実演鑑賞
満足度★★★
久々のヌトミック。宣材も随分前に手元にあり、吉祥寺シアターでやるというので観に行く。(もう一つの後押しは(忘れていたが)滋企画の次回公演に演出として迎えていた事。)
ドラム、ギター(他諸々)、キーボードの三名の演奏と、俳優たちがどう絡むか・・舞台上の奥行の中間あたりに楽器パートの各エリアが下手側、上手側にあって、俳優はその間を縫ったり舞台前で、基本無対象で喋る。
思った通りダイアローグは無く詩的な散文を喋る。演劇の時間の「次の瞬間」への白紙の期待を用意するのは俳優でなく音楽だ。言葉は大したことを言っていない気がしている(言語芸術の側面が弱い)。音楽がその穴を埋めていると感じる。
アフタートーク(つやちゃんとの)で主宰の額田氏が言うには、今回は演者の「役として語ってもらう」面を意識した、との事。従来は「役が無かった」、つまりテキスト・スピーカーとして役者に立たせていた。
地点の手法では延々と「動きながら語る」パフォーマンスの各演者は「役を演じる」というより、当てがわれた役が受け持つ台詞をその身体で語る、という現象だった。これは一つの確立された形態だ(地点の場合「動きながら語る」身体性と声・発語の力が突出)。ヌトミックに限らず「一人称語り」のテキストの上演では、その演劇表現的欠落を補う部分に独自の発想や演出力が発露するが、そこでもテキストの力は重要になる。
今作ではやはりテキストに引き込む力がなく、それは「役」的なものを当てがうといった手法以前の問題に思える。で、どうしても音楽性の高さがアンバランスに際立つ。中盤、言葉のリフレインから複雑コードのファルセットのハモりがクライマックスを作っていたが、音楽ライブとして耳が聴いていたら、素晴らしい瞬間だったろう。
だが「演劇」の中で用いるにはそのストーリー上の必然から用いられる事が理想である所、文脈が分からないため「高まり」に自然に同期できない。折角だからその奥に秘めた狙いを汲み取った気になる観劇の営み(解釈先送り)はよくやる事だし可能だが、「乗らない」選択も出来てしまう。私は分からないものにはやっぱり乗れない、となった。
芸術作品には解説によって作者の意図に近づける事があり、かつ意図が分った方が断然いい場合もある。今作も意図を伝える補助的な何かが欲しかった。言葉を使うとすれば、それは舞台製作上の着想などは二の次で、ここで言う意図とは「何がこれを世に出さずにおれなかった理由か」の自身なりの言葉、社会に向かって自己証明する公的な言葉の事。
色々難癖をつけたが、あるいは自分がいずれ超克するかも知れない「見慣れないものへのハードル」の可能性も無くはない。