人間と、人間と似たものと。 公演情報 TOKYOハンバーグ「人間と、人間と似たものと。」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    終ってみれば深く浸みてくる迫力ある舞台。ここ何年かの間に観たこの劇団の作品としては、日常ベースのドラマとは一線を画する象徴性・フィクション性の高い舞台で、色合いは違うが同じ座高円寺で上演された「KUDAN」(再演)が断片的に蘇ってきた。(KUDANでは人間と牛が交配して生まれた娘がその出生を由来として神秘的存在となるが、この作品でもある交配によって生まれた娘が聖性を帯びた存在となる。)
    総勢二十余名が色だけ白で統一した衣裳をまとい、円舞やムーブをしたり、記者会見での記者団や街中の通行人となったりの変幻自在も効果を上げていた。芝居の前半は演じる者だけ登場するが、後半になると全員が平舞台を四角く取り囲んだ椅子にコロス的に座り、場面が終ると椅子に帰って行く形式になる。緊迫感がじわりと増す。
    視覚的効果で言えば、広い空間の左右奥には座・高円寺の天井にまで届く透明な円筒が立ち、筒の中には赤系色の不ぞろいの風船が紐で繋がって照明に浮かんでいる。カエルの卵のようなそれはゲノムかニューロンか、生命の神秘を象徴して大きな効果を発揮。
    生命とは何か、人間とは何か・・このテーマを巡り作者はユニークで壮大なフィクションを立ち上げた。最後には拳銃まで登場し活劇要素もあるがその扱いは人物に即して必然性がある。人物関係図は入り組んでおり完全に理解したように思えないが(矛盾も幾許かありそうだが)、思考が彷徨した末に到達した場所は、思えば遠くへ来たもんだと思えた。架空の設定(人類が間もなく途絶える)が最後には解決し、大団円が描かれるが、戯曲的にはマッチポンプである顛末が、何故かそぐわしく感動的である。

    ネタバレBOX

    「終ってみれば」良い舞台だった、と書いた。というのは、途中大きなストレスがある(この点も「KUDAN」と似ている)。
    この戯曲には現実の素材が一つ、がっちりと組み込まれていて、それがフィクションの全体を構成する要素としては違和感があるのだ。現実の素材とは、新疆ウイグル自治区の人権抑圧の状況だ(執筆の動機は恐らくこの事実だろう)。

    最初の場面は、近未来。ある少数民族の殲滅のために開発された、人間の生殖機能を奪うウイルスが大地震によって飛散し世界中にばら撒かれた事件後の時代となっている(子孫を残せないので今生きているのは一定年齢以上という事になる)。
    冒頭は重要発表を行なう記者会見、「人間が誕生した」との発表に記者らどよめく。場面はその発表を行ない、人間(クローン技術の応用?)を生み出した研究所に移る。そこにはクローン技術で生まれた「不出来な」人間が登場しており、彼らは研究者である所長の思い入れが反映しているようでもある。現在所長に不審な噂があるが、ネタバレすれば臓器売買で資金を得ていた。この博士(及び共同研究者の天馬氏)にはもっと黒い過去があるのだがそれはさておき、先に殲滅のターゲットとなった民族はミジクス人(確か)と言い、後に繋がりが判明する新疆ウイグル自治区に居住するトルコ系イスラム人が、これに重ねられる事になる。その繋がりとは、研究所で生存する2体のクローンに移植された臓器(もしくは2体のクローンの基盤となった細胞組織)が、ウイグル自治区で弾圧を受けている民族の男女二人に由来する、というものらしい(後半ようやく関係図が見えてくる)。
    だが、この「繋がり」が判明するまでは、自治区での人権弾圧の状況がただ描かれて行く時間が流れ、座りが悪い。弾圧の主体は現実にある中国政府、抑圧側の漢民族という名詞も何度も登場する。ここには、香港市民とそれを押さえ込む中国の国家権力を目の当たりにした、戯曲執筆者の直裁な感情が反映しているのでは・・と想像したりもしたが、この場面の最後、収容所で犠牲になる二人の男女にスポットを当て、荘厳な音楽で閉じ、次の場面へと移る。この最大級のスポットも、この時点ではその理由がよく判らず、戸惑う。犠牲となる二人の対極には現実の中国政府が存在するのだ。実在の固有名詞を批判の的にする場合、批判を発する場所、スタンスが重要で、日本は世界第一の侵略国アメリカに付き従い、自国民の捕虜まで見殺しにした首相を頂く国であり、近代史最大規模の殺戮を自国民が行った事実と向き合えない国である。
    フィクションと、現実が繋がる話を作者は恐らく書きたかったのではなく、その意味で本作は未完と言えるように思うが、私はただ固有名詞を架空の呼称に置き換えるだけで解消できた問題ではないかという気がする。
    もっとも、劇中人物が時代と場所を隔てて一つの線で繋がってみれば、一度覚えた違和感は記憶の隅へ追いやったが、それでも自治区を訪れた日本人の「劇外」での独白が2019年のものであったり、今確認できる事実を基に組み立てた場面と、どのくらい先か判らない未来の場面が、何年規模で「繋がって」いるかは飲み込みづらいくはある。

    チベットの抵抗と弾圧は比較的知られているが、新疆ウイグル自治区の状況は近年厳しくなっているというのは本当らしい(この芝居を見て調べてみた)。収容所に100万人が収容されているという話も。このトピックだけで一つの舞台ができそうだ。この芝居は融合しそうにない二つを合わせて一つの舞台を作る挑戦の果実で、異色で不具合もあったが、終ってみれば愛らしい作品に思える。
    それ自体何であるかを説明できない生命、自分にとってそれが何であるかを言葉にできない生命・・。しかし人が人を自分の都合で思い通りにしようとする欲求はなくならず、争い傷つけあうという事態が規模や形を変えて常に生起する。その時、「生命とは何か」という問いはどういう力を持つのだろうか。(100%純粋な問い)

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    2019/11/10 01:45

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