満足度★★★
どこから出発しているのか
WS(ワークショップ)は人を当事者にする有効な仕掛け。たまさかある題材を出発点に、人々が互いを発見し、議論を深め、案を出し合って結論を導き出す。演劇WSなら、作品を作る。参加と主体性、対等性が重んじられる価値で、テーマや題材が先行する。・・若干そんな雰囲気のするパフォーマンスだった。
『幸福の王子』と『正義の人々』のテキストをそれぞれ残して紹介もしながら、二つが混在したり、影響しあって場面が重ねられる。この2つの作品の接触による化学反応はしかし、設定した段階で既に一定の結論が見通されており、着想を出発点とすれば、着地点に意外性は感じられない。『正義の人々』の活動家たちによって順繰りに吐かれる台詞が全体として赴く結論は、人のためを思ってテロをする自分たちの正義は果たして正義か、という自問。従ってそれは反語的疑問となる。「本当に正しい事なの」と、これっぽちの結論を導き出す事のために書かれた台詞らしいと感じとるせいなのか、睡魔が何度も襲ってきた。(その結論を歓迎する向きには、共感で聞けたのかも知れぬが。)
カミュの時代と言えばアルジェリアの仏からの独立闘争、植民地からの独立という疑問を挟み得ない「正義」が大前提としてあり、この歴史事実を背景画として「正義のために人を殺す事」をめぐる話をカミュは書いたのだろう、と普通に考える(詳しくないので認識違いはご容赦)。転じて今、テロと聞いて間違いなく想起されるアラブの状況を見れば、中東全体が欧米の半植民地状態(傀儡政権をうまく擁してきた)と言えないのかという事がある。
この日のアフタートークには役者が勢揃いし、客席との質疑応答となったが、印象に残ったのは、二人の俳優の口から「我々は暇をこじらせて演劇をやる。ある人たちも暇をこじらせてテロをやっている」という対照が吐露された事だ。彼らの製作過程で出てきた独自のものなのか、割と世間で出回っている言い方なのか知らないが、テロが生まれる背景を捨象して、何を選んでも良い条件でテロを選ぶ人がいる、つまりテロをやるかやらないかは「趣味趣向」の問題だ(煎じ詰めればそうなりましょう?)と、つるりと言ってしまう感覚には正直驚いた。真顔で、悪びれず、かといって断罪的にでもなく(寛容ささえ浮かべて)、若者は言うのである。
この事が強く脳裏に残ってしまったのだが、舞台の印象は必ずしも悪い事ばかりでは勿論ない。演技モードのチェンジのメリハリだったり、集団での踊りやムーブ、照明・音響も駆使して飽きさせない場面転換、位相の転換など演者の力量、演出アイデアによって緊張感は持続し(「言葉」に対する睡気を除けば)最後まで追えた。
ただムーブメントにしても、言葉が描き出す世界に対応するものであって、言葉の次元の「深め切れなさ」は必然に反映して、身体のキレはよいがいわゆる「感動」のレベルには届かなかった。
時代に「売り込む」演劇でなく、「切り込む」演劇を。なぜなら、時代は次第に誤りつつあるから。