いびしない愛
(公財)可児市文化芸術振興財団
吉祥寺シアター(東京都)
2024/10/25 (金) ~ 2024/10/31 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
地方都市可児市(確か名古屋周辺)の公共劇場は芸術監督に東京の演劇人を迎えて演劇活動を行ってきた。東京から俳優も参加して東京公演も行ない積極的な活動をしてきたが、コロナ明けのこの公演の席ビラには芸術監督の名前は見当たらない。その詳細は解らないが、人間が身を挺してやる演劇にはコロナは様々な形で深い打撃を与えたのであろう。この作品は新人の劇作家、ベテランのプロ演出家による地方を舞台にした一幕劇である。
コロナ禍の中で出発した作者・竹田ももこは、故郷・高知南西部の独特の風土を舞台にしたこの作品で劇作家協会の公募作品に入賞して劇作家として出発した。演出のマキノノゾミはその最終選考にあたっている。舞台を製作した中京地方の可児市とは関係ないが地方の演劇団体が製作する作品として、選ばれたのかもしれない。1時間半の小品である。
内容は地方に生きる地場産業の工場(海産物の加工工場)が舞台に取られており、経営にあたることになったに二・三十代の女性姉妹の葛藤がドラマの軸になっている。こういう地域社会の特性を生かした舞台設定で成功した作品は多くある。四国のへき地はさまざまな作者に描かれたことがあるが、この作品も風土のなかに紛れもなく日本の現代の地域社会の課題を巧みにとらえている。登場人物の配置も、筋立てもうまいもので、ベテランのマキノは舞台にアクセントをつけて運んでいる。しかし、地域産業の課題、身体障碍も含む姉妹の葛藤、都会と地域の地域差に生きる人々の社会観など、多くのテーマを同時並行で一場(昔からある漁業の作業小屋の工場の事務室・このセットは非常に良く出来ていて感心するが)で五人の登場人物のやりくりで扱おうとしたために、全体として薄味になってしまってせっかくの特異な場面設定が生きていない。
かつて数年前にこの劇場で見た同じく漁村を舞台にした庭劇団のペニノの「笑顔の砦」のような圧倒的なリアル感が乏しい。僻地物でも蓬莱龍太の「デンキ島」の離島の少女の焦燥感のような存在感がない。そのような孤立感からは逃れているところがこの作品のいいところでもあるが、それならそこにもっと心を打つ真実が欲しい。それは東京でも上演される地方発の多くの作品にも言えることなのだが、無理を承知でi言えばそこを描いてこその地域演劇である。
ドクターズジレンマ
せんがわ劇場
調布市せんがわ劇場(東京都)
2024/10/18 (金) ~ 2024/10/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
調布市の公共劇場のこけら落とし公演。劇場というより、階段付きスペースといった感じで、東京郊外に多くある地方自治体の文化施設である。小笠原響が芸術監督になってお披露目の舞台である。翻訳から出発している芸術監督だけに見落とされていた翻訳物作品を第一作として、地味なキャストで上演した。
いろいろ「見てきた」感想はあるが主なものをあげると。
この劇場で翻訳物を軸にすると(ことに、ショーなどというイギリス通好みのラインアップだと)、劇場が市民に親しまれる前に足が向かなくなるのではないかという危惧がある。
イギリスと言ってもいろいろあるが、今回のショーのような作品は、もともと大劇場のプロセニアム劇場で上演するように書かれていて、このような狭い平土間スペースを前提としていない。前世紀には商業劇場では登場人物の数まで設定するのが常識になっている(もちろん大群衆の出る芝居もあるが、このような都心商業劇場向け作品は、という意味である)中で書かれているので、よほど上演台本で地元向きに手を入れないと客は退屈する。今回は休憩10分入りで2時間35分。長い。テキストはここでやるなら、医師の方は三人位に絞ってはっきりキャラクター劇にしないと持たない。芸術監督は翻訳が多い人で、原作者に遠慮もあるだろうが、ここで、小劇場向きの新しい翻訳の在り方をやってみるというなら面白い路線だが、役者も贅沢が言えない中で原作紹介の路線は早めに考え直した方がいいように思う。確かに、イギリスやブロードウエイの周辺には日本未上演の素敵な客受けのいい戯曲がゴロゴロ放置されているが、日本の商業演劇が、向こうで当たったものを選びに選んで翻訳上演しているのには理由がある。(日本の客はなかなか当てさせてくれない)からで、芝居が良く出来ている、という単純な文人趣味の観点では劇場の興業はモタない。
付随して言うと、この劇場は劇場というより「スペース」である。道具の出し入れ、音響照明の装置、俳優の控室、客の対応窓口などとても劇場並みとは見えない。それは商業劇場だと商売だからいつの間にかそれらしくなってくるが、公共劇場のなかには、いつまでたっても劇場として機能していかないスペース止まりの劇場もどきはたくさんある。市の担当課にはかなりの覚悟と勉強がいる。外注するなら杉並区の様に丸投げの覚悟も必要である(高円寺はそれなりに成功した)
調布は都内から見に行くにも近い割にかなり不便で、現に、吉祥寺と三鷹でも一駅でもかなり差がつく。仙川では三鷹よりよりもさらに苦戦しそうだ。
調布市民と言ってもどう東京都民と違うのか、市役所職員も問われても困るだろうが、演劇を見るという行為については全然違うと思ったほうがいい。市場調査をきちんとやり直し、それにふさわしいスペースを設計することが勝負どころである。(もっとも、固定客だけを固めてしまうという方法もあるかもしれないが、ここからあまり遠くない民藝の稽古場劇場には客は足が向かない。公共劇場の「演劇」の苦しいところでもある)
今回の芝居の選択も、啓蒙的、良心的かもしれないが、演劇のフツーの客(野田流に言えば)から見れば古めかしい過去の巨匠の作品である。ショーはイギリスでは一時、司馬遼太郎並みの一国を代表する名声知名度とはいえ、作品の中身は、現在の医学や、医者の社会的地位がかつてのイギリスとは全く違っているから、今の調布市の舞台から、まるでつかめない。多分ウエストエンドでは爆笑のところがウンともスンともいわない。それは社会の違いだからいかんともしがたい。そこを見抜くのも芸術監督の仕事の大事なところである。現に世間知らずの芸術監督の失敗の具体的例がそこここにある。
芝居の中身については、俳優陣で若い芸術家のコンビ(石川湖太朗 大井川皐月)が役をよくこなしていてなかなか良かった。本も後半は今に通じるところがあり芝居の組みの良さも効果を上げているが、前半の爵位がらみの話は思い切って整理しないとテレビで「ドクターX]を見慣れている客には勝てそうもない。
ガード下のオイディプス
フライングシアター自由劇場
すみだパークシアター倉(東京都)
2024/10/18 (金) ~ 2024/10/28 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
オイディプスを主役にするギリシャ悲劇群は、ずいぶん乱暴な親子関係が王の政権の変遷に織り込まれていて、現代人にはついていけない話と感じる。神話的寓話としては、いや、教養としては‥などというあさましい見方についなってしまう。
この串田和美のオイディプスは、今までのギリシャ劇とは全く違うタッチで「ガード下の」などと言いながら、主筋の話を原作に取っていながら陽気で寛容、六本木時代〈ほぼ60年前〉の自由劇場のような舞台を繰り広げる。
劇場のすみだ倉も当時の自由劇場のガラス店の倉庫というのに近く、劇場に入るとステージ中央に引かれた黒中幕ホリゾントも明けてあって道具の置かれた舞台裏まで見通せる。舞台の下手壁には、もう58年前になるという自由劇場初演の「イスメネ」(オイディプスのの妹を主役にした作品)のポスター、上手にこの公演のポスター。今見てもコカ・コーラの瓶を中心に置いたイスミネのポスターは古びていないし、現ポスターは宇野亜喜紀良である。串田和美らしい音楽劇の構成になっていて、音楽はDr.kyOn.。演奏するコンボが下手に乗っていて、ブレヒト劇風に進行に応じて演奏合唱する。これで「悲劇」性はかなり「寓話」風になって、人間運命の悲劇が、運命は避けがたし、笑ってしまって生きていこうぜ、の喜劇性に転化された。
いかにも串田和美らしく、かつての60年代の反逆精神は今も生き生きと息づいている。かつてテントに媚びなかったように、今風抽象舞台でもない。突っ張っているわけでもない。
時代を体現しているような近接ジャンルの才人とのコラボを忘れないのも変わらない。今回はDr.kyOn.の音楽が効いた。他には自由劇場からコクーンにかけて一緒に仕事をした古い仲間や新人が加わってぃる。松本から東京に戻ってまだ二年目だから俳優は、親子(串田和美。十二夜)以外は自由劇場時代からの大森博史をのぞけばゲスト出演だが、王妃の大空ゆうひ、若い山野康弘、体躯で圧倒する体操出身の大野明香音など、結構しっかり個性的で今後の劇団活動が楽しめそう。
問題は入りで、倉は大きい小屋だが、ここで8割弱。夜公演だったが30-40歳代の女性が軸。若者が来るようにというのは、酷な注文だがそこに応えてこその串田和美だ。
先日見た松本修も右顧左眄していない。この年代なかなかしぶとい。岩松了、北村想、川村毅、がんばれ。あなた方の健闘が日本の新劇を支える。
さようなら、シュルツ先生
MODE
座・高円寺1(東京都)
2024/10/18 (金) ~ 2024/10/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久しぶり!!松本修である。地方から戻ってきたと聞くが、全く昔日の輝きを失っていない。
カフカの連作は確かに代表作だろうが、柳美里の本でやった「魚の祭」とか「プラトーノフ」とか記憶に残っている。スタイリッシュに耽美的にまとめられた舞台、個の俳優と全体の舞台が巧みに演出されている。カフカ連作では、KERAに先行して独自の世界を作り上げた。対談してお互いのリスペクトもあって切磋琢磨いい舞台を見せてくれた。ちょっと助平ったらしいところも両者似ていて好敵手だった。
その松本修の帰郷第一作はカフカ系のポーランド作家の作品コラージュで、手法はカフカのときと同じである。まず小手調べというところかもしれないが、かつてのMODEの俳優も参加しているがほとんどが新しい顔ぶれのMODEである。
さすが!と思うのはこのあまり知らないModeの俳優たちが、動きの細かい松本演出をこなしていて、ほとんど破綻がなかったことが第一。これだけ形で見せるシーンが多いと、技術も重要で、うまい若い俳優たちが多かった。音楽の使い方もうまいものだが、(かつてはレコード音楽編集だった)今回は音源が苦しい。
肝心の作品。ブルーのシュルツの作品からのコラージュだが、この作者ほとんど知らなかった。カフカの後継の作者のようだが、その世界はかなり甘い。大筋は現代社会でははみ出して生きた男とその家族をめぐる一種の現世逃走譚で、舞台を見ていれば、懐かしい風景と見とれてしまうが、内容的にはかなり物足りない。せっかくカフカなどという世紀の大物も食ってきた松本修なら、せめて、カズオイシグロくらいは食ってほしいところだ。
まだここ通ってない
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2024/10/18 (金) ~ 2024/10/20 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
公共劇場らしい有意義な試みである。
演劇は、そのアートの原型として他の領域との交流がさけられないものであるが、このイベントのように、科学と身体表現(ここではダンス)の交流の場を、考察し、実施してみたのはなじめてのことではないか。確かに「まだここ通っていない」領域である。
科学の方では、「AIなどの人工意思の表現」、演劇の方からは、「言語(戯曲)に束縛されてきた表現からの脱皮。この一つの成果として最近のダンス」。この二つのものを交流させてみる。
科学者としては東大の物理学の教授・池上高志の発想、演劇側ではコンテンポラリーで実績のある山田うん。もちろん、先端領域の人々の考えは一般観客の一人である私などには雲をつかむような話で、まずとっかかりがまるでない。かなり客は入っていて、ほぼ客席は埋まって、130名ほどだが、関係者を除いて、このイベントの意図を開演前に把握していた人は多くないし、私の解釈にも誤解があるに違いない。
そこをこのイベントはかなりうまくやった。そこは五つ星である。
まず、開演前に池上高志教授が出てきて、黒板を前に解説をやる。5分ほど、心得ておいてもらいたいことが三つある、とか言って内容を紹介する。ドローンを使っているから、劇場内電波が弱いので、頭上に落ちるかもしれないが心配ない、などというのは誰にでもわかるが、AIの基礎的な科学が、どう装置に使ってあるか、という初歩的ブリーフィングもあるが、ここでもう、私などはわからない。わかるのは、舞台に二十株ほど、ススキがたっているが、これは仙石原の薄の原で薄が風になびく動きが、どう制御されるのか、やってみたものだ、という解説。ふーん、と聞いてはみるもの、よくわからない。
舞台の後方には上手にドローンなどを操作する技術者。下手に電子楽器、演奏者一人と池上教授。あとでわかったが、この楽器の演奏者がなんと!高橋悠治ではないか。パンフレットを見てびっくり、専門家は知っていただろうが、素人は帰国していたとも知らなかった。まったく昔と変わらぬ前衛音楽の演奏である。
始まった舞台は、コンテンポラリーダンスで、身体がいい男女五人のよく訓練されているダンサーたちと、最初に床に置かれた三十もあろうかというドローンの光体との共演になる。前説通り、いくつかのドローンは床に落ちる。
ストーリーもあるのだろうがそこはよくわからない。後半になると、薄の原もなるほど、ということにはなるが、言葉で説明されるわけではない。結局、制御されていたと見えた薄の原は暴風の後のように乱雑に荒らされて終わる。
このイベントのいいところはここから40分である。
演技終了後ただちにトークになる。芸術監督の長塚圭史が聞き手になって、池上高志と、簡単に言えば、解説が始まる。ここで、長塚のきき方が実にうまい。よくこういう機会だと、芸術監督は創作側に回って、観客を忘れてしまっていい格好をするだけになるものだが、観客が疑問に思うことを、巧みに掬い上げてひとつづつ、わかりやすい言葉にしていく。
現代のアートのテーマは人間の記憶にあるのだが、それを演劇にどうすれば引き出せるか、、あるいは表現できるか、その時現在の科学の力をどのように借りる可能性があるのか、人間の記憶そのものの科学的、時間的構造、など素人にもわかりやすく解説されていく。
二時間足らずのイベントではよく呑み込めないが、かつてのように、ダンスの身振りの解説を聞いたり、科学との共存と称して、ドローン人形と共演したりした子供じみた理解とは全く違う演劇と科学への現状認識を新たにできた。
阿佐スパの初期、やんちゃ坊主だった長塚もよく周囲の見える芸術監督が務まるようになったと感慨無量だが、本人も、そういえば、このテーマにつながる舞台「老いと建築」(2021)をやったことがあるし、今年はKERAも別の形で「江戸時代の思い出」という舞台を作っている。時宜を得た「記憶」をテーマに、公共劇場らしい取り組みが評価されるところだ。
THE STUBBORNS
THE ROB CARLTON
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2024/10/04 (金) ~ 2024/10/14 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
登場人物三人の演芸に近いコントコメディである。男二人、女一人の仕事中の休憩室のような場所のワン・シチュエーションだが、面白さを、各人の言葉、話の取り違えだけの笑いを種にしているので、話が弾まない。関西ものらしい破天荒さもなく、なんとなくいじましい。会話が全部台詞に書いてあるところや、ストーリーがあることから演劇としているのだろうが、これはやはり演芸だろう。台詞も、全員外国人でヘンな日本語や所作で話すというあたりも、しらける。素直に笑えないのである。三鷹の星のホールの若い劇団を上演させる試みは00年代には生きの良い面白い劇団がここから続々と現われてきたものだが、それも10年近く前のiakuあたりを最後に、ここのところ面白い劇団に出合わない。若者の方もこの場所に魅力を感じなくなったのかも知れない。今日の開場は三割30人ほどの入り、この観客では、こういう笑うだけが狙いの作品にはきつかったかも知れない。だが、そこへ行く前に、登場人物やシチュエーションの設定などが安易すぎることも主催者は指摘してあげないとこういう試みは役に立たない。
広い世界のほとりに
劇団昴
あうるすぽっと(東京都)
2024/10/02 (水) ~ 2024/10/06 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
近代劇以降、どこの国にも「家庭劇(家族劇)」の伝統はある。ことにイギリスには、テレンス・ラティガンを始め、よく上演されるこのジャンルの劇がいくつもあり、その幾つかは我が国でも翻訳上演されてきた。今月も俳優座で上演された「夜の来訪者」(プリーストリー)もミステリ劇だが、家庭を舞台にしている。この作品は今世紀になって発表され、しかも初演はドイツと言うから、前世紀とは事情は違うあろうがやはりお国なまりは抜けない。紛れもないイギリスらしい芝居である。
物語は格別事々しいことはなく、工業都市のマンチェスター近郊の三世代が身を寄せて住む家族の変転である。冒頭、末の孫世代ののむすめが交通事故で死んだところから始まるが、このような事件は以後起きず、祖父にはがんが見つかり、父母は過ぎ去った青春に果たせない焦燥感を持ち、青春期の孫ははじめて女友達と、旅行を試みて親と対立し、それを包むように父の左官工の職場の一コマが描かれ、交通事故を起こした加害者は陳謝に訪れ、男たちは祖父、父、孫それぞれに不器用に会話をし、女たちはお互いにどこかにわだかまりを持ちながらともに暮らす。それは今までにも見た家庭劇の再現でもあるようだし、先世紀の家庭劇にはなかった情景でもある。
日本で東京が遠いようにイギリスでもロンドンは遠いところに暮らす人々は多い。しかし僅かながらでも時代の風景は動く。
今は現代だけの人と事件の情景から出来ている舞台も翻訳劇でたくさん見ることが出来るが、この辺がイギリスの市民社会の平準的な風景なのだろう。日本で言えば、横山拓也の作品と言ったところだ。
今回は俳優座の真鍋卓嗣の演出で、翻訳はこのところ小洒落た作品をこなす若手の広田敦郎。台本作りも上手く、テンポも良い演出で二幕ほぼ三時間(休憩10分)の長丁場である。翻訳劇には慣れた昴のベテランから新人まで舞台面にソツはないが、台詞の音量が揃っていない。一部の俳優の台詞は劇場(あうるすぽっと)の中段までも届いていない。現代語で早くなると母音の芯がしっかり出来ていないから訳がわからない。俳優座は劇場があったから、ここで俳優座の俳優は訓練される。昴では大山の小劇場で台詞が通ったからと安心したのが裏目に出て、俳優座劇場クラスのあうるすぽっとでは、10段目の周囲の客はついていけずお休みの方も少なくない。人間関係が結構複雑な展開だから、ここはもっと気遣いが必要だろう。
開いてから日はたっていないが、招待客も多く実態は半分の入り。折角大きめの劇場を抑えたのに残念な入りだった。
灯に佇む
加藤健一事務所
紀伊國屋ホール(東京都)
2024/10/03 (木) ~ 2024/10/13 (日)公演終了
実演鑑賞
カトケンはいい役者である。役を芝居らしい表現で見せる力量がある。喜劇も悲劇も出来る。舞台を仕事の中心においてブレない。芝居の好みにこだわる。個人事務所で自ら役を選ぶ。結果、いまもなおその居場所が決まっていない。珍しい俳優である。
加藤健一事務所は年に二三本の主演公演をやって40年になるという。その初期に「寿歌」(81)を見たのも、この紀伊國屋ホールだった。小劇場の一つのあり方を実践してきた。再演も多いが、公演していると、たまに見たくなる。
今回は創作劇である。医療の現場の問題を扱った「新劇」である。カトケンは地域に生きる老開業医である。次々の難題は降りかかるが、地方の開業医には自分の医師としてのささやかな志も生かせる環境がない。かつては手近なところにあった医師と地域の関係も今は遠い。こういう役に時代の未来を重ねなければならないところにも、日本の疲弊した現状が見える。
観客層は民藝に近く、昼公演が断然多くなったが、それでも七割の入りだ。出演メンバーも顔ぶれの幅が狭くなっている。今回は占部房子が初参加ではないだろうか。そこに僅かに新しい風が吹く。
セチュアンの善人
劇団俳優座
俳優座劇場(東京都)
2024/09/20 (金) ~ 2024/09/28 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
俳優座劇場で何度も見たあの俳優座のブレヒトである、
市原悦子も栗原小巻も、その年の演劇界の芸術的成果の代表作としてみた。シーンごとに天井から降りてくる大きなプラカードに示される活字体の説明に従ってのその場を客観的に見る、観客は、舞台に感情移入させて見てはならぬ、とか、音楽はジンタのようなものが良いのだ、とかさまざまにブレヒト劇の見方を学習したものだが、どこか腑に落ちない。当時、映画、テレビでもおなじみだった俳優座の名優たちの演技はお見事でもあったが、落ち着いてみれば展開する物語はよくできた寓話で、そんな大げさなものでもない。
当時ポスト「新劇黄金時代」の旗手として上演されたのがブレヒト戯曲には不幸だったようで、やがて、反新劇の唐十郎から、つかこうへいの登場に至ってブレヒト神話は粉砕されてしばらくは、お茶を引くことになった。それから50年。世紀が変わる。
時代は変わって、劇場の最後の上演として「セチュアン」を見ることになろうとは!
しかもその上演は過去の上演とは全く違う。物語の主なスジは原作のものだが、一人二役の資本主義そのものの主演者のシエン・タ(森山知寬)は、女優ではなく男優になり、シーンごとにプラカードで示された場面は、ホリゾントを大きな半円で囲むすだれのカーテンの内側の丸い場面一つになった。物語も後半は大きく変えられているが、ほぼ、3時間ちょっとの長丁場を何曲か歌入りで10分の休憩だけ一気呵成につないでいく。(かつての上演よりは30分は短くなっていると思うがそれでも長い)。テキストは現代風で、昔の上演を思わせるものは何もないが、演劇は時代と共に生きる。そういうものだ。
かつて、劇団任せだった新人演劇人養成を新しく担うことになった桐朋学園とは提携していて優秀な学生は俳優座がスカウトして華々しくデビューしたものだ(多くの名優を生んだ、その功績は大きい)。ラストステージでも、今年卒業の学生たちが大挙出演している。現在の俳優座のベテランに混じって水売りの女(渡辺咲和)や神様のひとり(今野まい)のような重要な役にも出演していて、これが初々しくてなかなか良い。役の登場人物18名に俳優座のベテラン。そこに桐朋学園の学生が20名。演出は劇団の若手俳優でもあり演出家でもある田中壮太郎。さまざまなクレジットのついた大公演である。
で、どうだったのか。
観客も又変わる、舞台も変わる。こういう名作を日本初演から見ているものにとっては感無量としか言いようがない。最近ブレヒトがちょくちょく再演されるようになった。解らぬでもない。話が東映のヤクザ映画みたいに単純に面白く出来ているのだ。
戦時中をヨーロッパからアメリカへ、戦後冷戦下を東西両陣営で生き抜いたブレヒトはやはりただ者ではない。
『ミネムラさん』
劇壇ガルバ
新宿シアタートップス(東京都)
2024/09/13 (金) ~ 2024/09/23 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
劇壇ガルバは山崎一が主宰する個人劇団で面白いプロデュースをする。集まった者の賛同さえ得られれば、何をやってもいいと言う自由さがある。主演者は峯村リエで、彼女を当てて三人の作者が短編を書く。当て書きをする。できあがった三編の短編は細川洋平「フメイの家」、笠木泉「世界一周サークルゲーム」、山崎元晴「眠い」。できあがったところで、三編を混ぜ合わせて(並べてではない)一本の作品をつくる。まとめ役は演出の文学座の西本由香(気がつけば今週は文学座女性演出家の三連投だ!)が一本にする。普通考えれば、こういう企画は大方の作者は嫌がる。上手くいくはずがないし、結局後味の悪いことになる。そこをよってたかって面白がりながら一本にしてしまったところがこの珍しい企画の手柄である。作者でもなく制作者でもない山崎一にしか出来ない芸である。
テーマは「女性」で峯村リエに当てたわけではない(ことはないだろうが)が、演者が峯村リエになったので、ついでに?タイトルも「峯村さん」にした??ホントかどうかは解らないがパンフレットを読めばそういうことだ。現実に俳優としては、正体不明な魅力のある峯村リエがそういう芝居の主役を演じるところも良い。
作者はそれぞれ一癖ある中年前期の世代の作者たちである。皆それぞれシーン作りが上手い。だが、最初から一本にしようという強い縛りはなかったようである。パンフレットを見れば、出来た後でどのようにバラバラにして、スジをつけて再構成したのか書いてある。やはり一本の作品としてはどこか、いびつな出来で、ファンタジーなのか、現代ホンネ女性ものなのか、フラつく。不条理劇の極みでもあるが、でも、こんな女いるよね、げんに峯村リエが演じると結構魅力的でもある。こうして「誰かであり、誰でもない」峯村さんができあがった。演出者はこのドラマは「不在」がテーマだと難しいことを言う。そういえば、最初、峯村さん宛に書かれ、郵便で送られた手紙は「宛先フメイ」で届かない。
舞台の半ばを過ぎたあたりで、突然30年ほど時間が飛ぶ。ここが良い。このドラマに実際の時間がはいったことで、現実は過去と今のとの交差点であり、そこにしか人間は存在できないことを示すことが出来た。そこでミネムラさんが実在する、このあたりから、彼女の半生を彩ったさまざまな人々との過去は精彩を持ってロンド(輪舞)して現代のドラマになった。愉快な一夜のユニークなエンタテイメントでもあった。
リビングルームのメタモルフォーシス
Precog
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2024/09/20 (金) ~ 2024/09/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
チェルフィッチュはだんだん難しくなって、「三月の五日間」のようなパンチの効いた平明さがなくなった。しかし、不思議なことに、難しくなっても、最後には、フーンこういうことか、と納得させられてしまう。今回の物語は家主から突然退居を迫られた借家人のリビングルームから始まる。借主は借家人の方に法的権利はあると主張して家主をやり込める。ここまで第一部、だがその見晴らしのいい岡の上にある借家の部屋の空気はなんだか知らないがすこしづつ変わっていく。(第二部)どうやら、ここには穴が開いていて、ここの空気は少しづつ抜けていくようだ。こうしてリビングルームはメタモルフォーゼ(変態)する。
結果、整理整頓されたモダンリビングは、怪獣めいたかぶり物が跋扈するガラクタ家具の置き場のようになってしまう(第三部)。作者演出家・岡田利規の劇場パンフによれば「フィクションを帯びた身体を媒介にして、空間にフィクショナルな変容を施してみる」と言うことになり、その空間を音楽が注ぎ込まれる容器にすることで、新しい音楽劇にした、と言うことになる。
変貌していくリビングルームが下手奥にあり上手は何もない空間。その前面に室内楽演奏の楽員(V2.Vla Cello。Fg. Cl。Tuba.Pf>が横に並び演奏が続く。観客は楽員越しに舞台度芝居を見ることになるが、東芸のイーストではあまり煩わしくはない。音楽は俳優(役も含めて)の内面の感情と結びつく者ではなく、俳優によって生み出された空間と結びつく。いまある一般的なミュージカルから見れば「根本的新しい音楽劇」である。要するに一そこにあるスジや役者の感情で見ないで、チェルフィッチュが作り出したここにある空間の感情を読み取ってくれ、と言うわけであるが。さらに解りよく言えば、気候温暖化時代の地球環境とか、都市空間とかの問題を、文化ツールである演劇や音楽の舞台を通してみるとこうなる、どう?という世界の出来事の一つである。それは「わたしの世界の出来事・宇宙の事象を捉える際の人間的・人間中心的な態度に態度の変容を施したい」という理由からくるもので、これからも「その努力をコツコツ積み重ねたい」という。次も見たくなるではないか。
西ドイツでの招聘制作。90分。休憩なし。場内シーンとして名演奏家名演を拝聴する感じ。そんなに堅くならなくても良いのに。もちろん満席である。もちろん、つまらなくはない。
『ミネムラさん』
劇壇ガルバ
新宿シアタートップス(東京都)
2024/09/13 (金) ~ 2024/09/23 (月)公演終了
三人吉三廓初買
木ノ下歌舞伎
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2024/09/15 (日) ~ 2024/09/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「三人吉三」と言えば、あの名台詞。「月も朧に白魚の、篝もかすむ春の宵、・・」。
節分の夜、大川端で百両の金包みを手に入れた小悪党がしめしめと「こいつは春から縁起がいいわえ」。駘蕩とした江戸の雰囲気。
大歌舞伎でいまもよく上演されるから、少し歌舞伎を見たものなら一度は見たことがある。良い気分で歌舞伎見物に酔える舞台だが、これを木ノ下歌舞伎上演するという。実はコロナの初期(確か20年6月)に同じ劇場で公演されることが予告されていて、既に関西での上演では賞をえていたから大いに期待して心待ちにしていた。五年待たされて、念願の上演である。
今回は、役者も川平慈英や緒川たまきや、テレビでも顔の知れた俳優もキャストして、音楽も解説的なラップもはいっている。幕見もあれば、オリジナルお土産もロビーで売っている。だが、客席は薄い。一階席は8割、上の階は空席が目立った。
幾つかポイントを絞ると、1)木ノ下歌舞伎が大劇場で上演される(東京で)ことは少ない。大歌舞伎の観客もかなりいる。彼らはスタンでイングオベーションになれていない。(つまり、木ノ下歌舞伎の見方を知らない)
2)黙阿弥の原作が非常に長い。今回の上演でも藝ナカ、五時間。原作通り(は初演以来やっていないが)間違いなく10時間をかなり超える。3)非常に入り組んだ百両と、盗まれた名刀を廻る小悪党と彼らを取り巻く市民の因果話に現代の観客がついてくるか。そこにどのような現代人を打つリアルがあるか。
木ノ下歌舞伎のこれまでの活動を評価することにはやぶさかではない。正直上手くいったものもあるし、残念というのもある。今回も、力が入っているだけに甲論乙駁、これから賑やかなことだろうと思う。言い始めれば長くなる。
「見てきた」見物批評で言えば、今回はいつものゆとりが乏しかった。「櫻姫」で試みた大向こうのかけ声を入れてみるのはどうだろうか。これは卓抜なアイデアだと思ったが、今回の、大劇場の冷え切った客席に役者が空転しているのを見ると、役立つのではないかと思った。見物的には、物語のテキストレジはこうするしかないだろうけど、各幕で空気をガラリと変えた方が(スジの柱も変えているのだから)見やすいのではないか。三幕の丁子屋長屋のカット代わりのようなスジの運びの処理はいかがか。と思った。
円盤に乗る派 『仮想的な失調』
東京芸術祭
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2024/09/19 (木) ~ 2024/09/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
始めて見る舞台に予習をしていかない観客も失礼とは思うが、上演側はあまり予習を望んでもいないらしく、劇場ビラには小さい字で短く能の原作のあらすじが数行印刷されているだけである。無愛想な劇場ビラを見ていると、隅っこに「幽霊、自我の喪失、顔の見えない誰かの欲望・・すべてが仮想的な時代における、物語の失調」と上演意図のようなコピーが刷られていた。
能狂言や歌舞伎の現代化上演ではその意味や手法が舞台でも、パンフレットでも概ね詳しく解説されるのが普通なのだが、何という簡素さ。時間になると、溶暗して舞台は始まる。謡や囃子はなく、よく選択されてはいるが日常の衣装と、日常会話の台詞で物語が進む。BGMにはよくわからないが電子楽器のリズムが反復して流れている。ほぼ何もないような舞台に俳優が登場して90分ほどの上演時間の前半は「名取川」による作品、休憩10分後の後半は「船弁慶」の現代ドラマとしての上演である。こちらは予習していないから仔細は解らないが、名取川は、旅に出る兄弟を送る宴会を開いて別れを惜しんだ、と言う話、船弁慶は女性関係がこじれたまま、関係者がドライブした、と言う話らしい。後半の船弁慶にはベニヤ板にヘッドランプをつけただけの乗用車も登場し、そこでの道行きもある。何しろ、名取川では旅に残していく飼い犬が本役で人間のママ、犬として演じ、抱擁もすれば、大詰めはその犬の別れを惜しむ踊り(と言っても、犬だから単純な振付を繰り返すだけなのだが)で心を許した主人を送り出すし、「船弁慶」では雨の中のドライブの途中で恨みを持つ知盛が、薄暗い舞台の隅にレインコート姿の女性として観客に背を向けて現われることになる。
全体に、非常にスタイリッシュでよく整理されていて、見る方も見るコツを飲み込めば、面白く見られると思う。事実、解らないながらも結構飽きずに見た。
この舞台からは、今までの古典の舞台からは読み解けなかった感情が伝わってきたからである。犬が踊ったり、何やら解らぬものが立っているだけで、伝わってきたた感情は民族が古典芸能に込めた日常の心情をそのままナマっぽくすくい取った言葉にしにくい感情だったのである。普通、現代人が古典作品を見て、冗長と感じたり、どうでも良いスジとして眠ってしまう部分にその感情表現は隠れていて、この公演はその部分を解りやすく現代化して見せてくれたわけだ。たぶん。
そこは、古典作品を現代風に説明する現代化とは違う素直な良さがあった。
劇場の帰途、ふと、コロナ禍のさなかで急死して、弔いにも行けなかった若い仕事仲間のことを思い出した。それはいまの時期がお彼岸だったと言うことばかりではない。
例年開催される池袋の東京芸術祭の一環で本拠となる東京芸術劇場の地下の劇場での上演で、若者も多く男女取り混ぜほぼ満席だった。祭りのイベントとしては上演後「感想会」も開かれる由だが、これは感想を共有すればいいというる舞台ではないだろう。むしろ、感想会で解ったような気になるのを戒めてもいる。しかし、共有しないと落ち着かないというのも現代病は蔓延していて、それを作者は「失調」と言っている。
『A Number―数』『What If If Only―もしも もしせめて』
Bunkamura
世田谷パブリックシアター(東京都)
2024/09/10 (火) ~ 2024/09/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
SFは最も芝居にしにくい領域ではないだろうか。ファンタジーと違って、サイエンスだからどこかで現実とつながっていないと、只の絵空事になってしまう。イギリスの人気劇作家のSF短編二編。二本合わせて、藝ナカ2時間もないのに、11000円の席はもちろん三階席まで売れて世田谷三、四十代夫人を主に満席。小説の方は特に売れるベストセラー以外のSFは売れ行き不振というのに、こひらはチケット争奪戦である。
最初が、「What if it only(もしも もしせめて)」で25分。時間未来もので、一人の男(大東駿介)が、どうなるか解らぬ未来に出会ってみる、という話。突然予想もしないドアの陰から異形の人物が現われたり、天井から老人が現われたり、理詰めではない(いや、あるのだろうが解らない)世界を幻のように体験する。次の「A Number(数)」は複製人間が可能になった世界で、息子(瀬戸康史)のいのちを再生した父(堤真一)が複数の息子に会うことになるが、その世界は父の意のごとくならず、という教訓めいた話である。
見どころは、マッピングを使った舞台で、この劇場の高い天井に向かって上下する四角い升のエレベーターのような舞台が設定されている。舞台は簡素な一人部屋だったり(もしも)、応接セット(数)だったりするが、劇の前後では舞台ごと、さらにアンコールでは、急速に天井に向かったり、下がったりする。そこは現実にはなにも起きていなくて、マッピングによって観客は映像を見ているだけなのだろうが、この舞台の内容には非常に上手くマッチしている。後で考えれば、だからどうと言うことはない、と言うところも洒落ていると言えば洒落ているのだが、SF作品にありがちの狐につままれたような感じがよくできていた。
役者は人気者揃いで皆神妙に務めてはいるし、客もみなさんご満足のようだけど、これで11000円?良いんですか?
失敗の研究―ノモンハン1939
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2024/09/13 (金) ~ 2024/09/23 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
ノモンハン事件は戦後も長く一般的に知られることが少なかった事件で、そういえば、報道されたのは70年代だったか、と思いだした。その後、史実が明らかになってみると、事件は、中国北西部の砂漠で39年に起きた日ロの衝突で、ここで、日本陸軍は初めて装甲陸軍の威力から大陸戦争の難しさを知り、以後、陸軍は手薄の東南アジアに進出、難しいところは海軍任せでもっぱら内部抗争に明け暮れて、上層部全員が43年には負けると承知してからも二年間、国民はほっておかれ、大きな市民の犠牲を出したあげく敗戦を迎える。という日本現代史は概ね日本人は誰でも経験し、若い人も知ってはいる。しかし、この事件が、テストケースになり、関係軍参謀らは口を拭って終戦まで無事な戦線を廻ったと言うことはあまり知られていない。そのあたりのリアルな歴史事実のスジ売りの復習が第1幕1時間半で、ここは、どうと言うことはない。古川健らしくなってくるのは2幕からである。
物語の枠取りが70年代の発掘記事掲載する雑誌編集部にとられていて、始めての女性記者の登場と、事件の日本的構造は今の時代にも伝わっていることを巧みにつなげている。
この芝居に主演の女性編集者(藤井美恵子)が「男性は戦争の話になると生き生きする」という台詞があって、古川健らしい上手い台詞だと思ったが、ジェンダーをからめて今の時代の戦争にまでふれているところがさすがだ。最後の、日本が戦後80年、先進国やG20も含めて唯一銃を取っていないことも指摘していて、こういうところはするどく的をえている。
このドラマが描いた事態への批評はとてもこの場や、一夜の芝居見物で果たせるものではないが、それでも、こういう無謀な歴史の事実を思い出すことには大きな意義がある。例えば、昭和二十年代に高市早苗が今と同じ意見を言えば殺されかねない国民の怒りの対象になっただろう、そういう民族の底辺の記憶にまで達しているところが古川健らしさである。
この舞台の良いところは一点ここだけで、スタッフ・キャストも手を抜いたわけではなく全力を尽くしたのだろうが、全般には情報を伝えるのに忙しく、チョコレートケーキの終戦シリーズのような現代劇としての成熟に乏しかったのはやむを得ない。この劇団としては
大きめのサザンシアターだがやはり客席は薄い。失敗の研究、というのはなかなか出来ないものではあるが、60年も続いたという劇団ならでは、と言うところもあって欲しい。今回は古川健を、とにもかくにも連れてきて、ノモンハンを話題にしたたことを評価する。
石を洗う
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2024/09/07 (土) ~ 2024/09/19 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
いわゆる「朗読劇」を文学座らしく、演劇的にやってみると、こうなるという企画である。悪態をつけば、手間暇かけず、手軽に稼げて、役者は台本は覚えなくてもいい,朗読会はコロナは以後はかなり流行ったが、世間が落着くと減っていった。しかし、朗読的な演出で、さらに演劇的リアルをもと深めることが出来るのではないか、という考えにも一理ある。ことに文芸の作家は、舞台的な感情表現は安っぽいと思い、地の文に拘泥する作家も少なくはない。舞台化、朗読上演を、映画化、テレビ化と同様に捉えられているが、そこは違う。
朗読をあまり深く考えにずに俳優の簡便な顔見せとして興行した劇団も少ないが、さすが文革座、この公演はかなり考えた上で舞台に乗せている。
主な登場人物はそれぞれ配役する。
俳優は、配役された役をシーンで演じるだけでなく、本人の動きも、客観的記述の地の文も読む。演じると読むという二つの役割を果たす。
シーンを設定する舞台は,それぞれ簡単な大小の道具で抽象的に示される。例えば、満員電車に乗っている登場人物はつり革だけを手に揺れるし、周囲の人物は半透明の白いビニールのレインコートをかぶって、中の一人は地の文を読む、というような趣向である。驚くような仕掛けはなく、物語も人物たちもベタ日常的で平凡である。
戯曲は地方作家の新作による過疎部落人間模様で、前半の1時間半は,その村から都会に出て定年寸前になっている男の都会生活。ほぼ同じ長さの後半は、ムラが主舞台で、ムラ出身になりすました青年が現われたり、人が逝き、過疎が進むムラの日々。どこかで聞いたような話ばかりだが、実際に俳優が役を演じ、地の文の解説も行届き、邪魔ないならないどころが、良い感じで語られると,こういう舞台にはすれっからしのアトリエの客も3分の1くらいはウルウルしている。
都会の路地裏に登場する白い野良犬はスチールの映像でスクリーンに出る。この辺は幻灯劇のような使い方である。舞台は不器用を装って、非常に上手く企まれているのである。まぁ、死せる王女のパヴァーヌが出てきたりするところが唯一、文学座の衒学的なところが鎧の下からのぞいたというところか。
この朗読のスタイル、もう確立している朗読劇業者の声優作品とは別の演劇的可能性も残されているように思う。文学座は言葉の技術が出来ているから、どこの劇団でもやれるわけではないが。
演出。五戸真理恵。
寿歌二曲
理性的な変人たち
北千住BUoY(東京都)
2024/09/12 (木) ~ 2024/09/17 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
核戦争後の荒野を、世界の事情はお構いなしに、ふざけた名前の三人の旅芸人が馬鹿げた会話を交わしながら旅していく。このとりとめもないシチュエーション・ドラマには、不幸にも「不条理劇」と訳されてしまったabusurdな劇と言う言葉が、ぴったりと似合う。
「寿歌」は誰もが認める20世紀後半の日本演劇を代表する不条理劇の傑作である。北村想は、「ゴドーを待ちながら」を社会劇にもして見せた。以来、四十年余「寿歌」はさまざまな演劇人によってそれぞれのスタイルで広く演じられてきた。
現代の「変人たち」はどう演じるだろうか? 次代を担う期待の演出家の一人・生田みゆきの率いる「理性的な変人たち」の上演は「寿歌・二曲」と題して四作ある北村想の「寿歌シリーズ」から二作をカップリング。舞台は北千住から線路沿いのゴミゴミした住宅街を抜けた先にある雑居ビルの地下。今は放置されて廃墟さながらのかつては公衆浴場だった場所での上演である。
「寿唄二曲」は、核戦争前を舞台にした「寿歌Ⅱ」が第1幕(80分)、最初に書かれた核戦争後の「寿歌」が第2幕(65分)。休憩が15分。天井の低い地下に、建築業者が使う現場用のパイプを椅子を五列に並べて約百席。専門家に芝居亡者が帝都の北の外れに集まって満席である。
まぁ、好き嫌い(原作を含め)は別としても、今までに見たことのない「寿唄」であった。
いずれ、いろいろな場で、この上演は論じられると思うので駄弁を重ねるのは止めるが、感心したところを二つ。残念なところを一つ。
「寿歌」は基本的には台詞劇で書かれている。台詞は、理性的だからどうしても事態を限定的に表現してしまう。今回は原作を随分改変しているが、台詞を重要なところは外さず(そこは、ホントに感心した)歌舞演芸化した。今までもこの線を試みた舞台もあったように記憶しているが、これほど徹底的にやったことはないだろう。それで、やや古めかしくなっていた「冷戦構造期」のドラマが現代社会に蘇った。ポルノ劇までやってみせることはないだろう、と言う意見もあるだろうが,あの手、この手、が尽きない。次、このグループの芸大出の人たちが作り、演じると言う基本の座組が生きている。彼らは我々観客にとっては、別に普通の人たちになって貰わなくてもいい人たちである。勝手放題、好き放題にやって、我々を楽しませてくれればいい人たちである。そう言えるのは、個人的な体験で、芸大に学び、出ると言うことは、そんじょそこらの東大とか慶応とは全く次元が違う青春期の経験を送った人たちであることを知っているからである。彼らが破滅するならそれも勝手である。その振り幅の強さがこの舞台にもよく出ていた。舞台は手不足らしく,演出の生田みゆきが演出助手や場内案内までやっていた。芝居は。こうでなければ!!
残念なところ。演出者は作品発想はイスラエル紛争にあると言い、ジェンダー問題が論じられている折、ドラマの軸を担うゲサクの役を女性にした(滝沢花野は熱演で役割は十分果たしているが)というが、そういうことはひとまず置いておいて、これでいいとやってしまえば良い。ヘンな理屈があると(理性ある?)足を取られてヘンな風に曲がっていく。それで失敗して挫折した人の例もすくなくない。しばらくは、文学座の古老たちからは何やってんの!勝手にしやがれ!なんていわれながら、やってみるのが役どころである。
夜の来訪者
俳優座劇場
俳優座劇場(東京都)
2024/09/12 (木) ~ 2024/09/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
日本で初演は戦後の初期、それから八十年近く。その間に日本的改変を繰り返しながら、再演が続いた珍しい戯曲の再演である。観客五百前後の会場公演にふさわしい内容で、公民館的劇場の地方周りの公演にはもってこいの内容の普遍性もある。あらすじはよく知られているが、改めてみると、二時間観客を引っ張る力は今もある。しかし、さすがに首をかしげたのは次の三点。
脚本的には原作が時代設定を一つ前の時代に置いていること(1945→1912)を理由に、今回上演版は昭和15年(1940戦争直前)に時代設定している。2024→1940である。また、日本初演時の翻案をなぞって原作のイギリスの地方の工業都市の設定を、日本の地方都市に設定している(県庁所在の町という感じである)。この時代設定と舞台設定が見ているとしっくりこなくなった。1940を実感として感じられる観客はもう非常に少ないだろうし、この戦前の時期を語る人もいない。いかにも空白の時代劇である。舞台の上はそれでも良いかもしれないが現在の観客と距離が出来てしまった。
二点.原作ドラマのテーマは四民平等の責任を問う社会倫理劇である。一つ間違えば学校教育ドラマになってしまうところを、サスペンスドラマ風の謎解きドラマを絡ませてテーマを生きた社会ドラマとして見せてきた。今回は謎解きとともに、社会劇から家庭劇(個人の責任を問う)へ比重が大きく傾いた。雇用の不平等や企業の横暴、女性差別、妊娠の責任などの通俗的道具立てと、経営者家族それぞれの勝手放題に犯罪の焦点が当たってくると、謎解きはわかりやすいがヘンに安っぽい。ヤスっぽくならないようにする工夫もあまりなく、実感のない社会情勢(典型的なのは死んだ女性の転落のスジである)で物語が組まれている。
三点。なんだか舞台の上が古めかしい。スジを運ぶ演出は的確だが、俳優たちが型にはまって分かりやすい演技になってしまっている。いつもは新鮮なところが見える尾身美詞(娘)も、時代に引きずられ、瀬戸口郁(警部)も、具象か抽象かはかりかね、現代に届いていない。
この三点を見ると、思い切って、原戯曲を現代に持ってきた方が良かったのではないかと思えてくる。社会問題そのものは現代にも生きているし、人間模様も合わせやすく芝居もやりやすかったのではないだろうか。それでは、戯曲が通用しないというなら、そこが現代劇の宿命で戯曲の寿命が尽きたと言うことになるのだろう。
ヒルの公演なのに、劇場は中年の観客も多く、まるで活気のない老婆、老爺の民藝の客とも、インテリ老人の多い文学座とも違う俳優座の客層で9割は入っていた。この客が劇場がなくなったとどうなるのか考えると折角の都市文化を潰す怨嗟が残る。
あの瞳に透かされる
Pカンパニー
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2024/09/04 (水) ~ 2024/09/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
実在した表現の自由の事件を素材にした現代劇である。
戦時の従軍慰安婦の写真展を、世間に批判を畏れて大会社が中止した。会社は責任を担当取締役(内田龍磨)一人にかぶせて左遷、地方に住まわせて、ほとぼりが冷めるのを待つ。そのいきさつを嗅ぎつけた運動家グループが、むしろ謝って公開した方が大会社に取っては利益になると、二枚舌平気の弁護士(磯谷誠)を派遣してくる。会社も二重構造なら社会の倫理もダブルスタンダードなのだ。
現在の週刊誌的話題ではよくある構造で、どちら側にも現代ならではの問題構造に対して実にナサケナイとしか言いようのない正義がくっついている。
しかし、今は身近なゴミ問題から世界的なロシアの侵攻問題まで、どこにもありがちの、昔風の正邪では裁ききれない問題を舞台で観客に見せるのは難しい。問題はそれぞれ弱みも持っている。多くのことに表裏の諸条件が複雑に絡み合っている現代をどう生きるかと言うテーマはかなり面白く演劇的でもある。しかし、この舞台では残念ながら設定にぼろが出すぎた。最後に、突然、主人公が田舎のフリマで天使の人形を集める、と言うことへテーマの解決を持っていっても無理がありすぎる。主筋の写真展の中身の従軍慰安婦問題や、会社内の内部抗争、まで、さまざまな立場の人間に役割を拡げすぎて整理されていない。この作者は関西の医師出身の劇作家で、過去にも東京で見たことがあるが、このようなとっ散らかり方はしていなかった。劇団として、はじめての作家との取組み方にも混乱の原因があったように思える上演だった。客席は満席だった。