tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

青年団国際演劇交流プロジェクト

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/07/05 (金) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

「カガクするココロ」初観劇は桜美林大での学生発表(多分10年以上前)で、これが現代口語演劇初体験。時代に合った表現を見た気がしたと同時に、音楽がないストイックさ、娯楽性フィクション性を削ぎ落とし客に忍耐を強いている印象も。確かズンドコ節の替え歌を全員がアカペラで歌って幕が下り、ああこれが取って付けたようだが終劇間際のサインなのね、と納得。後に青年団バージョンを見て、学生版にはなかったディテイルのリアルに面白さを発見した。
さて今回はキャスト全てフランス人。学生の発表公演のために仏語バージョンに書き換えたリニューアル版だそうである。フランスだけに恋愛話や口説き文句が増えていたが、惚れた腫れた以外の内容はほぼ無く、日本語バージョンも実はそうだったか?と記憶をまさぐった。日本人は恋愛感情も関心もオブラートに包み、その苦しさがモチーフになる。オブラート(表層)部分すなわち建前の論理も日本では他者との関係性では重要になる。そういった文化的背景を仏語バージョンでは当然変えねばならなかったという事は想像できる。字幕の観劇では人物関係を把握するに至らず、伏線回収場面を部分的には楽しめた。若い俳優たちは内面から滲み出る個性を風貌に刻んでおり、制御された佇まいは青年団のそれだが、日本人俳優の場合「見せなくてもいい」と割り切って演じているように見えるのに対し、キャラが濃いせいか劇空間も単に記号的でなく熱が通ってみえる。
他の発見としてはフランス人なりの多様な個性、キャラが少しずつ見えてきた。ただそれが俳優が作ったキャラなのか、俳優自身が持つキャラなのか・・平田流では本人キャラだろうと推察。少なくとも恋愛に深く絡む人物には「見た目」の良いのが選ばれるのは「この森の奥」とも共通。ただしこのステロタイプな配役はもう一つ面白味に欠ける。

『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

青年団国際演劇交流プロジェクト

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/07/05 (金) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

オリジナルではなく過去作の改作だという。「北限の猿」を以前観た感触を思い出した。
マダガスカルにある研究所に日韓仏の研究者が集まり猿・類人猿を研究している。日常的な挨拶くらいは出来るが踏み込んだ会話は携帯式の音声翻訳器で行い、観客には正面に左右2つのディスプレイに字幕が映される。ポータブル翻訳器は今なら実在しそうでもあるが、10年前なら「近未来」の設定だったろうか。いずれにせよこの研究所のような国際プロジェクトが例えば英語でなく、母国語による会話で実現し、様々な夾雑物を排除できる時代にはファンタジーでなくリアルベースで多文化の現場が芝居になる。それを実際に仏人役を仏人俳優が、韓国人役を韓国人俳優が日本人と演じる舞台がこのたびお目見えとなった。字幕が挟まる事の観劇上の障害はあるがどうにか大意は掴める。
その上で「お話」の良し悪し、好き嫌いはあるのだろうが、面白い芝居ではあった。核心は彼らの研究対象である類人猿に関する知見。我々人類と突き合わせ、比較する事で人間や人間社会と動物(の社会)との差異があやふやになってくる。会話は新たにやってきた女性研究者、マダガスカルの観光事業に研究所を組み込もうとする日本からの民間プロジェクト3名との接触を契機に展開される。作者のうまい設定だ。
ただ、話題は差別や侵略の歴史にも踏み入って行くが、そうした話題を「出す」事で溜飲を下げ、最後はみそぎを終えたかのようにスッキリ、虹を見に行こう!と切り替わるのには何やら座りが悪い。ほぼ出揃っていた出演者が最終的には「虹」を見るべく全て退場するのだが、最後に会話を閉じて(舞台の締めくくりを担って)出て行く女性3人組には殆ど虹を見たい欲求を感じない。誰も居なくなった空間を見せて幕、というパターンは平田オリザ作品に多いが、互いの理解を深める大事な会話が「授業時間」などで中断されるならまだしも、見なくていい「虹」のために切り上げられてしまう。
「芝居の都合」とは思いながらも、欲求に従うのでなく「付き合いでする行動」には日本の連れション的行動パターンの嫌疑がもたげる。フランス人なんだがなァ。

皿の裏

皿の裏

Rising Tiptoe

座・高円寺1(東京都)

2019/07/03 (水) ~ 2019/07/07 (日)公演終了

満足度★★★★

最近まで名も知らなかったユニットだが、作演出美術音響その他何でもござれ、才媛ここに在りと10年以上も前から発信していただろうに気づかなかったとは。との自省を込めつつ、自ら完結させてしまう舞台はどんなものかと座高円寺を訪れた。劇作家協会プログラムだけに劇作家・宇吹萌作品上演という色彩が強いのか、どうかは判らないが作家の趣向が覗く舞台ではあった。再演に耐える現代的寓意に満ちた作品だが、舞台はオリジナルな手触りで、美術をはじめ俳優の使い方、音楽の使い方にも先人の薫陶を授かった堅実さを離れて独自の匂いがある。特に俳優の扱い=演技アプローチの統一性の面で「成長(改良)の余地」のある作り手、という印象が個人的には際立った。

MITUBATU

MITUBATU

なかないで、毒きのこちゃん

OFF OFFシアター(東京都)

2019/07/02 (火) ~ 2019/07/09 (火)公演終了

満足度★★★★

同劇団二度目の観劇。若い才能は公演と公演のインターバルも短く次から次の攻勢に追い付かず二、三やり過ごして漸く、かの卓袱台返しならぬ破壊芝居の記憶も生々しいOFFOFFへやってきた。どこで培ったのか前回爆発させたplay with audienceを今回もやらかして本編に入り、終いにもやって閉じ繰っていた。
意外や話はしっかり作られ、バラックの内部のような溜り場で寝起きする辺境人らの矜持を描き取っていた。話を構成するのはどこかで見たような設定や人物だが取り合わせに必然性と新鮮さがある。
メインステージ(下手側=溜り場)は狭いものの、上手のカラオケステージのような段(小屋の外)、客席の上手最上段(おとぼけ刑事=女上司と男部下の車中)、時には観客用出口も使い、自由度が高いというだけでなく理に適っている。
役者は皆達者で、笑い系に強いのが笑わずに堪えて(アウトローゆえに「笑っちゃう」生活実態ではあるのだが)、人物を生き通した末に滲み出る否定しがたい色というか香り、人物らしさを滲ませ、一つの絵ができていた。

存在しないが 存在可能な 楽器俳優のためのシナリオ

存在しないが 存在可能な 楽器俳優のためのシナリオ

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2019/07/05 (金) ~ 2019/07/07 (日)公演終了

満足度★★★★

レパートリーシアター海外編2度目の観劇。
今回もポーランドから招聘した舞台だが、俳優ヤン・ペシェクが76年初演以来40年以上演じ続けてきたこの「一人芝居」は、完成度の高い、というより特筆すべき演目であり日葡国交100周年の今年3度目の来日が実現した。
劇場主催レパ公演だから入場1000円だが、上演時間の短さ(1時間)を差し引いても(他国語である事への配慮など諸々体裁を整えれば)最低でも3500円が相場だろうと無粋ながら考えた次第。

タイトルにある「楽器俳優」という単語が刺激的である。関心の向きはシアターXのサイトで確認の程。演者は老優とはいえ今年75歳とは思えない身のこなしと闊達さで「晦渋な演劇理論」(を喋っているらしいとはパンフにあった)を懇切に熱っぽく表情豊かに語りながら、舞台上に散在する物に目を留めてはそれと戯れる。凡そ「理論」と似つかない優れて具体的なモノとの交遊のバリエーションがツボである。
言語を介して生徒(大学の講義を想定すれば観客は学生)と対峙する態度と、物と対峙する態度はどうやら同じ次元にある。人類の始原を描いた映画に登場した猿のような「物」への純真な眼差しと、同じく演劇にも向けられた結果なのに違いないがこなれて難解化した理論とのギャップは激しく、それが同じ時空の中に区別なく配置されているので笑ってしまう。異国語じたい「難解」な訳だがこの言語世界に、「物」と遭遇する事で浮上する「反応する身体」が首を出す。だが本人の脳内では講義の時間は途切れなく繋がり延長している。

シナリオを書いたボグスワフ・シャフェル氏は1960年代に当時演劇を学んでいた19歳のヤン氏を見出し、この俳優に当て書きしたこの作品を10年後(74年)に渡したという。ヤン氏自身はこの作品を当初はつまらないと思ったとの事だが、あるアイデアと共に輝き始め、楽器俳優との概念が示す演劇=音楽(音で作品が構成される)との視点から多くを学んだという。

ネタバレBOX

初日は終演後ロビーで交流の時があり、通訳を介して会場との様々なやり取りがあった。日本初のパントマイマーと紹介された人、ヤン氏演出による日本での舞台の出演者などなど。ヤン氏とシアターX、日本との関わりの年月を垣間見る。会場には欧州系の人々の姿が相当数見られ、日本語ポーランド語どちらの発言にも反応していた。ポーランド人が日本に居ても不思議はないがこうしてみると新たな発見である。
ノーカントリーフォーヤングメン

ノーカントリーフォーヤングメン

コンプソンズ

シアター711(東京都)

2019/07/02 (火) ~ 2019/07/07 (日)公演終了

満足度★★★★

初の劇団。チラシが中々の好みである。タイトルにも何かくすぐるものがあった、と後で思い当たるが気付くのは芝居の途中。既視感を覚えてある映画を思い出す。と、芝居のタイトルの中に映画のタイトルが...。
その映画と符合する所から書けば、ある得体の知れない男がある地方(田舎)を訪れている。連れの女がこの地に住む人を訪ねたがったのに付き合った格好だが、まず交番での会話で人物の異様さが明らかとなる。この種の人格を造形し得た事が私としては大きい評価対象だ。男は常人に受容されがたい理屈を、真顔で威圧感と説得力を持って語るのみならず、他者の人格の隙き間(非整合性)に冷酷な楔を平然と撃ち込み、獲物を狩るようにしとめる。しかもそれが当然の事として行なわれ感情を高ぶらせることもない。
映画館でその映画を視た時は衝撃で動けなかった。確かパルムドールも取って広く知られた作品だが、善悪の彼岸にある風景、言うなら前世紀末からの不穏な思潮を煮詰めて人格化したかのような怪物におののくと同時に、深く納得する所があったものである。映画の中にある娯楽要素とは、勝敗が(一方の「死」によって)容赦なく決まる所であったが、この殺戮者の中に何らかの一貫した哲学を感じさせる要素は映画の中に仕込まれている。結局それが何かは「判らない」のだが。
芝居のほうではこのサイコパスは話を進める一要素に過ぎないが、芝居が取り上げているテーマ(超越的・超自然的存在と人間の関係?)にうまく絡み、深みを与えている。
話の本筋は、彼の来訪を受ける「地方=田舎」のスピリチュアル世界に毒された?若者たちによって展開される。神社の神主(巫女カフェを作って金儲けし、人格的成長を一切拒否して人格者的著名人になりたい超低劣な俗物)、マタギであった父との幼少時代に何らかの傷を負っている元野球少年(父と居た山の中で父が撃たれ自分が生き残った。野球人生に挫折した)、警察官であるその兄、その彼に自殺を止められ一緒になった妻(常に夫を罵倒している)、その親友でやりマンの女、その夫(地元愛が強く先祖からの墓を大事にしており、神社と接する墓を壊すぞと神主から脅されている)、元野球少年は十代から女子にはモテ、大人や子供からは期待されるタイプだが今は超自然のパワーで世界を(村を)守ろうとするサークルのリーダーをしている。そのメンバーであるどこか抜けている3人の男女、そして彼に影響を与えている「たんぽぽ」なる女性、この人物も幼少時に不思議な逸話を持ち、ある霊的な力を持っている。この話は、その力を関係者(神主然り)がほぼ皆信じている前提で進む。
エピソードは点描式に転換でテンポ良く進み、印象としては超自然要素に加え意表をつく着ぐるみや歌と踊りなどが挿入され、タッチは殴り書きに近い。だが喧騒に支配されない静謐の時間が確保され、聞こえるか聞こえないかの協奏曲は美しくはないが心地よい。正論を勝たせる事なく混沌を良しとし、露悪に陥らずエネルギッシュで悲哀も滲むが冷徹、という線をうまく位置取り、結論を持たない劇であったが中身は好物であった。

エダニク

エダニク

浅草九劇/プラグマックス&エンタテインメント

浅草九劇(東京都)

2019/06/22 (土) ~ 2019/07/15 (月)公演終了

満足度★★★★

ロングランも折返し地点。鄭義信演出版「エダニク」を浅草九劇にて鑑賞の日がやっと来た。3度目になる同戯曲の観劇、関西人作家の作品をコテコテ鄭演出がどう料理するかが関心の中心であったが、序盤で吉本新喜劇路線全開、演出家の血は韓国以上に関西が強いのではないか・・との考えさえ。
ヒューマンなドラマと笑いには奇妙な親和性があり、鄭義信の舞台はこの笑いを極大化した中に発露するヒューマニズムが特徴、とも言える(かも知れない)。その特徴が果たして今回のこの戯曲とうまくマッチングしたか、が一つある。戯曲から笑わせ所を発掘し見せ場とする技はさすがである。ただ終盤、笑いからヒューマンへの転換にG以上の急降下を要する箇所では、胸にぐっと迫る場面への豹変を待ったがそこへ持って行けなかった。感動的な終演を狙っただろう照明(光量の上昇)もやや付け焼刃の印象。
鄭の「極大化舞台」の立役者となるには、3俳優の力量の総和はこれに及ばず、もしくはこの戯曲にその路線が正しい選択だったのかの問題は残ったと思う。

ネタバレBOX

公演も10日を超え、芝居も熟す頃合いと期待したのだが・・・舞台は「観客が育てる」もの、しかも唾も届きそうな小劇場、みれば平日昼間とは言え客席の殆どが若い女性である。ジュノンボーイ稲葉友の超デフォルメ演技に声の無い笑い(肩を揺らす)が起きる妙な空気感に、「育ててもこの程度」の原因を邪推したものであった。
終演後、二列ばかり後ろの座席に、先日目にしたばかりの「御大」の姿があり驚いたが、受付に並んだグッズを見て思い出した。役者の一人が大鶴佐助(御大の息子)、意外に巨漢で社長のボンボン役の秀逸な演技を見せていたが、ラストの予定調和なヒューマン場面では所在なげな風も。関西弁を連射する役に阿佐ヶ谷スパイダース・中山祐一朗が一人野育ちのような毛筋で、一切笑顔をみせず、お笑い生産面では真正面演技で健闘していた。
フィーバー・ルーム

フィーバー・ルーム

PARC 国際舞台芸術交流センター

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2019/06/30 (日) ~ 2019/07/03 (水)公演終了

満足度★★★★★

既に公演は終え、「次」の機会がいつかも知れないが。
映画監督アピチャッポン・ウィーラセタクンの名をどこかで見た、というだけの縁だが一昨年TPAMに「来た」と聞いて色めき立った。今回、事前情報は殆どなく“観劇”に臨んだが、映像作家による未踏の実験パフォーマンスであった。

ネタバレBOX

プレイハウスのロビー内は「整理番号」順にぐるりと紐状の一列が既に出来ていた。案内があり、順次ステージ側に通じる薄暗い通路を通る。会場に入ると目が慣れるまで時間の掛かる僅かな照明(床上何cm位を走る照明?)を手がかりに空いた席を探して座る(座席エリアは比較的狭い)。後部の椅子席はほぼ埋まっており、前部の座蒲団席を選んだ。「皆様がお席に着き次第始まります」とアナウンス。
照明が消えるとゴォォォ..と環境音が唸り、映像の受像幕が天井から降りて来て、いよいよ始まり。(時間があれば後日追記。)
白鳥の歌/楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜

白鳥の歌/楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜

劇舎カナリア・劇団だるま座

ギャラリーX(東京都)

2019/06/27 (木) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★

最近シアターXで古典発掘的な単発公演をやってるユニット(以前は確か問合せ先にこの名を見たような気がするが今回は団体名義の公演)。
『楽屋』に惹かれ、といっても他公演を断念して次候補の同公演が浮上。全くの未知数であったが、結構面白く観た。
シアターXの建物の別口の階段を上がったギャラリーXというスペースで、劇場ではないがそれなりにステージを設えての上演。中央に大きな柱があり、それを避けて二方向に客席が階段式に組まれ、ステージの方は最奥(部屋の隅)上部から黒布(黒幕)が川のように長く緩い傾斜で末広がり、「平野」部分が一定面積あって箱馬4つ置かれている。
開演直前に入場すると主宰・山本氏が喋っている。長い前説を終えると「一応こっちに引っ込んでネ」と客席のうしろに回り、「では、入ります」とか言いながら前へ再び出ると「ここから、お芝居」照明変化するが相変らず「お喋り」は続く。だが、無駄感なく一人芝居の枕、本編とも「楽屋」の前段・導入となっており、力の入らない滑らかな語りからの流れはうまく作られていた。
氏の事はよくは知らないが演劇界での経歴を積み、このユニットは氏なりの実験・実践の場であるらしい。役者としては勘所を押え、「楽屋」演出にも場所ならではの趣向や遊びもまじえ、役者のキャラと場面の流れには一つの正解を提示し、一々納得させるものがあった。(「楽屋」には様々な正解の形と正解に至らなかった形とがあると思っている。)
ただ私の好みでは、全員白ずくめの衣裳、顔に白が入った(生者も)象徴表現は、火傷跡などが作り物じみてしまうのを回避していたが、役者の顔はもう少し見えたかった。
演技は緩急を気持ちよく見せ、中々達者揃い。

メディアマシーン

メディアマシーン

劇団 風蝕異人街

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/06/28 (金) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★

リオフェスも終盤、今年は無念にも吉野翼企画も見逃し、この一本のみであった。
終演後「これから準備が出来次第××を始めます」と案内があり、見ているとブルーシートや、岸田理生の遺影が持ち込まれ、どうやら始まるのは慰霊祭らしい(後で調べれば「水妖忌」と言い、命日の6/28に行なわれるそう)。
故人の死は2003年。リオフェス(岸田理生アバンギャルドフェスティバル)は2007年に始まり今年第13回。数年前アゴラでの観劇をきっかけに作品と作家を知りフェスの他会場にもたまに足を運んだが、参加パフォーマンスは傾向というか部類というか、ある共通項がある。その印象は今回のパフォーマンスにも合致したが、意外な事にこの集団は「寺山作品などずっとやってきたが身体パフォーマンスは初挑戦」だという。北海道を拠点に、背負った劇団名である。
劇団サイトには「踊りたい人募集」的な文字があり、「初挑戦」と考え合わせ、どういう踊り手との出会いがあったんだろう・・等と想像する。「コンテンポラリー演劇」といういささか長閑な命名の実態は、要は「踊りと芝居」の融合な訳だった。私流に解釈すれば、劇団としての新領域への挑戦は、時代を遡っての追体験という事になっているのではないか・・。もし当たっているなら、望むのは一つ「新領域を作り出して欲しい」。

ネタバレBOX

観劇の時間に戻れば、、初挑戦でなく得意部門をやっているに違いないとの前提で観て気になったこと。舞踊としてみた基準では動きが凡庸である事に加え、幾つかのパターンの動きと対になっている曲(オリジナル?)じたいはそれなりであるが、出力での音質の悪さはかなり気になった。そしてリフレインで作られている曲のある部分、曲調の変化をもたらすチャレンジがもう一歩あって良かった(ここがもしや分かれ目であったかも)。以上、「今」の自分に届く何かあり得るとしたらそのポイントは何か、つらつら考えた事。
男女逆転〈マクベス〉

男女逆転〈マクベス〉

ワンツーワークス

赤坂RED/THEATER(東京都)

2019/06/20 (木) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★

ワンツーワークスを観る頻度もやや上がって来たような。今回は「マクベス」である。黒澤明『蜘蛛巣城』を含めると結構な回数この悲劇を味わって来たが、はっきり言って好きである。そして今回の舞台はこの作品の勘所はきっちり押えて、嘆きの言葉さえ聴く者を酔わせ、激情をかき立てる終始緩む事なき悲劇な物語に浸らせてくれた。
経験の浅そうな若い俳優からベテランと思しい俳優まで、それぞれ役割を果たしている。次のシーンや行動へ弾みをつけるための抜かりない動機の仕込みがなされ、思う通りにボルテージを高めてくれるのを快く味わいつつ、悲劇的情緒に心を燃やすという、こういう罪な娯楽もないかも知れない。が、こいつが人間というものと自覚すべし。

ネタバレBOX

男女逆転、とある通り、女優の数が半端でない。先日の座高円寺での芝居も、「役」に女性が多く、それを男が演じて全員男性であった。今回は男として書かれた「役」を女性に置き換え、女は男に、という翻案である。それによって生じる文化人類学的な問題、例えば女が外で戦い男が家を守るという形について考察が始まる。「女系社会」というのは実際に見られる形なのだそうだが、男女の役割分担が異なることは「あり得る」事だと想定でき、「そんなもんだ」と思えば違和感なく見ることが出来てしまった。もちろん、疑問を持ちつつ検証しつつ舞台を観ることにはなった。そして見事クリア。徐々に「これが当り前の姿かも」と、錯覚し始めている自分がいた。
特に最後の勝利の歓声は、女性が心底から発することで、男性が上げる声とは異なる純粋さが滲む。それは感動的である。女性が持つマイノリティ性という「現代」の感覚を投影するからだろうか。オーラスで剣を提げた女性戦士らが、前方を見つめて今に涙しそうに歓喜に震えるシーンがある。この場面、一般的演技になりがちなところ、古城氏の演出だろうか、最大級の感情表現をもって来させた。カタルシスである。
その前段、例の(寝返ったとみられ、事実そうだった)マクダフの家族殺しをやらせたマクベスと、マクダフ本人の対決が最後の戦闘シーンでのクライマックスだが、妻もとい夫と子供達を虐殺された原因が、前王もとい女王の息子もとい娘の下に駆けつけたことにあると悟って泣く。この場面から最後の対決シーンまで、演じた山下夕佳が文句なしに「格好いい」と思えた。そういう役柄ではあるのだが。
異性ゆえに、異性(女性)に対する心情でなく性を超越して凛々しく立つ姿に、素直に「すげえ」と思ってしまったが、本当に男女逆転した社会では、男性が女性に「惚れる」時、このような感情が生れるのではないかと想像させた。
その日のトークでは女優3名が、「男性は何をやって暮らしているのか」という疑問をやはり持っており今も解消していない事を述べていた。演出には「そんな事は気にしなくていい」と一蹴されたとか。
オレステイア

オレステイア

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2019/06/06 (木) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★

中劇場へのなだらかな階段を上ったのは昨年1、2月頃、シス「近松心中物語」で久々だったが、新国立主催公演では何年振りになるか。2011~2013頃白井晃演出舞台や、森新太郎エドワード二世、宮本亜門サロメなどを観たものだが、今や殆ど貸し小屋状態である(PARCO休館の影響大か)。その中劇場で、文学座新鋭上村聡史がやるというので、昨年の「城塞」を観そびれたリベンジもあり、デカイ箱をどう使いこなすかも気になり、また「オレステイア」海外作家の翻案というのも気になり、今回は休暇を取って予定に組み込んだ。
実はもう一つ、燐光群出身の俳優下総源太郎をしかと観るため。燐光群と言えば現状、腕のある俳優が「流れ着く」場所であり、俳優休業で姿を見なくなったというのでなく役者として研鑽を積み「上」を目指そうと退団した人はあまり見ない。話が逸れまくるが、2000年代前半からの燐光群ウォッチャーとしては当時宮島千栄や江口敦子、内海常葉(後に音響に専念)、向井孝成、ペ優宇といった面々がおり、そして声を聞かせる下総源太郎の名があった。当時は芝居=戯曲一辺倒、幾らか演出という観念で、私は坂手の「本」や演出に心酔したものだったが、それを支える俳優という存在に意識が向かいつつあったのも、存在感ある俳優との遭遇があり、下総氏はその大きな要因だったに違いない。もっとも坂手氏は俳優の出来不出来に左右されない舞台の作り方をする人とも思うが。

さて4時間20分の構成は、3幕あるオレステイアの1幕が1時間余、2・3幕が1時間半余、最後の裁判シーンが1時間弱。休憩2回計40分。
「翻案」は、主人公オレステスが精神科医の治療室で自分の過去を思い出し、その再現として本体のドラマが展開される、そしてオレステイアを構成する3作品の3つの事件が終えた後、生き残ったオレステスを被告とする裁判が開かれる、というものだ。
今展開する情景は客観的な事実なのか、誰かの主観による再現なのか、微妙に揺らぎ、判然としない中で物語は進む。だが、客観性が際立つカメラによる中継映像が流れたり、主人公の発する言葉と周囲との微妙なズレなど、二次元の画用紙に書いたような一篇の物語に収まらず幾重にもメタ解釈が仕掛けられていそうな雰囲気が醸されているので、飽きない。
趣里、神野三鈴の達者ぶりと横田栄司氏の完成形のような風情が特に印象的。佐川和正やチョウヨンホの勿体ない使い方も。倉野章子の舞台を私は初めて目にした。生田斗真は顔は知っててもどういう仕事をしているのか全く知らない事に気づいた。
客席の女性率の圧倒的高さには、毎度圧倒される。

ネタバレBOX

物語: 男オレステス(生田斗真)の幼い頃、父アガメムノン(横田栄司)がトロイとの戦争に勝つため、神託に従って娘イピゲネイア(趣里)の命を神に捧げた(神託を授ける者/狂言回し=下総)。だが長い戦いの末勝利を収め、凱旋した夫を母クリュタイメストラ(神野三鈴)は捕虜にした愛人もろとも殺してしまう。母は夫を憎む一方でその弟アイギストスと親密になっており、我らがオレステスは父を奪った母を憎み、アイギストス共々殺してしまう。この最後の殺しを本人は中々認めることができず、物語中時折登場したエレクトラ(音月桂)は実は彼が作り出した存在である事が終盤に判ってくる(解離性障害)。
娘殺しの夜、父に会えて嬉しそうにはしゃぐ娘に、三つの紙コップに入った飲み物を飲ませ、命を奪うシーンでは、幼いオレステスは紙コップの盆を運んでいる。このシーンでは現場に撮影クルーが入り、父が娘と頬を寄せ合うドアップの映像が舞台上方に映し出されるのが、秀逸である。ちなみにその「場所」というのは奥行きの長い舞台のやや奥あたり、2幕では半透明のカーテンが囲う四角のエリアで、殺人の象徴である西洋式の浴槽が置かれたり、場面により効果的に演出される。最後の裁判の場面では被告以外真紅の法衣をまとった中で、1人預言を行なう者(倉野章子)が背後で歩きさまよう場所にもなる。クリュタイメストラが凱旋した夫を「娘の死(戦争による死という事になっている)」にもかかわらず殊勝に迎える演説をぶったり、インタビューに答えるシーンにも(ここでも映像が入りカメラを通じて映像が客席に語りかけるこれも秀逸な場面)。

こうした演出や趣向が戯曲の文体にも馴染み、程よく難解で面白く見られるが、裁判の場で「物語」が男の罪という視点で議論が始まると、議論のレベルがいささか単純、学校の教科書解説本で解釈を読むような所で緊張の糸が緩み掛ける瞬間も。だが最終的に男は有罪か無罪かの判決をもらうことになり、この判決というものはズシンと重い。裁判がどんな法的効果、実効性を持つのかが示されておらず、議論のための議論にも見えていた所が、「判決」と聴いた時の厳粛な気分というのは不思議なものだ。
判決を聞いたオレステスが、それをどう受け止めるかまで戯曲は台詞にしているが、最後の言葉のチョイスは難しい。別な言葉でも良かった気がするが、ギリシャ悲劇への西洋人の一つの読み方というものを味わった気がする。
渡りきらぬ橋

渡りきらぬ橋

温泉ドラゴン

座・高円寺1(東京都)

2019/06/21 (金) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★

役者もやるが演出力あって演出に専念?と思えば、脚本も物し、脚色ばかりか完全オリジナルまで書く。演出・執筆とも劇団外からのオファー多数である・・。一定の才能は認められるが「これ!」という突出した舞台を観た記憶が私にはなく(「birth」凱旋公演も然り)、「きっとこの人は人脈作りに長けた人なんだろう。」というのが、いつの間にか出来上がったシライケイタ観であった。
で、今回・・この印象に大きな変更を迫られなかったが、なかなか面白い芝居だった。
オール男性キャストという特徴は、私には良い印象を残した。公演は趣向と合わせて記憶され、今後「性別と配役」問題を論じる際の貴重な参照事項を作ったと思う。つまりこのチャレンジは一応の成功を遂げた。

ネタバレBOX

明治大正の女流作家を題材にした作品(男5人女9人)をオール男性キャストで上演した経緯については、単純に「劇団に合うやり方を考えた結果」、また後付けで「性差を超えるものについての探求にも」的な演出家の証言がパンフにあったが、その通りの舞台であった。
役と演じ手との距離(誤差?)はどんな芝居にも大なり小なりあり、無論「ない」事を目指した演劇があって良いし、役との距離が縮まる(=役が深まる)ほど濃密な劇空間が作られるのは確かだが、「点を繋いで線を、面を構築する」想像力を的確に補助する事により観客は劇世界を構成し、舞台は成立する。
(時を経ずしてワンツーワークス「男女逆転版 マクベス」も観たので、これについてはまた改めて考えてみたい。)

役を深めるのに年齢、出自(母語)、そして何より性差がネックなのは当然であるが、もし今回の舞台を女優陣を招いて通常の配役で作ったらとどうだったろうか。あっさりし過ぎて薄く感じられたかも、と想像するのは今回の舞台から何かを引き算しているせいか。全く違う物になっていそうでもある。想像力のハードルを設ける事で観客はよりリアルに像を結ぼうと脳内作業を活発化させ、「女人藝術」を発刊した女性達の物語へ、尻を叩かれるように近づいていく。まあそんな効果があったように思う。
「成功していた」とは、想像力のハードルが適度に機能し(という事はそれなりに役柄に近づきもし)、決定的な欠陥に見えなったという事だ。私は男であるので、男側から女性という存在に迫る行為自体に同期したという事もある。以前「楽屋」を男優で演じたのを観た時に全く入り込めなかったのと比較すると、男が近づき難い女の情念こそ楽屋の醍醐味なのに対し、今作は新作である。自立や生活や創造といった性差に関わらず共有できる普遍的テーマに重心があった。このテーマ性はぎくしゃくしながらもしっかり伝わってきたのである。
座高円寺の大きな容積を、高い橋を渡して贅沢に使っており、高低差があるだけで芝居も立体感が生まれた。
「蛇姫様~我が心の奈蛇~」 

「蛇姫様~我が心の奈蛇~」 

新宿梁山泊

新宿花園神社 特設テント(東京都)

2019/06/15 (土) ~ 2019/06/24 (月)公演終了

満足度★★★★★

夏の梁山泊 on 花園神社境内を今年も観劇。桟敷での観劇は苦行だったが甲斐有り。

雨を堪えた日の夕刻、外気は幾ぶん涼しいがテントの中はじんわり暑い。前方席につき、透明ビニルシートの具合を確認。頻回の水攻撃は防いだが、終盤血のついたナイフからの飛沫を被弾。
そのくだりを思い出すと、主役(男)が他人の台詞の合間を盗んで、左手からナイフを持つ右手へ何かが移るのを見て、オ、血ノリだな、と思い手元を凝視する。と、ヒロインが帰化書類の捺印に必要な印肉を提供するため、左手にナイフをあてがい、血糊を手元で絞ればナイフの刃に沿って皮膚上を流れるという按配であった。
そんな風にドラマ外のあれこれに注意を向けながら同時進行でドラマを味わうという脳内操作がほぼ全般に亘る。自分は何を見ているのか・・・問う前に躍動する自分を感じる。

難儀な物語説明は省き、幾つかのキーワードを。
・箱師(この界隈では掏りの事)
・主役(男)は山手線でスリを重ねた過去があり、名を山手線と言う。
・床屋
・エンバーマー、エンバーミング(遺体衛生保全)。ヒロインが日本で生きるために取った資格。最後に「帰化」を要求される。
・右の二の腕の痣=蛇のうろこ(ヒロインの幼少時の秘密。“山手線”に自分が蛇姫である由来を語り、「姫」と呼ばせる)
・小倉、キャンプ城野(ここで起った黒人米兵脱走事件もモチーフの一つ?)
・小倉砂津港を出た船(母が乗った船。遺体を故郷朝鮮へ運ぶ目的だったが、母は何人もの死体に犯されたという。ヒロインはその娘。)
・母の手帳(山手線から掏られたそれを取り戻し、母と自分の過去を探る旅をしている)
・スプーン(手帳に挟まってあったもの。癲癇持ちのヒロインが発作時に加える)
・バテレンさん(幼いヒロインを知る神父、やがて信仰を捨てる)

「姫」を演じる水嶋カンナが亡き母の過去、即ち己の出自を探りながらもその危うさに恐れおののく可憐な姿は、年齢がそう見せるのか知らないが役者の奥行きを感じさせ、殆ど幻影に等しい物語世界を観客の前に肉感的に立ち上がらせた。
ラストの屋台崩しは、お馴染みの男女コンビの片割れ、申大樹が降り注ぐ水の中へ立ち向かっていく姿、その先には長い胴をくねらせ天上へ昇る大鶴義丹演じる狂える蛇の化身。蛇の夢は縁起が良いとか。
危うい滑舌もキャラとなりつつある年々テント舞台にこなれて行くかの大鶴氏、ギター芝居も達者な(名前失念)、あられもなく肌を見せるも得体の知れない役柄に収める傳田圭奈(新人として紹介されたのは十年前だったか)、その犯罪姉妹の姉の方を演じた佐藤梟(捨てるものなどないかの如き)、梁山泊と歩いて幾年月、三浦伸子、といった面々に思わず声援であった。

ビューティフルワールド

ビューティフルワールド

モダンスイマーズ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2019/06/07 (金) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★★

モダン流人間讃歌。これを観に当日券客が数十名、通路段に案内するため開演5分押させて下さい、との制作からの挨拶。そう言えば千秋楽であったと気づいて。
散々な話であり、「20周年」な要素も特に見られぬが、楽日の終演は温かい拍手に包まれた。
「まつり」的要素はドラマの中に。・・「それ」を選択可能な環境で引き籠りから人を解き放つものは何か、に答えたドラマ。散々な痴態を露見した銚子のある家族と界隈の人々の、こんな顛末は現実には無い訳で(基本はリアルベースの芝居だが確率的には低い訳で)。ラスト近くの主人公の変化からの締めくくり方は一つのファンタジーであり、アニバーサリーに相応しい幕引きに納得しながらその余韻に浸ったような事で。

ネタバレBOX

津村氏の最後の台詞、オーラスが聞き取れずそりゃ無いよと思いつつも母音がe、a、iであったので「世界」と類推し(聴覚的にはsekaiとは聴こえなかったが)大急ぎで終幕の感動に漕ぎ着けた。てな事もあったりして。
醜悪で笑える展開に40を過ぎた主人公は「自分が何も知らず見えてもいなかった」事に愕然とするが、その絶望的な気づきをバネに世話になった叔父夫婦の家を出る決心をする。
「知らなかった事の気づき」は年齢に関わらず人を前へ押し出すカンフル剤で、40過ぎでも初々しい溌剌さがあり、というよりその感覚を一瞬であれ持った自分に一縷の望みをかけるいじましさがあり、泣ける。
現代を切り取った優れた劇作。
すべては原子で満満ちている

すべては原子で満満ちている

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/06/14 (金) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★

昨年知って以来ニアミス続きのユニットと漸く相見えた。
いきなりだが、何か考えられているらしいのだが伝わって来ない理由を考えた。既成の物語の舞踊表現であればこんな感じにもなったろう形態に、オリジナルゆえにテキスト部分も加えられたというような出し物だ。まずもって客席が四面(通常の客席側のみ二列、他は一列)となっている。ところが幾何学的デザインのオブジェが4つ置かれている内の一つが柱の形状で手前にあると、まことに見づらい(私の座った席が結果的にそうだった)。柱の向こう側のエリアだけで一番手が踊る場面があり、柱には隙間があいてて様子は見えるものの、形の美しさを見せる意味合いではないにせよ、顔は見えないし不自由感この上ない。
その部分だけならスルーしてもいい。ただ、全体に動きと台詞の呟きの組み合わせられた抽象的な「形」を伝える表現において、見る場所によって図が異なる形態をとった理由が判らない。
演技が通常客席側を意識した形に見える箇所もあったが、恐らくそれが正しい。だが敢えて四面客席にした。その理由は・・開始数分後と、終演数分前のちょっとした演出にあると推察される。いやそれだけじゃないよと反論されそうだが私にはそう思えた。反則ギリギリを攻める的なその演出も「本体」あってのモノダネ、あれを仕組むための四面客席なら本末転倒。ああいう事でもやらなきゃ今の演劇は枯れコンもいいとこだ、との謂いなのだろうか。発される言葉には時折鋭い響きを認めたが、こう抽象に紛れさせては力の持ち腐れ、糠床に眠らせた拳銃を想像する。
私の角度からは、という限定付ではあるが、よく言えば隠し事の多い表現、悪く言えばワークショップでたまたま出来上がったのをさも価値あるもののように体裁を整えた表現、との印象だ。残念な初見であった。

THE NUMBER

THE NUMBER

演劇企画集団THE・ガジラ

ワーサルシアター(東京都)

2019/06/18 (火) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★

THE・ガジラの「年間ワークショップ発表」が今年は「GAZIRA S.A.T」(=サテライト)と呼称が固有名詞になり、あな嬉しやいずれ「劇団」化も視野に?と想像を膨らませたが、説明のくだりには「鐘下による実験的公演」とだけ。「発表」というレベルでないな、とは前から感じてはいたが、見合う名称をという事か?
それよりも、鐘下流の「かなぐり捨てる」演技領域にまで身体を追い込む劇が、「劇団でもないのに」やれてる事に着目すべきかも?遠未来SFの独特な世界をワーサルに作りこんだ装置、照明、演出趣向もさりながら、俳優の貢献の比重は非常に高いと感じた。作品もユニーク。

ネタバレBOX

今作はSF作品を台本に書き下ろした、一応「新作」のようである。今まで無かった特徴として、なぜか体言止めの台詞が多く、話し言葉化しきれないニュアンスを「詩」に寄せたような感じを持った。オドシに近い音響効果が「単なる場転じゃん」な箇所にも使われたりと部分的引っ掛かりがあったが、終演してみればこのソ連時代(戦前)に執筆され冷戦崩壊まで陽の目をみなかったSF小説の世界=1200年後の未来の世界に、浸っていた。
「これは隠喩ではない。この目で見た事実だ」として本人の手記を元に紹介されるエピソードは、「管理社会」を隠喩したSF作品である点で「1984」を連想させるが、風合いは随分違う。
宇宙開発競争を既に見通したかのような記述や政治的泥臭さを連想させる要素は無いわけではないが、この物語の議論は人間の権力志向の極限での管理社会化でなく、人類自身が選択した社会であるとしている点が特徴。人間は自由を求めるが、それを使いこなせなかった、との強い反省が高度な管理システム(の正当化)の下地にある。恋愛が管理主義と相容れない要素としてドラマを動かす部分など「1984」とも共通するが、物語の流れとしては(小説の出来は知らないが)こちらの方が飲み込み易い寓話である。
計画経済の優位性は東欧社会主義体制の崩壊で瓦解したとされるが、最大の弊害は「正しさ」を背景に正統化される一党独裁制と官僚制にあって、チェック機能の働かない仕組みでは「何がより適切な計画か」は判定できない、ばかりか粛清までが起きた。しかし、という事は一定の適切性が担保されるシステムがあれば計画経済も理論上は悪ではないとも...。科学文明が人類自身に差し向ける危険と、自由主義がもたらす恩恵とを天秤にかけ、どちらが人類が選ぶ道に相応しいのかを「二百年戦争」という自由がもたらした惨劇というフィクションを付加して(下駄を履かせて)議論しているのが今作であるが、どちらが正しいかは実は自明でない事を思う。
2.8次元

2.8次元

ラッパ屋

紀伊國屋ホール(東京都)

2019/06/09 (日) ~ 2019/06/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

面白い(知的)、楽しい(うきうきアドレナリン)、どこか懐かしい(バックステージネタ)、切ない(演劇界のある断面)、、、日本演劇史、殊に「新劇」をめぐっての言い尽くされたような「あるある」が、かくも新鮮に耳に響くのも2.5次元という当て馬の効果で、これは着想の勝利である。
冒頭に稽古場を訪れる高齢の「見学者」(劇団女優が勤めるスナックで知り合った)が劇団のすったもんだの風景を眺める観客に重なる第三者となり、かつ経緯から出演する羽目になる巻き込まれ展開、そして苦労の果てに成功裏に終えた公演後、夕日の射す稽古場の二階の開け放たれた窓の外を眺めながらの彼と女優との会話・・「座長にここで待てと言われて」「あ、きっとギャラを渡すつもりね」「ええ?そんな」「いや公演が成功したのもあなたのお陰。ただもう少し稽古すれば、もっと良くなる。続ければいいじゃない」と、夢でしかなかった舞台出演にかけ稽古に燃えた彼は、ふと沈思し「いや、それはやめときます。それを人生にする事は自分にはできない」・・この固辞する台詞に信憑性を感じられるか否かが、実は非常に重要なポイントで、これはくたびれた、と言えば失礼になるが新劇団の団員らが「劇団」を浮かれた気分でやっていない、やれない事情をそれぞれリアルに体現していた下地あっての信憑性でもある。大概「これきりでやめとく」なんて台詞は、本人がその瞬間どうあろうと舞台に棲む魔物の前では無力で無意味で信憑性がないと、演劇界の恐らく誰もが知るところだろうから、これを言わせても偽善的空気が流れないための芝居上の配慮が必要なのである。これをラッパ屋はさらりと言わせて、彼はそれでいいのだと観客にも納得させる要諦は、彼が精一杯これに打ち込み、舞台を謳歌し楽しんだことに尽きる。そして彼は自分の欲望の何であるかを知っており、自身と折り合いを付けて生きる事のできる強い人である。演劇を人生としてしまった人、とは他者の評価に餓え、欲しがってしまう人、であるかも知れない。それが許される特権を持つのが俳優である、とも言えるのかも知れない。
脇話が膨らんでしまった。
この定年退職組の見学者が、「ジャズが好きでね」と言うのが今回導入されたピアノ生演奏について「音楽面」で言及する唯一の台詞。そしてジャズ・テイストのBGMと、ホロリとさせるテーマソング、これを見事に歌うミュージカル女優の客演により音楽的に贅沢な出し物となった。これには文句が言えない。楽しい、面白い、ホロリ、楽しい。

『アニマの海』─石牟礼道子「苦海浄土」より─

『アニマの海』─石牟礼道子「苦海浄土」より─

劇団文化座

俳優座劇場(東京都)

2019/06/13 (木) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★

文化座をたまに観るようになってまだ数年だが、金守珍、鵜山仁といった実力者を演出に招いた時は満を持しての新作である。今回挑んだ石牟礼道子の「苦海浄土」は劇団代表佐々木愛氏によればずっと高みにあった目標、でもやるなら今と思ったという。そして初の演出は栗山民也氏。
私が観た栗山演出舞台はこまつ座と新国立劇場公演を数える程度だが、サイズ大の舞台でインパクトある美術、視覚的な構図へのこだわり、粋な仕掛けといったイメージが占める。テント芝居や桟敷童子の<仕掛け>を知った目には、正直、費用対効果的にはイマイチな印象も(調べてみたら地人会新社「豚小屋」という小劇場での秀逸舞台もあった)。
だが、こたびの文化座公演、ハコとしてはやや小さい俳優座劇場の舞台にハッとするよな美しい絵が言葉以上の雄弁さで物語る瞬間があった。最初のそれは自然の雄大さ無慈悲さを示すモノトーンの息を飲む美しさ。最後のそれは、その自然の中に人が集まり寄せ合う心が織り成す光景の見事な構図(この絵を思い出すだけで泣けて来る)。
ある構図を成すことで何かを伝え得る事を思い知らせた本作は、演出家栗山民也の力を初めて実感させられた意味で突出した作品になった。

ネタバレBOX

脚本は文化座常連の杉浦氏であるが、今作は不思議な作りである。こういう言葉を紡ぐ人であったのか・・と少々意外。「苦海浄土」のテキストが半ば導いたものだろうか。
舞台上は半抽象の美術。最奥ホリの空(と恐らく海)を臨む土手様のプラットホームから、手前へ3段程ひな壇式に下りた平らな広い台が主な演技エリアで、下手に仏壇、中央に座りテーブルのみで漁師の家族の居間を示す。そこに近隣者や姻戚の者等が行き交う。海を眺めているのだろうか、背後の土手上のラインにシルエットのように浮かぶ少女が戯れるように歩き、この存在の抽象性が、次元を超越した「語り」や、物言えぬ者の「心の声」、時空を超えた人物の交差を可能にしている。
劇にも登場する作者(を象徴する役)が水俣をみる眼差しが、水俣の風景の中に混じり行く。水俣病という事件を辿る叙事詩でありながら、どこか遠く地平線から人間の織り成す情景を俯瞰する温かな視線を感じさせる。
大部の著作から抜き出した最小限の要素を、最適な仕方で組み合せ、1時間半に凝縮した。
予言者たち

予言者たち

神保町花月

神保町花月(東京都)

2019/06/13 (木) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★

神保町花月初訪問。ナカゴー組が吉本芸人(2人コンビ×2組4名の予定が1人事故により降板)と笑う舞台を作る。降板した1名の代打が東葛スポーツ・金山寿甲だったためか浅草九劇でのナカゴー「ていで」の光景が蘇り、また予言する女(高畑)も既視感あったが・・見て行くと過去作の要素を使い回しているものの大々的オリジナル作品であった。
85分。開演前の奇妙な場面紹介から、開演後一列に並んでの・・いや触れるのは控えるが、何しろケッサク。吉本芸人を知らない私には出来る役者としか彼らは映らなかったが、客は芸人の初動に笑いを返し、頗る反応がいい。笑い声が起きなくとも皆ニコニコ興味津々とばかりに目を輝かせている。良い劇場だな・・と、後で見れば役者の半数に当たる4名(予定では)が芸人、吉本プロデュースな訳である。ファンが観客と言って過言でなく、また芸人付きのファンとは限らず花月ファンというのも居そうである(終演後の声から推測)。そんな中ナカゴーテイストが芸人の芸達者の貢献もあってしっかり客席に受け止められたという感覚に、妙な温かさを覚える。
何なら家族ドラマ的展開では思わず泣ける場面にも見えた芸人のパワフル演技、金山の気持ちイイ江戸弁の亭主役も中々見せてくれ、ナカゴー看板女優連+川上友里の変わらぬポテンシャルも快感。

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