満足度★★★★
言葉の渦
作家の妖気が、夜、原稿用紙をこするペンの先から立ち上るのを見るような、渾身の台詞使い。学者先生には見えづらい鴨川てんしの学者役だったが、枠に収まれず変転して行くタイプの存在がそこに居た。西山水木の役者としての妖気は、以前ザ・ガジラ公演でのそれが焼き付いている。
本作は昨年、リーディング公演を座高円寺でやっており、(同時期にやっていた劇団本公演以上の)完成度に驚嘆したが、さて本舞台に上げてみてどうであったか。
パワフルな舞台であった。ただ「本」の要求に至らない部分が残ったという後味。そう感じた原因について、今考えつくのは劇場の客席の急勾配、タッパによって、舞台を俯瞰・観察するスタンスに観客が置かれる。リアルに作り込まれた山間の旅館の装置も「作り物」に見えるし、役者の演技のタイプとしては、現代口語演劇、つまり四方上下からの観察に対応したリアルを要求されるような条件だ。観客に直接語る台詞(ナレーション的、狂言回し的に等)でも無ければ、プロセミアムを横から絵を見るように見る形の芝居を、上から覗く感じになる。この角度の面白さは物語の進行よりも存在のありよう、微細なリアルに真実を見る面白さである。あるいは、三次元世界のリアルを超えた何か、「妖気」と冒頭書いたが、人物がまとう妖気を何らか表現され、それが劇場内に充満する、的な。
脚本は、劇的高揚を準備しているが、ダム建設を巡る対立が本筋だとすればその「説明」を登場人物らの個的な関係・やり取りの中に鏤めており、それらのこまやかな表現が機敏になされないと事実関係が伝わりづらい嫌いがある。
がしかし、脚本の難易度に演出、俳優が果敢に挑戦するエネルギーは舞台の熱度に反映していたという事も。最後には胸のすくオチが用意されている。荒削りだが何やらあちこちをくすぐられる面白い舞台だった(それ一言書きゃ良いってか)。