tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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メモリーがいっぱい

メモリーがいっぱい

ラゾーナ川崎プラザソル

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2025/01/24 (金) ~ 2025/02/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

面白い。前にプラザソル主催の「キレナイ」二本立ても面白かったが、同じ作演出者による今回は一作品、気軽に見られる人情喜劇とはいえ、力が籠って感じられた。
元々好んで観る「分野」ではないのだが、それはヒューマンコメディは人間性の新たな発見という心地良さの一方で、現実の厳しさにあっても「そうありたい」訳であり、描かれている現実が甘ければ、そりゃそういう話もあり得るだろう、となる訳である。単純な話だが、どの程度シビアな現実のスパイスが振られているか、によって基本的に出来が決まると考えている分野である。
以下はネタバレになりそうなので、別途。

ネタバレBOX

今作には「ロボットの父」が登場。この「謎」について解明がなされるのは最後の最後だが、その時点ではその謎は遠くに引っ込んでいる。娘の婚約者である青年が娘の郷里の島を訪れ、初めて紹介された「父」に仰天した後、村の婆さんが親切に青年に話して聞かせる話が回想シーンとして展開する。娘が生まれたばかりの時、小学生時代、思春期と移り変わる中で、旧式ロボットの「父」のイノセントな風情が段々と風景に馴染み、村で働き者として頼られる存在にも。でもって思春期を迎え、プログラミング通りに娘を「守る」行動が、娘の恋愛場面を邪魔したりもする。ロボット父はその「一途さ」が愛される。手塚治虫の時代既にこのモチーフは用いられて来たが、演劇という舞台で実際に演じるに当っては、子供に「高い高い」をしたり大回転をしたり即物的な場面もあるがこれを面白くクリアしている。このバランスが良かった。
また後日書き足したい也。
カンテン「The Foundations」Final.

カンテン「The Foundations」Final.

カンテン事務局(Antikame?)

座・高円寺1(東京都)

2025/01/22 (水) ~ 2025/01/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

Select Bを観劇。架空畳、だるめしあんの順で、前者は滑らかに動き回り元気よく発声する(ダイアローグよりは観客に向かって語るニュアンスの発語が占める)。このリズムの滑らかのせいか(元々不眠だったが)ほぼ寝ていた(耳で声だけがわんわんと響いてた)。よって語られていた一切が不明。
休憩で体を起こさなきゃ、、と思いきやすぐに転換が始まり、次の演目へ。不安が過ぎったが杞憂。しっかり観劇できた。
こちらはだるめしあんらしいフィクションで、転換中広い舞台面に引かれたライン上を人々が行き交う導入、どんどん加速して二人が衝突し、男女が入れ替わっている、という「転校生」オマージュな始まり。二人ともバイトの面接へ行く途中。女装となった青年はコンビニで採用が決まり、女性店長と女性の同僚との会話で「どうも男性はその弱さゆえに気を遣われている」「女性は余裕かましている」男女の役割転換が起きていると理解。恋バナになって「あ、ごめんこれってセクハラかも」と気を使われ、呆れる。これが世界A、その後は店長が何かのきっかけで世界Bへ。紳士的な男性と圧倒的に弱い女性。次が男性優位、次が女性優位、微妙に関係性が異なり、その会話に滲んでいるのが面白い。最終的にはアンドロイド化が発達した世界に至り、転移した兄の前には研究者である妹。ある実験のため世界間の歪みが生じ、転移が起きやすくなった、修正のための旅に出ると言い、だるめしあん女優・河南が颯爽と風を切って出発する。パラレルワールドを渡り歩いて一人一人証言を聞いて回るが、「入れ替わった反対の方」に証言させ、一々皮肉が効いて面白い。ちょっぴり社会派なのも私には好感。

楽屋

楽屋

劇団ロオル

蓮根駅前劇場Sunny32(東京都)

2024/07/24 (水) ~ 2024/07/28 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

見逃した気になる公演を配信で観る事ができた。2チームとも観たくなったがここは我慢。(セット割などあれば観たに違いないが・・)
先日のあやめ十八番からの、これ。散々観た「楽屋」だが久々の観劇になった。
最近できた小屋なのか、狭い独特な空間が一つの(借景に近い)趣向になるのが「楽屋」。今回のは主宰の本田由乃本人も出演し、演出をやる。あやめの意想外の作りと比べて、でなくても作りとしてはオーソドックス。ただ音楽のチョイスや各場面の処理は演出者の創意発想のありかを感じさせる。のであるが、ラストを最高潮で締め、幽霊が人間的であろうとする程悲哀というか惨めさが増す結果というのは正解なのだろうか・・。
あやめ十八番が「捨てた」ラストの感慨(おかしいね、チャンチャン、で終わってるし)を欲するのは人情。自分もそこで人生を感じたい。役をもらえなかった女優という存在に何を仮託するのか、という所だろうか。女優である事を相対化できないまだ現役の(つまり生きてる)存在が、死んで霊になった事である種の俯瞰というか、己の命のみならず他者の生も視野に入れた「人間観」を、たまたま与えられた死後の時間においてどうアウトプットするか・・逆に生者へのオマージュを営みとする彼女らであっても良いのでは・・。どこかで世界と繋がり、彼女らが世界を癒す側である事を彼女らが自覚する事なく為している、そんな光景が「楽屋」の光景なのではないか。
うまく言葉化できないが、、あれこれを考えた。

『リタの教育』『オレアナ』二作同時上演

『リタの教育』『オレアナ』二作同時上演

稲葉賀恵 一川華 ポウジュ

シアター風姿花伝(東京都)

2025/01/11 (土) ~ 2025/01/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

「リタの教育」も観劇。今回の企画の主眼だが「オレアナ」と同キャストによる二人芝居、男性教授とその研究室を訪ねて来る女学生、という設定も同じだ。
設定は同じだが、当然ながら話も役柄も違う。「オレアナ」はある決意を秘めた学生との緊迫の一夜と最後に後日談がある一気呵成の芝居だが、本作は若い既婚女性が「一般人枠」に応募し教授との対話の中で「知る」喜びを獲得して行く数年にわたる経過を描いた休憩有り2時間超えの芝居。女性は夫との生活の中で素朴に感じた疑問、「このままでは先に進めない」という予感が「学び」に向かわせた模様なのだが、文学系の教授に彼女は畏怖する事がなく「あんた」と呼び、彼女なりの言葉で物事に迫って行く。その理解のプロセスが独特で教授は彼女の吸収力や学ぶモチベーションを発見する。「教える」喜びを思い出したかのようである。
「オレアナ」はハラスメントという剣呑なテーマを扱ったが、後者は「教える・学ぶ」関係の根本を抉る辛辣な喜劇、と言える。だが彼女が学生らとの交流を話し、海外旅行の話をすると微妙な感情がもたげるのが分かる。物事の理解が増した彼女は学生らとも積極的に付き合い、特に親しい一人の女子学生の意見をまじえて話すようになる。彼女が訪ねて来て間もない頃、こんなやり取りがある。彼女が書いた(ある文学作品を読んでの)セオリーを無視したレポートの中に魅力を見出したらしい教授がいる。彼女が言う、「テストに合格するために何が必要かを教えてほしい」。と、教授「その方法はあるし教える事もできる。だがそんな無味乾燥なつまらないもののために、君が持っているこれ(レポート用紙を示しながら)を捨てる事に何の価値がある」・・数年後、彼女の訪問が間遠になり、教授はどこか荒んでいる。彼女は相変わらずこの場所を自分の場所としていたいにも関わらず、教授は元々好きだった酒の毒がいよいよ回り、酩酊状態で教壇に立って放言をした事が問題となり処分を受ける事になる。懲戒は免れ、オーストラリアにある学術施設に2年間放逐される事となり、荷造りの日に彼女が研究室を訪ね(あるいは呼び出したかして)最後にシーンとなるが、ドラマの頂点はその少し前、教授にとっての危機が全開の時。反発のやり取りの中で女学生はついに「嫉妬」の言葉を出す。前は可愛い赤ん坊だったのに、今は自分で何でもできる。それを認めてほしい、私たちは対等だと。これに対しだったら出て行くがいい、と教授が言うのに対し彼女は「ここは残しておきたい」と訴える。自分にはここが必要であり、訊ねる事は少なくなっても自分にとっての場所なのだと。明確に親離れと子離れの話と相似なのだが、ボロボロに見える教授が彼女にある事を言う。それは彼なりの文学観・世界観の表明である。即ち彼女は学問というツールを用いて学生らと議論をし、アカデミックな仕事に勤しむ手腕を手にした、のであるが、それはたかだか大学(あるいは学問の世界)で暮らす事ができる方法であるに過ぎない。本当に学問的である事、真実を見るために切り開くべきフィールドを探し続ける態度こそ、価値あるものだ・・。この芝居で、リタが怯む一瞬が過ぎるのはここだけであるが(私がそう感じただけで殆どサブリミナルなサインであったが)、去り際の場面と合せて、彼が研究者としての体裁や人からの評価に飢えた薄っぺらな人物である事を免れている。ささやかに盛り込まれたテーマは演劇製作においても、政治においても、革新であろうとする事とは何か、について考えさせられる。

微妙なニュアンスの描出によって人間の関係の変化を抉り出し、厳しい現実の中に希望を見出させる二作であった。

『鯨よ!私の手に乗れ』『りぼん』

『鯨よ!私の手に乗れ』『りぼん』

オフィス3〇〇

本多劇場(東京都)

2025/01/08 (水) ~ 2025/01/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

直前に観劇を思い立ったものの本多は後方が厳しかったなと些か逡巡。しかし宣した以上は観るべしと足を運んだ。顔は判然とせずとも芝居はよく届いた。歌の比重が高く、ヘッドセットのマイクのためか誰が喋っているか探す場面が多々(自分が喋ってるという芝居してちょ、と内心こぼす)。
戦時下の日本や戦後の幾つかの時期を、説明抜きに行き来する3◯◯ならではのカオス演劇。中心となる女性たち(同潤会アパートの住人たち)は縁りの女優か、知らぬ名もあるが演技が「届く」面々。全体としてアンサンブルも含め華やぎ賑やかしい出演陣が舞台を埋め、群像たちの個体識別は未完に終わったが、様々な「喪失」の悲哀の重層低音を響かせる3時間近いドラマは「再会と獲得」を暗喩するラストで締め括られた。何のかの言って最後には渡辺えり氏がこの機に再演に付した思いが切々と迫って来るのであった。

押絵と旅する女たち

押絵と旅する女たち

犬儒派リーディングアクト

アトリエ三軒茶屋(東京都)

2025/01/10 (金) ~ 2025/01/13 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初犬儒派リーディング観劇はとても小さなアトリエ三軒茶屋というこちらも初のスペースにて。コロナに入った2022年から凡そ年3回ペースで独特な作品をやってる模様だが、どうやら日本文学史上の品々を翻案ないしはコラージュした作品を披露するものであるらしい。そのコンセプトはシンプルで、複数の乱歩作品を引き摺り出しある視点(糸)通して括り、抒情の内に幕を閉じて作品或いは作中人物(それは作者にも思われる)を元居た場所(冥界?)へと送り出すかのようである。乱歩の作風がそうさせるのか、ちょっとした儀式に立ち会った感覚に見舞われたのだった。
個人的には初のユニットながら見ればお馴染みの俳優たち、特に先日の二人落語第二弾を見そびれた北澤女史の「名調子」を図らずも味わえてラッキー。

二十歳の集い

二十歳の集い

Aga-risk Entertainment

上野ストアハウス(東京都)

2025/01/02 (木) ~ 2025/01/06 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ナイゲン初演版リーディングを拝見。「ナイゲン」という演目の上演は2度ばかし観たが、Aga-riskの観劇は(他演目も含め)初めて。開演すると進行役が出て来て説明。その後ほぼ劇団員+αの面々がガヤガヤと入場。ナイゲン内部限定の会議風景、という劇の枠組みと何名かのキャラ以外は残っていない初演版台本を皆も初めて渡され、くじ引きで配役を決めた後、ト書きを作者・富田氏が担当して読みが始まる。
ナイゲンを演るチームが醸すノリそのまま、劇団員らがコメントしたりはしゃいだり、読みが始まれば真剣モードにはなるも笑いあり、他の読みが面白かったりトチったりキャラ全開だったりに笑いが起きたり「通して読む読み稽古」の風景である。
ガッツリ90分読み終えると、総員居ぬきでトークも。
再演で現在の原形が出来、劇団での再演の度に若干の改稿で更新されている「ナイゲン」らしいが、こうして改めて味わうと作品が持つ時代的特徴についても思いが湧くところである。演劇好きの今の若者が「ハマる」理由、その背景としての今の日本の風潮を、(作品の持つ限界として)感じる所でもあった。
また時間があれば劇を振り返りつつその事に触れてみたい。

はやくぜんぶおわってしまえ

はやくぜんぶおわってしまえ

果てとチーク

アトリエ春風舎(東京都)

2024/08/01 (木) ~ 2024/08/04 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

配信をやっていたので鑑賞した。以前観た時はまだ音割れ等あって(大声放つタイプの芝居だし)厳しかったが、技術も上った。照明も明るい(高校の放課後の教室の設定)。
だがそれ以上にリアリズムで書かれたJK会話劇の鋭利さに感服。JK5人と女性教師1人、各人が程よくフィーチャリングされ、刺さる。LGBTが中核のテーマだが、普段っぽい放課後の光景から急カーブでこのテーマが誘導されるカーブの滑らか曲線やら、核心を突く台詞やらにやられ、彼女らを見る自分の目が変っている。「あるある」な会話やノリや仕種を具現してる女優らに尊敬が生まれている。

風のほこり

風のほこり

新宿梁山泊

芝居砦・満天星(東京都)

2024/12/26 (木) ~ 2024/12/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

2017年同じ梁山泊アトリエでの再演を観ていた(つまらんレビューを書いている)。会場にどうにか開演ギリに駆け込み、ひしめく客席の一角に収まると、見覚えのある風景。新人女優が立つ。そこは舞台の奈落で奥行のあるコンクリの土間の左手には水が張られた溝があり、階上で水を使うと流れ落ちて来るのでその受けらしい。戦前浅草の芝居小屋で息子と母の役(男同士)のコンビが雇い主で、ギャグで水をぶちまける。座付き作家である根アカ青年と共にこの奈落を仕事場として裏方に勤しむヒロインは、青年の無償の親切さにほだされつつ密かに台本を書き、作家への情熱を燃やしている。だが裏表のない青年はどこか薄幸の相があり、本作は一人この女性の物語である事が知れる。渡会久美子に当てて唐十郎が新宿梁山泊に書き下ろしたという本作のモデルが、かつて芝居の台本を書いて売り込んでは断られていた若き日の唐の母親であった事を、徐々に思い出していた。作家として「未完」に終わった女性が「物語」を紡ぎ紡がれ、虚実も定かならぬ「物語」に翻弄されつつ意志的に歩を踏み出す姿に、唐の母の人生に対する思いが重なり、こみ上げるものがあった。7年前の観劇では起こらなかった感興である。
ちなみにこの戯曲にはヒロインの尻見せという奇妙な趣向がある(台詞上これは無視できなそうである)。渡会女史への当て書きという意味はそれだと想像していたが、スカートの上部だけめくれて素肌が見える(マジックテープでとまった布を自分で下ろす)形姿が些か間抜けで、これに耐える女優である事を要する訳である。これは唐戯曲に特有の循環する幾つものモチーフの一つであり、女性の隠された嗜癖(何か病的な過去を想像させる)を表象するものなのだが、この仕草が戯曲上何度もあって観てると気恥ずかしい(1、2回減らしても良いと思う)。でもこの奇妙なアクセントと相まって情念渦巻く世界が展開する。
本作は2024年逝去した唐十郎の追悼公演として上演され、今後も上演し続けるとの事。そしてこの芝居はこの場所でしか上演しないのだという。恩師唐を忘れぬ限り上演に付されるという事で、楽しみである。

『リタの教育』『オレアナ』二作同時上演

『リタの教育』『オレアナ』二作同時上演

稲葉賀恵 一川華 ポウジュ

シアター風姿花伝(東京都)

2025/01/11 (土) ~ 2025/01/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

数年前に著名俳優を配して舞台化されたタイトルだけ耳にしていた「オレアナ」初日を観た。目撃した。一度観たら内容を忘れる事はないだろう芝居。ハラスメントを扱った92年初演の作品だがとりわけ日本では正に「今」の話である。本ユニットでは新訳を施して上演。翻訳家と演出家の意図が台詞の細部にまで行き渡り、人間感情の途轍もない不可解さを解明するに等しい繊細さで発語を立ち上げている。そのように私は踏んだのだが、それは男女の認識の誤差(それも教授と学生といったケーススタディのような関係での)が無意識の領域までを嫌疑の対象とし「支配が感知された」ことを根拠としてハラスメントが成立するような一件が、実際にどのようなやり取りによって生まれるのか、という難題をリアルに描出していたから。
一点脚本上「分かりやすい」帰結を織り込んでいる。

なまえ(仮)

なまえ(仮)

劇団夢現舎

新高円寺アトラクターズ・スタヂオ(東京都)

2025/01/08 (水) ~ 2025/01/13 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

新高円寺アトリエでの初観劇からまだ一年であった。同じ正月公演で「境界」をテーマとした小気味良い短編が楽しかったが、今回は「名前」と来て小屋の中一面に「名」を記した札が貼られ(帰りに寄ったトイレの中にも)、「名」なるものの星ほどの広がりを感覚した(何故かそれを誘発する地下劇場である)。各編はアイデアを出し合っての集団創作らしく大小の短編は中々質が高く構成も良い。小洒落た駄洒落を混じえた人を食った会話が諧謔、風刺としても上質の部類、こうは中々書けない。名前が何であろうと人として中身は同じ、と正論が置かれた一方「名は体を表す」もしくは名で人の目が変わるのみならず「中身も変わる」一面の真理。哲学な思考から時事の話題を時折スパイスに振っていたが、私的にはもっとぶっ込んでもいいな。(扱いは難しい所だけれども。)
連休の中日は客もまばらだったが演者のテンション下がらず天晴れ(そこを褒めるのも何だが)。

こんばんは、父さん

こんばんは、父さん

ニ兎社

俳優座劇場(東京都)

2024/12/06 (金) ~ 2024/12/26 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

せわしない年末気分のさ中、まだ残席のあった二兎社公演を観に行った(公演間近ではいつも完売の記憶しかないが...再演である演目の注目度だろうか、と若干の懸念)。
イブ当日の六本木駅は改札から異常なスシ詰め状態、コース選択も誤り10分近く遅れて会場に入った。
場面はとある廃屋で見知らぬ男同士が遭遇し、やり合っている。若い方(堅山隼太)は相手(風間杜夫)の借金の取り立て人らしい。あちゃ・・この始まりでは冒頭台詞に情報が集中する、かなり乗り遅れたな、とアウェー感に見舞われつつ見始めた。
ただ、事前に読んだ説明には、震災後間もない時期を設定した作品とあり、それが後押しして観劇に至ったのだが、期待がそこに集中する割に「その事」が自分には見えて来ず、些か宙ぶらりんな思いでの観劇となった。(途中睡魔にも襲われコアな会話を逃したのかも。。)

旋盤工だった「父」が廃業した工場跡の廃屋が舞台。父が戻って来た理由は不明(忘れた)、「若者」の方は彼を追って来た模様。そして三人芝居の残る一人、「息子」(萩原聖人)は自分の仕事を辞めてか休んでか、かつて暮らしたこの場所の二階に滞在していたらしく、自室から姿を現わし二人を驚かせる。
老年と中年、若者の三世代が同じ場所で、それぞれ(の世代)が抱える困難を焙り出す狙いで書いた、と永井氏のコメントを後で見てなるほどと得心したが、しかし世代を体現した人物像としてはどうだろうか(特に息子役は特殊な役柄を演じて来た俳優でもある)、群像劇には見えて来なかった。一場劇として面白い展開が盛り込まれていたが、「風情」を感じ取るには至らず、「震災」のしの字も出て来ず、惹句にあった「2024年の日本で上演する事で見えて来るもの」を見よう、という狙いだとすれば、初演時の「震災」は長年続く「経済災害」に置き換えられでもしただろうか・・。だがそうなると場所がポツンと立つ廃屋である必然性が薄くならないか。冒頭が見られなかった事が未だに引っ掛かっているが、結果的には不本意な観劇になった。
風間杜夫氏の立ち姿(このところ梁山泊のテント芝居で観る事が多いが)が、振り幅的に自分のイメージが固まっていて(要は同じに見える)、それを裏切る瞬間(
(への期待)が訪れず、という所が大きい気が。萩原氏は柔軟さがあるがキャラのイメージが「爪を隠した鷹」だし、堅山氏は若手として飛び跳ねる運動量多い役だがガタイが良くまた生硬に見えた。
2012年初演のキャスティングは、平幹二郎、佐々木蔵之介、溝端淳平。平幹はかなりの老齢で「父」役に耐えたのだろうか?と思う所。佐々木氏は未知数、溝端淳平は中々やれそうである。
辛口になったが、期待値の高さの裏返しと言われればその通り。

さて話題は変わり・・
今年は「アワード」投票をミスる事なく終えたが、未練たらしい膨大な「ランク漏れ」舞台への言及でも触れそびれた、公演幾つか(まだあんのかいっ)をひっそりとここで挙げておきたい。(ネタバレ欄に)

ネタバレBOX

うっかりの書き忘れが、
・ラビット番長「ハクマキタル」・・「ストレートプレイの秀作のあった初見劇団」の一つとして。
・キョードー東京・ミュージカル「RENT」・・山本耕史参加の来日公演。「商業演劇」(的カテゴリー)として。「感動」の度合いで言えば確実にランクインだが、やはりこれは別枠とした。
・風姿花伝プロデュース「夜は昼の母」・・タイトルからつい前年の母娘の芝居と勘違い。こちらは同企画の原点ラーシュ・ノレーンの際どい作品。風姿花伝P継続への期待を込めて。

ストレートプレイでは攻めた舞台が、同等かそれ以上なのに端折るのも気が引けるので、という事で追記。
・・イキウメ「奇ッ怪」、文化座「花と龍」、一糸座「崩壊」、ゆうめい「養生」、果てとチーク「害悪」、M2「黒い太陽」(作演の主宰劇団のも含めて、新たに発見の部)、ZERO-ICH「隧道」、梁山泊「風のほこり」、世田谷シルク「カズオ」、夢現舎「遺失物安置室」。
リーディングでは楽園王「本棚より幾つか、」の特別公演「お国と五平」「華燭」は特筆(年末の「イヨネスコ『授業』」も秀逸)。
渡辺源四郎商店は今年も書き手二名の上演は着想の面白さ。地方劇団の公演は今後も続いてほしい。他、劇団普通、演劇アンサンブルも上質な舞台、唐組も相変わらず。初の横浜ボートシアター「小栗判官と照手姫」で説教節の世界を堪能(ProjectNyxより泥臭いのが良い)。女性ユニットOn7や理性的な変人たちも今後へ繋ぐ仕事が見られた。

別カテゴリーになるが「いきなり本読み!」小林聡美、小泉今日子の「いきなり」の対応力に舌を巻いた。
メジャー所には評価が何故かしょっぱくなる。PARCO「オーランド」は文学作品を立ち上げる事に成功してはいたが「現在」との緊張関係がもう一つ見えず。年始のbunkamura「う蝕」は能登震災を受けて急きょ書き直した作品ゆえか、ユニークな作だが「現実を踏まえたフィクション」の難しさ(よく急拵えでここまでやれたと褒めるべきかも知れないが)。unrato「月の岬」は松田正隆氏の名作を初めて舞台で観たが、何か仕掛けるのではと期待したunratoにしては割と普通だった。

一昨年亡くなったナカゴー鎌田氏作品の上映会で二作品鑑賞でき、後継ではないが期待してるアンパサンドで<ほりぶん>ばりの川上友里を拝め、東京にこにこちゃんでは<ナカゴー>で見た高畑遊を拝め、映像で画餅版だが「ホテル・アムール」が観られて満足だった。
隧道

隧道

劇団ZERO-ICH

駅前劇場(東京都)

2024/12/25 (水) ~ 2024/12/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

一見の価値有り。
自分が普段高得点を付けるタイプの演劇でもなく、古き良き小劇場演劇の気分ゆえに2024年の現実から遊離する「危うさ」にも関わらず、「まあとにかく観に行って頂きたい」と無責任を承知で言いたい自分がいる。理由は、それでも「今」に果敢に挑んだ舞台であったから。押し入れの奥から新しいのや古いのやら玩具を全部引っ張り出した遊びの時間で観客を眩惑しながらも、沖縄に住む以上必然である所の理不尽な現実が否応なく織り込まれる。
物語の舞台は現代の(少し前の?)沖縄北部の小さな村。主人公とその級友らは社会に出てさほど年月は経たないが最も社会と現実に翻弄されている(という実感がヒリヒリと痛い)年代。彼らの幼少の過去の回想もあり、自伝的な作品と推察するが、沖縄に生きる人々の普遍がある。
直前に知った公演だったが、年末駆け込みの大きな収穫であった。詳細はまたいずれ。

荒野に咲け

荒野に咲け

劇団桟敷童子

すみだパークシアター倉(東京都)

2024/12/15 (日) ~ 2024/12/24 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

時代を反映してか、(イキウメ前川氏程でないが)桟敷童子東氏の戯曲もある時期から無慈悲で冷酷な現実を映す若しくはそのものの場面を含む作品が散見される(後者に「エトランゼ」が思い出される)。
貧困の再生産という事が言われるが、その平均的イメージはそれとして、本作では「頭が悪い一家」と、その自意識からのひずみが悪しき変転を辿るパターンに陥った家族が描かれている。
執拗な被害意識からの反動を動力にしたカッコ付き「前向き」を楽観的に変えようとしない母孝子(板垣)、その子供ら(姉弟)の内、先に家を飛び出した姉香苗(大手)、三年後に彼女が発見された後面倒見がてら彼女を雇う事になる親戚の食堂(仕出しもやっている地元の老舗会社)で彼女の面倒を見る事になる従姉の恵子姉さん(増田)、毎度のお婆役だが今回は最も時代に乗り自由を謳歌し、どん詰まりの所で香苗を救う事になるヒサ(鈴木)、本作ではこの四女優の存在感が芝居の要となる(今回ぐっと前面に出ていたのが増田)。普段とは違った役柄というか佇まいの親戚(孝子の姉と妹)二人(川崎、もり)も良かった。男優はそれぞれ役としての存在感を持ちながらも機能としてアンサンブルに徹し女優を光らせている印象が強い。
無惨で悲惨な日本のどこかで今この時も起きていて不思議はない現実を、目を見開いて凝視させる筆力、役者力、アンサンブル、微細な振りを大きな変化に繋げる技も見事。
装置を駆使したクライマックスを本作ではラストでなく少し手前に持って来て、そのファンタジックな場面を介して小さな光を灯すエンディングへ誘う。この場面に登場するアイテム=装置は、「現実」の峻厳さを象徴する迫力を備え、必見。この難敵に立ち向かう小さい方の健気な「それ」(さびれた町の片隅にある解体寸前の資料展示館にあるミニチュア)が、涙を誘う。
「自身がそれを選んだのだ」(又は)「人それぞれに与えられた宿命だ」・・不幸な他者をネグレクトする自己弁護に我々は事欠かないが、多くの現場でこれを掬い上げている存在がある。篤志家を称賛するような習わしもこれに付随している。が、盛大な拍手よりも自分がやれる一つをやる事がこの物語へのレスポンスだ、と思わされる。自分がやれるのはせいぜい為政者に「お金を出せ」と申す事くらいだが。

白衛軍 The White Guard

白衛軍 The White Guard

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2024/12/03 (火) ~ 2024/12/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ブルガーコフ作品だと気付いたので急遽予定を組み、足を運んだ(チケットも余裕で取れた)。
劇場都合なのかどうなのか・・新国立主催公演では久々の中劇場。つい2階席を懐具合と相談して買ってしまい、残念な観劇となる確率が高いのだが、今回は二階からでも舞台が近く感じ、役者の姿も声もしっかり入って来た。(劇場都合なのか・・と疑問がもたげたのは小劇場が似つかわしい舞台に思えたので。)
ロシア革命前夜、ではなく革命直後のウクライナを、大ロシア帝国の王ツァーリを主と仰ぐ「白衛軍」側の家族の目線で描いた作品だ。スターリン支配下のソ連で苦悩の作家人生を送ったブルガーコフを題材にした劇団印象の前作をおぼろに思い出しながら、劇としては面白く観た。ソ連に組み込まれる以前のウクライナとロシアの関係(地続きに隣接するヨーロッパの国々の事情は測りがたいものがある)や、闘う者たちが帰依する対象(何に殉ずるのか)を相対的に評する視点があり、だからこそドラマを描くのだ、という作者の声が聴こえるような気がする。
物語の主人公はトゥルビン家の兄弟アレクセイ(白衛軍の部隊を率いる大佐)とニコライ(若さで血沸き戦いに漕がれている)、そして界隈のマドンナ・エレーナ。舞台はこの家の広い居間で旧知の者(殆どが軍人)が出入りする。この家の人たちに憧れて遠方からやってきた若い学生(従兄弟)が唯一の非軍人。厳しい戦いを強いられている白衛軍だが、ドイツの支援が期待され、エレーナの夫は「政府の用事」と称して序盤にベルリンへ赴くのだが、ついにドイツ軍は援軍をよこさず、白衛軍は敗北する。白衛軍の指導的立場であったゲトマン率いるゲトマン軍に属するレオニードもエレーナ目当てに家に出入りする一人だが、戦いの終盤においてこのゲトマンの逃亡を目の当たりにする。
作者は白衛軍の目線でドラマを描き出しながらも、陣営の正当性を主張するものでは勿論ない、のだが、ただ、国内のロシア支配から脱却せんとする民主勢力ペトリューラ軍は残虐に描く。日本における日本赤軍事件が象徴する「左翼」「過激派」のイメージに近い。そして終幕、ウクライナ首都キエフを陥落したのはロシアから進軍したボルシェビキであり、民衆は早くも彼らを歓迎し、それを自嘲気味に揶揄する白衛軍の居間の会話が「平和」の時間の中で交わされる。
古いロシアによる支配による平和秩序を尊ぶ白衛軍は歴史の必然のように表舞台から退場し、新たな時代を迎えた瞬間で物語は幕を閉じる。トゥルビン家の長男・アレクセイ大佐が戦闘で死に、それを目の当たりにした同じく建物内に追い詰められたその弟は命からがら帰還するが、精神を病む。
敗北の悲劇を経て、訪れた日常において人間が平和を享受する尊さを描きながらも、人間が「平和ゆえに」腑抜けて行く予感が漂う(とは穿った読みかも知れぬが)ラスト、人生の喜劇を滲ませる。

装置、音響が優れ、演出の勝利にも思える(ワンツーワークスの古城氏が今年の記憶に残る演劇作品として本作の「二幕」を挙げていた。二幕って・・)。
戦闘シーンの頻出する芝居だが、ある局面で舞台奥にある箱の中でかなりの衝撃だと分かる爆発音が鳴る。(銃の音もちゃちい火薬の鉄砲ではなく十分に衝撃音を出すものを使っている。)
ほぼ邸の居間が舞台。冒頭から秀逸であったのは、ロシア人気質というものを恐らくは体現しようとした男らの言動。妙に人懐っこく、喧嘩っ早く、日本人感覚では甘えん坊と揶揄されかねない人物像をそれぞれ作っていた。
現代のウクライナ・ロシア戦争を「評価」する際においても感ずる事だが、あまりに無自覚な自己投影(相手も自分らと同じ文化を有しているという前提)によって価値判断をしていないか・・。
他国領土に侵攻したロシアの行為は許されるものではないが、許す許さないを超えて事態は動く。そこでは「違反者=絶対悪」という単純思考では物事の先行きは見通せない事実に直面させられる。
ウクライナの西欧への接近は長い近隣の歴史の流れの中ではどう意味づけられるか・・100年前のウクライナの歴史という一つの点を、「他者(他国民)」理解の補助線を引くために活用し、文脈を見て行く態度を獲得していく事が肝要ではないかと思えてならない。「知る」という事は押しなべて人の人に対する「断罪」という愚かさを遠ざける側に機能するのだと思うし、そうありたい。「面白い!」とかみしめた味の中身は、そういう事であったかも。

イヨネスコ『授業』

イヨネスコ『授業』

楽園王

サブテレニアン(東京都)

2024/12/17 (火) ~ 2024/12/21 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「イヨネスコ『授業』」とは何なのか。奇怪そのものの戯曲は人の心の深層を叩いて来るものがあるが、正体は漠としており強度の高い解釈を作り手に求める。
結論的には、面白いパフォーマンスであった。教授役は前回のリーディング企画で「お国と五平」の男役をやった男優で、人間の「狂気」の背後に流れる何かを、想像させるに十分な奇怪さを体現した。
私はSPACで西悟志氏の非凡な演出による本作を目の当たりにしたので、「あれを超えるものはあり得ないし」と敬遠する向きがあったのだが、楽園王なら観る価値はあるかなと、(他の公演と散々迷った挙げ句)新たな「授業」を観る気になり足を運んだ。
面白かった。
醸されていたニュアンスを言葉化するのは難しいが、言葉が見つかったらまた書いてみる。

杏仁豆腐のココロ

杏仁豆腐のココロ

ヒトハダ

浅草九劇(東京都)

2024/12/12 (木) ~ 2024/12/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

恐らく10年以上前に観た鄭義信作の四人芝居「アジアンスイーツ」が良かったのでその後上演のあった本作も観たが、もう一つだった記憶。笑いの仕込みが効果を持つためのベースとなる人情の層が脆かった印象で、脚本の強度の問題か、役者の問題かと考えたものだった。今回そのリベンジを、と速攻で予約したが、鄭義信氏による演出は前回も同じであった(認識違い)。アララと若干の失意を覚えるも、今回は村岡女史の出演である。久々の浅草九劇の客席に滑り込み、煌々と露わな舞台上のリアルに雑然としたコタツのある畳部屋を眺めながら開演を待った。
村岡希美の登場。書籍を抱え両手塞がった状態でコタツ脇へ足を運ぶと灰皿を引っ掛けそこに足を突っ込み、「うわちちち」と足を挙げて下せば雑巾がけの水が残ったバケツの中、「あっ」。徐に足を出し、靴下を脱ぐ。白金に染めたショート、セーターとパンツ。こういうリアルにアットホームな村岡女史は見た事がなかった。やがて浅野雅博の登場。クリスマスを舞台にしたハートフル・コメディは二人芝居だけに役者の負荷は大きい。そして最終的に本作は女性主導の芝居と言え、村岡希美の出色の演技(隙が無く完璧)により、出色の舞台になった。

ロミオとジュリエット

ロミオとジュリエット

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2024/12/07 (土) ~ 2024/12/12 (木)公演終了

実演鑑賞

新国立の研修所生公演で「ロミジュリ」は新鮮に見た。岡本健一の演出は民藝アトリエ「破壊」公演で一度目にし、自身による劇伴(ギターによる)を今回も使っていたが、効果的。対面客席(バルコニー席を入れると四面)の中央に正方形のリングのような台、周囲を客入れ時間から台詞を言いながら騒がしく歩き回る。両家の「争い」の側面が強調され、戦争が続く現在の世相を目の当たりにするような視覚的な演出が際立っていた(上演台本も岡本氏による)。

『楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~』

『楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~』

あやめ十八番

澤田写真館(東京都文京区本郷4-39-9)(東京都)

2024/12/12 (木) ~ 2024/12/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

実に色んな「楽屋」を観て来たが、さらに新たなバージョンを目にした。生音楽入り。写真館というので興味津々で訪れたが洋館の内装、白い階段のある高い天井の屋内で、緩急、BGM(生ピアノやボンゴ、キーボード)も効果的で元気の良い「楽屋」であった。

「Fearless People―フィアレス ピープル/恐れない人々―」

「Fearless People―フィアレス ピープル/恐れない人々―」

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

青年劇場スタジオ結(YUI) (東京都)

2024/12/10 (火) ~ 2024/12/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

今年は同作者による「玄界灘」(こちらもリーディング)が圧巻であったが、本作も作者の魂のこもった作。青年劇場俳優の語りを通して前景化して来る後半はその思いに同期して涙する。
ミニュシュパリズム=地域主権(等の翻訳がある)を体現した杉並区長選(これを追ったペヤンヌ・マキ監督のドキュメンタリーはリアルな日本の光景とは思えぬ眩しい絵を映している)がふと想起される架空の街(上水市)を舞台にしたドラマだが、独自な作劇を成し遂げている。劇の始め、道路建設反対を唱えていたはずの候補(保守の現職に対抗した候補)の当選後に手の平返しはカジノ問題での林横浜市長の記憶もよぎるが、印象としては小池都知事もダブる。要は利権優先で動く政治と社会への「諦め」を象徴する出来事だ。
これを冒頭に据え、地域主権を模索する人々の姿を群像として描く。これに絡む「他者」が、架空の地方(桃山県)選出の長老国会議員の死により急きょ後継となり上京した長女。彼女と、上水市の活動市民が集うカフェを繋ぐ「他者」が同市で図書館司書をする同級生の女性。
議員を辞した長女の後を担った弟、その母の場面も、固陋な政治家の家系の象徴として描かれる。またひょんな事から昔実家にいた家政婦が長女の元に現われる等もある。上水市の活動市民らの間にも「敗北」からの離別があり、存在感を増すに従い吹く逆風も経験する。だがこのドラマでの最も大きな「変化」は、自分の疑問に真正面にぶつかって行く姉の姿と、家の伝統との狭間で葛藤し始める弟である。新しい議員生活を忙しい忙しいと悦に入っていた自分が、ただ(己と自分の家族の)地位を守るためだけに立ち居振る舞う、つまらない存在に見えて来る。それに対し、理に従って行動して行く姉がまぶしく、本物に見えて来る。
仲間との活動の中で市長選出馬への決意を固めた長女に対し、現職と遺恨の間柄となってしまった選挙参謀的人物の支援を手回ししようとした母に対し、弟は恐らく初めて声を荒げる。それは古い自分の「敗北」の叫びでもある。
演出は作者有吉朝子と同じ劇団劇作家所属の坂本鈴。可能な範囲で無対象の動きや交流を挟み込み、新鮮であった。メッセージ性、というものとすこぶる距離を取った作劇の印象であっただるめしあんとは一線を画した明快なメッセージソングを指揮した事自体も新鮮。

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