夏砂に描いた
miwa produce。
πTOKYO(東京都)
2025/03/28 (金) ~ 2025/03/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
面白い、お薦め。
異なる時間軸で紡がれる慕情や郷愁、それを繊細にして抒情豊かに綴った珠玉作。登場人物は、僕・君・女・母・彼の5人。僕と君は勿論、すべての組み合わせで会話があり、長い時を経て関係性が明らかになっていく。その情景が鮮明に浮かび上がるという、朗読劇ならではの醍醐味。5人の喜び 悲しみ、そして驚きといった心情が手に取るようにわかる。
少しネタバレするが、舞台は 或る年の8月31日夕暮れ、人気のない海辺。物語は 茫洋と海を眺めて、街へ帰る最終バスに乗り遅れた高校生2人の淡い思い、その回顧から始まる。今となっては夢か現か、過去と現在を彷徨する。可笑しくて 優しい、でも悲しくて残酷な…。舞台技術、時間と心情を表す照明の諧調、音響は さざ波や微風、音楽は咲田雄作 氏によるギターの生演奏、この上ない贅沢な時間が舞台空間に流れ、実に気持ち良い。
(上演時間1時間30分 休憩なし) 追記予定
Better Days
“STRAYDOG”
アトリエファンファーレ高円寺(東京都)
2025/03/26 (水) ~ 2025/03/30 (日)公演終了
実演鑑賞
希望や苦悩を抱え、今を生きる等身大の若者を描いた青春群像劇。舞台は沖縄県伊平屋島という離島。そこで ひと夏(3日間)、島の同世代と過ごすことによって 少し成長していく少女たちの姿を清々しく描く。
東京と伊平屋島での暮らしの違い、例えば買い物や遊ぶ場所など その社会・文化などの違いを通して思考と志向の形成も描く。説明にある解答用紙を白紙で出す女子生徒の苦悩と島で暮らしている少女の希望が交差して生まれる友情。同時に、都会では味わえない雄大な自然や生命の(神秘的な)誕生を目の当たりにして、自分の悩みなど…。教師が教えられることは、授業での知識ぐらい。毎年島を訪れている理由は、学校だけでは教えられない大切なこと。
この公演は、「レモンズカンパニー」の復活を確認するかのようだ。子供たちに合った等身大の脚本(物語)で分かり易く、演出は、大人の役者が見守り支えるといった感じだ。稽古では色々な事があったと推察、それが物語の女子学生の成長に重なるよう。そして大人の役者は、引率の教師のような存在。劇中で奇妙なミュージシャンとしても登場し、子供たちの歌やダンスを客席袖から応援する姿が微笑ましい。少しネタバレするが、舞台美術は、夏らしく 左右に簾と中央奥に黒板。その黒板に日直:あかば│しげまつ と書かれている。勿論 演出の赤羽一馬さん と引率教諭の先輩役の重松隆志さんのこと。学校での教育を次世代を担う役者達の育成に重ね合わせる。その 初々しく元気溌剌とした演技/パフォーマンス、ぜひ劇場で。
(上演時間1時間25分 休憩なし) 【スカイ】追記予定
「mariage」
おかしないえのまほうつかい
高円寺K'sスタジオ【本館】(東京都)
2025/03/28 (金) ~ 2025/03/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
初日観劇。
オムニバス5編。この演目、どのような関連性で選択したのか判然としないが、自分の解釈では、大切なものは目に見えない、そして失ってから初めて気づくといった 人の「心」や「情」を紡ぐようだ。この団体の公演は初見、オムニバスではなく 中長編の公演も観てみたいと思わせる 力 がある。
5編は、「星の王子さま」「葉桜」「ペアリング」「プロポ-ズ」「ふたり、目玉焼き、その他のささいな日常」で、役者は4人。場景は椅子等の物を使用するだけで、ほぼ素舞台。オムニバスであるが、全体を通じて 人生における悲劇と喜劇の間をさまよい歩く、そんな面白味も感じられる。同時に、何となくであるが 色々な情景・状況を通して役者の演技(力)をみる試演会のような気もした。なお、設定を変えるなど 現代風にアレンジするといった工夫は感じられない。例えば、岸田國士の「葉桜」などは、今風の会話(テンポ)で早口だ。いやリアルな日常会話より早く、当時の時代感覚とは合わない。台詞を早く喋ってしまいたい気持の表れか?細かいことはあるが、脚本(物語性)の魅力を体現する力はあり、飽きさせないところが好い。
(上演時間1時間35分 休憩なし) 追記予定
CARNAGE
summer house
アトリエ第Q藝術(東京都)
2025/03/26 (水) ~ 2025/03/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
面白い、お薦め。
初めて観る演目、映画「おとなのけんか」(邦題)としても上映されたそうだが 観ていない。舞台は、虚構の世界を空間と時間を使って どう描き出すか。しかし この劇は、現実の出来事をその時間の中で紡ぐ、言い換えれば 現実を舞台という虚構の世界で描くといった感覚だ。敢えて空間を作らず、時間も流れない。今そこにあるリアル、その漂流するような会話や行動を覗き観るといった楽しさ面白さ。
舞台はフランス、登場するのは二組の夫婦、その4人が 子供の喧嘩の後始末を話し合うために集まる。中流階級でリベラルを自認する人達が、いつの間にか本質からずれた話し合いになり、だんだんと興奮し我を忘れる。リアルな空間と時間、その中で役者陣の自然な演技が臨場感を増していく。自然(体)という確かな演技、それが異様な雰囲気を漂わせていく。喧嘩の当事者である子供は登場しないが、会話の端々からどのような子供で親子関係なのかが垣間見えてくる。色々なところに飛び火した会話を通じて、一人ひとりの人物像が立ち上がる。いつの間にか(リベラルという)化けの皮が剝がれ 本性剥き出しの激論、それがどこに辿り着くのか目が離せない。少しネタバレするが、この舞台をひっ掻き回す者でありモノが肝。
舞台美術は、話し合いが行われる家のリビングルーム。その光景がさらに現実味を帯びるような錯覚に陥る。どこにでもあるような空間だが、工夫も凝らしている。それは劇中でトイレ、洗面所に行く場面では、ある舞台セットを回り込むという動作が加わる。その動線が同一空間の中で別の意味合い(廊下)を表しているようだ。細かいところだが、これによって居住空間の広がりを的確に表現している。実に丁寧な演出で巧い。
(上演時間1時間25分 休憩なし) 追記予定
ネタバレBOX
舞台美術は、中央にソファとテーブル、その斜め横に椅子2つ。後ろの壁際に2つの置台ー1つは電話、もう1つに煙草、酒瓶が乗っている。客席側の上手/下手に本の山、中央の花瓶に50本のチーリップが活けてある。中流階級の家庭、本の山は 仕事であり良識等といったリベラルの象徴か。
登場人物は わずか4人。被害者側の夫婦=ヴェロニク(水野小論サン)--ライター、ミシェル(小林タカ鹿サン)--雑貨商、加害者側の夫婦=アネット(伊東沙保サン)--フィナンシャルプランナー、アラン(小野健太郎サン)--弁護士。子供同士が喧嘩をして、棒を振り回して相手に前歯2本を折る怪我をさせる。初めのうちは穏やかに話していたが、だんだん本来の目的と違う方向で議論し始める。その行き違いとなる分岐点が曖昧、ただアランの携帯電話が頻繁に鳴り、話し合いが度々中断し、皆 少しずつイラついてくる。一方、ミシェルの母親からも電話が…。この姿を現さない相手(電話)に翻弄されていく。
以降 追記予定
幽霊
ハツビロコウ
シアター711(東京都)
2025/03/25 (火) ~ 2025/03/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
面白い。
ハツビロコウらしい重厚にして骨太作品。しかし 今まで観てきた公演、例えば 同じイプセンの前作「ヘッダ・ガブラー」のような重苦しい緊張感はあまりない。逆に この公演の魅力は、テーマ性というか物語性が鮮明で分かり易いところ。当日パンフに代表の松本光生 氏が、イプセンの戯曲をもとに複数の翻訳本やグーグル翻訳を参考に上演台本を書いたとある。そしてタイトルにある「幽霊」、それは現代に生きる我々にとって何なのか、どのような影響を与えているのかを意識したとある。
1881年、イプセンによって書かれた戯曲が 現代日本によみがえり 何を伝えようとしているのか。観客それぞれ思い抱くことは違うであろうが、少なくとも因習や慣習に囚われた閉塞感、不自由さはしっかり描かれていた と思う。また人間が抱いている思い、その願望が封じ込められた時、大きな反動が狂気を生む。それは 本人だけではなく、その家族をも巻き込んで…。
旧弊的な道徳観・価値観は崩壊し、同時に正当な倫理観も失われつつある。それは自己中心的な思考と行動、そこには欺瞞や強欲が潜み それが社会に蔓延していく怖さ。公演では宗教(牧師)を以って倫理観を説き、その建前に人の希望や願望が抑制されるといった矛盾。舞台という虚構(俯瞰)の世界、しかし現実における世相・世情を見れば、今でも言われ続けていることに気づく。その意味では現代においても色褪せない、根本的な問題を孕んでいる。さらに 少しネタバレするが、近親相姦や安楽死などのセンセーショナルな出来事も描かれている。それが140年ほど前に書かれた戯曲ということに驚かされる。
(上演時間1時間45分 休憩なし) 追記予定
ふりむかないで
ゆめいろちょうちょ
パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)
2025/03/15 (土) ~ 2025/03/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
#ゆめいろちょうちょ
#舞台ふりむかないで
恋愛 いや不倫狂騒といった告白劇。フライヤーからも分かるが、1人の男性を囲んで7人の女性が寄り添っている? 少しネタバレするが、この男性は既婚者で多くの女性と…実はこの7人以外に一夜を共にした女性が何人もいるが、その人数は覚えていない。以前、言葉狩りで「不倫は文化だ」といった言葉(噂)が一人歩きしたが、今の時代はその風評が命取り。
さて、妻への嘘があっても不倫している女性には いつも真(誠)実。結婚したら もう恋愛は出来ないのか。人を好きになることは美しいはずなのに、それが罪になってしまうのが現実。ここに登場する男性と女性の関係は不適切だが、一方 妻は…。不倫となる一線とは、そして不倫相手になった女性の言い分と一線を越えるようになった状況とは を男性の語りを中心に展開していく。その告白を強要(余儀なく)される状況が面白可笑しい。
人と人、特に 男と女の出会いは運命的で、そのタイミングが重要だ。タイミングとは結婚しているか否か、独身ならば許されることも既婚となれば卑猥で不道徳となる。恋愛はまさに天国になるのか地獄への始まりなのか。一人ひとりとの出会いと別れを描きながら、恋愛という甘美な潤いと辛苦な渇きを上手く描いている。
同時に 女性の側が男性と親密になる、その現実味ある状況(年齢・職業や手練手管など)を巧みに設定しているところが妙。この会場(パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』)をリアルな修羅場/愁嘆場として覗き見るような感覚。公演は8人の確かな演技とバランスの良さ、そして生演奏が効果的・印象的だ。他人の不幸は蜜の味というが、この男性が味わう ラストが実に…。ぜひ劇場で。
(上演時間1時間15分 休憩なし) 3.24追記
ネタバレBOX
舞台美術は、この会場にあるBARカウンターそのものを使用し、セットとしてあるのは壁際に椅子7つ。そして高価そうな1つは、睥睨するような感じで別場所に置かれている。ほぼ素舞台で、中央は大きなスペースを確保している。
登場人物は、真瀬温と史緒里 夫妻と 夫の浮気相手6人。妻に浮気がバレて、この店で問い詰められるところから始まる。当事者が一堂に会し、夫の温が告白するような一人語りで進む。どのようにして出会ったのか 回想するように説明していく。そして何故浮気をするようになったのか。
まず BARで働いている女 棚田穂波から誘惑される。以降、職場の独身先輩 利重牧子、会社近くの食堂のバイト 川東菜穂、就活中の大学生 古沢啓代、キャバクラ嬢 市井佐希、そして出会い系サイトで知り合った主婦 片寄純香 と様々な女性と肉体関係を持つ。妻は仕事が忙しくセックスレス状態、今は子供がほしくない。この悶々とした気持ち、その憂さを晴らすことが浮気の遠因。その心底には自分(夫)を見てくれないといった不満/真情が隠されている。
この2人(夫婦)は 高校時代の同級生、久しぶりの同窓会で出会い 付き合いだして半年で結婚。そして今 新婚2年目。妻が浮気相手を調べ上げ 夫を追い詰めるが、その激怒ぶりが心底怖い。妻 史緒里を演じるのが主宰の神崎ゆい さん、やはり演技は上手い。実は史緒里は職場の上司を慕っている。仕事の遣り甲斐は、上司に認めてほしい そんな気持ちを秘めている。浮気とは、肉体関係という一線を越えたら、それとも心が夫以外に ときめいたら…。刷り込みのある、妻は上半身で考え、夫は下半身で行動するといった 女と男の本性/本能を浮き彫りにするようだ。
会場を上手く使い 臨場感ある場面を紡ぐ。至近距離にあるアクティングスペース、そこで浮気現場を濃密に描き出す。その場景は、甘美というよりは滑稽といった笑いを誘うもの。狼狽え、言い訳、謝罪の言葉(台詞)が何故か面白く思えてしまう。同じ浮気でも映画「黒い十人の女」のようなサスペンス?ものではなく、どちらかと言えばコメディ。
夫婦喧嘩と浮気相手への対応、その奇妙な光景を間近から覗き見る可笑しみ。色々(下世話)な場景を印象深くさせるギターの生演奏、実に効果的で良かった。
次回公演も楽しみにしております。
狂人よ、何処へ ~俳諧亭句楽ノ生ト死~
遊戯空間
上野ストアハウス(東京都)
2025/03/19 (水) ~ 2025/03/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
当日パンフによれば、吉井勇の原作で 三代目蝶花樓馬樂をモデルにした人物 =俳諧亭句樂を主人公に、その句樂や句樂の周辺を描いた作品群。公演は、その「句樂もの」の幾つかを遊戯空間(構成・演出・美術 篠本賢一 氏)が再構成し、滑稽洒脱な物語として紡ぐ。その粋な芸人の生き様が生き活きと描かれ、実に抒情や憧憬が豊か。この「句楽もの」戯曲の選択と構成が妙。
吉井勇という歌人で劇作家のことは知らなかったが、「ゴンドラの唄」は黒澤映画「生きる」で知っており、その作詞家だという。哀愁に満ちた印象を持っていたが、開場前に流れる同曲はポップ調でなんとも楽し気である。原作の「句楽もの」は読んだことも観たこともないが、この再構成(換骨奪胎か)によってどのような姿に生まれ変わったのだろう。自分は、この滋味溢れる内容と小気味良い展開は好きである。
幾つかの「句楽もの」を繋ぐのが、桂右團治師匠の語り。これによって場面が変わったことが分かり、物語全体が違和感なく構成される。夫々の場面を通して、当時の芸人たちの暮らしや考え方、そして先にも記した生き様が面白可笑しく立ち上がる。同時に 狂人となった主人公が述べる戯言、しかし そこには現代にも当て嵌まる皮肉や批判が込められている。
また場面変化に対応した舞台美術が見事。同時に「句楽もの」の世界観とでも言うのか、その雰囲気も楽しめた。
(上演時間2時間40分 途中休憩10分)3.22追記
ネタバレBOX
舞台美術は、平台のような裏面を三方向に立て半囲い、天井には裸電球が吊るされているだけ。中央は素舞台。上手の客席寄りに高座、釈台が置かれており、客席中央に座布団。シンプルな造作だが、場面に応じて卓袱台などが置かれ、平台の一部が戸になっており開けると障子になる。勿論 時代に合わせた衣裳や小道具も雰囲気を損なわない。
出囃子で 桂右團治師匠が高座へ。物語は、河岸近くにある盲目の落語家 小しんの家。そこへ古くからの仲間である焉馬と柳橋が句楽を見舞った帰りにやってくる ところから始まる。盲目となり脚も不自由になった小しんは、精神病を患って 入院している句楽のことが気になってしょうがない。何時しか句楽との楽しかった日々を回想する。実は白装束の句楽が客席側にある座布団に座り聞いている。全体が浮世離れした浮遊感ある雰囲気に包まれている。
物語は、小しんの家での句楽の病気見舞い(1話「俳諧亭句楽の死」) 船旅の船中(2話「焉馬と句楽」)、伊豆の旅館(3話「句楽と小しん」)、浅草の仲見世(4話「縛られた句楽」)と続き、芸人の滑稽洒脱のような<粋>が描かれる。そして最後は句楽が入院している精神病院での突飛な話<魂を作る機械>(5話「髑髏舞」)へ。この最後の話は、魂の形は定かではないが 瓶のようなものに入って、赤・黒や青といった色が付いている。魂は作るだけではなく、病気にもなるから(魂の)病院も必要だ。魂(材料)は酒に入っているモノで作られている。しかし、どんな酒にも入っている訳ではないから 飲み比べをする必要がある。先に記した話(1~4話)には 全て酒(日本酒・ウィスキー・ワインなど)が出てくる。まさに魂の彷徨であり 酔(粋)狂の人である。
今では米の値段も高騰し 酒(代)への影響もあろうが、金で解決できる分には まだよい。魂を作る機械の話の中で、魂の欠片があちこちに落ちており足の踏み場もない と言う。そして死人に魂を分けてやりたいと。「句楽もの」が書かれた時期は、たぶん大正期であろう。日清、日露戦争で多くの死傷者を出した。また国外に目を向ければ第一次世界大戦が勃発していたかも知れない。そう考えると、現代のロシア・ウクライナ戦争やイスラエルによるガザ侵攻が重なる。
最後(精神病院)の舞台美術は、白幕で囲い 句楽の白装束、他に3人の白衣裳の患者、そこは病院であり遊魂の世界のよう。芸人たちの微笑ましくも哀歓ある生き様の中に、現代の世態にも通じる皮肉や批判が…。それを華族であり知識人が綴っているところが面白く、そして遊戯空間が再構成し現代に蘇らせた。見事!
次回公演も楽しみにしております。
プシュケーの蛹
中央大学第二演劇研究会
シアター風姿花伝(東京都)
2025/03/06 (木) ~ 2025/03/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
学生演劇らしく柔軟な発想、瑞々しい感性、そしてアップテンポに展開する好公演。一見すると荒唐無稽な物語だが、2024年度卒業公演として タイトル「プシュケーの蛹」に込めた思いは しっかり伝わる。しかし、気になることも…。
(上演時間2時間10分 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は二層の立体的な造作、上部は外であり下部(板)はアパートの室内や怪しげなBARを表している。両壁に白レース、上手にソファ・中央に机状の置台・下手にカウンターを設えている。所々に不揃いな文様のようなものが、後から考えれば 鱗粉か? この美術からして混沌としたイメージ。
物語は、卒業公演らしく1月下旬から3月下旬までの59日間を描いた青春の旅立ちを思わせる。説明にある漫才トリオ 小西・中山・大野の3人は、アパートでシェアハウスを始める。このアパートは曰く付きの居抜き物件で、前の住人の残した物は処分できない。その1つがアンドロイド、その名は<るり>。
3人は小学校からの友達、その親しみもあって 大野が中山と小西を誘って漫才トリオを組んだが、その思い入れ 真剣度が違い 生き方(目標)にズレが生じだす。そのキッカケになったのが、<るり>の存在。この生き方を巡る3人の激論がリアル。このシーンが無いと3人のそれぞれの行動の意味が暈け面白味が感じられない。ここを膨らませるのかと思ったが…。
<るり>は、同じアパートの2階に住んでいる 研究員が勤めている 研究所の所長 大和の一人娘。8年前の暴風雨の日、家族3人でドライブしていたが 事故で海中に転落。大和だけが生き残り、妻は行方不明、娘るりは死亡。大和は るり の肉体をアンドロイドとして蘇らせたが、その耐用年数が8年。その期限付きが 物語の肝。そして妻は幽霊として、この世を彷徨っている。
大野は、お笑い芸人を目指しているが、未だバイトを掛け持ちし日々悶々としている。或る日怪しげなBARで飲んだ酒で幽霊が見えるようになる。小西は、中学生(天文部)の頃から宇宙に興味があり、ひょんなことから宇宙人マカオンネリウスと出会う。そして大和の研究所(バイト)で働き始める。中山は、<るり>が起動しなくなる=メモリ(記憶)が消えるまでの59日間を一緒に過ごし、色々な世界を見て回ることにした。何か記憶が消えない方法がないか、それが宇宙人による未知の科学技術と幽霊の魂を融合させ<るり>を存続させようと。ここに 3人の物語が収斂してくる。
記憶は過去、時間は未来といった台詞は、空間的な広がりと同時に、宿命は変えることが出来ないという非情な現実を突きつける。たとえ<るり>の記憶が消えても、一緒に過ごした中山の心に<るり>の思い出が残り、彼の心の中で生き続ける。ラスト、蛹になった中山の姿は<るり>の思い出と溶けあったイメージ(プシュケーは「魂」だけではなく「蝶」の意もある)。人と人の繋がりは死んでも なお思い出を抱き続ければ、その人の記憶、魂は消滅しない。いや いつか一体となって舞えるかも…。
演出…最初と最後は日常風景をスロームーブメントで表現し、一転 不思議な街へ引っ越して来てから出会う個性豊か 奇妙な人々は、舞台装置を上がり下がりするなど躍動感があり、生(活)きていることを体現している。ただ演技は少し粗く、その力量に差が観えたのが惜しい。ラストは大きい白布で舞台を被い3月の雪景色、そして白布を中山の体に巻き付けて蛹を表すといった余韻付け。照明は夜空に輝く星々といった幻想さ、音楽はポップな曲を流し心地良い。
さて、タイトルは <るり>を巡る物語を示し 展開もそれを中心に描いている。しかし説明では 3人のこれからの生き方 幸せを見出していくとあり、どちらがメインなのだろう。「混沌が安寧をもたらしている」(⇨構成であり世界観の意だろうか)といった台詞があったが、このカオス(アンドロイド・幽霊・宇宙人や奇妙な人々)がバランスを保っている なんてことはないと思うが。この柔軟・斬新さも有かも知れないが、王道的な描き方も出来たような。
次回公演も楽しみにしております。
ジョバズナ鼠の二枚舌
おぼんろ
新宿シアターモリエール(東京都)
2025/03/04 (火) ~ 2025/03/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
コロナ禍以前の 本来の おぼんろスタイルの公演が戻ってきた。劇場全体を劇中空間とした360度舞台。上演前から俳優陣(語り部)が観客(参加者)を場内へ案内し、そのまま談笑したりする。そして開演時間が近くなると、参加者とじゃんけんをしたり、参加者の1人に 劇中での小道具の渡しを依頼する。客席は桟敷や椅子で、参加者は好きな場所に座って観劇する。本作は劇団員(4人)だけの公演だが、場内(客席の横など)を縦横無尽に走り回る。いつの間にか 参加者は おぼんろ(脚本・演出 末原拓馬 氏)の世界へ誘われ、その雰囲気に陶酔していく。この没入感が、おぼんろ の魅力。
物語は、とある都会の片隅にある研究所で、ネズミたちは生体実験を受けていた。仲間たちの死を背負いながら、必死に生きるネズミたちだったが、或る日 研究所の閉鎖が決まりネズミたちの処分が……。今まで生きてきたのは、世界の役に立っているという自負。無駄死にしたくないため研究所の外へ逃げる。44匹が脱出したが、今では4匹になってしまった。外という未知の世界での冒険が始まる。
(上演時間2時間 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は 形容しがたい雑多な装置、布・紐・裸電球等が吊されている。そして どちらが舞台正面か判然としない。ただ入り口の右手に櫓上への階段、そこに張り付けたような変形球体状(そう思える)のオブジェが見える。最後に分かったが、その球体が赤く点滅し、同時に語り部(ネズミ)たちがポリタンクを叩き響かせる。それは心臓の鼓動を表しているようだ。最近は、2.5次元舞台などは最新技術を駆使するが、このアナログさが、逆に生きているといった息遣いを感じさせる。
物語は、外の世界に出て 研究所のドクトル・マーサを早く探さなくては、と思うところから始まる。4匹の旅は、世界の役に立つこと、それは最後の1匹になるまで続く。それが自分の価値であり 誇りとしているからである。そして生き甲斐でもある。
それは、未知のウイルス対策の治験薬開発に役立つこと。しかし外の世界は 紛争・戦争で混乱している。そして治験薬開発と思っていたことが、実は細菌兵器開発の実験だったという衝撃。世界の役に立つ=命を助ける薬が、実は人殺しの武器になろうとは。外に出て初めて知る事実、それは人間同士が殺し合い、他の動植物を巻き込む不条理な世界。
今起きている時事的な出来事を絡め、命とは 生き甲斐とは を考えさせる。さらに物語に隠された衝撃の真事実、そこにタイトルにある二枚舌の意味が…。本作では それをネズミという人間から嫌われているモノの視点から描いた心優しき寓話。
おぼんろ らしい観(魅)せ方、一人ひとりの面白いパフォーマンスを始め 歌やダンスで魅了する。単に演劇というよりは、楽しませる要素をふんだんに盛り込んだエンターテインメント公演。観客も一緒に冒険しているような刺激的な一体感、そして没入感が興奮させる。歌に合わせて自然にクラップも起こる。語り部も激しく動き回るが、小物(旗布or柄シーツ)も天井へ吊り上げるなどダイナミックだ。このワクワク ドキドキ感が堪らなく好きだ。
次回公演も楽しみにしております。
『BORDER〜罪の道〜』
五反田タイガー
六行会ホール(東京都)
2025/03/05 (水) ~ 2025/03/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
硬軟ある場面を絶妙に交え 飽きさせない巧さ。フライヤーのデザインから何となく分かるが、舞台は女子刑務所(キャストは女優のみ)。そこにいる看守・受刑者等によって紡がれる罪と罰。その観せ方は鬼気迫る衝撃的な場面、一転 小咄や笑劇的な場面を挿入し和ませる。
少しネタバレするが、「次、生まれてくる時は 友人として会おう」というフレーズ、その奥にある思いは 劇中の「人は なぜ罪を犯すのか」という問いに繋がる。この台詞が公演のテーマとして強く重く響く。勿論、罪が罪を生むといった負の連鎖もしっかり描く。
公演は歌やダンス、それを音響・音楽そして照明といった舞台技術で効果的に観(魅)せている。総じて若い女優陣の躍動感ある演技 パフォーマンスが楽しめる好公演。ぜひ劇場で。
(上演時間2時間 休憩なし) 千穐楽に追記
ネタバレBOX
舞台美術は 二階建監舎。2階に鉄格子の居房、1階は頑丈なドアの独居房、真ん中に階段があり対称の造作。上手/下手に監視塔が建っている。全体的に薄汚れており老朽化が進んでいるようだ。
物語は、この女子刑務所に配属された新人刑務官が 所長に案内され、収容されている受刑者の性格や特徴等を聞くところから始まる。何となく明るく陽気な雰囲気、皆 同じように腹が減ったと訴える。この新人刑務官は副所長の娘であり、母を恨んでいる。母は夫の乱行に耐えかねて、高校生の娘を置いて出奔した。この母娘の確執が1つの物語。
もう1つが、老朽化が進んだ別の女子刑務所の改築工事のため、そこに収容されている受刑者が移送されてくる。罪が重い受刑者が、この刑務所の受刑者を洗脳し いたぶるようになる。移送されてきた受刑者は、殺人・放火・暴行そして窃盗など重犯罪者ばかり、中には死刑囚もいる。そして凶悪、二重人格等といった性格付け。この説明シーンは、一人ひとりにスポットライトを照らし、心の声のような音響で語る。実に効果的な演出だ。
実は新人刑務官、この刑務所の配属を希望していた。それには母との関係もあるが、実は死刑囚に婚約者を殺された恨みがある。その遺恨を晴らすためでもある。死刑囚は不遇な環境で育ち、人や社会に憎悪の感情しかもっていない。殺した婚約者は優しく接したが、自分を利用している といった被害妄想に取りつかれ、近づいてくる人間を殺してしまう。なお、公演に託けて過度に自分の主義主張を…いかがなものか。
受刑者に別の刑務官が洗脳され、灯油をまき火事が起きる。所外に避難させたが 戻ってこない受刑者もいる。外で その受刑者に恨みを抱く者に殺害されるといった罪が罪を招く。その負の連鎖もしっかり描く。
さて、死刑囚は脱獄せず そのまま刑務所内に止まっていた。誰か自分を殺してくれないか、かと言って自分では自殺できない。そこで法の裁き=死刑になることを望んだ。人は罪を赦せるのか、一概に結論を出せない難しい問題を投げかける。悩み困った時は、誰かの助けが必要。「次、生まれてくる時は 友人として会おう」が赦しなのかも…。
次回公演も楽しみにしております。
ノートルダム・ド・パリ ストレートプレイ
GROUP THEATRE
浅草九劇(東京都)
2025/03/05 (水) ~ 2025/03/10 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
面白い、舞台は 総合芸術だと思わせる力作。
ヴィクトル・ユーゴーの原作小説を一気読みしたような充実感。その舞台の魅力を引き出す(ジプシー)ダンスや歌 そしてフラメンコギターの生演奏、また心象風景を表すような照明が実に効果的だ。小説という自分の想像によって膨らませる世界観とは違って、舞台ならではの視覚 聴覚など直接に感じる面白さ。ストレイトプレイとして表現することは、原作の魅力を削いでしまうのではないかと少し危惧していたが、それは杞憂であった。アニメ、ミュージカルなどで観たことがあり、その彩られた といった先入観を持っていた。本公演はミュージカル等と違った魅力、物語性を重視した描き方になっている。
公演では、登場する人物を魅力的に描くことによって 文字の世界(モノクロ)が彩られるといった感覚。しかし それは華やかといった彩ではなく、渋い光沢あるもの。頁と頁、行間を読むといった小説の味わいとは別の面白さがあった。
舞台は15世紀のパリ、教会の権限による弾圧や排除が横行し、その結果 差別や格差などが生み出された時代を背景にしている。その不穏であり混沌とした世界、その雰囲気を巧く漂わせている。
(上演時間2時間55分 途中休憩10分 計3時間5分) 【Aキャスト】
ネタバレBOX
舞台美術は 基本 高さある二段構造、上の段(台)から上手は横へ、下手は前(客席側)へ階段が2か所設えてある。上部の後壁の隙間から灯りが見える。場景に応じて、中央に刳り貫かれた出入口を表し、貧民街(ジプシーの溜り場)を表す。上り下りや穴をくぐるといった動作が躍動感を生む。
物語は、ノートルダム寺院の鐘撞き男 カジモトが、ジプシー女 エスメラルダへ抱く純真な思い。捨て子であったカジモトを拾い 育ててくれた恩人 大聖堂の副司教フロローのエスメラルダへの偏愛、その彼女は 危ないところを助けてくれた王室騎兵隊長を激愛。夫々の成就しない恋愛を軸に、当時のパリの社会状況…偏見・差別、そして迫害等をジプシーや(魔女)裁判といった場面に巧みに落とし込んでいる。カジモトは外見が醜い(傴僂男)ことから、寺院から出ることも許されないが…。彼が捕らえられた時に水を与えたのがエスメラルダ、その出会いが幸せなのか不幸なのか、救いなのかは観客の感性に委ねられるところ。それにしても夫々の愛のカタチ、狂気じみている怖さ。まさに恋は盲目なのか。
定住する所もなく放浪を余儀なくされるジプシー、その雰囲気を衣裳やメイクで表す。弾圧や排除といった迫害に抵抗する、その解放や自由を求める姿を個々の演技で表現する。一見まとまりのないように観えるが、そこに多くのパリ市民の渇望を見ることが出来る。ストレイトプレイだからこそ味わえる 地に足をつけた群衆の叫び、そこにミュージカル等とは違った力強さを感じる。
音楽・音響が印象的で、特にギターの生演奏が場景を引き立てる。また寺院の鐘の響きが、厳粛であり物悲しくも聞こえる。照明は全体的に暗く、その雰囲気は鬱積と閉塞といったパリの空気感のよう。昏い中でスポットライトを照らし、その人物の心情を際立たせるといった巧さ。またナイフや弓、コイン等の彫細工がリアリティーで 臨場感を漂わす。全体的に丁寧な好公演。
次回公演も楽しみにしております。
韓国現代戯曲ドラマリーディング ネクストステップVol.2
日韓演劇交流センター
座・高円寺1(東京都)
2025/02/28 (金) ~ 2025/03/04 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
【火種】
戯曲の面白さ、演出の妙、そして役者陣の確かな演技力、その総合的な魅力が観客の心を捉えて離さない。韓国の戯曲だが、そこに描かれている内容は、単に隣国の事情だけとは言えない。勿論、韓国ならではの事情(徴兵制)も散見できるが、持てる者と持たざる者 そこに厳然たる事実が立ち上がる。
説明にある「人間の欲望をグロテスクに描き出すブラック・コメディー」、その会話は漂流するかのようで どこに辿り着くのか解らない。その緊密にして滑稽な会話が邪魔されない設定が上手い。少しネタバレするが、舞台となる別荘は 陸の孤島のような場所にあり電波状況が悪く携帯電話が通じない。劇中では「沈黙の家」と言っていた。ここに居る人々だけの会話と行為、しかし その背景には多くの人が抱いているであろう(狂気と化した)感情が透けて見えてくるようだ。
朗読劇だが ト書き だけが上手に座り、役者は片手に台本を持ち動き回る。脚本のテーマを十分に引き出す演出ー特に音響と照明が実に効果的で印象に残る。この作品、ストレートプレイという演劇で行ったらどうなるのだろう、という興味を持たせるほど面白い。
(上演時間2時間 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は、奥の上手/下手に葉のカーテン。その内側に形の異なる椅子、その向きは様々。上手に椅子1つ ト書きが座る。中央に丸テーブルと椅子2つ。基本、葉のカーテン内は待機場所(時に物置部屋)で メインはオープンになった客席側。
物語は、説明にある通り 大学教授であるチェ夫妻は、ドイツ留学を控えた娘スンヨンの送別会を開くために別荘を訪れる。今の暮らしに満足していたが、娘が連れてきた婚約者ソンピルによって平穏は破れ 事件が起こる。娘と婚約者は30ほど年齢が離れ、しかもチェ教授が指導していた元教え子。彼は論文盗用の疑いで 以降 非常勤講師として生計を立てている。夫婦は体面や過去といった客観的理由で反対。一方、スンヨンやソンピルは愛情という主観的感情で説得にかかる。そのうち激論で興奮したのか、ソンピルが持病-喘息で亡くなる。その出来事(過程)の責任を押し付けあうためについた嘘がさらなる嘘を呼び、やがては別荘の管理人 キム夫妻とその息子ハヌルまで巻き込んで…。
物語は、チェ夫妻が2組の人物たちによってリベラルな顔の裏にある、傲慢・欺瞞で野卑な心が暴かれる過程を可笑しく描く。第1は娘の婚約者、第2は別荘管理人夫妻で、夫々の思惑や鬱屈がチェ夫妻を追い詰めていく。ソンピルは愛情を前面に譲らず、キム夫妻は弱みに付け込む狡猾さ。そしてハヌルが素朴な疑問を投げかけることで、糊塗が広がり誤魔化せなくなる面白さ。いつの間にか スンヨンまでが、ソンピルの死を隠蔽しようと両親に協力し出す。誰もが自分本位の思考で立ち回る狡猾さを持ち合わせている。そのうち言葉遣いも下卑てくる。何事も金銭的なことで解決しようと試みるが、だんだんと足元をみられジワジワ追い詰められる。そして過去の恩義まで持ち出すが…。最後は狂気の惨劇。
この不気味な朗読劇を見事な演出で印象付ける。外部(別荘地)へ電話連絡出来ず、ここに居る当事者だけで解決を図らなければならない という設定の妙。音響は雷鳴や蛙の鳴き声、音楽は軍歌や国歌を歌うといった効果付け。照明は幾何学文様、その表現し難さが心の中を映すようだ。
次回公演も楽しみにしております。
すいかの種の黒黒
う潮
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2025/02/27 (木) ~ 2025/03/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
小学校2年生から27歳迄、その約20年間という長い時間軸を紡いだ女性2人の心の彷徨劇。たしかに 生活環境や生き方が違う2人の女性を描いているが、何故か1人の女性が立ち上がる合わせ鏡のような存在に思える。家庭環境・境遇という条件(物質)的違い、物事に対する思考(精神)的違い、その溝のようなものが年齢とともに少しずつ大きくなり、いつの間にか疎遠になる。学校やクラスが違えば、会うことも少なくなり といった経験は誰にでもあるだろう。そんな等身大の女性を描いている。
27歳迄の生き様は、順調・不遇といった対照的な描き方だが、その根本には(自己)承認欲求 その腹の底が透けて見えてくる。お互い、自分の方が自分らしく生きているといったプライドをちらつかせる。相手の中に嫌いな自分の姿をみる その不気味、不穏な感情が怖い。しかし共通点があれば独特・相違点もある。その違いを受容できるか否か を問うているような気がする。コロナ禍を経て不寛容といった風潮が広がったが、そんな世相を人間観察をするといった視点で捉えた好作品。
ちなみに、客席はL字型で座る位置によって観え方が違うかも…。
(上演時間1時間50分 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は、奥の壁際に大きな本棚、その反対側に小さな収納棚。木のテーブル2つといくつかの椅子。ソファとミニテーブルが対になって配置されている。配置の特徴は2人の女性の家庭、その光景を表している。裕福で文化的な家庭に生まれ育った燈の家は、その象徴として大きな本棚で表す。歳の離れた兄弟と共に都営住宅に住む夏の家は、ミニテーブルやおもちゃ箱。その光景は、燈と夏という2人の女性の精神構造のよう。
見どころは、2人の隔たり 疎遠になっていく様子と過程が 実にリアル。そこに演劇という虚構に実在感ある人物を描き没入感を出す巧さ。2人の女性…燈は頭もよく 私立中学を経て希望した職業に就く。さらに自分でやりたかった演劇の世界へ、そして周りから認められるまでになる。一方、夏は勉強嫌いで 努力することもしない。好きでもない専門学校に入るが中途退学し風俗嬢として働く。そんな2人が或るきっかけで再会する。
燈が、舞台の題材として風俗嬢の取材をすることになり、現れたのが 夏。世間で言われるほど 大変ではない。むしろ自分には向いていると嘯く。そこに夏の燈に対する意地を見る。表面的には 燈の仕事は順調、しかし 内心は周りの期待に応えようと無理をし自分を見失いそう。親が介護状態になっても仕事のせいにして実家に帰らない。一見、二人の精神的な立場が逆転したかのようだが、実は 夏にも気になることが…。異なる世界を歩いてきたが、それぞれ27歳という女性の岐路、そして これからどう生きていこうか という自問自答する姿がリアルに描き出されていた。ちなみに子供の時と現在で、2人の すいか の食べ方が入れ代わったのが 面白い。
演出は、2人の成長に合わせて衣裳やメイクを変え、舞台セットも場景に応じて動かす。2人の女性以外は、1人複数役を担うが それほど違和感なく受け入れられる。照明や音響・音楽の印象がなく、心情劇としては もう少し舞台技術による効果、印象付けがあってもよかったのでは。
次回公演も楽しみにしております。
七人の墓友
diamond-Z
荏原文化センター(東京都)
2025/02/27 (木) ~ 2025/03/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「墓友」…聞きなれない言葉だが、その語感から何となく意味するところは分かる。公演では、高齢者が「墓」を通して死と真摯に向き合う様子、家族だから一緒の「墓」へ、という家族(制度)の在り方を改めて考えさせる。「墓」=「死」という描き方ではなく、むしろ 今をどう生きるか、そして夫婦、親子に起きる様々な問題を通して、家族とは を考えさせる。
「墓友」とは という定義があるのか知らないが、公演では家族以外の人との共同墓地を指しているよう。物語は、吉野家を中心に展開していく。そして長女 仁美がストーリーテラーのような役割を担いつつ、自分の問題にも触れていく。冒頭、母 邦子が仁美を東京スカイツリーの展望台へ呼び出し、「墓」の話をし出す。吉野家の墓ではなく、サークル仲間と一緒 ということを考えているらしい。父と何かあったらしいが…。
さて 個人的には、この公演を通して「墓友」という内容(概要)を知ることが出来てよかった。
(上演時間2時間5分 休憩なし)
ネタバレBOX
素舞台。プロジェクターで後壁に風景を映し出すが、役者に被らないよう工夫を凝らす。場景によって、例えば ファミリーレストランでは ソファを搬入し雰囲気をだす。
邦子の夫 義男は典型的な亭主関白。自分の意は絶対で子供たちも委縮している。長男は結婚し独立しているが、孫の顔見たさに同居させようと。仁美は30歳代だが、独身で 実は仕事関係者と不倫をしている。次男 義明は渡米しており、同性愛者。毎年恒例のバーベキューパーティのため、パートナーを連れて帰国している。仁美、義明に早く結婚するよう口煩い。そんな義男に愛想をつかした邦子が「吉野家」の墓に入らないと宣言し、墓友(7人のサークル仲間)の存在を告げる。
7人の現在…例えば職業や個性などは描くが、過去は語らない。共通しているのは皆 独身で「1人でお墓に入るのが寂しい」「あの世でも語り合いたい」といった思いを描く。邦子は義男と離婚しない、しかし「吉野家」の墓には入らない。今を大切にするなら、なぜ離婚しないのか という疑問が生じる。子供のため という言い訳もなさそう。独身ならば、一緒にお墓に入る家族がいないため、墓友を探そうとするが。
これまで「墓」は、「家(制度)」と結びついていたと思う。「血縁があるから同じお墓に入る」という考え方だが、「家」に対する価値観が変化してきた。核家族が増え、墓に入る段階においても「家」に縛られることや、「家」の供養に追われることへの疑問である。そして、少子化が進む中で 墓を承継する人が不足。物語の中でも墓友に若い人がいると、長く供養 そして墓守してもらえるような台詞がある。公演では、吉野家と墓友の在り様を対比するように描き、「墓」に入るとは、そして「死」とは を考えさせる。
場景は、プロジェクターを用い 東京スカイツリーの展望台からの遠望、吉野家のバーベキューパーティ、ファミリーレストランでの楽しい語らい、寺の境内での葬式(儀式にとらわれない)、そして桜吹雪が舞う光景 を映写し、分かり易く しかも余韻付けしているのが好い。邦子は義男と離婚せず 添い遂げるようだ。ラスト、義男は「邦子ありがとう」と頭を下げる。大団円にならず、この先どうなるのか分からない含みを残す。
最後に気になること…前回公演「親の顔が見たい」でも感じたが、演技力に差があるような。言い直しや微妙な間(ま)が見受けられるのが惜しい。
次回公演も楽しみにしております。
ボンゴレロッソ 2025
A.R.P
小劇場B1(東京都)
2025/02/19 (水) ~ 2025/02/25 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
聖淑高校4期生 3年 2組同窓会を12年ぶりに開催、30歳になる節目の年に集まった13人の悲喜交々を描いた青春群像劇。彼女達以外に2人の女性を加え、15人の女優による遠慮のない会話と演技が可笑しい。なぜ このタイミングで同窓会を行うのかが肝。
その開催場所が 雇われ店長をしているイタリアンレストラン「ボンゴレロッソ」。店の店員が狂言回しを担い、冒頭 この店員が主人公になる女性を早々に明かす。と言っても、最後には別の女性の近未来(数日後)まで言及して…その意味では女30歳、まだまだ若いが それでも色々な事がある。
本作では、たまたま高校時代に優等生であった女性に焦点を当てているが、誰が主人公になってもおかしくない。一人ひとりが卒業後から現在迄の状況を話す、この多様な人生経験が 観ている人の思いに重なるかも知れない。また女子高生の同窓会であるが、男性には男性の30歳が別の形で観えてくるのではないか。
基本コメディであるが、高校時代の文化祭で披露した歌やダンスを交え、面白可笑しく観せている。そして世代間のギャップが時代を感じさせる。時間と言えば、同窓会に集まってくるたびに暗転/明転を繰り返し人数が増える。その時間差を巧く表しつつ、一度に名前や近況が掴めないことから 登場の仕方に工夫を凝らしている。見どころは、30歳女性の複雑な心情、そして12年ぶりの歌・演奏、ダンスを観(魅)せるところ。そのライブ感が実に気持ち好い。
(上演時間1時間45分 休憩なし)
ネタバレBOX
二面客席。奥に同窓会を祝す看板「聖淑高校4期生 3年2組同窓会 みんな おかえりなさい‼」の文字。そしてドラムセットが置かれているだけの素舞台。
高校の担任教師が、もし店長が30歳になっても独身だったら結婚しようと、その言葉を信じて同窓会を開くことにした。その幹事はクラスの優等生だった相沢愛子が引き受けてくれた。12年ぶりに再会する友人、その現在の姿が観客(特に女性)の共感を呼ぶのではなかろうか。実家の商売を継いだ者、小学校教師、保険外交員、介護職員、広告代理店など色々な職業に就き、生活も 結婚し子だくさんの者、離婚した者など 様々。それぞれの職業や生き方をサラッと説明し、その職業の特徴を生かした物語が面白可笑しく展開していく。
2つの<何故>が物語のカギ。1つは相沢愛子が集合日に現れない。2つ目は、担任の坂本先生も現れず、姪と名乗る女性が先生の近況を伝えに来る。同窓(祝う)会だが、相沢は消費者金融の取り立てから逃げている。実は エリート社員だが、仕事に行き詰まり、付き合っていた彼氏ともうまくいかない。挙句にパチンコに のめり込んで借金地獄。優等生ゆえ友達に事情を告げられず苦悩といった孤独感を募らせていた。一方、先生は入院して来ることが出来ないと との伝言だが、実は姪と名乗る女性と付き合っており、という顛末。登場しないことによって、どのような人物像の先生か想像させる巧さ。全体的に何事も順調とはいかない30歳、その哀歓を面白切なく描く。
祝う会でもあり、そのサプライズを学園祭で披露したもの…バンドライブとチアリーディング、その練習風景から本番までを楽しく観(魅)せる。高校時代と同じ格好で行うため、セーラー服やレオタード姿へ。そして相沢愛子と坂本先生の夫々の事情が分かって大騒ぎ。最後はギター、ピアノ、ドラムなどの生演奏、そしてチアダンスを披露する。何となく予定調和ということは分かるが、それでも面白可笑しい展開は飽きることがない。いやぁ笑い笑いの連続で楽しめる好公演。
次回公演も楽しみにしております。
『300年の絵画と鉄仮面の姫君』
KENプロデュース
萬劇場(東京都)
2025/02/20 (木) ~ 2025/02/24 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「恋の魔法にかけられた 四人の若者たちの物語」…その四人が ロールプレイングゲームのように恋の話を展開していく。それを歌やダンス そしてアクションで観(魅)せるエンターテインメント作品。物語は、世界の童話集にあるような話を織り交ぜて描いているよう。そこに あまり教訓臭を出さず、逆に物語へ巧く溶け込ませ納得や共感を呼ぶ。
アクションシーンや群舞などが多いことから、舞台空間を広く観せる工夫をし、その魅力を十分に堪能させてくれる。また衣裳も華やかで魅惑的な ベリーダンスイメージである。そのダイナミックな動き、それを引き立たせる音響・音楽、そして照明の諧調が印象的だ。
少しネタバレするが、冒頭 シャハラザード(語り)が この話は眠りにつくまでの物語(枠物語の手法か)と言い、歌いながらその世界へ誘う。M-team(ミュージカル班)を観ているから頻繁に歌とダンスが披露されるが、皆うまい。タイトルから何となく想像できるが 妖(アヤカシ)が登場し、その魔法と「300年の絵画と鉄仮面の姫君」に込められた意味と謎が テンポよく明かされていく。序盤は冗長のように思えたが、妖が登場してからは面白味が加速する。
(上演時間2時間35分 休憩なし) 【M-team】 追記予定
カリギュラ
カリギュラ・ワークス
サブテレニアン(東京都)
2025/02/14 (金) ~ 2025/02/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
面白い、お薦め。満席
未見の演目「カリギュラ」、本来であれば上演時間3時間位の作品らしいが、それを1時間35分に凝縮したという。事前に難しそうな戯曲だと分かっていたが、本公演は 分かり易さを目指し、創意工夫を凝らし新しい翻訳で挑んだとある。不条理劇は、今まで何作品か観てきたが、本作は その中でも重厚にして濃密 そして心に響く秀作。
説明にもある「どうしてカリギュラが月を手に入れたいのか」「その宣言が自分の名なのか」という根本的な疑問、それを漂流するような会話(言葉)から だんだんと浮かび上がらせる。自分の解釈が正しいのか否か、少なくとも その入り口までは導いてくれるような。そこから先は、観客の想像力・感性に委ねられるが、舞台という虚構にも関わらず 激しく心が揺さぶられる。そんな 力 のある公演。観応え十分。
自分なりの解釈では、不条理 対 不条理 その捉え方 考え方の違い。その相容れない溝に横たわる得体の知れないもの、それは本能なのか感情なのか、いずれにしても 理性を飲み込み良識や常識を殺してしまう怖さ。それは誰が誰をという対立のように見えて、実は…。そもそも良識や常識といった条理とは何ぞやという根本をも問う。
「月を欲する」「宣言が自分の名」の疑問以外に、「正邪」「孤独」「生死」等の命題というか意味を投げかけてくる。その議論が広く深く考えさせる。抽象的とも思える内容、その議論の積み重なりを象徴するかのような舞台セット。そして音響・音楽(上演前の重低音の曲 含め)そして照明が効果的で印象に残る。勿論、俳優陣の演技は確かでバランスも良い。
なお、自分の勝手な思いが1つあるのだが…。
(上演時間1時間35分 休憩なし) 2.17追記
ネタバレBOX
舞台美術は、上手/下手に紗幕があり 上手は劇中のカリギュラの個(寝)室、下手は原作者 カミュの書斎、タイプライターを打ち 独白。この自作を俯瞰するような場面が妙。中央奥にベンチ その両側に本を積み上げ、板(床)上にも至る所に本の山。これは法・秩序や常識を表しており、冒頭 カリギュラがそれを崩すことによって不条理の世界へ という象徴的な場面が印象的だ。
衣装は、大臣などは黒一色、カリギュラの側近は赤基調、当のカリギュラは内に黒、上着は赤という条理・不条理という二面性を表しているよう。
生の喜びは いつも死の怖れであり、死は忌み 生は尊い。その感情を出発点とすれば、カリギュラが愛した妻で 実の妹ドリジュラの死は受け止めがたい。カリギュラにとって人の死は不条理。死は突然やってきて人の幸せを奪う。その不安に苛まれることも不条理の感情、一方 この不確定 幻影を断ち切ることが出来るのは死しかないという矛盾。
人が死という絶望を超えて 永遠性を求めた時、カリギュラになる。理性が崩壊し そこには正義・秩序そして合理的な感情は無になる。死は必然、その不条理を受け入れ 生きている間だけでも条理を尽くす。その条理・不条理を併せ持っているのが 生きている人間、言い換えれば 自分自身の内にカリギュラがおり、絶えず自己対立や対決をしているのではないか。
「月を手に入れる 俺はカリギュラだ!」…天空にある月を掌握することで、自分が神になる。神が人間を創ったのなら、自分が神になって不条理=死を無くす。不可能を可能にするのである。そのためには、この世にある条理を壊す…皇帝(権力者)として勝手な法律を制定し、虐殺と理不尽な圧政を強いる。カリギュラの圧政に対する反乱、しかし、カリギュラ曰く「誰も自分を裁くことなど出来ない、それが出来るのは歴史だ」。
考えてみれば、神だって近親相姦をし、「ノアの箱舟」にある大洪水による殺戮、「バベルの塔」を破壊し人を殺傷し言語の複数化という事態を引き起こした。本作も神のそれに比べれば、自分の不条理など大したことはない。説明にある「自分がもつ権力を神と対比し、カリギュラ自身の『論理』を力づくで正当化」する。独自の論理を持ったカリギュラ、意味合いは少し違うが、そのラストは 滅びの美学を思わせる。そう思わせる演出・舞台技術が実に上手い。
自分の勝手な思い…本公演は、カリギュラの寵愛を受けている詩人だけが男優で、それ以外 カリギュラも含め全て女優で演じている。その演技力は確かだが、理屈ではなく本能的に想像する情景が…。それは 例えば カリギュラが女を犯す といった台詞が陰惨・淫靡といった生々しさを想起させない。これが男優の暴力的な言葉・行為だったら、もっと違った臨場感が…。
次回公演も楽しみにしております。
女性映画監督第一号
劇団印象-indian elephant-
吉祥寺シアター(東京都)
2025/02/08 (土) ~ 2025/02/11 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
女性の芸術家を主人公にし、彼女たちの視点から社会や世界を見ていく「天井を打ち破ろうとする女シリーズ」の第一作。今作は日本初の女性映画監督 坂根田鶴子を取り上げている。観る前は彼女の評伝劇、それも生涯を描くものと思っていたが、1959(昭和34)年12月(55歳)までの半生で幕が下りる。そこまでに描きたいテーマが鮮明になり、それ以上描くとかえって暈けるといった際どいところまで攻めている。
どんな社会や業界でも 男女の別に関わらず先駆者は苦悩・苦労そして柵(シガラミ)や軋轢等と闘わなければならないだろう。本作では、その人間的な側面と時代という側面ー戦時という背景を巧みに繋ぎ 重層的に描き、同時に一筋縄ではいかない問題提起をしている。単に女性映画監督第一号の坂根田鶴子という一人の女性の生き様以上の問題を投げかける。
本作は 映画的にいえば、彼女の人生を投影することによって、その映像の奥には多くの女性の姿が映っているのではなかろうか。例えば 劇中における映画撮影所、そこでは日本社会で固定化された根深いジェンダー役割が次々に表れる。演劇における個人史と虚構をどう調整するか難しいところ、それを半生に止め 本来のテーマで纏めた手腕は見事。そして、満映時代を映画で言う<光>と<影>にして鮮やかに描き出した。
少しネタバレするが、物語は1959年12月に始まり同年へ回帰する、全14場で紡がれる。勿論、映画監督になりたい確固たる意志、同時に満州映画協会(満映)では、後進の育成等 映画界の環境整備に尽くすという観点も描く。そこに現代にも通じるジェンダー平等といった広がりを感じた。少し気になるのは、満映で撮影していたのは文化映画。単に映画が撮りたいという職業映画人ではなく、溝口健二監督の下でキャリアを積んだのは芸術家としての映画監督、それゆえ文化映画に劇映画の要素を加えるという発想へ。あたり前の意識・行動であるが、何となく「女性のパイオニアが男社会の壁をどう打ち破ろうとしたのか」から離れ、あくまで自分が こう撮りたいという欲望が前面に出過ぎたような印象が…。そのリアルの誇張が、後々 彼女を苦しめることになる。
(上演時間2時間15分 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は、天井にフィルムか階段状もしくは脚立のようなイメージのもの。それも所々朽ちて欠損している。板上は中央に大きな菱型の台、それを支えるように左右に変形した長方体の台。後景は黒紗幕。全体的にはシンメトリーで、場面に応じて丸卓袱台やディレクターズチェアを搬入する。簡素な造作であるが、その作り込まない大きな空間が逆に場所・時間そして状況を巧く表す。
物語は、1959(昭和34)年12月、京都の坂根田鶴子の部屋へ 2人の女性が訪ねて来るところから始まる。そして彼女たちと話しているうちに、自分の身の上を回想するように語り出す。そして 1929(昭和4)年秋、京都・日活太秦撮影所へ場面は転換し、彼女の映画人生と当時の映画界の事情が描かれる。生涯、大きな影響を受けたのが溝口健二監督、そして交友のあった監督夫人 千枝子。それは映画(撮影現場)のみならず、私生活に関わる深いところまで踏み込んでいく。
当時の映画界で女性が監督をしてスタッフや俳優に指示や演出をすることは考えられないこと。長いこと溝口監督の下で助監督に甘んじなければならない、という閉塞感に苛まれていた。そしてやっと「初姿」が監督第1作に、それによって日本映画界に女性監督が誕生したのである。それも溝口監督が監督補導。それが地続きとして 多くの女性監督、最近でいえば 山中瑶子監督などが活躍する場を築くことになる。
いくつもの出来事、転機を通して映画への思いを強くする。それがドイツ映画「制服の処女」から受けた強い衝撃であり、千枝子夫人の錯乱と溝口監督の焦燥、活躍の場のない日本映画界への訣別、そして満州(満映)へ渡航。その時々の状況を分かり易い演出で観せる。突然、歌い踊るといったミュージカル風になったり、映画のワンシーンのように紗幕へ映し出すといった面白さ。本公演を使って現代の映画手法のいくつかを披露したかのようだ。
満映時代の活躍と周落、それを映画に準えれば<光>と<影>になろう。文化映画…何もない荒野を耕すことによって暮らしに潤いを、一方 その開拓は他国を侵略していくという矛盾を孕んでいる。いくら美辞麗句を並べても、相手から見れば違う光景が映る。撮(録)る側と撮られる側、それはまさに盗(獲)る側と盗られる側に他ならない。それを助監督として登用した中国人女性 包琳琳によって知らされる。自分の思い描いた映画とは…満州というユートピアを撮ったつもりが、相手からしたらディストピアに映る。状況閉塞という日本映画界から新天地を求めたが、それが時代に翻弄され といった個人と状況・時代を巧みに描き出す。
演出は、紗幕を利用して 映画シーン(制服の処女)や脚立に乗っての撮影など、奥行きと俯瞰を表す。また戦火は天井のオブジェを赤く染め、業火に見舞われた地獄のよう。下から見上げれば赤い針の山または塔婆の林立である。物語(テーマ性)を強調するかのような演出、舞台技術は効果的で印象に残る。俳優陣は坂根田鶴子(万里紗サン)以外は、複数の役を担っているが、違和感なく演じている。そのバランスの良さも見事。
次回公演も楽しみにしております。
映像都市
“STRAYDOG”
赤坂RED/THEATER(東京都)
2025/02/05 (水) ~ 2025/02/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
面白い、お薦め。
1970年代前半、日本映画の低迷期が舞台。映画好きの主人公の過去と現在を行き来し、その哀感と郷愁が相まって叙情豊かな物語を紡ぐ。時代背景には、素朴な日本の原風景と高度成長期へ といった過渡期の世態が垣間見える。脚本(物語)は、斜陽した映画館の中で、若かりし頃の思い出(夢想)に浸っている といった閉塞感を漂わせている。一方、演出は歌や踊りを交えエンターテインメントとして楽しませる。この哀歓するような世界観が好い。
また舞台美術が秀逸で、時代と心情を巧みに表出し 情景も鮮明に映し(描き)出す。その光景は、現在を1970年代前半とすれば、子供の頃は戦後間もない混乱期、青年期は映画全盛期といったことが分かる装置になる。薄昏い中で 手際よく場転換をするが、それによって集中力が途切れることはない。そして この劇場を映画館に見立て、観客を劇中へ誘い込むようなリアリティ。
登場人物は個性豊かな人々で、その化粧や仕草 そして衣裳に至るまで観(魅)せ楽しませる。本筋は、主人公が過去の自分と向き合い、映画こそが生き甲斐だと改めて知る。しかし衰退していく日本映画、それに伴って地方の映画館の行く末も知れてくる。笑い楽しませる中だけに、主人公の悲哀が際立ち印象深くなる。実に巧い。
(上演時間1時間45分 休憩なし)【Aチーム】
ネタバレBOX
舞台美術、冒頭は汚い石塀のよう。それが3つの時代に応じて場転換し、時々の情景をしっかり表出する。戦後間もない時期であろうか 主人公が子供の頃は、下手に手押し井戸と盥・洗濯板といった小道具、青年期は映画撮影所もしくはロケ地。そして現在 1970年代前半の映画館内が飛び出し絵本のように現れる。その館内の左右の壁に「スティング」「パーパームーン」の映画ポスター(両作品とも1973年製作)が貼られており、当時の映画館を彷彿とさせる。
公演は、上演前から既に始まっているような感覚で、幕に“STRAYDOG”に関係した映画が映し出されている。そして売り子に扮した主人公が通路を行き来している。物語は主人公が子供の頃、青年期のシナリオ作家を目指している時期、そして現在 結婚し映画館主、その3つの時代を往還するように紡いだ映画人生劇。主人公の夢と希望、そして現実という悲哀を描き、その背景に時代の流れが透けて見えてくる。何となく「キネマの神様」ー映画に魅せられていた時代を回想 を連想させる。
子供の頃、姉と二人暮らしに跛行の男。姉が見つけた八ミリカメラで遊ぶ様子。その童心、そして姉と男の不穏な関係をうすうす感じ取った心情が切ない。青年期はシナリオ作家として映画撮影に立ち会う。カリスマ映画監督、プロデューサー、二世俳優といった個性豊かな人々との軋轢に苦労している。そして現在、日本映画界は斜陽 映画館を売りマンションへ。子供の頃からの希望、それを転寝しながら見る夢想の中で物語は展開している。
この公演が好いのは、時代の変遷・変化によって浮き沈みする(映画)産業、それに重ね合わせるように映画(人)への思いが切々に語られるところ。物語は映画界を舞台としているが、他の業界でも同じような喜怒哀楽に思いを馳せている。その世態であり風俗史的な内容を舞台という虚構の中で瑞々しく描き(映し)出す。
現在の主人公曰く 夢=思い出を売り払うことは出来ない、しかし それを持ち続けることは重く溺れてしまう。現在も その一瞬を過ぎれば過去、だから残るのは過去しかない。過去のカリスマ映画監督曰く、過去作品の栄光(幻影)を追うのではなく、今できること といった言葉が重い。この現在と過去の対なすような言葉(台詞)が、公演の肝のよう。勿論 映画(芸能)界における往時のパワハラ等、今問題を鏤め 考えさせる。
さて 冒頭の石塀は映画館の裏塀、それをハンマーで壊すことによって光が見え始める。夢想の世界に閉じ籠もり前進出来ない情況からの脱皮。その希望に繋げるためには、敢えて骨太/重厚といった演出ではなく、笑いや憤りを盛り込みノスタルジーを漂わせているようだ。また映画撮影の現場を使っての歌や踊りといったエンタメシーンを盛り込む工夫が好い。
次回公演も楽しみにしております。
おばぁとラッパのサンマ裁判
トム・プロジェクト
紀伊國屋ホール(東京都)
2025/02/03 (月) ~ 2025/02/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
面白い、お薦め。
沖縄が、まだアメリカから返還される前の 1960年代が舞台。物語は、サンマに関税が課され価格が高騰することに反対した大衆運動。時代背景の妙、そして現代でも地続きの課題・問題として関心を惹く。日本にとって、沖縄の返還は重要な出来事だが、未だに沖縄におけるアメリカ軍基地問題は解決していない。基地の負担や環境問題、そして一番重要だと思われるのは、沖縄住民の声が反映されていないこと ではないか。
公演は 分かり易い内容で、それをテンポよく展開していく。何より役者陣の演技(台詞回し)が小気味よい。庶民が口にする食材 サンマ、その身近さが現代の物価高騰をも連想し切実になる。その戦う相手がアメリカ、しかも相手が定めたルール(法)に則って争う。それ(困難)をいかに論破するのか。大衆運動を扇動するような熱い演技、その漲る力強さ 高揚感溢れるシーンが なぜか清々しい。
脚本 古川健 氏と演出 日澤雄介 氏、この劇団チョコレートケーキ コンビの公演は面白い。アメリカは姿を現さないが、その見えない影の存在として米軍機の飛行音を轟かす。少しネタバレするが、物語は 大衆魚サンマへの不当な関税撤廃から 未来を守る戦いへ…ここに公演の真のテーマ<民主主義の希求>が浮かび上がる。
(上演時間1時間40分 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は、上手に平板の壁、その前にウシおばぁの家。下手も同じような平板の壁だが、その前は弁護士事務所で机、ソファとテーブル。中央は金網で上部は鉄線のようなもの。その前は階段状になっており奥へ抜ける。
1960年代、まだ沖縄が返還される前の話。アメリカが、サンマに関税を課すという暴挙、それに憤ったおばぁが敢然と立ち向かうが…。文字も読めないおばぁの無茶な奮闘記だが、それには知恵者や仲間が必要。その知恵者=弁護士が法に基づいて裁判所に提訴する。その法そのものがアメリカが定めたもの。関税する品目の定め(法)は、限定列挙で「サンマ」は記載されていなかった。それでも関税するとは如何なものか。そして裁判権そのものが日本に無いという問題。当時の不平等はもちろん不平不満を点描することで、問題の広がりや根深さを浮き彫りにする。
裁判結果(判決)は、勝利し過去の課税分も返還された。しかし、それはウシおばぁ家に限ったことで、今後は課税品目にサンマを加えるという暴挙。あばぁにとって「商売」「お金」は大切だが、それ以上でも以下でもない。しかし、目先の現実主事から「未来を守る」という思いへ変化していく。それは姪に子供が生まれ、その子が安心/安全な暮らしが出来るようにとの思いを巡らせたから。物語は、裁判の成り行きを おばぁ(柴田理恵サン)が語りとして説明するから分かり易い。
アメリカ相手に抗議行動、それが大衆運動としてプラカードやシュプレヒコールといった演出で盛り上げる。その高揚感溢れる思いが、清々しくそして痛快に感じられる。勿論、米軍機であろう轟音が響き、威嚇するような怖さもあるが、それを乗り越えなければ 沖縄の未来はないと。その誇りとしての沖縄民謡が米軍機音を凌駕するように流れた ように思えた。
次回公演も楽しみにしております。