実演鑑賞
満足度★★★★
千秋楽を拝見。直前に椿組「キネマの大地」を観たばかり。本作も映画を題材にし、しかも時代が重なる。史実上の日本の女性映画監督第一号、坂根田鶴子も満映に渡り、現地で「偽の国家」の矛盾と直面する筋書きである。先に観た芝居でも耳にした(意味的に同じ)台詞が、全く異なる芝居ながら「同じ場所と時代」の中で聞こえてくるのは不思議な感触だった(ただの偶然だけれど)。
吉祥寺シアターでの上演は劇団印象としては初めてだろうか、天井の高い劇場をうまく用い、視覚的効果が良かった。万里紗の胆力を以前もどの芝居かで観た記憶があるが、見上げたものであった。溝口健二役をやった内田健介を目にする機会が最近多い。俳優の力量を舞台を観ながら認識する事はあまりないが(大体芝居に集中するので)、その力は大きいと感じた所である。
史実や歴史上の人物を描く場合に課題となる「史実と虚構」のバランスが本作でも課題であったと思う。豊富にある訳でない素材を使って舞台を立ち上げる作業という点では、攻めた仕事をしていたが「何故今これか」のエクスキューズが十分表わされていない感触も残った。
結局は好みの話になりそうではあるが、私としては満州の場面ではその問題の性質上、可能な限りリアルな描写に挑んで良かったのではないか。テンポよく軽快に、身も蓋もない会話もさらりとやらせて先へと進む、歌踊りも織り込んだタッチが満州に来て写実主義の絵画のようなリアリズムの演技が展開する、そういうバランスが正解でなかったかな、と。
中国人女性役の「中国訛りの日本語」をもっと追求するのも一つかも知れぬし、脚本上で言えばその中国女性が坂根に反問する言葉(私はここにいるのですか?)が、彼女自身から出た言葉ではなく半分は坂根の脳内の(記憶から作り上げられた)彼女が想念の中で言った台詞にも聞こえた。だがここはリアルに「彼女が言っている」言葉=全くの他者からの言葉として聞こえたかった。それは「彼女自身の想念から出て来た」という事実によって免罪を生じさせるからであり、リアルな時間の中で坂根に突き付けられた満洲国の真実はそう簡単に打ちのめされ、改心されるには行かない難物なのであり、「人の住まない荒野に入植しただけ」との認識が「人を追い出して国を作った」認識に変わるプロセスの中に問題の困難さがあるような問題だからである。
「私はそこにいない」という詩的表現は今の日本社会の女性の地位を言い当てる場合にも使用可能だろう。現在の問題が相対的に軽いと言いたいわけではないが、人権蹂躙の規模が桁違いであるのは事実だ。そして坂根が「そこに彼女がいる」ような映画を撮ろうとはしなかったのなら、それは何故か、という具体的プロセスにも多くが籠められ得るだろう(それは端折られている。だから中国女性の場面は記憶を再構成したものに違いない、となる。挽回できない時点で振り返っているから)。
中国女性が体現できたかも知れない「リアル」感は、作品のテーマとして流れる(説明し得る)メッセージを超える濃密な何かを語り出すのではないか・・そういう場面を夢想するのである。