満足度★★★★
「孤独」に「福音」が降り注ぐ--「現在進行形」の未完
カフカの小説から、再構成された舞台。
台詞と演技と空間から、観客は「どのキー(鍵)」で読み解いていくのか。
それが楽しみのひとつでもある
ネタバレBOX
「プロメテウス」「幽霊」「バベルの塔」など、短編小説のキーワードが聞こえてくる。
ああ、これは、そういう「構成」の作品なのだと理解した。
(つまり、地点の『――ところでアルトーさん、』 http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_main_id=17564 や『あたしちゃん、行く先を言って-太田省吾全テクストより-』 http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_main_id=12633 に似た感じな)
さらに「変身」「審判」「城」のテキストも聞こえる。
つまり、1つの方法として「カフカを(あるいはカフカの作品を)粗く削り出す」ということではないか、ということだ。
「作品=カフカ」であるかどうかは別にして。
さらに、それは「カフカを削り出す」ことで、「観客の中に何を生み出すのか」ということでもある。聞こえてくるキーワードと演技(動き)(空間)を通して、観客が「何をつかむのか」ということだ。
作品としては、「観客との関係」があるということは当然だが。
もちろん、「テキストを選び」「演出している」のだから、「何を知らせたいか(感じてほしいか」という、)「用意された作品(公演作品)の読み方」はあるのだろうが、それは観客の手元に届いた時点で変容するのは普通だ。
今回の公演では、演技だけでなく、舞台となる場所が、「教会」である。さらに「震災被害の後」のような動画が、舞台後方に流れる。
こうなると、「教会」は「鎮魂(の場)」として、床にばらまかれた「紙」は「瓦礫」に、「プロメテウス」や「バベルの塔」は、たちまち「近代化の歪みとその滅亡の象徴」となってくる。
そういう「キー(鍵)」で読み解いていくことも可能だし、またそう読み解けていく。
すべての(芸術)作品が、そういう「観客の持っているキー(鍵)」によって開かれていくものである。
(あたり前すぎる話ですみません)
カフカの不条理は、とても否定的な不条理という印象がある。
理由もわからぬまま否定されてしまうということで。
ここに「震災」を結び付けるのは当然だろう。
舞台上でしつこく「繰り返される」演技やパターンにも、それが見て取れる。
しかし、そこに見えて来るのは「疎外」と「孤独」だ。
真面目そうな男と、それに絡む3人の男女たちは、最後まで誠実には交わっていかない。ちゃかすような、ふざけるような。
さらに彼らたちも、実は一体感があるようでない。
否定的な空気の中にいて、さらに常に自己否定されているような感覚が襲ってくる。
そこには「絶望」は感じないが、「孤独」はある。
舞台後方に流れている「災害後」とどこかの「街」(ニュータウンみたいな)の画像は、同じ空間に前後するのだが、交わっていかない。
どちらが「前」で、どちらが「後」なのか、ということもある。
つまり、「再生」なのか「滅亡」なのかは判然としないわけだ。
しかも、その中に、なぜか「孤独」が見えてしまう。
まあ、結局、それが「震災」というキーよりも、「私がこの作品の見るためのキー(鍵)」であったということなのだろう。
今回の作品には、「鳥籠が鳥を捕えにでかけた」とある。そこがキーになったと言ってもいいだろう。
「不在」「空白」そういうキー(ワード)だ。
失ったモノを「求めて」なのだが、すべては「投げっぱなし」で「答え」などない。それがこの作品ではないだろうか。
と、書いたが、本当は「宗教」が語られているのではないか、とも思ったのだ。
それはつまり、祭壇にスピーカーが置いてあるのだ。何かの信仰の象徴のように、だ。
音(楽)の出るところ(スピーカー)が、神の居るところ。
そこから「音(楽)」が教会内部から外へと響く。
まるで、「孤独」と「不在」と「空白」の地に、「福音」(音!)が響くようにだ。
意図していたのかどうかはわからないが、実に「宗教的」。間違っているかもしれないが、「すべては神の思し召し」「神に包まれている」、がひとつの答え、今の答えなのかもしれない。
そうなると、「場」が「舞台」と「観客」とに2分されていたことに違和感を感じてきた。
それは、そこ(舞台)にあるのは、「展示物ではない」ということだ。「体験」であり、「今」なのだ。
だから、「福音」はすべての人の上に降り注ぐべきであり、観客もカフカに溶けていくべきではないか。
つまり、客席は、会場の隅に追いやるのではなく、会場全体に、デタラメに散りばめてあるべきではなかったか、と強く思った。
まあ、この作品自体は、完成型ではなく、カフカの『城』や『審判』同様に「未完」というところではないだろうか。
「現在進行形」の未完として。
公演の内容として、付け加えるとすれば、とても良かったのは、ビジュアルだ。
「画」として。
この公演は、ビデオ収録していたが、「まさか役者のアップとか撮ってないだろうな」と思った。とにかく「引いた画」、視野を「常に」広くして、全体をいつも見ていたいということ。すべてのバランスが、つまり、「非常口」や「ピアノ」、「つり下がる電灯」、そして役者の「形」と後ろに映し出される画像のすべてが美しいのだ。
インスタレーションってな感じでもある。
それを、ぼーっと、見ているだけでも楽しい。
あと役者の佇まいが面白かった。キャラが(本人の?)滲み出てくる。
URという企画は期待したい。今回のように、(たぶん)重なり合うことのなさそうな、作・演と役者のコラボが楽しめそうなので。
満足度★★★★★
「偏執狂」的で、そして「パラノイア」的なボス村松節大爆発
で、将棋LOVE度が強すぎな舞台。
過剰、過剰。過剰……。
台詞だけでなく、演技や舞台装置にまで込められたすぎた「意味」が過剰。
詰め込みすぎて、気持ち悪くて、面白い。
やっぱ、いろんなことの端々に、にたにたしてしまう。
ネタバレBOX
劇団鋼鉄村松にはボス村松さんとバブルムラマツさんの2人の作家がいて交互に作品を発表しているのだか、今回は、ボスさんのほう。
ボス村松さんは、「過剰な人」である。
とにかく台詞が過剰で、どんどん増幅させて、付け足していかないと、気持ちが込められていない、と感じてしまう人なのだろう。
「この言葉では足りない」「もう少し増量せねば」と、どんどんと。
しかし、足しつつも、「これでいいのか」と我に返るときが訪れるのではないだろうか。
それが、「引き」の「台詞」になる。
つまり、自分で書いておいて、否定したり、疑ってしまう。
「照れ」かもしれないし、「生まれてきてすみません」的なものと「人に注目されたい」というアンビバレンツな感情が同時に噴出しているのかもしれない。
それは誰にでもある感情だけど、そこの感情にバカ正直すぎて、気持ち悪いから、気持ちいいのだ。他人事ではない感情でもあるからだ。
台詞の過剰さには、「言葉」への過信と裏腹に、完全には信じ切れていないところが見え隠れする。言い切ってしまえない、自分へのもどかしさもあるし。
この過剰台詞についてだって、「彼らは100倍増量にしゃべっている」なんて劇中で言わせているし。わかってるんだろうなあ。「持ち味」とか「スタイル」とかそんなカッコのいいことではなく、「性(さが)」だろうね。たぶん。
そんな言葉で表したいのは、「コト」とか「感情」だ。
特に「感情」への筋道は、これでもか、というぐらいに過剰になる傾向にある。
「コト」に対する想いも、「言葉」で表そうとするから、その自分の言葉にさらに酔って、過剰な思い入れとなっていく。
それは、例えば、今回の作品であれば「将棋」のことだけに留まらず、出てくるモノ、コトにいちいち反応して、過剰になってしまうようだ。
これは「偏執狂」的で、そして「パラノイア」的でもあろう。
1つことに深く突っ込んでいきつつ、妄想が膨らんでしまう。
だから、どんどん行ってしまう。ルール無用は、未来の将棋ではなく、この舞台の上に展開する。
公演という決められた時間と人材の枠がなければ、この作品も、暗い四畳半のコタツの上で、まだ書き続けているのではないだろうか。そんな気さえしてくる。
かといって、深くて暗い穴をのぞき込むというわけでもなく。
コメディと仕上げてくるところが素晴らしいのだ。
そして、実は、「将棋愛」の裏には、「人が人と接する」あるいは「人と人が向かい合う」ことへの「畏怖」が込められているのではないだろうか。
将棋盤をじっと見つめて、自分の顔を映してみたら、そんな世界(宇宙)が見えてしまったのではないのだろうか。ビグザムの背中に。
コブラは天を指し示すが、実際は、「将棋」に込められた世界(宇宙)が。今そこにある、としているのだはないか。しかも、ピュー太くんの登場を待つまでもなく、それは消えつつあるのかもしれない、と。
「人が人と接する」こと、だから、それがあのラストに結びついていくわけなのだ。
と、いう感じの将棋への過剰なLOVEは、将棋ちゃんが、ボスさんに振り向いてくれないから、さらに加速してしまうのだろう。将棋ちゃんへの熱烈なラブコールがこのように歪んでしまって、演劇となったわけだ。
結果、この作品は、ボス村松さんの仄暗い頭の中を覗いた感覚がしてしまう。
それは確かに気持ち悪いことではあるが、クリエイターとしては、真っ当で、正直だと思う。
詰め込みすぎで、気持ち悪いから面白いんだな。結局。
でも、将棋やらないから、ラストの一局に込められたモノは、まったく受け取れなかった。
あと、ラストの2人のやり取りは、もう一息置いてから、前のテンションと断ち切るように見せたほうが効果的ではなかったか、と思う。素人考えではあるが。
今回も、コブラを演じたムラマツベスさんがいい。いつもの感じなのだが、やっぱりいい。そして、ザキヤマを演じた後藤裕哉さんが、もの凄くよかった。
もちろん、他の人たちも、それぞれのキャラをうまく作り込んでいて、楽しかった。
どうでもいいことだが、未来のところで、出てくる白い人は、『時計じかけのオレンジ』+『ブレードランナー』?
公演が始まる前に、「台本の感想を書いてくれ」的なお願いをされたので、上演前には滅多に読まない台本を読むことになった。
これをどうやって舞台に再現するのだろうと思っていたら、まあ、全部舞台の上にぶちまけていた。それが、空間と時間がぐちゃぐちゃで融合したり、離れていたりと、とても見事だった。
ちなみに、台本読んだ段階では、ザキヤマはてっきりムラマツベスさんかと思っていた。頭の中では彼の声色で台詞を読んでいたのだ。
…って書いてきたけど、人のことを散々、「過剰だ、過剰だ」と言いながら、2行ぐらいで書ける内容を、こんなにだらだらと書いている自分に気がつき、愕然としてしまうのでした。
満足度★★★★★
B班を観た。4本とも面白い。
A班の後だったので、B班も同じ傾向になるのでは、と思っていたら、違っていた。
B班は面白い。4本とも面白い。
こういう別劇団によるオムニバスで全部が面白いというのは、なかなかない。
20分なのに深みもある。
これを膨らませたら本編できるのでないか、と思ったりもした。
もし、『日本の問題』を観ようと思っていて、両方は観られないと思っている方がいたら、迷わずB班をオススメする。
A班のみ観て「…」の方にもB班も観ては? と言う。
もちろん、私の個人的な感想なので、「商品の効能や効果を表すものではありません」と付け加えておく。
ネタバレBOX
<ミナモザ『指』>★★★★★
やや一本調子ながら、とても深みがある。
多くの人の命が失われる中、非道な火事場泥棒をしている夫婦にとって、越えられるラインと越えられないライン。
それは、極々個人的なものであり、「善悪」のラインとも違う、単に「モラル」という切り分けもできない、「感情」だけのラインだ。
「誰の指だったら切れるのか」ということを考えてみると、…いや、考えたくもないけど。
つまり、「自分のラインは、どこにあるのか?」を問う作品である。
もちろんそれは「指を切る、切らない」ではなく、あらゆることに対しての、「自分のライン」を考えることになる。
「善悪」ではなく「モラル」でもない「感情によるライン」のある場所を、だ。
それはつまり、他者を思いやる感情にもつながるのではないだろうか。他者にとっても「感情によるライン」があるということだからだ。
それが「あるということ」を「知る」ことは、社会で生活していくために、「最低限必要なこと」を「知る」と同等なのではないか。
「日本の問題」は、そこから考え直していくべきではないか、というメッセージととらえた。
後で述べるJACROW『甘えない蟻』と同様に、「日本の問題」と言う表層より、さらにいつにおいてもあり得る「人」のことを描いていた。
何もない荒野の中にいる、2人が手を携えるラストは、美しい祈りのようにも見え、泣きそうになった。
<アロッタファジャイナ『日本の終わり』>★★★★★
テンポがとてもよく、それをあえてラストの動きのない演説に集約させていくところが憎いと思う。構造的にはチャップリンの『独裁者』を思い出してしまったのだが。
この劇団の投げるボールは、内角ギリギリ、というか、ピンボールだ。
「孤独死」から「一極集中」の解消を目論むのだが、「地方分頭(脳)」という(そういう言葉は出てこないが)、「地方に頭を配分しよう」という実にお節介で、思い上がった(笑)施策を考えたのだ。
「頭脳の一極集中」は、作の松枝さんの実体験から発しているのだろうが、それを「地方に強制送還させる」というアイデアは、なかなかナイスである。
「ナイス」と言うのは、「ピンボール」としての「ナイス」さなのだ。
「地方に強制的に戻される」ということは、地方から出てきた者からは当然猛反対をされるだろう。もちろん、この演劇の稽古の間もそういう声が出てきただろうことは想像できる。
また、地方から言えば、「何? 地方には頭がないだと!」いう怒りの声も上がるだろう。
そもそも、「トップになれない、頭のいい人」というのは、その程度の人ということでもあるし、トップになることがすべてではなく、向き不向きもある。だからそういう人たちがうじゃうじゃいても、「だから?」なのだ。
「手」「足」と言い切る人たちにも、「頭」は必要であり、逆になければ、「手」「足」だって効率的に機能しない。トップダウンがすべてではないのは、企業マネジメントを見てもよくわかる。
そいう批判的な見方があることを、わかった上での、この作品なのだ。
だから面白い。
「廃県置藩」という言葉も発想も面白いと思う。のだが、いっそ、何もなくして「弥生時代に!」と言わないところが、経済の発展や近代化の歪みという導入だったところからの道筋として、いかにもロジックな印象を与えていく、という虚構への突入の仕方がうまいのだ。
だから、この結論となるアイデアがどうした、こうした、みたいな反応は、作者としては、してやったりで、ほくそ笑んでいるのではないだろうか。
女子高生から一気に首相のもとへ向かうストーリーも、女子高生の「ありそうな不幸話」も、引っかけのひとつであり、虚構の楽しみを演じているのだ。
よく見ると、女子高生と友だち、そして彼女たちとその母親たち、首相と秘書がきちんとつながっていて、さらに、最後は女子高生と首相がつながっていく、という様は、実は「孤独死」と「人の人との分断」というテーマを解決していくこの演劇にとって、「あり得ない」設定だ。
ここが大きな仕掛けなのだ。
そして、そういう仕掛けを乗せて、20分突っ走る。
結果、「問題」として俎上に上がることが狙いであり、「日本の問題」の本質はここにある、という強いメッセージがそこにある。
<ろりえ『枯葉によせて(仮)』>★★★★
突拍子もないオープニング。
いや、全編、突拍子もないのだが。
母子2組が1人の父を巡る物語。
信じられるものは自分しかない、という世界。
放射能なんて知らないし、(父)親なんて知らない。
いじめられても、誰にもすがることはできないけど、やっぱり誰かを求めてしまう。
「血」ではなく、「想い」のみが人と人を引きつける。ラストではやっぱり「血」なのかな、と思わせるのだが、そうではなく、それはストーリー上のお話でしかない。
グリコ事件とか、端々に面白さを散りばめながら、会話の素っ頓狂さがとても愉快。そして、乾いた笑いは、放射能汚染にふさわしい。
<JACROW『甘えない蟻』>★★★★★
JACROWらしいヒリヒリ感のする会話劇。
淡々としながらも、ちょっとしたきっかけで、ギスギスしていくところがいい。
4人の声のトーンの絡み具合(低音な母親と高音な娘の対比とか)、方言かどうかの設定等々、巧みだ。緩急の呼吸もさすが。
4人いて、実はまったく血のつながっていないのは、母親だけであり、その微妙さがもっと底流に太く流れているところを見たかった気もする。
PCのモニターで父親からのメッセージが流れるのだが、これは観客を意識してのサイズだと思う。しかし、ここは、観客から見えるとか、見えないとかは無視して、送り損ねたメールが保存フォルダ内にある設定でもよかったのではないだろうか。内容をどう読み上げるかは腕の見せ所として。
とは言え、吐き出して、最後に、この状況を引き起こした父に救われるというラストがいい。
そして、娘が辛かったときに父親から譲られた人形を、辛かった父に捧げるという、ラストシーンにはとてもぐっときた。
ミナモザ『指』と同様に、今の状況を舞台設定にしながら、その特異な状況だからこそ見えてきた「日本の問題」の「核」となるような、「人」、そして「人と人」をえぐり取って見せたうまさがあった。
それぞれの「問題のとらえ方」については異論はない。
作者たちが一番グッとくるテーマを選び、かつ、演劇として耐え得るか、を考慮した結果だからだ。
だからテーマの選び方というより、「テーマへのアプローチ方法」「見せ方」のセンスが問われていたと思う。
しかし、及び腰になってはつまらない。何かにターゲットをきちんと絞り、「発言」してほしいのだ。
もちろん、「問題」に対しての、劇団側(作者側)との距離感や、観客側の距離感、スタンスがあるのも事実だ。
しかし、このテーマで「今」やることの「意義」は、大きいと思う。
そのチャンスを、すべての劇団に活かしてほしかったと思う。
結果としては、(個人的なものだが)「テーマの選定」よりも、「演劇として面白い」ほうに軍配は上がった。しかし、それはイコールだった。
満足度★★★
A班を観た。胸がザワつく企画だ。
タイトル聞いただけで、ザワザワ、ワクワクする企画だ。
しかも、今年に入ってからの企画ではなく、昨年始動したものと聞くと、その先見性には恐れ入る。
だって、常に「日本の問題」はあるのだが、こんなに「日本の問題」が噴出した年もなかったのではないかと思うからだ。
つまり、去年もしこの企画が行われていたとしたら、観客の受け取り方はまったく違ったものだったのではないだろうか。
それは、もちろん上演側にとっても同じだ。
「日本の問題」について、こんなに多くの人たちが、真剣に語っている「今」、上演する劇団側は、「果たして(この状況の中)自分たちに何が語れるのだろう」と自問自答したはずだ。
受け取る観客にしても、まったく同様で、「何を語ってくれるのかな」と、腕組み、あるいは腕まくり(笑)して劇場に臨んだ方もいるのではないだろうか。
まずはA班から観た。
ネタバレBOX
ざっくり言ってしまうと、「私(たち)が考えている日本の問題はこれだ」ということを見せてくれたようだ。
それは「問題山積」「混沌」「心」など。
でも、それでは…と思うのだ。
<経済とH『金魚の行方』>★★
とにかく役者のキレがいい。美しい。
物語は、問題の羅列の域を出ず、いつくかのフックがあったのだが、もうひとつだった。
物語の、長いオープニングを観ているようで、登場人物の紹介で終わってしまった感がある。つまり、1つひとつのシークエンス、あるいはキャラが、有機的に結びついていく前で終わってしまったという感じなのだ。
「人のせいにする」「人をあてにする」ということが、「日本の問題」であると考えているのだろう。
<Mrs.fictions『天使なんかじゃないもんで』>★★★★
A班の中では一番好きた。
宗教に関する勘違いは、あざとさはあるものの、ストレートに伝わってきた。
3人の役者の佇まいがよく、キャラの立て方も素敵だ。
「宗教には何ができるのか?」を斜めの角度から描いたと言ってもいいだろう。
「会話すること」で生まれる「つながり」。
「つながり」こそが「宗教」だったのではないだろうか。
それは、「コミュニケショーン」なんて洒落た言葉ではなく「会話」だ。「話し、聞く、そして話し、聞く」という感覚のみで生まれ、解け合うものだ。
崩壊した人のいない街で、人がいる街から、その関係が崩壊した人たちが、出会う必然。
そして、ありきたりかもしれないが、美しい「画」を想像させるラスト。
とてもいい余韻が残る。
<DULL-COLORED POP『ボレロ、あるいは明るい未来のためのエチュード』>★★
スタイリッシュではある。
あるが、何度も繰り返されると、ちょっとなぁ…と。
もちろんそれが狙いではあると思うのだが、ややワンパターン。
安倍首相の就任演説あたりから(2人目だけど)、このパターンでドジョウ首相まで、と思っていたら、そのまんまだった。
もう少し、何かほしかった。「それは知ってるよ」「それで?」が感想だ。
多数決から首相選び(ここが、たぶん役者にはスリリングだったのではないだろうか。演説は覚えているのではなく、読んでいるようだったので)、そして一般の人々は…ということが見えてくるのだが、首相選びの人々(議員)と一般の人が同じ役者が切り替えて演じているところに、イマイチの感じがしてしまうのだ。
つまり、「政治」と「国民」の関係がどうなっていったのか、その関係を丁寧に見せていくことで、どう首相が変わり、それで国民はどう感じていったのか、あたりを、作者の独断でいいから、言い切ってほしかったと思うのだ。
「無関心」一色だけに見えてしまった。
もちろん、それが「良い、悪い」ではなく、思い切った何かを発してほしかったのだ。
<風琴工房『博物学の終焉』>★★
「言葉」を信じていること、作者の想いをとても強く感じる。
「デマ」が飛び交い、「拡散」していく今でも、やはり「言葉」は大切だ。
つまり、「言葉」があるから我々はここに存在している。それが「知性」であり、「交流」であるということ。
「言葉」があるから、人とつながることができるのであり、それを統制するということの恐怖。
映画『イル・ポスティーノ』の引用も効いている。
とても真面目、生真面目と言っていい。
ただし、それが度を超すとこういうラストになってしまう。
このラストは、オチのようで、好きではない。
同じ設定であっても、ブレークスルーできる道はあったはずだ。
それを必死に見つけて、舞台の上で見せてほしかったと思う。
A班について言うと、「なぜ思い切って言ってくれないのか?」という想いが強く残った。
発言することの「怖さ」もあるし、「極論」を述べてしまったら「炎上」もあり得る。しかし、言うべきではなかったのだろうか。言うべきことがなければ、やるのをやめてもよかったのではないだろうか。
満足度★★★★★
一般客の扱いが酷すぎ、ってか最悪
なので、もう観ることはないと思う。
さよなら、宗教劇団ピャー! !
★の数は間違っていない。純粋に公演内容のみについて付けた。
ネタバレBOX
「今観たほうがいい若手の劇団ある?」と小劇場好きに聞かれたら、いくつかの劇団名の中にこの劇団を挙げるだろう。
ただし…。この後は後ほど。
中二病という安易な言葉を使うのはバカだと思う。
そんなレッテルに安穏としているのはバカでしかない。
さらに、それを自ら名乗るのは、「ばっかじゃねーの」と思う。
自虐的な意味で使っていたとしても、自分でつまらないレッテルを貼って、そのレッテルのうらで安心しているのが、大馬鹿なのだ。
しかし、そういうレッテルが欲しいという気持ちは理解できる。
「キャラ」という問題だ。それが安定しないと自分の居場所がない、と感じるからだ。
「演じる」という行為は「キャラ」とは切り離せないだろうから、「演劇やってます」ということは、やっぱり、この劇団の彼らにとっては、「宗教」に近いものがあるのだろう。
で、今回の公演である。
モロにソレなのだ。
「自殺未遂」というのが流行する。まるで悪いウイルスのように人々を苛んでいくという世界の話だ。
「自殺」ではなくて「自殺未遂」。
「死」が目的ではなく、「失敗する」ことが目的なわけで、単純に言えば、「死」と「再生」を繰り返していく行為でもある。
「生まれ変わる」なんて単純に言っちゃってもいいかもしれない。
それは「憧れ」ではないだろうか。
「自殺」なんてできないし、実際は死にたくないのだけど、なんか憧れるような感覚がある。
それが、自ら望んだわけではなく、老人から順々に低年齢化していくという流行なので、そうなってしまう、というのは都合がいい。
しかも死なない。安全。
そんな世界観の中で、自分のキャラを後生大事に、各登場人物が衣装に書いて、演じている。
登場人物が「演じる」という行為と、実際の役者が「演じる」という行為、さらに言えば、役者が「生きるために」日常生活で「演じて」いるという行為が、渾然となっていく。
「ktkr」(キタコレ)って自分をアップさせながら。
それは、前回も感じたことではあるのだが、今回はさらにヒートアップしていて、もの凄いことになっていた。
ホントに凄いと思うのだ。
「宗教(劇団)」の面目躍如ということろで、かなりの割合で、公演とその準備自体が、劇団員のリハビリになっているのではないかと思うのだ。
社会に適応していくためのリハビリ。
世界は大変なことになっているけれど、自分の周囲1センチぐらいだって大変なんだ、ということで、それを真正面から訴えるのは、なんかねー、なんだけれども、この作品では、彼らはきちんと向き合うとしているのではないだろうか。結果的なのかもしれないが。
役者の本気の目が、ビンビンと来るんだよね。ヒリヒリするし。
問題は、彼らが(役の上での「彼ら」ではなく、生身の「彼ら」が)「コミュニケシーション能力に欠けている」と思い込んでいることだ。
確かに、「会話」はダメなのかもしれないが、演劇を通してのコミュニケーションについて、もっと信じていいのではないかと思う。
つまり、やけに丁寧で説明的なのだ。
例えば、開演前に今回の内容について丁寧に解説してある紙を配ったり、同時多発的に起こる台詞の中で、観客に聞いてほしい台詞を、きちんと届けようとして、会話のトーンを意識して調整したりなどだ。
そんなことまったく気にしなくていいんじゃないかと思う。
無責任に勝手にやれ、ということではなく、「届けたい」気持ちがあれば、「届いている」と思う。演劇の中では、そんなに自分をセーブしなくても、いいと思うのだ。
つまり、演劇ぐらいは、もっと言うと「演劇している自分たち」ぐらいは、もっと信じていいのではないかと思う。
前回、今回と観てきて、役者や作者の、自分たちの作品へのめり込み具合、飲まれ方の厳しさは伝わってきている。
それだから、観ていて「凄い」と思う。
この作り方でいくと身体も心も保たないかもしれない。
だけど、乗り越えていけば、「リハビリ」にはなる……と思う。
なんかぶっ壊れるまでやってほしいなと思う。
今回のようにDJとかVJよろしく、照明とか音響をその場でマッチさせるというのもいいなと思う。彼らはど真ん中とか、祭壇のような場所の左右にいてもよかったのではないか。
で、冒頭の話に戻るわけだが、
「今観たほうがいい若手の劇団ある?」と小劇場好きに聞かれたら、いくつかの劇団名の中にこの劇団を挙げるだろう。
ただし、この劇団の姿勢(一般客への姿勢)は酷いものである。
そんな酷い目に遭うかもしれないし、遭わないかもしれない。
遭っても、「まあ、いいか」と思う人のみへのオススメである。
今回、何が起こったのかを一応書いておこう。
ここからは、鬱憤の撒き散らしになるので、そういうのが嫌いな方はスルーで。
会場に着いて、係の人に席に案内された。中央部分の見やすい席だった。
ところが、開幕から30分経って、その係の人が「席を移動してくれ」と、私と隣の人に言ってきた。上演中にだ。演出なのか何なのかわからないから席を動いたら、遅れて3人の男性が入ってきた。
そして、私たちが座っていた席に案内したのだ。
私は、端の後ろに折りたたみを出されて座らされた。
「何これ?」と思った。演出ではない。
単に、劇団にとって大切な関係者が来たので、見やすい席を案内したのだ。上演中なのに一般客を移動させてまで。
これは呆れてしまった。
そこで大人の対応で、セットを壊しながら大声で叫んでもよかったのだが、だらしないことに、結局そのまま我慢してしまった。
このエピソードの凄いところは、30分遅れてやってきたその3人の「劇団にとって大切な関係者」たちは、途中で出て行ってしまったということだ。
素晴らしいオチだ。私は笑った。
どうやら、彼らの公演は、今後のステップに大切な「関係者様」にご覧になっていただくためのPRの場であり、観客は公演を飾るセットぐらいにし考えてないんだろう。
で、もう行かないな、この劇団と思ったのだ。
その係の人がどうこうではなく、一般客を大切にしない劇団ということなのだろう。
さようなら、宗教劇団ピャー! ! さよーならー!
満足度★★★★
かつて朝鮮総督府鉄道という、日本が建設した鉄道があった。
その朝鮮鉄道に、小宮さんのお父上が勤めていたことがあった、という事実からできた芝居だと言う。
ネタバレBOX
前説から小宮さんが務める。
前説で、父親の話と、自分の話、そして、朝鮮鉄道とはどのようなものであったのかを、簡単に説明してくれる。
日露戦争の翌年からわずか2年間で半島の南北を貫く鉄道建設したという事実に驚く。
その距離は、東京・神戸間に等しいらしい。
現在の北朝鮮にあった、新安州駅に勤める駅長が主人公。
てっきり小宮さんのお父上が主人公かと思っていたが、そうではなかった(舞台の中では同駅の助役として出てくる)。
駅長が主人公で、終戦の翌日から1年後、半島を縦断して釜山までたどり着く様子を描く。
植民地でありながら、駅長の奥さんは、故郷と思っている土地であるし、駅長もとても好きな土地でもあった。
しかし、終戦のため、職を辞し、その地を離れることになる。
駅長は、駅長であるということの責任とプライドで、最後の日本人引き揚げ者がいなくなるまでその地に留まると決意し、実際に最後の引き揚げ者たちと、地獄の半島縦断を体験するのだ。
終戦翌日の、韓国の人々との関係の変化や、日本人たちの混乱ぶりが描かれ、創氏改名についても触れていく。
鉄道員という仕事に誇りを持つ者としての役割と、土地への愛着、しかし、そこは他国であり、植民地であるということの露呈が、終戦によって初めてなされる。
そして、引き上げ行の辛さは、(こういう言い方はあまり適切ではないかもしれないが)今までいろいろな本などで見聞きしたものであり、紋切り型とも言えるのだが、歴史的なこういう事実を知らない世代もあろうから、それは、きちんと伝えなければならないことなのだろう。
小宮さんのひとり芝居なので、その状況を、ちょっとしたユーモアを交えながら、淡々と、ときには熱く語っていく。
ひとり芝居なのだが、ある人物ひとりを演じていくという形式ではなく、何十人もの役をひとりで演じるという、いわば、落語的なひとり芝居であった。
そのため、会話をする場面では、会話ごとに場所を移動してその役の台詞を言う、ということになるので、やや会話のつながりに「間」ができてしまう。
この「間」というものが問題である。つまり、「笑わせるシーン」では、笑わせるためるの「間」として、適切ではなくなってしまい、観客が先にオチを想像してしまうことになってしまう。
だから、「間」が大切なシーンではあまり笑うことはできなかった。それは、後々にかかわってくることだけに残念である。
通常の芝居とは違う「間」や台詞の構成にすべきであったように思う。
ただ、そういうところにスマートさはないものの、熱演が伝わり、それが心を打つ。
ぐっときてしまうシーンもあった。
今回、この舞台を観る前に、『ソウル市民』5部作の上演を観ていただけに、なんとも気持ちに深く入ってくる。
植民地と一般市民の関係だ。
『ソウル市民』では、ある意味呑気な市民たちであったが、こちらは、鉄道という仕事と、終戦後ということもあり、当然感覚的には異なるのだが、新たに見えてくる日韓関係というものがあるのかもしれないと感じた。
韓流ブームが定着して、韓国に感じる想いが違う世代にとっての関係性、それは、加害者・被害者という単純な2軸だけで見るのではない、新たな関係が見えてくるのかもしれないと思ったのだ。
この作品の戯曲は、鄭義信さんが書いている。鄭さんにとってこの作品には複雑な思いがあったのではないかと思う。つまり、日本人の駅長からの視線で描かれているので、逆から見るとどうだったのか、という視線のあり方についてなどだ。
満足度★★
なんだろ、この残念感…。
その昔、タイニーアリスでこの劇団を観て、もの凄く面白かった。
その後、この『劇団衛星のコックピット』を東京でも上演したのだが、日程が合わず観ることができなかった。
それだけに「観たかった!」の気持ちが高まっていたのだが、なかなか東京にやって来なかった。
そして、今回である。
しかも公演内容は見逃した『劇団衛星のコックピット』だ。
これは期待せずにはいられない。
ネタバレBOX
受付には企業の受付とか工場見学の案内にいそうなコンパニオンの女性が制服でいる。
どうやら、松戸重工という企業の開発した大型ロボットに、観客たちは見学に来たようである。
今回見学する大型ロボットのパンフも配布され、社歌まで載っている。
誰も気がついていないようだが、松戸重工のCMがロビーの小さなモニターに流れている。しかし、内容は短くてやや中途半端。
少人数での観劇になるのだが、小学生ぐらいの子どもの数が多い。
市報とかで「巨大ロボットを舞台にした演劇」を見てやってきたのか、市民の招待なのかは知らないのだが、とにかくわいわいやっている。
開演になり、コンパニオンに従って、室内に入る。
正面にはロボットのコックピットが設えてあり、期待がさらに高まる。
コンパニオンが前説を行う。松戸重工の社歌まで歌ってくれる。
やっぱり期待は高まる。
ニコニコしてしまう。
のだったが、いざ本番になると…。
ん?
なんだろ、この感じ。
面白要素満載なのに、不発、不発。
Fジャパンさんが、変なポーズや表情で、子どもたちを笑わせるぐらいな感じ。
役者の人たちは、みんなうまいとは思うのだが、いろいろな設定の意味がなく、主人公が曖昧で、かと言って群像劇にしては、個人の持っている物語があまりにも薄すぎる。
これって、本当に何回も再演されていて、今も全国の市のホールなどを回っているの? と思ってしまう。
ごちゃごちゃしすぎた印象で、何が言いたいのかイマイチわからない。
日本の、マスコミの、というテーマなのかもしれないが、それも弱い。
設定の曖昧さは、例えば、メインモニターが故障ということで、見えない設定なのに、サブモニターの様子を観客に見せるために、メインモニターにそれを映し出す。だったら、メインモニター故障中の意味もなく、普通に使うべきで(CGの制作費などの問題かも)、使わないならば、最後まで使わず、サブのモニターに映っていることは、観客には見せずに、台詞だけで伝える、とかにすべきではなかったのだろうか。
また、そもそも入口から前説までは、企業の製品をデモンストレーションするというような、設定だったのにもかかわらず、本編が始まると、観客は、「ロボットにやって来たお客」ではなく、普通の「演劇を観に来た観客」になっているというのは、いろいろ凝ったことしている割りには意味がないように思えるのだ。
観客参加型ならば、最後までそうすべきだったのではないだろうか。
子どもたちも公演中はあまり盛り上がってないし。
武蔵村山市民会館は、わが家からもの凄く遠い。
そして、この残念感。
ぐったりしてしまった。
好きなタイプの劇団なので、次に期待したい。
満足度★★
独特な演出
もとはワークショップで生まれた10分の作品だったらしい。
それをフルバージョンとしての上演。
日本語での上演で、演出は韓国の方。
なんと無料。
ネタバレBOX
シンプルな舞台装置。
遺影が正面に飾ってある。
外が見える窓が開いているのだが、役者たちが閉めていく。
亡くなってしまった「母」を中心にした家族の物語。
とても不思議な展開なのは、もととなった10分の作品を自由に広げていったことと関係なるのだろうか。
緊張から緩和への手法が面白い。
というか変わっていた。
シーンごとのつなぎ部分に、必ず、仕掛けがある感じ。
意表を突かれるところもある。
特に回想シーンで、そこに登場しない役者が、動物を演じるのが意外だった。
深刻でしんみりしたシーンの後に、ちょっとユーモラスな動物たちを演じる役者が出てくるからだ。
ただし、それが、後々のシーンに効いてくるとということはなく、一過性のもの。
後のシーンにそれらが効いてくるような、飛び抜けたモノになっていないのは残念。
ただ単に役者に動物のマネをさせただけで、終わってしまっている。
確かにその場では面白いのだが、全体的なトーンや、伏線になっているわけでもないところに疑問だけが残る。
「何かあるんじゃないか」という期待だけが取り残されてしまった。
また、父親が心象を吐露する台詞がかなりある。「ああ俺は何をしてしまったんだめろう」的なそういう台詞には違和感しか感じない。
これも全体のトーンとの違和感もある。
ひょっとしたら、そういう「今どきそんなこと言う?」というような、心象吐露台詞を吐くということ自体がギャグなのではないか、と思ったら、そうでもなかったようだ。
動物のマネと今どきあまり聞かない台詞が、てっきりセットになって、メタな芝居空間を創造していくのではないかと、最後まで、少しだけ期待していたのだったが、そうではなかった。
普通に冒頭のシーンのおさらいをして終わった。
そして、何よりエンディングで亡くなった母親が、吐く台詞は、あまりにも実も蓋のなく、好きではなかった。
『いい日旅立ち』の歌はいい感じだったし、また外が見える窓を順番に開けていく感じはちょっといいな、と思ったのだが。
10分のオリジナルのほうも同時に観てみたかった。
満足度★★★★
未整理で、未消化な「今」を切り取る
「演出の都合上、長くはありませんが、お立ち見いただくことがございます」という但し書きがあった。
「何だろう?」と期待しつつ、座・高円寺の劇場へ。
ネタバレBOX
会場に着くと、まず、腕に腕章を付けられ、この場所を説明するパンフを渡された。
そして、オレンジの作業着で黄色いヘルメット姿の人たちの前に、付けられた腕章の色と番号に従って並ぶ。1つの色のチームは8人編成。
この場所「檜谷地下学センター」の注意事項などを聞かされる(観劇に関するものではなく)。
受付前には、なんだかよくわからない(モグラ?)ゆるキャラが愛想を振りまいており、手にしたカセットデッキからは、この場所、すなわち「檜谷地下学センター」の解説が流れている。
まるでテーマパークのアトラクションに入る前ようだ。
観客たちのざわつきが気持ちを高める。
時間になり、劇場内へ。
そこはどうやら大きなエレベータのようだ。
観客はそのエレベータで地下1キロの場所へ行く。
着いたのは、檜谷地下学センターが、地層科学研究をしている場所の地下。
地下に降りると所員からこの場所の説明がある。
しかし、それを遮る者がいた。彼女によると、ここは実験施設の名目で作られているが、ゆくゆくは放射性廃棄物の処分施設になるのではないか、ということだ。
彼女を含む、観客と一緒に地下に降りた、あるグループのそれぞれのエピソードが語られていく。
(観客は席に誘導されて着席する)
彼らは、この施設を運営する側から見ると厄介者のグループであった。例えば、この施設の上にかつて住んでいた者(本来はこの施設の上−地上−は、ダムになる予定だった)だったり、福島からやって来た者だったり、この施設の危険性を訴える者だったり、などなど。
私たちの多くが、震災後の福島原発の事故で知った事実がある。
例えば、使用済み核燃料の廃棄の問題。例えば、原発に絡む交付金の問題。例えば、避難地域に指定された場所のこと。
そういう、テレビや新聞、雑誌やネットなどで目にし、耳にした情報が戯曲に織り込まれていく。
特に舞台となる地下の実験場(核廃棄物保管施設)のエピソードは、『100,000年後の安全』というドキュメンタリー映画にもなったフィンランドのオンカロを模しているようであり、内容もそのドキュメンタリーからの引用が多いように感じた。
また、それ以外の、例えば避難地域に指定され、一時帰宅した家族のエピソードも散々テレビ等で報道されたものの、サマリーのようでもあった。
もちろん事実であろうが、そうした情報を集めて作り上げた印象が強かったのだ。
ただし、演劇的なシーンも数多くあり、それらの情報を有機的に結び付けていた。
例えば、ダム建設のときに1人で戦っていた男の影や、地下にいる不気味な煉瓦職人たちと、玉にした放射物質を含む土、携帯小説を書いている女性と他人には見えないパートナー。
そんな仕掛けが、特に煉瓦職人たちが、あまりにもアングラであり、楽しいのだ。
そして思いの外、「音楽劇」だと言ってもいいだろう。「歌」がひとつのキーになっていく。
妙にリアルな情報群とそれらの虚構的、演劇的な要素が、もうひとつしっくりとこないのは、情報が生々しすぎるからではないだろうか。
それは、また、坂手洋二さんの想いが強すぎて、いろいろ盛り込みすぎた、ということもあろう。
しかしこれは、「今」を切り取っていて、「今」でしかできない舞台である。
つまり、現在進行中であり、「整理」も「総括」もできていないからだ。即時性のある舞台であると言っていいだろう。
未整理で未消化で、だけど、「今言っておきたい」という想いの強さが溢れていると言っていい。
後10年、あるいは50年経ったときには、このときの出来事を誰かが総括して、舞台化してくれるかもしれない。
それまで待っていられないという焦りと憤りが感じられた。
テーマパークのアトラクションのような導入と、虚構の物語をまぶしてはいるが、そこで観たモノは、「え、それってウソだろ?」と言ってしまいそうな真実である。
そんなウソのような酷い真実の中に私たちは、今、生活しているということなのだ。
だから、テーマパークのアトラクションのような導入は、実は哀しい。モデルになったらしい施設でも行われている見学会は、何かを隠蔽するような企みでもあるからだ。
開演後、係員に否応なしに誘導されて、エレベータで地下1キロに降りた私たちは、そのエレベータでもとの地上に戻ることはなく、腕章を入口で返却して帰宅した。
だから、実はまだ、アノ地下1キロのところに私たちはいるままなのだ。
ウソのような世界の中に。
劇中で歌われる以下の歌が、坂手さんが声を大きくして言いたいことなのだろう。
作品のタイトル『たった一人の戦争』がここでクローズアップされていく。
「たった一人で歩いていたら、歌を歌いたくなった
たった一人で歩いていたら、子供の頃の歩き方になった
たった一人で歩いていたら、帰り道がわからなくなった
たった一人で歩いていたら、地球を救うのは自分だと気づいた」
(『たった一人の戦争』より)
この舞台となった地下学センターのモデルらしき場所がある。「幌延深地層研究センター」という場所だ。
http://www.jaea.go.jp/04/horonobe/center.html
満足度★★★★
異文化とのぶつかり合い(侵食)
「中華」という設定が効いている。
渋くてカッコいい男たち。
パラドックス定数、やっぱり「男祭り」(笑)。
ネタバレBOX
戦場が舞台ということで、どこの戦場かと思っていたら、渋谷。
これにはちょっと驚いた。
しかも、「市民たちが勝手に始めた戦争(大きな争い)」らしく、アジアからの流入者と日本人との戦いらしいのだ。
「日本人」というのは、「血」らしい。それもクオーターなども入り混じっており、それでも「血」なのか? と思う状況。
自分たちのアイデンティティがどこにあるのかを、意識しなかった国民だったということなのだろう。
奇しくも青年団の『ソウル市民』5部作を順番に観てから(4本だけだが)の、パラドックス定数の『戦場晩餐』であったから、なおのこと、日本人とアジアとの関係や、日本人のアイデンティティなんてことへ想いが行ってしまう。
それにしても中華料理屋という設定はうまい。
どうやら野木さんが、戦場カメラマン渡辺さんの体験から思い立ったらしい。実際に戦場に中華屋があったということで。
中華街は世界のどこにでもあり、ポピュラーな食事でもあるし、この舞台の設定である、戦争状態ということを考えても、なかなかの皮肉が効いている。
もちろん「中華を喰らえ」という民族主義的な発想ではなく(笑)、中華は、日本人の「舌」を確実に「侵食」していて、もはや日本食でもあるからだ。
つまり、日本人は外の文化や技術を取り入れるのはとてもうまく、料理に関しても日本人の口に合った中華料理を作り上げてきた。
ただし、それでも「日本人」にこだわり、それ以外を憎しと思う。
ところが、日本語を読み書きできない世代が現れており、日本人の拠り所としての「文化」のようなものはすでにない。だから「血」だけが最後の拠り所なのだ。
たぷん、最後の拠り所の「血」もどんどん薄まっていき、最後に「日本人」は残るのか? ということになろう。というより、「日本人」って何? となる。
そのときに、日本人は、「日本人の口に合う中華料理」のような、そんな世界を築けているのだろうか、そんなことにまで考えが及んだ。
役者のカッコ良さは、あいかわらずだったが、今回の場面展開は、とてもスリリングだった。一瞬、何が起こったのかわからなかったりするのだが、ヘルメット手にして歩みながらの沈黙、なんてシーンには、シビれた。
そして、今回の会場は、倉庫のような場所であり、会場として「セット」を選んだというところであろう。
これはとてもいい選択だったと思う。
「音」が結構いいからだ。
しかし、それは諸刃の刃でもあり、「音」が舞台を邪魔してしまったところも多々ある。
そこで、一番気になったのは、「外の音は、舞台の上の登場人物の耳に届いているのか?」ということだ。
どうやら、耳に届いていない設定のようだった。
これが、例えば、登場人物の耳に届いている設定であれば、例えば、山手線の音がすれば、それをきちんと避けて話したり、声の音量を上げたり、聞こえにくければ聞き返したり、さらに踏み込めば、「電車は走っている」という台詞を重ねることも可能ではなかっただろうか。
そうすることで、観客は、単に「倉庫的なセット」にいるのではなく、「戦場となった渋谷の中華屋」にいる、とリアルに感じたのではなかっただろうか。
そして、パラドックス定数の流儀に反するのかもしれないが、今回の舞台に関して言えば、女性がいないことが、逆に不自然に感じてしまった。
男勝りでもいいのだが、女性がいても不思議な設定ではないし、それはそれでもう少し物語が膨らみ、カッコいい女性が観られたのではないか、と思うのだ。
会場のことで、台詞が聞き取りにくかったのだが、集中して観劇でき、時間もあっという間だったということは、それだけ素晴らしい内容だったということなので、できれば、会場はこのままでもいいのだが、もっとうまく活かして、再戦をお願いしたいものだ。
満足度★★★★
『サンパウロ市民』「時代」そのものがくっきりと姿を現す
戦争は遠い出来事。
1939年サンパウロにある商家の1日を切り取り、植民地を支配する側の『ソウル市民』とは、また別の「植民」家族と時代を浮かび上がらせる。
ネタバレBOX
「あれっ?」と日にちを間違えたかな、と一瞬思った。
タコの話に、玄関の修理、そして関取の訪問。
この作品の舞台は、1939年のサンパウロ。
『ソウル市民』と同じ文房具商の家族とその周囲の人々のある1日を描く。
第1作の『ソウル市民』を下敷きにしつつ、この作品以前の4部作の、いくつかのパーツを利用して作った作品。
と言っても、単なる焼き直しというわけではなく、きちんと当時の状況を調べた上での創作であるから、フォーマットを同じにして作り上げたということは凄いのではないかと思う。
これは、「コロンブスの卵」ではないだろうか。
出来上がってしまえば何のことはないかもしれないが、その発想は素晴らしいと思う。
同じ時代あって、同じような家族たちが、同じようことをしつつも、境遇が違うという面白さ。
『ソウル市民』自体も、1つの家族の歴史になっているが、フォーマットは同じだったのだ、
しかし、1つの家族の歴史ということで、気がつかなかったのだが、「同じような家族たちが、同じようなことをしつつも、境遇が違う」という作品であったわけだ。
もちろん、1家族の大河ドラマというような見方もできるのだか、時代だけが違う4本が並んでいるという見方もできるわけなのだ。
つまり、5作品を観ることによって、「時代」そのものが、さらにくっきりと姿を現してくるということなのだ。
『ソウル市民』では、日本の植民地であることが、大きな設定であった。そしてこちらの『サンパウロ市民』では、日本人が「植民」するという点では同じようであるのだが、実態は、労働力としての需要であり、ある意味下層を構成するために、つまり、まるで「植民地の住民」になるために地球の裏側にでかけた、と言ってもいい状況だった。
この1939年という時期は、自らの手で自分の農地や商店を経営する人もいたようだ。
しかし、戦争が激化しつつある中で、ブラジルはナショナリズムが台頭しており、日本人学校は閉じられ、日本語も話すことができなくなるのではないか、という状況となっている。
そういう状況の中での日本人たちの心の拠り所は、「連戦連勝」の日本軍の情報だけである。しかし、短波放送は入りにくく、地元の新聞では日本人たちが思い描くような記事はあまり載っていない。
情報から遠く、母国への想いがさらに情報を見る目を歪めてしまう。
日本人たちは、自分の農地を「植民地」と呼ぶことで、日本人の誇り(半島や大陸を手に入れた日本国)を誇示しているようで、哀しい。
そして、「土人」と呼ぶ原住民たちへの見下し方は、さらに日本人が自らの境遇を語っているようなものである。
実はブラジル人たちに対しても、日本人の勤勉さと比べ、見下そうとしていることが見てとれる。
さらに、同じ日本人であっても、「沖縄」の人たちに対しても、「暖かいところの人たちは…」というトーンで、やはり無意識に下に見ている様子がうかがえる。
この構造を作り上げる感覚は、万国共通ではないだろうか。日本的でもあるが。
また、家族たちの暮らしも同じである。家長が中心にいて、机に付く席次はとても大切である。
自分より上の者が現れるとすぐに席を空け、自分は次の席次に着席していくのだ。
これも無意識。
沖縄、広島という地名にまつわる戦争の影を見つつ、サンパウロでは、バンザイを叫び、そして歌い踊る。
前の4作同様に、いや、さらに情報の外にあることで、戦争というものがさらにどこか余所事のような市民たちなのであった。
前の4作のパーツを利用した作品であるから、「歌」もある。しかも踊り付きで。しかし、これだけは唐突すぎたのではないだろうか。
サンパウロにいる、という空気感を出すのであれば、ラジオや蓄音機などから、地元の音楽を流しているというような伏線もあったほうがよかったと思うのだ。
それにしても、『ソウル市民』のフォーマットは、サンパウロで成立するのであれば、日系人の収容所があった『マンザナ市民』や日本人の町があった『サイパン市民』などという設定もあるのではないかと思うのだ。
満足度★★★★★
『ソウル市民1919』 1919年には何が起こったのか?
この作品は、とても優れたコメディである。
…と言っていいかな…。
と同時に、「笑い」の向こう側(家の外)では何起こっているのか、を知っている観客たちに「考える」機会を与えてくれる作品でもある。
ネタバレBOX
この作品はとても優れたコメディでもある。
(私はコメディとして楽しませてもらった)
きちんと台詞と、その関係で笑わせてくれるコメディ。
実はもっと淡々としてものを想像していた。
それは、時代設定、場所の設定(1919年京城)があるからだ。
それはともかく、とにかく面白い。
爆笑してしまうシーンもある。
相撲取りが出てくるという、飛び道具的なところもあるのだが、それだけではなく、随所に面白さを加えてくる。
とは言え、そんな面白さの「外」では、三・一運動の気配が家庭内に忍び込んで来る。そういう(日本人から見た)不気味さを、女中がいなくなるというさりげないことで表し、さらに相撲取りという、非現実的なキャラクターと彼がいなくなってしまうという不安感で醸し出すうまさがこの戯曲にある。
この家では、そんな不気味さの上で、賑やかに歌い、「ここはどこなのか」「彼らはここで何をしているのか」ということとは無縁にいる。
この「呑気さ」、そして「悪い人たちではない」ということがこの作品の肝でもあろう。つまり、これが一般の人たちの姿だ。
内(家)の中の小さなさざ波が彼らの最大の問題であり、家の幸せがすべてなのが彼ら(我々)なのだ。
それによって見過ごしてしまうこともある、というのは深読みしすぎなのと、後知恵によるものであろうか。
もちろんこれは、「お話」だ。しかし、そのお話は説得力があるので、観客に「考えること」を与えてくれる。
舞台の上の家族の「外」で起こっていることを、観客は知っているからだ。
笑いながら、そうしたところに持っていくうまさ。
そして、今回も役者が皆うまい。
台詞の応酬の巧みさ、重なり合いは、前作『ソウル市民』ほどは感じないが、それでも自然にそういうシーンがある。
とにかく面白くってグイグイ引き込まれる。
こんな面白くっていいのだろうか、なんてこと思ったりもしてしまう。
こちらも1919年の設定なのだが、現代口語に違和感まったくなし。
戯曲と役者がうまいからだろう。
アフタートークは奥泉光さんと平田オリザさんだった。
奥泉光さんって、こんなによくしゃべり、面白い人とは思わなかった。久々に満足度高いアフタートーク。
平田さんと奥泉さんは大学の先輩後輩で旧知の仲ということで、トーマス・マンと平田さんなど実に面白い話が聞けた。
満足度★★★★★
『ソウル市民』
ソウル市民5部作の1作目。
家族の物語であり、歴史が主人公でもある。
逆に歴史の物語であり、家族を含む日本人の物語でもある。
台詞の重なり方が見事で、エレガントですらある。
この作品は、ずっと後世にも残っていく作品になるであろう。
ネタバレBOX
先に観た『1919』に比べると実験的な印象がある。
『1919』がとてもよくできたコメディな印象もあるので、こちらの台詞の重ね方や間が、そう感じさせるのだろう。
しかし、台詞は重なっていても、聞こえるべき台詞(単語)は、重なっていても観客に届くのが見事だと思う。
声の張りというだけでなく、声音のアンサンブルが見事だということなのだろう。オーケストラの演奏で、ここぞという個所ではある楽器の音がきれいに耳に届くのと似ている。
つまり、演奏者(役者)だけの力でもなく、作曲者&指揮者(戯曲&演出)と演出の設計とコントロールもうまいということだ。
そういう気持ちのいい会話の「音」は、単にストーリーを語る以上の効果を演劇に与えている。
さらに「自然な振る舞い」と感じさせる役者の演技がそれに加わる。
その融合は、「エレガント」と言ってもいいほどだ。
『ソウル市民1919』とは、構造的(組立として)な共通点があり、それを見つけるのも楽しいのだが、あらためて平田オリザさんっていう人は凄いなと思った。
この5部作は、家族ドラマであり、その「外」で流れる時間(歴史)も主人公である。
それは、学校では学ぶ時間すらなかった近代史 - 特に日本と朝鮮(韓国)など、アジアとの関係 - を知るきっかけともなる。
さらに言えば、史実(何が起こったか)を知るという一面だけでなく、「外で流れる時間(歴史)」が主人公であると同時に、「家で流れる時間」- それは、日本人の意識の歴史でもある - も主人公であるという、先程の逆の関係でもあることが重要になってくる。
すなわち、「その時代に人はどう感じていたのだろうか」ということにつながる。それが本当の歴史というものではないだろうか。
つまり、(戦争の)「被害者」「加害者」という白黒ではなく、どう考えて、どう思ってその時代を生きていたのだろうか、ということに思いを馳せることも可能だ、ということ。
過去の誰かを断罪するのではなく、その前に少し考えてみよう、ということが、家庭の物語を通じて見えてくるのではないかと思う。
そのための情報としては、この『ソウル市民』では、日本人と朝鮮人の女中がいるが、朝鮮人の女中は、民族衣装だ。そして、その30年後の『ソウル市民1939・恋愛二重奏』では、彼らは同じ制服を身にまとっている。そういう流れを感じる。
台詞の中でも、この『ソウル市民』では、日韓併合は翌年であり、日本人の家族もおっかなびっくりな様子であるが、30年後の『ソウル市民1939・恋愛二重奏』では、「文化を伝える」のような意識や八紘一宇思想が、日本人の中に根付いている様子がうかがえるのだ。それを信じ込んでいる、あるいは信じ込もうとしている、のかは、とらえ方次第ではあるが。
1909年が舞台ではあるが、会話は現代口語であり、動きも現代人風である。あえてそうしたところが、「昔」の話ではない感覚として観客に伝わるということで、それはうまい。
衣装等については、考えられているようで、特に「二百三高地」の髪型は、時代を感じさせ、また、それが板についていて、とてもよかった。
この作品は、モノの考え方、とらえ方という、ことについて、歴史という面から考えること(学ぶこと)のできる作品であり、後世にも残っていくであろう。
満足度★★★★
『ソウル市民1939・恋愛二重奏』
「ソウル市民・5部作」の4作目。
面白い。
が、広げすぎではないか。
つまり、「恋愛」のバックミュージックとしては、「1939年」は音が少々大きすぎたのではないか、ということ。
ネタバレBOX
1939年は舞台として設定するには難しい年だと思う。
つまり、何をどう表現するのか、ということはすなわち、どこに立っているのか、となるからだ。
そこで、当パンにある、平田オリザさんの「当時、(朝鮮人の)志願兵制度には20倍もの応募があった…だから植民地支配は哀しい」に、なるほどと思う。
個人的には、1909年が舞台の『ソウル市民』、続く1919年が舞台の『ソウル市民1919』と観てきて、この『ソウル市民1939・恋愛二重奏』となるのだが、先の2本に比べると、否応なしに、日常の生活(空間)に外の空気が入り込んできている。
つまり、戦争の影が濃くなっている。それだけ時代が逼迫してきているということなのだ。
もちろん、そうした世界(社会)の中にあっても、日常は日常であり、登場人物たちも「内地では…」と言うものの、別世界の話をしているようで、日本軍は連戦連勝で、何の憂いもないのだ。
内地でそういう状況ならば、どんな事態になっているのか、と想像できそうなものでもあるのだが、それに思いを馳せるのは、よほどの悲観論者であったのだろう。
帰還兵や出征、ヒトラーユーゲントに、業の中心になっている慰問袋などの戦争の空気が、家庭のあらゆるところに現れてきており、しかし、それがあまりにも緩やかなので、危機感はない。
それは、今の世の中を見ても同じだ。今が最悪の事態になる前兆を見せていることに気がつかないことは、あまりにも多くの事例がある。
考えたくない、考えるのが怖いということもあるだろう。
そういう状況下にあって、戦争神経症のような症状を見せている、帰還兵の婿とその妻や、使用人などの「恋愛」感情を交えながら描かれていく。
当時の人が考えていた(当時の人にとって普通のことだった)だろう、中国や半島の人々との関係や、ユダヤ人に対する感情など、彼らに対する発言は、とてもセンシティブなものであるのだが、(今の尺度に持ってきて変な弁明をさせることなく)それを語らせることのうまさを感じる。すぐに「右」「左」と色分けしてしまったり、「言葉狩り」の世の中にある者にとって、それは刺激的でもある。
『ソウル市民』シリーズの特徴の1つには「歌」がある。
今回も、何曲か歌があったが、特に「東京ラプソディー」を替え歌で合唱する「京城ラプソデー」は、その歌詞があまりにも美しく、つまり逆に虚しく聞こえ、今ここで歌う彼らの今後のことを思うと胸が熱くなった。
また、書生だった朝鮮人が志願兵となって出征するのを、同じ朝鮮人の社員が1人「愛国行進曲」を大声で歌うシーンにもぐっと来た。
この歌の歌詞には、「八紘一宇」が込められており、「軍隊では朝鮮語は話せない」「手紙は朝鮮語で書くと届かない」という台詞があっての、この歌であっただけに、その意味がとても重い。
日本と朝鮮の関係は、「相思相愛」になっているのか、ということをタイトルをふと思い出し、このシーンでは考え込んでしまうのだ。
そして、帰還兵の夫とその妻の関係は、当分は埋まりそうにない。夫は、もがき苦しみながら、かつて持っていた「日常」に戻ろうとしている。それが見事に現れている幕切れの台詞はあまりにもキマっていた。
婿の昭夫を演じる、古屋隆太さんが舞台に現れることによる不協和音は、素晴らしいと思った。ビリビリ感は、彼の力だけでなく、それを受ける側のうまさでもあるのだ。
また、「津山30人殺し事件」を引き合いに出し、「それだけ殺せるならば戦争に行けばよかったのに」と言わせる。それは、いわゆるチャップリンが『殺人狂時代』の中で「1人殺せば殺人だが、100万人殺せは英雄だ」に通ずるニュアンスもあり、さらりと言わせるのは巧みなのだが、それをあえて言わせなくても、と感じてしまった。
さらに、ヒトラーユーゲントのくだりは、あまりにもドタバタが過ぎて、どうかなぁ、と思わざるを得なかった。笑いがそこまでしてほしかったのか、と思ってしまった。
とにかく、そんないろいろな事象を盛り込みすぎて、私の観た他の2作と比べると、やや広げすぎの感がある。もちろん、それが収まってないか、と言えばそんなことはないのだが、結局、「恋愛」のバックミュージックとしては、「1939年」は音が大きすぎた、というところではないだろうか。
満足度★★★★★
台詞&会話の掛け合いからずるずると出てくる物語
やっぱり、台詞と会話が面白い。
わくわくしながら成り行きを見る。
全編笑いっぱなし。
それは、他人のことだから。
すなわち、自分のことでもあるから、笑うしかない。
ネタバレBOX
姉弟がいる。
姉は、「五反田絆プロジェクト」というボランティアのような活動をしている。
弟は、不動産屋をリストラされた。
「五反田絆プロジェクト」は、西田が中心となって、何かをしなければいけない、という衝動に駆られた人たちが集い、折り鶴を折るグループだ。
西田は、どこにでもいそうな俗物で、「自然農法」とか「成城石井」(笑)とかの、ブランドに弱く、どこから来るのか、強靱な自信を持ち、あらゆる相手を下に見る。
グループのメンバーである中川は、西田にいいように言われまくる。
プロジェクトは、五反田肉祭りに参加することになるのだが、西田の横暴ぶりに業を煮やした後藤と大山が結託し、新たなグループ「五反田絆の会」立ち上げる。
一方、不動産屋をリストラされた弟は、不動産屋の社長の娘に気持ちを寄せていて、仕事の最後の日に、西洋の神々が争って飛び出してくる映画に誘うのだった。
そんなストーリーである。
あいかわらずの気持ちいいほどの台詞回しと、その応酬。
と言っても、リズムがいいので、「凄い」というオーラを押し付けるようなものではない。
実に自然(風)な、台詞と会話だ。
この台詞と会話から、ずるずると物語が編み上がって出てくるようなのだ。
丁度、リリアンというか、そんな感じにずるずると下から物語が出てくる。
それがとにかく面白い。
台詞と間と、そんな雰囲気が笑いに変わる。
全編笑っていた、という印象だ。
人が集まれば、組織っぽくなって、組織っぽくなれば、権力闘争的な方面へもつれ込ませたい人たちも出てくるし、そう意識していなくても、運営や人間関係でゴタゴタしてくるものだ。
表面は何もないようでも、水面下ではいろんなことが蠢く。
そんな、他人事のゴタゴタは面白いわけで、少々身につまされながら笑ってしまう。
それにしても、グループのリーダー、西田は強烈だ。「ああ、こんな人、いるいる」を少しだけ通り越してしまっているのだが、ニュアンスはわかる。
いる、こういう人。
自然農法的なモノを成城石井のようなブランドと同格にして(成城石井をブランドとしてとらえるという視点は今様でナイスだ!)、それを崇め、さらに人に「いいものだから」と押し付けるところがなんとも言えない。そういう自分が好きだというのもよくあることだ。
そうした人(たち)を笑いものにして、ナニかを批判している、ともとれるのかもしれないが、それよりは、人の中に「面白いモノを見つけた」から描いてみました、というあたりが本音ではないだろうか。
人を、つまり、他人を見ていると、面白いコトはたくさんある。
それは他人だから。「他人を観察する」はすなわち「自分観察」でもあるわけで、他人の中に見えるものを自分の中で探すという作業は、役名と実名が一緒であるという、この舞台において、そういう作劇の工程は、たぶん、相当愉快で、少しスリリングでもあろう。
もちろん、その工程を考えてみるまでもなく、やっぱり舞台の上の出来事は、観客自身のことでもあるということで、だから、観客は大笑いしてしまうという構図になってくる。
例えば、組織の人間関係、人間模様だったり、例えば、弟と不動産屋の娘との、映画終わりの手つなぎシーンなどだったりする。手つなぎシーンは、こってり見せてくれて、「恋愛あるある」から逸脱していくのだが、そういう滑稽さは、やっぱり「あるある」であり、「なんか、わかるよねー」の感じになる。それを超えるので笑いになっていくのだが。
こうした日常的な「あるある」感の、少し歪んだ描写は徹底しているから面白い。ホントに他人のことは面白いのだ。
これは「自分たちのこと」なんだよねー。
…このあたりのことは、「他人の描写=演じる」っていうことは、結局「自分の中にあるものを整理してみる」ということなのかな、という、当たり前っぽい展開になっているかもしれない…。
そして、場面展開の面白さがある。例えば、キャスター付きの椅子に座ってガラガラと現れたり、会話の途中で、人々に指だけで担がれて舞台を去っていったり、そんな演出も、うまい塩梅で面白い。
さらに、移動撮影的な、映像的なラストシーンのバカバカしさは、お見事。
そして、当パンを見ると、山田さんが急病で降板したことがよく伝わった(お大事に!)。
さらに成城石井が五反田にも出来たことを知った舞台でもあった。
満足度★★★★★
SFの設定のうまさ、それを生かし、「人」を見せる
130分があっという間。
本当に面白い。
脚本のうまさ、役者のうまさ、演出の的確さが光る。
作品世界にすぐに入り込みたいのであれば、当パンの説明を読むといいだろう。
ネタバレBOX
致死率が高いウイルスの蔓延の後、それに対抗できる身体を身につけた者たちが現れた。彼らは「ノクス」と呼ばれ、太陽を浴びると死んでしまう。しかし、記憶力などの能力はアップしており、病気にもかからず、老化の速度も遅い。
また、血縁に対しての感情は薄れ、ノクス全体を「家族」と思う思想が支配していた。
ただし、生殖機能は衰えており、出生率は上がってこなかった。
対する人間は「キュリオ」(骨董品)と呼ばれ、その数を減らしつつあった。
人間がノクスになる方法もあり、20歳頃までであれば、抽選でノクスになることもできる。
そこで、ノクスたちは、人間の子どもを養子に迎え入れ、ノクスにして育てていた。
世界の経済の中心はノクスたちが司り、一部の自治区を除き、人間たちはそれに養われているような形になっていた。
そういう形で、ノクスと人間は共存している世界での物語である。
以上は、舞台を観た上での、この舞台の設定である。この設定は、当パンを読むと、その経緯について、もう少しだけ詳しく書いてある。
すぐにこの世界に入りたい人は、当パンを読むといいだろう。
確かに、SFなのだが、その「SF」という設定に物語の軸を置き、そこにこだわるのではなく、あくまで、主題を語りやすくするために用意した「設定」である、というところがイキウメらしくていい。
もちろん、SFというものは本来そうした機能を持っているのたが、ともすると、その設定に溺れてしまう作品を多く見かけるのも事実だ。
かつてロッド・サーリングが『トワイライトゾーン』を書いたときに言ったと言われる「火星人ならば社会問題を語らせることができる」を思い出すまでもないかもしれない。
この舞台では、そういったSFという設定に埋もれてしまわないだけの物語があったと言っていいだろう。
つまり、SFである、ということの違和感のなさが素晴らしいのだ。
ストーリーや設定から見ると、ノクスと人間とのぶつかり合いや、人種差別的な意味合いが浮かぶのだが、実のところ、「人」の気持ちの変化や「感情」、「弱さ」と「強さ」を、ノクスという、優秀に見える人間の新たな種族の姿を通して見せていくことのうまさがある。
太陽に弱く、暗闇でしか生きられないノクスは、普通の人間たちの姿を、まさに影のように縁取っていく。
例えば、十代の少年・鉄彦は、自分の抱えている問題は、ノクスになることで解決するのではないかと思っている。それは自分を取り巻く環境が悪いからだ、という責任転嫁な考え方であり、若いときにありがちである。
それを見張り番であるノクスの若者に鋭く指摘される。
それは、人種や持てる者、持たざる者という差別や格差の問題に見えるのだが、しかし、本質はそこだけではない、ということに観客も、鉄彦とともに気づかされるのだ。
人間である、他の人々も、それぞれが抱えている問題は、確かにウイルスやノクス、そして事件に端を発しているものの、やはり自分自身の問題であり、さらに、血縁や親子、友人という関係も姿を現してくるのだ。
そんな、表層に見えるだけではない、人の内面に触れるような、台詞や演技が現れてくる瞬間が素晴らしい。
それは、円形である劇場の使い方とも共鳴してくる。
自然に立ち位置を変化させながら、気持ちを表現するうまさ、微妙な高低差のある舞台での位置や、観客からの見え方、それは、「どこからでも見やすく」というよりは、感情の変化を表しているようだった。
例えば、問題を起こして逃走した叔父が現れ、叔父に対しての怒りが立ち上がるときの、舞台の配置の美しさは、鳥肌モノだった。
そういう瞬間がいくつもきらめく。
時間と場所の混ざり合い方も、左右・前後と自在であり、円形劇場であることの意味が出ている。
装置はシンプルだが、観客のイメージをうまくかき立て、語りさせすぎず無駄がない。
そして、役者がうまい。引き込まれる。
鉄彦を演じた大窪人衛さんの若い青臭さ、見張り番を演じた浜田信也さんの人の良さとちょっとした兄貴感、結の母親・伊勢佳世さんのクールさ、その夫・盛隆二さんの心の中にある、ちくりとした差別という影、医師を演じた安井順平さんのノクスと人間への葛藤、そんな役者たちの姿が印象に残る。そして、短い登場ながら、イヤな感じの爪痕を確実に残した森下創さんの印象は特に強い。
面白かった。
満足度★★★★
これは好きかもしれない
初めて観た。
変な感じがずっと続く。
単純なコメディとも言えず、笑いもどんどん引きつっていく感じ。
「嫌な感じ」がもっともっと増大してもいいのではないだろうか。
もちろん「意味」のある範囲内で。
ネタバレBOX
モスバーガー荒川車庫前店の店長が、突然大きなハンバーガーになってしまった。
というオープニングはとてもナイスだ。
それを巡ってのドタバタになっていくのかと思いきや、後半がまったく違ったテイストになっていく。
登場人物の置き方がなんか微妙に変で、そこに何かあるな、と感じさせる。執拗で粘っこく身体にまとわりつく感じが単なるコメディとは違う臭いを放つ。
前半の展開でも、それは見え隠れしていたが、後半は、それがモロに噴出していた。
その感じが好みかもしれない、と思った。
ただ、前半のちょっとコメディですよ的なテイストと後半の内面にどんどん潜り込むようなテイストは、結び付きがあまりにも弱く、これが完全に一体となったり、あるいは、完全に別モノとして存在したのならば(もちろん、別モノと存在させるためには、それ相応の観客への説得は必要だが)、相当面白いことになっていったのではないかと思うのだ。
後半の美智子が「死ぬのが怖い」と言い出してからの堂々巡りは、ちょっと鳥肌モノだった。「死への恐怖」という具体的なものではなく、「外に出られない理由」探しのひとつであり、今の世の中が孕んでいる、精神的な疾患の根源を見せつけられるようで、とても嫌な気分にさせてくれる。
美智子が「嫌だ、嫌だ」と泣き叫ぶほどに、嫌な感じは増し、それが観客の深いところを刺激する。
この感覚はとてもいいと思った。誰かの内面が吐露されているような感覚で、内臓を見せられているような嫌悪感がある。
だからこそ、そのようなラストに至るまでのプロセスがとても大切だというのはわかるのだが、「ラスト」はやっぱり「ラスト」なので、そこも大切にしてほしかったという思いがある。
すなわち、あの執拗でねちっこく、イヤだイヤだと駄々をこねていた女が、ラストに動くというのには、やはり理由が必要で、あれだけ延々引っ張ってしまうと、ポンと落とすには微妙すぎるので、相当な理由(オチ)が必要になってきてしまう。
当然観客はそれを期待せざるを得ない。
しかし、実際は肩すかしでもなく、それなりの理由でもない、かなり、あれれ…なオチであった。
これは、それについて考えるのを止めてしまったようでとても残念。もっと考え抜いて何かを絞り出せたら、凄い演劇になったような気がする。そしたら、底のほうで流れているモノに共感できる一瞬があったのではないだろうか。観客は「正解」がほしいわけではない。あなたたちが「考え抜いた答え」が観たいのだ。
それはコメディだってもちろんそう。
笑えればいいということではあるが、それにもキチンとした道筋がほしいということだ。キチンとした道筋というのは、論理的で、ということではなくて、「考え抜いたこと」ということだ。
役者は、店長の篠原正明さんの濃さがいいのだが、やっぱり、美智子役の川上友里さんの凄さが一番印象に残る。このどうしようもなさが、どっかに突き抜けてくれさえすれぱ、と思ってしまうのだ。
あとハンバーガーを粗末に扱うというのは、観客の神経を逆撫でするようでとても微笑ましい。それがきちんと後半の、あのイヤになるほどの堂々巡りと共振するように組み立ててあれば、食べ物を無駄にするという行いも生きてきたのではないだろうか。
結局舞台の上の消えモノは、たとえ食べたとしても、それは食事ではないので、「無駄にしている」という点では、食べずに放り投げると同等な扱いなのだから。
もちろん、観客の受け取る気分としては別なのだが、その「気分」(嫌だったり、美味しそうだったり)を食べ物で演出するということにおいては、食べても食べなくても同じではないかと思うのだ。本当に食べてたとしても、演出がうまくなければ、食べ物は生きてこないからだ。
ナカゴーはちょっと気になる劇団になった。
満足度★★★★
記憶で遊ぶ
出演者たちの小学生のときの作文をもとに演劇化したという作品。
ちょっとそれに惹かれた。
つまり、「記憶」と「演劇」をどう結び付けてくれるのか、ということで。
あと、フライヤーがいい。
ネタバレBOX
「記憶」というのは、曖昧で、自由自在で、勝手で、自己都合なものだ。
出演者たちの作文が披露されるのだが、本来誰のものであったのかは、さほど重要ではなく、それを他の役者と共有する(役者たちの間を転がす)ところから、物語が動き出す。そこから「虚構」が始まるからだ。
いや、「虚構」は作文を書いた時点ですでに始まっている。作文というのも、書いたときに本人が意図しないとしても脚色されている。そして文字によって固定されたことで、「記憶」としても「固定」される。「事実」として。
つまり、「記憶」だって十分に「虚構」なのだが、本人はそれにあまり気がついていない。
さらに、その作文に従って、役者たちが再現するところは、演じる役者の体験と照らし合わせた(身体的とも言える)と「想像」がない交ぜになっていく。
冒頭の意外と想定内な演出よりも、「じゃ、それをやります」と言って再現し始めたあたりから、舞台はとても面白くなってきた。
「物語」になっていく感じとでも言うか。
作文を書いた本人が、他人の再現に対して、「事実」としての、本人の記憶で説明していくのだが、そらに虚構が浸食していく。つまり、本人が「実際父はそうではなく…」と解説を加えてもそれはまた虚構の虚構(虚構に虚構)である。
「言葉」と「記憶」と「想像」と「物語」といういつくものラインが織り成していくのが「演劇」であった。
この舞台は、まさに今様の演劇スタイルで、スタイリッシュなのだが、「物語」がどこから生まれ、どこから動き出していくのかを、きちんと見据えていった、ある意味実験の産物ではないだろうか。
出来上がった産物(作品)は、とてもセンシティブで、陽光にきらめく綿毛のような、冬の晴れ渡った空のような、そんな印象を与えてくれた。センチメンタリズムな香もさせて。ただし、センチメンタリズムにしては、観察的である。
小学生という時代を振り返りながらも、今の自分という「軸」があることで、「小学生」では決してない。そういう自分の輝くほっぺのような時代への「郷愁」のような照れと、「観察」とが微妙なバランスで提示される。
それは、どこかへ大声で伝えるものではなく、静かに自分の、それぞれの自分の中に、ゆっくりと沈殿していくようなものであり、「言葉」にすることでしっかりと堆積していく。
堆積していく「記憶(メモリー)」は、このワークショップ的なものを体験した役者にとっても心の中に何かを確実に残しているのではないだろうか。
そんなことを思いながら舞台を観た。
記憶の不思議さ、どこかに何かがあるわけではなく、そこらに漂うだけの感覚。
そして、「記憶」がはみ出す様の面白さ、「記憶」の「虚構」から「物語」、そして「演劇」になっていく面白さを感じたのだった。
何かにスカッと抜けていくわけではない、静かに内在していく様も、今様な演劇ではないかと思った次第。
唯一気になったのは、「本日は…携帯の電源…上映時間は…」と、開演前の前説が、要所要所で挟まれることだ。
「今」「この時点」にわれわれ(役者)は「いる」ということは、演出でも十分に理解できる。のにもかかわらず、「今」「現時点」に向かって、その都度アンカーを入れていくのだ。
この「冷徹」とでもいう仕打ちは、作品世界にひびを入れているのではないかと、ちょっと思う。
しかし、逆に、自らがやっていることを確認するための、ピッケルとかアイゼンとかそんなものなのかもしれないと思ったりもした。白銀の世界らしいので。
こらからが期待できる団体で、12月の次回公演も楽しみ。
満足度★★★
心が震えるような作品
強烈に五感と体験と記憶を刺激し、心が震えるような作品だ。
よくぞこのテーマに真正面から向かい合った、と思う。
ネタバレBOX
タイトルがド・ストレートだし、フライヤー等の前情報もあったので、観客は心して舞台に向かうことができたと思う。
そして、散文詩のような大作。
だから、観客は、心の中に用意しておいた、震災への想いを舞台の上に見出すことができ、共振することができたのではないか。
そういう細かい配慮がうまいと想う。
しかも、観客の予想(心の中に用意してきたこと)をいい意味できちんと裏切り(超え)つつ、面白さもある。
見事な戯曲と演出、そして、役者たちだと思う。
役者のうまさは格別だった。
特に阪神タイガースの選手(笑)役の櫻井智也さんの佇まいにはシビれた。それぞれのキャラがくっきりと浮かぶ。
そして、「音楽劇」と言っていいほど、音楽が物語を語ってくれる。オアシスで始まり、ソウル・フラワー・ユニオンはベタ鉄板すぎるのだが、「歌」がいいので、気持ちが持って行かれる。その選曲と生演奏、唄が、とてもいい。
本当にうまいと思う。
歌というのは、時代そのものだから。
ただ、丁寧に見せること、もくしは劇的に見せることを意識しすぎたのか、例えば、冒頭から続く、1.17を象徴するような映像は、素晴らしいと思うし(シーンによって瓦礫の様子が変化したり、虫とかの様子)、轟音とともに効果的であったことは確かだと思う。だけど、このシーンの多くが映像があまりにも雄弁すぎないだろうか、と思ってしまった。
続くオープニング映像の、PVっぽい感じを見て、さらにそれを感じてしまったのだ。
ストーリーが進むごとに展開される物語の中では、映像はそれほど気にならない。だから余計に1.17のシーンが気になってしまうのだ。
例えば、1回だったらどうだったのだろうか。あるいは、まったくそういう直截的な映像を使わなかったらどうなのか。いろいろ考えてみると、直截的な映像を使うことで失ってしまったものがあるのではないかと思ってしまうのだ。
確かにわかりやすいし、五感に訴えることができる、だけどそれだけでいいのだろうか? ということだ。
ヘリコプターが禍々しくなったりするところなどは、特に不要と思ってしまう。例えば「虫」だけで十分ではなかったのではないか。
そういう意味において、構成はそれほどうまいとは言えなかったのではないだろうか。時間軸のずらし方とか。どうもそれで少々長く感じてしまった。
それと、野花の設定、ハンディがある少女というと、必ずと言っていいほど、天真爛漫で幼児のような動作と行動という判で押したようなキャラになってくる。
それは戯曲上必要だったとしても、それしかなかったのだろうか、と思ってしまう。絵を描くことに長けている、という設定もそうなるとイマイチだし。
ハンディキャップのある2人がつながるシーンは美しいと思うのだが、それはツクリモノに感じてしまうのは私の感性が黒いからなのだろうか。
あとは、「女性」が軸であることが徐々に明らかになってくる。これは「生」と「性」であり、未来への希望でもあるのだが、やっばり「女性」なんだな、というところが気にかかる。意外と普通というか。「女性」と「男性」で、それは同列でもいいのではないかと思うのだ。
特に登場人物の男性たちは、やけにしょーもない感じで、もちろんチャーミングではあるのだが、女性の腰の据わり方と比べてしまうと、進歩のなさがちょっとなぁ(笑)と思ってしまうのだ。
しかし、見終わった後の気持ちはとてもいい。
満足度★★★★★
「老い」ることで、向き合わなければなければならないことが、ずっしりとのしかかってくる
「喪失」「後悔」…。
そして、辛すぎる物語。
平幹二朗さんの圧倒的な存在感が、素晴らしい舞台。
ネタバレBOX
なんて酷い話だろうと思う。
年老いた者から、大切な息子を2人も奪うなんて。
1人は本当の息子、そして、もう1人は息子と一緒に暮らしていた女性で、、主人公・平吉が、「理想の息子は、おまえ(塩子)にヒゲを生やしたような男だ」と言った塩子だ。
対する塩子は、「女として見てほしい」と平吉への想いを募らせるが、平吉には塩子に息子が見えているので、実るはずもない。
平吉は、塩子を通して、息子を見ていて、塩子は、平吉に自分が愛した男の面影を見ているのだ。
よって、平吉は息子を2人亡くし、塩子は愛する人を2度失うことになる。
絶対に、正確には交わらない2人の想いが、失ってしまった息子・夫という微妙なベクトルの違う像によって交わっていく。
それは、平吉の住む「家」によって、偽りの糸がつながる。
失ってしまったということを認めたくない2人が交わす、家のローンの約束が哀しい。
それが、逃避であったとしても、ほかに逃げ場もないのだからしょうがない。
平幹二朗さん演じる主人公が、大切にしている「凧」が象徴的。
「糸の切れた凧は…」と言う、平吉と塩子。
まさに大切な人を失ってしまった2人は、「糸の切れて」しまった状態であり、どこに行くのかわからない。
不安定な精神状態にある。
平吉は、息子の行状を知ることで、さらにもう一度息子を失うことにもなってしまう。
だから、平吉にはありもしない踏切が見え、塩子はせっかく脱したアルコールに手を出してしまう。
長く生きていくということは、喪失と向き合うことである。という当たり前のこと、しかし、誰もが見たくない現実と向き合わされてしまう作品だと思う。
それは、手にしていた「凧の糸」が、ぷつりと切れてしまうことだ。今まで手に感じていた感触が、すっと、なくなっていく。
家族、友人、知人という、多くの糸から感じていた感触が、1本、また1本と消えていくのだ。
そして、平吉のように、「ああすればよかった」「こうすればよかった」の後悔の繰り返しが、歳を取るということだということなのかもしれない。言っておかなければならなかったことだけが、心に残り、それが溜まることで、身も心も残骸になっていく様のようで、平吉にだけ聞こえる踏切の音がとても辛いのだ。
残ってしまった者の上に、「後悔」の2文字が降り積もる。その重みに耐えていくことが歳を取るということ、というのはあまりにも辛すぎるのではないだろうか。
だから、古い戯曲のせいなのか、ラストに塩子を死なせなくてもよかったのではないか、と、つい思ってしまった。
それだけ感情が入って観ていたということなのだろうが、老いることの救いもほしかったと思うのが本音でもある。
平幹二朗さんを観るだけで満足度の高い舞台だった。なんという存在感。しかも手が届くような場所で演じている。
そして、塩子を演じた山本郁子さんとガップリ組んだところが、実に素晴らしい。これは本当に見応えがあった。
また、塩子の叔母役の角替和枝さんは、あいかわらず、細かいところで、自分を出してくるところが凄い。ほんとに細かいちょっとした「自分」(笑)を必ず入れてくる。
さらに、平吉の弟を演じた坂部文昭さんとの対比が楽しい。この重い物語にいいアクセントとなっていくのだ。
ただし、残念なのが、セットだ。
この舞台、やけに暗転とセットの展開が多い。
しかし、単に横にするだけだったり、机や椅子の出し入れだったりするのだが、これは本当に必要があったのだろうか。
第一音がうるさすぎる。
屋外のシーンは、単にセットのほうを暗くして、セットの前で演じれば済んだのではないだろうか。
もちろん、ラストシーンだけは、セットを完全に外すほうが(ここだけ暗転も長くして)効果的だったと思う。
また、庭に見える木を模したような、背景のセットは、赤などのライトを当て、凧糸や絆を象徴的に表現していたのだろうが、もうひとつ見えにくかったのも、ちよっと残念。
後援が、可児市ということで、客席の上には丁寧にラッピングされた深紅のバラが1輪ずつ置いてあった。
失ってしまった者たちと、これから彼らへの「後悔」を胸に生きていく平吉へ、捧げる花のように感じ、可児市の特産品以上の意味を感じてしまった。
バラを手に、舞台の気持ちを胸に帰宅した。