tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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SQUARE AREA【ご来場ありがとうございました!】

SQUARE AREA【ご来場ありがとうございました!】

壱劇屋

王子小劇場(東京都)

2016/04/06 (水) ~ 2016/04/10 (日)公演終了

満足度★★★★

気持ちいい感じのフィーリングっぽいみたい。
関西からの遠征という事で、口コミにも揺れ、ついつい王子まで出かけた。
パフォーマンス部分に長け、音楽に合わせて見事な集団の動きを見せるが、「物語」との適切な相互干渉があって、パフォーマンスの一挙手一投足に「演劇的」でないニュアンスが微塵も無いのが見事である。演劇として成立した舞台。
 スクエア(四角)の空間を巡る法則的なものもあって、その「演劇的な」説明も周到になされる。アドリブ的な小休止的な時間も活用しつつ、そつなく先へと進めていく。
 異空間での事象を心地よく謎めきながら見て行くうちに、各登場人物の背景が語られ始めると、やや混沌として来る。しかし終盤に畳み掛ける「パフォーマンス」は、その中で謎解きの最終段階の説明を担わされ、場面の色彩の変化もその中にある(音楽だけは相を変えながらも同じリズムで続く)。
 ストーリーを語る演劇ではあるが、この舞台の核はやはり音楽に乗せてなされる集団ムーブ、踊り、ロープを使ったパフォーマンスだ。技術を見せるのでなくそれによって表現されるものがあるのだ。特にロープを用いたそれは複数の協力でなされ、人が入れ替わり立ち替わって「進行する何か」に奉仕する。動きは美しいばかりでなく、常に含意がある。そこに感動が生まれる。
 

サイクルサークルクロニクル

サイクルサークルクロニクル

monophonic orchestra

APOCシアター(東京都)

2016/04/06 (水) ~ 2016/04/11 (月)公演終了

満足度★★★★

APOCシアター初訪問
千歳船橋駅にも初下車。観劇のお陰で知らない土地を踏める。75分(アナウンスによれば)という短い劇だが中々どうして濃密な、タイミング、ニュアンスとも細部にまで作意の及んだ(と見えた)劇だった。 大学生の「らしさ」は、若い俳優の最も得意とする所であるのか、書き手がそうなのか、現代口語系の芝居に時に形態模写かと思う位のがある。共通の記憶に訴えられているのかも知れないが。。
 「痛い自分」が主人公。この痛さには身に覚えがあるが、そこに瞬時に深く感情移入した地点から、出口を見出して行く「どん底から人並み」の経過がダイナミックにドラマティックに感じられる気がするが、大部分が学生に見えた程の若いお客たちに同じ感興はあったのか・・は判らない。
 時間のミステリーの謎解き物語と見えたドラマの「謎」が、「ほとんど盲目に近い状態」の暗喩であったかと、後になって思われたりする。 時間薀蓄も、それを語るキャラも楽しく、全体に個々のキャラが明確で、棲み分けというか、関わりの「らしさ」も思わず舐めたくなる位「あるある」になっていた。「学園物」への評価というのは少々甘くなるものかも知れぬが・・
 劇場は入口側がステージで、壁を背後に長い通路状になっている。役者の出はけがその入口(下手側)と、上手側に開いている階段(下へ潜る)の二つのみ。 それが単調にならず、出入りの方向もうまく使い、冒頭からの「時間のミステリー」の演出・演技も見事で一気に劇に入り込ませた。
 恋愛話と括っても誤りでないが、学生、あるいは二十代が持つ漠然とした不安や気分が通奏低音に流れる。そこが良い。
 主役女性の貢献度も高し。

愛、あるいは哀、それは相。

愛、あるいは哀、それは相。

TOKYOハンバーグ

「劇」小劇場(東京都)

2016/03/30 (水) ~ 2016/04/10 (日)公演終了

満足度★★★★

俳優=人物の実在感。「被災」に踏み込んだドラマ。
Genpatsujiiko-Banashi。舞台は伊勢。神宮のお膝元、うん年に一度の大掛かりな何やらを翌年(2013年?)に控えて、群舞的な何やらを披露(奉納?)するための地元民による練習も始まっている、そんな田舎町のとある喫茶店にある家族がやってくる。
 劇は喫茶店のみで通す(照明を駆使して別の時空を挿入する等は無かった)。 一場のみ、時系列に沿って進行するリアル系のストレートプレイである所に、「被災」を扱う芝居に取り組んだ作り手の誠実さが感じられた(たまたまかも知れないが)。
 
 原発事故の被災者を取り巻く事情として、忘れてならないのは「放射能汚染」をあげつらう話が地元福島では出来ないこと、除染して環境整備したら地域は元に戻る(住民は帰還する)、というシナリオ以外の可能性は語れないこと、避難した者は裏切り者とされること、間もなく県外避難者への援助が打ち切られること。。。
 この芝居では、(放射能からの)避難を助言したジャーナリストが当事者から「無責任」と非難される場面がある。この背景には、「避難」を妥当な選択とは認められず、公の支えを得られないという理不尽な状況がある。放射能被ばくが認定されない限り、避難を促した者は嘘つきであり、混乱を煽った迷惑な人間だという事になる。 殊勝な記者はその声を黙って受け止めるが、実際のところ避難民を苦境に陥れている張本人は無論彼ではなく放射能被害を認定しない政策担当者(政治家・官僚)だという平易な事実は、霞ヶ関の建物の奥の奥、地下の倉庫にでもしまわれて表に出てこないかのようだ。

 この構図を仄めかし俎上に乗せたことにより、この芝居の価値は相対的に高まっている。非情な社会の現実がある事の裏返しだろう。

ネタバレBOX

この本には鋭い示唆が幾つかある。
「被災者」を前に、恒例の年越しどんちゃん騒ぎをやって良いのか・・ 喫茶店に出入りする人たちが思い悩む場面がある。通常ドラマでは人の判断に誤りがあり、それが波紋を拡げドラマが展開するが、この問いには、有効な答えがない。観客も皆、彼らとどう年越しを過ごすべきか答えられないだろう。で、考える。「真剣に考える」動機を与えている、いたいけな娘二人の存在も脚本的にはうまく利用している。十代の娘はどんな場所でも(田舎町なら尚のこと)「主人公」となる資格を持ち、彼女らのために周囲は喜んで脇役となる。
 ドラマの人物たちが考えて出した結論は劇中盤の盛り上がりを作るが、私には若干、狙いが判りやすい分、入り込めなかった。作り手が「これは良いアイデアだ」と確信しているからか、受け手がそのように受け止める事に(台本が)なっているからか、、リアルな反応の交流がそこにあれば、良いのだ・・と、思うのだが。
 許嫁の遺体のある被災地に帰って行く長女を、母は引き留めあぐね、しかし叫ぶ。「外に出る時はマスクしろ」「玄関で埃を落とせ」「風の日はあまり出歩くな」・・ 芝居では、母は娘に対してそれを言わず、正面芝居で「向こう」に向かって、言わば心の声として、上の台詞を言う。 これは例えば、靖国の母が息子の戦死を嘆く事を許されない時代の、所作である。今の時代はまさにそれに等しい時代だ・・と揶揄する意図が作り手にあったか。
 否私の感じでは、「感動的な場面」の作りとして、「受忍」の姿を見せた、というだけではないかと訝ってしまった。 「受忍」の感動とは、「変えられない状況(悲劇的状況)」の哀れな犠牲者が耐え忍ぶ姿に対する感動だが、もっと言えば、本当は変えられる状況を、「変えられない状況」という事にして、その犠牲者の哀れな姿に「涙」する事で「変えようとしない」己自身を免罪する姿に他ならない。
 芝居の世界くらい(福島でなく伊勢という土地ならなお)、もっと大きな声で、娘に聞こえるように母はその言葉を言い、それに違和感を抱く観客がいたならその違和を目一杯味わうがよい・・・その位のチャレンジはしてほしかった。
 「そこまで自粛するか」という事だが、自覚的であったのかどうか・・いずれにせよ惜しい。

 示唆深かった別の一つは、ドラマの最終段階に判明する一つの事実から受けたものだ。オチに等しい部分なので具体的には伏せるが、被災者や被災地の支援に携わる人たち・・彼らは一般的な「正しさ」に従って行動しているのだろうか。否、個人的な動機で恐らくそれぞれ関わっており、本当の、というか継続的な行動というものは、「人として関わる」事実からしか生まれず、私たちはその事を問われているのではないか・・ この視点がドラマに組み込まれたのは人物の自然な行動としてだったかも知れないが(芝居としては「符号」による感動演出に流れた嫌いはあるが)、作品の質をぐっと高めた。
【公演終了】箱の中身2016【感想まとめました】

【公演終了】箱の中身2016【感想まとめました】

映像・舞台企画集団ハルベリー

テアトルBONBON(東京都)

2016/04/06 (水) ~ 2016/04/10 (日)公演終了

満足度★★★★

氏の演劇魂は届いたか
がっつり「演劇」人だった(伝聞)という大谷氏のホームグラウンド=「壱組」の名を見て、また役者陣にも心動かされ、観劇した。チラシにもおぼんろの名が見えるのは、この企画じたいがわかばやしめぐみ(おぼんろ)の所属するハルベリーオフィスによるもので、壱組のかつての作品を復刻したという恰好であった。 ポストトークでのわかばやし演出の証言によれば、演出仕事は久々とは言え経験者、もっとも監修協力の大谷氏が大詰め段階で関わり、形を成した(迷いのあった部分が確定した)という事だ。
芝居は原田宗典による戯曲(初演は25年前)で、構成はA面、B面のLP盤のよう。B面はA面の謎解き編である事がB面の途中で判明し、テイストの異なる二つの芝居を観る気分を残しつつ、一つの完結したドラマを観る事になる、のだが、最後はB面物語としての結語で締められる、よく出来た戯曲に思えた。
 若い(と見えた)演出の今回の舞台でのチャレンジは功罪相半ばしたかも知れない・・と感じたが、基本的には戯曲の世界を構築し、単なる謎解きプロセスを消化するのでない「生きた」人間の芝居を立ち上げていた。
細部はネタバレ欄にて。

ネタバレBOX

なかなかもって奇異なチャレンジは、舞台下手袖に、ほぼ舞台上と言って誤りない場所に客席がある。舞台と客席が渾然一体となるおぼんろのアプローチをこの小屋に援用したとの事だが(ポストトーク)、出ハケは左右両側の舞台手前の鉄扉、舞台上手の袖(奥と手前)だから、下手側は不要であるとは言っても、見た目に異様だ。中央の芝居が進むにつれ、どうやら下手に居るあの人たちは芝居には絡まないんだなと、判る。紛らわしさと、後で判った時のがっかり感は、プラスにはならないように思う(少なくとも、後で登場すると「判った」場合のほうがワクワクする。その逆だから相対的にガッカリである)。

 さて桟敷童子顧客を任じる私としては、原口氏のあまりにジャストな演技に舌を巻いた(これほど出来る役者だったか・・と)。 かなり微細なタイミングを要するA面の世界を引っ張っていた。
 この「引っ張っていた」という印象は、他の役との「力量の比較」から来るのでなく、場面の質感を捉えた上でどういう演技の質が求められるのか、を巡るもので・・、佐藤氏、保村氏の「うまさ」や「味」に感じ入りながらも、「正解」に迫ろうとして難易度ゆえに届かないのか、目標設定の微妙な差ゆえに(うまいのに)迫れないのか、、後者ではないか・・と感じないではなかった。

 A面はよく出来ているが、B面あっての全体という意味では、B面は展開の妙を感じさせる部分もあるが、不足感も多くなる。
「次第に部分が連結して全容が現れる」ためには、戯曲の「台詞」のみならず役の人物の作りの的確さが必要。役作りの不備があればたちまち淋しげな穴が開いてしまう。
 どうしても気になったのは、両面で妻役を演じた女優の演技だ。二人の男と、愛の形は違えど(後の方の夫には本当の愛情は湧かなかったというがその言葉と裏腹に十五年という歳月が何を表現しているかを思うべし)、寄り添って来た時間的な長さや、元夫との間にどんな関係を求めたのかなど、考慮すべき点が沢山ある。 生きた年数の長さは、一つの行動のもつ背景の重さ、複雑さも意味する。 「死ぬ」動機は、果たして相手の口にした「子供が居る」の一言に対する嫉妬・落胆だろうか。
 これについても演出はポストトークで触れていたのは、壱組版では妻役は徹底して利己的なキャラに描いていたが、今回は女性である自分が演出するに当たり、そういう行動をとった女の背後にあるものを、出したかった、という意味の発言。 私なりに解釈すれば、男の人生を狂わせた女を悪く描くのでなく、感情移入できる(真っ当な?)女性にしたかった・・だろうか。
 壱組の芝居を知らないので何とも言えないが、少なくとも善悪の問題ではなく、たとえ自己中だろうと醜かろうと、自分の欲求に徹しようと足掻く中に人間の等身大を見、その時人間的魅力をたたえ始めるのだと思う。 そしてその思いは遂げられない。 自ら人生を中断させるおろかさ。「他にどうかし様があったのでは・・」と思わせる隙間が、まだある。
 元夫が、突き放す言葉を妻に吐く「理由」も、ドラマ的には重要だ。 これは相手の思いに実は同調しきれていない(乗りきれない)夫自身の気分を、最後は正直に言わずにおれなかった、そんな風に解釈するのが最も妥当ではないか。 そうなると惨めなのは女である。 歳も食った。若さの残り香のあるうちに、失った青春をもう一度・・・その醜い足掻きは、かつての「本当の愛」よもう一度にはならなかったことを予感させる(今回の舞台では、単純に若い時代に戻った様子だった)。そうして初めて、自死も必然に思えてくる。
 一人、トチ狂った現実をわきまえない女の仕業、に落ち着くのを今回の演出は嫌ったのかも知れないが、そちらのほうがリアリティがあり、リアルな人間像こそ観る者の中に入りこむ。
 二人の愛が本当であったと信じさせる前段があって、そんな二人なのに男が「子供がいる」と告げたことで亀裂が入りかけ、元夫はその「亀裂」を見たくないがために、「本当は女房がいて、一緒になれない」などと嘘を言う。 だが、これではとても自死には繋がらないように思う。 子供がいても良い・・ もし自分がどん底にいるなら、相手の「愛」が確かめられさえすれば、そう受忍するはず。でなければ、実はどん底にはいなかった、なのに自死してしまった。これは破綻である。
 二人の会話の「意味的な」構成の問題。

東京ノート

東京ノート

ミクニヤナイハラプロジェクト

吉祥寺シアター(東京都)

2016/03/24 (木) ~ 2016/03/28 (月)公演終了

ミクニヤナイハラの正しい見方
『東京ノート』は平田オリザの受賞作でもあり代名詞でもあり、「ああ、あれをやるのね」と噂さるべき演目である。ところが連射される台詞を追っても「ああ、あれか」が見えてこない。「美術館での話」という以外、実は知らなかったんである(どこかで見たか聞いたと勘違い)。「これは大変だ・・!」海に投げ出された体を岸辺まで1時間かけて泳ぎ切るぞ・・という覚悟で、席も条件のよくない席から、持っていない双眼鏡を裸眼で見るだけの気合で目を凝らし、台詞に耳をそばだてる。が、ついに沈没。睡魔に負けた。
 台詞の機関銃的連射と動きのコンビネーション=ミクニヤナイハラ流で、過去オリジナル脚本も上演しているし、今回もこちらでの上演版に変えてあるというので、元戯曲を知らない人も対象に考えられている。従って「寝てしまった」のは単に自分の体調か、感性の問題とも。。
 がやはり、「東京ノート」をヤナイハラ流に料理する意図は、目で見ての感想は、原作を踏まえてこその面白さ、に他ならない。 静かな美術館のロビーで進行する「静かな」話が、せわしなく動き、喋るスタイルに置き換えられている面白さ、これが第一だ。その延長で、戯曲の持つテーマ性?的なものが徐々に焙り出されてくる(そこが矢内原氏の本領)、となって来るとするならば、そこもまた表現的には自然、抽象的になるだろうし、この「変換」の妙を感知するには、やっぱり原作を知らなければ難しい、ということになるだろう。
 美術ならば(絵画等「時間経過の芸術」でないもの)、何度も見直して味わい返すことができる。それでも予備知識が鑑賞を邪魔することはない。演劇は基本的に一度、時間とともに味わい、終演を迎える。
そこで、「美術」的アプローチに近い演劇(ストーリー説明を重視しない演劇)を観る場合、作品の背景やアプローチ法など予め知っておくのが有効だと思う。今回なら、『東京ノート』は読んでから観るべきである。

 では、体を頻繁に動かしながら台詞を言い、全体としてムーブ(ダンス)となっているミクニヤナイハラ的形態そのものが、テキストの如何にかかわらず訴えてくるものはないのか・・といえば、それは何がしかあるには違いない。だが、「こんなことやってる私たち」をも相対化してメタシアターとして括って鑑賞できる作りになっているかと言えば、そうではない(と思う)。ミクニ的「東京ノート」の世界を、つまり戯曲の世界を、味わうために作られたもので、何が話されているかはどうでもよい、という事にはなっていない。
 従って上に述べた事が言える。
 ところで、ミクニヤナイハラは笑って観れるパフォーマンスである、という事も発見した。批判性が先に立つかのようなイメージがあるが、実は感動しいな「お話」を紡がんとする人である、と印象が変わった。(だからメタシアター的な処理などしないのである・・たぶん)
 次の機会があれば、ぜひとも観て笑いたい。

新・こころ

新・こころ

劇団フライングステージ

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2016/03/30 (水) ~ 2016/04/03 (日)公演終了

満足度★★★★

面白き哉。読みかへ版 『こゝろ』
2008年初演作品の再演。夏目漱石の「こころ」を新解釈した学生が卒論の相談に「先生」を訪ねる。この「先生」がいつしか「こころ」の先生に重なり、学生は「私」に重なる。実は学生はゲイで、二丁目の仲間の会話から、彼が「先生」へ思いを寄せているらしい事が分かったりする。女性役も男優が女装で行う。男性らしいゲイと、おねえキャラのゲイ(現代)が、中盤からじっくりと展開される原作「こころ」の世界では男と女の役となる。そこに「新」解釈が徐々に入り込んで来るが、昔十代半ばに読了して以来の文学作品の立ち上がって来るわくわく感が、新解釈の挿入にも邪魔されず、それとして見れた。いずれにしても、人間の欲と恋情とエゴに露骨に直面する話には違いなく、昨秋みた演劇倶楽部『座』の「友情」に重なった。(立場は逆になるが)
 最近演出者として名前を見る関根信一氏の作演出舞台という事で、初観劇した。この劇団の「決定的な」個性を知らずに観、今ネットで確認した所だが、芸術の世界では今や「異種」ではなくなったのだろう(むしろ本流とも)。舞台上の特徴は、「男」がオネエ的装いで女性を演じる点ぐらいか。これを武器にもしている。 今後気になる劇団になった事は確か。
 主役「先生」に尾崎太郎を当てたのも秀逸、がっつり演じる姿から、謎めく東京演劇アンサンブル演技メソッドなるものに、思い巡らした。
space梟門、既に3度目。

カムアウト

カムアウト

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2016/03/19 (土) ~ 2016/03/31 (木)公演終了

満足度★★★★★

坂手洋二の筆力。
燐光群の舞台が「濃厚」と感じた(私にとっての)初期作品『最後の一人までが全体である』『屋根裏』『だるまさんがころんだ』等の感触に通じる、粘性の強さは恐らく若い坂手氏の「脚本力」に対する印象でもあるだろう。(今が衰えたと言うのではないが、若さ故の「熱」があるのは確か。)
 オーディションで集まったのか、多くが客演で占められた女優たち、そして藤井ごう氏の傑出舞台を目にしている事もあり、都合を付けて観た。
 性的マイノリティの27年初演当時認知度、偏見度からは、今は隔世の感ありと坂手氏が書いていたが、ワープロ専用機に「私も挑戦してみようか」という台詞が吐かれる時代。 彼女ら(彼も)が、各様の、各状況の苦悩を持ち、それを語る事の許される「場」で交わされる言葉全てが示唆的で、事は性(行為)的領域にも及ぶ。赤裸々が、信じられる内面からの必然と見えるので、場のアトモスフィアは「濃厚」となり、主人公の思い・・無くなろうとするこの場(建物)を惜しむ・・に、観客は同期する事ができる。
 この演出は藤井氏だからこそか・・。 この「濃厚な空気」を先導して作っていた、渋谷はるか他の女優達に敬意を表したい。美しい場面が「思い出」のように浮かんで来る。
 偏見と弱者(異端)攻撃はいつの世もどこにもあるが、終盤に公僕たる警察による「嫌がらせ」のくだりに無力感をおぼえるのは、今も本質的に変わらない事実がよぎるからだろうか。

兄弟

兄弟

劇団東演

あうるすぽっと(東京都)

2016/03/30 (水) ~ 2016/04/03 (日)公演終了

満足度★★★★

東演の舞台をしかと観る。
東演パラータという劇場に昨年、十数年ぶりに訪れ、文化座との合同公演『廃墟』を観た。この公演が「東演」初観劇だったが、他劇団からの客演(及び文化座)俳優の出色に比して、東演俳優が(次男役南保以外)どうにもショボく見えた。コンスタントに公演を打つ東演の、ベリャコーヴィチ演出舞台の評判等も耳にしながら見逃してきた感あり、今回改めて「東演」舞台を観劇した。
 初演はアトリエだが、今回はあうるすぽっと。石井強司美術は躍動感があり、広くて高い舞台を存分に使い、中国のとある時代のとある家族のお話が繰り広げられていた。開演45分程度で15分の休憩、ところが終わってみれば2時間40分、この後半の長さに気づかなかった自分に驚いた。
 それぞれが連れ子を持つ同士の再婚で出会った「兄弟」が、絆を確かめ合い、成長し、早くに親二人を亡くした後も二人三脚、「似てない」からこその紐帯を育みながら大人になって行く。親を亡くす悲運は文革によってもたらされ、その後市場経済導入による矛盾をも超えて、弱肉強食のルール(無ルール)が到来した社会が、兄弟を悲劇的顛末へ誘う。
 これらが、南保演じるリーガンのキャラとも相まって、テンポ良い「経過を端折る」脚本と演出のなかでコミカルに展開する。
 全体に分かりやすい舞台処理と、はっきりした口跡と演技で、ほぼ人の一生を語る「大きな物語」が壮大に、可愛らしく語られており、大きな舞台を得意とする、基本的にはうまい役者の集団に思えた。
 物語としては、最後まで人を愛し続け、しかし死んで行った芝居の中心人物の「愛を伝えながら自分は死ぬ」という矛盾は、その事実に直面して懊悩する受け手が存在しなければ、ただただ惨めな敗北者としてある矛盾で、そうならない事で救われた物語、ハッピーエンドだと言える。脚本上の配慮だが、実際にはむき出しの「資本主義」(と社会主義という建前との間での)の犠牲者が、この物語の背後に(現実に)数多あるのだろうと想像させるものがある。
 一方、日本はどうか・・それはまた別の話、と1クッション置いて観れてしまう芝居でもあって、「私たちの現場」に直結しない「浮いた」感じがなくもないが、中国現代史を物語で味わう面白さは、芝居の背後にずっと流れている。
 語り部二人を置いて物語を「解説」するだけでなく観察者(観客)としての感想を代弁して、観客の視線を誘導し、また緩衝材の働きもして、それによって舞台全体は雄弁になった。 

焼肉ドラゴン

焼肉ドラゴン

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2016/03/07 (月) ~ 2016/03/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

不遇の中にこそ人生の輝きがある・・等という揶揄には揺るぎもしない、戦後在日「あるある」家族ドラマ
実際にそうだったのだろう、裸電球の暖色系の灯火や、集落全体もまた夕暮れに染められた「昔色」の中、生活に、政治に、色恋に熱を上げ汗を流し、飲み歌い踊り言い争い殴り合ったある「過去」のひとコマが、新国立小劇場での3時間という時間に再現・凝縮されていた。 在日が戦後の大規模公共事業(住込み)に従事した後、住居に窮して河川敷や大工場の跡地にバラック小屋を建てて集落を築き、やがて立退きで消滅した「幻の町」は、最近まで存在した例もある。 さしづめ唐十郎の舞台なら懐古と憧憬の的となる神秘的な場所に描かれそうだ。
 以前映像で見た「完璧」とみえた初演のキャスティングから、総取っ替えした新キャストたち(演奏担当の朴勝哲・山田貴之を除く)による今回なりの「ドラゴン」の風景が、次第に濃厚になって行く様を凝視した。 鄭義信仕込のギャグが時に滑ったり時に効いたり、「笑わせよるなァ」と判るシーンはそれと判り易く、オモニ役などは作っていたが、アボジが過去を語る長台詞はそれとの対照でギュッと締まる(琴線を弾きまくる)。 涙せずにおれない脚本が憎いが、彼らが表現するのは、心からの嘆き、叫び、己自身でありたい思い、自由を欲する心、欲得感情や虚無感の赤裸々な内面だからだ。
 日本は他国に劣らぬ残虐な民族で、関東大震災では在日朝鮮人を「内地」で数千人殺した(外地で殺人鬼となった事は周知だが)。それも端緒は警察サイドが意図的に流したデマだというから、御し易い国民、別の言い方をすれば能天気で愚かな民族である事は、その昔「穢多・非人」がお上によって制度として作られ、まんまと差別を内在化させたのにも通じる。 従って、こういう民族がまたぞろ「上からの操作」によってマズイ事をやらかす可能性は非常に高いだろう・・と思っている。 ・・もっともこれは民族性の発露でも何でもなく、ただ「まんまとやられて来た」に過ぎないのだが・・。
歴史のIFではあるが、植民地化という事がなければ、(自民族意識の強い)朝鮮民族が日本へ何十万と渡って来る等という事は考えられない。 朝鮮戦争による南北分断が在日社会に影を落としたり、朝鮮人自身のための学校を建設したり、、つまりは「在日社会」を日本の一角に形成する事じたいがそもそも無かった訳である。 これは言わば理の当然だが、この根本が全くネグレクトされる事情を遡れば、教科書で教えるべきこの歴史の基礎知識が、民の「御し易さ」の点で「不都合な真実」である事、即ち「反中韓」感情の種火を国民の中に燻ぶらせ続けるのに障害となる事実である事も、わざわざ記す事でもない平板な事実だ。(それ以外に理由があるなら知りたいものだ。)
 そんな国民感情も、「焼肉ドラゴン」初演時(2008年)とは様相がずいぶん異なっていることが想像される。当時はまだ韓流が受け入れられており、このドラマで描かれた歴史は、両民族間の厚い壁が融解してゆく未来をみながら、忘れ去られつつある「過去」として蘇らせられたものであった。しかし今回(再々演)は、そこから地続きにある在日の現在の運命が、意識される。差別は過去のものではなく、外的な都合でいつでも首をもたげてくる。差別依存症を遺伝的に抱えた日本民族を隣人に持った彼らの不幸というものを、私などは考えてしまう。

芝居は彼ら在日の悲哀とともに、それに屈しないたくましさを描いている。身世打鈴(シンセタリョン)を存分に語り尽し、自身が今ある状況にただ翻弄される生から、今立つ場所を見つめ本当の自分に立つ生への変化が、この焼肉店の三姉妹と三人の男の中に起こる。変わらぬのは彼らを見つめる父母であり、敗北し去った末の息子(時生)は、彼らと町を見つめる者として、屋根の上で物語を語る。非常に生々しい在日の歴史的な実相を状況設定に借りながら、普遍的なドラマを紡ぎ、しかし最後には在日への冷徹で優しい眼差しを後味に残す。
長年住み慣れた町から皆が去って行く日、最後の場では照明が白系(青系?)に変わる。春先の朝、思い出として区切られた時間から、不安と希望の未来の時間へと、旅立つ日の陰影の濃い明りだ。じっくりと長い別れのシーン、町と人への思いを嘗めるように吐く時生の独白は、これ以上無いくらいたっぷりやられるが、リアルな時間の速度である。それが許されるだけのドラマがそこまでで語り切られたという事でもあるだろう。次女と韓国人夫婦は韓国へ、長女と在日の夫婦は「北」へ、三女夫婦は近場でスナックを開く。
この旅立ちの延長には、現実の「今」がある。芝居と現実、「戦後期」と「現在」は、断絶していない。

『Peace (at any cost?)』

『Peace (at any cost?)』

東京デスロック

富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ(埼玉県)

2016/03/24 (木) ~ 2016/03/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

<実験>の名手・タダジュンが導く「平和」を巡る旅
間違いなく「初めて」という状況に身を置く体験が「Peace (at any cost?)」。アイデアの人、多田淳之介が次に何を試みる(遊ぶ)のかが、やはり気になって埼玉県ののどかな町へ出向いた。
「整った感じ」の美術、音楽(クラシックを多用)に、整然と、コンセプトに従って、考えられた手順でそれは展開する、この「整理された感」が重要なのは、映像や照明、音楽、そして俳優の挙動の微細な「揺れ」が、際立って見えることによる。意識はその揺れ、差異に敏感になり、事態をずっと見つめ続ける事になる。
これを実現する手練の中身を知らないが、そのために半端なく持ってしまう効果は、一人一人の語る文章を、言葉のつぶつぶを、それ以上ない注意力をもって聴いてしまう事である。敢えてそうしよう(聴こう)と構えずとも、耳に入って来る。この浸透力がすごい。
二時間。以前観たデスロックの「芝居」でもそうだったのを思い出したが、まだやってもらって良いと思える、純粋な刺激、波動がある。7,8人の俳優による、それぞれが分担する文章の朗読、ではあるのだが、開演から終幕までに多彩な「場面」を体験する。この感覚は「旅」のそれに近い。せいぜい数十人を収容できる空間に、雑魚座りとは言えさして大きな動きは無いのに、「文章」を介して、時空を移動する。その感覚に酔う。実際に起こった事々が、刺さって来る。たった5年間という時間の中で、もう風化しつつある物共が呼び起こされ、立ち上がって物を申している。 具体的には、安倍首相のオリンピック招致のための長い演説の中に、あんなくだりがあったのか・・彼自身の思想では恐らく全くない魅惑的な言辞を弄し、「被災国」日本のヒロイズムのスポットの中に自分を演出していたとは・・ どの局も報じていない事実、とすればまたこれも恐ろしい。
だが、殊に震災と関わりを持つ「言葉」が、これほどに直裁である事の力を持って吐かれていた事を、知らなかったか、あるいは忘れてしまったのか。自分自身の中に流れた「時間」の酷薄さ(否自分自身のと言うべきか)をまざまざと自覚させられる体験、でもあった。
この体験で得た発見は、語り切れない。

地点『スポーツ劇』

地点『スポーツ劇』

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2016/03/11 (金) ~ 2016/03/21 (月)公演終了

満足度★★★★

日曜夜に千秋楽!?観れたラッキー。
実はあまり期待しなかったが、ずっしり中身のある土産を持たされた気分。快楽を引き起こさない言葉の感触や、視覚・聴覚に刺さる尖った印象の反面、ある種の快さと、イェリネクの執念(絶望から見出そうとする希望?)に、慰撫された感覚で帰路についた。矛盾するようだが、ある症状に苦しむ時に「それが何である」と名を与えられる時の安堵、に近い。現在の日本の言いようのないもどかしさに、五輪というモチーフを介して言葉を当てようと試みる行為は、それが「乗り越えるべき状況だ」との認識をもって介入する以上、「絶望の中に希望を見出す」態度に必然的にならざるを得ない、という訳である。「快さ」とは、そうした事々がある確信的なリズムの下で確信的に語られる事への、それだろうか・・?
「期待しなかった」とは、『光のない。』の壮大な舞台、同じKAATの、大スタジオで観た『三人姉妹』、『悪霊』(地点初観劇)も、相も変らぬ地点の劇世界にそろそろ限界を見るんでは・・、あるいは飽きて来るんじゃ・・という予感による。地点の最大の特徴である地点語(造語だが‥文を不自然な個所で切って言う)と身体の動きが、「語られる言葉」とは別個に文脈をもって構築されて行く独特の世界も、離れていると「地点はいつもあの感じ」と思ってしまう。
 だが多忙に取り紛れてふと見れば、日曜なのに19時という時刻、これは観なさい、という事だと足を運んだ(向こうの策に乗っかったに過ぎんのだが)。
 音楽。三輪眞弘が『光のない。』にも参加していたと露知らぬ私は、この著名な現代音楽家の仕事も一度見たい(聴きたい)ものだと願っており、例によって観劇の際はその名前も忘れていたが、秀逸であった。
 抽象度の高い表現要素が、コラボしている主体はその他、舞台美術(これも「光のない。」の木津氏)、映像も幾何か、そして俳優たちの奇天烈大発語大会。
 二次曲線を切り取ったようなダイナミックな面が奥に向かって聳える舞台装置。人工芝の緑の上をよじ登ったり、滑ったり、手前に左右に渡されたネット(斜幕様で映像も映す)に引っかかったり倒れたり、ネットを潜って移動したり、反復横跳びするなど動作がスポーティである。
 前後の動きが勢い余って客席の床に落ちたりもするが、このパターンの組合せが一様のものの繰り返しでなく(一定期間くり返す、というパターンはあるが)、少しずつ、また大きく変化する。その動きの上に、台詞が乗っている。
 そんな中、こちらはこちらで「曲」を奏でるのが「合唱隊」で、時々「シュー」という無声音や、微かに鳴る有声、何かの言葉を口から発するが、主には、全員が手に持つ叩き棒のような「楽器」によって(「打つ」「吹く」所作によって)音程・打点を示す。延々と続き、刻々と変化するのはミニマルっぽい。
 この一連なりの「曲」は、舞台上の台詞と連動しており、緻密に作られた「時間の芸術」が、開演と同時に始動し、再生されている現象を、支えている。不可逆で、再び同じ場所に戻る事がない印象がある。また、一人一音を担う形態からか、一人が全体に奉仕して全体を形成する「秩序」と、その「力」が、音量は小さくて地味だが迫ってくる。 その効果はたぶん、それまでずっと鳴り続けた「音」の一切が後半のある時点で止み、BGM無しで台詞だけのシーンが一定時間続いた後、終盤に向かって加速する(この時点で音楽は舞台上の芝居に拮抗する主役の一に躍り出る)演奏によって、自覚されたものだろう。
 最後に合唱隊は(演出か音楽三輪氏かが)加えた歌詞=「ハレルヤ」をウィスパーで8回唱える。これが何に対する「ハレルヤ」なのか・・色んな解釈が可能だが、多義的な解釈が混在したままで成立する抽象性、ハイアート性?が嫌味なくある。
 さて言葉はどうか・・ イェリネクの書いた言葉は、殴り書いたような、詩だ。もっともイェリネクとしては戯曲を書いており、話者は(恐らく)一人。 
 これに関しては一抹の疑問が浮上する。『光の‥』同様に、日本社会に宛てて書かれた『スポーツ劇』は、東京五輪をモチーフにしている。つまり新作だ。まずは、このテキストを意味を持つ言葉で聴きたい、という欲求がある。これに対して地点語は、分かりづらく発語する。古典を一旦解体して構築する、というアプローチが新作でどう成立する(正当化される)のか、についてだ。 後で訳本を読みたいと願ったが、全訳は出ていないという。
 文を妙な所で区切る遊びは、裏をかかれる楽しさがあるが、意味を理解したい時には、裏をかかれた瞬間、その前に言った単語が何であったか忘れてしまい、文を見失う。時間という小川にポンポン投げられては流され、脳内で構築できない。これには困惑するが、しかしながらイェリネックのテキストの晦渋さ(文脈を捉える困難さ)を思えば、あるいはひょっとすると、アレがイェリネクのテキストを的確に「舞台化」したものであるかもしれない・・・等というのは単なる仮説だが。 それでも、舞台は心地よい。断続的に「意味」をもって聞こえてくる「言葉」は、虚しさ、やりきれなさ等のニュアンスを帯び、合唱隊の「音」と相まって「君が代」を遠回しに示すシーン(判るまで時間を要する)や、終劇間際にイェリネクが観客へ直接語るコトバが、私のツボにしっかりはまった。
 恐らく私自身が、イェリネクの文学的実存への想像力を逞しくするゆえ、舞台に共鳴するのに違いない。
 その意味では、「他の文脈」(=イェリネク自身の存在)を借りて舞台を観ている訳だ。しかし純粋に舞台上で提供される情報のみで成立する舞台がどれほど存在するだろうか・・。何より「同時代」という文脈を背景に私たちは演劇をみる。で、私は今という時間を厳しいものと見ており、この文脈でこの劇を観、自分なりの理解を得たのであった。
 五輪に向けていよいよ殺伐として行く予感しか、私にはないが、悲観的である源は何か、掘り下げ、汲み出してそれを対象化する手がかりを自分は欲しているらしい。イェリネクは言葉で足掻き、いまそこにある「絶望」からどうにか「希望」(の言葉)を見出そうとする。多分そういう事なのであって、その響きが通奏低音に鳴っていたのだと、解釈して良いだろうと思う。
(長文ご容赦・・毎度の事だが)

死に顔ピース

死に顔ピース

ワンツーワークス

赤坂RED/THEATER(東京都)

2016/03/18 (金) ~ 2016/03/27 (日)公演終了

満足度★★★★

ONETWOWORKSな芝居
ワンツーパンチ♪の健全精神に則って健全経営、否、健全舞台製作者を任じる集団(人?)、そんな「名前」から受ける印象が強く、書き手も教師っぽいな・・と書店の戯曲コーナーに並ぶ背表紙の、文学者を名乗りをりはべらっしゃるかのようなペンネームから強い先入観でもって何げにレッテルを貼っていた期間がかなり長くあった。ふとそれを思い出すに、目で見ずして判断する事の限界、否、いつしか判断している事の恐ろしさを、今思い出したのを機に刻み付けねばと思ったりしている。 金が無い(と思っている)と、芝居も中々見れやしないし、ハズレかも知れない代物に安くない金を財布から出す、これは何か別の動機(偏執的な、あるいは浪費的な、お金を何らかの形で流動させたい衝動・・等の?)が働いていない事には、こいつは成り立たないものであるかも知れぬ・・などと不謹慎な呟きが唇から漏れてたりする。そんな、演劇への「壁」を除り去って見える風景は、時に厳しい内容でもあるがそれ以上に、他者の脳内を覗くに匹敵する、一つの世界である。この「可能性」は、ただ事ではない・・人類の才能、特性について思わず考える。良い観劇は幸福だが、自分をあるプロセスの途上に置く体験でもある。真なるものへの途上が人生である事に気づかせる。演劇はある種の嘘を排除するので、編集や詐欺的言辞やまやかしが通用しない(そう信じたい、というだけかも知れないが)。 「ほんたう」への扉が閉ざされようとしている21世紀初頭の日本で、目を曇らせずにいる薬は、何あろう演劇、演劇、これに如くはなし!

閑話休題。今回、非・ドキュメンタリーシアターの1-2公演を初めて観た。もっともテーマがターミナルケアであり、死であるので、自殺をテーマにしたドキュメンタリーシアターを観た時の感触と大きな違いはなく、トークで作演出者も仰っていたが実話・実在人物を元に書かれた本である事がよく表れた、健全で直球な演劇だった。
 直球とは言え、ファンにとってはこの劇団の特徴である「ムーブ」や、社会性を踏まえつつも湿気を帯びずドライに処する特色が嬉しいというのは判る気がする。
 自分が「死」を見詰めおおせているかは甚だ怪しいが、終末医療、治療しない末期癌患者の生き方については、慣れ親しんだテーマであったのでドラマとして意外な展開はさほどなく、その代わり、役者の「人物」としての佇まい、クラウンの芸やムーブ(今回初めて「気持ち良い」と感じた・・動きの加速度が各様の動きでも揃っているのは高等技術だ)を、よく観た。
 涙に流されず、その状況にある「何か」を掴もうと探り、描こうとした、それを観客にそのまま伝えようとした誠実な作品。
 この劇団に感じる特徴というのはまた別にあるが、またの機会に。

ネタバレBOX

 今少し雑談をご容赦。1-2worksという劇団一つをどうこう言うのでないが、何も知れずに「名前」だけからぼやっと描いていた「イメージ」というものの無責任さ、ギャップの大きさはえらいもので。。
 自宅にTVが無い事情で週一程度だが、番組を視ればあまりにひどい。「事実」、それも比較的重要と考えられる事実についての情報、・・背景を伴う「真実味のある」、実在する「形」を伴うものとして、見えて来るものが何と少ない事か。以前もそうだが、この所は乱獲された漁場の如く何もない。最後に「笑い」とか「感動」に帰着しないと落ち着かない、という感覚に馴れさせられ、演劇に心地よいオチを求める感覚も同様だろうけれど、「真実らしさ」をこそ演劇に欲する向きには、これはえらい状況ではないかと、感じる。「まこと」に触れる瞬間が一瞬でもあれば、ああどうにかまともな人間がテレビの作り手側にも居る(テレビとは緩やかな連帯形成の道具であるからして)、と辛うじて安堵するものだが、最近はそれさえなく、「意図」と「事情」が見え見えな作為(特にNHKには悪意すら感じる)に、苛立ちと焦りを覚える。それで消してしまったりするが、それでも何か「真実」に繋がる片鱗をどこかに見いだせないかと、また見てしまう。特に、報道を。もっとも現実逃避したい時にはクイズ番組等つい見てしまうが・・。
 こういうスタンスで演劇を評すると、1-2worksの芝居、社会性という点で私には、「普通に的を射た芝居」という事になるが、これは「物足らなさ」なのか、親和性の高さと見るべきなのか・・。
三太おじさんの家

三太おじさんの家

椿組

ザ・スズナリ(東京都)

2016/03/11 (金) ~ 2016/03/15 (火)公演終了

満足度★★★★

なっとくのストレートプレイ。
これまでの椿組と一線を画する公演、とパンフに作演出=梨澤慧以子談の通り(といっても椿組観劇3度目だが)。数年前、他公演に客演していた梨澤氏を、自劇団チラシにある「作演出」の方としても認知し、一昨年初観劇、予想外の作演出力に驚いた。昨年の公演を無念にも見逃したこともあって、高い期待を暖めてスズナリへ足を運んだ。千秋楽。 御大・外波山文明をそのまま使い、瓜生和成のやや図々しめの小市民性を引き出し、和の室内に懐かしい「昔の日」と現代の時間が行き来したり同居したりする。 人物へのストレスの与え方、ちょっとした違和感のほのめかし方、観て行くにつれ、図のピースがあちこち順不同に埋まって、全体が見えて来る。「緻密」という表現は一見そぐわないが、無理や破綻がなく、真実味がしみじみと流れてくる。緻密な仕事がその背後にあるのではないかと、想像した。ほほえましいお話だが途中経過がおいしい。
加藤ちかの舞台美術も久々に観た。良い仕事だ。
今作のツボは、冒頭近く、ガラス戸から透けてみえる裏庭の松に積もった雪の塊が、ドサッと落ちる。「次」の場面に移るきっかけの「ドサッ」が妙に笑えた。

対岸の永遠

対岸の永遠

てがみ座

シアター風姿花伝(東京都)

2016/03/04 (金) ~ 2016/03/30 (水)公演終了

満足度★★★

海外を舞台とした他国人の芝居を日本で観る・・難しい課題に挑んだ成果は。
久々のてがみ座観劇だったが、長田戯曲の感触は多分刻まれており、それを思い出させられた気がした。 文学的、というのが印象を言い当てる一つの言い方だが、その要点は何か・・。 台詞が、ある範囲というか、枠から飛び出ることがなさそうに感じる、そういう台詞の連なり、書き手にとって心地よい響き、所謂「文学的」=詩的、と言ってよいかも知れないが、素な日常言葉が混じる、のでなく、詩のほうに寄った表現が、混じる。生身の人間から発したことを確信させる言葉が、「文学的」の範疇を逸脱してでも飛び出てくる可能性、予感がない、ということなのだと思う。 とても微妙な部分について言っていてそんなのは芝居の本質に関わらない、という意見もありそうだが・・・私にはその部分が、「こちらか、あちらか」の境界を揺れており、どちらに立つのかは重要なのだ、という感じを持っている、今のところ。

ネタバレBOX

 問題は戯曲にもありそうだが、まず見えるのは俳優だ。もう少し切実に、「そこに居る」リアリティを持てないのか・・・確かに、ロシアという土地の、庶民の感覚を身体ごと立ち上げることは難しい課題だろうけれど。 戯曲に対する確信が、持てていない? 演出はどうか・・・
 シアター風姿花伝のゆかりの演出家である事は今回知ったが、上村聡史演出+風姿花伝の秀作を頭に過ぎらせないでは行かない。戯曲をどう解釈し、何を生かそうとしたか・・ 美術や音響など「お膳立て」は期待感を駆り立てるが・・・
 亡命者である「父」を演じた俳優の佇まいはユニークだったが、彼がいったいどういう詩人であったのか・・そこが分からなかった。作者はどう描きたかったのか、も。彼自身が「逃亡」の途上で体験したものや、祖国に住む娘が(現代)出会うチェチェン出身者のこと、など「悩ましいテーマ」を想起させるが、その事と出会ったがゆえに彼らがどう変わったのかが分からないし、詩人の思想そのものとの関係も、結びつけづらかった。
 何より、娘にとって「父」を許せない決定的な理由があったが、それならば嫌悪や恨みを通り越して、無視の段階に至っていておかしくない。その彼女が、何をきっかけに父を受け入れるのか、そこも分からなかった。最後は歩み寄る、ということが物語りを一歩進めたようだが、結果先にありき、と見えなくない。役者自身が、その理由を見出していないと見えた(戯曲に書かれていないからだが、彼女はどう納得しているのだろう)。
 夫が改心する理由も分からない。爆撃音を聞いたことで、一時的に、日本での震災直後のように、何か真っ当な生き方をしなきゃと、テロを間近に見てそんな気になったのか。他に見当たらないのは私の鈍感な感性ゆえか。
 ヨシフ・ブロツキーという詩人(劇作もあり)を題材に書いたのだという。評伝に近い(史実を踏まえた)物語か、フィクションか。後者だという気がしたが、それにしては、実在した人物の威光というか、事実性(重さ)に依拠した作りに見える。
 一番困ったのは恐らく、この芝居をどう自分の場所に引き付け、重ねればよいのか、だろうと思う。 頭の悪い自分には、当たりも付けられない。
おたふく

おたふく

NPO法人 演劇倶楽部『座』

シアターサンモール(東京都)

2016/03/17 (木) ~ 2016/03/21 (月)公演終了

満足度★★★★

山本周五郎。
前回の『座』公演=『友情』を面白く観たのでリピートした。今回は前回のスタジオから本館のシアターサンモールと広くなったが大きさに見合う舞台になっている。
前回のような全生演奏ではないが、要所に生の笛が入っていた。「友情」の話が持つ鋭利さに比して、人情噺はまた違った趣である。ある種のユートピア的な関係性が、ドラマを成立させる程度にピンポイントで押さえられていなければならない。その点、少しイメージを違えた登場人物も居なくはなかったが、壌晴彦の読み下す地文に喚起される「想像の世界」と相補完しあって、周五郎の人情噺が具現した。
フェリー二の「道」の主人公(ジェルソミーナ)ばりに健気で甲斐甲斐しく鷹揚で謙虚な、理想的な「おしず」という「女」像は、後に展開するドラマの伏線だが、やはりこれは男の心ばかりでなく観客の琴線にも届く。この女には相応しからざる「秘密」が、ある深刻な事態を引き起こしてゆくが・・・
 以上は後半のお話で、前半はおしずの苦労した前半生になっている。主に兄弟(家を出た二人の兄と、二人の娘=おしずとおたか)の物語だ。
 芝居は休憩を挟んで前編・後編に分かれ、同じ「おしず」が主人公ではあるが、それぞれ単独の話として観ても成り立つ。あるいは別個の短編をつなげたものかも知れない(推測)。

 周五郎の世界は、善人ばかりが登場する都合の良いお話、と見えなくないが、人間の醜さ弱さ、業を見ずには生きられない時代の人々へ、「ありえなくない形」=人間の可能性を「お話」の形で示そうとしたのではないか・・。 ある種の厳しさが、この人情噺の背後に流れているように感じる。
 芝居は分かりやすく、演出に親切な工夫が、前回と同様施されていた。「日本の文化遺産」に焦点を当てて行く『座』の仕事。

ネタバレBOX

後半の夫婦の人情噺は、二人の夫婦への不思議な収まり方が、悪くない。そのため、終盤に分かるその背景なるものは、なくたって良い。が、それも悪くない。
ただ、そのオチが明らかになる前段に夫の疑念、嫉妬、荒廃が挟まるので、物語らしくはなるが、さほど深刻にならずとも良く、おしずの「愛」を最終的に否定して離反することは考えにくいので、まぁ「ちょっとした誤解だったね(笑)」で済む話である、というのが衆生の同意するところではないか。 であるので、妹のおたかがたまたま知った夫の「疑念」に、怒るのも良いが、切々と姉を思う言葉をこぼす程度でよく、相手を責める部分に比重をおかなくて良いと思った。 人の信頼がいとも容易く壊れること、に対する「怒り」と普遍化してみるも可だが、それとて、やんわりと責めてこそ、効果も。
・・といった所などは、ドラマを成立させるべきピンポイントの微妙さの例か。
イスラ! イスラ! イスラ!

イスラ! イスラ! イスラ!

岡崎藝術座

STスポット(神奈川県)

2016/02/03 (水) ~ 2016/02/08 (月)公演終了

満足度★★★★

言葉が流れて落ちてくる
併演の前作が第一希望だったが余力なく、時間の合間に予定をねじ込む格好で新作を観た。O藝術座は数年前一作のみ目にして、アカンと思ったので暫く目にとめなかったが、言葉がうるさいので(例えばチラシ、またウェブにても)気の散りやすい性分としては「だったら一度語ってみな」と、別に自分に言われた訳でないが、観に(聴きに)行った。当て込んだ通り、言葉が多い。散文を書き散らしたような独り語りの長台詞を5人の登場人物に与え、キーワードのような単語(固有名詞)から、その実在する具体的なものについて語っているらしい雰囲気がある。が、虚構かも知れない。実在する被造物と、それへの解釈を、先人の考察や遺産を合切引用する事なく、事物に真正面に対して生まれる言葉をノートに書きつけている(それを役者が読んでいる)感じである。そういう感触を持ちながらそれを観(聴き)、その感触だけ持ち帰ったので、語られた内容については殆ど覚えていない。言葉が第一多すぎるし。でもって、言葉そのものが持つ可能性を追ったはよいが、言葉のみに依拠したかのようなこの表現は、演劇としてどうなのか・・という思いもよぎる。だが何にせよ言葉が多く、こう多くては意味伝達という効用を超えた何かに近づくのも必然だ。それは絵画のような全体像的なイメージを持ち始め、何かはっきりした形に結実しはしなかったが、そういう事が可能な「予感」を覚えた。食って糞を出すだけの生物、例えば蚕が繭に変態する位の変化を、通常「語義」以上でない言葉なるものが遂げる瞬間が文学にはある。それを自由への楔であると言ったとて、この作品を観た後ではさほど罪にならない気がする。(これじゃベタ褒めか・・・)

バカから醒めたバカ

バカから醒めたバカ

INUTOKUSHI

武蔵野芸能劇場 小劇場(東京都)

2016/03/05 (土) ~ 2016/03/11 (金)公演終了

満足度★★★★

ループを抜け出でよ
「犬と串」初鑑賞。会場も初の武蔵野芸能劇場、なぜ「芸能」か(「芸術」劇場は数多あるが)にも興味が・・。堅固な公共建造物だが、入口から清潔感あって風通しよい雰囲気。「芸術」でないからか?「黒」っぽくない。客席の傾斜もゆるく、席をがめつく配置してない(割とゆったり)。いわゆる「小劇場」が持つ、異界へ潜りこんで行く雰囲気が皆無。舞台の中身ほうは、学生演劇的な熱量、粗っぽさ、突抜け感といったものが、真正の小劇場に合う印象ではあった。
 芝居・・ 体調の関係で不覚にも前半かなり寝てしまった。散見された「後半の繰り返しがしつこい」とのコメントが本当なら、惜しい部分を逃したことになる。後半を重点に見た私には、長いという印象は全くなく、ただ劇のディテイルが気になった。 すると、前半は破綻すれすれをスリリングに飛行し、後半になって冗長になった・・というのが全編を観た場合の平均的感想になるだろうか・・。後半の「SF的世界」(本編?)のお膳立てとなる前半では、「過去」と「現在」のエピソード説明場面は、中々テンポよく(夢うつつのなか)台詞もわいわいと響いていたから、ストーリー語りとして雄弁だったのだろうと推察する。一方後半はストーリーの進行としては停滞し、ネタ見せが主となっていたかも知れない。
 話は(確か)1998年、小学6年のませた「天才」子役ワラビが、仲間(子役ら3人)とともに自分らで映画に撮ろうという事になるが、早すぎる青春の頂点を迎えた12歳はその18年後、三十を迎えんとするのに自堕落に引きこもり、他の3人を呼びつけては過去の「栄光」(撮った映画の一場面)を何度もしゃぶっては消費する毎日だ。四人の一人、紅一点のサクラ(二階堂瞳子)が今なお主人公との近しい(恋人ではないが)関係にある所、サクラを得んとする発明家?が挑戦状をつきつける。彼が発明したのは人の内面を覗く事のできるカプセル。これはワラビ自身にかぶってもらい、サクラに彼の中身を見てもらえばきっと彼に幻滅し、見限るに違いない。それのみを理由としてだったか朧ろだが、発明家と仲間らが彼の「内面世界」を旅するのが劇の後半の「SF」場面となる。
 休憩を挟んで舞台装置はガラリと変わり、ワラビの「内面」=バーチャル世界を案内人と共に歩いている。舞台中央を中心に時計回りにグルグル歩くという古典的な演出。正確には忘れたが、彼が悔しんでいる事が何かが判る部屋、何が好きかが判る部屋、などとあって、そこにサクラの存在が見え隠れする、かと思いきや一切なく、代りに彼が敬愛するらしいプロレスラー(橋本真也?)が登場する肩透かしのネタの後、後半の大部分を占める部屋に辿り着く。そこでは主人公ワラビが小6の時に撮った映画で一番気に入ったシーンが、放っておけば何度も、延々と繰り返す(小6時代の四人は別キャスト)。このループが続く限りメンバーたちは現実世界に戻れないのだという。案内人はそう告げて(退屈なので)「休んで来る」と去ってしまう。こんな設定聞いてないと、発明家に怒りが向けられるだろう所そうはならず、メンバーはループに変化を起こそうと介入を試みる。だが虚しく天使の羽のボンデージ○○ちゃん(にしおかすみこ改め)が登場し「余計な事をしたのは誰だ!」とお仕置きとなり、円環は崩れない。このくり返されるシーンは「繰り返し」によって笑いを誘うもので単独では意味不明である。
 さてループを維持しているのはワラビ本人だから、本人に変わってもらわなきゃ、となれば、何と本人もそこに登場と相なる。色々あって本人が心を入れ換え、また始まったループのシーンに変化が生じる。というか、周囲の者が介入しまくってなし崩し的に変えられ、それでも天使が登場しなかった、という事でもって本人が変化した事を表したか、混沌としていて覚えていないがそんな所である。
 ストーリー的には、発明家が「ループを解消しないと抜けられない」設定を予め加えた事で、既にワラビが「前向きになる」変化に向かって総力動員される展開は明らかな訳で、「良くなった」ワラビとサクラを切り離す事などできない訳で、発明家は自らキューピットを買って出たに等しい訳で・・・ 物語の可能性としては、ワラビが皆から「見放される」可能性だってある。その危機感と背中合わせで、自堕落な彼の帰趨を見守る、というのであれば「物語に見入る」姿勢は持てただろうが、その可能性は「ループ」の設定で封じられた。その時点で後半は言わば「退屈な時間」に入ってしまってはいる。これが「冗長」の原因だろうが、主眼は「笑い」なんである。意表を突く展開でこの「予定調和」の時間を最大限引き延ばしている。
 ただ「物語」も無視できない。ループをくり返す生活への嫌悪、否定的な感覚は自然だ。もっとも、繰り返しは重要であると人類の祖先が囁いている気がする事もある。いずれ、自ら望まないループは抜け出るしかない。抜け出ねばならない。この感覚が誰しも痛く判る部分だけに、この荒唐無稽を通り越した学園祭のような出し物は成立していた。

ルンタ(風の馬) 〜いい風よ吹け〜

ルンタ(風の馬) 〜いい風よ吹け〜

劇団態変

座・高円寺1(東京都)

2016/03/11 (金) ~ 2016/03/13 (日)公演終了

満足度★★★★

12年ぶりの東京公演
「変」な「態」を体感しに行く。もっとも、後半しか見られず(無念)。 無声、身体パフォーマンスなのでカテゴリーとしては舞踊に近いかもだ。音楽の存在が大きいのも同様。上手前のエリアで、三人のミュージシャンががっつり生演奏する。key、sax、bass担当が、各自色んな楽器(主に打楽器系)を駆使し、リノリウムの床と三方を黒幕に囲まれた黒い舞台での「現象」と、呼応しあう幻想的・土着的・イメージ探究的な音(楽)を響かせている。
 総勢十数名の肢体障害の男女が、それぞれの色(青系幾つか、赤、緑)のタイツ姿で、丸刈りでない者は皆髪をオールバックになでつけて登場する。多数の移動の形は横転がりで、ゴロゴロ、ペタリと回転する。
多彩な場面が照明と音楽の転換によって連ねられ、主宰の金満里(自身も出演=女性)が綴った言葉のイメージを具現した場面が展開して行く。

 音楽を筆頭に優れたスタッフワークによる舞台を、最終的に実現させたものは恐らく主宰の金氏の情熱、あるいは資質だろう。最後の挨拶に「寝そべった」状態でマイクを持って喋る風情に、そのことを感じた。

ネタバレBOX

舞台上の「現象」をどう感じるかは、各人の感性だが、どう理解するか、どう認識するかを考えつつ観る、そんな時間であった。
「異文化」との遭遇の際、自分の中に消化できないものがそこにあって、自分の中に取り込む時間というものを要する。 障害のある人とは自分は日常的な付合いがあるが、タイプの異なる障害、というだけで、そこには峻厳な山にも見える「異文化」がある。例えば、転がって移動するしかない人間の「生きる場」(喜怒哀楽のある日々のくらし)と、私たちの生活の場とを、並立に、同じ方を向いて生きる共生の関係として見ようとすると、「生きる」の内実を洗い直し、定義し直す必要に駆られる。
 しかし苦痛をもってでなく、心地よさの中にそうした考えを巡らすことが可能なのは、演劇に備わるべき娯楽性の証しだろうか。
 俳優についても考える。「あること」に限定すればこれほど雄弁な表現者は居ない・・という人がいる。俳優の力は「演じ分ける」事にある(マルチが良い)と考えられているが、「演じ分けている」事への感動は、「芸」に対する感動であって、手段としての俳優の身体による「表現」の価値は、舞台(作品)の中で持つ役割に徹してこそ生まれる、という(演劇における)「原理主義」?に立てば、この劇団のある俳優がある表現において持つ雄弁さは、著名な俳優の「ある場面」での演技と、等値かもしれない・・。
 舞台に立つ人間が容姿端麗なのは自己顕示がより強いという俳優側の意思の反映なのか、それが演劇にとって有用であるゆえの淘汰の結果なのか・・といった事にも考えは及ぶ。
 そうした諸々にもかかわらず、存在感を示す彼らを、とにかく「見る」しかなかった。得難い時間だ。
思い出し未来

思い出し未来

少年王者舘

ザ・スズナリ(東京都)

2016/03/03 (木) ~ 2016/03/08 (火)公演終了

満足度★★★★★

千穐楽だった。
曼荼羅模様の如く形容し難い舞台に(今や積極的に)幻惑されながら、(千秋楽なので)人に勧められない事をまことに口惜しく思った。少年王者館を一昨年に知ってから本公演3本程(天野天街演出作品となるとその倍以上)観ているが、今回はシュールさより、情感が勝っていたと思う。緻密に意表を突くあの手この手の遮蔽膜の表面に「情」が滲み出しているかにみえた。
様々なイメージが去来する。機械的な台詞、照明、音、全てを駆使しためまぐるしい劇の経過は、何かが「解体」されていく工程である。見通しを阻む建造物を一つ一つグシャリとつぶして行くその果てには自由があって、「あらゆることが許される」状態が訪れる。明かりに照らされた夕沈(今回の主役)が佇む中、壮大な時間経過を表す音が、その「自由」の地平に鳴り響き、中で耳に残る「戦争」の轟音には、象徴的を超越して迫り、恐ろしくなった。 振付シーンも長く、毎度の天街ワールドとは言え、どこか力が入っていると感じたのは気のせいか。 拍手、拍手!

友情

友情

映画美学校

アトリエ春風舎(東京都)

2016/03/03 (木) ~ 2016/03/06 (日)公演終了

満足度★★★★

「あれだ。」「おや?」「書き足してるぞ・・」「生徒らのために。。?」「見届けたぞよ(涙)」
元々リアリティを超越してる話をどうこう言うのも詮無く、こいつをやり切れる役者がいかに特権的肉体の持ち主か・・ナカゴー的力は役者を動かしてる凄さなのかも知れなかった。「船堀の友人」から書き加えられたシーンはそれぞれ、さぼてんの人たち、ばあさん二人組など、俳優に「唖然」「絶叫!」「がむしゃら」の演技を強いて、舞台それじたい虎の穴と化していた・・・。
 怒涛のナンセンスの荒野に、一輪の花のような友情が微かに風に吹かれて・・みたいな具合に行きたかったのは承知で、頑張っていたなぁ。でも惜しかったなぁ。「映画美学校」の卒業公演という文脈で舞台と彼らを眺め、私としては渡辺源四郎商店のあの芝居で涙を誘ってた女優の「学ぶ姿」に遭遇でき、新鮮であった。
 こんな芝居があって良いのか・・・との「常識」の間を縫って生き延びてほしい。

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