満足度★★★★
『奇ッ怪』第一弾より断続的に十年、世田パブ+前川知大シリーズ第4弾の今作は和モノを離れ、イキウメの本領たる現代/近未来劇。劇団役者も5名が出演。もっとも今作はギリシャ悲劇がモチーフで、今回は和から洋に軸足を変えたと、ポストトークで聴いた。方面に疎い自分は気づかなかったが、前川氏の水を得た如く流れるセリフを心地よく聴きながら、劇はこれまでなかった領域に踏み込んだと感じた。扱う時空のスケール感(壮大な美術も貢献)とそこに人生を重ね合わせる視点はギリシャ悲劇を下敷きにしなければ生まれ出たなかったのやも。
変化のバロメータと感じた一つは、しばしば安井順平が担う、「不思議」と遭遇した時の「笑」のニュアンスが省かれ、事象そのものを重みをもって展開させていた。
とは言え「不思議」領域に人間が遭遇する瞬間の描写はイキウメの技が光る所。不思議を迎える側である「日常」は、この芝居では主人公の青年の父母と幼馴染みとで訪れたキャンプ場。ここから主人公は後半、時空を次々と遷移する。引き籠りの主人公の設定は、解決すべく提示された課題なのか、彼を用いてある世界を描こうとするのか・・。
この劇では「不思議」は主人公の青年の身にだけ起こる。周囲はコロス的に立ち回るため(一人二役もあり)、事象は実は青年の心的状況の反映とも解釈可能となるが、基点となるキャンプ場は、主人公が戻っていく現実世界の象徴としてある。
ラストには議論があるだろう。割り切りよく離婚していく父母、もはや彼の前にいない中学時代の「彼女」、それぞれ自分の道を行く二人の幼馴染み。町に一人残る主人公が一人で立たざるを得ない状況が「準備」され、彼は自分と世界に向って叫びを上げる。己自身で立つ決意の瞬間に訪れる身震い、不安と怖れ、打ち寄せる己の醜き過去が去来する。
だが孤立した者が荒れ野で上げる咆哮は、全力でそこから逃れたいと願う叫びであり呪いの声。彼の自己評価への捕われから解放するのは自分自身しかいないが、真に立とうとするのは、寄り添う人間がいること(一人でない事)を真に確信した瞬間ではないだろうか。状況が彼を自立させんとしたこの芝居のラストは、今は行方の知れない「彼女」に本当は「もう一度会いたい」と願う心の声を示すことで完結したはずではないか(終幕前「アン(元彼女の名)を探すのか」と幼馴染に訊かれて彼はその意思を否定するのだ)。彼は自分の過ちを抱えて行く、といえば聞こえは良いが、何らかの形で過去と向き合う事へと主人公を向わせないならば、この劇で展開した事象は何であったのか・・との感はいささか残る。