社会の柱
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2020/02/21 (金) ~ 2020/02/26 (水)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2020/02/23 (日) 14:00
座席RB列31番
まずは「社会の柱」というイプセン作品を舞台で観られたことには感謝したい。
イプセン作品の上演に特化したシリーズか、あるいはこうした研究生公演のような、実験的・メモリアル的な舞台でしか上演されることはないであろうから。
研修生の皆さんの演技について言うと、主人公の13期生宮崎隼人によるカルステン役の頑張りは認める。しかし実際の舞台は、その敵対者、同調者たる周辺の人々を、ヨーハン役の河野賢治を除き、すべて修了生が演じることで舞台が安定するといった結果になった。主人公の懊悩や欺瞞が席巻して物語が進むのではなく、周囲の演技によって、主人公の性格や言動が増幅され、彼がこれから犯すであろう過ちの恐ろしさが際立っていく展開だ。要は、主人公役と周辺の役柄との技量の差が、如実になっているということ。ヨーハン役の河野賢治の、ルステンに対する抗いや怒りの熱量も決して高くはない。
古川龍太、原一登ら商人の驕り、椎名一浩の偽善、小比類巻諒介の狼狽、野坂弘の抵抗、それらがルステンに人間としての血肉を供給している。
13期では、大久保眞希演じるローナ、姉さん肌の気風の良さは、賞賛もの。彼女の語る過去、未来そして現在は、周りの空気をしばしば躍動させる。
銘々のテーブル
劇団キンダースペース
シアターX(東京都)
2020/02/19 (水) ~ 2020/02/23 (日)公演終了
満足度★★★★
二幕劇。
説明文を読むと、何か不遇な作品のようにも思われるが、実際はロンドンでの初演が726回のロングランとなり、ニューヨーク公演も実現。映画化(邦題「旅路」かなり評価は高い)もされている、テレンス・ラティガンの代表作である。私は舞台初見で、映画は未見。
ホテルで起こる2つの事件。とはいっても、よりを戻そうとする元夫婦の話と、小心者の退役軍人が自らの不評から名誉回復する話。それぞれの話には、1年半以上のブランクがあるらしいのだが、登場人物(宿泊客やホテル従業員)の大半が同じということ以外に関連はない。
本来は、1幕目の美人で勝気なアン(元妻)と2幕目の臆病者で内気なシビル(退役軍人に恋心を抱く)、1幕目の虚勢を張り勝気なジョン(元夫)と2幕目の卑屈で虚言を吐くポロック(退役軍人)を、それぞれ同じ女優と男優が演じるという興趣があったそうなのだが、今回の舞台では実現していない。(うまく、この主人公たちは登場場面が各幕で入違っている)これは観てみたかったな。
とはいえ、アン役の榊原奈緒子さん、シビル役の古木杏子さんは出色の出来で、それぞれの配役で各幕を牽引しており、相手方男優の印象が薄れるくらいに痛烈な印象を残していた。まさに役者がその役そのものであるように。
そして、ホテルの支配人ミス・クーパーを演じる瀬田ひろ美さんの、節度と哀切の入り混じった人物像もよい。宿泊客が主人公となるホテルにおいて、ジョンの婚約者として、ポロックの陰ながらの擁護者として、ほとんど他の登場人物に顧みられないのがかわいそうなほどの慎ましさがしみじみと心に残る。
副題「あるいは孤独に向かって」、これは宿泊客全員に捧げられている。言いえて妙。
皆孤独だけれども、けして皆孤立しているわけではない。2幕終わりでしみじみとそれを見せている。ラスト、食堂でのポロックの嬉し恥ずかしの仕草、シビルのきっぱりとした母への抵抗、それらを遠目にそしてほんのり温かく見守る登場人物たちに、この舞台の創作意図が見て取れる。
彼らもまた、わが息子
俳優座劇場
俳優座劇場(東京都)
2020/02/07 (金) ~ 2020/02/15 (土)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2020/02/13 (木) 18:30
座席12列22番
アーサー・ミラーは人間の欺瞞を、正面から描き切る作家である。登場する人物は、何かに自身の価値観を依拠し、自らの行為を正当化し、自己の責任を回避する。それを暴くのは、ただ事実のみ。事実が虚栄を剥がし、逃避を遮る。
彼の描く欺瞞は、善悪の対象でもなければ、弱さへの非難でも、ましてや自己の復権への機会でもない。ただ、そこに現出し、時には人を滅ぼし、時には人を排除する。
舞台に終始転がっているリンゴはそのうち腐り果てるだろう。まるで登場人物1人1人を象徴するように。だから、リンゴは顧みられこそすれ、けして片づけられないのだろう。
恐ろしい舞台だ。
燦々
てがみ座
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2020/02/07 (金) ~ 2020/02/16 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2020/02/12 (水) 20:00
座席E列5番
評価というのは難しいな。作品全体として観て、なるほど!やったね!すばらしい!と、十分に唸らせてくれる作品に出合うと、多少のことは目をつぶってでも★5つ、ということになる。しかし、そうして評価した作品と比べて、あらゆる面で評価は上回るにもかかわらず、どうしても1点これはダメかな、と思う点があると減点せざるおえない。
この作品、役者、演出、美術、装置、音楽等々、他の方々の評を待つまでもなく、十分に唸らせてくれる。躍動と抑制、破格と均衡、追求と放埓、陰影と炎熱、とにかく人間の内面劇にも拘らず、舞台は大きくうねる。とても良い。
ただ、足りないのは主役である。
この物語の屋台骨は「葛飾北斎」である。娘の栄の物語ではあるが、その栄を描くには、まずは北斎がいかなる人物であり、彼女に何を与えたのかが
描かれねばならない。今回の酒向芳をして、この屋台骨は堅牢でしたたかで、傍若無人で押しが強くて申し分ない。
周辺の絵師、花魁を含めた廓の人々、商人、市井の人々、演じる役者は中堅若手から男女まで芸達者で見誤ることなき強固な脇だ。
さて、そこで主人公栄の演技である。もう何をやっても良い立ち位置で、栄の激情と内省をとことんまで突き詰めてよいはずなのだけれど、この舞台の栄はただの町の小娘に過ぎない。女として蔑まされることへの忍従、内から湧き出てくる抗えない意欲、盲目になり周りを振り回す激情、何かに憑かれたような猛進、もっともっとというような何かが表現されていない。それを演ずる舞台が整っているだけに、もったいない。役者としてこんな機会は滅多にないのに。役者が抑えてのか、演出が抑えたのか。そもそもそれを演じ切るだけの力量が主役になかったのか。
石村みかがあと10歳若ければ演じきったろうと思われる役(否、もちろん今でもよいのだけれど)、ああ、ああもったいない舞台だなあ。
そう、観たかったのは、フライヤーに描かれた神々しいまでに狂った栄なのに。
サイレンス
神奈川県立音楽堂
神奈川県立音楽堂(神奈川県)
2020/01/25 (土) ~ 2020/01/25 (土)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2020/01/25 (土) 14:00
2016年末に、東京文化会館でオペラ「眠れる美女」を観劇したことがある。この時は、日本・ベルギーの友好150周年を記念して上演された。長塚京三と原田美枝子が日本語パートを、オペラ初挑戦で務めるということだった。新作ではなく、果たして過去に日本語パートなるものが存在していたのかどうか、それなりに川端康成の原作をよく咀嚼していたと思った。しかし、一方で日本語パートとベルギー語パートでは、どうも美術、演出共に乖離が見られ、前者ではあくまでも日本的な様式美を追求しながら、後者では神話的な装飾が施されており、双方のセリフの受け渡しに多分な違和感を覚えたのを記憶している。
さて、今回も川端康成オペラ、新作である。「眠れる美女」しかり、この「サイレンス」しかり、西欧人は川端的な美意識が好きなんだな、と思う。むしろ現代日本人には、この美意識(他に、谷崎潤一郎や三島由紀夫を加えてもよい)は、どう感じられるのだろう、相当な違和感はないだろうか。
上演はフランス語。最近、シアターXでは字幕上演をやめたのだが、本作品だとタイトル通りのオペラなので寝入ってしまってもおかしくないだろう。とはいえ、字幕のみならず、舞台後方に投射される登場人物の心象風景も追いながらの観劇は結構忙しい。それはそれで、サイレントなオペラは疲れを招き、睡魔を誘うのだが。
観ていて、けして悪い作品というわけではないが、鎌倉の奥地にフランス人がたむろする違和感と、なぜオペラなのかという手法への疑問とが渦巻き、うーんと唸る1時間そこそこ。何を見せられたのか。キョトンとするだけ。
イヨネスコ『授業』
楽園王
サブテレニアン(東京都)
2020/01/21 (火) ~ 2020/01/26 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2020/01/22 (水) 20:00
左右ほぼ対称の部屋、授業がそれぞれの部屋で行われる。
開演と同時に、上手の部屋では長い手錠をした白い衣装の女性がうつぶせで倒れている。
戸惑う教授、それを諫め落ち着かせながらも、手際よく死体処理の手はずを整える女中マリー。この舞台の主役は、マリーである。そうか、毎回、「授業」を観るたびに不思議に覚えていたマリーの所作。これをどう舞台上に位置付け、演技を構築するかが肝なのだと、今回初めて思った。だから、公演毎に毎回マリーは舞台の違うところにいるのだ。
でも、こんな展開だったっけ?こんな話だっけ?
その後、舞台の下手で、生徒と教授の授業が展開されるのだが、、、
神の子
株式会社コムレイド
本多劇場(東京都)
2019/12/15 (日) ~ 2019/12/30 (月)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2019/12/21 (土) 14:00
パンフなんて買っても、ゴミになるだけだよ。
判っちゃいるし、そうした経験もよくあるのだけれど、観劇後の食べ過ぎ、胃もたれを解消するために、やはりどうしてもパンフレットに頼らざるをえないことがある。とにかく、何かの力を借りて解題が必要なのだ。演出家や出演者、脚本家の声、評論家の文言、舞台の歴史的背景、脚本の来歴、公演の歴史などなど。
買いましたパンフ。そこから掬い取ったのは、そうだよね、赤堀雅秋さんの作品なのだよね、というただそれだけで腑に落ちたという安心感。どうしようもねえーなー、まったく。ということかな。
もう一つ印象的だったのは、出演者たちが悩まし気に語る「神の子」というタイトルの解釈。その咀嚼の仕方が、十人十色で面白かった。赤堀氏との関係や、役者経験、舞台経験で異なるアプローチ。悩んでいるとは言えないけれど、それなりに気にはしているみたいで。
「誰もが神の子」というのが正解か、それともそんなもんだろう、ということに思う。
舞台転換と、役者の導線の使い方が見事。奥行を生かした前後・裏表の役者の動きと、舞台脇から中央まで舞台装置を広く動かす移動の妙。
とにかく役者が「生きている」と感じさせる演出は、静けさの中でする心音のような微妙だけれど確かな力を感じさせる。よいなあ江口のりこ。
Andorra
アンドラプロジェクト
サブテレニアン(東京都)
2020/01/15 (水) ~ 2020/01/19 (日)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2020/01/18 (土) 18:00
開幕と共に、渡部朋美の甲高い笑い声。この声によって、終幕まで異様な不快感に悩まされ続けられる。(これ、褒めています)その声を発する兵士の死んだ魚のような眼と、無機質でありながらただただ腐臭めいた存在、いつその沈黙が崩れかねないという危うい暴力性の胎動。なんともはや、この物語に潜む差別とプロパガンダの醜悪さを、全てこの兵士は体現していたのだな、と終焉後に思い至る。その意味では、この舞台でストーリーを追うことの無意味さを、バイリンガル演劇という実験を、確固たる演劇として成立させていたのは、この兵士なのだ。
舞台上の演劇自体は、何とも終始取っ散らかっている感じが否めない。これはこれで、兵士に表象された意図的な不快とは異なる、何とも観客にとって居心地の悪い不快。
脚本がよいものであることは、すぐに判る。
ただ、演者がたびたびセリフに詰まったり間違えたり、あまりにつたない演技と姿見も見ないで出てくる役者気質の欠如を目の当たりしては、ただただ断続的な失望を感じざるをえない。物語へ浸潤しようとする私の意識は、そのたびに無味乾燥した空気に晒される。舞台が殺風景な空間に化す。
この原因は、けして、ハングル語と日本語の混合が生み出したものではない、演出か役者の力量か、何かが足りないのだと思う。
さて、描かれる物語。それはプロパガンダによって、差別・排他を正当な慣習として受け入れる民衆の醜さだ。アンドリのユダヤ人としてのレッテルは、彼がユダヤ人ではないという事実によって報われはしない。それは、愛する者と結ばれる方途を完全に閉ざすものだから。アンドリの存在は、社会生活で人間が病まざるおえない差別という宿痾の象徴なのである。
妻鹿有利花の演技は鉄板。停滞しがちな舞台のよい潤滑油となっていた。ローティションの関係で、小八重智の演技が観られなかったのが残念。(シルエットのみの出演)
菅沢晃はちょっと、どうしちゃったのかな。何か足りない。
KUNIO15「グリークス」
KUNIO
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2019/11/21 (木) ~ 2019/11/30 (土)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2019/11/27 (水) 11:30
座席1階F列2番
杉原邦生演出となれば、歌舞伎を傾く「木ノ下歌舞伎」的な演出を期待する私。さて、今回もさもありなんや、と思って拝観する。
「グリークス」の日本公演自体が、まだ3度目ということで、私は作品自体初見。「勧進帳」や「東海道四谷怪談」という歌舞伎演目の定番、あるいはシェークスピアの「マクベス」や「ハムレット」といった代表的な古典作品となれば、ストーリーを知るだけに、どのように傾いたのかは自明なのだが、「グリークス」となると、ちょっと判りづらいなあ。
冒頭、学ラン生徒の世間話から開演したところで、こうきたか、と得心。その後、コロスによる物語背景の説明があって、アガメムノンのトロイアへの出陣の場面へと移る。舞台背面は松羽目。アガメムノンやメネラオスの衣装は、一見ギリシア風だが、ズボンなどは袴の趣。
アガメムノンに呼ばれた妻クリュタイムネストラと長女イピゲネイアに至っては、結婚祝いで、頭に伊勢えびを括りつけた、真っ赤な奴衣装。ちょっと周囲から浮いているけれど、驚かされたのは事実だ。
しかし、こうした杉原邦生演出は、第一部「戦争」を通じて空回りする。というのも、第一部は、トロイア戦争というギリシア悲劇の骨格をなす事変を描いているので、その基調できっちりとギリシア悲劇が演じられているからである。サングラスを着けたヒップホップ調の歌も、着物姿や現代風な装束も、そして砕けた言葉遣いも、雨宮良や小田豊、外山誠二を中心とした古典芝居と、コロスの移ろい様から浮いてしまう。一方で、彼らの演技に対して、力量が離れた演者がいたのも事実で、ギャップで見せようにも、ただグダグダしてしまっている。
第二部「殺人」に至っては、その凄惨な内容が全編を通じているため、なかなか傾ききれない。言い換えれば、第一部、二部では、それだけ堅実で上質な芝居がなされているということでもあるのだけれど。(傾ききれないほどに、魅せているということ)
それが、第三部「神々」となると、かなり杉原邦生演出がこなれてくる。贖罪、悔恨、救済、そして神々との交感という感性のベースが強くなると、舞台全体が調和を保つようになり、ラップも革ジャンも、白衣に緋袴も紙重も違和感なく受け容れられるようになる。
安藤玉恵のぶっちゃけ感と、松永玲子の力強さと脱力感、そして石村みかの情念としたたかさ、このあたりの女優陣が、コロスとしても脇としても中心としても、とてもよく芝居を締めていたと思う。(まあ、力量だね)
でも、アガメムノン~オレステイア、トロイア戦争の話は好きだな。歴史的には遥かに敵わないけれど、歌舞伎を観るような心地よい不条理感がある。
あの出来事
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2019/11/13 (水) ~ 2019/11/26 (火)公演終了
満足度★★★★★
座席1階B2列6番
2人芝居という意識が強かったので、舞台スペースの広さにちょっと驚き。開幕して、そうか合唱団がいるんだ、と首肯。
2011年にノルウェーのウトヤ島で起きた、極右青年による銃乱射事件を題材にした舞台。
インスピレーションによって創作された本作は、事件とは別物であるが。
話は、多国籍・多民族の老若男女で構成された合唱団を指導するクレアの苦悩を軸に展開する。彼女は眼前で、合奏団員を銃殺されるが、彼女自身は生き残る。彼女はシンさんという合唱団員と2人きりになり、銃撃犯の青年はその2人に問いかける。銃弾は残り1発。「どちらが撃って欲しい。」
クレアは指導者を続けるが、自らの傷を癒すために、死んだ者たちの鎮魂のために合唱隊を指導するようになり、合唱の楽しみを失っていく。クレアには、犯人の青年と向き合うしか生きる方向が見いだせない。南果歩演じるクレアの混乱、動揺、不安定、懐疑、失意、がその身体そのものを通じてうまく表現されていた。
小久保寿人という役者さん、公演情報(フライヤーやHP)を観た時には、誰だろうと思っていたのだけれど、ああ、確かに知っている。「メゾン・ド・ポリス」の印象がとにかく強い。その冷えきった眼力、狂気を垣間見せる口元、メリハリのある身体性。小劇団出身だと勝手に思っていたが、埼玉ネクストシアター出身とは。
この舞台、彼は銃撃犯の青年を主に演じているのだけれど、それ以外にも、クレアの女友達、恋人、政治家、医者、学校教師(だったと思う)などを演じ分けている。その役柄転換のタイミングの図り方は天性の物だろう。演じ分けられる演技力があればよいというものではない。これらの人物は、クレアの記憶に登場する人物である以上、クレアの心象風景に違和感なく入り込んでいかななければいけない。これが実に巧みだ。
そして、何よりも犯人の青年像を、登場シーン、準備のシーン、殺戮終盤のシーン、クレアとの邂逅のシーンと、多角的に情動的に演じきっている。異民族殺戮のために、バイキングになろうと、アポリジニになろうとする際の、独白の高揚感はこの芝居の1つの見せ場だ。とてもよい俳優だと思う。今後、注目。
孤高勇士嬢景清(ここうのゆうしむすめかげきよ)―日向嶋―
国立劇場
国立劇場 大劇場(東京都)
2019/11/02 (土) ~ 2019/11/25 (月)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2019/11/22 (金) 12:00
座席1階5列9番
「大仏殿万代石楚」の一、二段目を簡潔にして、四、五段目を省略、三段目「日向島」を中心に構成し直した通し狂言。
二幕目から登場の景清は、その名に轟く勇猛果敢な出で立ちで、数多の景清伝説に違わない暴れっぷり。ざんばら髪になったところからが見せ時で、太刀を持たずとも、その腕力にものを言わせ、数多来る武者どもをちぎっては投げ、ちぎっては投げ。しかし、頼朝へ迫るもそれまで。
と、ここまではまさに荒事振り。頼朝からの士官の誘い、頼朝の寛大な態度に心打たれながらもそれを断り、自らの怒りを封印するとして両目を抉る。
数々の景清物に出てくる、剛毅で人情に篤い「男」景清なのだけれど、三幕目から和事風に場面転換すると、物語のトーンが全く変わってくる。(まあ、歌舞伎の通し狂言では、よくあることではあるが)
四幕目に、景清再登場。盲目となり乞食をしている景清。そこに景清娘の糸滝が訪ねてくる。ここが「日向島」。生後離れ離れの父親に会い、身を売った金を携えて父の窮状を助けようと思い来た糸滝、それを知らぬ景清は糸滝に自らの立場を気遣わせまいと彼女を思いつらく当たり追い返す。しかし、残された大金と共にあった文書から、糸滝の身売りを知った景清は、景清を監視していた隠し目付からも諭され、頼朝の下に糸滝ともども帰順を決意する。出立する船に皆が乗り、舞台奥から前面にせり出してきてEND。
って、景清って何て要領悪いの?あるいは、困ったちゃんなの?(確かに、こうしていろいろ拗らせちゃう人物像は、歌舞伎演目に多いのだけれど)結局、頼朝に仕えるなら、両目抉る必要ないし、糸滝身売りすることなかったし。初めからそうしろよって話でしょ。
歌舞伎十八番の「景清」他、観劇はないが同「関羽」「鎌髭」などに出てくる豪放磊落、天下無双の剛力、義理人情に篤い好漢としての景清とは、どうも趣が違う。
そうした景清像を期待していたから、三幕目以降の地味というか、盛り上がりがない展開が、どうも物足りない。景清親子の対面こそ、やや心打たれるものの、親子としての背景が、この舞台では全く描かれていないので、景清の気持ち、糸滝の気持ちに寄り添うことができずもどかしい。せっかくの通し狂言なのだから、もう少し他の景清物もアレンジして、静と動、柔和と剛毅、繊細と大胆、メリハリのある筋立てにして欲しかったと思う。
インコグニート
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2019/11/12 (火) ~ 2019/11/24 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2019/11/21 (木) 14:00
座席1列4番
病理学者トーマス・ハーヴェイ、脳疾患者ヘンリー、臨床神経心理学者のマーサ。それぞれを、志村史人、野々山貴之、安藤みどり、が演じる、超時空間軸の脳と記憶の物語。
保亜美は、さながら1人コロスか時空を跨ぐ観察者か。
そもそも、脳って何をするところ?脳が記憶や認識のすべてを仕切っているの?記憶は本当にアイデンテティを司るものなの?そんなことを考えさせながら、個として生きる人間について洞察する芝居。
こういう脚本と、こうした演出、このような演者に出会える喜びは、そうなかなかない。
説明書にはほとんど興味持たずに、タイトルだけに興味を持って観に行った。「何者でもない者」
意識的、無意識的にかかわらず登場人物たちが翻弄される「脳」の存在。3つの物語が錯綜ながら、そして交わらずに進行していく。
場面転換を演技だけで行い、4人21役で進行する舞台は、テンポといいリズムといい、とても心地よい。それも、ちょっとした驚きを小刻みに招きながら。例えば、30歳ぐらいのジャーナリストが、突如80歳の脳疾患者に変わる瞬間。何かが憑依したように、場面が変わる。
保亜美さんが、アフタートークで、この舞台は終わった後に、しばらく自分を取り戻すのに時間がかかる、という旨の話をしていたけれど。さもありなん。それくらいの技巧と熱量を要する芝居なのだから。
世界はあまりにも
劇団 脳細胞
アトリエファンファーレ高円寺(東京都)
2019/11/20 (水) ~ 2019/11/24 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2019/11/20 (水) 19:30
座席2列
冒頭1冊の小説が紹介される。ミステリーかサスペンスらしいのだが、ある1人の女性が自殺か他殺か分からないが死亡した。その死因を巡って「根源的欲望」についての会話がなされる。
人間には根源的な欲望というものがあり、裸になりたいといった馬鹿馬鹿しいものから、人を殺したいといった物騒なものまで、それは千差万別である。しかし、その根源的欲望に安易に身を任せてしまうと人は生活に支障を来すので、反社会性が強い欲望、あるいは自身の生存を危ぶませたり(例えば自傷癖)、犯罪性のあったりする欲望(例えば盗癖)であればあるほど、強い制御心でそれを抑え込んでいる。しかし、この根源的欲望が、他人に憑依したらどうなるのか。制御心がない状態であるから、簡単にその根源的欲望に身を任せてしまうだろう。
実はその女性が死んだのは、ある人間の自殺への根源的欲望が憑依した、あるいは人を殺したいという権限的欲望が他者に憑依したということがわかってくる。
実はこの小説の内容自体が、本来この舞台「世界はあまりにも」の原型だったらしい。(と、パンフレットに書いてある)
しかし、この舞台のストーリーは全く違うものとなった。(顛末はパンフレットをご覧ください)
そもそも、この「根源的欲望」が憑依するといった逸話がこの舞台本体のどこにフックしているのかわからない。2つの家族の話なのだけれど、誰かの「根源的欲望」が誰かに憑依しているとは思えないし、、、、、
ある富裕な4人家族(A)が、毎年2週間だけ別荘で過ごしている。夫婦と長男、長女。この別荘には、電話もテレビもなく、携帯の電波も入らないので、車で移動する以外には外界との接触が全く断たれている。長男の友人が、家事の手伝いのアルバイトとして同行している。
そこに、車が故障した4人家族(B)が助けられるように別荘に招かれることから話は展開する。こちらの家族も夫婦と長女、長男(子供の年齢序列がAと逆)の構成である。
外では、台風一過による大嵐、外界と隔離状態のその一夜の物語である。
8人の女たち
T-PROJECT
あうるすぽっと(東京都)
2019/11/13 (水) ~ 2019/11/17 (日)公演終了
ローマ英雄伝
明治大学シェイクスピアプロジェクト
アカデミーホール(明治大学駿河台キャンパス)(東京都)
2019/11/08 (金) ~ 2019/11/10 (日)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2019/11/10 (日) 17:00
座席7列11番
恒例のMSP、今回は「ジュリアス・シーザー」と「アントニーとクレオパトラ」の2本立て。実際には、前半と後半として上演することで、一本の「ローマ英雄伝」としているのだけれども。
どんなジュリアス・シーザーが演じられるのかと思ったが、毎年感じる学生演劇の壁、やはり相応の年輪が感じられないのが、ちょっとつらい。他の元老院議員や長老たちも同様に。
(とはいえ、かなり嵌っている人もいたので、それはそれでよかったのだが)
前半はブルータス役、後半はクレオパトラ役が見どころ。それぞれの気品と苦悩をよく演じ切っていた。バンド演奏も舞台進行の抑揚をうまくコントロールしていたし。
まあ、一種の学生による研究成果発表であり、あまり細かいことを言っても始まらない。ただ毎年、一見の価値はあるなあと感心している。
昨年は未見だったのだけれど、今年は先着順に座席指定できるのはよかった。早く来て時間を有効に使えるしね。
戦時下の初稿版完全上演『女の一生』
ドナルカ・パッカーン
上野ストアハウス(東京都)
2019/11/06 (水) ~ 2019/11/10 (日)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2019/11/08 (金) 13:00
座席1列
森本薫「女の一生」の初稿版の上演とのこと。戦中に書かれた、国策高揚のための戯曲ということなのだが、いささかどうして、家族の不確かさ、女性の能力賛美、日中新時代の到来(まあ、この点は大東亜共栄圏賛美ともとれるのだが)等と、今の視点から見てもかなり開明的だ。現代の視点で語られる戦中・戦前というと、家父長制に象徴される封建的な社会構造、男尊女卑的な家族構造、軍事先鋭な国家体制と、かなり閉鎖的・強権的な暗いイメージが多いが、主人公布引けいの生き様は溌溂として戦争の暗澹たるイメージは微塵もない。(まあ、そうして敗戦色を消し込む意図もあったのかもしれないけれど)自由闊達、聡明で力強い女性像は、まさに現代でも求められるものである。
内田里美が主人公を好演。少女期から初老期まで、利発な女性像をブレなく演じ切る。そして、その才故に家族の絆を失っていく深い悲しみを湛えながら。
けいの娘役を操り人形(かなりシュールな)に演じさせたり、男役を女性に女役を男性に、部分的に転倒させたり、部分部分で独特な構成を盛り込みながらも、全編を通底する人間賛美のトーンは、演出家が真摯にこの古典と向かい合った賜物だろう。そして向かい合う覚悟を決める意味で、初稿である必要があったのだと思う。
「誰が選んでくれたのでもない、⾃分で選んで歩きだした道ですもの。間違いと知ったら⾃分で間違いでないようにしなくちゃ」よいセリフだなあ。一緒に観た母親が、感涙しかけたのもよく解る気がした。
ただ、3回目の公演しても、一部でセリフに詰まったり、空気が澱んだりしたのはちょっと残念。リカバリーに苦労している様子は観ていてつらいものがあった。
ドイツの犬
演劇企画体ツツガムシ
シアター風姿花伝(東京都)
2019/10/31 (木) ~ 2019/11/11 (月)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2019/11/04 (月) 13:30
不思議なもので、舞台というのは、時として人種、国籍、言語、宗教、習俗、時として性別までも超えてしまう。これは映像文化ではちょっとあり得ないことで(舞台映像を除き)、映像に張り付けられた時点で、全てが嘘になってしまうからだ。
この舞台もそうで、第二次大戦、占領下のパリを舞台に、フランス人とドイツ人、ゲシュタポとレジスタンスという対峙を、無理なく自然に、当時の情勢を豊かな想像力をもって描き切っている。
まず、日本人がこの脚本を書いたというのが驚きだ。ナチズムを描いた日本人作家というと、劇団チョコレートケーキの古川健がすぐに思い出される(「旗を高く掲げよ」「熱狂」など)が、いやはや、劇団ツツガムシのも素晴らしい。
私は創作品に、常にテーマ性を求めるのは違うと思う。ましてや、現代性なども。でなければ、古典というものは常に改変されなければならないし、映像作品などは再鑑賞の意味はないだろう。
この作品には、ロマンチシズムがある。友情、恋愛、親子、郷愁、羨望、嫉妬、悔悟等々。
これらを、ある状況下で表現したとすれば、また優れた作品だろう。アフタートークで日向十三ご本人が、現政権下でこそ、この舞台を上演したかったと仰っていたが、政治的な意図は全く感じなかった。(その意味では、古川健の「熱狂」の方が、よっぽど政治的な解釈を読み取れる。)
海外をモチーフとした舞台を演じる時に大きな壁となるのが、言葉の問題である。同一言語を話すのであれば問題ないが、この舞台のように、ドイツ語とフランス語が交錯する場合、その「通じなさ」をどのように表現するか。この点では、最近観た劇団文化座の「地にありて静かに」(ドイツ語と英語)よりも、すっきりとうまく処理していたと思う。ある部分をフランス語で話し、ここからはフランス語ですよ、というサインが効いているのが良いし、日本語で話しながらも、どちらかの言語が通じない人物が怪訝な表情で対応するなど。
ただ、ラストの20年後の話や、ラストの3人の回想はどうだったのだろう。ちょっと弱いかな。というのも、幼馴染の3人の友情の話よりも、高川裕也演じるゲシュタポと浜田学演じる元ボクサーの友情の方が、奇妙で濃厚に感じたから。(そう、映画「大いな
る幻影」のエリッヒ・フォン・シュトロハイムとジャン・ギャバンのような)
まあ、どちらにしても心地よい一編の映画を観たような気がした。
三国同盟の調印を映像で見た おそらく松岡洋祐だと思われる人物を未開人呼ばわりするところに、三国同盟を選択した日本を卑下する日向のシニカルな批判が表れている気がした。
燃えつきる荒野
ピープルシアター
シアターX(東京都)
2019/10/30 (水) ~ 2019/11/04 (月)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2019/10/31 (木) 19:00
3年間で3部作。ついに「満州国演義」終幕。他の皆さんが書いておられるように、3部は、ちょっと端折り切った感が大きい。第1部2部と太平洋戦争に近づきつつある緊張感を、敷島四兄弟の行動で割り付け、曲木の暗躍が4兄弟の横糸として綴じこみながら丁寧に描いていただけに、正直もったいない。なにせ、この第3部では、兄弟の心情が全く描かれていない。それもそのはずで、2時間で二二六事件から終戦まで一気に描こうとすれば、事実を追うだけで手いっぱいだ。
そこに敷島兄弟の顛末とその周辺も描き、伏線の回収(特に、敷島兄弟と間垣の関係)をしようとすれば、それは無理というもの。とはいえ、4年で4部作というのも、興業的にも無理が大きいだろうから、やはり、第1部から2幕3時間くらいの幅で上演するのが、望ましかったのだろうなあ、と今更ながら思う。(実際には、2時間の舞台でも、その丁寧な人物描写ゆえに、3時間くらいに感じたのだが)
あの活躍著しかった犬さんも、序盤であっけなく殺されちゃって、余韻に浸る暇もない。第1部や2部では描かれた、政府の要人描写や政権内部の暗闘もなくなってしまったし。(226事件も、北一輝がちょこっと出てくるけれど、後はナレ死だし。)
とはいえ、端折ったことで物語が破綻したということはなく、スポットの切り替えや人物の移動でてきぱきと見せる場面転換は見事という他ない。まあ、とても薄味になったということか。
「隣の家-THE NEIGHBOURS」 「屠殺人 ブッチャー」
名取事務所
「劇」小劇場(東京都)
2019/10/17 (木) ~ 2019/10/29 (火)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2019/10/28 (月) 19:00
座席E列2番
「隣の家」を観劇。
世界初演とのこと。脚本が7月に上がってきたというのだから、再演の「屠殺人ブッチャー」と違い、準備のバタバタ感は半端じゃなかっただろうなあ、と推察します。しかしながら、よく消化できていると感心しました。
話は、ルーシーとサイモンの夫婦の住む家の隣で、12年前に失踪した少女が、地下に監禁され続け、妊娠をして子供を産み、その娘が救出された後日譚として始まる。夫婦は隣人として、警察やマスコミからひきりなしに質問や取材を受ける。その趣旨たるは、「12年間も何も気が付かなかったのか?」というもの。
舞台は正面左側で、夫婦のやり取りを通して進む。画像を使った説明を交えながら、全体の時間のおよそ9割強を占める。中央には、その隣家の模型があり、舞台右側では、その隣に住むスズキという東洋人が部屋で寛いでいる。彼は夫婦の会話には、一切絡まない。
冒頭は事件について、観客に語りかける。そして夫婦仲の良さが示され、他愛のない近所のうわさ話に花が咲く。ところどころ、観客にも笑いが溢れ、いかにも穏やかな午後の世間話の様相だが、次第に、、、
さけび
LAL STORY
サンモールスタジオ(東京都)
2019/10/17 (木) ~ 2019/10/27 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2019/10/26 (土) 19:00
座席XA列7番
朴璐美さん人気は健在。このような芝居に、女性客の多いこと。満員です。
テネシー・ウィリアムズの戯曲、「さけび」という作品自体は全く意識になかったのだが、
とにかく彼の作品は観てみようと思って来場。
舞台上には、大きなカネゴンの繭みたいなセットがあり、舞台の大半を占めている。このセット、何か後半にでも機能するのかな、と思ったのだが、、、、
よって、演じるスペースはとても狭い。
舞台が始まって、少しして、あれこれ観たことあるぞ、と気づく。といっても、舞台上で役者の兄妹が演じる芝居の名前が「二人だけの芝居」と言われているのだから、気づかない方が変か。その時の「二人だけの芝居」は、奈良岡朋子と岡本健一が演じていて、役名は同じだけれど、兄妹ではなく姉弟だった。
パンフレットを見ると、「二人だけの芝居」は上演後にも、何度も推敲が重ねられて、「さけび」という題名になったらしい。