実演鑑賞
満足度★★★★
若者、4人の活躍がグー。(追記後送)
ネタバレBOX
ストレート班を拝見。オープニングから歌を歌ったり作品の案内役を務めたりする女性が登場するが、節回しが微妙にずれているのが気になった。原因は、アラビア風の音程や節、音階と西洋流のそれらとの違いを明確に表現できていない所から来ているのだろうが、研究の要あり。また案内役の女性が"アラーの神“と表現していた部分は、かつて「クルアーン(コーラン)」日本語訳でアラーの神と誤訳されてきた歴史があるから致し方無い面もあるが、これは論理的にはトートロジーであり間違いである。何となればアラーはアラビア語で神という意味だからだ。
物語はファンタジーの常として、また「アラビアンナイト」中の一話として表現されて居る為「アラジンと魔法のランプ」に登場するようなジンが登場し極めて大きな働きをするし、物語の展開する場所は砂漠を幾つか超えた所にある王国であり、平和で富み300百年の間繁栄を誇ってきたという前提である。然しその繁栄は絵画のジンと呼ばれるこの地最強のジンとの契約を守って来たことによって達成されてきた。その契約とは、年1度の祭日にこの国で最も美しい生娘を生贄として捧げるという約束であった。300年目のその娘は王の一人娘即ち王国の姫であった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル! 華5つ☆
ネタバレBOX
満州から引き揚げてきた親戚の家に良く行っていたが、引き上げ時の苦労は、誰も一度も話してくれたことがない。冬のとんでもない寒さや現地の中国人との関係についての話はそれなりに聴いたことがあるが。
今作の舞台美術で異様だったのは天井から下がっている十くらいはあっただろうか。梯子形のオブジェで何れも横木の部分が何か所も欠損し不完全で不安定な趣を醸し出していたことである。今作の内容からそれは丁度、芥川 龍之介の「蜘蛛の糸」に描かれた状況の象徴のように思えた。関東軍は真っ先に逃げ護衛を失った開拓村に残ったのは女性、子供、老人だけであった。その村を襲ったソ連兵たちは有無を言わさぬ機銃掃射で死体の山を築いた後生き残った女性達を集団レイプした。その直前ソ連が参戦し攻め入ってくるという情報を得た村の女性たちは自死か一緒に逃げることの出来ない総ての者を置き去りにして逃げるか、齢のいかない子供たちは母が自身で子を殺して生き延びるかの選択を迫られ機銃掃射の前で武器にもならぬ包丁を構えて突進していった、満州開拓団崩壊の凄まじい地獄に垂らされた不完全で不安定な梯子である。この天から下がる梯子の下にはタッパ高60㎝程の真四角の平台を頂角を起点に据えその奥には突堤のような形でハの字型の真四角より更にタッパ高の高いオブジェが据えられており、これが人々の暮らす地上である。1年前には夢にも思わなかった有様であった。
この惨劇の起こる前には主人公・坂根 田鶴子の文化映画が完成しており、村の男達には召集令状が届いて居て既に出征していたこと、田鶴子が助監督に抜擢した優秀な中国人・包の失踪とその原因(彼女は映画製作の取材中、開拓村が無人の荒れ地で日本からの開拓民が五族協和の為にこの地を開墾したという噓を証立てる、この地で農業を営んでいて追放された中国農民に会っており、撮る・見る側と撮られる・見られる側の非対称性即ち権力構造の差を指摘していた)ことなどが描かれていて作劇の構成の上手さも際立つ。
最終部分では、単に満映のプロパガンダのみならず五族協和の茶番とその結果を坂根を通して我々観客にも突きつけている点が素晴らしい。また坂根を演じた万里沙さんの力演、包を演じた内田 靖子さんの演技も気に入った。
ところで、現在でも戦争状態や植民地支配の構造は本質的に全く変わっていないことがパレスチナに対するイスラエルの行いによく表れており、土地を奪われた・奪われ続けているパレスチナ人の状況は単に爆撃などによるジェノサイドのみならず、イスラエルの意図的パレスチナ人住居の破壊、水の供給停止・制限、食糧の搬入禁止・制限、弱った人々への空爆、病院破壊・医療関係者殺害、アラブ系報道陣殺害、歴史的建造物破壊、大学破壊、知識人を家族ごと殺害等々単に婦女子、老人、子供殺害以外にパレスチナの生活、歴史、文化、知的環境等総てを破壊し尽くし無かったことにすることが目的だと考えさせる事例は枚挙に暇がない。またハーレツでも報じられた通り10月7日に殺されたイスラエル人のうち、可成りの数の人々はIDFの攻撃で亡くなっている。然しイスラエルは10月7日、実際に何が起こったのかの検証を敢えてしていないと考えられる等々。無論ハーレツの報道通りならイスラエル軍が自らの手でイスラエル国民を殺したということだ。事態は変わらないどころかアメリカの莫大な軍事援助と拒否権によって守られたイスラエルの横暴は前代未聞の悪辣と言えるし、世界の政治倫理は第2次大戦時より腐っていると言えよう。この状況をウクライナと比較することは現在この日本でその気になれば誰にも未だ可能だ。観客の1人としてそう思う。
実演鑑賞
満足度★★★★★
若い人たちの劇団だが、演技、演出もしっかりしていてグー。脚本も面白い。舞台美術もちょっと抽象的に仕上がって作品に見合っている。
ネタバレBOX
Aキャストを拝見、以下に上げる6つの短編をオムニバス形式で上演。「スコアラー」「不安の偶数、終わりの奇数」「ロス」「マニュアリズム」「ゾロ目のお告げ」「ゼロサム」。
何れも日常の何処にでもあるような情景に数の持つ絶対と抽象のイメージを巧みに編み込むことで可成り心理的だったり、現実的だったりする物語の生々しさを軽やかに而もしなやかに何処か抽象化された感じの掌編に仕上げ、時代背景にある電脳社会の猛烈な技術的進歩に対応させつつ描く。極めて面白い。
実演鑑賞
満足度★★★★★
終盤、側壁・ホリゾントいっぱいに貼られた映画ポスターが示されるが、圧巻。
ネタバレBOX
斜陽産業としての映画界。かつての隆盛を誇ったこの業界も下り坂となると早かった。その栄華は一場の夢ででもあったかのように、寂れた。
今作は凋落の一途を辿っていた1970年代初頭の映画産業創作者側を描いた物語である。実際都市部では1駅に2~3館在った映画館が忽ち1館になり、それも無くなって乗降客が膨大な駅にやがてシネコンが生まれたが、ミニシアターなどでの上演が、その合間を繋いだ。
主たる登場人物はプロデューサー、監督、脚本家、俳優等の関係者、足に障害を持つおじさんの面倒をみる姉弟とおじさん、映画館主夫妻だ。これらの人々の紡ぎ出す生活が、上演されている芝居小屋を映画館に見立てた状態で上演されるという中々気の利いた演出で演じられるが、基本的な視座は主人公が現在と往時を行き来しつつ臨場感たっぷりにこの業界の盛衰を再現する手法で描かれるから、観客は離れられない。
大物とされる監督が実質的な何物も持たず、それを自覚しているからこそ、筋の通らぬことを誤魔化す為に作品制作中に矛盾だらけの指示を出して脚本家・俳優・プロデューサーに無意味な負担と膨大な借金を強いたりすることをプロデューサーが真っ向批判するシーンもあり迫力も大したものだ。役者陣の演技もグー、自分はおじさん役を演じた役者さんが気に入った。また今ならジェンダー論争になりかねないような女優に対する扱いも描かれておりこの様な弱者に対する注視も日本での原作者の苦労を想起させて興味深い。
実演鑑賞
満足度★★★★★
史実と創作を矛盾なく繋げ、悲劇の英雄阿弖流為と坂之上田村麻呂との親交と二人の目指したもの・ことと権力者の無情とを対比させた秀作。ベシミル。(追記後送)2時間20分、休憩無しの長尺だが引き込まれっぱなし。
ネタバレBOX
時は奈良から平安への過渡期、往時の天皇は五十代・桓武である。物語は陸奥・日高見国が舞台だ。この地には朝廷からまつろわぬ民と敵視され、権力者側の常套手段・非人間化する為のプロパガンダに因って体制側からは悍ましい者ら、ヒトたらざる者と見做された人々が住んでいた。彼らの多くは現在日本と呼ばれるこの国の先住民集団のうちのアイヌの人々である。実際のアイヌは、自然と共に生き狩猟、漁業、牧畜、農業等を営み、自然の中に様々な神を見出し神を大切にしながら生活していた。狩猟や漁業を行う場合でも狩られる動物や魚たちは人の餌食になることによって、各々の体に宿っていた魂としての神が解放され元々の神の在所に戻るという考え方をするので矛盾はない。因みに今作の主人公・阿弖流為の纏っている衣装のデザインは梟が下敷きになっている。何故か? アイヌの神々の最上位は、力の象徴たる熊ではなく、知恵の象徴たる梟だからだ。このような彼らの思考形式が野蛮である訳がない。寧ろ真の蛮族は残念乍ら権力者の側だ。
実演鑑賞
満足度★★★★★
途中10分間の休憩を挟む2時間40分の長尺もの。作品解説にもあるように家庭教師は、現在のような不信の時代にあっても他人が堂々と一般家庭に入り込むことができる仕事である。して、これだけ長尺の作品となれば、普通一般の人々が想像する家庭教師とは異なるのが当然だろ? 然り異なるのだ! さて どう異なるのか? それは観てのお愉しみだ。
ネタバレBOX
板上 下手奥のコーナーに正方形の平台、コーナーの角を挟むように衝立を設け客席正面の衝立は襖仕様になっているので開閉できる。場面によって子供の勉強部屋になったり、上手奥に暖簾の掛かったバーカウンターと箱馬が在ることから見て取れるように店(小料理屋)の隠し部屋になったりと用途は様々。
読者をじらすのは此処迄。序盤はマミヤが関わる二つの家庭の、関わる前の各々の家庭の有様やその日常風景など、中・後半からは何と家庭教師マミヤは助手を持つことがまたその手腕は卓越したものであることが明らかにされつつ、同時にその助手もマミヤと同じように鋭い洞察力と鋭敏な感性そして明晰な思考力を持つことも徐々に分かる。更に登場するこれ迄挙げた人物たちと新たに登場する人物たちが密接なくんずほぐれつの諸関係を織りなし、何度も示唆されていた怪しい関係等が、メスの切れ味のように鋭い論理的思考によって沈着冷静に処置され明かされてゆく怖い程の迫真的展開で演じられてゆく。ラストシーンも実に意味深である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
茶わんチームを拝見。茶碗とも茶椀とも書かず開いた表記にしているのもグー。ちゃわんは、無論茶をいれたり飯を盛ったりする器だが、材料が陶磁器か木かを分けずに両方を含む表現になっているからだ。このような細部にも気を配った脚本である、見事という他あるまい。流石に10年を迎えたアクタージュの記念すべき作品と謂えよう。キャスティング、演出、演技何れも素晴らしい。断固ベシミル、華5つ☆
ネタバレBOX
舞台美術は、アクタージュの自作。いつも乍ら感心させる作りだ。今回の作・演は 坂井 和さん。脚本の設定が抜群だ。因みに脚本は設定が最も大切な要素だと考える。これが良ければ脚本創作は半ば成功、と言える程だ。今作の設定はその手本のような出来である。タイトルも作品内容に即した実に味のある深いものだし、設定の奇抜さが、通常我々が家族という概念で想像し続けている概念を根底から揺るがし炙り出す。傑作である。ラストシーンは、カットしても良いくらいの位置づけだ。然し演劇というものは、日常を描いていても非日常の世界である。もっと正確に言えば現実と虚構の当に狭間に存在する芸術なのだ。人形浄瑠璃の脚本セオリーにも見られるようにラストはあってもなくても良いくらいの表現にした方が良い。これは観客を現実と虚構の狭間から現実の日常に戻す為の創作者側の配慮である。このような点に迄気配りの利いた作品と観た。
実演鑑賞
満足度★★★★★
team奏を拝見。圧巻、ベシミル!! 凄い迫力、脚本の態と少し飛躍して演者たちの想像力を刺激する方法や、それに応えて為される役者陣の力、舞台美術にマッピングされるイマージュの美しさ及び的確さとこれまた見事に呼応する生演奏。華5つ☆ 追記2.19
ネタバレBOX
物語は平安末期源平合戦の最中、主人公・佐々木三郎盛綱が現在は埋め立てられ消失したが岡山県倉敷に在った『藤戸海峡』を馬に乗ったまま渡り先陣を切って武勲を立て児島の領主となった際、何故海上合戦を得意とした平家に対し挙げたような戦法を採って先陣を切ることができたのか? この時点で船を持たなかったと伝えられる源氏がこの合戦に勝利し得た根本的理由即ち騎馬で海を渡るということが何故可能だったか?
板上、展開としてはこの合戦で盲いたものの新領主となった佐々木着任の模様から描かれる。能の方は拝見しておらず、その脚本も読んでいないので形式・内容を知らないが、一般論で言うなら複式夢幻能の常として前場と後場に分かれているのだろう。今作の肝は、前場のシテ役、老婆が上段で挙げた疑問の理由を告げ、その理由故に殺され子を失った母の慟哭を切々と訴える。新領主盛綱は船で着任時信頼する従者から領地の民が集まっていることを告げられ、その理由を訊ねる。従者は新領主佐々木の新たな布告即ち‟新たな掟を知る為“、また新領主を拝する為に集まったのだと答える。そこで盛綱は民の面前で新領主としての布告をする。「最大の罪は殺人である。その他、人としてあるまじき行いに対しては厳正に対処する」という極めて倫理的に真っ当な布告をした。
民らが引き上げると従者は献上された島で最も熟成された酒で領主をねぎらうが、盛綱は浮かぬ風情。暫く後、一人の老婆が現れる。これに応じた盛綱は、図らずも村で狂人とされる老婆が一人息子の惨殺の有様を事実通りに語る相手となった。結果、己の為した所業と着任時に行った布告の矛盾が齎す匕首を自らの魂に突きつけられることとなった盛綱には、騎乗のまま海を渡り先陣を切ることができた理由、更に他の源氏武者に情報が漏れ手柄を横取りされることを恐れた盛綱自身が浅瀬を案内した息子を惨殺したことも、ありありと再現される。結果懊悩が彼を迷妄・幻影の時空に導いた。
後場で老婆の語る話は息子は鮫に食われたという村人たちの話を踏襲する嘘に変じている。代わりに怨霊の真打として惨殺された息子自身の幽霊が登場、生きている限り盛綱に取り憑き苛む。即ち苛む者が前場と後場では異なるのである。ひょっとするとこの部分が能と現代劇として演じられた今作の大きな違い、演奏舞台の脚本家が最も工夫した点なのではあるまいか?
ところで今作を観る者にひしひしと迫る迫力は、盛綱の狂乱のシーンが恰も「東海道四谷怪談」に登場する元赤穂藩藩士・民谷 伊右衛門が妻・岩を惨殺後化けて出られ狂乱を呈するに至った場面を彷彿とさせるし、任地到着直後に行った布告に真っ向から対立する矛盾を突きつけた老婆の真実に己の領主としての存在意義及び人間性の総てを打ち砕かれ裸形を突きつけられて苦悩する盛綱の姿が映し出される。この場面の持つリアリティーは「マクベス」一幕五場でマクベス夫人が王の使者からマクベスの居城に王が宿泊するとの知らせを告げられたあとの台詞。殊に・・・死をたくらむ思いにつきそう悪魔たち、この私を女でなくしておくれ(小田島雄二訳)云々以下の決意表明を想起させることで「マクベス」という作品そのものをも今作観劇中に同時に観る者の想念に嵌入させた。
無論、老婆の最初の登場は前シテとして二度目の登場は後シテの先触れとして機能しており、自分の想像では能でもこのような前シテと後シテの違いはあるかも知れないとは考えるが無いと考える方が今作の脚本が如何に練られたのかを考える上では面白い。
作品の三大要素は世間体を意識した従者の冷静な対応(世間)と盛綱の狂乱が見事に対比される点。その原因となる異界の者(惨殺された息子の幽霊)と仲立ちをしたその母の念(情念の凄まじいエネルギー)が三つ巴の展開をダイナミックに遂げることだ。が、その各々を舞台上で表現してみせた役者陣の力量が素晴らしい。殊に従者役・鈴木浩二さん、盛綱役・森田隆義さんお二人の演技は格段であった。無論、あやかしである念の権化・老婆を演じた岸聡子さん、息子の幽霊を演じた典多磨さんのアモルフな感じもグー。
実演鑑賞
満足度★★★★★
大本のネタはインドの叙事詩「マハーバーラタ」第3巻に収められた作品であるが、日本では「今昔物語」中の天竺編に所収され、また能の同名作品として、歌舞伎では「鳴神」としても脚色・翻案され上演され続けてきた作品の系譜であるが、今作はこの系譜に矢張り能の演目の1つである「岩船」をも加え祝詞の如き用い方をして物語を膨らませている。学問的系譜の詳細は興味のある方に詳細を追って頂くこととして、今作の噺に移る。
ネタバレBOX
一角仙人は、元御在所岳一帯の自然を司る神であったが、人間と交わりを持った頃酒に酔って深く眠り込んでいる所を襲われ額から生えていた鹿の角を折られ仙人に降格させられてしまって以降人間不信に陥り人間と付き合わなくなっている。一方弟の龍神は兄より都に近い近江との境にある雨乞山(架空名、実際は鈴鹿山脈にある雨乞岳をイメージしている)を拠点とし、命短くか弱い人間が懸命に生きようともがく姿を観て好感を持っているが、兄からは再三、人間は信用できぬ、裏切ると忠告される。然し龍神は人間を信じることに賭けた。その直接的な契機は彼が護る谷間の村に住む村長の娘には龍神である己の姿が見えたこと、そんな契機を通じて会話を交わし信じられる人間が居ることを信じたことが大きかった。然し今作の時代設定は朝廷の支配が陸奥や他の辺境地を平定する以前に絞られており登場する村長の治める領民も皆、かつて朝廷と戦い敗れて近江近在の谷間に逃れ今は鉾を収めて暮らすことを選んでいた。だが敗れたとはいえ華々しい戦闘を終えてからジェネレーションが1つ移った程度のこと、若者の中には露骨に朝廷に盾突こうとする者達が居り、実際に小競り合いも時に起きていた。こんな状況を打開しようと噂を伝え聞いた朝廷の女御・徳子は切れ者として帝から政を託されているのをいいことに龍神を誑かす算段を付ける。民を助け救う為と偽り、兄の一角仙人から神と雖も契約をしたら、それを破る訳にはゆかぬ、契約はするなと戒められていた水を操る力を持つ龍神と契約を結んだ。そしてまつろわぬ民の棲む谷間の村を襲う洪水を起こさせた。
このことが在って兄弟は大喧嘩をし、兄は弟を岩山に封じ込めてしまった。それ以降一向に雨が降らぬ。田畑は枯れ、川は干上がり河童や水の中、周縁で暮らす動植物総てが命の危機に瀕している。この悲惨な状況に至って初めて帝は失政であったと気付き対応策を練る為の情報収集から始めた。そして龍神が岩山に閉じ込められたことが原因だと突き止め現場に巫女及び関係者を伴って謝罪に赴く。この場面、谷間の村からも人々が訪れてもいて物語のクライマックスだから詳細は観て頂くとして、今作に内包されている様々な地域の様々な神話、歴史、文化、風俗、風習等を過不足なく実に上手く繋いだ暮川 彰さんの脚本の良さとそれをヴィヴィッドで楽しく而も華やかさも添えた演出が光る。殺陣のしっかりした動きはキチンと居合などの剣技を磨いた一角仙人役の竹田 光一さんの杖捌きが決まっている。無論対する龍神役で演出・脚色も担った幸田 友見さんの動きも良い。また効果音として用いられている小鼓、能管や篠笛、龍笛の用い方も実に効果的。女優陣の舞いのあでやかさもグー。
ところで、一見華やかであでやかだが、ヒトの持ち得る希望と過ちを繰り返す絶望的な愚かさである戦争という諍い事とは次元を異にする神仙の世界との対比を嚙み砕いた大人のお伽噺として創作された今作、実際に今世界で起こっていることを挙げて稿を終えよう。
一般的に民衆は戦うことを好まない。殆どの場合生産性等無く、互いに傷を負い今迄より惨めになるのは自分達自身だと知っているからである。然し権力者の発想は全く異なる。権力にも含まれる力という言葉がその形を端的に表しており、敵対勢力を総て下してこそ争乱が平定される為平和が訪れると考えるのである。より酷い目に遭って負けた側に恨みつらみが堆積し、いつも火種が絶えないことに対する根本的考慮は無いに等しい。反論する人々は言うであろう。徹底的に監視し怪しければ厳罰と収監、様々に権利を圧殺する法の制定や差別を「合理化」できる法を制定し、身内スパイを作り密告システム等を作って体制を守れば良い、と。然しそんなことで体制側の社会が安定するのか? これだけ情報通信ネットワークが発達し、世界中に送受信され他者から或いは他国からの干渉や非難はないのか? より本質的な所では支配されている人々からの反撃の脅威は弾圧すればするほど被支配者内面で増大する。そしていつか爆発する。支配する側にはそのことに対する恐怖が去ることは無いから遂にはジェノサイド以外に打つ手が無くなる。実際に現在それが進行しているのが歴史的パレスチナにおける状況である。シオニストが行っている行為は当に総てこの方向に向かっている。元来シオニズムという論理のオーダーは規定のものであったから、そこからの唯一の論理的展開は尖鋭化以外に在り得ない。それがアメリカというイスラエル加担国家のトランプ就任で更に加速しているのが現状である。どちらに真の正義があり、どちらが人道の罪を圧倒的に多く犯しているのかは、バイアス無しに見れば誰の目にも明らかである、という問題に直結するような視点をも彼方に見えるような気がするのである。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル! 役者陣の演技が良い。父・大地役、大地の親友・翔太役が特に気に入ったが上手い役者が揃い、演出、脚本もグー。舞台美術も気に入った。
ネタバレBOX
川崎市の市政100周年記念事業の一環として若手演劇人によってプラザソルで上演されている今作、こういうとちょうっと硬いが家族連れで観て楽しめるというコンセプトで創られ、話は結婚を決めたりつが彼・登志夫と共に故郷の離島を訪ねるが、未だ彼に父がロボットであることは話しておらず、彼は挨拶の席で父に殴られてしまった。何故、人間であるりつの父がロボットなのか? この理由を島の婆さん・キヌが説明するという形で進むので物語の筋も組み立て方も分かり易い。尺も2時間と程よく、何といっても結婚の挨拶に久しぶりに故郷を訪ねたりつの父・大地が型落ちのロボットという設定が良い。而も
大地を演じている役者さん(豊田 豪さん)の演技は秀逸。
舞台美術も平台を多数幾重にも重ねて作り、而も踊り場に当てられた部分は一部を他の平台で支えることによって安定させる構造になって居る為長方形、正方形、直方体等矩形で構成されているが、ただ積み上げる単純な構造にならず緊張感のある作りになって居る。のみならずホリゾントには高低差のある木製の丁度アイスクリームのバーのような形の文様が踊りアクセントを付けている他、名画・ヴィーナスの誕生のように貝殻から立ち上がるヴィーナスの代わりに放射状に広がる光線が放射状に広がって独特のアクセントを付けている。役者陣の演技は良い役者を揃えてレベルの高い演技であり、演出もグー。脚本も押しつけがましさがなくホームドラマの定石を弁えつつそれを感じさせない作りで笑いも随所に鏤められ今作の肝・親子の愛とそれを支える島の人々の情、ヒロインの父が人型ロボット(試作機)であるという異常な状況を島の大人たちに受け入れさせるのがヒロインの学校友達であるという実に自然な描き方も素晴らしい。
子供というものは、孤りで大きくなったような勘違いをしでかし勝ちだ。然し齢を重ね父母を亡くして長い時を経て初めて親の注いでくれた深い愛や慈しみの有難さ、その何物にも代えられぬ稀有な僥倖を知って後悔するのではないか? そんな思いをしみじみ噛みしめさせてくれた秀作である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
板上はホリゾントに黒幕を設え、その手前センターに箱馬をキチンと8個行儀よく並べてあるほか、板中央に1個。
客席側の縁に丸椅子3脚が等間隔で置かれている。いつでも小道具の移動だけで手軽に場転できるレイアウトだ。
ネタバレBOX
物語は宇宙人の地球侵攻により、地球の資源や彼らにとって有益な総ての物が統制下に置かれ収奪されるがままになった地球が、漸くヒトの世界統一組織を作り新たな為政者である宇宙人と交渉しヒトの延命を画策し始めた時点からの永い人類史を或るシェルターに隔離され延命を図った2つのファミリー史を描く形で描かれる。シェルターで暮らす登場人物は、木の川家の4人とゴライ家の3人及び教育を担当する教師1人。シェルターの窓からは広大無辺な銀河が見える。
科学的には、現在の我々地球人が持つ物理学からみると荒唐無稽な部分も多いが、若い人が劇団メンバーの殆どを占め自由な発想で想像力を働かせて描いた作品として楽しめる。
さて物語のあらましを説明しておこう。地球の実質的支配者となった宇宙人の持つ科学技術は人類のそれを遥かに凌駕する為、戦えばたちどころに滅ぼされることは明白。そこで交渉に持ち込むことでは人類も漸く国家という共同幻想を排し地球人としての纏まりを見せた。然し永遠に従属させられることは肯んじえない。そこで極めて長時間(何億年というレベル)での長期戦計画が地球人代表組織を中心に計画され秘密裏に実行された。今作で描かれるのはこの実験に組み込まれた家族たちの幾億年にも亘る生活史である。この長い年月の間に地球人は宇宙人の技術を多く学び取り入れつつ独自の進化を遂げた。(今作では移動スピードが光速を越えたり、人間は如何にサイボーグ化しても生身の生体部分は150年程度しか維持できないとの定説を無視し「永久」を生き得る存在と措定されている)
ところで今作の白眉と称すべき部分は、シェルター内で発生した疫病によって殆どのメンバーに死が訪れ、たった独り残された主人公、アンナが発狂もせずに絶対孤独の央で自己認識を保ち(即ちアイデンティティーを保ち)続け、その先に希望を見出すことができるのか? という処迄描いていることである。通常絶対孤独の中でヒトは自己がヒトであることも、自己と自己に似た他者という存在が存するという事実も認識することは出来ない。何となれば比較することでしか己を認識することは不可能であるからだ。この点は深く考えれば納得のゆく所だろう。少なくとも自同律に縛られ虚無感に苛まれて発狂するか、発狂せずに虚無に耐え続けるか。そもそも己という概念が存在し得るのか? 或いは埴谷雄高が「死霊」で描いた境地に達するか(埴谷の場合は絶対孤独に近い状況ではあったがそうではない)しか思いつかない。
何れにせよ、希望を抱くという行為は前段の問題に答えを見出す作業を為した後の問題であるからより実現性の度合いは低くなると考えるのが通常であろう。然し今作は、この実に困難な問題が為され、人類に希望が残っていることを示した点がグー。
蛇足:上記を改善するには、脚本に伏線として教育係の老人が某図書館所蔵本の総てのデータを所蔵しており、その資料が発見されてアンナが読んでいたなどということを示唆するような部分を埋め込むことも有効だろう。
実演鑑賞
満足度★★★★
テアトル・カナはポーランドからやってきた。色々な意味で現代ヨーロッパの苦悩と限界も感じられる作品である。華4つ☆
ネタバレBOX
2024年創立45年を迎える劇団である。特徴は身体重視に重きを置く点だ。今作は隣国ウクライナにロシアが攻め入りその国土の一部を併合しようとして戦争となったことが、ポーランド国民にとって極めて大きなショックを与えたことが大きな要因となったことを如実に示している。戦争当事国では無くその隣国であることで戦禍に追われる当事国より精神的には微妙な問題を抱えるに至ったのかも知れない。というのもポーランドの歴史は独ソにより国土を分割され支配された厳しい歴史を抱えホロコーストの絶滅収容所をその国内に抱えていた傷も負っているからである。ヨーロッパの多くの国同様、ポーランドもカソリック教徒の多い国だから信仰の問題も絡む。そして一神教信仰は総ての事象の原因を神を基に据えることで本来人間が発明したに過ぎないと理性が教える神に、人間が負うべき世界の食物連鎖最上位生物の全責任から逃がす役割をも果たしてしまう。このまやかしが実際には人間という存在が引き起こした地球規模で益々深刻の度合いを増している総ての当に待ったなし状況に対処することを阻んでいることは真っ直ぐ世界を観る目を持ち常に本質を捕まえようと努力しバイアスを排除することに力を注いでいる者なら誰でも気付くことである。
それは人間に因る環境破壊(生態系破壊、温暖化、パンデミック、原子力産業総てに纏わる重大な汚染・破壊、人間に制御し得るか否かの分からないAI技術やIT技術の暴走、エネルギー利用過多等々の問題を突きつけている。
その結果、作品内容は、先月9月14日に、世界初演をあうるすぽっとで実現した東京演劇アンサンブル創立70年記念に作家、デーア・ローアが書き下ろした作品「ヤマモトさんはまだいる」と共通点が多いように思えた。但し表現方法は可成り異なる。カナは身体表現に集約することに重きを置くのに対しローアの戯曲はもっと歴史や社会科学的知にベースを置き客観化を目指しているからだ。前者が身体的即ち自死を含む内面的苦悩やそれを根とする深い内省から生み出される実存的知であると同時に時代の知としてのAIにも活路を見出そうとするのに対し、ドイツで主として活躍するローアの持つ方向性はあく迄人文学的知である点で東京演劇アンサンブルの提起した危機感とテアトル・カナの持つ危機感には明らかな共通性があると思われるが、矢張りこの危機感は日本に暮らす我々も同様の与件である。にも拘わらず日本人は彼ら程危機感を持たない人間が多いと思われる。現在最大の我々の問題は当にこの鈍感にある。
実演鑑賞
満足度★★★★★
脚本選び、演出、演技、効果何れも素晴らしい! 華5つ☆
随分昔に脚本は読んでいたが、舞台を観たのは初。60分、のめり込んで拝見。
ネタバレBOX
清水邦夫の作品には多くの詩が引用されていることは、演劇ファンなら自明のことである。今作のタイトルもギンズバークの詩から採られている。
下手にテーブルと椅子、テーブル上にはグラス等。大学教授の家のリビングルームである。板ほぼ中央に壁を突き破って突っ込んだ車。オープニングは若い2人の男女が騒ぎながら乗車している。かなりノッている。と、いきなり事故った。事故車からは若い男が這い出し眼鏡を探している。極端な近眼である。同乗の女は腰を挟まれて暫く脱出できなかったが2人とも怪我らしい怪我はしていない。車は家屋の壁を破って止まったのである。だが住人3名は車に突っ込まれた瞬間こそ腰を浮かせたものの一向に動じる気配が無い。それどころか眼鏡を探す男と度数がほぼ同じ妻の妹は眼鏡を外し男に貸す。親切この上ない。歓待する構えである。住民は教授夫妻及び妻の妹。
騒がないことや、妹の言では夫妻が事故った2人を泊めようと考え2階の部屋をその為に片付け、布団の用意迄しているらしい。そのうち、教授一家は詩や「ハムレット」の台詞の遣り取り等を初め、飛び込んだ2人にも台詞を何か言うように要請する。男は毛沢東の語った戦陣訓や左翼理論家の述べたフレーズ等を述べる。この遣り取りは劇作家・清水邦夫の面目躍如たる傑作チョイスである。引用されるリルケ、シェイクスピアといった天才たちの作った言の葉の一節及び毛沢東、ホーチミン、カストロ等革命家たち左翼の言説が奇妙にも極めて上手く繋がり新たな感興を生み出してゆく点だ。役者陣の演技の良さ、演出の巧みと的確な効果の威力で優れたシナリオが瑞々しくまた時に極めて鋭く日本という「国」の体たらくの悲惨を描く点だ。
作品は1972年初演だが古びるどころか益々日本という植民地の体たらくをハッキリ示している。気付かないだろうか? 現時点で起こっている戦争・紛争とその背景で蠢く者達の冷徹で力任せで残忍な思考や行為に。現時点での世界情勢が第2次世界大戦前に極めて似ている状況に。このような状況に於ける大多数の民衆のメンタリティーと正鵠な視座を避ける風潮に。
実演鑑賞
満足度★★★
タイトルに月が入っているのは、「竹取物語」をイメージしているのかも知れない。
ネタバレBOX
さくら組を拝見。詩的なタイトルに先ず惹かれて観に行った。然し下世話なギャグの乱発、導入部の仕掛けの甘さに興が削がれてしまった。考古学会で期待される2人のライバルの内、件の海外発掘調査に参加できるのは1名のみ。参加したのは2人が愛した女性と結婚し得た人物だった。だが、妻は結婚しなかった男を慕っていた。
して、箱舟とは‟ノアの箱舟“である。2人はそれが実在したと信じ、片や中東説、片や南米説を採っていた。発掘に参加できたのは南米説を採っていた梅宮、即ち2人が共に愛した女性(古都)と結ばれた研究者、結婚に至らなかった中東説の松坂は古都への念を断ち切れぬまま涙を呑んだ。此処迄が物語の前半を形成する部分だが、この前提部分の尺は短い。
残る尺の殆どは17年後を描く。海外での発掘後帰国した梅宮は家業を継ぐという名目で考古学会を去り産業廃棄物処理をする会社の社長に収まっていた。然し社長夫人であるべき古都の姿が其処には無かった。梅宮は再婚しており、彼の説明では古都は失踪し皆目行方が分からないということであった。だが、梅宮と古都の間には娘が生まれていた。梅宮の海外出張調査中に誕生した子であった。然し後妻と娘は犬猿の仲であった。
ところで産廃処理場と近隣住民との間ではいざこざが起こり易い。原因は産廃から漏れる可能性のある有害物質に対する懸念や臭気、土壌汚染懸念等々である。このような苦情対策に敷地内を工事している最中、遺跡跡とみられる物が出土した。実際に価値ある遺跡であれば保存措置等の対応も必要になるということもあり、その調査に旧知の松坂が呼ばれた。当初、大した成果は観られなかったものの、人骨が出土。事態は急展開を迎える。それ迄殆ど知らぬ振りを決め込んでいた大学が調査団を派遣して発掘に加わる。そして娘と後妻の対立の最も根深い根源、後妻の社員との浮気、古都の失踪に纏わる事実等々が総て明らかになる。
役者では古都役、松坂役に好感を持った。
実演鑑賞
満足度★★★★★
如何にも夢現舎らしい作品である。新春公演とあってそれにふさわしい出し物もある。ショートストーリーをオムニバス形式で繋いだ時間、ゆっくり楽しみたい。(1回目追記1.11、2回目最終追記1.13アップ)
ネタバレBOX
面白いテーマである。ところでヒトは何故対象に名前を付けたがるのか? 見た物、音を発する物、或いは手には触れず見ることもできないが感じるものについて。ヒトはあらゆる対象に名を付けたがる。それはなぜか?
私見だがそれは恐怖や不安からである。歴史的にはヒトが淘汰されず生き残ってこれた理由に共同体を作ることができたことが挙げられている。牙らしい牙も無く、動作も鈍く、爪も鋭くはないヒトが暑さ寒さに耐え食物と飲料を確保し徐々に体毛も少なくなってからでさえ自然を相手に生き残ってこれたのは共同体のお陰ということになる。では共同体が生じる為に必要なもの・こととは何か? コミュニケーションである。ここで始原のコミュニケーション論から始めるつもりはないから、言葉の骨格は既に出来上がりコミュニケーション可能なレベルでの文法も成立しているとする。{実際シジュウカラは百数十の単語(鳴き方)を持ち文法構造もしっかりしていることが既に明らかにされている}から爬虫類から進化した鳥類にも一種の言語機能が既にあるということもできよう。そしてこの能力によって彼らは卵が蛇に狙われている場合や天候の変化等々を近隣の仲間に伝え生き残る可能性を増大している訳だ。つまり文が成立している。文が成立する為には単語と文法が必須である。では言語の発展段階と裸形(身体的にも精神的にも)との間にどのような状況があったか? ヒトが捕食、被捕食の関係性の中で生き残る為にはこの関係を見切ることの他あるまい。即ち対自然のうち、ヒトにとって脅威となる生き物に対して名付けることは命を永らえる為の必然であったハズだ。その他にも気候変化や自然災害刻々と変化する生活環境の中で極めて多くのもの・こととヒトは対峙し続けてきたし今もそれは変わらない。どんなもの・ことが脅威であるかについてそれを共同体の皆に伝えれば情報を共有し得る。こうして徐々に自分達のリスクを減じてきた結果ヒトの勢力圏は拡大してきたと考えられる訳だ。以上極めて単純化した説明から類推できるように、自分は生き残り作業の必須事項の1つが名を付け共有化することでなければなるまいとの考えを抽出した。
作品は現代のヒトの生活を描いているから名のイメージから起こる様々なマイナスイメージ問題や偏見、滑稽等も扱っている。体たらくとしか言いようのない現代日本の政治、円の下落というより相場を左右する更に深い原因である政治・経済・技術・思考の劣化・イマジネイションの矮小化・共同を阻む有象無象の理由等々で凋落の一途の我が祖国を憂いた台詞も随所に哀しく響く。深い思考が齎すこのような表現を自らの内側から感じることができる人々には極めて奥深く迄味わえる作品である。
実演鑑賞
満足度★★★★
中国神話?
ネタバレBOX
神話というと我々日本人の多くがギリシャ神話や北欧神話には詳しくても日本神話は教科書に載っていたものや祖母や母から聴いたものを除き案外知らないような気がする。或いはこれは自分自身の傾向に過ぎないのかも知れないが。日本神話は天皇制に結び付けられていることからそもそも嫌いであった。寧ろ沖縄のニライカナイやアイヌ神謡集に収められているような神話に親近感を覚える。
ところで長い間に日本や朝鮮半島に生起した国々に多大な影響を与え社会の仕組みとしての律令制、文化的にも陶磁器や漢字、漢詩やシルクロードを渡って日本に辿り着いた楽器等にしても中国は他の多くの国々の現実に影響を与えてきたにも関わらずこと神話に関しては余り具体的な事例を挙げることが出来ないというのが現実ではなかろうか? 今作はその理由として動乱の時代を生きた孔子がその現実主義的でそれなりに合理性を持つ儒教を確立した論理性でそれ迄伝えられていた、不合理な神話を否定し儒教が広まっていったこととも関係があるとしている。そして英雄や人心を掌握した人々を神として祭る慣習(例えば関帝廟などにみられるように)も所謂他国の神話のような神話が伝承されなくなったのではないか、としている。従って世界に多くあるような創世神話が短く語られるくらいでその後は様々な神の戦い等が描かれる。そして最後に夏の王となった禹王の生涯を描く。
実演鑑賞
満足度★★★★★
様々な状況で生きた人々が死を迎え、冥途へ旅立ってから四十九日を迎える迄には、七日ごとに審判を受け四十九日を迎えた段階で、六道即ち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の何処へ生まれ変わるかが決定される。今作はこの期間を冥途で過ごす死者と鬼や閻魔との有様を描く。
ネタバレBOX
この時期これだけの人数の演者を、この質で集めるのは大変だったであろう。歌あり、踊りありの公演だが、ダンサーたちの踊りが上手い。和服でのダンスはみものであった。歌唱場面でも役者の歌の差は若干あるものの歌も上手い役者、かなり上手い役者が歌っていて全体の調子が崩れない。これは場転や繋ぎが極めて上手く的確でスピーディーなことも大きい。全く違和感なく物語と連動しているのである。脚本も練れたものでエンタメを謳っているが劇団の根底にある人としての倫理観が投影され随所に深く納得させる台詞が鏤められ、心に沁み魂に響くのもグー。閻魔の裁きは名裁判と言って良かろう。閻魔が通常人々を良く見ている理由も分かるポジションに居るというポジショニングも見事である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
矢張りKing’s Men、他の劇団がやらない演出で魅せてくれた。本日5日まで座・高円寺Ⅱ、1月6日から8日迄はせんがわ劇場で公演。今作の本質をストレートに観客に届けてくれる。観るべし! 母体がユニットなので演者のレベルは様々だが、いつも何らかの新たな解釈や演出の工夫がある。
ネタバレBOX
今回の公演では、能う限り日本の劇場でエリザベス朝演劇の条件下で演じられた「Fear No More」(日本語翻訳タイトル、ロミオとジュリエット)を演じてくれた。自分は今迄に数回、他の劇団が演じた「ロミオとジュリエット」を拝見してきたが、ロミオとジュリエットが味わわざるを得なかったモンタギュー家VSキャピュレット家の史的・因縁的対立に翻弄される宿命の恋人たちの苦悩、アンヴィヴァレンツに弄ばれるかのような絶望と歓喜の齎す傷口の呻きが我が胸に鋭く深く刺さるのを今回初めて感じた。このように感じた原因は、恐らく16世紀中頃から17世紀初頭迄続いたイギリス演劇史のルネサンスとも称されるエリザベス朝演劇の舞台環境を可能な限り再現したことと関係があると思われる。即ち電気を用いての効果は基本的に用いない。当時は室内ではなく上演は屋外で行われた為客席と板上で明度を等しくする。又1人の役者が何役もこなす等。
更に凄いと思わされたのが、柳 誠直さん演じるシェイクスピアが一幕、二幕の頭を執筆しつつ発するソネットに擬したプロローグを始め何か所かで同じように英語で紡がれる部分の発音の見事さである。恰もイギリス人舞台俳優が発音しているようなレベルである。即ちそのイントネーションやブレスによって、発された言語がどんな構造かある段階以上に外国語を習得した者には立ちどころに分かるのである。そのような高度に習熟した英語であった。而も文章を書きつけているノートは、当時の版型と同じ版型ではないか? と見える物でこんな細部に迄気を配って用意したとすれば凄い、と唸らせる類のものであった。
苦言を呈するとすれば、板から捌ける際、若い役者さんたちの中に観客から完全に観えなくなるまで演技を続けずに捌けてしまった人が何人も居たことだ。一旦板に上がったら、その回の公演が終わる迄、背中にも目を付けている位の気持ちで演じて欲しい。観客の座っている位置によって捌ける時も丸見えになることが在ることも、そういうシーンが観客を白けさせてしまうことも覚えておいて欲しい。
またキャピュレットを演じた 中島 史郎さんは、「るつぼ」の時より大分マシにはなったが、役とどのように格闘した上で板に上がっているのだろうか? との疑念は拭えなかった。今回も台詞をぞんざいに扱っている印象が何か所かにみられたからである。シェイクスピアの凄さは、天才的作家ですら比喩でしか表現できないような人間界の暗渠を総て台詞化してしまうことにあると思っている自分としては、このような大天才の台詞は例え翻訳と雖も疎かにすべきではないと考える。もし、自分の見立てが誤りで中島さんが役作りに最大限の力を注ぎこれがベストだと考えてぞんざいに聞こえる表現を選んだのであればその選択は尊重するが、仮に自分の指摘が当たっているのであれば、次回は更に納得のゆく演技をして頂ければ嬉しい。
実演鑑賞
満足度★★★
男女混合の即興を中心としたエンタメの回を鑑賞。MCを担当した役者が中々上手い。出演者の捌き方、ダイアローグを交わす時の気の利いた台詞や対応に頭の良さが感じられる。他の出演者には図抜けた才能は感じなかった。無論力量の差はあるもののどんぐりの背比べという印象。観客層も他愛のないギャグに笑う人が多いと感じた。エンタメとはいえ本所にある小屋である。もう少し粋な作品に仕上げて欲しかった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ThreeQuarterカウントダウン公演「1…のエイトチーム観劇。つか作品は様々なヴァージョンがあるが、このバージョンは初見。つかの本質を見事に伝えている。追記12.29午前8時半
ネタバレBOX
言わずと知れたつか こうへいの傑作。而もつかは演劇は各回限りのものというスタンスで長い間通していたのでアテガキも多く脚本に様々なヴァージョンがあり、その多くは残って居ない。今作も『売春捜査官』としては初めて拝見する内容のものであった。それ故新鮮であり、演出も新鮮なら照明や音響、劇中に用いられる様々な歌のセレクトセンスも良い。演出は、つかがその作品で鮮烈な単語や苛烈な単語を敢えて用い、状況を日常から際立たせるつか独自の表現法の齎すインパクトを上手に活かしつつ、実家は可成り裕福であったものの在日とあって差別される側でもあったであろう苦労・苦悩を味わったに違いない彼の優しさが立ち上ってくるような直截で本質を良く捉え、観る者を突く仕上がりになっており、役者陣の演技もグー。解散となるのが名残惜しいスリクオのカウント8公演を拝見。
ところで今後長野で劇団四分ノ三としてスリクオの魂を受け継いでゆくメンバーも居る。長野迄足を延ばせる方々は、是非追い掛けて残り四分ノ一を加えて欲しい。