異邦人
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2019/09/26 (木) ~ 2019/10/07 (月)公演終了
満足度★★★
長い歴史のある新劇団が、小劇場の作家演出家に本公演を任せるのはここ数年の流れで、中津留章仁は民芸二度目のお勤めである。中津留とくれば社会問題劇だ。
地方都市の外国人労働者と地元に生きる日本人との葛藤をドラマにしている。基本的に外国人労働者を一時的な単純労働者として使い捨てていかざるを得ない現状はしばしばメディアで取り上げられている。対外的にはそうは言わないで、実質的には移民排除という方針は、国内的には無言の支持を得てきているから、政府行政もそのねじれに七転八倒しながら、制度運用をやっている。突っ込みどころはいくらもある。農家と中小企業、味付けに郷土食と柱を立てて、ほとんどキャンペーンのようなわかりやすい展開である。第二幕で芝居が詰まってくると、もう時代劇のような責め場になる。役者はそうでもするしかない、のである。
しかし、解ればいい芝居と言う事でもない。筋立ては先が読める。結局はみな仲良く認め合って、明日につなごうよ、となるが、現実はそうならないから問題山積している。自劇団ならどこかポイントを決めて攻めるのもうまい中津留だが、大劇団相手では、座主の樫山文枝が出てきて大岡裁きで全員を立てて、納めるしかない。
新劇団の小劇場起用がほとんど表向きは勘定があったように見えて中身が空疎なのは、それぞれの生活が懸かっているからだろう。新劇団側もうっかり発注して「背水の孤島」のような本を書かれたら大変とビビッているのかもしれないが、最近の若い小劇場の連中は、空気を読むのは旨い。こちらにも生活がある。そんな無駄なことはしないだろう。新劇団は、組織としては大きいのだから、リサーチをもっと丁寧にやるとか、配役の順番制をやめるとか、作家と時間をかけて取り組むとか、制作を分厚くして、中身の濃い本を作ることがまず第一だろう。
ミクスチュア
劇団 贅沢貧乏
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2019/09/20 (金) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★
最近は、公共劇場が競って優れた劇団劇作家の発掘に力を入れている。この公演は池袋の東京芸術劇場の「芸劇eyes & eyes plus 2019」の今年の第一弾で、選ばれた5団体の一つだ。こういう場では、青年団系の劇団が、企画書も素材の選択もうまいのでよく見かけるが、この贅沢貧乏と言う劇団も、活動も作品もこの系列だ。
ヨガ教室のある住宅地に入り込んできた野獣(狸とかイタチとか)に、住民たちがどう対処するか、という話が軸だ。広くマットを敷いた四角な舞台を客席が囲み、ノーセットで芝居と、舞台を広く使ったダンスで物語は進む。動物と人間の関係とか、住民間の意識の対立とか、若い世代の労働意識とか、自然回帰への憧れ風俗とか、よくある話、よくある議論、で格別新鮮さはないが、目先、ダンス風の動きとテンポの良さで引っ張っていく。1時間35分。
物語も、その場所を支える清掃員の労働者青年男女に収斂していくように旨く作っているし、振り付けも無駄がない。役者もそつがない。まとまっているのが却って、現代の若者の、傍観するだけで、何事にも無関心という風俗を映している。そこが面白いかと問われれば、さして惹かれることもないが。
昔の小劇場は、旗揚げも大変なら、その維持も大変で、みな血眼でやったものだが、そういう荒々しさが生む演劇の人間的な面白さはない。お利口さんだなぁという印象だが、そこが現代の小劇場で評価されるところなのだろう。
怪人と探偵
PARCO / KAAT神奈川芸術劇場 / アミューズ / WOWOW
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2019/09/14 (土) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★
ミュージカルと言えば、米英の作品がほとんどだ。日本にミュージカルが入ってきたのは戦後だが、もうそろそろ70年。その間音楽劇としては繰り返し上演されたいい作品(たとえば「上海バンスキング」「ショーガール」)も現れたが、米英に匹敵するミュージカルは現れない。日本仕立てで世界に持ち出せる日本製ミュージカルを作ろうとの壮図のもとに作られたのがこの「怪人と探偵」だ。公立劇場の企画である。
しかし、その意気込みなら、なぜ、この古色蒼然の乱歩を素材にしたのか理解に苦しむ。
乱歩だから当然、明智小五郎に怪人二十面相、と言う事になる。確かに、オペラ座の怪人、とか、フランケンシュタイン、とか、英米のミュージカルにも怪人ものはあって、成功もしているので、これで行けると考えたのかもしれないが、それは浅慮だろう。
この種の時代物のキャラクターは簡単に現代化できない。乱歩の黒蜥蜴(三島脚本)がいつまでも生命を失わないのは、キャラクターの造形が時代を超えるように出来ていて、その時代の俳優がそのままその世界に入っていけるファンタジーだからだ。
今回の脚本は、乱歩から様々なキャラクターや事件を引いているが、なぜか、時代をリアルに限定するような設定になっている。それが第一のつまずきだったと思う。
明智と二十面相の間に置かれる犯罪が、没落貴族の詐欺事件で、その種に戦争孤児が使われる、という設定になると、昭和三十年前後である。その時代設定と、怪人対探偵で繰り広げられる愛と罪の相克が、ファンタジックに行っても、リアルに行ってもぎくしゃくする。話が動いているように見えるが、実はあまり動いていない。そこが一番苦しい。
そのもどかしさが、脚本、音楽、振付あらゆる面に出ている。脚本は、大劇場の英米ミュージカルの骨格を踏襲して、場数もキャストの数も多いが、それぞれに場を振るたびに、どこか行き届かない。例えば、怪人側にも、明智と警察にも助手がついていて、捕物のシーンが三つもあるが、どれも同工異曲である。脇役にまで場を持たせようとしているが、例えば、明智の助手の若い女の病院のシーンや、没落貴族を犬に見立てたりするのは、「乱歩的」と思っているのかもしれないが只の悪趣味である。楽曲をたくさん作ってきた作曲家の本であり音楽なのだが、やはりここは戯曲家を一人噛ませるべきだった。せっかくの作曲家中心のクリエイティブなのに、時代設定に引きずられて曲も古めかしい。狙いかもしれないが、幕開きの音楽など30年代の映画音楽のような感じだ。音楽の中でドラマが動かない。そこが英米の楽曲と違う。
東京スカバラダイスオーケストラの音楽というが、客席からは終始まったく見えない(アンコールにも出てこない)のも大劇場ミュージカルの華やかさを削ぐ。
中川晃教の怪人、加藤和樹の明智、はハマっているが、中川はもっと硬軟見せ場があるように思う。脇もさまざまな出身の多彩さだが、まとまらない。白井演出だといつもは無理にでも様式的にまとめてしまうのだが、今回は雑然としている。振り付けも、人数が多くなると途端に軸を失う。ついボディガードと見比べてまだまだ大変だなぁと感じる。
国産ミュージカルを!と言うのは、もう五十年も前から言われてきたが、柱にしてきた四季ですら、五十年で「李香蘭」一本なのだから、つくづく難しいものだと思う。
「ボディガード」来日公演
梅田芸術劇場
東急シアターオーブ(東京都)
2019/09/13 (金) ~ 2019/10/06 (日)公演終了
満足度★★★★
時に、なぜか寿命の長い不思議な芝居がある。またかの勧進帳、と言う事だが、勧進帳のようにすぐれた作品でなくとも、観客に馴染む不思議な作品があるのだ。
ロンドンで七年前に初演以来、ウエストエンドで再演も果たし、以来、世界巡演し、今回のロンドン仕立てのツアーは帰国後またロンドンでやるというヒット・ミュージカルだ。
二十五年前のヒット映画(同名)の中の舞台のヒット音楽をいただいているところも珍しい。
最近の流行で、ストーリーと音楽、をもらってきて、あとはミュージカルとして形を作る、と言う事で、「ジュークボックスミュージカル」と言うと解説されている。「ジャージー・ボーイズ」や「Beautiful」とか、例があると言うが、これらは音楽に直接かかわった人たちを素材にしている。この作品はボックスの曲数をもっと広げたと言う事か。
海外からのツアー公演は、気軽に海外まで出かれられない観客にとってはありがたいもので、当たり外れはあるが、おおむねロンドン仕立ては余り、外れがない。
今回のツアーも、ロンドン版の出演者はほとんどいないが、主演の姉妹二人は歌はうまいし、見栄えはするし、舞台での押し出しも大したもので、さすが本場は層が厚い。
しかし、ウエストエンドでも、これだけ他力本願のミュージカルしかヒット作品がないのだろうか。まず、物語だが、元映画の筋だけとっていて、舞台のドラマになっていない。僅かに姉妹の葛藤があるが、それはつけたりの脇筋で、肝心のロマンチック・スリラーとしての枷がユルユルで、緊迫感がないからロマンスの方も盛り上がらない。男役の主役に、カラオケで歌う以外に曲がない、というのも異例だろう。これは本人の責任ではないが、フランス版の主役のフランス人の俳優で、アメリカの話なのに、アメリカ人らしさがない二枚目である。ついでに言えば、生活感を出すつもりの母子家庭のこともの設定も、イラク帰りのストーカーの設定も安易でつまらない。
ダンスナンバーも、一つくらいはオオッツと見せるナンバーがあるものだが、今回おおむねおとなしく納まりがいい。これはラブソング中心の音楽のせいだろうが。
格別のことはない来日公演なのだが、結構客が来ているのは、安心して馴染めるからなのだろう。「レ・ミゼ」や「ミスサイゴン」を作るのは容易ではないことは客も先刻ご承知である。その合間にジュークボックス・ミュージカルとはよく言ったものである。しかし、この素材でももう少し、天下のウエストエンドなら工夫があってもしかるべき、とない物ねだりだしたくなる。流石、ロンドンでもこの作品初演時にオリヴィエ賞に幾部門かはノミネートされたようだが全く受賞はしていない。やっぱり不思議な当たりなのだろう。
あつい胸さわぎ
iaku
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/09/13 (金) ~ 2019/09/23 (月)公演終了
満足度★★★★
初日前に11日間の前売り完売で、iakuの東京公演の期待の大きさがうかがわれる。行ってみると、狭いアゴラで客席パンパンに詰め込んで、百五十近くは入っている。その期待に応えた公演だった。
いつものように、行き届いた本で、構成も前半と後半はがらりとタッチが変わるが、それがテーマを立体的に浮かび上がらせる。
母子家庭の母親(枝元萌)は、中小企業の繊維工場に働き、一人娘を(辻凪子)育て上げ、今年芸術系大学に入学させた。同じ集合住宅の住まいに幼稚園の頃から同い年の青年(田中亨)がいて、同じ大学の演劇科にいる。高校ではすれ違っていた男女はまた出会うことになる。幼い頃から娘の意識の中には青年があったが、中学時代の青年の心ない一言が娘の気持ちを複雑にしている。それは中学生時代にふくらみはじめた胸に対するひとことである。母の勤める工場に千葉で採用された中年の独身の係長(瓜生和成)がいる。思わぬ痴漢疑惑でいずらくなって転職してきたのだ。娘が柄にもなく芸術系大学の小説家に進もうとしたのには十歳ほど年上の女友だち(橋爪未萌里)の影響がある。文義に詳しい彼女から娘は本を借りたり助言を得たりしている。だが、男を次々と変えていると豪語する彼女になかなか本音の女の悩みは聞けない。それは、そういうことには無頓着な母も同じである・・・・・と言う設定で、ひと夏の母子家庭の「あつい胸さわぎ」が展開する。
設定の中に埋め込まれたキーワード、母子家庭や若年乳がんと言う大ネタだけでなく、夏になるとやってくる巡演サーカス、娘が課題で書くわにに託した自伝童話、青年から持ち込まれるシェイクスピアのフォルスタッフ、パン食好きの若い世代、などの小ネタがうまくハマっていて、物語は快調に進む。並のエンタテイメント作品は到底及ばない抜群の面白さだ。客席は笑いが絶えず、ラストの母と娘が抱擁し娘の胸を探るシーンでは涙、涙、である。昔なら、演舞場で新派がやっても受けそうなうまさなのである。
Iakuは関西の小劇場だが、これは東京制作で、よく見る俳優たちが、目を見張る演技を見せる。幾段かの構成舞台をうまく使って、話は進行するが、まったく隙がない。五人の登場人物を巧みに書き分けているが、核になるキャラが大阪風にはっきりしていて、それを細かく演出で肉付けしている、もちろん、それぞれ俳優のガラも生きている。枝元の大雑把な性格や、瓜生の世間に遅れていくキャラを笑い声で表現するあたり、稽古を重ねていくうちに発見した役のキモの表現が素晴らしい。辻、田中の青春コンビも、実年齢からすると、ちょっと気恥ずかしいところだろうが、今まさに開こうとする青春の夏休みの気分が満ち溢れている。ひとり、橋爪は芝居を支える損な役回りだが、うまくそれぞれの役の鏡の役をになっている。
ノーセットの舞台に何本か建てられた柱には上部に赤い糸が張り巡らせてある。赤い糸で人間は運命的に結ばれているという寓意だろうが、それが生きている。
いまの日本の現代劇に欠けている深いテーマと広い娯楽性を併せ持つ優れた舞台だ。熱い胸さわぎこそ、人が生きる原動力なのだ。そうだ、こうして、人は生き、時は流れていく・・・と、劇場で共感できる人間の運命に出会う演劇ならではの喜びがある。
さなぎの教室
オフィスコットーネ
駅前劇場(東京都)
2019/08/29 (木) ~ 2019/09/09 (月)公演終了
満足度★★★★
大竹野正典の本歌取りだが、本歌とはかなり違う。むしろ、松本哲也の新作と言っていい舞台であった。本歌からは、犯罪ファクトを使っているという程度だ。
大竹の作品は、看護婦たちの日常の生活の切実な飢餓感が連帯意識を生んで犯罪に至るところがユニークでよく出来ていたのだが、こちらは主犯の看護婦の強く、現代的なリーダーシップに看護婦たちが支配されていくところが主眼になっている。ここでは看護婦たちの生活や精神の貧しさからくる連帯は道具立てに過ぎない。松本哲也が演じる主犯格の看護婦は圧倒的な力感があって、このまとめ方を納得させるが、それでは大竹野とは全く別の作品だ。そこを切り離すと、話も設定もつまらない。
急遽こうなった理由は俳優降板が背景にあるようだが、これでは、急遽登板ご苦労さまと言う以上に出ない。開いてしまったのは仕方がない。このまとめ方で、稽古をし直せば、また新しい作品になるであろうが、すっぱり忘れていい新作を期待している。
ただ、独特の地方弁(松本の出身地、宮崎の言葉)を俳優たちがこなして、舞台での言葉の重要性を認識させてくれたのは意外な収穫だった。
愛と哀しみのシャーロック・ホームズ
ホリプロ
世田谷パブリックシアター(東京都)
2019/09/01 (日) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★
ミステリファンは随喜の涙のホームズ誕生譚である。だが、シャーロッキアンのような物知りファンだけでなく、ただの芝居好きも面白く見られるところがこの芝居がいいところだ。
かねてミステリ好きを公言し、自作でも著名作品の脚色でもミステリ作品を成功させてきた三谷幸喜ならではの舞台である。
時代はドイルの原作を踏まえた19世紀末のロンドン。27歳のホームズ(柿澤勇人)が、相棒ワトソン(佐藤二朗)と探偵の仕事を始める前の前日譚である。ところどころにドイルのホームズ原作を織り込みながら、四つの事件が解決される。ことに、最初に持ち込まれる事件が、ホームズ自身の兄弟の物語と重なってくるあたり、巧みな展開の第一幕である。兄(横田栄司)の住まいが芝居の街・コヴェント・ガーデンとか、売れない女優(広瀬アリス)を使っての芝居仕掛けとか、芝居好きも喜びそうな凝った設定である。なるほど、芝居とミステリは、さまざまな点で共通点が多いと納得する。
二幕は、シャーロック・ホームズが兄との葛藤を経てワトソンと探偵業を始めることを決意するドラマが軸になっている。ここで兄弟の対決をカードのランタンというゲームで見せるが、ここはさすがに苦しい。カードは小道具としては小さすぎて、やむなくスライド投射でスクリーンでゲームの経緯を見ることになるが、そうなると舞台から気持ちが離れて仕舞う。本格ミステリを芝居にすると、証拠品やアリバイのタイムテーブルを見せにくい舞台の難しさである。だが、その二幕でも、ミステリらしく、事件の解決で思いがけない犯人を指摘する。最後は、ドイル原作のホームズ物の第一作「緋色の研究」の冒頭につながって大団円になる。
ミステリならではの面白さを細部にわたって引き出している脚本で、荻野清子の舞台での生演奏や、幕間的なワトソン夫妻のデュエットなど、お遊び的な仕掛けもうまくはまって休憩をはさんで2時間半、堪能できるエンタティメントになっている。制作ホリプロ、頑張ってA席を一万円以下の納めたのはご立派。
今日もわからないうちに
劇団た組
シアタートラム(東京都)
2019/08/28 (水) ~ 2019/09/01 (日)公演終了
満足度★★★★
弱冠二十五歳の若い作家の作品を初めて見た。ろくろくチラシも作らないので、友人に教えられるまでこの劇団を知らなかった。エッツ、もうトラムに出てるの? と行ってみると、もとタカラヅカのトップ(大空ゆうひ)は出てるわ、ベテラン・テレビ俳優(鈴木浩介)は出てるわ、極め付きは串田和美まで分の悪い役で付き合っている。おまけにいい値段で、パンフは2千円だ。
だが、舞台としてはきっちりさまになっていて、久しぶりで初物の面白さを楽しんだ。序段からの話が中盤から、何度もひっくり返るところ等、劇作はベテランなみのうまさ。音楽の入れ方も非常にうまい。曲も歌える演者いい。俳優もうまくコントロールされていて、女学生役(池田朱那)や医者役など、はまっている。舞台装置も簡潔でまとまりがいい。中央の階段で下に降りるという出入りはいいアイデアだった。ただ、この物語は、一種の病気を軸に回っていく。記憶の病気なのだが、ドラマ的には誰にも共通する「記憶」として扱っている。中段母娘がボール投げに興じるところは照明まで暖色になったり、古いボールを強調したり、する「記憶」と、後段、事件にまで発展する「記憶」とはその間に病気が介在すると、こういう並列的な展開でいいのかと疑問になる。
しかし、それは見ている間はそれほど気にならない。うまいものだなと、乗せられて見てしまう。終わってあとのカーテンコールなどはさっと切り上げるところもいい。フレッシュな若さが感じられるいい舞台だった。1時間55分。ほぼ満席。
私の恋人
オフィス3〇〇
本多劇場(東京都)
2019/08/28 (水) ~ 2019/09/08 (日)公演終了
満足度★★★★
いかにも渡辺えりらしい舞台だが、今回は趣向が劇団300とはかなり違って、タレント3名にダンス4名、それに舞台でのキーボードひとりというボードビル。
タレントは、小日向文世と、のん(「あまちゃん」の能年玲奈)を迎えて、渡辺えりと言う顔ぶれが新鮮で面白い。この三人が多くの役を受け持って舞台で早変わりをしながら、歌ったり踊ったり。ダンサーもかなり歌えるし踊れる。300の舞台にあった泥臭さが薄くなって、小じゃれた舞台になったが、そこはやはり、有無を言わせない渡辺えりの世界である。そこが、良いとも残念だとも言えるところだろう。出演者ではのんが意外にのびのびした女性の体型で見栄えがした。小日向はご苦労様。楽しい作品だが、軸になる話が抽象的で観客も戸惑い気味であった。
絢爛とか爛漫とか
ワタナベエンターテインメント
DDD AOYAMA CROSS THEATER(東京都)
2019/08/20 (火) ~ 2019/09/13 (金)公演終了
満足度★★★★
良く出来た青春ドラマで、しばしば再演されるのもうなづける。作者の飯島早苗は再演の度に手を入れているようだが、初演演出の鈴木裕美が、再演演出をするのは21年ぶりだそうだ。
昭和初期の文学を志した四人の青年の一年、春夏秋冬の4場である。一作だけで次が出来ない青年(安西信太郎)の部屋が舞台。そこへ、文芸評論家志望の都会青年(鈴木勝大)、作品が耽美小説になってしまう地方出身の優男(川原一馬)、才に任せて書く馬力はあるが結末が出来ない大男(加治将樹)。モラトリアム時代の悩みは、多分いまにも通じるわけで、才能や、男女への他愛ない悩みも青春ドラマの王道である。初演されたときは、作者も、演出者もほぼその年齢の真っ最中にいたわけで、切実だったのかもしれないが、この作品のいいところは、身に沁みていながら、どこかそこを客観視しているところがあって笑えるところである。作り手が女性で、演じるのが男性、と言うところも効果を上げた。(もっとも、作者はこの女性版を他のカンパニーへ提供しているが)
青春のある年の一年、というのは、誰にでも人生のターニングポイントになった覚えがあるだろう。そこを、今(20年後)となっては、少しばかりぬけぬけと、という感じもするが、若者の、その時期にしかない絢爛・爛漫気分に正面から取り組んでいるところがいい。秋の場で、青年たちがそれぞれの実社会への道を選んでいくところが山場になっている。
この芝居、時代背景を昭和初期にとっているが、最近はやりの「今は戦前」的な時事には関係なく、大正リベラリズムで、まだ若者が青春期には勝手なことができた時代、と言う程度の設定である。しかし、舞台の四季には心配りがあって、正面に開いた障子の奥の庭の風景は四季に合わせて細かく変わる、春は桜花が散るし、大詰めは鈍色のホリゾントに雪が散る。演出が、タレント俳優たちを台詞も動きもコミック(マンガ)のように形で決めていくのも、べたつかず成功している。リアルでも行けるだろうが、彼らのセリフ術では辛い。今の観客にはこちらの方がなじめるのだろう。客の反応もいい。タレント興業の面もあるが、椿組の野外で健闘した加治将樹がしっかり脇を固めている。
小屋がクロスタワー。いつも感じることだが、地下三階へ急な階段で降りていくのは辛い。席もロビーも舞台も狭く貧弱だ。二百席では採算のとりにくいことはわかるが、料金から行くと、何度も見てくれるファンが頼りのタレントの顔見世興行が主になってしまう。ユニークな劇場で面白い企画も多かった旧・青山円形劇場が閉館で板囲いになっている隣だけに残念だ。、
、
バルパライソの長い坂をくだる話
岡崎藝術座
ドイツ文化会館ホール(OAGホール)(東京都)
2019/08/21 (水) ~ 2019/08/25 (日)公演終了
満足度★★★★
シアターガイドなき今、こんな馴染みのない小屋で上演されたのでは見逃してしまうではないか。流石、岸田戯曲賞受賞作品。どこでも見ることのできない見事な寓話劇である。
劇場へ入ると、そこは船の甲板を模した客席。バラバラに置かれた約百席の椅子。選曲の良いラテンリズムの入れ込みの音楽で、観客は世界を飛ぶ。
幕が開くと、客席から登場した三人の南米の男優がスペイン語(ポルトガル語?)で語り続け、ひとりの女優がそれを見まもるという舞台。舞台には切り出しの小型自動車と、ブルーシートを海に見立てた遠見。その前で主に父の遺骨の箱を持つ男が語るのは、ヨーロッパから南米へ、さらに沖縄から小笠原列島へと連綿と移っていく悠久の人類の寓話である。人類はどこからきて、どこは行くのか? そのテーマが父の遺骨の行方と重なり合う。
簡素なセットも効果を上げる。歌舞伎ではないが、幕を落とすと砂漠が現れるシーンなど、観客の心をつかむ。終始無言の女優も素晴らしい。
寓話の中にリアリティを忍ばせて90分。まったく飽きることはない。台詞が続き、字幕を読むのに疲れるが、ここは、日本の俳優で、日本語では成立しないだろう。そこが難しいところではあるが、ここには原酒の生一本の酒をたしなむような快感がある。
満席。いつもの小劇場では見かけない静かな若い客が多かったのも新鮮だった。
DNA
劇団青年座
シアタートラム(東京都)
2019/08/16 (金) ~ 2019/08/25 (日)公演終了
満足度★★★★
女性のみに許された子供を生む、と言う事について現代女性の生き方の社会劇。現代の家庭と職場の問題でもある。脚本はさらに欲張って、従業員の職業倫理にまで踏み込んでいるがこれは欲張り過ぎた。
ここの所、新進の小劇場作家を次々と起用する青年座の公演。今回は主宰する劇団JACROWで、現代社会模様を描いてきた中村暢明の起用である。現代社会の女性の生き方については、一昔前のようなパターン化は不可能で、人の数ほど生き方はあり、そこにひとりひとりのドラマは生まれる。しかし、芝居としては、どこかで圧倒的な観客の共感を呼ぶようなシーンがなければ成功しないわけで、この本はまんべんなく【とは言えないが、かなり広範に】女性の社会生活と出産の問題を扱っているが、問題点の羅列に終わっている。それは主人公の安藤瞳が熱演すればするほど、観客の感情が少しづつ役から離れて行くことにも表れていると思う。
脚本は小劇団でかつて見たものに比べれば、細かく出来ているが、それでも現実の大企業の内情や、小企業のあり方についてはご都合主義で現実性に乏しい。もっと、テーマを絞ってリアルな状況設定をしなければ、問題の核心に迫ってはいけない。せっかくの青年座の俳優たちも厚みを出すことができない。
演出は久しぶりに本家に戻った宮田慶子。散々な目にあった(であろう)新国立劇場の芸術監督を離れて、ご本家での登場だが、まだ肩に凝りが残っている。硬軟共に行き届いている宮田演出を又見せてほしいものだ。
赤玉★GANGAN
流山児★事務所
ザ・スズナリ(東京都)
2019/08/21 (水) ~ 2019/08/27 (火)公演終了
満足度★★
大正末期の文学界の近くにいた青年たちの物語。100年前にもメディアはあって、今に通じると言うが、時代の雰囲気は推し測るすべがない。文学者の名前とか、葡萄酒の広告(これは知名度が高い)とか、当時の新聞とか出てくるが、それが若者たちをどのように動かしたかという、動態力学が立体的に描けていない。個別にみぢかいエピソードが続いていく上に、失礼ながらあまり上手とは言えないミュージカル張りのシーンがあるので、話を追うのに疲れてしまう。装置も、仕方がないと言えば仕方がないが、いま少し工夫があってしかるべきだろう。
最初の設計図の段階でもっとよく構成を考えなければ、このようななんのこっちゃ、と言う芝居になってしまう。現代の時代物の難しさだ。
俳優は初日だからあまり言いたくないが、課題はメリハリだと思う。
ギョエー! 旧校舎の77不思議
ヨーロッパ企画
本多劇場(東京都)
2019/08/15 (木) ~ 2019/08/25 (日)公演終了
満足度★★★★
お待ちかねの夏のヨーロッパ企画東京公演。本多劇場は二日目で補助席が出る大入りである。他に類を見ないファンタジー喜劇で20年。独特の舞台と劇団運営で、平成演劇史に足跡を残してきた。
今回は、妖怪ものの学校の怪談である。やむなく噂のある旧校舎を使わざるを得なくなったクラスの教員たちと生徒たちに次々現れる77の怪異のエピソード。平凡なものも凝ったものも、あまり甲乙つけずにつるべ打ちで笑ってしまう。二幕、人間と妖怪がお互い慣れてきたあたりから、ヨーロッパ企画らしくなって、ファンタジーの中に現代の教育批判ものぞかせる一方、舞台はますますたがを外れたナンセンスな展開になっていく。
次々に現れる妖怪出現はこの劇団らしい手作り装置が活躍して面白い。俳優陣はまだ二日目で味を出すところまで行っていないが、客演とのバランスもよく、これからもっとヨーロッパ企画らしくなるだろう。ファンタジーの結末としてはいつもの冴えがなかったのも残念だが、妖怪相手ではやむを得ないか。しかし、東京の劇団にはない楽しめる芝居であった。
オリエント急行殺人事件
エイベックス・エンタテインメント
サンシャイン劇場(東京都)
2019/08/09 (金) ~ 2019/08/18 (日)公演終了
満足度★★★★
珍しく二階席まで満席のこの劇場でクリスティの名作ミステリを見た。
何度もテレビ・映画化された名作中の名作。ネタバレを言うまでもなく、ミステリでは肝の犯人も、仕掛けもご見物衆が先刻ご存知の世界である。
脚本はアメリカの中堅の劇作家だが、この「オリエント急行」はまだ欧米の大きな劇場にかかったことはないようだ。日本初演。クリスティの他の劇化作品と同じようにほとんど原作を踏襲した要領のいいホンだ。登場人物も十一人に絞ってはいるが原作をうまく使っている。
エキゾチックなオリエント急行にイスタンブールから乗り込んだ個性も国際色もばらばらな乗客たち。シリアでの仕事を追えて帰英する名探偵ポワロ。
何やら不穏な空気を含んで、雪の中を驀進する豪華国際列車が雪だまりに乗り上げて停車を余儀なくされている間に起きる殺人事件。さて犯人は?迄が第一幕、60分。二幕はおなじみの謎解きで95分、休憩が15分あるのでほぼ3時間の長尺であるが、飽きずに見せる。
成功したのは、テンポの良さ。演出の河原雅彦は、今の観客が興味を持ちそうもない時代考証やディティルにはこだわらない。思わせぶりな推理より、登場人物のキャラクターの面白さや、具体的な証拠による人物の動きで進めていく。二重になった舞台で、上段に、八つの個室のドアがある廊下、下段にパブリックスペースである食堂車という装置をうまく使って、細かい証拠はスクリーン投射しながらどんどん進む。その前に車窓をスライドで出し、スモークと照明を飛ばせば、オリエント急行の走りも舞台で見せられる。
ポワロは小西遼生。ミュージカルが多いが、従来の原作の小柄な禿頭の小男にとらわれない長身の若いポワロで歯切れよく、颯爽と事件を裁く。登場人物には若者人気のタレントもそつなくキャスティングしてある。
この作品が舞台化されたのは今回が初めて。走る列車の中だけで物語が進む本格ミステリであること、知名度が高いために結末が知られていること、探偵役の個性の強さ、など舞台に乗せるのを逡巡する難しさがあった。しかし、やって見れば、出来るじゃないか。現に大入りである。ところが、同時に原作の読者や映画でこの世界に馴染んだファンからは「これは違う!」、という声も出るだろう。
そういう矛盾は、時を経た名作舞台化では必ず起きる。八十年前に書かれた原作だから、今受ける役者で、今も面白い部分でまとめる、その方が時代に沿った舞台化だ、という今の制作者の考え方への反論である。それはない物ねだりとも言える。
この「オリエント急行」は、物語は大きく残しながらスタイルとしてはかなり思い切って、現代化を試みて面白く見られる舞台にした。そこは成功しているのだが、同時に何だか2・5ディメンションのような、いいとこどりの味気なさもオールドタイマーは感じる。その先に未来があるのか、あるいはここは踏みとどまるところなのか、この芝居の最後の一点のような課題は残ると思う。
名探偵ドイル君 幽鬼屋敷の惨劇
糸あやつり人形「一糸座」
赤坂RED/THEATER(東京都)
2019/08/08 (木) ~ 2019/08/12 (月)公演終了
満足度★★★
趣向は様々あったけど、結局とっ散らかったままで終わった。
ギリシャ悲劇の枠組みに、フランケンシュタインのような怪奇科学者の犯罪を、乱歩ばりに名探偵が少年と共に解いていく、という大筋だが、趣向は糸あやつり人形一座の一糸座に、マメ山田や十貫寺梅軒のようなアングラ系の奇優の競演で、ほとんどヴァラエティのような場面展開で進んでいく。その場その場には、思わず吹き出すような世の常識に対する突っ込みの台詞もあり、目先は変わっていくのだが、このスタイルの雑劇の弱点である積み重なっていく焦点がいつまでも見えてこない。
一糸座の作った人形の怪物キャラクターには面白いものもあり、マメ山田(名探偵・ドイル君)と十貫寺梅軒(少年)は大健闘であるのだが、まとまった印象に残るのは、人形による殺陣であったり、夜の広場の少年と傘、のようなストーリーには関係のない独立したナンバーだ。
これはやはり、劇場パンフで「リミッターが外れた」と書いている作・演出の責任だろう。芝居の作・演出だけは、リミッターを常に意識していて貰わないないと、見る方は途方に暮れてしまう。
フローズン・ビーチ
KERA CROSS
シアタークリエ(東京都)
2019/07/31 (水) ~ 2019/08/11 (日)公演終了
満足度★★★★
難しい企画だが、大成功だ。ケラの代表作。ケラ的ナンセンスを詰め込んだ戯曲が本人以外の演出で舞台になった。 しかも、商業演劇で!!
戯曲の大筋、SF風殺人ゲームの七年のクロニクル三幕は、初演とほとんど変わっていない。地中海の島のリゾートを開発中の経営者の豪邸に、日本人の女の子二人が、殺人プランを持って訪れる、といういかにもバブル時代、1987年の空気横溢の設定で、そこから二幕は95年、三幕は03年(書かれた時点では未来)。物語は破滅に向かって一直線なのだが、そこはナンセンスでグロテスクな笑いてんこ盛りの、それまでの日本演劇になかった異色の世界である。喜劇、とか笑劇とか、ミステリ劇とか、ジャンル分けなんか、吹き飛ばすような快作である。
しかし、この芝居は、ケラとナイロンでなければできないと思っていた。その後試みられた別のカンパニーの出来がその証とも思っていた。
だが、今回は違う。ケラ自身が再演を認めたカンパニーでやる、ケラ・クロスと言う企画の第一弾といいながら、まったく座組みが違う。戯曲へはリスペクトだけでいい、と作者に言われても、この破天荒な本に立ち向かう演出と役者は、さぞ緊張したことだろう。
演出の鈴木裕美はケラより少し後に出た小劇場出身。理屈の立つ女流演出家が多い中で、どちらかと言えば実践肉体派。ケラの演出が、男目線であったのに対し、鈴木演出は、徹底的に女目線。登場する人物(女性ばかり)に、容赦がない。ケラ演出よりも、ドライな乾き方で、このドラマが一層魅力を増した。
俳優もそれぞれ適役が揃った。キャスティングもうまい。鈴木杏にブルゾンちえみを組ませる、という秀逸なアイディア。代役出たとは思えない花乃まりあのハマり方。シルビアグラフの安定感。いずれも、演出の現場リアリズムとでもいうしかないスタイルで統一されて見事に新しいフローズンビーチになった。
さらに、この異色の顔ぶれの企画を東宝のメインの劇場で開けるところまで持って行った影のプロデューサーに拍手。ご苦労さま、お蔭で新しい商業演劇の道が一つ開いた。
ブラッケン・ムーア ~荒地の亡霊~
東宝
THEATRE1010(東京都)
2019/08/02 (金) ~ 2019/08/04 (日)公演終了
満足度★★★★
イギリスお得意の怪談話の2013年初演の最新作。日本初演。イギリスの荒涼の僻地を舞台となれば「嵐が丘」のような古典から怪談でも「ウーマン・インブラック」のような名作もある。この舞台の設定は1937年。戦前の話である。
道具立てはおなじみのイギリスの地方の豪邸。傾きかけた炭鉱主一家にまつわる怪談で、ジャンル分けをすれば亡霊の憑依ものと言ったところか。炭鉱主夫妻(益岡徹・木村多江)の一粒種の男の子が、沼地の廃坑に転落して助けだせなかった。それから10年。この家には怪しげな霊が出没する。そこへ、当時隣人であったエイブリ―一家(相島一之・峯村リエ)が、事故死した子と仲良く遊んでいた男の子テレンス(岡田将生)を伴って訪れてくる。彼は成人している。時代の不安や過去の不幸で沈みがちな辺地の豪邸の持ち主と、そこに滞在する一家を背景に、テレンスに過去の男の子の霊が憑依する。「ブラッケンムーア!」と、廃坑から呼ぶ男の子の霊の声が・・・。そこまでが、一幕1時間10分。その解決の二幕が60分。休憩20分を挟んで2時間半。三日目の1010は中年女性客中心に満席。
エッツ?これで新作?と聞き返しそうになる怪談話だが、さすがに細かく時代に合わせた工夫はある。怪談そのものの実在を問う心理学と医学の葛藤。その裏側にある科学技術の生活への浸透。それが炭鉱のようなエネルギー産業を揺るがしている(幕開きと幕切れは、炭鉱主と労働者の人員整理交渉である)。子供を亡くした家族と、そこから逃れられた家族の10年の歳月は家族の意味や、子供の成長の時間を考えさせられる。同時にそれは隣人と言う人間関係も、その中で生きていく人間の悲しみも変えていく。ドラマはそういう細部を取り込んでいるが、そうなると、現代と設定した1930年代末ごろ、とのギャップが出てくる。
怪談へ総てを集約するには随分盛り沢山な内容で、すっきりまとまりきれていない。よく聞いていると、原文にはいろいろ怪談的、サスペンス的引張の台詞があるようだが、まだ開いたばかりで、舞台の空気が、まとまっていない。観客を怖がらせるところまで、演出も詰め切っていないし、俳優にも余裕がない。まだ開いたばかりだが、そういうところはこれだけ達者な連中が集まっているのだから改善されるだろうが。
神の子どもたちはみな踊る after the quake
ホリプロ
よみうり大手町ホール(東京都)
2019/07/31 (水) ~ 2019/08/16 (金)公演終了
満足度★★★★
、当たったベストセラーを舞台にするのは、集客には有利に見えるが、実現し成功するのはそれほど単純ではい。まず、もともと【文芸】の小説をそのまま読者に届けたいという至極まっとうな作家も少なからずいる。村上春樹もその一人で、他のメディアとのかかわりには敏感に気づかいをする。
初刷りが50万と言われるほど売れているのに、村上春樹作品の映画化、テレビ化、コミック化、もちろん劇化も極めて少ない。2012年に初めて日本国内で舞台化された「海辺のカフカ」のときは、演出者・蜷川幸雄の何が何でも芝居として面白いと言わせてみせる!という、作家への対抗心のようなものも見えて、なかなか面白い興業だった。「海辺のカフカ」はスターも並べた大劇場の公演で、五年以上も再演を重ね、ロンドン・パリを含む海外公演もある大興行になり、その間に蜷川幸雄を世を去ってしまった。こちらは、テキストの趣向も一味違う村上春樹の中劇場(と言うより小劇場向き)作品だ。製作は同じホリプロ。同名短篇小説集からのコラージュで、演出は倉持功。俳優は児童も入れて5人。それぞれ複数の役を演じるが登場人物は多くない。1時間40分。
上演脚本はカフカと同じくアメリカのフランク・ギャラティ。この脚本が用意周到にできていて、ユニークな舞台作品になった。舞台ではいくつもの「物語」が同時進行するが、それぞれに、語り口(文体)の違う語り手がいて、ファンタジックな世界から、通俗的な人情物語、ギャングものからホラーまで、現代世界を飛び交っているさまざまな物語を織り上げていく。子供のために作る即興的な童話も、前世紀末の学園ロマンスも、かえるくんの寓話も、所を得て,生き生きと語られる。しかも、すべてのエピソードで、原作の多彩で複雑な現代小説の味を壊さないで、舞台に乗せている。
脚色の技術を駆使した脚本のうまさである。「かえるくん」と「かえるさん」の呼び名の違いでシーンを面白く作ってしまうところなど、とても外国人脚本家とは思えないほどだ。
出演者は、カフカで大受けの役を演じた木場勝己、他は若い俳優たちだ。木場はどんな役でも余裕綽々だが、ほかの三人には、複数の役を演じるのは荷が重かった。俳優が語り手も務め、さらに複数の役を演じるのもこの村上作品脚色のポイントの一つだ。役に客観性を持ちながら、肉体化もしなければならない。若い三人は、お行儀がいいところはいいのだが、肉感的表現はもっとやらないと木場には追いつけない。悪くはないのだから、これは贅沢な注文かもしれない。
演出の倉持はこの手の作品を何度もやっている。自分で本も書いているのに思い切りの悪いところがあって、ぐずぐずテンポを落とす癖があるが、こういう切れのいい本を参考に、まもなく予定されている乱歩の第二弾では、引き締まった良い本で見せてほしい。
猛暑の夜、あたらしいホールで、外へ出るとここ二十年ですっかり変わってしまった東京駅前丸の内。あれ、おれはどこにいるんだろうと、どこか別世界へ遊んだような気分になる小じゃれた公演であった。
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血のつながり
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2019/07/28 (日) ~ 2019/08/04 (日)公演終了
満足度★★★
今年の3月に文学座のアトリエで上演した本を、俳優座の稽古爆公演がやるという。
半世紀ちょい前なら演劇界の大事件(イベント)だが、今はひっそり、私も文学座は見逃した。カナダ演劇がいかにもアメリカ的な地方都市人間模様を描いても、いかばかりの物か、と食指が動かなかったのである。
19世紀末、保守性が強いアメリカ東部小都市の資産家の一家のミステリである。父親に後妻、二人の子供はともに女姉妹である。後妻には性悪の弟がいて、資産を後妻のものにしようと耽々と狙っている。メイドが一人。この家で父親と後妻が斧で頭を割られて惨殺される。なぜこの犯罪が起きたか。
戯曲は少し凝っていて、事件の結末も出た後で、姉妹の妹(若井なおみ)が友人の女優(小澤英恵)に、事件の経緯を再現させて、その心理を追うという形になっている。その犯罪事件は、アメリカでは有名な事件であるらしいが、我々が見ても経緯が平板で、、19世紀末にはこれで通ったんだなぁという位の感想しかわかない。日本で言えば明治の新派劇である。封建的な父性社会への反発、とか、女性の自立、とか、地方都市の封鎖性という枠組みも、父親、後妻、義弟のキャラ作りも、手を汚さない姉、イラつく妹、澄ました顔で手癖が悪いメイドなど、俳優もおなじみの型どおりで、戯曲の仕掛けがなければとてもまっとうには付き合っていられない。
現代アメリカ演劇はこんなもんではないだろう。これは1980年初演と言うが、今年見たものでは俳小の「殺し屋ジョ―」が90年。掘り出すのなら、こういう生きのいい戯曲を発掘してほしい。二大劇団が争って上演するようなものではないだろう。ミステリ劇としても、レッツの方がはるかによく出来ている。
ただ感心したのはやはり俳優の層の厚さで、旧新劇団には昔懐かしい、すれていないように見える美女がいる。姉役の桂ゆめも若井同様、美女であるだけでなく下手ではない。老けの中寛三は、今や大幹部だろうが、さすが柄では小劇場の及ぶところではない。装置もいいし、効果、音楽の入れ方もシャレている。すでに売り切れ続出は目出度いがせいぜい客席百余りでは、浮かれてもいられまい。この顔ぶれで、なぜ文学座と張り合ってまでこの本で、公演を打ったのか、ミステリの謎は解けない。。