フローズン・ビーチ
KERA CROSS
シアタークリエ(東京都)
2019/07/31 (水) ~ 2019/08/11 (日)公演終了
満足度★★★★
難しい企画だが、大成功だ。ケラの代表作。ケラ的ナンセンスを詰め込んだ戯曲が本人以外の演出で舞台になった。 しかも、商業演劇で!!
戯曲の大筋、SF風殺人ゲームの七年のクロニクル三幕は、初演とほとんど変わっていない。地中海の島のリゾートを開発中の経営者の豪邸に、日本人の女の子二人が、殺人プランを持って訪れる、といういかにもバブル時代、1987年の空気横溢の設定で、そこから二幕は95年、三幕は03年(書かれた時点では未来)。物語は破滅に向かって一直線なのだが、そこはナンセンスでグロテスクな笑いてんこ盛りの、それまでの日本演劇になかった異色の世界である。喜劇、とか笑劇とか、ミステリ劇とか、ジャンル分けなんか、吹き飛ばすような快作である。
しかし、この芝居は、ケラとナイロンでなければできないと思っていた。その後試みられた別のカンパニーの出来がその証とも思っていた。
だが、今回は違う。ケラ自身が再演を認めたカンパニーでやる、ケラ・クロスと言う企画の第一弾といいながら、まったく座組みが違う。戯曲へはリスペクトだけでいい、と作者に言われても、この破天荒な本に立ち向かう演出と役者は、さぞ緊張したことだろう。
演出の鈴木裕美はケラより少し後に出た小劇場出身。理屈の立つ女流演出家が多い中で、どちらかと言えば実践肉体派。ケラの演出が、男目線であったのに対し、鈴木演出は、徹底的に女目線。登場する人物(女性ばかり)に、容赦がない。ケラ演出よりも、ドライな乾き方で、このドラマが一層魅力を増した。
俳優もそれぞれ適役が揃った。キャスティングもうまい。鈴木杏にブルゾンちえみを組ませる、という秀逸なアイディア。代役出たとは思えない花乃まりあのハマり方。シルビアグラフの安定感。いずれも、演出の現場リアリズムとでもいうしかないスタイルで統一されて見事に新しいフローズンビーチになった。
さらに、この異色の顔ぶれの企画を東宝のメインの劇場で開けるところまで持って行った影のプロデューサーに拍手。ご苦労さま、お蔭で新しい商業演劇の道が一つ開いた。
ブラッケン・ムーア ~荒地の亡霊~
東宝
THEATRE1010(東京都)
2019/08/02 (金) ~ 2019/08/04 (日)公演終了
満足度★★★★
イギリスお得意の怪談話の2013年初演の最新作。日本初演。イギリスの荒涼の僻地を舞台となれば「嵐が丘」のような古典から怪談でも「ウーマン・インブラック」のような名作もある。この舞台の設定は1937年。戦前の話である。
道具立てはおなじみのイギリスの地方の豪邸。傾きかけた炭鉱主一家にまつわる怪談で、ジャンル分けをすれば亡霊の憑依ものと言ったところか。炭鉱主夫妻(益岡徹・木村多江)の一粒種の男の子が、沼地の廃坑に転落して助けだせなかった。それから10年。この家には怪しげな霊が出没する。そこへ、当時隣人であったエイブリ―一家(相島一之・峯村リエ)が、事故死した子と仲良く遊んでいた男の子テレンス(岡田将生)を伴って訪れてくる。彼は成人している。時代の不安や過去の不幸で沈みがちな辺地の豪邸の持ち主と、そこに滞在する一家を背景に、テレンスに過去の男の子の霊が憑依する。「ブラッケンムーア!」と、廃坑から呼ぶ男の子の霊の声が・・・。そこまでが、一幕1時間10分。その解決の二幕が60分。休憩20分を挟んで2時間半。三日目の1010は中年女性客中心に満席。
エッツ?これで新作?と聞き返しそうになる怪談話だが、さすがに細かく時代に合わせた工夫はある。怪談そのものの実在を問う心理学と医学の葛藤。その裏側にある科学技術の生活への浸透。それが炭鉱のようなエネルギー産業を揺るがしている(幕開きと幕切れは、炭鉱主と労働者の人員整理交渉である)。子供を亡くした家族と、そこから逃れられた家族の10年の歳月は家族の意味や、子供の成長の時間を考えさせられる。同時にそれは隣人と言う人間関係も、その中で生きていく人間の悲しみも変えていく。ドラマはそういう細部を取り込んでいるが、そうなると、現代と設定した1930年代末ごろ、とのギャップが出てくる。
怪談へ総てを集約するには随分盛り沢山な内容で、すっきりまとまりきれていない。よく聞いていると、原文にはいろいろ怪談的、サスペンス的引張の台詞があるようだが、まだ開いたばかりで、舞台の空気が、まとまっていない。観客を怖がらせるところまで、演出も詰め切っていないし、俳優にも余裕がない。まだ開いたばかりだが、そういうところはこれだけ達者な連中が集まっているのだから改善されるだろうが。
神の子どもたちはみな踊る after the quake
ホリプロ
よみうり大手町ホール(東京都)
2019/07/31 (水) ~ 2019/08/16 (金)公演終了
満足度★★★★
、当たったベストセラーを舞台にするのは、集客には有利に見えるが、実現し成功するのはそれほど単純ではい。まず、もともと【文芸】の小説をそのまま読者に届けたいという至極まっとうな作家も少なからずいる。村上春樹もその一人で、他のメディアとのかかわりには敏感に気づかいをする。
初刷りが50万と言われるほど売れているのに、村上春樹作品の映画化、テレビ化、コミック化、もちろん劇化も極めて少ない。2012年に初めて日本国内で舞台化された「海辺のカフカ」のときは、演出者・蜷川幸雄の何が何でも芝居として面白いと言わせてみせる!という、作家への対抗心のようなものも見えて、なかなか面白い興業だった。「海辺のカフカ」はスターも並べた大劇場の公演で、五年以上も再演を重ね、ロンドン・パリを含む海外公演もある大興行になり、その間に蜷川幸雄を世を去ってしまった。こちらは、テキストの趣向も一味違う村上春樹の中劇場(と言うより小劇場向き)作品だ。製作は同じホリプロ。同名短篇小説集からのコラージュで、演出は倉持功。俳優は児童も入れて5人。それぞれ複数の役を演じるが登場人物は多くない。1時間40分。
上演脚本はカフカと同じくアメリカのフランク・ギャラティ。この脚本が用意周到にできていて、ユニークな舞台作品になった。舞台ではいくつもの「物語」が同時進行するが、それぞれに、語り口(文体)の違う語り手がいて、ファンタジックな世界から、通俗的な人情物語、ギャングものからホラーまで、現代世界を飛び交っているさまざまな物語を織り上げていく。子供のために作る即興的な童話も、前世紀末の学園ロマンスも、かえるくんの寓話も、所を得て,生き生きと語られる。しかも、すべてのエピソードで、原作の多彩で複雑な現代小説の味を壊さないで、舞台に乗せている。
脚色の技術を駆使した脚本のうまさである。「かえるくん」と「かえるさん」の呼び名の違いでシーンを面白く作ってしまうところなど、とても外国人脚本家とは思えないほどだ。
出演者は、カフカで大受けの役を演じた木場勝己、他は若い俳優たちだ。木場はどんな役でも余裕綽々だが、ほかの三人には、複数の役を演じるのは荷が重かった。俳優が語り手も務め、さらに複数の役を演じるのもこの村上作品脚色のポイントの一つだ。役に客観性を持ちながら、肉体化もしなければならない。若い三人は、お行儀がいいところはいいのだが、肉感的表現はもっとやらないと木場には追いつけない。悪くはないのだから、これは贅沢な注文かもしれない。
演出の倉持はこの手の作品を何度もやっている。自分で本も書いているのに思い切りの悪いところがあって、ぐずぐずテンポを落とす癖があるが、こういう切れのいい本を参考に、まもなく予定されている乱歩の第二弾では、引き締まった良い本で見せてほしい。
猛暑の夜、あたらしいホールで、外へ出るとここ二十年ですっかり変わってしまった東京駅前丸の内。あれ、おれはどこにいるんだろうと、どこか別世界へ遊んだような気分になる小じゃれた公演であった。
、
、
血のつながり
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2019/07/28 (日) ~ 2019/08/04 (日)公演終了
満足度★★★
今年の3月に文学座のアトリエで上演した本を、俳優座の稽古爆公演がやるという。
半世紀ちょい前なら演劇界の大事件(イベント)だが、今はひっそり、私も文学座は見逃した。カナダ演劇がいかにもアメリカ的な地方都市人間模様を描いても、いかばかりの物か、と食指が動かなかったのである。
19世紀末、保守性が強いアメリカ東部小都市の資産家の一家のミステリである。父親に後妻、二人の子供はともに女姉妹である。後妻には性悪の弟がいて、資産を後妻のものにしようと耽々と狙っている。メイドが一人。この家で父親と後妻が斧で頭を割られて惨殺される。なぜこの犯罪が起きたか。
戯曲は少し凝っていて、事件の結末も出た後で、姉妹の妹(若井なおみ)が友人の女優(小澤英恵)に、事件の経緯を再現させて、その心理を追うという形になっている。その犯罪事件は、アメリカでは有名な事件であるらしいが、我々が見ても経緯が平板で、、19世紀末にはこれで通ったんだなぁという位の感想しかわかない。日本で言えば明治の新派劇である。封建的な父性社会への反発、とか、女性の自立、とか、地方都市の封鎖性という枠組みも、父親、後妻、義弟のキャラ作りも、手を汚さない姉、イラつく妹、澄ました顔で手癖が悪いメイドなど、俳優もおなじみの型どおりで、戯曲の仕掛けがなければとてもまっとうには付き合っていられない。
現代アメリカ演劇はこんなもんではないだろう。これは1980年初演と言うが、今年見たものでは俳小の「殺し屋ジョ―」が90年。掘り出すのなら、こういう生きのいい戯曲を発掘してほしい。二大劇団が争って上演するようなものではないだろう。ミステリ劇としても、レッツの方がはるかによく出来ている。
ただ感心したのはやはり俳優の層の厚さで、旧新劇団には昔懐かしい、すれていないように見える美女がいる。姉役の桂ゆめも若井同様、美女であるだけでなく下手ではない。老けの中寛三は、今や大幹部だろうが、さすが柄では小劇場の及ぶところではない。装置もいいし、効果、音楽の入れ方もシャレている。すでに売り切れ続出は目出度いがせいぜい客席百余りでは、浮かれてもいられまい。この顔ぶれで、なぜ文学座と張り合ってまでこの本で、公演を打ったのか、ミステリの謎は解けない。。
朝のライラック
彩の国さいたま芸術劇場
彩の国さいたま芸術劇場・NINAGAWA STUDIO(大稽古場)(埼玉県)
2019/07/18 (木) ~ 2019/07/28 (日)公演終了
満足度★★★
イスラム圏とどう付き合っていくかは、今世紀の非イスラム圏の世界的大問題で、確かに「世界最前線」ではあるが、それがたちまち「世界最前線の演劇」となるかどうかは疑問である。両者の文明の基盤が違い、共通の価値観を持ちうる部分についても手探りの状況である。はっきり見えるのは、政治的武力対立だが、他の領域でもわからないことは多い。
この芝居は、イスラム圏の政治対立の内乱の真っただ中で、非イスラム圏の価値観(西欧的な自由主義)を持つイスラム人男女(松田慎也・占部房子)が圧殺される物語である。味方も敵も、ともにイスラム教のもとにあるのだが、どこがどう違うかは、西欧的な自由主義を認めるか、どうかだけしか観客には解らない。主人公の男女も、まるで何も知らない日本人男女のような雰囲気で、同じ宗教のもとにある者同士の葛藤がない。そこを、このイスラムに生まれた作家が書いてくれなくては、異教徒にはどうしようもない。そこは役者の想像外だ。
戯曲の視点も、国際的な意図もあるのか、西欧的な近代的価値観のもとに書かれていて、異形の暴力に巻き込まれた自由主義者の悲劇になっている。救いのない話で、そういう実話は現在のイスラム圏問題の最前線では起きていることなのだろう。そのことは観客も知っている。
だが、本当に観客がみたいのは、いささかスリラーめいた脱出劇の成否ではなくて、そこに生きる人々が、どのような生き方をしているかであって、この芝居はその肝心なところを殆ど型通りの設定でしか見せていない。
舞台が小綺麗にまとまっているのが、何か空々しい感じさえする。事件の真っ最中に演劇の場を設定するのは受けやすいけど、中身は乏しくなる。この最前線演劇はそこから逃れられていない。
グッドピープル
株式会社NLT
博品館劇場(東京都)
2019/07/18 (木) ~ 2019/07/25 (木)公演終了
満足度★★★★
たのしい芝居見物だった。場所は銀座。三百人ほどのほぼ満席の客席は下北沢とはがらりと変わって、家族連れもいる老若男女、下町の町内会の観劇会の雰囲気である。
芝居は2011年のブロードウエイのアメリカ現代演劇。大衆劇的とはいっても、中身は現代アメリカ・ボストンの下層労働者階級の性差、上昇志向、人種差別、職業差別、地域差別、などを織り込んだかなり辛い内容なのだが、万国共通の彼らの、都合のいい話には乗りやすく、酒や賭博(ビンゴ)におぼれ、常に失業不安のある労働者たちの生活を喜劇的に描いて普遍性がある。(落語の庶民の世界である)
劇団のカラーにも合っていて、主演の戸田恵子、村上弘明、サヘル・ローズは客演ながら、脇を劇団の木村有里、阿知波悟美が支え、鵜山仁の演出も心得た出来で、幕間15分を挟んで2時間半、楽しんで見られる。中でも、戸田恵子は、こういう環境に育った女性の切なさ、可笑しさ、純な心情をテンポよく演じきっていて、この女優ならいつもの出来とは言うものの、得難い名演である。べとつかず、切れ味がよく、さっと変わるところがうまい。
対する、村上弘明。大劇場の商業演劇は経験があるだろうが、こういう中劇場でも、なかなかいい。成り上がった医者の役を、余り芝居で見せようとしないで、ガラで押さえているところも成功した。サヘル・ローズと高田翔の台詞が聞き取りにくいのはキャリアの差が出た。
しかし、こういう舞台で、客席が、素直に芝居を楽しんで、劇場全体が芝居の華で包まれ一つになって盛り上がる(幕内で芝居の神様が下りてきたと言うそうだが)のは、は非常に珍しい。商業演劇だけでなく、今の小劇場にも、公立劇場にもない、現代の芝居小屋のあり方を開いた老舗NLTの久々の大ヒットだろう。
『イザ ぼくの運命のひと / PICTURES OF YOUR TRUE LOVE』リーディング公演
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2019/07/20 (土) ~ 2019/07/21 (日)公演終了
リーディングならと軽い夕涼み気分で出かけたのがよくなかった。スピンアウトのもとになった舞台も見ていない。つかめなかった責任はほとんどこちらにあるが、それぞれのシ-ンの台詞はわかるのだから、怠惰な観客にはもどかしい舞台だった。ほかの舞台で魅力的だった音楽・作曲の実演にもつられていったのだが、場内ミキシングがよくなく(公演回数が少ないから仕方がないにしても)俳優のマイクのバランスが悪く、楽器のPAもいかがかというところがあって、折角歌ってもいるのにその魅力が伝わわらなかった。
ジャスパー・ジョーンズ
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2019/07/12 (金) ~ 2019/07/21 (日)公演終了
満足度★★★★
小劇場のスペースを、美術、照明、音響、舞台監督の裏方大奮闘で埋めきって、多分、中劇場以上を想定して書かれたシ-ン数の多いオーストラリア演劇が上演された。ここで幕だな、と感じるところも途中にあったからもともと多幕物で書かれた劇だろう。2時間。
かの地で大当たり、というジュブナイルのような小説を原作にした「名作ドラマ」の感触で、大筋はマークトゥエインの少年もののいただき。それに現地のアポリジニ差別、家庭内暴力、社会階層。地域差別など、社会的葛藤を詰め込んだ本で、広いオーストラリアのどこでやっても客が来そうな舞台ではある。日本人にとっては、お勉強にはいいかもしれないが、翻訳者が客席パンフで言うように、「日本の姿に重なる」「上演すべき」ドラマとは思えない。表面的には重なるかもしれないが、それぞれの各国事情があり、そこに人間は住んでいる。演劇だから、目の前で人間がやると、重ねようとすると嘘が見えてしまう。さまざまな文化の中で演劇が最も国際交流が難しい。
演出の寺十吾にどういう意図があったかが、窺えない。しかし、細かく展開するドラマを見ているうち(場面処理は旨いのである)に、舞台にいささかは同化しながら面白がる芝居見物の「感興」は次第にそがれていく。終わると、やれやれ、地上の楽園も大変だなぁと劇場を出ると言う事になってしまう。大使館のレセプション演劇ならこれで充分の出来なのだが、日本の観客にここを見せる、という突込みがないと小劇場は苦しい。やたらと長いエピローグを万遍なくやったところにもそれは現れていると思う。新劇団から役者を見つけてくるのがうまい名取事務所だから、今回も巧みなキャスティングである。熱演の若い俳優たち、大橋繭子、森永友基、窪田亮、西山聖了など、他の舞台でも注目して、見てみたい。
芙蓉咲く路地のサーガ
椿組
新宿花園神社境内特設ステージ(東京都)
2019/07/10 (水) ~ 2019/07/22 (月)公演終了
満足度★★★★
総勢36名の新劇団から小劇場まで、さまざまな出自の俳優が土の舞台を駆けまわる、年に一度の野外テント劇である。
今年の題材は中上健二。作家としては評価も定まった感じの昭和の逸材で、かつて、何度も映画化、舞台化が試みられたが、あまり成功したものはない。日本の原点とも言える土着文化を掘り起こしているのだから、切り口がつかめそうなのにうまく具象化できない。
ナマの人間で見せる演劇には有利に思えるのだが、既成の俳優だと、俳優個人のキャラクターが邪魔をしてしまう。それだけ原作が日本人の多様な側面を深く描いているとも言えるのだが、なかなか抽象的な文字の世界には及ばない。しかも、その世界は、今は消えてしまった昭和アンダークラスの路地である。
この舞台で、その空気をいささかでも体現出来た俳優は残念ながら少ない。それは当たり前で、日常生活で手掛かりがない若い俳優には雲を掴むような話なのであろう。ほとんどの若い役者は浅い知識でそれらしくやっているだけだ。そのなかで、主演の加治将樹は、よく中上の世界を体現していた。ほかの舞台も見てみたいと思った。山本亨は幅広くこの役を掬ってまとめ上げて、好演。柄は違うのに存在感を出した水野あや。作・演出の青木豪も身体的には知らない世界だから、ときに原作に遠慮してか(全体としてはご苦労様と言う出来なのだが)最後の肝心なところでは、中上頼りのナレーションになってしまう。結局、芝居にし切れていないのである。まぁ、それほど、中上健二と言うのは難物なのだ。この野外劇公演では、アンダークラスから日本の原点に迫ろうとした企画は多いが、中上の場合は「路地」に籠めた土着の精神性がある。今回は、類型的公演は脱したとはいえ、すこし荷が重かった。
しかし、夏の一夜、普段は様々な劇場で主に脇役で舞台を締めいる俳優たちが様々な場所から集まったテント公演を見るのは、解放的なフェスティバルの雰囲気もあって観客にとっては楽しい芝居見物だった。
骨と十字架
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2019/07/06 (土) ~ 2019/07/28 (日)公演終了
満足度★
小劇場でブリリアントな舞台を見せてきた野木が、キャスト・スタッフも揃えて初の中劇場進出だ。芝居好きが首尾いかにと胸弾ませる待望の公演だったが、その期待は重く沈んだ。
その芝居の舞台成果を言う以前に、公演の構えにいくつかの疑問があり、それが観客の期待を裏切る要因になった。
大きくは二つ。その一つは、折角創作劇を委嘱したのに、なぜこの素材を選んだかと言う事である。物語は、ほぼ百年前、二十世紀になっても権威であったキリスト教の異端審判である。主人公はフランス人。登場人物もすべた西欧人司祭だ。
ヨーロッパ近代・現代社会とキリスト教とは相互に深い関係があることは周知のことで、それを東洋から見るというのは、それなりに意味のあることではあるが、なぜ現在の日本の、国立劇場で上演しなければならないか、という創作劇の主題が見えない。
信仰による神の世界と、科学による真理との対比、その中で人間は歩み続けざるを得ない(keep walking)と言うのが、きわめて大雑把なこの芝居の要約だが、結局はその程度の平凡な箴言しか言えていない。
野木の舞台がここ数年注目されてきたのは、主に、日本人なら誰でも身体的に馴染んでいる日本の近現代の事件(東京裁判や三億円事件)や遊戯(競馬やポーカー)に素材を取りながら、ちょっと意表を突く、週刊誌的と言ってもいい人間的問題提起から、的を得た日本人批評(もちろん中には汎人類的なものもあるが)を面白いドラマに仕立ててきたからなのだが、この素材では、その面白さを出しようもない。では、日本の近現代史、あるいは現実の社会の中に同じテーマを持つ素材がないか、といえば、いくらでもある。
現代劇を上演する公立劇場で、ましてや国立劇場なのだから、そこを逃げてはダメだろう。かつて、井上ひさしがこの劇場に登場した時はさくら隊が素材だった。後には戦争三部作も上演した国立劇場である。この芝居だって商業劇場でやっていないことをやりました、と言うかもしれない。三島だって「サド侯爵夫人」を書きました、と言うかもしれない。しかしそれは社会の中での演劇の役割を知らないものの暴論である。ひょっとするとこの劇場には、野木の(あるいは劇場の)この企画を再考しようと提言した者がいなかったのではないか。それは役人仕事の事なかれ主義、点取り稼ぎでしかない。
二つ目。本公演に先立って、プレビュー公演があって、それを見たこのコリッチ・レポートによると、観客にアンケートを求め、本公演までの三日間で指摘された箇所を修正して、本公演に臨む、とされていたそうだ。どんな形式でアンケートをしたのか、それをどのように舞台に反映したのか、興味があったが、本公演では一切それについては触れられていなかった。
それはいいとしても、そもそも、演劇が幕を開けると言う事は、制作側から観客に完成品を見せる、決意表明でもあるべきで、デパートじゃあるまいし、お客様からご要望をお聞きし直します、というものではない。90年ごろから観客の意向を反映する、観客参加型の公演が多くなってきた。そう言う演劇の役割も解るが、この芝居は仕組みが違う。それをここで言うのは単に観客への媚態か、制作側のエクスキューズでしかない。
この公演は、制作側は全力を尽くして、自分たちの作り上げた舞台を見せる、観客はそれを見る、というストレートな演劇体験を目指している。もし、直したなら、それを明示しなければアンケートに答えた観客に失礼だろう。
以上、主に二つの点がひかかって、この芝居、素直に楽しめなかった。舞台成果としては、さすがに役者がそろって、代役で出た神農には気の毒だったが、小林隆は今までにない幅のある役をこなし、伊達暁も円熟してきた。全体に役者が舞台を楽しんでいない気分が見えたのは残念だったが、まだ公演数が少ないから仕方がないか。さらに残念なのは、折角中劇場に出たのに、パラドックス定数がよく上演する小劇場の舞台を踏襲して代わり映えしなかったことで、逆に、このキャストで小劇場で見てみたい、と思った。それは金の問題で折り合わないところが、また演劇らしいところなのだが。
闇にさらわれて
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2019/06/23 (日) ~ 2019/07/03 (水)公演終了
満足度★★★★
ヒットラーのナチ政権の所業は20世紀の悪夢と言うが、今なお繰り返し舞台でも上演されるのは、まだその悲劇を克服されていないからだろう。
「闇にさらわれて」は2014年初演のイギリスの戯曲。テレビ出身のマイク・ヘイハーストの処女戯曲の民芸による日本初演だ。ユダヤ籍の青年弁護士(神敏将)が、ナチ政権以前にヒトラーを裁判の証人としたことで疎まれ、政権発足後に捕らえられ、強制収容所に収容される。一幕は彼の獄中生活。第二幕は彼を解放しようとする母(日色ともえ)の闘いが軸で、舞台は進む。
戦後70年を超えると、ナチ、反ナチの単純な対立項ではドラマは成立しない。身の回りで起きる小さな日常が積み重なって、ヒットラーの社会は生まれる。そこを、この作者は、一幕の単純な反ナチの弁護士と獄窓を共にする同志から始まり、現実派の父親や、行動論理があやふやなナチ親衛隊員、二幕には同盟を試みようとするイギリス貴族(篠田三郎)を、配して重層的に検証していく。なぜあのような悲劇が生まれたのか。
ヒトラーが率いた政治体制のホロコースト、侵略主義、選民思想などは、まず明確に責められるべき要因ではあるが、政治であれ、経済であれ、はてまた学術の世界であれ、全体を覆う風が強く吹けば、それに乗じる日常の権威は生まれ、その権威は暴発する。風の中にいる人間は気がつかないのだ。そこは現代のポピュリズムにも通じるところだ。
「アンネの日記」をはじめ、戦争の検証では多くの舞台を上演してきた民芸の舞台だから、今回の新作も無難に進む。一幕の獄中の描写などは、いささかパターン化しているが、基本的は「母もの」なのに、情緒に流れず、無理に結論を急がず、戦争ものは手慣れた、という感じだ。
しかし、多分、この公演の一番の問題点はそこだろう。
年金受給年齢を越える老人が圧倒的に多い客席は、民芸らしい舞台で安心して見ている。
だが、本当にこの芝居と向き合ってほしい戦争を知らない世代がいない。老人は夜道が不安だろうと若者が見られる夜の公演はわずかしかない。いつも常打ちにしているサザンシアターの舞台も地方の公会堂を回るサンプルとしては便利であろうが、いつまでもそれに安住した咎が出ている。舞台と客席の間に馴れ合いの冷たい風が吹いている。現実には、民芸は、もうこの中劇場は荷が重い。
キャストは9人、もっと小さな劇場でやってみたらどうか。例えば風姿花伝。トラムとか東芸の地下のような既成の場所でなく、まだ形の決まらない劇場でやってみる。俳優も演出も、それはもう、パラドックス定数やチョコレートケーキよりはるかに手だれのキャストスタッフが揃っている。観客にとってもベテランの新しい発見があるだろう。それは経費が、友の会が…と制作部は言うだろうが、もうそんなことに構っている場合ではないだろう。ほかの上演団体は皆ここで勘定を合わせているのだから。
渡りきらぬ橋
温泉ドラゴン
座・高円寺1(東京都)
2019/06/21 (金) ~ 2019/06/30 (日)公演終了
満足度★★★★
小劇場劇団としては大胆な試みを一度に三つやっている。
昇り目のシライケイタがひきいる温泉ドラゴン、主要俳優も全員参加して力の入った本公演である。物語は日本初野女流劇作家と言われる長谷川時雨が活躍した女性運動勃興期。ドラマでも、よく取り上げられる大正リベラリズム最高潮の時代の文芸界人間模様だ。
大胆な試み・第一。女性を主人公にしていながらすべてメールキャスト。体格のいいカゴシマジロー(林芙美子)、いわいのふ健(岡田文子)、筑波竜一(長谷川時雨)、みな女性役で和服で登場する。第二。四か所、テレビのスタジオインタビューのような形式で、登場人物が、亡くなった人を呼び出してインタビューする。例えば、時雨が一葉に聞く。第三。現実の史実を踏まえている。
特に斬新とも言えない演劇的な工夫であるが、それなりに難しい演劇的趣向を三つそろえて、本公演をやるのは劇団が上向きの時でなければできない。
その結果はどうだっか。
残念ながら、成功したとは言い難い。女性を男性がやるのは日本演劇では珍しくない。ことにこの世界は新派という老舗がある。その水準まで、とは言わないが、せめて、和服の着方、その時の歩き方、当時の言葉、くらいは今少し演じてくれないと、テーマとなっている女性の閉ざされた世界そのものが表現できないことになってしまう。メールキャストにこだわった意味がわからない。新劇団にもいい女優はいる。借りてきてもいいではないか。インタビューシーンを挟むというのは面白い発想だが、解説以上に出ていない。もっと積極的に絡める方法も、折角、大きな橋を道具で出しているのだから、演劇的な処理で、できると思う。解説を入れているにもかかわらず、約百年前の話だから、説明不足が生じる。もっとも解り難かったのは、当時のメディアである雑誌や新聞の上に成立していた文壇の社会的な意味合いだろう。「女人芸術」そのものを今少しわからせてくれないと時雨も理解できない。
さらに、芝居で言えば、人物が多すぎてそれぞれ紹介に忙しく、肝心の女人芸術の編集を巡るドラマや、三上於兎吉と時雨の不思議な夫婦関係が説明的・表面的になってしまったことや、舞台のつくりが部屋を上手に置いているので、さぞ、下手側の観客席は見難かったろう、とか。音楽のつくりが安直だ、とか。
いろいろ、不満はあるのだけど、若い劇団がこういう機会に演劇的実験を試みて、その成否を肌で学ぶのは必ず将来役に立つ。
この演出家は、他の劇団に招かれて「殺し屋ジョー」という舞台を、はるかに悪い条件で成功させている。次回は余り捻らずに、力量を発揮されることを祈っている。
ピロートーキングブルース
FUKAIPRODUCE羽衣
本多劇場(東京都)
2019/06/20 (木) ~ 2019/06/23 (日)公演終了
満足度★★★★
歌と芝居とダンスを一つの舞台にしたショーは90年代は大いに流行ったものだが、この「妙―ジカル」はその流れだ。
FUKAIPRODUCEで糸井幸之助の作・演出・作曲、初の本多劇場進出を見に行った。
舞台は砂浜。壊れた機械の歯車が半ば砂に埋もれている。歯車は時にゆっくり回ったりする。ベッドが二つ。タイトル通り、ベッドの上の男女のピロー・トークで進む。
馴染みのコールガールともてないデブ男。
ファミレスの店長と亭主もちの客席掛の女。若い店員。店長は失踪し、女も同行する。
燕尾服にシルクハットの男女のタップダンサー
仲を取り持つラブホテルの蚊。
12名の出演者がそれぞれに役を持っていながら、台詞も歌も群舞も斉唱も演じる。
青春の終わり。男女の寝物語にもダレがみえはじめるころ。何となくユルイ感じなのだが、ときに、時代感を鋭く出す。俳優たちも今様に楽しげに演じている。群舞などは、振り付けや衣装もよく考えられていて、稽古もよく出来ている。投げやり、無気力に見える若い世代のホントはつらい真情を同じ世代として良く表現している。
この公演を見に行ったのは、木下歌舞伎がこの糸井幸之助をしきりに起用するので、なぜだろうと、本業のステージを見に行ったのだ。勧進帳のラップなど、なるほどそういう狙いだったかと、分かった。曲も歌詞も、一つ一つを取り上げるよりも、全体として一つの世界観に収斂していくところが、きっと演劇側からは歓迎されるのだろう。
単独のショーとしても面白い。本多劇場で満席だったが、招待客も随分いたから実力のほどはよくわからない。青春回顧の甘い一夜だった。歌詞ではないが「楽しい時間をありがとう、不意に動いた心が静かに止まってしまうまで」
THE NUMBER
演劇企画集団THE・ガジラ
ワーサルシアター(東京都)
2019/06/18 (火) ~ 2019/06/23 (日)公演終了
満足度★★★★
個人の自由と幸福を両立させるのは、人類には不可能なのか?
現代が「古代」になって伝説としか伝えられなくなった遠い未来でも、今もしきりに問われている全体と個人の相克は解決されていない。この舞台はロシアの作家の原作を鐘下辰男が脚色演出したガジラの舞台。私鉄沿線・八幡山の客席60人ほどの地下の小劇場だが、マチネから満員である。
暗い舞台、細い照明、大音響の効果音、昔懐かしい千葉哲也はじめ、濃い目の俳優でそろえて、2時間20分休憩なし、ガジラらしい舞台である。だが、未来社会でも議論される科学か、芸術か、とか、幸福追求は全体か、個人か、というような内容はチャペックの古典とさほど変わり映えしない。SFはどこかで、いったん架空のお話として見てしまうとガジラ節でエグく押されても、観客は安心してしまう。そこが難しい。
だが、小さいながら対面舞台で一つの世界を力業でまとめてしまう鐘下辰男の力量はたいしたものだ。さきに、体言止めの台詞が多くなったのに違和感を覚えたが、舞台に無機的な力を与える効果は大きいと分かった。しかしそれは台詞から情緒的なニュアンスを削ぐ。
観客がSF社会の仕組みを、大音響の中で理解していくのにかなり疲れる。
かつて、ガジラは終演後のカーテンコールがなく、暗転して客電がつくと、あとは裸舞台だけ、というのはなかなか味があった。この芝居はその方が良かった。
アインシュタインの休日
演劇集団円
シアターX(東京都)
2019/06/14 (金) ~ 2019/06/23 (日)公演終了
満足度★★★★
狙いのよくわからない公演だ。新劇団の円が小劇場の青★組の吉田小夏を作演出に招く。これは新劇団はどこでもやっていることで、少しキャリア不足かな、とは思うが納得できる。だが、この戯曲(新作)で行く、とした理由がわからない。
関東大震災直前の東京下町の、職人も、学生下宿人も一緒に暮らすパン屋一家の秋から冬。ちょうどその時期に世界漫遊中のアインシュタインが日本にいた、というわけでこのタイトルがあるのだが、なぜ粒立たないその時代を取り上げたかがわからない。百年前と言うのか、あるいは直後の大震災を前の小春日和時代が今に似ているというのか、どちらにせよ、だからどうということもない。
パンフを読むとその時代にも庶民の哀歓はあって、今に通じる、と言うが、それは無理だろう。全編を通す大きな筋(ドラマ)はなく、庶民の哀歓と言えばその通りのエピソードがつづられていく群像劇だ。昔の明治座か、演舞場の新派公演の一番目狂言のような筋立てで、中身は格別目新しくもない。劇団公演だから人数は出ていて、15名。二時間の芝居で、それぞれ役を書き分けてそれなりの見せ場を作る。そこはご都合主義ながら、こまごまとよく出来ていて、小劇場で劇団員に書き分けていた経験は生きている。
しかし、円が一時期劇場を持っていた縁で、浅草を舞台にしたという割には、舞台に下町らしさがほとんどない。作者は東京育ちらしいが、昭和30年代までは、東京でも下町と山の手ははっきりしていたから、現在70歳以上の人は実体験がある。
劇団長老もいるだろう。まず、言葉から入らないとリアリティを欠く。これは少し方言指導者を探せばできるはずで、最近でも、チョコレートケーキが「60sエレジー」という芝居で下町の蚊帳屋を舞台に昭和30年代ものをやったが、見事に東京方言になっていた。やればできるはずだ。もちろんこの芝居の大正12年の設定で生きている人は少ないだろうが、これだけ言葉が下町らしくないと、劇場が両国だけにしらけてしまう。
大劇団と小劇場の交流は、お互い役に立つことはあるはずで、これに懲りずに交流を深めてほしいが、その狙いはもっと明確に絞った方がいいと思う。それは円だけのことではない。
キネマと恋人
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2019/06/08 (土) ~ 2019/06/23 (日)公演終了
満足度★★★★
廣い客層が楽しめるファンタジーだ。
トラムの再演だが、初演はチケットが手に入らなかった。今回は広い世田パブ。幸いいい席が手に入って、ケラならではのエンタティンメントを3時間半楽しんだ。
ストーリーを取っているのはウッディ・アレンの映画「カイロの紫のバラ」、東海岸の田舎町の話を日本の離れ島の街に移した。べたの東北弁にしているが、想定される規模の島の街が思いつかない。時代もどうやら戦前らしい。架空のファンタジーである設定は強調されている。映画では主演のミア・ファロー(絶品の名演)を追ったストーリーになっているが、こちらは、緒川たまきと、ともさかりえの姉妹を軸にしている。時間もほぼ倍になっていて,原映画のエピソードは殆ど取り入れられているが、見事な換骨奪胎で、ケラならではの舞台作品になっている。日本は映画も演劇も、能・歌舞伎がありながらこういう世界は苦手なのだ。
何よりいいところは、映画の作中人物の脇役俳優が上映中の映画を抜け出して、映画が生きがいの貧しいファンの前に現れるという荒唐無稽の話を、花も実もあるエンタテイメントに仕上げたことで、こういう作品はなかなか現れない。ケラのステージングのうまさはいまさら言うまでもないが、それを支える美術(二村周作)、衣装(伊藤佐智子。色使いは中間色が多く、洒落ていて品がいい)、音楽の編曲、振付(小野寺修二)、みな気合いが入っていて完成度が高い。
映像の中とナマの芝居のつなぎも、いかにもアナログ風なのが却って効果を上げていて面白い。上田大樹らしい劇場映像だ。
俳優は、ケラの芝居の常連が多く出演していて、世界を作っていく。緒川たまきは、ガラとしては都会的だが、長い手足を生かして東北弁のセリフをしゃべっていると、この芝居ならではのキャラクターの味わいが出てくる。ミア・ファローとは違う女優の魅力だ。そこがファンタジーの不思議さでもある。妻夫木聡は、難しい役どころを軽々とやっている。この軽々と見えるというところがこの芝居のキモで、うまい。ともさかりえはしっかり脇を固めて最後のシーンで見せる。ここで原作からケラが動かした狙いも見えてくるのだが、そこまで引き絞っている深謀は見上げたものだ。それぞれのキャラが面白いのがケラの芝居で、今回も遺憾なくその特色が発揮されている。いささか迷いが見えたのは三上市郎の暴君的な亭主くらいだ。
幅広い観客が入って、満席。これでS席¥7,800は最近の料金では超格安だろう。公共劇場の最近のヒットである。
オレステイア
新国立劇場
新国立劇場 中劇場(東京都)
2019/06/06 (木) ~ 2019/06/30 (日)公演終了
満足度★★★★
オレスティス三部作と言われている王家一族の家庭内殺人を描いたギリシャ悲劇を、裁判劇の枠組みで再構成した親子三代の愛憎劇。そこにどのような罪があるのか?
生田斗真ファンの若い女性群、音月桂ファンの中年女性で、広い新国の中劇場は満席の盛況だ。三部作を一つに押し込めたのだから、とにかく長い。最近には珍しく4時間20分。
こういうスター芝居ではお決まりの最後のスタンディングオベーションをやっている時間もない。終電はともかく、終バスがなくなってしまう。
幕間が二回。各20分。幕間のロビーではお仲間でやってきた観客が、あそこはどういう意味なのか、あの人物は死んでいるはずなのに誰なのだ、と山積の?????解決のためにしきりに情報交換をしている。
この新構成の芝居は、枠組みとして、オレステイスを裁く裁判劇をはめているので、親子三代の家庭内殺人の因果応報が交錯する。そのわかりにくさは、人気者をとにかく舞台でご見物衆に見せなければというこの興業の配慮からきているところもある。幕開き、客席からオレステイスが登場し出ずっぱりだが、第一幕はほとんど芝居に絡むところがない。人気者だから出ているだけで気になる。
だが、そこを除けば、この長大な舞台のドラマは緩むところはない。それほどわかりにくくもない。見ている間は、家庭内葛藤は昔も今も変わらないなと、最近しきりに報道される現代の家庭内殺人も連想させて引き込まれる。脚本・演出がうまいのである。
この劇場はいかにも使いにくそうな小屋で、舞台が拡散してしまう感じだったが、今回はオープンステージでさして道具もいれていないのに締まりのいい舞台になった。美術は二村周作。映像を出す演出は流行りだが、今回の「上演のタイムラップ」を出す、というのは新手で、生の演劇であることを強調して効果があった。演出の俳優へのミザンシーンも的確で、終始緊張感がある。俳優は皆健闘だが、特に、音月桂。こういう押しも引きもできるタカラジェンヌとは知らなかった。横田栄司。吉田剛太郎の陰に隠れがちだったが、今回は地力を発揮している。
この内容で寝ている客がほとんどいなかったのは大成功である。座組みは、シスカンやホリプロならやりそうなことではあるが、近ごろ、何への配慮か嫌われる長い芝居(多分、劇場労働者の労働時間だろう。いやな世の中だ。この劇場でも入口のショップは締めていた。開演しているのに閉めるのでは訳が分からない。労働時間が折り合わなかったのかと勘繰る))がたっぷり見られたのは、蜷川のコクーンでのグリークス以来の愉しみだった。
機械と音楽
serial number(風琴工房改め)
吉祥寺シアター(東京都)
2019/06/12 (水) ~ 2019/06/18 (火)公演終了
満足度★★★★
テーマは面白い。現代社会の幸福の目的が、個か、全体か、という問題は、繰り返し問題になってきたが、今再び、脚光を浴びている。
グローバリゼーションか、個人の自由か。
絶対王政が崩壊して以後の社会では、民主主義と全体主義が繰り返し争われてきた。今日本はその流れ目の変わり目のようで、論壇も賑やかだ。
この芝居はその時流を捕まえてはいるが、いささか性急すぎた。
まず、素材。ソ連(今のロシアの社会主義時代)の全体主義が、個の建築美学と対立する。
全体主義がスターリンというのはわかりやすいが、対立する個人が、結局は一作も作品が残っていない天才建築家というのでは、対立の組みようがない。やむなく、天才を受け入れたアトリエの時流の中の攻防とか、最初は支持もあった男女の自由恋愛とか、家庭制度批判とか、本人の夫婦物語とかで、物語は進んでいくのだが、そうなると、同じ時代の日本を素材にした宮本研の「美しきものの伝説」と変わり映えしないことになってしまう。
観客に、この建築家の芸術を体験した(実際に目で見た)経験がないから、物語の手触りがない。スターリンだって経験ないじゃないかと言うだろうが、こちらは、左右両側の宣伝をいやというほど聞かされているし、前の世代の軍事国家のトラウマはまだわが国には残っている。人物設定のバランスが悪く、物語が舞台の上で宙に浮く。
だが、作者はそこを何とか克服しようと、あの手この手で、説得を試みる。その悪戦苦闘はよくわかるし、このふつうの日本人には全く縁もゆかりもない素材で、これは現代へのプロテストだな、と感じさせるまで持って行ってのは大健闘とも言えるのだが、折角「アトムが来た日」を書いた作者なら、自分が熟知している素材に頼らず、斜に構えず、もっと観客がとっつきやすい材料でシャープな現代劇を見せてほしかった。このテーマならいくらでも素材はある。
作者もよくわかっているに違いない。ロシアの革命は、王政から一足飛びに社会主義にいったので、揺り戻しもあって、その経緯は専門家でもわかりにくい。そこを、比較的丁寧に追うので却って、主人公の建築家の芸術のあり方が見えにくくなった。見た限りでは、労働者集合住宅と家庭制度の刷新などは、わかりやすくドラマを組める。赤旗打ち振るレミゼばりの冒頭から入って、三部作にもなりそうな中身を2時間で上演すると言うのに無理がある。
舞台は上手、下手に台を置いた構成舞台で、テンポ良く進む。最初にあまり意味のないダンスがあるが、ここだけなので、それならない方がすっきりする。俳優は混成軍で、この劇団の田島亮が主役のイヴァンを演じる。柄のいい俳優で、チョコレートケーキの西尾友樹の線だが、まだまだ青っぽい。役柄のせいもあるが、うまく育ってくれると楽しみだ。
今回の収穫は文学座の浅野雅博。活かせる役に恵まれなかったが、ここは中間的な役を巧みに演じた。でもスターリンと二役というのは、ちょっと考え物だと思う。女性陣は奮起を願いたい。台詞が通る、上ずらない、というのは最低条件だ。
六月大歌舞伎
松竹
歌舞伎座(東京都)
2019/06/01 (土) ~ 2019/06/25 (火)公演終了
満足度★★★★
夜の部の三谷歌舞伎。あまりなじみのない歴史に題材をとっていながら、現代のアドヴェンチュアに通じる面白さがある。満席の観客は、この遭難船の一行どうなる、光太夫の指導力いかに、と固唾を呑んでみている。一万円以上の席料を払っても、納得できる一夜芝居だ。休憩50分あって、3時間45分。堪能する。
劇評は渡辺保さんのネット劇評「歌舞伎劇評」に尽きているので、そこにないことを少し。
歌舞伎の様式的演技がうまく使われていて、時代物(でもないだろうが)より、世話物の面白さだ。下座が入るシーンはわざとらしくもあるが、芝居の流れの中で様式的になっていき、クライマックスになるところは、自然でつながりがいい。日本人の感情表現が長い間に洗練されるとこうなるのか、と乗せられてしまう。
歌舞伎劇場の機構がうまく生かされている。花道、御簾、波幕などの装置はもとより、大歌舞伎公演に必要な大部屋俳優などもうまく使う。二幕のぬいぐるみによる犬ぞりの疾走は大受けだが、役者はもとより、振付がうまい。
しらけやすいロシア人が出るところを三幕までは抑え、三幕の女王謁見に絞ったにのもうまい。だが、ここで八島智人が出てくると、本人は十分にうまいのだが、舞台に溶け込んでいない。それは無理というもので、ここは歌舞伎役者で行くべきだったと思う。
どうもなぁと思ったのは、松也の現代中学校の歴史教師を出す必要があったのか、二幕、黒子を白衣装にしたこと(雪のシーンという配慮だろうが)、くらいだろうか。
全体に新作歌舞伎にある嫌味例えば、(野田歌舞伎には感じる)がなく、これなら再演も余り難しくないのではないだろうか。(野田歌舞伎は野田なしには手が付けられないだろうが、こちらは、頭取さんの整理でも出来そうな気がする)。高麗屋は再演も視野に入れておいてほしい。花も実ももある王道のエンタテイメント歌舞伎の誕生を喜びたい。
Other People’s Money
劇団昴
Pit昴/サイスタジオ大山第1(東京都)
2019/05/30 (木) ~ 2019/06/16 (日)公演終了
満足度★★★★
日産・ルノー問題で世間の注目を集めている企業統合(売買)の話である。
20年ほど前の本だから、かなり時代遅れの内容ではあるが、さすが、アメリカの本だけあって、押さえるところは押さえてあって、現在も話題になる企業合併・統合というものの仕組みはよくわかる。
東部の地方都市の中堅企業が、ニューヨークの禿鷹に目をつけられての攻防戦だ。基本的に、経営を動かす「金」と、ものをつくる「経営・労働現場」との意思疎通は困難が伴うものだ。そこを、このアメリカの戯曲はわずか5人の登場人物で、面白おかしく解説する。登場人物が少ないからそれぞれのキャラ立ちもきわめて明確で、そこがこの本のいいところでもあり欠点でもある。
内容を伝えることが大事な本だが、この劇団の主要な俳優が出演していて、ガラもよければ、なにより経済用語も多い台詞を明晰に聞かせてくれる。禿鷹のデブを演じる遠藤純一、気鋭の女弁護士、米倉紀之子、会社人間の一条みる、頑固な保守主義の金子由之、二枚腰の石田博英。みな絵で描いたように役を演じる。うますぎて却ってしらける位に見えるのは気の毒だが、それは本のせいだろう。
最近、日本の小劇場でもこういう一種の会社ドラマはよく見るようになった。かつての進歩系劇団の労働争議ものと同じようなものだが、日本のドラマは結局は人情劇になってしまい、突っ込みが足りない。事象を解くだけでなく、もっと人間に迫らないと面白くはならないし本の寿命もない。当日パンフで訳者が書いているように、現実に経済戦線にいるサラリーマンが芝居を見て感心するような舞台を作る、などと言う事はホリエモンに芝居を書かせるのと同じで至難の業だ。
この芝居はそこはしっかりしていて、結末は人情劇にも陥らず、意味のない未来志向でもない。そこは先を行くアメリカの本だと思う。