非常の階段 公演情報 アマヤドリ「非常の階段」の観てきた!クチコミとコメント

  • アマヤドリ的。
    アマヤドリ観劇3度目、その中ではベスト。
    過去観劇は『月の剥がれる』『うれしい悲鳴』。前者は掴み所がなく、後者は進行する事態は判るが言いたい事(劇作りの動機)が掴めず入り込めない、という印象だったが、今回は「芝居を観た」という気分で劇場を後にした。それは喩えるなら、冷たい壁の裂け目から人間の「温度」が感知され、舞台に立つ役者はアンドロイドではなかったのだという、そんな感触から来ている。
    この「抑制感」は果たして狙いなのか、他の要因によるやむを得ない結果なのか、という所で評価も変わってくるが、、基調としては「不要な判りづらさ」がそこはかとなく感じられるため、否定的な印象が3作を通じた正直な所である。ただしテキスト(台詞)を通して論じようとしているテーマそのものは重要であり、社会批評の姿勢を貫く作り手は応援したいのも正直な思いだ。
    最後まで見れた、それを可能にした要因は一つには「アマヤドリ的」アプローチを知っていたので、「誘眠攻撃」を回避できたこと(場面転換後の台詞のやり取りが前のそれとどう関連するのか長い間判らないと、これは強力な「誘眠」効果を発する。今回も実は若干眠ってしまった)、そして今回の芝居のシリーズ「悪と自由」(この文言は観劇中忘れていたが)が念頭にあり、芝居全体をそこに集約されるべきものとして、一歩引いた所で観ることができたこと、これによって芝居として理解が出来た事がまずは土台である。
    その上で「芝居を観た」後味を得られた一番の理由は、役者の感情表現に私の感情腺を振動させる部分があったこと、役者が「抑制」の中にある感じが覆うアマヤドリの舞台の中で、そこから跳ね上がる瞬間が少し観れた事、これが大きかったと思う。

    ネタバレBOX

    その具体箇所は、終盤に展開する独白ベースの2つのシーン。「自分が無い」事に悩み、それを解決しようとして何も変わっていない事に気づいた青年「ナイト」の絶望の独白。この芝居はある犯罪集団を中心に展開するのだが、そのメンバーの一人であるナイトは少年時代からハチャメチャをやってきた(行動の欠落感を免除された)はずの来歴の持ち主なのだが、実は、と独白する。彼は周囲に合わせて生きているに過ぎず、そんな自分が嫌で、気を遣わずに済む連中とつるむようになったのに、やっぱり人を中心に考える自分、「評価」「承認」を望んでいる自分がおり、その欲求は満たされる事がない。いつも周りを気にして過ごしてきた人間には「思い出」というものがない。本当の自分を生きていれば、悲しかったり楽しかったり、そんな思い出の一つや二つ持ってるはずだが自分にはそれがない・・そんな状態から抜けられない無間地獄の闇を見た彼は、自殺する。
    この独白は私自身の二十代の頃の心の叫びを殆どなぞっていた。そういう自分からすると「自殺」に至った本当の原因は、彼の語った言葉の中にはなく、別種の要因が働いていると思うがそれはともかく、この告白には現代を生きる人間の一側面が表現されていると感じる。
    もう一つの場面は、彼の自殺(救急搬送で現在は重体)を受けて、犯罪集団が元世話になった詐欺師の元締との間にかつて体の関係を持った女性(ナイトの実家同然の親戚の家庭の長女)が、ただ遊ばれただけだったのね、で終ったはずの彼の元にある決意を胸に乗り込んで行く。
    詳述はせぬが、元締の存在、犯罪集団の存在は、この芝居では既定の事実として置かれ、後に「解説者」によって社会における資産の不均衡状態の是正に大型詐欺犯罪は貢献している、として肯定的意見が述べられたりする。格差を放置しているという意味で「悪」である社会システムから必然的に若年貧困層が生み落とされ、必然的に「金儲け」のための詐欺犯罪(ビジネス)が生まれるとの見方は、ある面私たちの実感に即している。
    が一方で「人を騙す」行為が一人の人間の中で正当化される過程で、様々なものを振り落として行くだろう事が、詐欺師の元締の「全て満たされた」かのうような環境で無気力化した姿に仄めかされる。その一局面がたまたま出会って一夜をともにし、捨てられた長女が未練がましく彼に取り入ろうとして交わされる、虚しく痛々しいやり取りだったりする。
    で、このやり取りを伏線として、終盤のその場面で彼女は恋愛素人?らしく、ナイトも以前一緒に働いていた同士だったボスの前に再び、敗北者の恥を打ち捨てて身をさらす。「ナイトに会っに行ってほしい」。億劫そうに渋る若き詐欺師に、彼女が食い下がる。このやり取りは見物である。再現したい欲求は抑える事にする。
    「悪」と「自由」の自由の語義は多様であるしどの意味合いだとしても結構である。言葉に集約させて行く作業、言葉が機能する土壌を再び掘り起こす作業は貴重だと思うが、抽象度の高い言葉や論理に収斂させる事がゴールである演劇はつまらない。論理や言葉にならないものが演劇という手段で豊かに表現される、それが私にとって演劇が贅沢な体験であるための条件だ。その端緒にしたい観劇だった。という所で長い感想を閉じます。長文失礼。

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    2014/09/21 04:23

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