化粧二題
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2019/06/03 (月) ~ 2019/06/16 (日)公演終了
これが現代の「化粧」だと言われると、三越劇場、ベニサンピットからこの芝居を見ているものは、おやおやと思う。もちろん芝居はいましかないものだから、昔をなぞっても仕方がないとは承知しているものの、これではなぁ、と首を傾げる。
今回の上演は[化粧二題」でよく知られた「化粧二幕」とは、演劇(芝居)の土台としての戯曲の構造も違う。「化粧」ものの初演は、大衆演劇(日本の芝居の原型)を演じる劇団の座長と言うひとり芝居の設定の中に、演劇論、社会論(親子の社会原型から、メディア文化論まで)、を巧みの織り交ぜた舞台で、のちに二幕物で、意外などんでん返しを付け加え完成した。井上戯曲の中でも通俗性と批評性が表裏になっていて、笑えて泣けて、お勉強にもなる稀有な戯曲なのだ。普通「化粧」と言えばだれでも、この本を思い浮かべる。
「化粧二幕」は演じた渡辺美佐子もよかった。新劇的にもうまい女優なのだが、それが角ばらない。終わりの頃は演舞場でもやったが、わたしはベニサンで最後にやった公演が一番よかったと思う。この初演版は、何重にも入れ子細工になっていて、そこに井上らしさがよくあらわれてもいた。昭和生まれの名舞台であった。
今回の「化粧ニ題」はそこを殆ど外している。ことに二幕は内野聖陽の男座長で内容的には一幕の繰り返しである。傑作の「化粧二幕」があるのに、このほとんど上演されることのなかった「化粧二題」をやった意味が解らない。これでは、役者の顔見世だが、初演のような演劇的仕込がないので、大衆演劇(まったく消滅している女剣劇)の役者をいまの人気俳優がやってみた、という以上の舞台になっていない。確かに有森也美では、渡辺美佐子やそれを継いだ平淑恵とは、本が半分でも、失礼ながら勝負にならない(振った方の問題で本人の責任ではない)。内野を入れて、やりやすい「二題」をハードルの高い「二幕」をの代わりに、という興行意図は伝わってくるが、その趣向は生きていない。こういう興業も否定はしないが、こういう舞台になるのならせめてタイトルを、普通に考えられている「化粧」とは別物だと、はっきりわかるようにすべきではないかと思う。何だか「二幕」をこっそり(ではないと言うだろうが、状態は明らかにそうである)「二題」にするなんて、いのうえ好みではあるのだが、タイトルのような大ネタにすべきではないだろう。
シベリアへ!シベリアへ!シベリアへ!
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2019/05/27 (月) ~ 2019/07/16 (火)公演終了
満足度★★★★
地点ならではのパフォーマンスである。演劇ともダンスとも朗読とも芝居とも言えない。どれかのジャンルの上に総合しようという方向があるわけでもなく、このテキストはこう表現する、という演出の意志に貫かれている。よって、地点は地点、としか言いようがない。
廣いKAATの中スタジオ。一方に150席ほどの階段席が組まれている。席に向かって奥に、雪を思わせる霞のかかった大きな鏡。これが照明によってさまざまに表情を変える。舞台七三に天井から僅かに葉を付けた白樺の木がさかさまに吊るされている。その前、客席の前に、正方形の金属製の枠。上には悪路を思わせるようにバラバラに長い板が置かている。天井に着くように白い風船が五つあがっている。風船はもう一つ俳優の一人安倍総子の首にもついている。
そのほかの広いスペースを、俳優六人が、「まるで」としか言いようがないが、馬がギャロップを踏むように、走り回りながら、ときにはシベリアの悪路を走る馬車になったり、それに乗ったチェーホフになったり、さまざまな役を担って(つまり、せりふは斉唱になったり、ひとりで読んだりする)チェーホフの「シベリア紀行」を読んでいく。ほとんど動きを止めることなく、馬の走りをしながら、地点語、とも言われる重複や、濁音を多用したテキストを台詞にする。発声訓練が行き届いていて、その台詞が全部観客に届く。台詞の流れは、ときに掛け声や、馬のいななき、鞭音などをリズミカルに取り入れ、馬車の進みにも似て、紀行文に合う。
で、この異色の新趣向の舞台は面白いのか。これが、面白いのである。馬たちと共にシベリアの僻地を文明から逃れるように旅をしたチェーホフの気分がよく表現されている。十九世紀の後半にはこういう自然のなかへ!という運動もあったようで、日本でも、明治の末から昭和初期、シベリアや南洋は人気があった。いまの時代の空気に似ているところがあるのかもしれない。紀行文をテキストにするパフォーマンスとしては大成功だろう。1時間20分。初日からほぼ満席。
音楽劇『11人いる!』
Studio Life(スタジオライフ)
あうるすぽっと(東京都)
2019/05/18 (土) ~ 2019/06/02 (日)公演終了
原作が発表されてから、半世紀近い。スタジオライフが手掛けてからも十年。
少女漫画としてだけでなく、物語としても良く組まれていて、当時の若者が飛びついた。原作の雰囲気を「トーマの心臓」で心得ているスタジオライフがメール・キャストで舞台に上げて、当てた。何度も再演している。今回は音楽劇と銘打って、ミュージカル風に歌う場面が多い。
良くまとまっていて、SFファンタジー的な空間の学園ものがスピーディに展開する。俳優も柄にはまっている。複雑な設定なのだが、楽しむには十分の情報は与えられる。
だが、劇場がかつてのように熱くならないのは、それは、時代が変わったからだろう。
振り返れば、今を流行の2・5ディメンションのはしりは、スタジオライフであり、キャラメルボックスだった。ともに同じような漫画や小説を素材に、一時期はブームだった。そのブームを受け継げなかったのは、なぜか。その理由はどうにでも言えるが、そこに、時代とともにあるナマモノの演劇の面白さも難しさも不思議さもあると思う。
獣の柱
イキウメ
シアタートラム(東京都)
2019/05/14 (火) ~ 2019/06/09 (日)公演終了
満足度★★★★
あまたある小劇場の中でも、イキウメの舞台では、他の追従を許さないファンタジックな世界が展開する。
現代の身の回りにある事柄が、何か突然消失する。あるいはまったく未知の事象が発生する。それが普段の生活時間の流れの中で当然のように起きる。誰も説明できない。言葉が消失する「散歩する侵略者」が前者の代表とすれば、「獣の柱」は後者のドラマ。
今世紀初頭、地方の山村に隕石が降り、それを拾い、見たものは、無上の幸福感を感じる。五十年後(近未来)、巨大な柱が次々に大都市に降ってくる。光を放つその柱を見たものも幸福感に包まれる。高齢者の安楽死にふさわしい装置だという意見もある中、多くの大都市の市民は地方に避難してくる。最初に隕石を拾った村では、自然循環農法で成功しているが、難民を引きうける力はない。寓意があるようでいながら錯綜していて、さまざまな見方もできるファンタジーで、人間ドラマ、社会ドラマ、と簡単に[教訓」で括れないところがいい。とにかく物語は面白く進む。
一段と磨きのかかった再演で、充実した舞台になった。イキウメの初期からの出演者が、その独自の舞台のカラーを支えてきたが、この再演では、市川しんぺーや松岡依都美が加わって、舞台が骨太になった。東野洵香という新人も新風だ。
内容はファンタジーだが、観客が日々、日常の中で経験している「変化についていけない」時代ならではのリアリティもあって、今回はほぼ一月、三十回を越える公演だが、私が見た回は若い観客も多く、満席だった。
前川のファンタジーは、次々に量産すれば薄味になってしまうので、このように改訂再演で密度を上げ、時代に沿っていくのは歓迎である。小劇場界でも再演を評価するようになったのは、成熟のしるしでもある。2時間10分。
Taking Sides~それぞれの旋律~
加藤健一事務所
本多劇場(東京都)
2019/05/15 (水) ~ 2019/05/29 (水)公演終了
満足度★★★★
すっきり割り切れず、もどかしいところが面白い。そこが今風、現代的とも言えるナチスものの秘話である。
秘話と言っても、音楽界や歴史家の間ではよく知られた「巨匠フルトベングラーは、ナチの御用指揮者だったのか?」という戦後裁判を素材にしている。(公開資料あり)
母国の最高の音楽を後世に残すために妥協も辞さないフルトベングラー(小林勝也)のナチ政権下の協力(taking sides)は、「文化の非ナチ化」の裁判で裁かれるべきか。指揮者をバンドリーダーとしかとらえていない平民(民間では保険の調査員)の米軍の少佐と指揮者は、裁判前の予備審査で激突する。構成的にもよく出来た芝居で、フルトベングラーが登場するまでの45分、この両者の中間にいる元楽団員の第二ヴァイオリン(今井朋彦)、父をヒトラー暗殺未遂者に持つタイピスト(加藤忍)、フルトベングラーに助けられたユダヤ人ピアニストの妻(小暮智美)、正義漢の少佐の助手(西山聖了)が登場して、事態を説明する。この脇役たちの置き方とバランスが絶妙で、芝居が随分面白くなった。いはば、彼らがそれぞれの立場によって、ナチ政権でひどい目にあった一般市民なのである。
筋が引けたところで、フルトベングラーが登場し、そのあとは、ナチの協力者はナチと同罪、と責める米軍少佐と、芸術と政治は別というフルトベングラーの一騎打ちになる。さまざまな文書証拠だけでなく、変節者の第二ヴァイオリンや、反ナチなのに指揮者の音楽に心酔するタイピストなどが絡んで、議論は、遂には指揮者の個人生活の範囲にまで及んで白熱する。いかにも大衆迎合のアメリカ・オッチャン風な少佐の正義と、世界に君臨する芸術の使徒であるフルトベングラーの議論はかみ合うことがない。
今までの演出は知らないが、今回の鵜山・演出は終始二人をかみ合わないまま放り出している。そこが今の時代を反映していて面白い。加藤健一も、小林勝也も大量の非日常的な台詞をこなしてきっちり対峙していている。脇では、変節を重ねる今井朋彦がうまい。先に同じ素材からパラドックス定数が「Das Orkestra」を舞台に乗せたが、やはりヨーロッパでのこの問題への関心と、同じ枢軸国であったとはいえ日本からの関心とはずいぶん違う。違って当たり前ではあるのだが、こちらは肉感的な迫力がある。初日に見たが、出来上がっているいい芝居だった。しかし、この公演十日もやっているのに夜二回だけとはどういう事だろう。初日は夜。確かに入りは六分というところで、年齢層も高いが、民芸や俳優座よりは若い。せっかくのいい芝居で力演なのに、と残念に思った。最近の小劇場こういう社会ねたでも若い人は結構見に来るのに。
改訂版「埒もなく汚れなく」
オフィスコットーネ
シアター711(東京都)
2019/05/09 (木) ~ 2019/05/19 (日)公演終了
満足度★★★★★
先年、小劇場からは珍しく大竹野正典作品が読売演劇大賞を受賞した。これはその舞台を制作したカンパニーが作者をモデルにした創作劇のの再演。
再演と言うと、初演をなぞったお披露目だったり、役者を派手に入れ替えたり、小屋を大きくしたりするのだが、この再演は主役の二人を初演のママに置きながら、新しい舞台を目指して思い切って整理している。話が昭和期の売れない劇作家の話だから、関西風を生かすと、夫婦善哉のようになってしまいがちで、初演はかなりその味が残っていた。しかし、この再演は作家の水難の事件ドラマや、家庭ドラマの世話物的なところは整理して、夫婦のあり方と、作家の宿命を、最後は山に登ることに託してまとめている。つまりは、物を作る芸術家と、男女、家庭、日々の生活の葛藤に絞ったわけで、よく出来ている.古い話なのに全く新しい。令和の新しい舞台の誕生の第一弾と言っていいだろう。
作・演出は瀬戸山美咲。初演は大竹野一代記のような世話物的な作りであったが、そこを作家の現場として作り直して成功している。しかし、作中人物では東京の制作者は、余分だったと思う。こういう第三者は、セメント会社の社長がうまくかけているからそれで充分コメディリリーフの役割も出来ている。演劇製作者の役割としても、いささか以上に皮相過ぎて笑えない。ここを切ると2時間以内でまとまてよかったと思う。
出演者では、なんといっても西尾友樹、占部房子の小劇場のキングとクイーンが揃って目いっぱい技術の限りを尽くして演じてくれたのが大きい。西尾は受けに回って目立たないが、出処進退見事なものだ。占部は今回の方がむしろガラがあっている。抽象的な役柄をいろいろ工夫して形でも見せようとしている。ほとんど日常性を捨象して、演技と台詞で見せる。それでいて、様式性の欺瞞を毫も感じさせない。俳優にも劇場との相性があって、この二人、二百人くらいまでの劇場だと圧倒的な力を発揮する。読売演劇賞も商業演劇の大劇場の役者だけでなく、小劇場で演劇の魅力を素で伝えるこういう人々に光を当ててほしいものだ。脇ではラッパ屋の福本伸一がさりげなくていい。
背中から四十分
渡辺源四郎商店
ザ・スズナリ(東京都)
2019/05/01 (水) ~ 2019/05/06 (月)公演終了
満足度★★★★
いつもご苦労さまと首を垂れる青森の劇団の公演。
今回はいやにうまい役者が出ているなと、目を凝らせば斉藤歩の客演だった。
十数年前の作品の再演とのことで、さすがに中身は平成初期を感じさせる。畑澤が時代に非常に鋭い感性を持っていることがわかる。再演は再演で、一夜の芝居を楽しむには面白く出来ているが、そういうところにも作家の特性が現れるから怖い。
贔屓の苦言を言えば、齋藤以外の俳優さん、今少し、観客に聞き取れるように台詞の言葉を大切に。スズナリで最後列で聞こえないという技術ではこまります。畑澤さん、観客は、雨くらいではひるまない。そのことをあまり言われると、こちらがこの芝居をその程度にしか思っていないと高をくくっているのかのかと思ってしまう。
良い子はみんなご褒美がもらえる
パルコ・プロデュース
赤坂ACTシアター(東京都)
2019/04/20 (土) ~ 2019/05/07 (火)公演終了
満足度★★★★
この欄でいつも、なるほどと教えられる評者お二人が既に書いていることに尽きる。この手の込んだ本を、今わざわざ、この大ホールで薄い観客の前でやる意味が解らない。中身が古い、というより時代性を失っている。
曲も古い。ダンスも冴えない。上演時間も半端。隣の老婦人二人組はもうおしまい?と首を傾げていたが、ごもっとも。内容がないのだ。
しかし。パルコが小屋落ちしている間に、他の貸し小屋でいろいろやってこけら落としに備えているのはよくわかる。ショーガール亡き今、活気あるコクーンと渋谷決戦をやらなければならない、何かコクーン歌舞伎に対抗できるものを、このところ出来不出来の激しい三谷のほかにもう一本、と言う事だろう。音楽ものという企画は、ショーガールの前もあるし、いい狙いなのだがこれは、本の中身が的外れだろう。さらに、このショーも800人以下の小屋でやったらもっと、エンタティメントの面白さが出て役者も、バンドものれたと思う。小屋の選択の誤りが最大の失敗だ。
ピカソとアインシュタイン ~星降る夜の奇跡~
ホリプロ
よみうり大手町ホール(東京都)
2019/04/25 (木) ~ 2019/05/09 (木)公演終了
満足度★★★★
ほぼ二十年ぶりの再演だそうだが、タイミングのいい祝祭劇になった。
ピカソとアインシュタインが青年期に出あった、という架空の史実の上に、ニ十世紀始まったばかりのパリのカフェを舞台として、いかにもアメリカの作家らしい(またコメディアンでもあるらしい)面白がり方で、理系、芸術系の両天才の取り合わせを楽しむエンタティメントである。現代にも通じるニ十世紀の大きなテーマに、技術か、芸術かと言う事があるが、この芝居では、あまりそこは突っ込まず、一つの世紀を共有した人間が星降る夜を見上げて、きたり来る新世紀に思いをはせるという趣向になっている。このラストへの積み上げはよく出来ていて、いい気分の中で幕が下りる。
アメリカ的な能天気、という人も多いだろうが、日本の年号が変わる空気の中で、ちょっとセンチに時代に思いをはせるにはもってこいの芝居である。複雑なダブルキャストが組まれているが、川平アインシュタイン、岡本ピカソ、で見た。若い頃の実在人物は見たことがないが、必ずしも柄があっていない二人は大いに健闘している。ことに岡本は旨い。川平はヘンに深刻にならないのはいいが、女性に接するときなどもっと工夫が欲しい。脇も結構厚いが、女優陣は今少しお行儀が悪くてもいいのではないか、若者集まるパリの自堕落さがほとんどない。
この読売新聞のホールはなかなか立派で、これからも貸しホールで使っていくのだろうが、場内音声ミキサーの熟練が欲しい。ホールの特性もあってすぐにはできないだろうが、いまは音も声も「拡大」しているだけで芸がない。
ヒトハミナ、ヒトナミノ
企画集団マッチポイント
駅前劇場(東京都)
2019/04/10 (水) ~ 2019/04/21 (日)公演終了
満足度★★★★
今年はこの人で決まりかもしれない。作者の横山拓也。難しい社会的な題材に挑んで、臆することなく、しなやかにドラマを組んでいく。締め難い話をちゃんと大団円に持って行って、観客を納得させる。そこに社会全体に広がる作者のメッセージもある。
演出の松本祐子。新劇系の俳優を、すっきりと動かす。俳優たちも生き生きと演じていて隙がない。
題材は障碍者の性介護である。普通、面倒な素材と敬遠する「障碍」と「性介護」を二つ並べて真っ向から舞台にする。下手をすれば、ネットやスキャンダル雑誌の餌食になりかねない素材に大胆にバランスよく踏み込んでいく。障碍者の性の問題だけでなく、弱者支援施設や地方の農業のあり方にまで目配りが効いている。しかも、話の組み方も、登場人物のキャラも出し方もよく考えられていて、面白い。なんと、この題材で観客を、後ろめたくなく笑わせてしまうのだ。その上、今を生きるすべての人々が直面している多価値時代の幸福のあり方にまで考えさせられる。
この作者の作品を続けて4作ほど見たが、冷静に見れば、昨年の「逢いにいくの、雨だけと」や「粛々と運針」の方が、一般性もあって評価しやすいと思う。しかし、この作者、只者でないことは、この作品でよくわかった。1時間40分。客席満席。
『のぞまれずさずかれずあるもの』 東京2012/宮城1973
TOKYOハンバーグ
サンモールスタジオ(東京都)
2019/04/11 (木) ~ 2019/04/21 (日)公演終了
満足度★★★★
人間の命を問うドラマが増えた。どう生きるかではなくて、生まれる、と言う事はどういう事か。ごく、最近見ただけでも、「まほろば」「R.U.R」。
この舞台の素材は年長者にはおなじみながら、このところ忘れられかけている菊田医師赤ちゃんあっせん事件である。この事件が年長者の記憶に残っているのは、菊田医師の明確な医学的、倫理的主張と、社会的な環境と事態への対応のずれが、大きくジャーナリスティックな問題になったからだ。今は、こういう「ずれ」は医学倫理だけでなく、さまざまな分野に一層広がって頻繁に起こっているから、改めて問う意味はある。ことに、少子化も話題になり「生むこと」への関心が高まっている昨今ではなおさらだ。
舞台は、菊田事件をなぞる形で進行する。事件当時は多分生まれてもいなかった作者が書いた歴史ものらしく、慎重で総括的である。だが、テレビの再現歴史ものではなく、小劇場の演劇として見るなら、今少し登場人物を整理すれば、もっと問題の核心に迫れたのではないだろうか。例えば、場面を菊田医院に絞って、医師と養子を引きうける看護婦のドラマにするとか。宗教をめぐる夫婦のドラマをもう一つの柱にするとか。
説明的で類型的なエピソードやセリフが多すぎるのも芝居としては興を削ぐ。例えば最初の新聞記者のやり取りなど字幕で年号を出せば済むと思う。その分、菊田医師と彼の周囲を分厚く出来たのに、と残念だ。
若い俳優たちもこの台詞やエピソードをこなすだけの経験がないので、こうなるのはやむを得ないが、役が身につかずリアリティが薄い。
しかし、この若い劇団にとってはいま世間に関心をもたれるテーマに取り組むのは、勝手な自分の居場所探しを騒々しく見せて自己満足するよりは、はるかに意味があることだと思う。満席だったのを励みに次作を期待したい。
エラリー・クイーン
PureMarry
こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ(東京都)
2019/04/11 (木) ~ 2019/04/14 (日)公演終了
かつては、クリスティより人気があって、名前を冠した月刊誌まであったエラリークイーンのフーダニット(犯人当て劇)。このジャンルが苦戦するにはいくつか理由がある。
読者と観客は違う、と言う事が第一。読むのは個人の愉しみだが、観客は劇場で見る。ここから、劇場へ行く煩わしさからはじまって、数時間を使う娯楽としてのコスト、犯人を当てた,あたらなかった、と言い合う楽しみまで、さまざまな身近な問題が生じる。
次は、芝居ではミステリのキモであるトリックを観客の目の前で、とにもかくにも見せなければならないという条件。やってみれば、どんなにミステリ小説が文章でごまかしているかがよくわかるが、読めばそこがまた面白いのだから困ってしまう。細かいことになると、配役でおよそ見当はついてしまう。一度見て犯人が解ってしまうと二度と見ない、などなど。挙げればきりがないが、フーダニットが前世紀中ごろまでは英米ではかなり上演されたようだが、今はウエストエンドではたまには見るが、新作はほとんどない。
一方では、探偵というキャラクターは、小説でもコミックでも、アニメでも大流行で、我が国の2.5ディメンションは、探偵なくては幕が開かない。
「エラリークイーン」は原作はクイーンだが、脚本も演出も日本製で、俳優もテレビでおなじみの顔がある。司会者がいて、クイーン父子の探偵が観客と共に犯人あてをするという実に古典的なフーダニット・二篇である。しかし、演劇としてはずっと2.5ディメンション寄りのつくりで、それなら、もっと徹底して、その線を立てたらどうかとも思う。現在世界でもっとも長い上演を続けている「マウストラップ」を追い上げているのは、アメリカのボストンだったかで、町の観光ルートにも入っている観客参加型犯人あて劇と言うではないか。
それなら、日本にも、坊ちゃん劇場あり、わらび座ありと言うかもしれないが、フーダニットは、都会で時代の推移に敏感な(敏感にならざるを得ない)演劇の受容としては面白くなるかもしれないジャンルではある。
まほろば
梅田芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2019/04/05 (金) ~ 2019/04/21 (日)公演終了
満足度★★★★
芝居を見たあと、豊かな気分で家路をたどれるいい舞台だ。
まず、脚本がいい。いくつか賞を受けた再演で、こういういい芝居が、俳優・演出の趣向を変えて何度も見られるのは演劇の円熟を示すことにもなる。再演は何も商業演劇の経営保持のための特権ではない。
ストーリーは、田舎の実家のまつりで戻ってきた一家4代の女だけ6人の話だ。よくある帰郷もの、の世界だが、焦点が女たちが子供を産むと言う事に絞ってあって、二転三転面白く見せられてしまう。最後に物語が、タイトルの『まほろば』、(豊穣の国)の大きなテーマにつながっていくところ、ここ10年の現代劇の代表作の一つと言われるだけのことはある。
蓬莱竜太にとっても代表作だろう。世代をつなぐという視点から、現代世相の中の女を書いた。舞台は、元地主の家の2間つづきの部屋、一杯。祭りの日の朝から夜まで。
チョコテーとケーキの演出・日澤雄介の手際がいい。台詞だけでなく、舞台の俳優の動きにリズム感がある。突然、4景の終わり、長女がトイレに行っている長い、ほとんど台詞も動きもない時間を、そこまでの各登場人物の相克を詰め込んだクライマックスにしてしまうところ等、お見事。次は劇団代表作「治天の君」を装いを変えて再再演すると言う。楽しみだ。
三田和代がすっかり老け役になっていて、高橋恵子が、一家を切り回す主婦役。ベテランのうまさだが、新派風にならず、現代になっている。問題は長女の早霧せいなと次女の中村ゆり。二人とも十分旨いのだが、今後現代劇でも大いに期待されている早霧せいなは、役の解釈が時に宝塚風に単調になる。少し、酔うと何もかも忘れてしまうという設定にとらわれ過ぎた。ここは雛まれの都会女の方が彼女のガラを生かせたと思う。逆に中村ゆりは田舎の雰囲気が薄く、ズルズルと田舎で自堕落に生きているたくましさが弱い。むしろ都会的でさえある。娘の衣装の値段に気付くところの姉妹の反応のシーンで、二人のあり方が鮮明になるところなのに、生かされていない。生越千春はガラが生きた。
しかし、総じていえば、梅田芸術劇場の仕込みとしては大ヒットである。
客席は、ほとんど中央の席は、早霧せいなの宝塚時代のファンクラブらしいアラ・サーティ・フォーティの婦人客で埋まっていた。満席は何よりだが、この芝居の面白さを下世話の興味だけでなく見てくれているといいのだが。
R.U.R.
ハツビロコウ
小劇場 楽園(東京都)
2019/03/26 (火) ~ 2019/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★
今週はチャペック大流行。三つも小屋が開くのは日本演劇史上初めてではないか。
もっとも、ロボットの語源になったこの戯曲、書かれて数年後には築地小劇場で上演した由だから日本との相性はいいのかもしれない。手塚治虫もいただいたようだし。
だが、ロボットの有効性も、あながちファンタジーの世界とは言えなくなったIT時代の今、ハツビロコウのこの「R.U.R」はSF原典の戯曲を、時代の倫理を読むドラマとして見なおそうとしている。
原作の第一幕をカットして、ロボット蜂起以降、人間滅亡の後半に絞って、残された人間の再生を描いている。SFも進化した今となっては、古色蒼然のストーリー、テーマなのだが、それが却って問題の焦点をあきらかにしている。狭い劇場でわずかなスペースでの俳優の出入り、演技は巧みに考えられていて、緊張が持続する。女優陣はみな柄はいい(森郁月、大木明)のだが、演技が高ぶりすぎる。こういう異常なシチュエーションこそ押さえて、抑えて!。社長(今国雅隆)と夫婦という関係が見えてこないのも足りないところだ。SFドラマなら営業部長(稲葉能教)のコミックのような演技でいいのだろうが、これだけリアリズムで押すと、浮いてしまう。そういう点では、全体統一がとれているとは言えないのだが、奇妙な魅力もあるハツビロコウの舞台だった。音楽をピアノに絞ったのもよかった。
1時間40分。ちょうどいいサイズだ。
クラカチット
東京演劇アンサンブル
ブレヒトの芝居小屋(東京都)
2019/03/20 (水) ~ 2019/03/31 (日)公演終了
満足度★★★
「ブレヒトの芝居小屋」の最終公演がチャペックとはどういうことだろう。
広渡常敏率いる三期会が東京演劇アンサンブルになって、ブレヒトをやると旗印を鮮明にして東京郊外に自前の小屋を持ったあたりまでは、俳優座衛星劇団の中ではユニークな演劇活動だったが、その小屋での肝心のブレヒトが、旗幟鮮明とはいかず、SCOTのようなメソッドも生み出せず、スターも生まれないと言う事で、今回は地主の意向で小屋をしめる。その残念さが、最後にチャペックをやる、というところにも表れているように思う。
再演でも、何でもいいからせめてブレヒトをやるべきだった。ブレヒトは最近人気がないが、なんといっても二十世紀の分断の時代を東西両陣営で生きた稀有の劇作家である。しっかり取り組めば、何らかの成果はあったはずである。
チャペックはブレヒトに似ていると広渡なら強弁しそうだが、これは百年前の戯曲である。原子爆弾時代を予見していると言うが、ファンタジーの世界で、そこでの寓意が今も生きているとはとても言えない。ブレヒトは戯曲になっているが、これは戯曲風に書いたファンタジーだ。カットしても良さそうなところが沢山ある。俳優は一生懸命だが、今なお、志賀澤子が最も安定して見られるようでは、結局、演技も劇団として確立できなかったということではないか。皮肉なことに、装置と音楽がよく出来ていて舞台を引き締めている。朝日新聞劇評は小屋閉めのようなセンチな時は見境なく甘くなる。これでは劇評ではない。3時間15分。夜十時をかなり過ぎて、武蔵関の田舎道に出てくると寒さが身にしみた。
水の駅
KUNIO
森下スタジオ(東京都)
2019/03/27 (水) ~ 2019/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★
大田省吾晩年の学生の中の優等生による「水の駅」である。
弟子筋だから、原作へのリスペクトも十分、テキスト(と言っても台詞はないのだが)は原文を使っているのだろうが、大田省吾演出版とは全く違う。この舞台は間違いなく現代の「水の駅」だし、大田省吾版は80年代の水の駅である。
冒頭、コロコロ太った健康そのものの少女がヤオヤ舞台を転がって登場する。ここでもう時代が変わったことを実感する。音楽はサティ。大田版と同じだが編曲が違う。ピアノ曲にかなり大きくパーカッションが編曲されていて、劇場の音響のせいもあって強く響く。舞台に寄り添うようだった音楽は、現代の健康な俳優たちに拮抗するように挑発的なサティになっている。性的な表現が表面に強く出ているのも特徴だろう。
では舞台成果としてはどうか、と言う事になると、KUNIO天晴れ、である。大田省吾を散々見た観客には、若さあふれる舞台はまぶしいが、かつては、大田省吾も十分に若く挑発的だったのだから。大田省吾はいい弟子を持った。杉原邦生はいい師匠を持った。日本の古典演劇を現代劇に生かす道が、より受け入れられやすい形で伝承されたのだから持って瞑すべし。見事に師に応えている。1時間50分、飽かず現代の水の駅を見た。
血のように真っ赤な夕陽
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2019/03/15 (金) ~ 2019/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★
これはこれでよく出来ていると思う。
第二次大戦期の満州開拓団の素材、俳優座の公演、古川健の書き下ろし戯曲。
この組み合わせで何か新しい舞台成果を上げることは、出来そうで実は、不可能なことなのだ。そこが演劇なのだとも言えよう。
素材から、民族を越えた平和と融和をという絶対的なテーマ。日本の現代劇を背負ってきたと自負する層の厚い劇団の実力。現代劇の新しい書き手として最も実績実力のある作者。
満点のものだけを掛け合わせても、それ以上のものは出るべくもなく、それぞれの要素は空しく空中分解しているが、掛け合わせたらどうにかなると考える方が無理難題だろう。現実の舞台では、現在も大きな問題になっている近隣諸国の民族近親憎悪の融和が美しく描かれ、俳優たちは見事な発声とそつのない演技でその世界を表現し、作者はほとんどの席を埋める高年齢の観客の紅涙を、事実に基ずく物語の上に仕組んでいく。
80歳代も半ばになるだろう、しっかり舞台を務めた岩崎加根子を先頭にカーテンコールで俳優たちが並ぶと、一種の感動がある。俳優陣の年齢的な広がり、粒ぞろいのその力量、若い俳優もとにかく柄も演技もそつがない。こんな素晴らしい俳優たちを持ち、新進の第一人者の作者を起用してこういう芝居にしかできないのは本当に勿体ない。
演劇が集団で作るものである以上、劇団というものは有効なものであろう。これはこれでいいとする劇団の空洞化が、日本の現代劇を貧しいものにしている。
殺し屋ジョー
劇団俳小
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2019/03/20 (水) ~ 2019/03/24 (日)公演終了
満足度★★★★
うっかりしていたら見逃すところだった。
行き届いた戯曲を手堅く纏めている、という印象であった「俳小」が大変貌である。
入口はやはり戯曲だったのだろう。アメリカではすでに人気作家というトレーシー・レッツの戯曲は、現代アメリカ戯曲の一面として強く持っている反社会性、暴力性、孤立性、家族への深い憧れと懐疑などを、お家芸のハードボイルド・ミステリ調に詰め込んだ二十数年前の若書きである。(日本初演)薬物販売の下っ端の若者22歳とその妹20歳の切ない青春ものとも見える。警察官でありながらアルバイトに殺し屋もやるという悪徳警官ものでもある。
舞台の物語は二転三転、筋だけ書いても意味がなさそうなハチャメチャの展開ながら、さすがアメリカの本だけあって、よく出来ていて、見ている間は乗せられてしまう。演出がシライケイタ。劇団温泉ドラゴンの主宰者で、そこのいわいのふ健と、外部から山崎薫が客演、総員5名の俳優で、現代社会の普遍に迫る世界を作り上げた。小劇場だから、俳優の技量を越えたナマの迫力がある。失礼ながら、いわいのふ健以外の俳優はいままで記憶に残っていなかったが、これで忘れられない役者になった。
シライケイタに星五つ。完全に満席。いい芝居が入るのは素敵なことだ。二時間二十分。珍しく休憩があるが、これもよく考えられている。こういう身も蓋もないアメリカの現代劇は今までもやってこなかったわけではない(サムシェパードやマメットなど)が、今回は最も旨く行っていると思う。今回は上演回数が少なすぎた。少し長い再演を待っている。
パラドックス定数第45項 「Das Orchester」
パラドックス定数
シアター風姿花伝(東京都)
2019/03/19 (火) ~ 2019/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★
ナチ政権発足時のベルリンフィル国有化が素材になっている。この作者が名を挙げた「三億円事件」や「東京裁判」も歴史的大事件を背景にしたものだが、いずれもこの大事件に巻き込まれたごく普通の職業人を登場させていて、彼らの視点が社会と人間へのユニークな切り口を見せて成功した。だが、今回の作品は(そしてほかの多くの作品にも共通することだが)、ドラマの軸になるオケの指揮者(芸術家)とナチの宣伝相(権力者)が主役となって自らの主張を表明する。ユダヤ人のV奏者や、指揮者秘書、間に入るオケの事務局長なども登場するが、本人たちが直接対決するし、彼らに生活の空気がほとんどない。結局はナチ(権力)に抵抗しても、芸術家は押し切られる、という政治事件の経緯を見せられただけになってしまった。
それはそれで面白いし、大きな権威(たとえば国家)の力が市民生活へも迫ってくる昨今の状況の中で意味のないことではないとは思うが、それならば、翻って、この作者が突然、新国立劇場に免罪符のように起用されている現実はどう考えているのだろう。
新国立劇場が、設立当初から国家権力と反権力の基盤を持つ日本の現代演劇の対立の構図を引きずってきたのは、いささかでも演劇に関心のある人ならだれでも知っていることで、十年もたたない昔にも権力が芸術を支配しようとした芸術監督事件が起きた。
多くの現代演劇のリーダーたちは、慎重に距離を置き、警戒を怠らない。現に新国立劇場支配を試みた文部官僚が天下ったトヨタ財団が新国立劇場の有力サポーターである。
この一年の風姿花伝の試みは、ユニークで意味のある試みであったとは思う。一人の人間が演劇人生であふれるような創造力に恵まれるのはそんなに長い時期ではない。野田、ケラ、三谷、平田、みな最盛期には年に5本を超える創作劇を発表して多くの若い観客を集め、廣く文化界でも注目を浴びた。その時期に劇場がなくて発表できない、と言う事は演劇にとっては致命的である。それを劇場として補佐しようというのは新しい視点だ。しかし、上に上げた彼らは、ほとんど独力で、そこを乗り切って自分の演劇の地盤を固めたのだ。
今回の連続公演はパラドックス定数にはかなり荷が重かったのではないだろうか。後半は再演の内容の絞りが甘くなって、かなりくたびれていた。これで野木萌葱という作者の資質もかなり明らかになった。私が見たのは、ここ以外では、上野の地下、711などで、小さなスペースでの上演では面白く見られるが、百席以上の劇場になるとどうだろう。俳優で埋められる、という問題ではなさそうな気がする。
しかし、この作者の常識の盲点を突いたような論理の「突っ込み」はなかなか面白い。時に馬まで出してしまう大胆さも(魚を出すのは失敗したが)得難い才能だ。乱作にならないよう、旧作は少し大きな劇場で演出を預けて(和田憲明・演出はさすがに劇団公演とは大きく違っていた)作品の魅力を広げることも大事だろうと思う。
三人の姉妹たち
タテヨコ企画
小劇場 楽園(東京都)
2019/03/14 (木) ~ 2019/03/24 (日)公演終了
満足度★★★★
作・演出の劇団主宰者の横田修が舞台制作中に入院し、演出は劇団員が引き継いだ、と当日パンフにあったので、さぞ、舞台裏は落ち着かなかったと思う。
チェーホフへのオマージュの三人姉妹の物語と振られると、原芝居が好きな私のような客は、重ねたわけではない、と言われてもどうしても重ねる。幕開きが、記念日(命日)である、とか、不慮の火事があるとか、主要な登場人物が決斗で死ぬ(こちらは不慮の飛行機事故)とか、軸になる個別の事件が原作からとってはある。しかし、原作の、モスクワからは幾千里、軍隊が駐在する田舎町の三姉妹が、精神的に都に憧れながらも鄙の生活に埋もれていき、「それでも生きていかなければ」という、時代の流れと人間の運命を描く肝心のテーマは、村の農家の三姉妹の日常に置き換えられて、迫ってこない。ことに農村で十二年も時がたつ、のは原作の設定と違いすぎる。事件も、テーマも、部分的に台詞も、思わせぶりにとるだけで、重ねないのなら、なにもチェーホフを持ち出すことはないじゃないか、と思ってしまう。転換の幕間のロシア語の歌など完全に浮いている。
チェーホフ抜きで、地方の農家の三姉妹の物語、としたのではモチーフにならないのだろうか。小さな舞台ながら細かく行き届く配慮があるのが特徴の劇団なのだから、有名作品によりかからないで、日本の現代農村劇を作る気概が欲しかった。自然回帰とか言われ出し農村が注目されている今、あまり芝居が扱ってこなかったテーマとしても面白いのに。
主宰者の不慮の不参加でさまざまなところがが行き届いていないのは残念だった。