実演鑑賞
満足度★★★★★
板上はホリゾントに黒幕を設え、その手前センターに箱馬をキチンと8個行儀よく並べてあるほか、板中央に1個。
客席側の縁に丸椅子3脚が等間隔で置かれている。いつでも小道具の移動だけで手軽に場転できるレイアウトだ。
ネタバレBOX
物語は宇宙人の地球侵攻により、地球の資源や彼らにとって有益な総ての物が統制下に置かれ収奪されるがままになった地球が、漸くヒトの世界統一組織を作り新たな為政者である宇宙人と交渉しヒトの延命を画策し始めた時点からの永い人類史を或るシェルターに隔離され延命を図った2つのファミリー史を描く形で描かれる。シェルターで暮らす登場人物は、木の川家の4人とゴライ家の3人及び教育を担当する教師1人。シェルターの窓からは広大無辺な銀河が見える。
科学的には、現在の我々地球人が持つ物理学からみると荒唐無稽な部分も多いが、若い人が劇団メンバーの殆どを占め自由な発想で想像力を働かせて描いた作品として楽しめる。
さて物語のあらましを説明しておこう。地球の実質的支配者となった宇宙人の持つ科学技術は人類のそれを遥かに凌駕する為、戦えばたちどころに滅ぼされることは明白。そこで交渉に持ち込むことでは人類も漸く国家という共同幻想を排し地球人としての纏まりを見せた。然し永遠に従属させられることは肯んじえない。そこで極めて長時間(何億年というレベル)での長期戦計画が地球人代表組織を中心に計画され秘密裏に実行された。今作で描かれるのはこの実験に組み込まれた家族たちの幾億年にも亘る生活史である。この長い年月の間に地球人は宇宙人の技術を多く学び取り入れつつ独自の進化を遂げた。(今作では移動スピードが光速を越えたり、人間は如何にサイボーグ化しても生身の生体部分は150年程度しか維持できないとの定説を無視し「永久」を生き得る存在と措定されている)
ところで今作の白眉と称すべき部分は、シェルター内で発生した疫病によって殆どのメンバーに死が訪れ、たった独り残された主人公、アンナが発狂もせずに絶対孤独の央で自己認識を保ち(即ちアイデンティティーを保ち)続け、その先に希望を見出すことができるのか? という処迄描いていることである。通常絶対孤独の中でヒトは自己がヒトであることも、自己と自己に似た他者という存在が存するという事実も認識することは出来ない。何となれば比較することでしか己を認識することは不可能であるからだ。この点は深く考えれば納得のゆく所だろう。少なくとも自同律に縛られ虚無感に苛まれて発狂するか、発狂せずに虚無に耐え続けるか。そもそも己という概念が存在し得るのか? 或いは埴谷雄高が「死霊」で描いた境地に達するか(埴谷の場合は絶対孤独に近い状況ではあったがそうではない)しか思いつかない。
何れにせよ、希望を抱くという行為は前段の問題に答えを見出す作業を為した後の問題であるからより実現性の度合いは低くなると考えるのが通常であろう。然し今作は、この実に困難な問題が為され、人類に希望が残っていることを示した点がグー。
蛇足:上記を改善するには、脚本に伏線として教育係の老人が某図書館所蔵本の総てのデータを所蔵しており、その資料が発見されてアンナが読んでいたなどということを示唆するような部分を埋め込むことも有効だろう。
実演鑑賞
満足度★★★★
テアトル・カナはポーランドからやってきた。色々な意味で現代ヨーロッパの苦悩と限界も感じられる作品である。華4つ☆
ネタバレBOX
2024年創立45年を迎える劇団である。特徴は身体重視に重きを置く点だ。今作は隣国ウクライナにロシアが攻め入りその国土の一部を併合しようとして戦争となったことが、ポーランド国民にとって極めて大きなショックを与えたことが大きな要因となったことを如実に示している。戦争当事国では無くその隣国であることで戦禍に追われる当事国より精神的には微妙な問題を抱えるに至ったのかも知れない。というのもポーランドの歴史は独ソにより国土を分割され支配された厳しい歴史を抱えホロコーストの絶滅収容所をその国内に抱えていた傷も負っているからである。ヨーロッパの多くの国同様、ポーランドもカソリック教徒の多い国だから信仰の問題も絡む。そして一神教信仰は総ての事象の原因を神を基に据えることで本来人間が発明したに過ぎないと理性が教える神に、人間が負うべき世界の食物連鎖最上位生物の全責任から逃がす役割をも果たしてしまう。このまやかしが実際には人間という存在が引き起こした地球規模で益々深刻の度合いを増している総ての当に待ったなし状況に対処することを阻んでいることは真っ直ぐ世界を観る目を持ち常に本質を捕まえようと努力しバイアスを排除することに力を注いでいる者なら誰でも気付くことである。
それは人間に因る環境破壊(生態系破壊、温暖化、パンデミック、原子力産業総てに纏わる重大な汚染・破壊、人間に制御し得るか否かの分からないAI技術やIT技術の暴走、エネルギー利用過多等々の問題を突きつけている。
その結果、作品内容は、先月9月14日に、世界初演をあうるすぽっとで実現した東京演劇アンサンブル創立70年記念に作家、デーア・ローアが書き下ろした作品「ヤマモトさんはまだいる」と共通点が多いように思えた。但し表現方法は可成り異なる。カナは身体表現に集約することに重きを置くのに対しローアの戯曲はもっと歴史や社会科学的知にベースを置き客観化を目指しているからだ。前者が身体的即ち自死を含む内面的苦悩やそれを根とする深い内省から生み出される実存的知であると同時に時代の知としてのAIにも活路を見出そうとするのに対し、ドイツで主として活躍するローアの持つ方向性はあく迄人文学的知である点で東京演劇アンサンブルの提起した危機感とテアトル・カナの持つ危機感には明らかな共通性があると思われるが、矢張りこの危機感は日本に暮らす我々も同様の与件である。にも拘わらず日本人は彼ら程危機感を持たない人間が多いと思われる。現在最大の我々の問題は当にこの鈍感にある。
実演鑑賞
満足度★★★★★
脚本選び、演出、演技、効果何れも素晴らしい! 華5つ☆
随分昔に脚本は読んでいたが、舞台を観たのは初。60分、のめり込んで拝見。
ネタバレBOX
清水邦夫の作品には多くの詩が引用されていることは、演劇ファンなら自明のことである。今作のタイトルもギンズバークの詩から採られている。
下手にテーブルと椅子、テーブル上にはグラス等。大学教授の家のリビングルームである。板ほぼ中央に壁を突き破って突っ込んだ車。オープニングは若い2人の男女が騒ぎながら乗車している。かなりノッている。と、いきなり事故った。事故車からは若い男が這い出し眼鏡を探している。極端な近眼である。同乗の女は腰を挟まれて暫く脱出できなかったが2人とも怪我らしい怪我はしていない。車は家屋の壁を破って止まったのである。だが住人3名は車に突っ込まれた瞬間こそ腰を浮かせたものの一向に動じる気配が無い。それどころか眼鏡を探す男と度数がほぼ同じ妻の妹は眼鏡を外し男に貸す。親切この上ない。歓待する構えである。住民は教授夫妻及び妻の妹。
騒がないことや、妹の言では夫妻が事故った2人を泊めようと考え2階の部屋をその為に片付け、布団の用意迄しているらしい。そのうち、教授一家は詩や「ハムレット」の台詞の遣り取り等を初め、飛び込んだ2人にも台詞を何か言うように要請する。男は毛沢東の語った戦陣訓や左翼理論家の述べたフレーズ等を述べる。この遣り取りは劇作家・清水邦夫の面目躍如たる傑作チョイスである。引用されるリルケ、シェイクスピアといった天才たちの作った言の葉の一節及び毛沢東、ホーチミン、カストロ等革命家たち左翼の言説が奇妙にも極めて上手く繋がり新たな感興を生み出してゆく点だ。役者陣の演技の良さ、演出の巧みと的確な効果の威力で優れたシナリオが瑞々しくまた時に極めて鋭く日本という「国」の体たらくの悲惨を描く点だ。
作品は1972年初演だが古びるどころか益々日本という植民地の体たらくをハッキリ示している。気付かないだろうか? 現時点で起こっている戦争・紛争とその背景で蠢く者達の冷徹で力任せで残忍な思考や行為に。現時点での世界情勢が第2次世界大戦前に極めて似ている状況に。このような状況に於ける大多数の民衆のメンタリティーと正鵠な視座を避ける風潮に。
実演鑑賞
満足度★★★
タイトルに月が入っているのは、「竹取物語」をイメージしているのかも知れない。
ネタバレBOX
さくら組を拝見。詩的なタイトルに先ず惹かれて観に行った。然し下世話なギャグの乱発、導入部の仕掛けの甘さに興が削がれてしまった。考古学会で期待される2人のライバルの内、件の海外発掘調査に参加できるのは1名のみ。参加したのは2人が愛した女性と結婚し得た人物だった。だが、妻は結婚しなかった男を慕っていた。
して、箱舟とは‟ノアの箱舟“である。2人はそれが実在したと信じ、片や中東説、片や南米説を採っていた。発掘に参加できたのは南米説を採っていた梅宮、即ち2人が共に愛した女性(古都)と結ばれた研究者、結婚に至らなかった中東説の松坂は古都への念を断ち切れぬまま涙を呑んだ。此処迄が物語の前半を形成する部分だが、この前提部分の尺は短い。
残る尺の殆どは17年後を描く。海外での発掘後帰国した梅宮は家業を継ぐという名目で考古学会を去り産業廃棄物処理をする会社の社長に収まっていた。然し社長夫人であるべき古都の姿が其処には無かった。梅宮は再婚しており、彼の説明では古都は失踪し皆目行方が分からないということであった。だが、梅宮と古都の間には娘が生まれていた。梅宮の海外出張調査中に誕生した子であった。然し後妻と娘は犬猿の仲であった。
ところで産廃処理場と近隣住民との間ではいざこざが起こり易い。原因は産廃から漏れる可能性のある有害物質に対する懸念や臭気、土壌汚染懸念等々である。このような苦情対策に敷地内を工事している最中、遺跡跡とみられる物が出土した。実際に価値ある遺跡であれば保存措置等の対応も必要になるということもあり、その調査に旧知の松坂が呼ばれた。当初、大した成果は観られなかったものの、人骨が出土。事態は急展開を迎える。それ迄殆ど知らぬ振りを決め込んでいた大学が調査団を派遣して発掘に加わる。そして娘と後妻の対立の最も根深い根源、後妻の社員との浮気、古都の失踪に纏わる事実等々が総て明らかになる。
役者では古都役、松坂役に好感を持った。
実演鑑賞
満足度★★★★★
如何にも夢現舎らしい作品である。新春公演とあってそれにふさわしい出し物もある。ショートストーリーをオムニバス形式で繋いだ時間、ゆっくり楽しみたい。(1回目追記1.11、2回目最終追記1.13アップ)
ネタバレBOX
面白いテーマである。ところでヒトは何故対象に名前を付けたがるのか? 見た物、音を発する物、或いは手には触れず見ることもできないが感じるものについて。ヒトはあらゆる対象に名を付けたがる。それはなぜか?
私見だがそれは恐怖や不安からである。歴史的にはヒトが淘汰されず生き残ってこれた理由に共同体を作ることができたことが挙げられている。牙らしい牙も無く、動作も鈍く、爪も鋭くはないヒトが暑さ寒さに耐え食物と飲料を確保し徐々に体毛も少なくなってからでさえ自然を相手に生き残ってこれたのは共同体のお陰ということになる。では共同体が生じる為に必要なもの・こととは何か? コミュニケーションである。ここで始原のコミュニケーション論から始めるつもりはないから、言葉の骨格は既に出来上がりコミュニケーション可能なレベルでの文法も成立しているとする。{実際シジュウカラは百数十の単語(鳴き方)を持ち文法構造もしっかりしていることが既に明らかにされている}から爬虫類から進化した鳥類にも一種の言語機能が既にあるということもできよう。そしてこの能力によって彼らは卵が蛇に狙われている場合や天候の変化等々を近隣の仲間に伝え生き残る可能性を増大している訳だ。つまり文が成立している。文が成立する為には単語と文法が必須である。では言語の発展段階と裸形(身体的にも精神的にも)との間にどのような状況があったか? ヒトが捕食、被捕食の関係性の中で生き残る為にはこの関係を見切ることの他あるまい。即ち対自然のうち、ヒトにとって脅威となる生き物に対して名付けることは命を永らえる為の必然であったハズだ。その他にも気候変化や自然災害刻々と変化する生活環境の中で極めて多くのもの・こととヒトは対峙し続けてきたし今もそれは変わらない。どんなもの・ことが脅威であるかについてそれを共同体の皆に伝えれば情報を共有し得る。こうして徐々に自分達のリスクを減じてきた結果ヒトの勢力圏は拡大してきたと考えられる訳だ。以上極めて単純化した説明から類推できるように、自分は生き残り作業の必須事項の1つが名を付け共有化することでなければなるまいとの考えを抽出した。
作品は現代のヒトの生活を描いているから名のイメージから起こる様々なマイナスイメージ問題や偏見、滑稽等も扱っている。体たらくとしか言いようのない現代日本の政治、円の下落というより相場を左右する更に深い原因である政治・経済・技術・思考の劣化・イマジネイションの矮小化・共同を阻む有象無象の理由等々で凋落の一途の我が祖国を憂いた台詞も随所に哀しく響く。深い思考が齎すこのような表現を自らの内側から感じることができる人々には極めて奥深く迄味わえる作品である。
実演鑑賞
満足度★★★★
中国神話?
ネタバレBOX
神話というと我々日本人の多くがギリシャ神話や北欧神話には詳しくても日本神話は教科書に載っていたものや祖母や母から聴いたものを除き案外知らないような気がする。或いはこれは自分自身の傾向に過ぎないのかも知れないが。日本神話は天皇制に結び付けられていることからそもそも嫌いであった。寧ろ沖縄のニライカナイやアイヌ神謡集に収められているような神話に親近感を覚える。
ところで長い間に日本や朝鮮半島に生起した国々に多大な影響を与え社会の仕組みとしての律令制、文化的にも陶磁器や漢字、漢詩やシルクロードを渡って日本に辿り着いた楽器等にしても中国は他の多くの国々の現実に影響を与えてきたにも関わらずこと神話に関しては余り具体的な事例を挙げることが出来ないというのが現実ではなかろうか? 今作はその理由として動乱の時代を生きた孔子がその現実主義的でそれなりに合理性を持つ儒教を確立した論理性でそれ迄伝えられていた、不合理な神話を否定し儒教が広まっていったこととも関係があるとしている。そして英雄や人心を掌握した人々を神として祭る慣習(例えば関帝廟などにみられるように)も所謂他国の神話のような神話が伝承されなくなったのではないか、としている。従って世界に多くあるような創世神話が短く語られるくらいでその後は様々な神の戦い等が描かれる。そして最後に夏の王となった禹王の生涯を描く。
実演鑑賞
満足度★★★★★
様々な状況で生きた人々が死を迎え、冥途へ旅立ってから四十九日を迎える迄には、七日ごとに審判を受け四十九日を迎えた段階で、六道即ち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の何処へ生まれ変わるかが決定される。今作はこの期間を冥途で過ごす死者と鬼や閻魔との有様を描く。
ネタバレBOX
この時期これだけの人数の演者を、この質で集めるのは大変だったであろう。歌あり、踊りありの公演だが、ダンサーたちの踊りが上手い。和服でのダンスはみものであった。歌唱場面でも役者の歌の差は若干あるものの歌も上手い役者、かなり上手い役者が歌っていて全体の調子が崩れない。これは場転や繋ぎが極めて上手く的確でスピーディーなことも大きい。全く違和感なく物語と連動しているのである。脚本も練れたものでエンタメを謳っているが劇団の根底にある人としての倫理観が投影され随所に深く納得させる台詞が鏤められ、心に沁み魂に響くのもグー。閻魔の裁きは名裁判と言って良かろう。閻魔が通常人々を良く見ている理由も分かるポジションに居るというポジショニングも見事である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
矢張りKing’s Men、他の劇団がやらない演出で魅せてくれた。本日5日まで座・高円寺Ⅱ、1月6日から8日迄はせんがわ劇場で公演。今作の本質をストレートに観客に届けてくれる。観るべし! 母体がユニットなので演者のレベルは様々だが、いつも何らかの新たな解釈や演出の工夫がある。
ネタバレBOX
今回の公演では、能う限り日本の劇場でエリザベス朝演劇の条件下で演じられた「Fear No More」(日本語翻訳タイトル、ロミオとジュリエット)を演じてくれた。自分は今迄に数回、他の劇団が演じた「ロミオとジュリエット」を拝見してきたが、ロミオとジュリエットが味わわざるを得なかったモンタギュー家VSキャピュレット家の史的・因縁的対立に翻弄される宿命の恋人たちの苦悩、アンヴィヴァレンツに弄ばれるかのような絶望と歓喜の齎す傷口の呻きが我が胸に鋭く深く刺さるのを今回初めて感じた。このように感じた原因は、恐らく16世紀中頃から17世紀初頭迄続いたイギリス演劇史のルネサンスとも称されるエリザベス朝演劇の舞台環境を可能な限り再現したことと関係があると思われる。即ち電気を用いての効果は基本的に用いない。当時は室内ではなく上演は屋外で行われた為客席と板上で明度を等しくする。又1人の役者が何役もこなす等。
更に凄いと思わされたのが、柳 誠直さん演じるシェイクスピアが一幕、二幕の頭を執筆しつつ発するソネットに擬したプロローグを始め何か所かで同じように英語で紡がれる部分の発音の見事さである。恰もイギリス人舞台俳優が発音しているようなレベルである。即ちそのイントネーションやブレスによって、発された言語がどんな構造かある段階以上に外国語を習得した者には立ちどころに分かるのである。そのような高度に習熟した英語であった。而も文章を書きつけているノートは、当時の版型と同じ版型ではないか? と見える物でこんな細部に迄気を配って用意したとすれば凄い、と唸らせる類のものであった。
苦言を呈するとすれば、板から捌ける際、若い役者さんたちの中に観客から完全に観えなくなるまで演技を続けずに捌けてしまった人が何人も居たことだ。一旦板に上がったら、その回の公演が終わる迄、背中にも目を付けている位の気持ちで演じて欲しい。観客の座っている位置によって捌ける時も丸見えになることが在ることも、そういうシーンが観客を白けさせてしまうことも覚えておいて欲しい。
またキャピュレットを演じた 中島 史郎さんは、「るつぼ」の時より大分マシにはなったが、役とどのように格闘した上で板に上がっているのだろうか? との疑念は拭えなかった。今回も台詞をぞんざいに扱っている印象が何か所かにみられたからである。シェイクスピアの凄さは、天才的作家ですら比喩でしか表現できないような人間界の暗渠を総て台詞化してしまうことにあると思っている自分としては、このような大天才の台詞は例え翻訳と雖も疎かにすべきではないと考える。もし、自分の見立てが誤りで中島さんが役作りに最大限の力を注ぎこれがベストだと考えてぞんざいに聞こえる表現を選んだのであればその選択は尊重するが、仮に自分の指摘が当たっているのであれば、次回は更に納得のゆく演技をして頂ければ嬉しい。
実演鑑賞
満足度★★★
男女混合の即興を中心としたエンタメの回を鑑賞。MCを担当した役者が中々上手い。出演者の捌き方、ダイアローグを交わす時の気の利いた台詞や対応に頭の良さが感じられる。他の出演者には図抜けた才能は感じなかった。無論力量の差はあるもののどんぐりの背比べという印象。観客層も他愛のないギャグに笑う人が多いと感じた。エンタメとはいえ本所にある小屋である。もう少し粋な作品に仕上げて欲しかった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ThreeQuarterカウントダウン公演「1…のエイトチーム観劇。つか作品は様々なヴァージョンがあるが、このバージョンは初見。つかの本質を見事に伝えている。追記12.29午前8時半
ネタバレBOX
言わずと知れたつか こうへいの傑作。而もつかは演劇は各回限りのものというスタンスで長い間通していたのでアテガキも多く脚本に様々なヴァージョンがあり、その多くは残って居ない。今作も『売春捜査官』としては初めて拝見する内容のものであった。それ故新鮮であり、演出も新鮮なら照明や音響、劇中に用いられる様々な歌のセレクトセンスも良い。演出は、つかがその作品で鮮烈な単語や苛烈な単語を敢えて用い、状況を日常から際立たせるつか独自の表現法の齎すインパクトを上手に活かしつつ、実家は可成り裕福であったものの在日とあって差別される側でもあったであろう苦労・苦悩を味わったに違いない彼の優しさが立ち上ってくるような直截で本質を良く捉え、観る者を突く仕上がりになっており、役者陣の演技もグー。解散となるのが名残惜しいスリクオのカウント8公演を拝見。
ところで今後長野で劇団四分ノ三としてスリクオの魂を受け継いでゆくメンバーも居る。長野迄足を延ばせる方々は、是非追い掛けて残り四分ノ一を加えて欲しい。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ウチナンチューのアンヴィヴァレンツを内側から描いてグー。追記12月29日15時25分
ネタバレBOX
レイアウトがちょっと変わっている。板3方をコの字を180度回転させて客席を設え、開口部に繋がる真ん中に板。この板、コの字の底辺部分で劇場床面に接する部分、平台の当たる部分に分かれ丁度全体が水平になるように作ってある。上演の中心になるのは板部分が殆ど室内として用いられる為板底辺のアテガイのある部分は部屋に上がる為に上がり易いように下足を平台上で脱ぎ室内に入るようになっておりその部分は板の一部が除去されている。またコの字の開口部には両開きの戸のついた木製コンテナのような形の大道具が設えられており押し入れの様な内部に場面、場面で様々な小道具が入れられたり押し入れになったりしつつ利用される。
物語は、沖縄・今帰仁から上京したウチナンチュー・サトシが芝居で沖縄の現実を芝居を通じて訴え変革する為に生きて行くという夢を仲良しだったアキラという名の少女が演劇と出会い女優になることを目指しサトシと演劇で生きてゆこうと約束したことを契機に、東京へ出て一旦約束した初心を失いかけた状態から、実現する為の精神を回復、明日へのの営為を再開する迄を描く。沖縄に多少は関心のあるヤマトンチューなら日本国土面積の僅か0.6%を占めるに過ぎない沖縄に在日米軍基地の70%以上が未だに集中している事実は知って居て当たり前であるが、只浮かれているだけのヤマトンチューはこの重い現実を変える為にウチナンチューやシマンチューと一緒になって基地問題に関わることはない。これは敗戦直後、裕仁が沖縄を見捨てシベリア抑留を許したという経緯からも考えねばならぬ問題であるのは明白であろう。が同時にヤマトンチュー全体が恥多き地位協定を自らの問題として明確化し改善してゆくべき問題として対処してゆくべきなのである。我がことに非ずとすること自体ナンセンスである。
今作のクライマックスは19歳の大学生であったアキラが2011年米兵3人によるレイプと暴行によって殺されたことが描かれる事件を中心としたシーンである。ここでウチナンチューの複雑な心理、立場の核心が描かれ、観る者の心を抉る。この作品の肝でありタイトルの「隧道」が関わってくる。というのも問題のある不動産物件に不動産屋をやっている幼馴染がサトシに月60万円を支払い住んで貰って物件をロンダリングして貰うことから今作の肝部分が展開するからである。第Ⅰ段落に書いたコンテナのような大道具が押し入れとして用いられこの押し入れが冥界と繋がっているという設定で、押し入れから冥界への通路が隧道なのである。そしてアキラはこの隧道を通ってサトシと再会した。その時のサトシは東京へ出て何時か当初の誓いを忘れかけ演劇をやり続ける意味も見失いかけ生きている意味すら見失いかけていた。然しサトシはアキラとの再会で誓いを再体験し喪っていた魂を取り戻すことによって再び生きていることの意味と何故演劇をやり続けているのか、その意味を再発見して未来に立ち向かってゆく。今作が実際に舞台化しているのはあらまし此処迄である。
ところでレイプされても被害を受けた女性は、それが自分の周りに知られ恥となることを恐れ親告しないケースが多いのが実態である。2011年当時の法では親告罪だったので猶更多くのレイプ事件が表沙汰にならず闇に葬られたであろうことは想像に難くない。私事になるがフランスに留学していた時に授業で『自分たちが抱えている問題をクラス全員の前で発表する』という授業があり自分は米兵による日本人女性レイプの実態を報告した。するとクラス内に居た2人の米国人がアヤを付けてきた。「米国人がそんなことをするハズが無い」というのである。すると矢張りクラスメイトであったドイツ人が「ドイツでも同じことがある」として日独VSアメリカで大喧嘩をした。自分は日本の法規では親告罪なので自分が上げた数字は公式のものであり実態は上記で示した如く親告しない被害者が多い為遥かに多いことも説明していたのだが対するアメリカ人は「アメリカ人がそんなことをするハズがない」の一点張り。非論理的でフランス語も我々よりずっと出来が悪い完全なアホであるとつくづく思った経験を持つ。無論、アメリカには以前別の処で書いた通り自分の知り合いで一番賢かった女性も渡り日本には帰ってこない、彼女のような超エリートも居る。だがそのような超エリートが元々のアメリカ人でないことも多いのが実情である。他にも自分の友人の科学者が何人かアメリカに渡り帰化してしまった。当然だろう。超エリートたちに対しアメリカの待遇は桁違いに良い。戻って来る筈がないではないか。こんな風にして日本人で殊に優秀な連中の頭脳流出はとうの昔に始まっていたという側面もあるから、アメリカ人と一口に言っても一様でないのは当然である。がどんな国でもアホと下種は残念乍ら居る。日本で米兵による日本人女性に対するレイプ事件等の犯罪があった場合、最も問題なのが先に挙げた地位協定である。講和条約が結ばれた時、日米行政協定という名で結ばれその後現在の地位協定と名前が変わったもののアメリカが圧倒的に優位な内容は殆ど変更されていない。これは講和条約より実際にアメリカが日本を植民地として利用する為に最初から狙っていた法的手段であり、吉田茂が1人でアメリカ側と交渉、署名し現在に至る迄禍根を残している事実だ。名宰相どころか吉田茂も国賊である。我々ヤマトンチューが沖縄の人々に掛けて来た苦労・苦悩・被害に最も真摯かつ有効に報いる為にはアメリカに対しキチンと日米地位協定の改善実行をさせることが肝心だと信じ、これを最終段落に記しておく。
実演鑑賞
満足度★★★★
香港のグループが公演、一所懸命で好感を持った。広東語上演、字幕付き。字幕も観易かった。華4つ☆
ネタバレBOX
タイトルは無論ロートレアモンの「マルドロールの歌」に記された有名なフレーズに由来するが、今作は他にジャンコクトーの「詩人の血」や香港作家が書いたシチリア人がショーウィンドウ内に置かれた人形に恋する人形愛を描いた作品をベースにしたもの、我々の生きている時代に実際に見られるカルトの主張を挿入し、人々が長い時代に耐え生き残ってきた人としての倫理を規定するような普遍性を具えた哲学実践を見失い、似て非なる或る意味先鋭的で普遍性をも持つかのような似非論理に惑わされる様をも描いている他 『節約計画』なるイデオロギーによって必要不可欠な脳等を残し必要度が低いと判断された身体部位をオペによって切除し他の機構で代替するようなことが実行されたりもする。この『節約計画』を政治的に解釈したり、カルトも同様に民主化弾圧をしている現実の政治が『共産党』を語っている欺瞞をもパロディー化していると捉えることはできる。(現時点でマルクスが理想とした共産主義を実現した国は世界に1つも存在していない。多くは官僚主義的弊害に陥り、本来一時的過程であるべきプロ独を恰も理想が既に実現されたかの様に振舞っていることは欺瞞以外の何物でもない)
まあ、以上挙げたような様々な解釈ができる作品であるが、作品のコンセプトはシュールレアリズムであるから別の解釈もできようが、シュールレアリズムを如何様に規定するかもことほど左様に単純ではない。例えばブルトンとヴァレリーの関係についてのみでも研究者によって見解は異なるからである。
実演鑑賞
満足度★★★★
仲間内で1人の男の争奪戦!
ネタバレBOX
物語は主として女性音曲漫才トリオの楽屋で展開する。この楽屋、かつて長らく小屋でピンを張っていたリーダーが、着替えが間に合わないと板に一番近い場所に作らせた楽屋とあってそれなりの格式と総支配人との様々な関係もアカラサマであるが、問題はトリオのメンバー3人総てが副支配人と関わっていることである。時は1970年代初頭、未だベトナム戦争は終結しておらずディケイドの初めには三島の割腹、72年には日中国交正常化、沖縄闘争をメルクマールとしての左派弱体化、舞台となっている新宿のヒッピー、フーテン、フォークゲリラ、サイケデリック流入と共に流行ったLやG等々、実に面白い時代ではあったが、今作ではそのような即面を持っていた昭和の特に新宿の騒乱状態は殆ど触れられておらず、脚本家は泥臭い時代だったと捉えているのではないか? と感じた。実際に当時宿で遊んでもいた小生などはそのように感じるのだ。まあ、ラリッた奴がアイスピックをカウンターに入って持ち出し他人を刺したりヤクで矢張りラリッている奴が刃傷沙汰を起したりはあったが、誰が店の人間なのか分かっていない客が多く、そいつらもラリッていたりしたので、怪我人の周りだけがワヤワヤしている状況で他は何てことはなかった。唯兎に角アナーキーな時代であった。
そんな時代にⅠ人の男を取り合う女たちの三つ巴の戦いが描かれる。ソフィスティケートされていないギャグが多用されたり、サービスのつもりなのか、くどいと感じる場面が多かったのは脚本のせいなのか、演出のせいなのか不明だがスマートではない。(まあ、この辺り観客の好みもあるから一概には言えないものの)中盤から後半に掛けてはドンデン返しもあり楽しめた。
実演鑑賞
満足度★★★★★
元々20年前に利賀演出家コンクールで優秀演出家賞を受賞したメンバーでの再演。
ネタバレBOX
今作、不条理劇の代表的作品の一つとして名高いこともあり実に多くの演出家が独自の解釈で自分なりの捻りを加え随分印象の異なる作品に仕上げて舞台化してきた作品だから舞台を実際に観た人は多かろう。然し利賀演出家コンクールの規定で戯曲自体(今回作は翻訳)を基本的に変更できない、という縛りがある為、今作では教授の狂気を可成りストレートに表現している点が逆に極めて新鮮に映った。然し大きな工夫は無論ある。起承転結を入れ替え転結を前半で演じ、起承を後半で演じるということをして惨劇が永遠に続くことを示唆しているのだ。而も被害を受ける女生徒たちは何れも手錠を長めの鎖で繋いだ手枷をはめられているのである。この辺り何を象徴させているか? を考えさせ、多様な解釈を観客に任せている点が実に上手い。更に教室の壁には3つも掛け時計が掛かっており、それぞれ示す時刻が異なっている。このことの意味を考えるのも面白かろう。教室入口脇には書籍が詰まった書棚が二つ。如何にも全博士課程を修了した教授という実績を物語っている。近在の人々の間で極めて著名な教授であるが、実際に行っていることは殺人でありそれも大量の連続殺人であるのに、訪れる生徒たちが絶えないことも不条理だが、それはおいても登場する人物5人の中で何度も教授に危険だと忠告することで唯一正常な人間であると思わせる家政婦のマリーが、とりわけ危険な数学の授業だと分かり切っているにも関わらず教授の凶器であるナイフをテーブル上に置くのは、目立たぬ様で正常らしき人の持つ性質の悪い狂気を現わしている点で最も怖い。
実演鑑賞
満足度★★★★
「藤衛門」を拝見、圧倒的な科白量を1人でこなす。他の登場人物たちは総て何種類かの椅子で代用。18世紀に作られた江戸絡繰りが主人公だが余りに先進的な技術が用いられて居た為、往時全く理解されす、休眠していた。発見されたのは1997年、発見者はタビノちゃんという小学4年生。華4つ☆(追記後送)
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル。華5つ☆。
2部構成の作品だが第1部「燃えよ前説ドラゴン」を拝見。第2部も痛烈に観たくなる出来だ。
ネタバレBOX
掴みは小ネタやコントのような形式を用いたりもしつつ伏線も同時に張る趣向で、観客の
興味を兎に角板上に惹きつける。この辺り、小劇場演劇に関わる劇団の苦労が分かる作りであることは、本編がストレートプレイの王道をゆく内容であることからも明らかだ。つまりギャップが大きい。その落差の分本編の深刻さ、演劇化された現実のリアル、一般の人々には知る由もない被害者たちの苦しみ・苦悩と、その苦境を救うお伽噺の切実が観客の心を撃ち抜くのだ。脚本、演出、演技もグー。特に加藤役、詩穂役が気に入った。以下少々ネタバレ。
元役者で才能も情熱もあったが、現在は芝居にのめり込む余り一人娘を連れ他の男の下に走った妻と別れ、それでも芝居からは離れることができないまま前説士として小劇場演劇に関わり続けている男、それがホーネット加藤だ。功夫映画の全盛を築くきっかけを作ったブルース・リーに憧れ独学で彼の功夫(ジークンドー)を学んだ加藤は、偶々オーディションで出会った少女が、実は妻に連れ去られたまま生き別れた実の娘(詩穂)であることを知る。詩穂は腕に包帯を巻いていた。
原因は、義父である班に12歳でレイプされて以降性的虐待、売りをやらされその上がりを総て収奪され、暴力てねじ伏せられて自殺未遂を何度も図るような地獄に追い込まれていた事である。実母は班を恐れ全く当てにならなかった。加藤は実父であることを隠しつつ、詩穂の傷ついた魂を何としても救うことを決意する。
当然の事ながら班は徒党を組み配下を従えており、務所内から配下に指令を出しては魔の手を広げている。遂に・・・。後は観てのお愉しみだ。期待は裏切られまい。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル。未だ埋まっていない回もあるとのこと。寒くなって来た、ジンワリ温まれる、お勧め作品である。
ネタバレBOX
板上はホリゾントの幕に樹木が立ち並ぶさまをあしらった。この樹木群はその枝葉が厳冬早朝の陽光に輝くように煌めいている。物語は20年程前にラジオドラマとして書かれた作品がベースになっているが大きな変更は無いリーディング公演だ。尚、ラジオで放送された際にはディレクターが賢治へのオマージュ作品を連続放送するという企画の1編として放送された。童話系の物語なので賢治のみならず「不思議の国のアリス」に出て来る兎のようなキャラも登場する。無論、他にもクラムボンや茸の集団、猫、桜の木、アネモネ、泉等々たくさんの生き物や自然が人間同様に喋ったりオノマトペを用いた表現をしたりと小学校6年生のイマジネイション豊かな子供と同等の交感を交わす亜空間がその不思議な世界だ。
きっかけは現在教師になっている、主人公の転校生で1年間雫の森小学校で学んだだけのユキコに担任だった青木紺次郎先生から葉書が届いたことだった。20年後の今、卒業式を挙行する招待状であった。彼女は雫の森小学校へ出掛けてゆく。だが思い出は既に忘れてしまっており総てが新たな体験のように瑞々しい出会いの経験として展開してゆく。この設定が素晴らしい。総てが新鮮に観客に伝わるからである。こうして初の体験という感覚で“小学生”ユキコは観客を物語に没入させてゆく。
作・演出の吉田 小夏さんの才能はこれだけに留まらない。リーディング公演だからこそ、敢えて効果音の多くを口ジャミでこなし、マイクや人工的な機器は使わず、鈴のような原始的楽器のみを併用する。またテキストも完全に暗記せず、丁度音楽家が譜面を見ながら演奏するような具合でリーディングの質を自然な状態で推移させてゆく。このような配慮が実に微妙なバランスの上で成り立っている自然に人間が感応することを可能にしているのだ。同時に転校生故のデペイズマンもユキコを他の子供たちから心理的に孤立させ人間集団内のみの会話・対話と少し周波数の異なる自然界への窓を開けている点にも注目したい。ヒトは余りに人間集団に馴染み過ぎると、自然と感応し得る孤立と孤独な感性を見失う。すると大抵の人は孤独感・孤立感でその身を削り本来持っていた繊細性を喪失してしまう。
すると自然を荒らしていることに気付かなくなる、後は推して知るべし。今作の持っている温かさは、ユキコの持っているこの繊細性が自然と感応し、例えば厳冬の朝ぼらけ、立木の幹に触れてみると良い、生きているもののほのかな温かさが伝わってくる。そのような暖かさが作品を通して伝わってくる点に今作の温かさが在る。
実演鑑賞
満足度★★★★★
華5つ☆ 断固ベシミル。当日2000円のリーディング公演。初日はほぼ満席であった。
ネタバレBOX
紛争地域から生まれた演劇、今回はこのシリーズ16番目の作品群である。作:アンドリー・ボンダレンコ 翻訳:万里紗
今作は『蝶』『罪と罰』『結婚持参金』と題された3本がオムニバス形式で朗読されるが、共通項はトラウマと解釈することができよう。このトラウマは攻める(責める)側にも攻められる(責められる)側にも表れ方こそ異なるが表れる。
大切な観点は敗戦後日本は、国家として戦争行為に直接関わってこなかった為か、多くの日本人が実際の紛争・戦争状態のリアルな状況を受け止める為の想像力を欠落させている点にあるように思われる。その結果、自分の日常的な感覚や体験をベースにニュース映像や様々な媒体によって流される映像を見て分かったつもりになることではないだろうか? これらの映像には腐乱し膨張して腐臭を発する遺体の惨憺たる有様も、そのような状況に至る迄に自らの住地が爆撃や種々の砲撃・銃撃、ミサイル攻撃に晒され生きた心地も無く、眠ることも出来ないような状況の中で飲み物、食べ物にも事欠き逃げ惑う他無い恐怖も無い。敵に見付かれば拷問、殺戮、レイプ、虐殺等々の憂き目に遭う可能性に怯えるストレスも無ければ、子供や年取った父母を如何に逃がすか? の懸念や責任も無い。無論己自身が生き残れるか否かも誰にも分かりはしないのだ。
このような状況で生きていること、尚生き続けようとすることと守らねばならぬ人々を抱えていることが如何に大きな負担を個々人に強いるか? そのように強大な負担にヒトはどのように反応するか? この3編は痛烈な評を伴いつつ一つ一つの裁を下し、問うている。果たしてヒトは? と。
実演鑑賞
満足度★★★★★
小生、長年の不摂生が祟って今年は正月明けからアルコールにドクターストップが掛かっているが、今作が提示する深刻極まる沖縄の状況にも関わらず、泡盛を心底飲みたいと思わせる暗くなり過ぎない作品に仕上がっている。ベシミル!!
ネタバレBOX
板上は天井から吊り下げられた3本の太い筒のような物体が3本。予算の関係で他の物(泡盛の瓶が立ち並んだ棚やカウンター代わりのテーブル、椅子等は場面に応じて適宜用意される)は、簡易な形態の物を用いている。沖縄の苦境を描くとこのような状況に陥るのかも。なんちって!
ソ連崩壊以降のデタントで北方に展開していた自衛隊員の多くが対中国戦へとシフト。第1列島線に沿う形で殊に島嶼部である奄美から琉球弧全域に掛けてシフトしたのは気を付けている人々には自明のこと。今作では沖縄のことを描いている関係からであろう、鹿児島県に属する奄美のことには触れていないが興味のある方は調べてみると良い。何れも最大の被害を見込まれる地域の既存の条例等を日本国家というアメリカの属国が無視しアメリカの言うなりに対中国の最前線戦闘地域として機能すべく設定されているのは自明である。自衛隊員は定員割れが続き仮に日本政府が並べる御託通りにある時期戦闘が展開するにしても、中露が組めば核弾頭の数だけでもアメリカを凌駕するし、中国の現在の軍事費を観れば到底日本等の及ぶべき規模ではない。何れが有利か少し頭を冷やして考え直してみるべきである。イケイケで実際に戦闘状態になれば、第Ⅰ列島線状に連なる島嶼地域は再び地獄と化さざるを得まい。こんな愚を避けたい。そのような島民の切なる念(思い)を込めて仕次を繰り返し第2次大戦で失われる迄は200年、300年の古酒(クース)が保存されていた沖縄に再び戦禍が無いよう祈りのような作品である。つまり古酒が生まれる為には平和な世が続くことが前提となる。泡盛が古酒になる迄に親酒(アヒャー)となるものの他により新しい年の酒が理想的には4つ必要だ。最古のアヒャーを1とすると、1の甕から幾らかを飲むなりして減らし2の甕の酒を蒸散などを含めて減った分1の甕に移す。2の甕には3の甕から減った分を移す・・・と継ぎ足し混交して順次より古い古酒としてゆく。この過程で甕が割れるような戦が起こらないことが大事な条件の1つということになる。
このように沖縄の平和を願う杜氏たちや泡盛を出す飲み屋等の関係者を縦糸に沖縄県東村高江へのヘリパッド建設反対運動に関わって高江に通っていた女性を織機の横糸を通す杼にして物語を自由闊達に編み込んでゆく。
実演鑑賞
満足度★★★★★
今回の公演では、役者各々の戯曲解釈がより深く身体化された表現に達していたように思う。この感想が自分自身の三島アレルギー弱体化によるのかそれとも自分が感じた通りなのか或いはその何れもが作用して相乗効果を発揮したのかは定かでないので、もう一度ゆっくり戯曲を読み直しつつ講評を追記したいと思っている。もう少しお時間を頂きたい。