tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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完熟リチャード三世

完熟リチャード三世

柿喰う客

吉祥寺シアター(東京都)

2015/02/05 (木) ~ 2015/02/17 (火)公演終了

満足度★★★★

久々の中屋敷観劇 演出の洗練その一方
女体Sシリーズを第1弾(001)以来久々に観劇した。その間に柿喰う客公演と外部演出合せて3本ほど観た中屋敷氏演出の特色は、演劇の古典に「遊ぶ」イメージだ。知るほどに「宝庫」である演劇の世界に漬かり、コラージュしたりオマージュを込めたり、純粋にはしゃぐ演劇青年らしさが舞台に横溢。リズミカルな音楽で動きをまとめたり、お水の店員風情のキャラを多用。しかし私はそれらから「埋めてる」痕跡以上の何かが見えて来なかった。遊んでる事の恥じらいなのか元来の資質なのか、心情を深く追っかける事をせず、所詮芝居です、すみません。それでよければどうぞ。ギャグ的要素の強い細かな演出が、ある一定のテンポの中に収まり飽きないように並べられる「隙のなさ」が、どの方向を向いてなされているのかを私は見ようとするのだが、それが見えない、見せないのか、無いのか・・。原典があってそれを並べたり組合せたりも、アートとしての革新を狙ってるというより、「現代的」な会話のテンポ(「隙」を作らない意味での)を演劇で展開した、止り。つまりは私の好みではなかったという事なのだが、それでも、コラージュの才能を持つ若き演出家がその後どういう軌跡を辿るか気になり、時々見てしまう。

ネタバレBOX

さて今回。今までの印象を覆しはしないが、演出力の進歩は格段に思われた。ポイント三つ。まず何といっても選りすぐりの「女体」(容姿的バランスと技術を備えた女優。全員の取り合わせも含めて)、簡潔でテンポ感ある台詞(訳にも多々遊びがあった)、華麗な照明(+装置)。役者のほうは台詞の一本調子な(聞いててつらい)がなりは比較的少なく、展開はめまぐるしいが見せる所は見せる舞台となっていた。
チェス盤を模した演技エリア(3〜40㎝程上げてある)に七女優は出ずっぱりだが、狭い感じがしない。天井から低めに吊られた照明群と、左右の真横と下方からの照明、終盤で亡霊(幻想)に当てられるフロントから舞台奥へ向いた照明とによって、舞台空間の闇と光が自在に変転して美しい(近年普及してきたLEDを多用)。
女優らも黒い衣裳をまとって美しく、リチャード以外は3、4役を兼ねる。女優のみで作る「女体シェイクスピア」の宿命として、男役を兼任すると役のイメージが外見との関係で記憶に定着しない。その点を飲み込んだ上で最終的にドラマが見えて来るかどうかだが、リチャードの悪の所業の始点と終点が明確になる作りでしっかりドラマを味わった感が残った。間のやりとりは原作を知らない者にはきっちりとは入って来ないが上演1時間半の中で強調点が絞られ、そこでは役者の多様な活躍が入れ替わり立ち代わりスポットを浴びる形で、観客を楽しませる。新たな登場人物が出ると「新キャラです」と注釈が挿入されるなど、スピード感あってこその演出も。
印象深かったのは、容姿醜き主人公リチャードを歪な姿勢で表現させた演出(以前観た他のリチャードは台詞の中で醜さが語られるが外見は普通)。この「具体性」が醜さゆえの悪行という一面に説得力を持たせる。醜さによって差別されなければ、周囲の愛を浴びていれば、恐らくこういう人物は生まれまいからだ。世の中様々な差別があるが「被差別者」のカテゴリーに属していながら容姿の良さで好感を獲得し、物語の主人公として共感を得る地位に上ることも出来る。だが醜男醜女は逆にありもしない嫌疑や恨み、嫌悪を被る、究極の被差別カテゴリーである。このテーマは芝居になりにくい。シェイクスピアは希有にもドラマにし、「悪行」を中心軸にしながらその背景としてのビビッドなテーマを込めた。リチャードを必ずしも断罪しない原作者の戯曲上の意図がしっかり踏まえられたゆえに、柿喰う客の舞台の陰影が、華麗な照明とあいまって、今までになく濃く感じられたものだ。
夜と森のミュンヒハウゼン

夜と森のミュンヒハウゼン

サスペンデッズ

吉祥寺シアター(東京都)

2015/01/24 (土) ~ 2015/02/01 (日)公演終了

満足度★★★★

幻視の内に焦点を結ぶラスト
うまい作りだと思いました。サスペンデッズ3公演目。最初が震災時、次が一昨年。インターバルが長い。たまに観てみたくなる劇団です。
考えて書いてるな、という印象がまず。(私のみた)1作目と2作目の色合い、雰囲気が全然違うその違いに驚き、今回のも、あと新国立劇場に書き下ろした芝居も、類似点より差異に目がとまる。では共通するものは何かと言うと・・伏線を静かに置いて解決せぬまま謎が長時間放置され小エピソードが進む、割と最後に大きな謎解きがあって結構引っ張るその間合いが似ている。つまりよく考えて書かれてる感じがする。だが、この芝居の面白さの中心が「伏線とその解消」かと言えばそうではなく、きっちりとその作品なりの世界(その中でドラマが起こる)をこまやかに成立させ、人物たちの関係から立ち上る空気感が「おいしい」芝居に仕上がっている。今回は吉祥寺シアターのタッパに加え、奥行き感もあって「森」の深さを感じる事ができた。今思えば、「森」の空気感に関する非言語情報が、行為の端々に盛られていたように思う。主人公は「森」であった、と言って良いかも知れない。

ネタバレBOX

このお話の最後に解かれた「謎」の答えは、残酷だった。
だがそのギザギザとした黒いものを包み込む「何か」を担保しながら、美しいシーンが現出した。きっと自信作だろう。てがみ座の石村みかが「らしい役」(看護師)を好演し、最後、佐野陽一演じる不思議な存在と対面して「説明」を聴くシーンは、静かで地味でだが、一つのクライマックスである。
芝居は大変印象的なラストで終わる。われわれ今を生きる人間が如何に苦痛の中にあろうと、等しく死者から何かを得ている事実は普遍であるように思われる、その事を示唆する残像。都合の良い解釈(死人に口無し)であれ、(死者との関係についての解釈は)誰しもが心に抱く事を許される幻想であり、倫理的にそうすべきであるとさえ思われる。最後に解き明かされた「世界」(死者との関係を育む場所)は看護師の想念の中に作り上げた空想=非現実のようでありながら、そうではなさそうだ、という所がミソである。「謎」が解かれた後もその世界の住民である彼はそこが空想上の世界だとは認めない。実在する事実をあくまで言い続けるのだ。その事がこの芝居に骨を与えている。よくあるファンタジーものの夢落ちとは、一線を画した。
お暇をこじらせてⅡ

お暇をこじらせてⅡ

aji 2021年活動終了

こまばアゴラ劇場(東京都)

2015/01/29 (木) ~ 2015/02/01 (日)公演終了

満足度★★★

どこから出発しているのか
WS(ワークショップ)は人を当事者にする有効な仕掛け。たまさかある題材を出発点に、人々が互いを発見し、議論を深め、案を出し合って結論を導き出す。演劇WSなら、作品を作る。参加と主体性、対等性が重んじられる価値で、テーマや題材が先行する。・・若干そんな雰囲気のするパフォーマンスだった。
『幸福の王子』と『正義の人々』のテキストをそれぞれ残して紹介もしながら、二つが混在したり、影響しあって場面が重ねられる。この2つの作品の接触による化学反応はしかし、設定した段階で既に一定の結論が見通されており、着想を出発点とすれば、着地点に意外性は感じられない。『正義の人々』の活動家たちによって順繰りに吐かれる台詞が全体として赴く結論は、人のためを思ってテロをする自分たちの正義は果たして正義か、という自問。従ってそれは反語的疑問となる。「本当に正しい事なの」と、これっぽちの結論を導き出す事のために書かれた台詞らしいと感じとるせいなのか、睡魔が何度も襲ってきた。(その結論を歓迎する向きには、共感で聞けたのかも知れぬが。)
カミュの時代と言えばアルジェリアの仏からの独立闘争、植民地からの独立という疑問を挟み得ない「正義」が大前提としてあり、この歴史事実を背景画として「正義のために人を殺す事」をめぐる話をカミュは書いたのだろう、と普通に考える(詳しくないので認識違いはご容赦)。転じて今、テロと聞いて間違いなく想起されるアラブの状況を見れば、中東全体が欧米の半植民地状態(傀儡政権をうまく擁してきた)と言えないのかという事がある。
この日のアフタートークには役者が勢揃いし、客席との質疑応答となったが、印象に残ったのは、二人の俳優の口から「我々は暇をこじらせて演劇をやる。ある人たちも暇をこじらせてテロをやっている」という対照が吐露された事だ。彼らの製作過程で出てきた独自のものなのか、割と世間で出回っている言い方なのか知らないが、テロが生まれる背景を捨象して、何を選んでも良い条件でテロを選ぶ人がいる、つまりテロをやるかやらないかは「趣味趣向」の問題だ(煎じ詰めればそうなりましょう?)と、つるりと言ってしまう感覚には正直驚いた。真顔で、悪びれず、かといって断罪的にでもなく(寛容ささえ浮かべて)、若者は言うのである。
この事が強く脳裏に残ってしまったのだが、舞台の印象は必ずしも悪い事ばかりでは勿論ない。演技モードのチェンジのメリハリだったり、集団での踊りやムーブ、照明・音響も駆使して飽きさせない場面転換、位相の転換など演者の力量、演出アイデアによって緊張感は持続し(「言葉」に対する睡気を除けば)最後まで追えた。
ただムーブメントにしても、言葉が描き出す世界に対応するものであって、言葉の次元の「深め切れなさ」は必然に反映して、身体のキレはよいがいわゆる「感動」のレベルには届かなかった。
時代に「売り込む」演劇でなく、「切り込む」演劇を。なぜなら、時代は次第に誤りつつあるから。

悲しみよ、消えないでくれ

悲しみよ、消えないでくれ

モダンスイマーズ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2015/01/23 (金) ~ 2015/02/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

樹脂の光沢のごとき
クオリティの高い芝居の出来であった。芸劇イーストの空間と機構を使い得ている雰囲気、緊張感と人物たちのリアルな生きる時間が終幕まで持続し、話じたいにもそこはかと揺さぶられるものがある。ここ幾本か劇団公演を観てきた目からは、最上の仕上がりであった。
もっとも「良い」とか「高い」といった言葉はその芝居の娯楽性(エンタテインメント性)の達成度を言っていて、つい口から出てしまうが、今回のは私の勝手なモダンスイマーズへの思いからの感慨。作品と同程度かそれ以上に劇団の来歴なり構成員の特性や事情にいつしか思いを及ばせる(思い入れのある)数少ない劇団の一つだから、今回の舞台製作の成果には、対外試合で苦節のすえ勝利したスポーツ選手への拍手に近い心情と感動があった。
芝居の質感としては、蓬萊戯曲の空気(台詞の行間に語らせる)を漂わせながらも、意味深な伏線の謎解きが二転三転するサスペンス構造で物語として圧縮された感がある(過去作品に比して)。人物の役割(ロール)の演じ分け、互いの棲み分けが素晴らしく、人物の一貫性の点で空白をほとんど感じない。それによってサスペンスが成立するのみならず、人物らがアトモスフィアの中に群像として立ち上がり、愛おしい。この群像の中心にあるのがでんでん演じる山小屋の主でキーマン。主人公の青年(古山)はストーリー上最も大きな問題を提供する存在となっているが、他にも主の娘、これに縁のある山岳仲間、物資運搬に出入りする夫婦らが、濃淡ある親密圏を形成し、この濃淡に応じた関係性が群像を作っていく。でんでんは一瞬のほころびなく手抜きもなく立ち、圧倒的に強靭だった。拮抗するようにして他の役者も、その人自身と見まごうリアルさで、切実に存在する。何よりその人物像の「現代性」にえらく共感するものあり、細を穿った造形は痛快というより恐ろしい。自分を見るようだった。

空白の色はなにいろか?

空白の色はなにいろか?

鳥公園

STスポット(神奈川県)

2015/01/16 (金) ~ 2015/01/25 (日)公演終了

鳥公園2度目
小品ながら濃縮された時間。不条理感たっぷりなのに散漫にならない、従って何か、表で繰り広げられる「現象」を背後から支える物語なり、理論なりが「有りそう」と感じさせる舞台・・が以前見た舞台を考え合わせて言える表現か。撹乱、脱線、といった要素が少なからず生じてくるが、知的に感じる。鋭利な切り口を、俳優らがしっかりその形象によって見せているのも、凄い事であるかも知れない。とも感じる。STスポットの箱に合わせて作られたとみえる装置、その使い方も面白し。

ネタバレBOX

お話じたいは、男女の、苦い味わいのある展開が、既に起こっており、また繰り返されそうである、という基本の大筋が示されるが、その図をトレースすると、中心人物の男の不思議な佇まい、人生への構えが次第に濃く浮かんで来る。そして彼を彼たらしめたもの(外的要因=環境、時代?)も、ほのかに見えてくるような来ないような・・。
男の不思議な佇まいの原因が、何げなく語られる「味がしない」ことと結びついている事が徐々に見えてくる。「無味」の感覚はやがて周囲の物々が自分と関わりなく無味乾燥に、即物的に存在していて、その中にある自分も物体として意味なく存在する一つである、という感覚に向かう。このモデルは、繋がりや意味を予め否定された現代人の「状況への応答」の正確なあり方かも知れない・・などなど考えさせられる事も多い舞台だった。
韓国現代戯曲ドラマリーディングⅦ

韓国現代戯曲ドラマリーディングⅦ

日韓演劇交流センター

シアタートラム(東京都)

2015/01/15 (木) ~ 2015/01/18 (日)公演終了

満足度★★★★

リーディングの可能性・「韓国現代」の発見
3戯曲中2作品を観劇。予定1本、急遽時間が出来てもう1本。いずれもどっぷり「家族」の物語だった。『五重奏』は久しぶりに顔を揃えた異母四人姉妹と老いた父の奏でるアンサンブル、到底美しいとは言い難いその、「情」の雫が決して潤す事のない無味乾燥な砂漠のような家、家族、関係が描かれる。近親者ゆえにぶつかり吐き出される感情が渦を作りドラマティックな帰着を予感するが、次の瞬間現実がさほど甘くない事を思い知らされる。『アリバイ年代記』は主人公である男(次男)の現在の語りによって、教師であった父の過去と、彼自身の歩みの節目となる出来事が語られていく。一見淡白な台詞の中にジュンとくる潤いがあった。一方、場面の「強烈な背景」として現代史上の各シーンが浮かび上がる。まず父の生まれは日本の大阪。植民地時代。朝鮮へ渡り、戦乱。米国傀儡、独裁時代、民主化闘争。そこには兄の姿も。映像が傑出で、戯曲に盛り込まれた固有名詞、歌曲、歴史的場面が能う限りの丁寧さで映像また音として流れ、資料収集の苦労が想像された。タイトルにある「アリバイ」は父の生き方の事で、劇中2度語られる。一度目は前半、息子の口から肯定的な意味で、二度目は父自身の口から、否定的意味を帯びて。アリバイに生きた人生という軸が通る事により、父の姿とその背景である歴史との分ち難い二つが鮮明な輪郭を残した。
この企画は昨年から観て二度目。現代韓国を知る、という事にはなるが、かの文化・風俗・歴史を通して、実はそれらではなく、固有性を突き抜けた普遍的な「人間」を再発見する体験を提供する。刺激的な企画だが、残念ながら開催地は日韓交互で、次は2年後らしい。

こわれゆく部屋

こわれゆく部屋

水素74%

こまばアゴラ劇場(東京都)

2015/01/16 (金) ~ 2015/01/25 (日)公演終了

満足度★★★★

「部屋」。誰が主人公か
現実世界を切り取る切り取り方の面白さこそ現代口語演劇の真骨頂で、こいつはいいや。と今日観た芝居の切り取りのうまさを感じ入りながら帰路についた。適度に不快で、不快を除去せぬまま終わるが、切り取りの妙が不快を補うというか、反転して不快要素が会わせ鏡式に相殺される。ナイーブな妹が最後に見せる若干の脳天気さが姉には若干ながら大いな救いを見出だすのを若干ながら我々も感じ取るせいだろうか? 俳優の的を外さないリアル演技にも感服しきり。

ネタバレBOX

一点、看護師や福祉医療に携わる者なら「患者の死」のショックと慣れ、患者に寄り添う心と節度(割り切り)といったテーマはとうに経てるはずで、新人看護師に問われて「あァ。」「うーん」と言い淀むなんて事は想像がつかない。それは新人の方にも言えますが。
チャンバラ ~楽劇天保水滸伝~

チャンバラ ~楽劇天保水滸伝~

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2015/01/17 (土) ~ 2015/01/25 (日)公演終了

前衛が娯楽であった時代
(表題は)今もそうなのであるが‥。観客に語り観客を巻き込む鄭義信の演出、テント芝居の良き伝統の先鋭的継承‥という視点での評価はしたい。
「物語る」観点では、元ネタを知らないと解りづらい難点が否めない。「天保水滸伝」の翻案と、副題にもあるんだからせめて概略でも踏まえとけと言う話か。狭い演技エリアでの激しい殺陣はえらいものだが、欲しいのは湧き出る「心」の熱度だったりする。その時点での「物語」説明の必要性について、役者は弁えておくべきなのだろう。「物語」の語りは端折られており、その端折りを「粋」と感じとれないと話の筋を追う事で芝居のノリと時間差が生まれてしまう。取りこぼしを手際よく回収しながら芝居が加速するのが理想だが、特に若手侍役のくだりがパターン演技に留まり、関係が解らなくなった(物凄く気合いは入ってヒロイックな芝居も堂に入ってるがそパターンを借りて来てる感じを脱せなかったのが惜しい。また、ヒロイックな役回りじゃないし。情けなさ・みっともなさが無きゃこの時代劇の哀切は滲み出ない)。
‥といったうらみはあるものの、祝祭としての演劇に徹した舞台を心して観た、という気にさせてくれた。特に黒テント陣がこの舞台の要求に肉薄していた。72年初演の山元清多作品の再演舞台に、ラストは相応しく、今の時代を捉えたシーンが逆に「かの時代」を照らし出すような感覚に、しばし浸った。

アンチゴーヌ

アンチゴーヌ

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場内Cリハーサル室(東京都)

2015/01/10 (土) ~ 2015/01/15 (木)公演終了

満足度★★★★

熱演。
必死の形相が残像として瞼に映る。新国立劇場Cリハーサル室という場所での公演は、役者が間近で演技しても選良?の清潔感を失わず。『親の顔が見たい』でも主にアッパークラスな人達を素晴らしく判りやすく演じ分けていた彼らだが、今回はギリシャ悲劇を翻案したらしき作品である事から推測されるが、難易度高し。
しばし会場について少し。地上から階段を地下へ降りてさらに長い廊下を進む。新国立劇場はやはり広い。着いた会場は長方形、十字の通路で区切られた四つの客席エリア(それぞれ32席、計128席)は、長方形の長辺を背に向かい合う形で階段式。周囲は防音マットを貼り付けたクリーム色、天井はそこそこ高く照明がつってある。十字に渡した通路の先端は、ドン突きと左右に逃げる袖とも黒。観客もここを通って客席エリアに入り、座る。通路は白で、壁も白系、通路の先端が黒というのは奥行き感的に悪くない。十字の長い方の一つは先端に向けて下り坂、そこから衛兵や伝令などが出入りする。対する通路には王座が置かれている。私は最前列で座席より高い通路の上の演技を見上げ、王の横顔を見る位置だった。・・長い紹介をしたが、これは紀伊國屋演劇賞を受賞し立ての伊藤雅子の舞台装置だそう。人物の関係や出はけの整理にかなり貢献していた、と感じた。四方の客席エリアを向いた頭上のスピーカからは、開演後ヘリの旋回する音、以後も舞台の時代設定とはかけ離れた「音」が臨場感を醸して違和感がなかった。
さて芝居のほう、戯曲の「言葉」の多さは書かれた時代の「今」に呼応したもののようで、戯曲紹介のレベルに堕ちそうになりながら、若い俳優らの熱度によって最後まで目をこらして見ることが出来た。アンチゴーヌの「意志」の行方が、王の「真実」(恐らく)の告白によって揺らぐ終盤が話のミソではあるが、にもかかわらずアンチゴーヌは(謀反人とされた)兄を弔う意志を曲げず、現場を衛兵に目撃された事もあって本当は死罪を回避したい王も彼女の「協力」なくして放免も出来ず、ついに・・という展開。
ただ、もし王の語る「真実」が本当に真実ならその事を(可能性として)想定しなかったアンチゴーヌの察知力の無さ、もしくは「真実を覆おうとする何がしかの願望」の存在が問題化しそうなのだが、、「意志」一本で説明してしまった感が残るのは戯曲のせいか。王の言った事が真実であっても、「にもかかわらず」ある態度を貫く、ということをどう理解するかを考えるためには、「問い」を投げ置く演技でなきゃならん所、全体として、なにか物語は解決したかのように見える。王が真実を語っていない、という演技プランは本から浮かんで来そうだがその線だと話が判りやすすぎか。ただ、「厳しい時代をある意味で純粋に生き抜いた女性」、と美談に寄せてまとめちゃって良いのか?(戯曲的に)と少し思った。

ダンスがみたい!新人シリーズ13

ダンスがみたい!新人シリーズ13

「ダンスがみたい!」実行委員会

d-倉庫(東京都)

2015/01/05 (月) ~ 2015/01/18 (日)公演終了

ダンスざんす
d倉庫初覗き。その関心とチラシのポップ感に惹かれ、不案内だが「踊り」を観に。もっと近場なら他の回も覗きたいのだが・・と前置きしながらおずおずと覗いた感想。「他の回もみたい!」。踊りにも色々・・とは思うが踊り手それぞれに「型」があってそれらは何らかの系統に属していそうだ。モデルとなっている師匠、先駆者としてある踊り手が思い浮かんだりした。身体から発する「動き」とは別に、これをどう「作品化」するか。音響、照明、それらと動きの組合せ、変化(バリエイション)、物語的な展開がどう構築されているか、あるいはどう意表をつくかといった要素が絡む。総じて言えた事は、言葉が無い分、これらの身体の動き、リズムが何を語っているのかと凝視し、思い巡らし、感知しようとエネルギーを使い、疲れた。この日は、快い疲れ。3組はソロ、1組が6名による群舞。評価の視点は多々あり得て、興味深いジャンルだ。客席はほぼ満席。

「海のホタル」

「海のホタル」

オフィスコットーネ

小劇場B1(東京都)

2014/12/17 (水) ~ 2014/12/23 (火)公演終了

満足度★★★★★

亡き作家大竹野正典の作品。
夏に同じ下北沢で(オフィスコットーネも同じ)上演された『密会』に当てられたので、『山の声』も合わせてこの大竹野作品を見に行った。好きな世界だ。人間という存在の深みをまさぐり、接近しながらこれを観察している。なるほど観客はこの救いようの無い人間の(フィクションではあるが)実像を、観察している。そういう自分の黒さを感じる。演劇は覗き見である。覗かれるために舞台に立ち演じるこの人達は凄い、これに尽きる。そしてそれをやらせているのは今は亡き、作家の、書いた言葉。この時代のこの世の周縁、地べたに蠢いている人間共のやり取りをみているとこの社会の構造が、力学が、真実が、どうしようもなさが、思われて来る。「保険金殺人」という単語がちょうど当て嵌まる話だが、何か全然別の話だったようにも思う。それは殺人の外側からでなく内側から眺めたからだろう。「観察」と言ったが彼ら彼女らにしっかり感情移入していた訳だ。そんな自分の事も全て、かの作者に観察されているような気がしている。

体夢-TIME

体夢-TIME

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2014/12/11 (木) ~ 2014/12/23 (火)公演終了

満足度★★★★

飛躍するイメージ
気づけば桟敷歴5年、本公演観劇8本目。チラシの暗示に違わず、(私の知る桟敷童子とは)異種の劇世界を堪能した。
様変わりにも程がある、と言い放って拍手をしたくなるのは、毎回みせる舞台作りへの凝り具合を今回のような異種の芝居においても発揮された、という感想からだろう。
話のほうは、東氏の頭に若返りが起きているのか、と考え込んだ程、架空世界の「架空度」、イメージの飛躍度が半端でない。初っ端から「憂い」の影が垂れ込み、シュールさを帯びるが、どこかコミカルでもある。この両面のバランスが絶妙であったと思う。後でパンフを読んで飲み込んだのは、今作は東氏が十代の頃初めて書き上げた戯曲(を改稿したもの)との事だ。
舞台の作りは、装置の凝り具合はいつも通りだが明らかに傾向が異なり、不思議であったのは客席前に1.5m幅程の通路が左右に渡してある点。これまでの土着的なお話ではどちらかと言えば写実的な、草木とボロ屋なんかがあるほっこりする美術だったのが思い切り抽象的である。とは言え劇場を覆い尽くす感じの、胎内の心地良さに通じる作り込んだ装置ではあるが。受付付近で既に衣裳に着替えて立ち働く役者らの衣裳も様相が違い、『モモ』の灰色の男たちを連想させ、ファンタジーだと判る。音楽担当は同じだが既成曲(デヴィッド・ボウイを多用)の使用が目立ったのも、異色だった。これらが舞台作り上すべてうまく行ったとは言えない面もありそうだが、、フィクションを突き通した脚本と俳優の熱がこの不思議な劇を印象づけた。従来の群像劇風の中でもキー役の多かった大手忍がガッツリと主役(少年時代の体夢)として立ち回った事や、最後に来るカッチョいい装置ドッキリもいつもと違っていて、つまり「異種」の世界がガッチリと作られた事への驚き、なのでありました。次回作が不安で楽しみ。

赤い鳥の居る風景

赤い鳥の居る風景

世田谷シルク

座・高円寺1(東京都)

2014/10/13 (月) ~ 2014/10/19 (日)公演終了

満足度★★★★

思い出し投稿☆初世田谷シルク
そこそこの量のコメント(しかも久々にうまく書けたとご満悦)が一瞬の誤操作で消滅。その後筆をとる気が起きず。と言うのも言葉で評価するのが難しい芝居だからだ。がそれだけにやり残した感があり、思い出し投稿する事にした。
ひっくるめればこの舞台は「試み」。否、このグループのステージは全て「試み」なのだろうが、路線の分岐点的な意味合いを感じさせた。初観劇にもかかわらずそう思うのは「初の既成戯曲演出」である事もそうだが、舞台そのものが「未完成」「過渡的」匂いを漂わせていたたからだろう。フォローする訳ではないが、パフォーマンスのクオリティは高く(役者の語り/動き/転換/照明等の洗練度)、別役実の不条理劇にもかかわらず最後まで目を離す事なく観れた。「不条理劇」と書いたが、別役作品としてはストーリー的に完結している。不遇の姉弟(両親を失い、姉は全盲)の奇妙にねじ曲がった関係が、姉の弟への語りかけと、それに抵抗を感じながらも従って行く弟のバージョンを変えたリフレインのやり取りで表現され、やがて悲劇的結末に至る。姉の語りは弟への指示・命令だが、いずれも「両親をなくした私たちはしっかり生きて行かなきゃならない」という理由に帰結し、姉自身は誤判断である可能性に気づかず(他の可能性を考えない様子は盲目の風情に合う)、弟は従いがたい生理的反発を抱くが最終的には指示に従ってしまう(ここにも姉が盲目である事が働いている)、この弟の本心と姉の意図との齟齬が開いて行く分だけ、弟は自己分裂を起こして行くが、それが決定的に露呈する前に悲劇は到来する、という物語だ。二人の「内部」的関係は、周囲の人間(元学校教師や職場の同僚、叔父叔母等)という「外部」とのやり取りとの対照で示される。姉弟を知る観客の「目」からすると、周囲の人間がよほど浅薄に映るのだが、作者は近親者であるはずの彼らとの「隔たり」を通して、その延長にある「社会」の冷たさへとイメージを繋げる。
そこで今回の主軸となる演出は、装置として十台以上もの脚立を用いて場面を作り、金属の無機的感触を舞台に持ち込んだ(と見えた)。時に脚立は一、二台に減ったり総出で大きな壁を表わしたりするが、動かすのは主に踊り手(コロス)、時には(姉弟以外の)役付きの人も手伝う。何十という細かな場転があり、それらが芝居の流れを止めず、振りを踊る時間も織り込みながら、ダイナミックな照明の変化によって、進んでいく。場面提示の道具に脚立が最良であったかは、評価が分かれるかも知れない。だがそこには「試み」があったと言える。むしろ、恐らく世田谷シルクの独自さをなすのだろう「踊り」の挿入に、違和感ではないが微妙なマッチングの難しさを感じた。物語の背景や装置は「無機質さ」を想起させる点で繋がるが、そこに身体表現が割り込むと、その表現対象が何であっても「一肌の温かさ」が見えてきたという事はある。あるいは台詞と脚立は時代を遡り得るが、踊る身体は「現在」である。この場面の質の差異に意識的であったかどうかは判らないが、「多要素が詰め込まれた」感を残したとすればこの部分のせいだろう。とはいえ別役作品の世田谷シルク版(翻案と言っていい。台詞は忠実でも)を打ち出す側からすれば、この試みは不可欠だったろう。
主宰の堀川氏は修行に旅立つという。新世田谷シルクと相見える日を楽しみにしています。

止まらずの国

止まらずの国

ガレキの太鼓

こまばアゴラ劇場(東京都)

2014/12/19 (金) ~ 2014/12/30 (火)公演終了

満足度★★★

2度目のガレキ観劇
約3年前のアゴラ公演観劇以来チャンスなく、久々のガレキの太鼓観劇となった。
不評を目にした上での観劇の感想は、「酷評する程ではないが、する人がいるのは分かる」。本の問題、演技の問題、両面の為せる仕業だが、私が気になったのは演技の問題。以前のガレキさんの舞台をおぼろげに思い出すに、作品の完成度は高かったがやはり演技面での詰め切れなさと、にもかかわらず役者らはしっかりと「動き」を見せている、稽古で積み上げた土台の上にそれらを展開している印象があった。この、動きの付け方・作り方に独特なガレキ式手法が導入されているのではないか、と勝手ながら想像され、リアルさを纏うのに今回は失敗したのではないかと・・相応の力量と役者間の演技のバランス、噛み合いを要する所、これが効力を発揮しなかったのでは、と見ました。
脚本の問題では、ここに織り込まれた地球的視点や、日本を外から相対化してみるアイロニーは健全なものに思うが、台詞の捻りが乏しいと思える箇所、人物の動きの背景付けの弱さ、気になる所も色々ある。ただ、そのままやってリアルさを損なう台詞や動きは、辻褄を合わせ一貫性を持たせる役者の仕事であり、その気づきとヒントを与えるのが演出の仕事、だろうと普通に思う。その努力あったのかどうか、が見えないので、恐らく全く違う手順で作っていったのではないか、と想像した訳です。
外国滞在での人や出来事との遭遇が、日本的常識を批判的に見直す「契機」を含み、それらを込めようとしたとおぼしい台詞から、作者の意図を(遠回しにであるが)感じる事は出来た。
ただ、作者自らの体験が反映されている作品との事だが、もしかすると自分が得た感慨をそのままの形で作品化するのは難しいのかも知れない。一段上へ昇華した作品をみてみたい。

「ダム」

「ダム」

メメントC

シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)

2014/10/22 (水) ~ 2014/10/26 (日)公演終了

満足度★★★★

言葉の渦
作家の妖気が、夜、原稿用紙をこするペンの先から立ち上るのを見るような、渾身の台詞使い。学者先生には見えづらい鴨川てんしの学者役だったが、枠に収まれず変転して行くタイプの存在がそこに居た。西山水木の役者としての妖気は、以前ザ・ガジラ公演でのそれが焼き付いている。
本作は昨年、リーディング公演を座高円寺でやっており、(同時期にやっていた劇団本公演以上の)完成度に驚嘆したが、さて本舞台に上げてみてどうであったか。
パワフルな舞台であった。ただ「本」の要求に至らない部分が残ったという後味。そう感じた原因について、今考えつくのは劇場の客席の急勾配、タッパによって、舞台を俯瞰・観察するスタンスに観客が置かれる。リアルに作り込まれた山間の旅館の装置も「作り物」に見えるし、役者の演技のタイプとしては、現代口語演劇、つまり四方上下からの観察に対応したリアルを要求されるような条件だ。観客に直接語る台詞(ナレーション的、狂言回し的に等)でも無ければ、プロセミアムを横から絵を見るように見る形の芝居を、上から覗く感じになる。この角度の面白さは物語の進行よりも存在のありよう、微細なリアルに真実を見る面白さである。あるいは、三次元世界のリアルを超えた何か、「妖気」と冒頭書いたが、人物がまとう妖気を何らか表現され、それが劇場内に充満する、的な。
脚本は、劇的高揚を準備しているが、ダム建設を巡る対立が本筋だとすればその「説明」を登場人物らの個的な関係・やり取りの中に鏤めており、それらのこまやかな表現が機敏になされないと事実関係が伝わりづらい嫌いがある。
がしかし、脚本の難易度に演出、俳優が果敢に挑戦するエネルギーは舞台の熱度に反映していたという事も。最後には胸のすくオチが用意されている。荒削りだが何やらあちこちをくすぐられる面白い舞台だった(それ一言書きゃ良いってか)。

ネタバレBOX

藤井ごう氏演出は、公聴会のシーンでの発言者・傍聴人を客席後部の両サイドに登場させ、通路を降りた所で発言者に発言させ、また背後から怒号を飛ばせた。この臨場感と台詞によって、開発と環境破壊、いい加減な環境調査と役人の言い逃れという公共事業の典型的な構図が描写される。観客はここで問題のありかの凡そを理解する事になる。ここが決まれば舞台は成功、とも言えるかも知れない。
最後の最後のオチは、この芝居がダム建設を巡る人間の利害関係の問題に終始しない事を表わすもので、戯曲のグレードを一気に引き上げているが、戯曲のリーディングでは感じられていたラストに至る伏線が、舞台ではラストまで見えなかったのは、意図的なのか。願わくは個人的には「意識はしなかったがある意味予感が的中した」、と思わせるラスト(意表をつかれながらもしてやったり)が理想だったが、難しい注文か。
背骨パキパキ「回転木馬」

背骨パキパキ「回転木馬」

名取事務所

俳優座劇場(東京都)

2014/10/22 (水) ~ 2014/10/26 (日)公演終了

満足度★★★★

別役実書下しは意外にも新境地
半世紀以上書き続けている戦後演劇の生き証人・別役実の今作は、当日パンフによれば「関係者にはご迷惑をかけた」(別役)代物であり、氏が演出に伝えた所では「今回は随筆です」、つまり一つの舞台としての完成をみるための戯曲は「書き上げられなかった」のであるらしい。だが私にはこいつは秀逸であった。芝居の序盤でこの劇世界の実態(場を支配する秩序)が提示されるが、謎めいた中にも何か納得させられる状況に、そういう自分に、おかしくて笑えてしまう。リリオムという主人公の「超課題」を冒頭で見せると、あとはどうにでも。彼を照射軸として諸々、自由闊達に場面が展開する。ここで吐かれる一杯の言葉が、なるほど別役氏の(戯曲以外の)文章から来ている事は文体から容易に判るのだが、演劇的緊張はそれによって緩む事なく言葉は濃密に紡がれて行く。話題は変遷し、ガクンと膝が折れるような挿入もあるが、この「語られる場」としてある舞台空間が、愛おしく感じられる。氏の指定の懐かしい歌謡(や童謡)が演者によって唱われるのも、これに大きく貢献している。お話とは直接関連が無いが、進行する話題との微妙な距離感で挿入される具合も、場面の自由闊達度を可能にしている俳優たちの不思議ちゃん的佇まいもよい。

風の吹く夢

風の吹く夢

THE SHAMPOO HAT

ザ・スズナリ(東京都)

2014/09/10 (水) ~ 2014/09/23 (火)公演終了

ROADMOVIE 半径数キロただの半日の。
TheShampoohat知ってまだ2年。現代日本に棲息するヒト科の生態を何編か見せてもらった。話の筋やオチそのものより人物の佇まい、醸し出す濃厚な出汁のような臭いが何とも。アレを嗅ぎがくて足が向く。今作も建設現場に出入りする人工(にんく)達の突いてる感じは堪らなかった(一時期鳶土方の現場に出入りした頃を懐かしく)。さほど濃い関連のないエピソードが並ぶが、この完成具合にバラつきが若干。もう一本濃い線というか、芝居全体を括れる(言葉に抽出できる)何か、捻り出し切って欲しかったっす。

コンタクト

コンタクト

水素74%

アトリエ春風舎(東京都)

2014/09/12 (金) ~ 2014/09/23 (火)公演終了

満足度★★★★

水素74路線
数えると同劇団を4本も見て来た勘定になるが、路線と質を維持しながらコンスタントに公演を打っている。意外にも。というのは、まず劇団名が不思議君でwebのデザインもパンフやチラシに書かれる作者のコメントも全面拙さに満ちてる。素人でごめんなさい、と。で、作品とした場合の完成度を言えば毎回、詰めの所で素人っぽさを出す。終盤に向けて自転車のペダルを力んで踏み込むとチェーンがかつん!と外れてつんのめる。惜しいね、という具合。
でも基本は現代口語演劇で、人物の立ち方、呼吸感、雰囲気、ちょっとした間合い等、つまり非言語表現部分が饒舌に色々と語ってくれる所の面白さが軸だから、結末がどうなろうとあまり関係ない、と言えなくもない。ケーススタディ的に再現された人間の模様をじとッと観察する時間として成立するタイプの芝居。飛躍の度合いを「そりゃないだろう」「もっと行けるんじゃない」と批評しながらも見続けられる事がその証左だ。
今回は、途中、どう展開しても可能だがどうなるのか、帰趨を見るポイントが幾つかあった。未来男の「父」が結局誰なのかは、最後に判る事になっているが、結局誰だっけ?・・ま、それはどちらでも良い(それじたいにメッセージはない)。作者が明かすように人間と人間の接触についてのあれこれが、面白く見れたので私はそれで十分、多くは望まないという感じである。これで良いのか、とも思わない。ただし、表現の精度についての探求は今後もたゆまずやっていってほしい。

ネタバレBOX

一つ二つ、説明不足感が残った。ホテルから出てきた眼鏡男と独身女のカップルが、もう一つの出口から出てきた本命女と年食った男のカップルと出くわす場面。あれではもう一つのカップルも事を済ませて出てきたように見える。中央ののれんがホテルを示し、上手のは無かったが、舞台の都合上だろう位にスルーし、芝居は2カップルとも事を成就して、互いにはにかむ、的なシーンに思えた。これは狙いか? 後で勘違いが解けるという。いやいや、謎にするほどのネタではなく、この事実関係は即理解できたほうが良い。
非常の階段

非常の階段

アマヤドリ

吉祥寺シアター(東京都)

2014/09/12 (金) ~ 2014/09/21 (日)公演終了

アマヤドリ的。
アマヤドリ観劇3度目、その中ではベスト。
過去観劇は『月の剥がれる』『うれしい悲鳴』。前者は掴み所がなく、後者は進行する事態は判るが言いたい事(劇作りの動機)が掴めず入り込めない、という印象だったが、今回は「芝居を観た」という気分で劇場を後にした。それは喩えるなら、冷たい壁の裂け目から人間の「温度」が感知され、舞台に立つ役者はアンドロイドではなかったのだという、そんな感触から来ている。
この「抑制感」は果たして狙いなのか、他の要因によるやむを得ない結果なのか、という所で評価も変わってくるが、、基調としては「不要な判りづらさ」がそこはかとなく感じられるため、否定的な印象が3作を通じた正直な所である。ただしテキスト(台詞)を通して論じようとしているテーマそのものは重要であり、社会批評の姿勢を貫く作り手は応援したいのも正直な思いだ。
最後まで見れた、それを可能にした要因は一つには「アマヤドリ的」アプローチを知っていたので、「誘眠攻撃」を回避できたこと(場面転換後の台詞のやり取りが前のそれとどう関連するのか長い間判らないと、これは強力な「誘眠」効果を発する。今回も実は若干眠ってしまった)、そして今回の芝居のシリーズ「悪と自由」(この文言は観劇中忘れていたが)が念頭にあり、芝居全体をそこに集約されるべきものとして、一歩引いた所で観ることができたこと、これによって芝居として理解が出来た事がまずは土台である。
その上で「芝居を観た」後味を得られた一番の理由は、役者の感情表現に私の感情腺を振動させる部分があったこと、役者が「抑制」の中にある感じが覆うアマヤドリの舞台の中で、そこから跳ね上がる瞬間が少し観れた事、これが大きかったと思う。

ネタバレBOX

その具体箇所は、終盤に展開する独白ベースの2つのシーン。「自分が無い」事に悩み、それを解決しようとして何も変わっていない事に気づいた青年「ナイト」の絶望の独白。この芝居はある犯罪集団を中心に展開するのだが、そのメンバーの一人であるナイトは少年時代からハチャメチャをやってきた(行動の欠落感を免除された)はずの来歴の持ち主なのだが、実は、と独白する。彼は周囲に合わせて生きているに過ぎず、そんな自分が嫌で、気を遣わずに済む連中とつるむようになったのに、やっぱり人を中心に考える自分、「評価」「承認」を望んでいる自分がおり、その欲求は満たされる事がない。いつも周りを気にして過ごしてきた人間には「思い出」というものがない。本当の自分を生きていれば、悲しかったり楽しかったり、そんな思い出の一つや二つ持ってるはずだが自分にはそれがない・・そんな状態から抜けられない無間地獄の闇を見た彼は、自殺する。
この独白は私自身の二十代の頃の心の叫びを殆どなぞっていた。そういう自分からすると「自殺」に至った本当の原因は、彼の語った言葉の中にはなく、別種の要因が働いていると思うがそれはともかく、この告白には現代を生きる人間の一側面が表現されていると感じる。
もう一つの場面は、彼の自殺(救急搬送で現在は重体)を受けて、犯罪集団が元世話になった詐欺師の元締との間にかつて体の関係を持った女性(ナイトの実家同然の親戚の家庭の長女)が、ただ遊ばれただけだったのね、で終ったはずの彼の元にある決意を胸に乗り込んで行く。
詳述はせぬが、元締の存在、犯罪集団の存在は、この芝居では既定の事実として置かれ、後に「解説者」によって社会における資産の不均衡状態の是正に大型詐欺犯罪は貢献している、として肯定的意見が述べられたりする。格差を放置しているという意味で「悪」である社会システムから必然的に若年貧困層が生み落とされ、必然的に「金儲け」のための詐欺犯罪(ビジネス)が生まれるとの見方は、ある面私たちの実感に即している。
が一方で「人を騙す」行為が一人の人間の中で正当化される過程で、様々なものを振り落として行くだろう事が、詐欺師の元締の「全て満たされた」かのうような環境で無気力化した姿に仄めかされる。その一局面がたまたま出会って一夜をともにし、捨てられた長女が未練がましく彼に取り入ろうとして交わされる、虚しく痛々しいやり取りだったりする。
で、このやり取りを伏線として、終盤のその場面で彼女は恋愛素人?らしく、ナイトも以前一緒に働いていた同士だったボスの前に再び、敗北者の恥を打ち捨てて身をさらす。「ナイトに会っに行ってほしい」。億劫そうに渋る若き詐欺師に、彼女が食い下がる。このやり取りは見物である。再現したい欲求は抑える事にする。
「悪」と「自由」の自由の語義は多様であるしどの意味合いだとしても結構である。言葉に集約させて行く作業、言葉が機能する土壌を再び掘り起こす作業は貴重だと思うが、抽象度の高い言葉や論理に収斂させる事がゴールである演劇はつまらない。論理や言葉にならないものが演劇という手段で豊かに表現される、それが私にとって演劇が贅沢な体験であるための条件だ。その端緒にしたい観劇だった。という所で長い感想を閉じます。長文失礼。
羽衣House

羽衣House

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

紀伊國屋ホール(東京都)

2014/09/12 (金) ~ 2014/09/21 (日)公演終了

満足度★★★★

言及することの価値
途中入場(無念)。だが即効引き込まれて最後まで持って行かれた。
原発事故を巡るあれこれは「生活」の問題として今も進行形であり、その事に多少なりとも考えを寄せる自分なればこそ、であったかも知れぬが、芝居は全く硬くない。タッチはどちらかと言えばコメディである。軽快さ、というより日常性と言ったほうが適切か。
話の舞台は放射能から避難する子どもたちを受け入れる保養施設(民間の、人々のカンパで運営されてるらしい)。ここの女性所長以下、スタッフ、ボランティア、利用者(子供たち)の親族、地元の支援者らしき人等による、恋愛沙汰有り、笑い有りのドラマ。だが、日常感たっぷりに語られる会話の端々に遠慮なく挿入される、放射能汚染をめぐってのあれこれ。それに向き合って生きざるを得ない場所で、もがき立ち上がろうとする人間の弱さ美しさ醜さ清々しさが2時間という時間に詰め込まれていた。(※全体の1/3強を観そびれたので「詰め込まれて」という印象表現は当ってないかも知れないが)
とにかくこのネガティブな題材を、問題性をきっちり言及しつつ爽やかなラストに仕上げ、しかも話を終えて一件落着でもなく課題はしっかり刻み込んで幕を閉じる事ができたのを、私は奇跡の賜物ように眺めた。
最後に希望と言えるものを浅薄さに堕さずに語らせるには、そこへ至るプロセスでごまかしの無い事実・現実が描かれなければならない。
現実を共有されない事こそ震災以来の社会の罪(広い意味でのネグレクト)であり、この芝居は「言及すること」により今渦中にある人達への声かけとなっている。その言葉となり得る言葉を作者は探り、紡ぎ出した、この事を真摯に評価したい。
(見逃した分を引いて4点)

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