アマヤドリ的。
アマヤドリ観劇3度目、その中ではベスト。
過去観劇は『月の剥がれる』『うれしい悲鳴』。前者は掴み所がなく、後者は進行する事態は判るが言いたい事(劇作りの動機)が掴めず入り込めない、という印象だったが、今回は「芝居を観た」という気分で劇場を後にした。それは喩えるなら、冷たい壁の裂け目から人間の「温度」が感知され、舞台に立つ役者はアンドロイドではなかったのだという、そんな感触から来ている。
この「抑制感」は果たして狙いなのか、他の要因によるやむを得ない結果なのか、という所で評価も変わってくるが、、基調としては「不要な判りづらさ」がそこはかとなく感じられるため、否定的な印象が3作を通じた正直な所である。ただしテキスト(台詞)を通して論じようとしているテーマそのものは重要であり、社会批評の姿勢を貫く作り手は応援したいのも正直な思いだ。
最後まで見れた、それを可能にした要因は一つには「アマヤドリ的」アプローチを知っていたので、「誘眠攻撃」を回避できたこと(場面転換後の台詞のやり取りが前のそれとどう関連するのか長い間判らないと、これは強力な「誘眠」効果を発する。今回も実は若干眠ってしまった)、そして今回の芝居のシリーズ「悪と自由」(この文言は観劇中忘れていたが)が念頭にあり、芝居全体をそこに集約されるべきものとして、一歩引いた所で観ることができたこと、これによって芝居として理解が出来た事がまずは土台である。
その上で「芝居を観た」後味を得られた一番の理由は、役者の感情表現に私の感情腺を振動させる部分があったこと、役者が「抑制」の中にある感じが覆うアマヤドリの舞台の中で、そこから跳ね上がる瞬間が少し観れた事、これが大きかったと思う。