間に役者の息遣いが聞こえ、虚構の世界を立ち上げる。演出は、それぞれ特徴があって、「架空畳」は音響と照明が印象的で、それが物語の世界観の希望と恐怖といった明暗をしっかり印象付けていた。一方、「劇団だるめしあん」は、板にテープを縦横斜めに張り、その線上を或る世界観に見立て時空の歪みを表出しているようだ。勿論 テイストは異なるが、それぞれテーマは明確で考えさせるもの。

●「Φ(ファイ)をこころに、一、二と数えよ」
失われたモノは、無かったことではない。その表し難いことを多角的な観点で考察するような描き方で、物事の本質に迫ろうとした問題作。
●「バイトの面接に遅刻しそうだったが、どうやら遅刻していたのは世界の方だったらしい」
何かの拍子で時空が歪み、意識が別次元の自分と入違ってしまう。その世界は、性差や人獣等といったことを超えて といった挑戦作。

素舞台にも関わらず、物語が豊かに紡がれ テーマが鮮明に浮かび上がる。同じ空間、60分という限られた時間、その同一条件下で描く話は、団体毎に無限の広がりを持つ。観客の想像力を刺激し、演劇という壮大な世界へ誘ってくれる好企画。ぜひ継続を…。
(上演時間2時間10分 休憩なし 作品間の転換10分) 

ネタバレBOX

舞台という空間・演じる人・物語の言葉という極めてシンプルなモノだけが俎上に上がる。そこに演劇の虚構の世界が立ち上がるから不思議である。しかも6団体すべて違うテイストになるのだろう。

●「架空畳」の「Φ(ファイ)をこころに、一、二と数えよ」
Φ(ファイ) 何もなければ新たに言語を作り出すことになるが、あった言語を失くすことは出来ない。原爆を投下された国⇒無くなった国⇒失った言語は、何も無かった訳ではない。言語を失ったら人間ではなくなるのか。地下で生まれ育った少女は、新たに言語に意味付けをする。言語は世界である。それはパソコンで翻訳できないスペルは 文字化けするといった変換不能(意味不明)=Φ(ファイ) ではない。征服/被征服といった怖い世界観、デパ地下やネズミといった場所や小動物といった比喩で観客に訴える問題作。

●「バイトの面接に遅刻しそうだったが、どうやら遅刻していたのは世界の方だったらしい」
舞台上の線の上を走り、バイト先の面接に向かう途中で、男子高校生と女子高校生がぶつかり性別が入れ替わってしまう。映画「転校生」のような設定で、同じようなことが続く。女性は成長するとゴリラになる世界へ転移する。何度か入れ替わり、だんだんと意識が混乱していく。螺旋階段をぐるぐる回るようだが、見える世界は少しづつ違う。時間軸が歪み、それに伴って意識も転送され 今いる世界が判然としなくなる。男tとか女とか、性差はあっても男女における役割/分担など、既成の価値概念・先入観を崩壊させるような異色作というか挑戦作のよう。

次回公演も楽しみにしております。
どらきゅらぁズ

どらきゅらぁズ

四宮由佳プロデュース

サンモールスタジオ(東京都)

2025/01/21 (火) ~ 2025/01/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

物語のカギは、フライヤーにある「ドラキュラー家のピンチがスタートする」…どうしてそのようなピンチが といった原因。物語は大きく前半と後半に分かれ、前半は どらきゅらぁズの現状を描き、後半はピンチを招いた原因と対応を描く。表層的には どらきゅらぁズvs人間といった内容だが、それには当然訳がある。

物語は どらきゅらぁズ が人間界で認識され、ある程度容認されているという前提に立っている。公演は、表層だけを観ていると味わいが薄(浅)いが、その奥にある<共生や享受>さらに<寿命や感情>を考えた時、味わいが濃(深)く、観客としての感性を問われているようで手強い。その意味では、観客によって評価が分かれるのではないか。

前作「べらんだぁ占い師シゲ子」でも感じたが、ツッコミどころが いくつかある。それは物語そのもの=表面的なことではなく、考えさせることが いくつかあるということ。そこへ導く伏線がもう少し丁寧に描かれていたら…惜しい。ちなみにドラキュラは悪役としての吸血鬼といったイメージで、災いを招くという先入観がもたれている。公演では そんな先入観を払拭するが、一方 悲哀も感じてしまう。
(上演時間1時間45分 休憩なし) 【Aチーム】

ネタバレBOX

舞台美術は、上手に大きくて頑丈そうな棺桶。天井には赤い紗幕が垂れ下がる。下手には円柱と立方体の椅子が各2つずつ。中央は 広い空間を確保している。上演前から 四宮由佳さんが棺桶に入っており、冒頭は その中から現れるところから始まる。またシーンに応じた衣裳替えも見所。

ドラキュラー家は母 赤坂ナナエ<武藤令子サン>と娘2人(既婚:白石ヤスコ<菅川裕子サン>、赤坂ソラミ<四宮由佳サン>)。ソラミは、血液成分を分析し癌の早期発見に資する仕事、母は若さを保つ秘薬の販売。その仲介業をする者(人間)は、この家族がドラキュラであることを知っている。勿論 怖がりもせず、普通の人間と接するような対応。ドラキュラは身近に存在していることが早い段階で認識されていることを示す。

後半は、このドラキュラを退治したい人間集団が現れた。なお ドラキュラは、朝日・大蒜・十字架に弱いという先入観を逆手にとって面白可笑しく描く。シルベスター秋山<黒田勇樹サン>が率いる組織、彼がドラキュラを憎む理由 しかし真相は…。そして彼に加担してドラキュラに接触したい人の思惑を次々に説明していく。イーゼルにフリップを置き、その内容をオムニバス風に紡いでいく。

知られたドラキュラ=吸血鬼は若い女性の血を吸って生き永らえるのだが、本作は性別 年齢問わず<噛む>ことで命を繋ぎとめる、若しくは殺してしまう。母ナナエは究極の行為に躊躇してしまう。仮に生きた場合、人間はドラキュラになり長寿。例えば、家族/親族、親しい友人を見送っても自分は死ぬことも出来ない。そんな悲哀を味わうことになる。人間の宿命(寿命)という道理が歪むのである。またドラキュラも結婚し (ドラキュラの)子孫を残し、また死にかけた人間を嚙むことによってドラキュラへ。何が人間との共存/共生なのかといった問題まで考えてしまった。
次回公演も楽しみにしております。
ぼくらは生れ変わった木の葉のように

ぼくらは生れ変わった木の葉のように

Liveoak企画

オメガ東京(東京都)

2025/01/16 (木) ~ 2025/01/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

日常と非日常が交差して生まれた奇妙な世界、その歪みこそ不条理なのかもしれない。そして途中からハムレットなど劇中劇を挿入することで、歪んだ世界観が一層印象的になる。同時に、劇中ワークショップを観ているような錯覚、そこに公演そのものと 劇中劇という二重の意味での熱演を見るようだ。その演技力は、「円熟み溢れる俳優達」の謳い文句の通りで堪能した。
(上演時間1時間10分)

ネタバレBOX

舞台美術は、中央から上手にかけて車が壁を突き破って屋内に入った光景、上手に揺り椅子、下手はタイニングテーブルセット。このセットによって、日常と非日常が同居したことを表しているようだ。

物語は説明にある通り、男女が運転する車が ある家へ激突したところから始まる。その家には大学教授と妻、その妹の3人が住んでいた。この家族は淡々と日々変わらぬ暮らしをしていた。一方、男女は定住することなく車で移動しながら 日々変化のある暮らし。その平静と刺激的な生活スタイルが交差したことによって、お互いの暮らしが影響し合う。いや正確には 男女が この家族によって翻弄され出す。2人にしてみれば家を半壊した弱みがある。にも拘らず歓待されるという薄気味悪さ、居心地の悪さが じわじわと精神を追い詰める。自分たちの生活スタイルが侵されていく怖さ。まさに不条理の世界ではなかろうか。

劇中での歌は魅せるといった感じで、一瞬にして抒情的な雰囲気を醸し出し 不穏な空気を和ませる。舞台美術も、その状況を一瞬にして知らしめる巧さ。壊れた車の座席に座って、妹役のHakkaさんが楽器を奏で歌う。その時の佇まいが、何故か劇中から抜け出して 情況を俯瞰しているような。

さて前説で、この物語の背景は1970年代と言っていたが、その頃は一時の学生運動は下火になっていたと思う。そう考えた時、何らかの刺激を欲していた時期なのかもしれない。毛沢東 云々の台詞はそんな名残を思わせる。
物語は、そんな世相をこの家における1か月間の様子に重ね、緊張と迫力、弛緩と可笑しみといった情景として描いているようで面白かった。
次回公演も楽しみにしております。
バンバン学校裁判BANG!

バンバン学校裁判BANG!

FREE(S)

ウッディシアター中目黒(東京都)

2025/01/16 (木) ~ 2025/02/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

設定が上手い学園法廷コメディ。
とあるド田舎の小中一貫校では生徒間が対立、それを学校裁判として児童・生徒自らに解決させる。校内の問題は学校全体、ひいては担任教諭や校長の責任を問うような広がりをみせる。勿論、学校法廷劇であるから被告と原告といった立場で議論するが、その内容が面白く しかも考えさせる。自分で考え 意見を言い合い、お互いの気持を理解していく。公演で描きたかったことが浮き彫りになる。
表層的にはスラップスティック・コメディといった印象だが、その中での台詞(言葉)の遣り取りが面白可笑しい。真面目な裁判劇といった理屈で観たらツッコみどころ満載。

ド田舎ゆえ生徒数は少なく、学年が違っても皆 顔見知り。そして学級委員長という優等生から素行が悪い者、少し精神が といった者まで個性豊かな生徒が集まっている。その生徒たちが提訴する内容が妙。少しネタバレするが、幽霊の存在を信じるか否か といった 悪魔の証明 のような言い争い。その和解までの議論が心に響く。そして学級委員長が提訴した或る問題が学校全体を巻き込んで…。
(上演時間1時間40分 休憩なし) 

ネタバレBOX

舞台美術は学校の講堂のような場所、二段のうち 上段中央に椅子1つ。上手にいくつかの椅子が横並び。下段の上手 下手に椅子1つずつ。上段中央は裁判官席、下段の上手は被告席、下手は原告席というシンプルなもの。
学校裁判を始めるにあたり、学級委員長が裁判官役として模擬裁判(練習)を始めるが思っていた以上に難しいと、そんな感懐を抱いたところから物語は始まる。

まず、絵の盗作をされたという提訴。実際描いた絵を見せ合うが構図が全然違う。逆に原告へ絵が上手くなるための努力をしたのかと詰め寄る。次に飼育している豚が逃げたなど、少し推理する事件で楽しませる。
個人的に好きな案件は、原告が最近まで亡くなった祖母の姿が見えていたのに、被告から幽霊なんかいないと言われてから、祖母が表れなくなったと。幽霊の存在の有無、いないことの科学的証明 まさに悪魔の証明のよう。一方 被告の父は既に亡いが、自分の前には表れない。どうして と逆に原告に迫る。亡き人は見守ってくれているが、もう大丈夫と思ったら表れないのだと。ちなみに弁護人が、被告にアメリカ人を見たことがあるかと質問。ド田舎ゆえ外国人はいない。見たことがない=存在しない とはいえない という論法も解り易い。

学級委員長は小麦アレルギー、自分が食べられない分、他の生徒が食べているので相応の金額を返金してほしいと。これは原告1人に対し 他の生徒全員が被告になる。さらにアレルギーのことを知っていながら、この食材を使った給食を出している学校ー残さず食べろという担任教師や責任者である校長を訴える。この裁判に養護教諭が出廷しているところも上手い。提訴する問題に厚みを持たせると同時に、対立していた生徒同士が一つになり協力し合う姿がみえる。この案件、健康や予算といった根が深い問題を孕んでおり考えさせる。

孕んでいるといえば、途中から産休中の教師が加わり 裁判官の合議制(合議審)になる。それまで裁判官が入れ代わり立ち代わり交代していた。それは自らの存在を知らしめる好機と言わんばかり。名前さえ覚えてもらえていない学校事務員にその役割を負わせている。その意味では登場させる人物も巧い。ラスト、ソーラン節を歌い踊る中で産気づいた妊婦が…。予定調和の大団円。
次回公演も楽しみにしております。
月と箱舟

月と箱舟

“STRAYDOG”

アトリエファンファーレ高円寺(東京都)

2025/01/15 (水) ~ 2025/01/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

面白い、今まで観てきた“STRAYDOG”作品とはちょっと違うテイストだったが、この混沌とした世界観は好きだ。公式サイトの「平成での上演を最後に封印していた混沌の怪物を、いざ令和の世に解き放つ!」という謳い文句に惹かれて観劇したが、何となく そういう意味なのかと 独り合点した。ひと筋縄ではいかない構成、独自の手法により魅惑的な世界観を創り出している。

物語性は勿論あるが、その観せ方がミステリー、サスペンス、スプラッターホラーそしてコメディと変幻自在の演出で、情景・状況が目まぐるしく変化する。その何でもアリの混沌とした世界観、その不思議な魅力が物語を牽引する。根拠がある訳ではないが、何となく自由奔放イメージの中島らも 作品を連想、それは理屈を超えた勢いのようなもの。
ちなみに人によっては気分が…トリガーアラートの案内があったほうが良いかも。
(上演時間1時間40分 休憩なし)【さくら組】 

ネタバレBOX

舞台美術は、冒頭…若き考古学研究者の部屋。薄汚れた一室、上手に机台(シーツ) 下手にアイロン台が置かれている。正面奥は引き戸の出入口、その左右に見開き窓。場転換し17年後は廃棄物処理会社の事務所内…シーツを取り事務机、下手はテーブルと椅子を置く。
前途洋々とした若き考古学研究者の梅宮だったが、今 廃棄物処理 それは人が嫌がる仕事であり地域住民との諍いが絶えない、そんな憤懣やるかたない状況下にいる。そうなった原因が物語の肝。

物語は説明にある通り、17年前 考古学を学び、良き友そしてライバルであった松坂と梅宮、そして二人の間で一人の女性 古都 を奪い合う。月日は流れ 松坂は考古学の教授、梅宮は父の跡を継ぎ廃棄物処理会社の社長と、違う道を歩んでいる。この会社、更生施設のように前科者を多く雇っている。一癖二癖もある者、その心底にあるのは愛欲とお金。金で愛情を買い、愛憎が暴力を生むといった殺伐シーン。一方 妄想の世界に浸り、官能小説を執筆しながら朗読する濡潤シーン、そして被り物をした公務員の笑劇シーンなどバラエティなシーンの構成。物語はシリアス、コメディを行き来しながら、過去の在る出来事へ繋がっていく。

廃棄物処理場に遺跡の発掘を絡ませ松坂と梅宮を邂逅させる。そして調査で発見される「瑪瑙(めのう)」や頭蓋骨、同時に起こる誘拐や身代金強奪等、そのミステリー性が物語を惹きつけて離さない。動的な殺傷シーン…血まみれの顔、血に染まった服など生々しい状況。最前列 客は役者の合図によってシートを持ち上げ血飛沫を防ぐ。静的なロマンー梅宮が松坂の助手に語るシーン…発掘された人骨から その人物が当時どんなことを考え、行動していたのかを想像する。その人に想いを馳せる。そんな動・静の対比シーンも良かった。
~公演中なので後日追記予定~
おもいだすまでまっていて【東京公演】

おもいだすまでまっていて【東京公演】

Pityman

シアター711(東京都)

2025/01/16 (木) ~ 2025/01/21 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初日観劇、面白い。
リアルな情景を舞台という虚構の世界に巧く落とし込んだ珠玉作。テーマは「老い」、そしてどうしても介護と切り離せないため、それを切実に感じる世代と もう少し距離というか時間が先の若い世代とでは、その受け止め方に感情的な違いが出るかもしれない。それは現実的な感情と、解ってはいるけど といった観念的な理屈といったところか。

登場人物は4人、母と兄は一人二役 そして姉と妹。物語は、広島から東京 浅草観光旅行と子供の頃の出来事を往還して、母との関係を生き生きと描き出す。全編 広島弁、自分は広島が第二の故郷であるから、その方言が懐かしく思えた。方言が母娘の繋がりを意識させ、日常の暮らしがリアルに立ち上がってくる。そして微妙な沈黙も含め、会話の間が実に巧い。旅行でのエピソードを散りばめながら、滑稽とも思える 笑い怒り呆れる といった感情を爆発させる。

アフタートークで山下由 氏が、あるシーンは賛否両論があったことを話していた。初日の観劇後であることから、それは前回上演時の感想であろう。自分も このシーンだけは現実離れしているといった印象を持った。対談の相手は作家、エッセイストの こだま さん。彼女も前半だけで終わったと思っていたと。ぜひ劇場で…。
(上演時間1時間20分 休憩なし) 

ネタバレBOX

舞台美術は、周りを白のレースで囲い 舞台と客席の間にも敷いてある。中央に椅子3つ並べ、上手に縁台と玩具の木馬(実は山羊)のようなもの。下手に椅子2つ。
会話の中に倉橋島や四国 といった台詞があることから広島県呉市あたりの島が舞台。周りのレースは白波のイメージか。

物語は、夜尿でシーツや寝間着を汚したため、次女ミツ子が 呆けてきた母 トヨ(80歳)の着替えを手伝っているところから始まる。老いーそれは不慮の事故や災害等が起きなければ、殆どの人が迎えるといっても過言ではない。しかし 公演では、老いをことさら深刻に追い込むことなく、日常の暮らしをゆったり飄々と紡いでいく。家族構成や事情は台詞でサラッと説明し、主に母と長女 エイ子・次女の会話を面白可笑しく語り聞かせる。ミツ子は 会社を辞め母の面倒を見るため広島へ、しかし彼女自身の家族は描かれていない。エイ子も近くに住んでおり、日々様子を見に来ることくらいの情報しかない。

東京/浅草観光旅行、新幹線の中での姦しい会話、夫々が勝手な行動をするため 目的の東京スカイツリー展望台(天望デッキ+天望回廊)へ上がれなかったと不満を口にする母、その母に人力車なんかに乗るからと言い返す。チェックイン前、突然 蕎麦が食べたいと言い出した母のために コンビニでカップ蕎麦を購入し ホテルへ持ち込むエピソード。罵りあいながら笑う、何気ない会話と行動の中に可笑しみが溢れる。

幼い頃、姉妹は兄に暴力を振るわれ、それが嫌で家出をする。昼間は海辺で遊んでいたが、夜になると途端に寂しく心細くなる。帰り道が分からなくなり途方に暮れる姉妹、その時 探しに来た母の行動?が…ここが評価の分かれるシーン。今のエイ子はのんびりとした性格、しかし子供の頃は激しく兄に逆らっていた。妹のミツ子はテキパキと忙しないが、子供の頃は従順のよう。そこに成長するに伴い性格が逆転していくような歳月、時の流れを感じる。エピソードの羅列したようなイメージだが、その日常の積み重なりこそが 老いなのかもしれない と実感する。
次回公演も楽しみにしております。
マルコとグリーンの海

マルコとグリーンの海

ヒコ・カンパニー

ブックカフェ二十世紀(東京都)

2025/01/10 (金) ~ 2025/01/13 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

面白い。お薦め といっても早い段階で完売。
濃密な男女の二人芝居、4場。当初1時間30分の上演時間が1時間50分になるほどの力作(事前にその旨連絡あり)。上演時間が長くなったのは、ラストシーンに救いを求めたのではないか と想像している。テーマは昨今大きな問題として取り上げられるハラスメントー特にパワハラ・セクハラー、それを演劇の世界という自分たちと向きあった所を舞台にしている。それだけにリアルであり切実な思いが痛いほど伝わる。

パワハラ・セクハラの加害者、被害者の捉え方、その視点の複雑さを多面的に描くことで、問題の本質に迫ろうとしている。被害者は、その行為を忘れることは出来ないだろうが、加害者が真にハラスメントを認識した時の精神的苦痛は計り知れない。ハラスメント行為は無意識に行っている場合、逆に言えば 叱咤激励しているつもりが 知らぬ間に相手を傷つけている なんてことが往々にしてある。ちなみにパワハラ・セクハラを並列に記したが、それぞれの場面を描くことによって、人が潜在的に持っているであろう偏見、差別といった心の闇が浮き彫りになる。

終電を逃した男女の一夜の弛緩と緊張を繰り返すような会話から、徐々に過去にあった出来事、その結果が今の状況を招いていることを切々に語る。未だに出口が見つけられず悶々とした日々を過ごしている。見知らぬ関係ゆえに心の内を激白する。さらに会話は漂流し 思わぬ方向へ…。
(上演時間1時間50分 休憩なし)

<2025年1月公演>朗読キネマ『潮騒の祈り』

<2025年1月公演>朗読キネマ『潮騒の祈り』

idenshi195

パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)

2025/01/08 (水) ~ 2025/01/13 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

母と娘の確執・回想・受容といったエレメントで構成された抒情的な作品。娘の観点で描いているが、その娘が母親になることで 新たに母の思いを知ることになるのではないか。母にも子供時代があり経験したにも関わらず、親=大人になると その立場 目線で考える。それは先人の定めのようなもので、一概に親のエゴと言えるだろうか。

当日パンフの中で、主宰の高橋郁子さんが「再演を重ねる中で、『これは私の物語だ』とおっしゃるお客様と何人も出会い・・・作者の想いなどはとうの昔に超えて、『私』となる方のためにこの作品は在るのだと思う」と記している。長々と引用したが、この「私」は たぶん娘 綾子なのであろう。しかし母1人娘1人という状況の中、必死に子育てする母の気持が痛いほど伝わる。母が娘の心を殺すまで無関心・無神経だったか。逆に外国映画に「毒親(ドクチン)」という、娘への過剰な教育や躾といった問題を描いた作品がある。子育てに正解はないのだろう。

寂れた海辺の街という設定が妙。妊娠した娘の精神的・肉体的な変化を自然のなかで情緒豊かに紡いでいく。羊水の中の胎児、それを月と潮汐に準え神秘的に、時に現実的に読む。だから配役(表)も娘 綾子、母 和江、そして海となっている。しかも娘と母の間に海が、それは2人を取り持つ新たな命(胎児)を連想させる。シンプルな舞台装置に揺れる波が映え擬声音が効果的に響く。

先の当日パンフには「想像力で溶け合うことで視えてくる母と娘、海と命の物語」、男の自分には、親子の一番解り難い関係(母と娘)だけに手強い。母と息子、父と娘、父と息子は、自分が子として又は父として接したことがあるため何となく想像が出来る。公演では女性ならではの身体的な描写があるため、理屈では分かったつもりだが やはり観念的に捉えている と思う。男優による朗読、それでも母娘は違和感なく存在したが…。
(上演時間1時間20分 休憩なし) 【上弦】 

ネタバレBOX

舞台美術は、会場入り口の対角線上に腰高スツール3脚。その後方に縄簾のような幕。さらに幕奥に照明が1つ。このシンプルな舞台美術が実に効果的な役割を果たす。朗読劇だから、ト書きや波音などの情景は擬態語・擬音語で表現する。また後景の縄簾への流線形の照明が揺らめく波のように見え、さらに丸照明がシルエットになり朧月のように見える。物語は、8月下旬から12月下旬までの約4か月間の話。

綾子は身籠った子を産み育てるため、実家に帰り嫌いな いや憎んでさえいる母に頼らざるを得ない状況。当初 母 和江は反対していたが自分も反対を押し切って産んだ経験があるから認める。母への蟠りは消えない…小学校4年生の時に初潮、それを機に苛められるようになる。登校したくない、しかし 母は綾子が弱いからと決めつける。子の心情に寄り添えず、自分=大人(母親)の立場で追い詰める。そんな母が嫌いだった。その母は、夫に先立たれ昼はパート、夜はスナックで働き1人で綾子を育ててきた。それだけに負けず嫌いの気性の激しい女のよう。母 娘の確執とその原因となった回想が淡々と語られる。

綾子は 東京の予備校で働きだし、年上の男から交際を求められ妊娠した。男の身勝手、結婚もしない 認知もしないし養育費も支払わない。実家に帰るまでの逡巡、それでも産むためには母を頼らなければ、その葛藤が痛いほど伝わる。そして月齢が進むにつれ、自分の体の変化と同時に感情の変化、綾子はだんだんと受け入れていく。胎動によって胎児と語り、それによって母性を育んでいく。そして綾子の思いは母 和子の思いへ近づき、いつの間にか同化していく。

体調の変化は 水が関係してくる。風呂場で異変を来し悲鳴を上げる。そして12月下旬、月に導かれるように夜中の海に入っていく。幻想的な情景 不思議な行為は、生 なのか 死 なのか いずれにしても神秘性を感じる。が、一度産むと決心し胎児と向きあった以上、母 和子が間に合ってホッとした。このドキドキしたシーンによって迷いや葛藤は吹っ切れたかのような和み。
次回公演も楽しみにしております。
なまえ(仮)

なまえ(仮)

劇団夢現舎

新高円寺アトラクターズ・スタヂオ(東京都)

2025/01/08 (水) ~ 2025/01/13 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

2023年新春公演でも同じ演目「なまえ(仮)」を観ているが、前回に比べ その内容(小話)が増えた分、<なまえ>に対する拘りが強くなったような気がする。小話毎に訴えたいことは違い、その濃淡も異なる。

2023年時に演じた小話は、題名こそ違えているが 内容的には ほぼ同じ。しかし増えた題目は、<なまえ>の重要性・必要性というよりは、便宜的な曖昧さの中にも名前というか呼称が必要なことを挙げている。同時に題目間の繋ぎのような役割も果たしているようで、その意味では場転換はスムーズだ。
(上演時間 1時間35分 休憩なし)

ネタバレBOX

舞台美術は暗幕で囲い、冒頭は中央にテーブルと椅子が置かれている。暗幕には紅い短冊に、舞台と客席の間には白い短冊に文字が書かれている。しかも天井にも貼られ、薄暗い場内だが おめでたい紅白幕を連想させる。最後の獅子舞も合わさって正月公演らしい。

勿論、<なまえ>は人間が付けた便宜的な記号・符号のようなものであるが、その共通性が大切。言語は国によって異なるが、<なまえ>という概念は ある程度共通認識を得ている。その意思疎通・情報伝達から曖昧な呼称まで様々。公演は、その曖昧模糊とした題材に着目した点が妙。

さて「おしながき」の「なまえ(仮)」と構成・梗概は次の通り。
①「ゴッドハンド(仮)」
小学校教師の胃痛を執刀する医者の名(苗字)が「藪(やぶ)」、その語感から手術に対する不安が生じる。医術的なことより先に、名前が重要だと言わんばかり。人格や技術等は名前と関係ないが、外見的なことに拘りが出るというオーソドックスな話。
②「病名(仮)」
病名で患者の気持が一喜一憂するという不思議さ。例えば風邪ならば安心し癌ならば深刻になる。勿論その気持はよく分かるが、医師は何でも病名をつけ、患者はその診断名を欲するという奇妙な現実を突き付ける。
③「電話(仮)」
電話口で「サルワタリ アイコ」という女性は もういない。名前は人物を特定することに関しては便利であるが、その人物自身を表すものではない。例えば女性は婚姻によって姓が変わる。それによって姓+名の語呂が怪しくなる場合もあると。これって夫婦別姓への問題を意識したものか。
④「私の伯父さん(仮)」
「ワーニャ伯父さん」を劇中劇仕立てにしており、伯父と姪の なさぬ恋のよう。「なぜあたたは伯父さんなの?」という台詞は「ロミオとジュリエット」の「ああロミオどうしてあなたはロミオなの」のパロディで、「家なんて関係ない、その名を捨てて私を愛して」に通じる。
⑤「胡散(仮)」
名前は その人物の特定に役立つが、呼称のようなものは それを曖昧にする。例えば 怪しい人物、それも中年以上になれば「胡散臭いおじさん」という一括りで呼ぶ。この題目は2023年の時にはなかったと思う。
⑥「中華満珍楼(仮)」
中華飯店で働く男、その名もチンさん。語感だとどの漢字のチンさんか判然としない。揶揄われることに嫌気がさし、衝撃の告白。本当の名は別にある。外国人が日本人の名前を買うには高額すぎる。だから”珍”さん、何ともシュールだ。
⑦「CHIBA(仮)」
千葉県にあるのに、東京ドイツ村や東京ディズニーランドというイメージ戦略、一方 成田国際空港は、当初 新東京国際空港としたが、いつの間にか今の名前に改称した。国や企業等の思惑によって恣意的に付けられる名前や呼称の曖昧さ。
⑧「列車にて(仮)」
電車内、失恋した男の悩みを聞く牧師。世の中にはもっと辛い思いをしている人がいる…夫が事故で生き埋めになり、その妻が夫の名前を呼び続ける話。それ自体良い話だが、失恋男が誤って「神父さん」と呼ぶが、自分は「牧師」ですと返答する。そこには厳然とした違いがあるという。
⑨「小竹林(仮)」
この読み方は何でしょう。フリップを使い 福井県大野市(越前)という地名までだし、さぞかし難しい読み方のような思わせぶり。実は「コタケバヤシ」という素直な読み方。名前というか漢字の読み方に対する先入観の妙。
⑩「ぐっち(仮)」
アベックが高級貴金属店で買い物をする。男は女のためにGUCCIの指輪を購入するが、店員は それをロゴなし袋に無造作に入れる。アベックは、品物に相応しい(見せびらかす)袋を用意しろと…。目に見えない袋を用意されたアベックは、宛ら「裸の王様」の寓話のようだ。
⑪「市民土木課の一日(仮)」
市民課と土木課の統合で生まれた新設課。配属された人の中に元恋人同士、その喧嘩や日和見の新人の言動を面白可笑しく描く。しかし、原発誘致が白紙になり 日々暇を持て余す課員たち。そして関係のない課を一つにし市民蔑ろの行政、ここでは どちらの名を先にするかが問題。銀行の合併じゃあるまいしは辛辣。また「課長」<権威>という呼称は、個人の名とは関係なく歩き出す習性の怖さ。全員登場による共演。

各題目ごとに 「なまえ」という切り口で緩い寓話らしきものを垣間見せる巧さ。その内容は多義にわたり面白可笑しく観せ、2023年に比べると時事的な事柄も随所に描く。また題目によっては<なまえ>のダジャレのような描き方だが、そこには繋ぎという別の役割を持たせており巧い。

演出は各題目によってテーブルや椅子の配置を変え、シンプルであるが状況を表出する。同時にキャストは衣装替えをし、観せる工夫をする。勿論、音響・照明などの舞台技術も効果的な役割を果たしていた。薄暗がりの無人舞台、暗幕に貼られた短冊、そしてラストには天井から短冊が舞い落ちる。その光景は、<なまえ>が重いのか軽いのか、人それぞれの思いと状況によるような。
次回公演も楽しみにしております。
卒塔婆小町 葵上

卒塔婆小町 葵上

東京大学芸能研究科

駒場小空間(東京大学多目的ホール)(東京都)

2025/01/10 (金) ~ 2025/01/11 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

三島由紀夫の近代能楽集から「卒塔婆小町」と「葵上」の2編。本演目は未見で戯曲も読んだことがないため、興味津々で東大多目的ホールへ。登場人物の少なさやシンプルな舞台装置、薄暗い中での飄々 時として濃密な会話は別役実作品を観ているような印象。

この両作品とも、二項対立させながらテーマらしき比喩が浮かび上がる。「卒塔婆小町」は「若い」と「老い」や「生」と「死」といった対比の中に抗えない人の宿命が描かれている。「葵上」は「愛情」と「嫉妬」や「情念」と「諦念」といった人が、特に男女間で起こる感情の縺れを情緒的に描いている。しかし近代能楽とは言え、元が能楽ゆえ若干違うが、「あの世=ワキ」と「この世とあの世との『あはひ』に生きる者=シテ」という基本的な構造は変わらないようだ。

舞台装置や演出は、幽玄といった雰囲気を醸し出しており観応えがある。しかし演技がその雰囲気の中に溶け込んでいかないのが憾み。外見(観)や発声等は学生演劇の域を出ないのは止むを得ないとしても、演技は工夫の余地があると思う。例えば腰を曲げた老婆(99歳)、その割には俊敏と感じられるような動き。腰を曲げているにも関わらず吸殻を簡単に拾い上げる等…。台詞は 丁寧に発音しており、情感がこめられているだけに惜しい。
(上演時間1時間30分 休憩兼転換10分)追記予定

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