tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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子どもたちは未来のように笑う

子どもたちは未来のように笑う

遊園地再生事業団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/09/03 (土) ~ 2016/09/25 (日)公演終了

満足度★★★★

説明不要な存在であるはずの「子ども」に関するあれこれ。「回帰」への試み
遊園地再生、久々の観劇は三度目。抽象度の高い舞台というイメージが強かったが、今回は「意味が判る」会話、また朗読も。もっとも多様な場面の中には飛躍したシーンもあるが無駄に感じさせない。
 美術、演技いずれも、ある完成されたイメージへと緻密に作り上げる手腕は、今回も改めて認識。(使い勝手の悪い)アゴラ劇場に破綻やほころびの無い劇空間が出来ていたのも、才能だと思う。起用した俳優については外れがなく、「子ども」を巡る逸話の視点は、手垢モノでもありながら、観客を頷かせてしまうのは俳優自身の身体的魅力の成せる所、宮沢氏はそうしたアピール(役者自身の身体的・容姿的強みを発揮させる)も、周到に織り込んでズルイと思う部分もある。
 ただし「手垢」とは言え、正当な議論が「子ども」を巡ってはなされるべきであって、芝居はそのように説得しつつ、さほど説教臭さを感じさせない作品になったのも「丁寧さ」ゆえと言える。
様々なテキストの一部(子供に関する言及がある)を取り上げた、時折ふと挿入される朗読も面白く、興味深く、また感動的。朗読ピースの選定は、自作テキスト以上に難作業だったのではないか。

生物として思考以前の存在であったはずの「子ども」、またそれに関わる領域は今の社会状況では冷遇されている。
短期スパンの生活設計が、企業の推奨する所。
長期ローンが組める・・というのは長期スパンの人生設計と見えてさにあらず、「面倒は先延ばしにして短期スパンの人生を謳歌しましょう」・・当社はそれを支援します、という意味に殆ど近い。

スカラベ

スカラベ

風煉ダンス

立川市子ども未来センター 芝生広場(東京都)

2016/09/16 (金) ~ 2016/09/25 (日)公演終了

満足度★★★★

祝祭的
20年ぶりの再演とか。「まつろわぬ人々」が初風煉ダンス。昨年は惜しくも逃し、今回どうにか駆けつけた。様々な出演参加者が目につく。風煉ダンスという集団をよく知らないが、ある「価値」を求めてその事業を成そうとする主体に賛同し駆けつけている「感じ」が薫っている。今回の芝生広場に設営された客席及び舞台(広い!)は、一大事業と呼ぶにふさわしいかも知れないが、それだけではなさそうである。この「感じ」はテント劇や野外劇につき物のそれのようでもあるが、それだけでもなさそうである。 「まつろわぬ・・」にあった下から突き上げるようなある種の告発(昨年の「泥リア」も?)の様相がそのヒントかも知れない・・・これら全て想像(もっと調べて書けってか)。
 ハチャメチャな登場人物や場面が、自然である物語の構造にもなっているが、空間じたいも十分にその存在を許す雰囲気を保証し、途中雨なども降ってビニールの天井がパラパラと鳴ったりしたが、生演奏と声は(マイクも使っていたが)よく通って歯切れが良く、活力がある。
予告より上演時間が長いのは場面転換、また一部俳優の台詞の間延びか。というのも通常の舞台の二倍四方ある広さがこの芝居のポイント(動かなくても良い距離を敢えて移動しての芝居は笑える)で、前の場面や台詞を食えば1~4秒位稼げそうな箇所が幾つもあった。(これから詰まって行くだろうが)
珍妙な唄、切なげな唄もいい。登場する奇矯で奇天烈なキャラたちは、また見てみたくなる。
物語は、宗教的儀礼として成り立つような筋立てで、原初的で祝祭的(ゆえにハチャメチャが許容される)。
おそらく見た目以上に俳優は肉体を酷使しているだろう、「捧げる劇」の当然の姿として。
舞台に仕込む物理的な内容物に情熱を燃やす者(たち)の手作り感あふれる諸々も、芝居の温度を上げている。
自分も野原を走りたくなる芝居である。

魔法処女☆えるざ(30)

魔法処女☆えるざ(30)

劇団だるめしあん

王子小劇場(東京都)

2016/09/15 (木) ~ 2016/09/19 (月)公演終了

満足度★★★★

女子演劇の愉しさ
「劇作家女子会!R」での短編が所見。観劇二作目で、<エロ・ポップ・ファンタジー路線>には脚本もさる事、女優河南由良の存在も大きいな、という今回の感想。
短編(前回)は一呼吸で書いたかと思わせるような、隙のない流れの良い台本だったところ、中・長編(今回)では・・・期待通り。流れの良い自然な場面配置で話を先へと押し進めていた。
ただ、短編にあった、現代の生を抉る痛快さは控えめとなり、主人公の「痛さ」(30にして処女)の一点に集約させ、その事をめぐっての挑戦と挫折、期待と落胆の紆余曲折を物語るドラマとなっている。落しどころは設けているが、ポップで楽しい→感動の領域へとドラマを進めているにしては、もう一掘りほしい気がする。「エロ楽しい」路線のほうに比重を置きたいなら、エロ的にももう一掘りほしくなる。
うまいだけにその「もう一つ何か」が欲しくなるのは、役者達が十分に立ち回っている分だけ(俳優として表現に到達しようとする苦悩が滲んでいない分だけ?)、薄味であるせいだろうか・・。

ネタバレBOX

30歳魔女(=処女)のえるざの一人称の視線で話は進行する。ジジ、じゃない飼い猫(名忘れ)が唯一全てを語れる対話相手(実際に話す)で、恋愛に関しては猫連中の方が良きアドバイザーであったりするが、一定の距離はあってやはりえるざの物語、となっている。そこで彼女に関わる人物たちの言動は、彼女にとってどういう意味を持ったか(どう見えたか)、の演技にとどまり、シンプルで明快な演技が判りやすい。ただしリアルからは離れ、彼女の視界の「向こう側」のリアルは推し量りにくい。
が、えるざの物語が力強く成立するなら、結果オーライである。
処女卒業(=恋愛)か魔法か、という二者択一は、結婚か仕事かの構図に似ている。人は子を産み育てるために生まれてくるのか?(そうだと言った瞬間、その資格から排除される者が数値として弾き出される。)
 彼女にとって魔法は便利な付加価値は持つが、人生にとっては負の価値である。そうであったのが、愛する者のために最後は空を飛んで見せる。このラストは彼女の人生にとっての解決だとは見えない、けれども、人のために使う「魔法」というものを見出したのだとしたら、価値の転換の到来を告げるラストであり、そこまでのものでなくとも、瞬間の輝きをみせる美しいラストだ。
 であるので、このシーンが「空を飛ぶ」事への根源的な意味、その感覚(世界が広がる幸福感)を示すものであったら・・・と思った。
(・・具体的には、冒頭でみせるコミカルな「飛ぶ」場面、これは背後の壇上で行うが、最後も同じく壇上に登り、猫もまたがる二人乗りで「横向き」に行なう。これを舞台中央・・前面か奥か・・で輝く照明の中、風を切って少女時代の表情をみせて終わりたいなぁ・・・と。実際の舞台では、とんびが前面で、えるざが背後。その姿をみて彼が悩みを払拭する(かつてのように・・)、となっている。がもし彼が中央で演じるのなら、えるざの姿を想像させるような極上の表情=見せ場!を演じてほしい)
・・・などとリクエストが出てしまうが、作り手はそこまでの感動を想定していないのかも?
ミラー

ミラー

東京演劇アンサンブル

ブレヒトの芝居小屋(東京都)

2016/09/09 (金) ~ 2016/09/19 (月)公演終了

満足度★★★★

テキスト無し。演劇とは何?
何も無いところから作り上げた舞台。驚愕すべきは、その豊かさ、芸術性、そして依拠すべきテキストを奪われた分滲み出る俳優自身の魅力。
言うならばワークショップ発表の類とも言えるこの舞台、パレスチナから来日したイエスシアターの演出、俳優二名の1ヶ月の滞在期間中に、ひねり出し搾り出し練り上げ作られたそれは、穿ってみれば純粋演劇と名づけてみたくなる代物。「まがい物」等では全くない。
日常との地続きに演劇はある。

三億円事件

三億円事件

ウォーキング・スタッフ

シアター711(東京都)

2016/09/03 (土) ~ 2016/09/11 (日)公演終了

満足度★★★★

大事件の背景の中で
男だけの芝居。同作者の「東京裁判」「外交官」も同様だ。
男が「大状況」の中でヒロイックに振る舞い、格好良くその舞台上で凝縮された人生を謳歌する、そうしたものへの単純な憧れは、憧れ以上ではない気がする。フィクションの中だけ・・そう思う。
 もちろん「出来すぎ」なドラマが書かれている訳ではないが、大づかみに括れば、その範疇だ。既視感がある。・・対抗できもしない米軍相手に(その相手の顔は見えない所で)鼻息荒く、ちょっと粋な啖呵を切って見せるが所詮負け犬の遠吠えに等しい、単細胞をサンプルで見せる戦争物や事件物の映画に登場するそんなやつらが、ふと過ぎる。
 この憧憬の的をフィクションとして楽しめる向きには、娯楽として成立するだろうし、三億円事件の史実については、作家は誠実に書き込んでいて、知的欲求を満たす部分もある。
 ただ、事件の「犯人追及」を本線とするなら、脇に当たる部分についての言及、時世に絡めての議論が、「犯人を追う」動機とは離れてなされていて、その時間が少々長く、結局進展しない捜査の「倦怠」が表現されているのか、意地は捨てていないプロジェクトXな男たちのドラマが表現されているのか。状況からして前者であるし、捜査状況の内容からして後者のポーズはとりづらいはず。そうならないための「事件」をめぐる言辞によって、辛うじてプロジェクトXが成立しているが内実はどうか・・・疑問が湧いてくるという感じだ。
 あの事件に立ち向かった人々・・・という「雰囲気」は伝わったが、実際リアルな実情としてはどうだったのか・・・男が格好付ける分だけ、その情報が希薄になるという関係があるように思う。リアルに描く・・・その必要はない、と開き直ってもよいのだが、それでは大きな史実のドラマ性に寄りかかっただけではないか。史実に批判的に切り込む、その視点が、見えるようで見えなかった。
俳優では、美味しい演技を見せる方、存在感ある方。悪くなかったが・・・

月の海

月の海

日穏-bion-

「劇」小劇場(東京都)

2016/08/31 (水) ~ 2016/09/04 (日)公演終了

満足度★★★★

ほろっと家族、ふわっと人情、な芝居
素朴な人情劇、家族の物語には、実は大きな事件が起きる。家出だとか、行方不明だった兄が帰って来るとか、万引きしたとか。時には幽霊が出て来たりする。大事件である。離婚や不登校でも大きい事件と言えば大きい。ただし「殺人」は出てこない。
で、大きな事件を大事件とは感じさせず、人情話へと変換されるのがこの手の芝居だ。
さて今回は空き巣に入った男が逃げ遅れ、家主(父は他界、母は認知症で老人ホーム転居間近の長女)に数年前失った弟と間違えられて住み着く、という大ごとである。
弟は出来がよく、部屋には賞状が貼られてあり、理系の道に進みロケットの部品を開発する会社に勤めていたが、海難事故で亡くなるという悲劇があった。「遺体を見ていないから(母は)息子が死んだ事を認められない、豊(弟の名)に会わせろ、隠すなと自分を責める」と長女が台詞で説明するくだりがある。弟と姉に対する、母の扱いの違いが推測される。
この伏線から、最後のオチに向かうまでの間、脇役たちのストーリーも絡めて笑い、男気の感動シーンも盛り込まれ、うまい。
ただ、語りたいのは本筋だ。
大きな伏線が回収される一つが、弟に顔だけよく似た男が「演じる」内に妙な関心が湧いて来たり、情が湧いたり、母にも喜ばれる体験がどう実を結ぶか。彼の偽装生活は(それは家族の側の要請で成立した事でもあったが)過去を知る者の出現で暴露され、自身も開き直ってぶちまける。それを否定するのはむしろ長女だ。この男の「変化」が、ラストまでに訪れる。
もう一つは介護疲れした長女のこと。中でも母に認められない辛さ。これについては出来すぎたラストのオチが待っている。
演技はオーソドックスで捻りは無いが笑いは押さえていた。私としてはそれらの「笑い」が、「物語」に先行するのは好まず、息抜きの笑いよりは物語をしっかり見せてほしいと思ってしまう。つまりは、本筋だ。
その中心は、やはり長女の「苦悩」である。実はこの部分、作家は謎解きをうまく後に回して引きつけるが、結論的には長女と母の「関係」の問題が解消するというものだ。「面と向かって伝えられない」母がある手段(認知症がひどくなる前、一年前に仕込んだ)によって、時間差でメッセージを長女に伝える、それで長女は涙し、ある納得を得るという結末だ。
 私としては、これは母が亡くなった後だからどうとでも解釈できる、死者との関係という範疇になり、今現在現実に認知症と向き合う苦しみのさなかに、見出した光ではない、という部分にやや淋しさを覚えてしまう。長女が受身なままで母からの愛を、本当はあった愛を今になって確認し、その事で能動的な人生へと転換して行く事になるのだとしたら、「出し渋った」母こそ悪、罪にも思えてくる。その「苦悩」というものをただ一般的な範囲で説明されても中々、それ以上は行かない。苦悩の薄さが、極上のラストに値しないと感じさせる。
耐えられる程度の辛さは「自己責任」で耐えられるが、本当に目を向けなきゃならないのはそれしきでは解決しない問題を抱えている人達だろう・・そう思えてくる。シンパシーを抱けないのではないが、、
 この芝居では、母が奥の間に居るため、修羅場は見えない。具体的なやり取りとしても十分に語られておらず、「介護の問題」として観る者の一般認識から引き出すことで成り立っている、その分弱いというのもある。
物事は、解決して行くものである・・・その事への信頼のほうが大切である、との信条がたとえあっても、現実を描くなら「物事」のリアルな断面を見せつつ、その解決に向かわせる事でなければダメではないか、、。厳しすぎるかも知れないが、(長女の)「切実さ」のありかをもっと見たかった、という事である。
俳優の演技は安定していたが、プロデュース公演の香りがしてしまうのは何故だろう・・そんな事も思いながら見ていた。

『水はけのよい土地』

『水はけのよい土地』

無隣館若手自主企画vol.13 早坂・福嶋企画

アトリエ春風舎(東京都)

2016/09/09 (金) ~ 2016/09/12 (月)公演終了

満足度★★★★

台風の時に思い出す水はけ
以前水はけの悪い・・というか水がよく上がる土地に住んでいた。台風の季節になって天気予報に「台」の字が出ると、「あ(面倒だ・・)」、と思い出す。
 この芝居は「水はけの悪い土地」の話だ。悪い場所から、良い土地のことを思い描く。女二人、男二人の二組の交わらない物語が最後に「場所」で繋がることで閉じられる。女の過去、暗い出来事の起きた場所=空き家も、水はけの悪い(不人気な)土地柄に連想が繋がり、ブラックバイトの典型であるコンビ二も然りだ。なおコンビ二のある場所が「水はけが悪い」事実が、その夜来た台風の話題から派生して言及される。が、それだけだ。
 二つの物語が接点を持つラスト・・・ただ通過する一瞬の光景に過ぎない可能性の方が大きいが、この瞬間に幕を下ろす事で、「未来」が開かれたように感じる。水はけのよい未来への時間が。
無隣館若手との事で「期待感」を抑えて観劇したが、役者も含めて思いの外出来がよい。 女の「罪意識」が、相手との遭遇によって解消する事にならない・・・時のほうが先へと進んで行く、この視線が印象的だ。

荒野のリア

荒野のリア

ティーファクトリー

吉祥寺シアター(東京都)

2016/09/14 (水) ~ 2016/09/19 (月)公演終了

満足度★★★★

麿赤兒=リア on 荒野
再演という。男優のみによる「リア」。Tファクトリー(川村毅作品)を初観劇である(箱庭円舞曲と迷ったがこちらをとった)。
三幕一場以降を独自に再構成したという事で、話をうろ覚え(かつ冒頭15分が見れず)では、人物の判別能わず、人名を聞いても役回りをを思い出せず、「物語」は追えなかった。
かの川村氏が古典をやるんである。その演出や如何。
麿氏は舞踏家であった。それが見える場面もありつつ、全体に狂気のリアを演ずる。正に荒野がその舞台であり、襤褸をまとって咆哮しながら彷徨するリアが柱だ。舞台は終始「荒野」の様相である。ある場面、まだらに地面を照らすくすんだ赤(紫・鶏頭だか紫蘇の色)が、濃い灰色の地面に投げかけられ、役者は色彩のくっきりした輪郭で登場して明確に動く。正面に幅広・縦にも長い布が下がり、時に映像が映し出され、時にまくり上げられ丸い曲面が上方に垂れ込める。
初演とは俳優が(一部)変わっているようで、それが今回どうなのかは判らないが、役者の「個性」による判別が、付きづらいと感じたのは、「感情」で演じていないせいだと思われる。
(俳優もその一部として)演出と一体化した「舞台」を見せる、その中でも大きな要素は音響。場変わりなどの要所で「音」が鳴るが、大音量を澄んだ音でカバーしている。音のクリアさは通常の(大型の舞台も含めて)芝居には無い質の高いものだった。
加えて映像の存在感も大きく、映像の選択に大きな比重があるようである。

俯瞰して、「変わった」舞台である事は確かである。
タイトルでもある「荒野」のモチーフは巧く表現されていた。
ただ如何せん、「リア」の元を知らないでは、構成の「妙」までは理解できない。今作の趣向の片面はそこにありそうで、玄人向けと言えようか。(作り手はこういう言われ方を嫌うだろうけれど)

明るい家族、楽しいプロレス!

明るい家族、楽しいプロレス!

小松台東

駅前劇場(東京都)

2016/09/06 (火) ~ 2016/09/11 (日)公演終了

満足度★★★★

演劇型格闘技=プロレスの懐
だいぶ前、プロレス業界の裏側的な芝居を見て不意を突かれた。泣けるポイントは「裏事情」や人間ドラマ以上に、リング上の姿じたいにあった。出来レースであるのに何故か見る者をある興奮へと誘うプロレス。まるで新派の出来すぎた人情劇に涙し、でもって心の内で筋書きを先んじてなぞっていたりする、あれと同じく、プロレスを見る者も闘いの「型」を追っている。レスラーはリング上で「それ」を演じるのだ。 自分は全くプロレスを見ない口だったがその芝居にはぐっと来た。
 今回もプロレスが出てくる。よけられるのにわざと技を受けている、そうじゃない、技をよけるのは格好悪い、強いから、よけなくても平気なんだ・・・そんな台詞が、少年のプロレスへの熱狂を裏打ちする。
 さて小松台東は二度目(松本氏脚本は4度ほど)。前回の三鷹公演の緻密な作りに比して今回は砕けたテイストだったが、私は前回のリアリズムが好みである。ドラマとしては主人公の少年に「昭和」を感じさせ、古きよき時代の香を嗅がされる感じがあるが、この種の「懐かしさ」は持って行き場がなく、大切な物を入れる木箱に収めるキレイなまとめ方が似合うのでは。・・「現在」への切り込みが薄い(と私は感じたが)分、「懐古」に比重が傾けばそれに見合う処理があったか・・・そんな感想も。
 役者の跳躍もあるドタバタの書き込まれた脚本で、楽しめたし美味しいネタ(プロレス)ではあった。

この町に手紙は来ない

この町に手紙は来ない

monophonic orchestra

3331 Arts Chiyoda(東京都)

2016/09/02 (金) ~ 2016/09/07 (水)公演終了

満足度★★★★

無印な色彩。
終わってみると正面の白い壁、間接照明(中央左寄りの窓など)、シックなテーブルと椅子、衣裳も比較的そう・・原色系が抑えられている。この無印良品なトーンが芝居の気分とともに記憶に残った。
 「場」は同一、時代を変えて6つのエピソードが5人の俳優によって演じられる。郵便局、それを世襲で受け継いで行く末裔たち。一族=何らかの「呪縛」という通低が、後半に見えてくる(執筆中に後付けの感も)。
 他の通低項として「無印トーン」、また上手側の壁の額縁の数字が、エピソードごとに変わる(俳優がフックに掛け替える)仕組みも。開演前は234とあり、エピソード1で278、次いで230、180・・とよく判らない意味は後半明らかになる(これも後付けの感有り、というのは5話,6話が近接していて、飛躍させない意味が不明、これありきで書かれてないな、と)。
 しかし6つのエピソードはそれぞれ、同じ場所にもかかわらず、時代を違えただけでなく、しかも「一族」の縛りがありながら、全く色彩の異なるエピソードが並べられている。そしてそれぞれに、何かが示唆されているという含みがある。 説明台詞の少ない、程よく省略の効いた、静寂を基調に時折熱のある対話が花咲く芝居。抽象的である分、物語としての「謎解き」の段で出てくる古い手紙、昔納屋で起きた事実についての証言はいま一つ謎解き効果を発揮せず仄めかしに終わる。ビッグストーリーより、個々のシーンの、ただただ断片でしかない瞬間の彫りの深さ、美しさがこの芝居の強調点だ、と思う。
 何より、役者が達者である。全役者はほぼ均等に4,5役をやるが、役の勘所を押さえて気持ちが良い。
 作者自身がどういう自覚で執筆したかは不明だが、人間や社会(また現在の日本)への痛烈な批評と感じられる台詞・対話が、時おり顔を出す。優れて周到な攻めで上手出し投げを決めたかのような。
 「示唆」の鮮度と頻度が増せば、完全に私好みの芝居になるかも知れない(そうはならないだろうが)。
 monophonic二度目の感想は、無駄をそぎ落とした(落とし過ぎ?)台詞の洗練。若き表現者の「この先」を気にしていよう。

其処馬鹿と泣く

其処馬鹿と泣く

はえぎわ

イマジンスタジオ(東京都)

2016/08/27 (土) ~ 2016/09/07 (水)公演終了

満足度★★★★

そこはかとなくニッポン放送
オールナイトニッポンのテーマ曲(Bittersweet samba?)が幽かに流れる開演前。正面の横広ガラスの向こうを歩く通行人、下手壁側の白色照明、上手どん詰まりの防音扉(恐らく)からの出ハケなど、ニッポン放送内のイマジンスタジオを使って芝居をしているが、「黒」をあしらっていないせいか、別用途の場所を借景したかのよう。だが、大いに活用していた印象だ。
 二人の客演者の一人、宮崎吐夢が終演後一人残って喋り芸披露、「お詫びの印にせめて芸能人を見て帰ってネ」と締めていた。
 一方、退場する客の反応は、卑下する程かな、というもの。役者たちとの雑談の輪がそこここに出来て流れが悪いが、劇団員の外仕事が続くなか久々に「劇団公演」をやれば駆けつける人たちがいる。劇団の歩んだ長さだけ築いた人脈を見た気がした(勝手な推測だが・・)。
 「趣向」の数々にノゾエ氏の才が窺えるが、急ごしらえな感も。シーンとその繋ぎ合せのアイデアを連ね、何らかの落ち着きどころを見出した。・・ロードムービーならぬロードシアターの味は、役者個人の技量に比重あり。演劇は何と言っても時間をかけた分だけ濃密さが生まれ、つまり舞台上にもう一つの世界が(よりリアルな空気感をもって)生み出される、その快楽は演劇の大きな要素でもある、と思う。今回のはえぎわ公演も、より濃密さを醸成する余地が残っていたと感じた。

 飛びぬけたイケメンも美女も居ない(失礼)はえぎわの、公演観劇は過去1度のみ、川上友里を客演で三度ばかり、他の俳優も客演で何度か拝見した。
 が、劇団はえぎわの正体、輪郭、未だ知らず。

ネタバレBOX

芝居の中身だが、白痴を連想させるあどけなさを宿す女(川上友里)が、「無力」ゆえの力を発揮する。「まるでロミオとジュリエットのような」恋の相手(清水優)を見出した彼女の危うさと痛快さが良い。男との出会いのアイテムである自転車は他人の物であり、これを「返す」という行動に出たことで、その家族に負い目を負ってしまう。愛を貫こうとする意志と、負い目との葛藤の中で、彼女が通俗的な次元の悩みに絡めとられて行くあたり、残念な感じが漂い始める。
 自分が関わった事である人が死に、その義理で恋を諦めねばならない、と一度はなるが、次のシーンでは「諦めない」に重心を移し、あとはどう(精神的にでなく物理的に)脱出するか、という展開になる。
 彼女の「心」の障害がなくなった時点でこの話は解決に向かう訳だが、これでは終われない・・と作者はサイドストーリー(というかメインストーリーをメタ化する筋)を加え、さらに「これだけはやっちゃいけない」と自ら認める(台詞でも言う)オチで、話は終わる。
 後半の詰め切れなさに残念さがあり、恐らく「時間切れ」だったのだろうと想像された。
 しかし、にもかかわらず一応の形に仕上げた才をこそ、評価すべきか・・・
娼年

娼年

ホリプロ

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2016/08/26 (金) ~ 2016/09/04 (日)公演終了

満足度★★★★

猥らに熱くはじけ散る女体たち・・・純正三浦大輔の舞台。
チケット発売早々、二次市場でしか買えなくなった口。キャストをみると松坂桃李・高岡早紀・佐津川愛理・・そうなると、ああなるのか・・。こたびは裏調達せず当日券狙い、平日昼間のせいか、40名程度、特段アナウンスは無かったので、全員入ったのだろう。
比較的安価な立見席がそこそこ残っており、脇の中ほど、観劇にも支障はなかった。
 休憩15分挟んだ3時間が長くない。セックス三昧である。何よりその描写はリアルで、緊張のため体がしびれてくる(結果脳がぼんやりし、酷寒の山中での睡魔のように眠くなる、なんて人も居たかも知れない)。

 三浦大輔主宰のポツドールの名は「ニセ・S高原から」なる企画(平田オリザ作「S高原から」を4団体で競演する)で知った。・・という事はセックスレスの芝居もやる訳だ。。 が過去に見た三浦氏の劇団公演2作、外部演出作品3作で、交合シーンの無い芝居は1作のみ。その1作も、中心となる女性が「人間」として裸にされ、衣服を剥いだ時の体臭を嗅いだかのような印象が残っている。
 『禁断の裸体』では寺島しのぶが脱ぎ、今回は脱ぐ女優の「数」に眩暈を覚えるが、見どころはそれぞれのセック ス描写のリアルさ、にある。
 三浦氏が演出する男女間の心の動き、中でも性衝動に結びつく瞬間の描写は緻密で、唸らせる(何度か見ると三浦風味というべき趣があるが、それは演劇の制約との兼ね合いから生まれたものかも)。
 三浦氏の芝居は演技がナチュラルであるから必然的に全体がこまやかで濃密になる。性行為に関しては、物語上の必要最小限というものがあり、赤裸々には見せるが、ご愛嬌と受け止めればで笑えもする。
ところが『娼年』では、どのセックスも省略の技を使わず「行為」の始まりから終わりまでなぞる。姿態の移りゆきから声の変化までが自然で起伏があり、つまり「物語」がある。・・毎度ながら処理はうまい。女性はパンティ、男もパンツを脱ぐがうまく客席の視界をかわしつつ臨場感を失わせない。「行為」のパターンも多様だ。ともかくこの物語にとって、「娼夫」となった学生・森中領がいかに女性の抱える「核」に触れ得たかが重要であるため、その触れる手段である所の行為のディテイルは省けないのである。
 互いの身体への距離感が縮まる瞬間、それは女性が欲求を自ら解放する瞬間、自己肯定へと踏み出す瞬間だ。このとき彼女らは神々しい。その根底に切実な何かが見えるからだろう。オーガズムは女性にとっての勝利。 この儀式の媒体である領が、彼女らの存在をそのままに受け入れる器となり、またテクニック(又は名器)を持つゆえ女性を昇天させるが、彼もまた「一緒に行く」(あるいは行かなくとも寄り添う)のだ。
 冒頭、領が母親と最後に別れた日のシーンがシルエットで描かれる。年上の女性の心に寄り添う事のできる二十歳の青年。幼い頃に別れた母親の影を追う彼の淋しげな背中が、女性たちの「物語」を投影する映写幕であるような・・そんな具合だろうか。

 冷静になれば、快楽を欲する「疼き」を正当化する「物語」としての、出会いの空虚さを思いもする。経済的余裕のある(経済的な悩みから開放された)女性にしか、取りつかない「病い」、否、「業」というものを見る。だが「時間」の芸術である演劇もまた、瞬間の快楽を追い求めてやまない人間の欲求に応えるものだったりする、かも知れない。

 領が印象的な出会いを果たした女性とのシーンは最後にやってくる。そこに至る領=娼年の「物語」は存在するが、それに増して、全ての「行為」における手足の動き一つや息遣いの中に刻み込まれた「物語」に、圧倒された『娼年』であった事は確かである。
 もっとも、3時間という「一瞬」が過ぎ去った後、(「行為」と同じく)感動と名の付くものは残らない。脳の一部が焼け、ただれた感覚が心地よい。

追憶のタキシーダンサー

追憶のタキシーダンサー

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2016/08/19 (金) ~ 2016/08/29 (月)公演終了

満足度★★★★

浅草にこの舞台ありき
前作に続き、二度目のドガドガ+を観劇できた。楽しみであった。
 ストーリーのある芝居ではあるのだが、必ずある歌と踊り、お色気が、この伝統ある歓楽街の一角で過去何人もがそれを味わっただろう、その場所もろとも立ち上がるような錯覚に陥る。
 時折登場して「くさい・・」とスプレーを撒く白髪オヤジ(望月六郎)の挙動が意味深。これは過去ではない、「未来のにおいだ」と吐く。
 時代は昭和15年。きな臭い時代の、目一杯エロ目線で射抜いた男女(または女と女)の物語。(性)愛に生きる事の生き物としてのまっすぐさが、肌で感じられるのは、華美な演出に紛れがちであるが俳優たちの体を張った仕事からだろう。
10周年ゲストとして隈本吉成(二兎社「時の置物」以来)、もう婆役をやる年齢か、<?>一点の石井ひとみも好感。

 この舞台は浅草ならではの作りだが、周りを見渡せば実はオリジナルな存在かも知れない。他には無い客層も味わいの一つ。浅草演芸ホールを横目に東洋館に足を踏み入れるのも独特な気分である。

余白狂想曲

余白狂想曲

タテヨコ企画

OFF OFFシアター(東京都)

2016/08/24 (水) ~ 2016/08/28 (日)公演終了

満足度★★★★

台詞台詞台詞。
タテヨコ3度目、リクウズ2作目。
野田秀樹「風」ではないが、「ばり」の、台詞の途切れないリレーが、感情の追っつかなさを顧みず続けられる、テンポとシュールさが良い。
台詞には十分遊びをこめているが、しかし通常の対話が軸で、言葉遊びが真実(実在)に転換したりする野田とは異なる。
話は遺産相続をめぐる醜い争い・・というよくある話だが、外郭に位置する人物たちがまたそれぞれシュール。最後に登場する公証人などはじじいの役を女性がやっている。

ただ、ストーリーは現実的に進んでおり、後半ややリアルさに欠く部分は勿体ない。意表を突くストーリー重視なので、変えようは無いだろうが・・。
遺産や遺言を巡る話なので、現行の法律が登場する。最大の転換点は、長女が二つの遺言書を破棄する場面。
・・死んだ父が自宅に残した遺言の他に、公証人に預けた遺言(あやしい)が出て来る。その他、父がよそで作った子ども(成人した女性)の登場、死を見取った家政婦による「内縁の妻」証言と、混迷がきわまる。このとき、長女がぶち切れてテーブルに置かれた二つの遺言をズタズタに破いてしまう。
スッとする場面ではあったが、ここで弁護士に「遺言書を破棄した者は相続の資格を失う」との条文を読み上げられてしまう。
 多分「既に内容を確認済みの遺言」を感情にまかせて破いてしまった、程度でこの条文は適用にはならない。長女がショックを受けてしまうのもちょっと。これを見て妹が(夫の意に反して)遺産放棄してしまう必然性も見えにくい。そして、この顛末が、親族を除く全員の共謀で為されていた、というオチも、その延長で「リアル」さを欠いた。

 従って、「長女の悲劇」以降のくだりをあまり深刻な作りにせず、「そんな事もあり得る」程度に、飄々と終えてくれれば、ちょっと辛子の効いたブラックユーモアに収まったのではないか。
 とにかく台詞の応酬にうまみのある芝居、最後までシュール路線で突っ走ってみてもよかった。

窓

ハイリンド

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2016/08/23 (火) ~ 2016/08/31 (水)公演終了

満足度★★★★

早船+ハイリンド 1シチュエーション=職場。
女優枝元萌をしばしば目にしているので一度は観た気でいてhylindだが、初だった。舞台を見ると「固有名詞」としての劇団の個性があり、枝元の持ちキャラ全開はホームグラウンドの証か・・とみえた。
作者・早船氏の劇団サスペンデッズは、戯曲と俳優のレベルの高い劇団を見出す喜びをくれた一つだ。演劇界の裾野へと劇団渉猟を始めた、数年前の事。
今回は一つの場(あるスポーツ用品の会社の中で狭い)で展開する登場人物5人によるストレートプレイで、時系列にドラマが進行し、歌とか踊りや回想もなく、全て会話で話が展開する。今時珍しいかも知れない・・とふと思ったが、その意味で素朴な、というか普通の、役者による、役者のための芝居。
達者な役者揃いだったが、hylindの2名が終盤、人物の本音に触るやりとりを畳みかけて芝居を「深み」に誘う、この力技が目を引いた。
終わってみればウェルメイドなコメディテイストの芝居だったが、役者が役を気持ちよく演じる姿は気持ちがいい。
(1h30m)

KYOKAI 心の38度線

KYOKAI 心の38度線

劇団 東京芸術座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2016/08/18 (木) ~ 2016/08/22 (月)公演終了

満足度★★★★

境界、教会、そして、、
自身なら「巨魁」と言ったかも・・ このドラマのモデルとなった崔昌華という在日一世(故人)は、その足跡や彼に関する証言をみるに、シンプルで力強い権利意識、凡人の五歩先を行く背中、が思い浮かぶ。彼に前を横切られた者は、風に頬を打たれ、その風に「君はどう?」と言われたように思うのではないか。
氏の娘であるピアニスト崔善愛が音楽監修、生演奏もあり。初日挨拶では、この舞台作品を自分のものとして愛しているようであった。

氏の「運動」に捧げる人生の発端として、寸又峡の旅館に立てこもった金喜老事件が取り上げられ、これが前半の軸。その後の指紋押捺拒否や、娘の再入国不許可事件などは芝居では端折られていた。
後半の軸である訴訟(NHK相手の名前裁判)では明快な主張を展開する。しかし史実としてはこの裁判は敗訴した。

山谷典子の本は、少々台詞が硬かったり、逆に柔らかでなくて良いと感じる部分もあり、実際に俳優が本読みを始めた段階でも稽古に参加し、推敲し直すという作業を一工程設けても良かったのではないか。ただし以前酷評した本に比べ、一本筋の通った戯曲になっていると感じた。

舞台装置は「考え」の跡が見えたがもう一つでなかったか・・。リアルでなく象徴的装置だが、にしては具象に見えてしまう階段三つ、想像力の働く余地の面、また機能面でも、違う形を考えたい・・という欲求にかられた。(もっとも専門外なのでこの戯曲にこの装置あり、やも知れないが・・)
俳優が一番大変そうで、細部に宿る神をないがしろにしてしまった・・と見える場面も幾つか。
いずれも初日を見ての感想。「作り」の面では1ステージごと、には無理でも楽日にはどうなっているか、観たいが観れない。

この作品を数ステージで終えるのは惜しい。題材に鑑み、より熟成させ再演を希望である。

7 -2016 ver.-

7 -2016 ver.-

studio salt

神奈川県立青少年センター(神奈川県)

2016/08/17 (水) ~ 2016/08/21 (日)公演終了

満足度★★★

ストレートプレイ+α
芝居塾、主に若者の参加で成る「参加型」の企画では、「完成」が形として見えるダンスや歌が中心にあるのが熱が入りやすい。今回はストレートプレイで「演技」の課題に若者らは挑戦した格好だが、「音楽」としては彼らはオープニングと芝居の途中、そしてラストにストンプ風の「演奏」をやる。掃除道具などの物を集団で鳴らす「音」は、この芝居が犬猫の殺処分を行う保健所(今は別の呼称だろうけど)を舞台に、(対動物に限らず)人間のエゴ、身勝手さを声を荒げず描出する内容なのに呼応して、言葉にならない心情を「音」に乗せ、力強かった。
問題の、若者たちだが、拙さは当然見え隠れするが、巧まず滲み出るキャラや表現がその分をカバーして余りある、かどうかは別にして、このストレートプレイに貢献していた。
80分。

ネタバレBOX

一考したいのは檻の中の犬たちのやり取り、舞台全体の中での処理。奥の檻と、手前の職員控え室の関係・・・手前でのやり取りをじっと見ている犬たち、という描写があったが、二つの空間の関係というか、意味合いをあともう一歩踏み込んで整理し、役者はそれを飲み込んでさらに能動的に生き生きと演じる・・・という具合に行きたかったな、と。こないだ檻に入れられて泣いていた新顔の犬が、次の場面では明日には殺される位置に座っていたりする、などの工夫は良いが、犬の感情のグラデーションの細かさがもう一歩で、単調なイメージを出ない部分もあった。擬人化した結果、人間の感情が強くなり、「動物」らしさ(達観?)を少し書き込んでも良い気がした。
イヌの日

イヌの日

ゴーチ・ブラザーズ

ザ・スズナリ(東京都)

2016/08/10 (水) ~ 2016/08/21 (日)公演終了

満足度★★★★

穴ぐらで見る夢
やっぱしスズナリだな・・。三つの場面の大部分を占める薄暗い地下空間として見せる舞台空間の、猥雑で、陰影が深く奥行き感のある美術の出来は、スズナリならではと思う。
風変わりな設定(をもたらしている奇異なるストーリー)、変人揃いの登場人物。
リアルに想像すれば身震いしそうな「じめじめ」な場所での、あっけらかんと突き抜けた(というかネジが一本抜けた)奴らと、外で地べたに近い生活をしている世俗代表が衝突し、事の成り行きがぐにゃり・・と変調を来す感触が良い。
空間と言い、人物の造形(役作り)と言い、濃厚でうまい味に仕上がった芝居と感じた。

長塚圭史の作品は、ストレートプレイでは初。

庚申待の夜に

庚申待の夜に

風雷紡

小劇場 楽園(東京都)

2016/08/10 (水) ~ 2016/08/14 (日)公演終了

満足度★★★★

谷中村の夜は更けて
初見の劇団で若手らしい様子だが、谷中村とは・・。
芝居は「楽園」の狭い空間にフィットする、細かな伏線が役者のしぐさに手際よく放たれる、目立ての利いた芝居だった。田中正造の没後間もなく、立ち退きに応じざるを得なくなった村人が、離散の前夜、古くからの風習「庚申待ち」で夜を徹するその一夜の物語。「村」社会らしいどろどろした内輪騒ぎが終盤に加速して暴露合戦の様相だが、その背後には「鉱毒」があり、それゆえの差別があり貧困がある、その八方塞がりの様は「とどまるも地獄、出るも地獄」の、放射能毒におかされた福島の現状に重なった。
ただ、史実を扱った、テーマ性のある芝居をやるならもっと田中正造の実際の足跡にも言及され、「今」と地続きの「歴史」をそこに感じたかった。もっともそうなるとこの芝居の面白みは半減するのかも知れないが。
暗鬱な雰囲気、「楽園」の使い方もうまく、大柱も生かした演出を施していた。里芋の煮っ転がしが皿に一個ずつ割り当てられ、お茶で食す場面がよい。貧しさの中の祝祭感が活写されていた。

いま、ここにある武器

いま、ここにある武器

風姿花伝プロデュース

シアター風姿花伝(東京都)

2016/08/13 (土) ~ 2016/08/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

風姿花伝プロデュース第三弾、プレビュー公演を観劇。
休憩を挟み、後半長めの4人芝居。2幕目は尻の痛みを覚悟して臨んだが、尻を気にする余裕もなく、芝居に飲み込まれた。
千葉哲也演出・出演。最初はなじみづらい「翻訳劇」の劇世界と感じたが、最終的には頷かされた。
小川絵梨子の翻訳について、評価する素養はないが「翻訳調」ではなかったし、こなれた日本語の台詞になっていたと思う。

心理的圧力=拷問・・・ 言葉が相手に与えるダメージ、に関する研究が行き着く先とは。。人間心理を研究し実践し尽くした者の前で崩れ落ちる生身の人間を見ながら、イラク戦争時に使用されたグロテスクな最新兵器を思い出した。それらの前に、人間は当然ながら脆弱な存在だが、「武器」をつぶさに眺めると、その武器が人をどういう風に殺す武器なのか、作る者の「思想」と言えば大袈裟だが、それがあるように思える。本編のテーマとはズレるが、そんな事を考えた。考える余白をしっかり残す作品。深い。

ネタバレBOX

痛恨は前半、千葉氏演じるネッドが何を発明したのか・・を喜々と説明する場面でウトウト。問題のそれを巡って話が動いて行くので、周囲の反応が妥当なのかどうか、判断できなかった。
最初は千葉氏のキャラ、中嶋しゅうが彼の兄だという設定、等等がうまく飲み込めず、「そこで何が起きているのか」が見えづらかった。
プレビュー公演という事なのか、俳優が探ったり試したりしている風に見える部分も。
カーテンコールの呼出しには暫く出て来ず、当惑したように礼をしていた。芝居はプレビューである事を忘れさせる出来で、長い拍手は当然に思えたが。

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