きゃるの観てきた!クチコミ一覧

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『カガクするココロ』『北限の猿』

『カガクするココロ』『北限の猿』

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2009/12/26 (土) ~ 2010/01/26 (火)公演終了

満足度★★★★

カガクするココロ-会話の妙
明けましておめでとうございます。
新年初の観劇となりました。
3ヶ日、住宅地の小さな商店街を歩いておりますと途中までは人っ子一人歩いていません。
住民さえも歩いていないし、こまばアゴラに来る人以外、ここは通らないだろうと思って劇場の前に来ると、案の定、そこだけ人がいる。
自分はどんだけオタクなんだって気分になりました(笑)。
今回の2つのお芝居は10年のタイムラグを設定し、それでも変わらない人間の営みを描いたとか。
正月2日は歌舞伎座より空いている国立劇場へ行って獅子舞のあとに歌舞伎を観るのが長い間の習慣でした。それがいまは「青年団」でスタートです。
10年もたつと生活習慣は変わるもんだなーというのが実感です(笑)。
平田オリザさんは、いまや「現代口語演劇」の神様みたいになっていますが、それは平成でのこと。江戸時代は歌舞伎の世話物が「現代口語演劇」だったし、近代になり、築地小劇場が開場したときは、きっと大衆は歌舞伎以外の「現代口語演劇」に驚愕したんでしょうね。
なんてことをぼんやり考えながら開演を待っていました。
青年団の開演前から俳優が会話してたりするこのスタイルにもう慣れきっている自分に苦笑したりして。
いまや「青年団」の芝居は古典芸能と化してる感じさえ抱きます。

ネタバレBOX

いろんな人の出入りと会話が絶妙なのが平田さんのお芝居の面白さだと
思います。シリアスなシチュエーション・コメディーみたいな感じ。その塩梅がとても好きです。人物の特徴がわざとらしくなく描かれてるのがいい。
小島(河村竜也)が妹の同級生を妊娠させたことがわかった直後の周囲の気まずい雰囲気に笑いを入れるとか巧いなーと思いました。
自分は単純なので、馬鹿話的エピソードばかり可笑しくて笑ってしまいました。やたらテンションの高い高木(二反田幸平)が美川憲一の柳ヶ瀬ブルースを歌ってもみんなが反応しないところや、長良川の鵜を巨大化し、カツオやマグロを獲らせるという仮想話も結構笑えた。ロックンローラー(安倍健太郎)が曲に合わせて長髪を振るところとか。獅子舞や「鏡獅子」みたいで(お正月らしくてよかった?笑)。
研究者といえば、安岡(兵藤公美)そっくりな研究者の女性を知っており、こんな感じで、でもちゃんと恋人がいるところも似ていました。その人が出版社でゲラ・チェック中のところを訪ねた際、「一番まずいごはんご馳走します」と言って、出版社の食堂に連れて行かれ、編集者たちと小麦粉で固めたようなテリーヌの話をしていたことがあったので、ここまで符合すると気味が悪くなってきました(笑)。
「青年団」は起承転結があまりはっきりしていないのも特徴で、とんでもない事件が起きて一堂てんやわんやの末、無事一件落着なんてことにはならず、ほわーっと突然終わる。それで納得できる人がファンになってるんだと思うけど、今回は個人的な好みとしては2作品とも最後のほわーっと感がいまいち物足りなかった。物語には合ってるのでよいと思いますが。
天の空一つに見える

天の空一つに見える

髙山植物園

アトリエ春風舎(東京都)

2009/01/23 (金) ~ 2009/02/01 (日)公演終了

満足度★★★★

共感できる部分が多かった
2009年初めのこのレビューを書いておきたくて団体検索したら
なぜかうまく出てこなくて、あきらめかけてたら、しのぶさんの
ブログからたどり着けました。
久々の活動再開だったようですが、私は初見でした。
以前、「女相撲」のドキュメンタリーを観て興味を持ったことが
あったので、題材に惹かれて、立地上わが家からは遠いので
ふだんはなるべく避けているアトリア春風舎に出向きました。
高山さんの作風はやはり青年団っぽいなあと思いました。
言葉ではうまく言い表わせないんだけど、青年団のお芝居には
開幕前、舞台装置の前に来ただけで「青年団バリア」という目には
見えない空気のようなものが感じられ、お芝居が始まると「大好き」
と思う人と、「どうにも受け付けられない」という人に分かれるようです。
平田オリザさんの学友で、私に初めて平田さんのお芝居を教えてくれた人が、のちにこれと似たことを語っていました。
だから「まず、とりあえず観てみて。合わなかったら引き換えしていいよ」
って、その人は誰に対しても言うのだそうです。青年団のお芝居に出てくるような静かな微笑をたたえた人でした。
高山さんのこのお芝居も青年団の色を持ちつつ、人間描写が自然で丁寧で好感がもてました。

ネタバレBOX

「女相撲」というので、女優が肉じゅばんを着てデブの役で登場するのかと思ったら、細い人がほとんど。相撲というよりママさんバレーみたいな雰囲気で「あれれ」って。で、親方はせめてデブかと期待したら、およそ相撲なんかやりそうにもない細男。台詞によれば、イケメンという設定。
パワフルでコミカルな芝居ではないところがやはり青年団系らしい。
妻を亡くした親方を囲む女弟子たちの様子を見ていると、これとよく似た状況の日本画教室の先生と生徒のことを思い出してしまった。私は生徒ではなく、部外者として話を聞く立場だったが、入り込めないような空気が支配していて、しかも寡夫?という特殊な立場の指導者を囲む女の生徒や亡くなった奥さんの妹がいる状況はそっくりで、女の心理戦みたいな物が存在した。
自分がカルチャー教室に入りたくないのもこういう人間関係の空気が苦手だからだ。
しかし、この芝居は女の心理戦が主眼ではなく、「死者への思いや残された者の痛み」で、経験があるだけに感情移入して観る事ができた。加えて「土俵と女性」についての問題も語られ、そのころ連載で読んだ内舘牧子の大学院での研究についての記事なども思い浮かべながら興味深く聞いていた。
最後の場面にも精神的な神聖なメッセージが感じられ、不思議な余韻が残る作品だった。
高山さんは寡作の人なのだろうか。また観てみたい。

マレーヒルの幻影

マレーヒルの幻影

森崎事務所M&Oplays

本多劇場(東京都)

2009/12/05 (土) ~ 2009/12/27 (日)公演終了

満足度★★★★

翻案の妙。さすが、岩松了。
原作の世界をそのまま使わず、在米邦人のコミューンに
翻案したのが興味深かった。
自分が最初に宝塚での「華麗なるギャツビー」舞台化に
求めたのも結局こういう手法だったと思う。
小池修一郎が菊田一夫賞を受賞した直後で“第二の菊田
一夫”みたいに注目されていた時期に「ギャツビー」を
手がけたので、菊田の得意とする日本的な翻案を期待
したのだが、結果としてそうはならなかった。
岩松了の「マレーヒルの幻影」のほうが、むしろ菊田の手法に近い。
菊田はヨーロッパ旅行中に新聞のわずか数行の地元の結婚ニュース
に興味を持ち、舞台設定はそのままに、ハッピーエンドの記事をまったく違う悲恋物に作り変え、名作「霧深きエルベの辺り」を生んだ。
舞台や登場人物はヨーロッパだが、うまく日本人の感覚にマッチ
させた話になっていたのだ。
映画を観た世代の自分にはやはり、ロバート・レッドフォード
とミア・ファローのイメージが強く、原作通りなぞると比較して
違和感を感じてしまっただろう。
ヒロイン三枝子がデージー単独ではなく、作者の妻ゼルダを重ねて
いる点も、原作の愛読者には嬉しい。

ネタバレBOX

鉄柵状のパテーションをうまく使った舞台美術が印象に残った。
この柵が橋や家の門や墓地の囲いに変化する。柵は三枝子を抑圧し、
絡めとろうとする運命の罠にも見えた。そして、この柵が登場人物を
幻影に見せる効果もあった。
三枝子(麻生久美子)のデージーのイメージを雛菊(デージー)に託している。冒頭の墓地の場面で「こんな墓地に雛菊が咲いてるなんておかしいだろう」という台詞があった後に三枝子が登場したり、ソトオカが訪ねた
三枝子の家にも雛菊が飾られ、器が割られて蹂躙される。
今回はキャスティングが成功した。それぞれ適役だ。
「われわれはどんな状況-人とうまくコミュニケーション
できていようが、できなかろうが、基本的によくいつもわからないものに
対してリアクションしてる」「結局、人は誰とも会話していない」という岩松の考え方がよく出ている芝居だったと思う。
私などは単純なので、舞台を観る時は当然、人物の会話を追って状況を
理解しようとする。だが、岩松作品には、それはあまり意味がないようだ。
登場人物はめいめい勝手に自分の思いを披瀝する。とらえどころのない人物ばかりでてくる。外人俳優3人もしかり。英語が理解できればそれなりに楽しめるだろうが、岩松の手法でいけば、英語の台詞はノイズとして聞き逃されてもかまわないのだろう。言葉のキャッチボールはほとんど成立せず、不協和音をずっと聴かせられるような不安が襲う。しかし、それで岩松作品は成立しているようなところがある。
そういえば、自作に岩松が出演するとき、彼はそこで交わされる会話以外
のものに目を向けているような不可思議な笑みをたたえていることが多い
否、自作に限らず、俳優としての岩松はたいていそんな表情を浮かべており、それがどこか「油断のならない奴」「食えない奴」に見えて印象に残る。
この芝居で、唯一、キタ(三宅弘城が好演)は必死に会話のボールを正しい方向に投げようと努めている人物に見えた。そして思うようにならぬもどかしさを嘆く。観客がキタに感情移入できるゆえんだろう。
フジオ(松重豊)は悪魔のような存在だ。性格が悪魔のような男という意味ではなく、役割そのものが悪魔なのである。人間としてはせいぜい底意地の悪い駄目亭主なのだが、結果的にすべてを破滅に追いやってしまう。ソトオカの会社の封筒に入れてスージー(市川実和子)に金を渡すのも、誤解や結末を意図した行為ではなく、自分の中の小さな悪意に過ぎなかったはずだが運命を決めることになる。岩松自身が出演するならフジオ役だろう。
生活の芯などまるでないかに見えたタナカが最後は怒りから思い切った行動に出る。荒川良々は気のいい純情な役も似合うが、風貌からこういう役もとてもいい。市川は根無し草の雰囲気がよく出ていた。
ソトオカ(ARATA)は2人を案じて忠告するキタにさえ、三枝子との交際に反対した母親を重ね合わせて反発するが、これもキタと会話しながら、キタとは関係ない社会的な差別に怒りを向けている。
そしてタナカに撃たれたソトオカに銃弾でとどめを刺すのは三枝子だ。
愛しているはずなのに、ソトオカの呪縛から逃れようとしている。
彼女はフジオとの生活に終止符を打ちたいのではなく、だれの愛からも逃れて本当の自由がほしかったのだと思う。
ヒットパレード・スペシャル

ヒットパレード・スペシャル

tea for two

劇場MOMO(東京都)

2009/12/22 (火) ~ 2009/12/27 (日)公演終了

満足度★★★★

少し愛して。長ーく愛して。
Aプロに感動したので、急遽、予定を変更し、続けてCプロを
観ることにした。
作品の関係で、Aプロよりも★は少なく、4つとさせて
いただいた。理由はネタバレでご判断いただきたい。
ちなみにCプロのうち、「守ってあげたい」は大根健一が脚本、島本和人が演出、
最後の「すてきなホリディ」のみ、ゲスト作家の高階經啓が脚本を担当し、
大根健一が演出した。
Bプロが観られなかったのが心残り。
最近はTVドラマも映画も観客動員力が求められ、昔の邦画によくみられた
「ちょっといい話」みたいな文芸路線の企画は通らない。
だからこそ、私は演劇に期待している。
演劇の世界もまた、突き抜けた新奇な作品に人気が集まる傾向だが、私が演劇に求めているものは少し違う。
水木洋子や成瀬巳喜男が描いたような「大人の人生ドラマ」が観たい。
大根健一は「30歳を過ぎて作った劇団なので、細く長くを目標にしてきた」と言う。そういう淡白な姿勢にも好感が持てる。
“普通の生活の中の人間の毒”を描ける稀少な作家だと思うので「細く長く」続けていってほしい。
「少し愛して。長ーく愛して」という劇団があってもよいではありませんか。

ネタバレBOX

「サムライ」はこのシリーズの記念すべき第1作だったそうだ。
サラリーマンの小野寺(田辺日太)が朝、これから出勤するというところ。念入りに身だしなみをチェックし、いざ家を出ようとすると、「女子高生がたくさん乗ってくる」だの「オカマの上司が乗ってくる」「課長の愛人が乗ってくる」と何だかんだ理由をつけて出社を遅らせてしまう。どうやらこの男、出社拒否症にかかって長いこと休職していたらしい。課長の愛人のノダマユミが彼の鼻毛が伸びていることを指摘したことから、「ハナゲラ」と職場でからかわれたのがノイローゼの発端で、そのほかにも入社時に自慢の長髪を職場で切られたことを根に持っている。「学生時代は南こうせつ、井上陽水、吉田拓郎らを気取って長髪にしていた」と懐かしい名前が出てくるが、中高年のミュージシャンなので古すぎる感も。小野寺はだんだん錯乱し始め、「サムライ」の歌詞に出てくるジェニーという女性の名前をつけた白熊のぬいぐるみに向かって必死に苦衷を語り、もがき、号泣する。
5本指の靴下をはいているのは、小野寺の自宅生活が長いためなのか。
俳優の趣味ではなさそうだが確信は持てない(笑)。
田辺は金田明夫や三宅弘城に共通する雰囲気の俳優。

「守ってあげたい」
売れない小説家志望の青年(小森健彰)と同棲している銀座のホステス(西尾早智子)。青年はパソコンの新型高速プリンタを買いたいが金がないと言う。以前もらった金も歩道橋を上っている途中で風に飛ばされ、失くしてしまったと。女は見え透いた男の嘘をかばうように、似たような出来事を自分も知っていると、いとこの失敗談を話し、逆に男に「作り話だろう」と矛盾点を突っ込まれる。このへんは笑いが出る。女がいやな顔もせず、1万円札を何枚か渡すたび、男は何かしら理由をつけて、馬券を買う金に当てようとする。女のヒモで競馬好きのダメ男なのだ。女は実家の父親の糖尿病が悪化し、父の退職金で両親が始めた弁当屋の仕事もままならないのでホステスをやめ、雪国の郷里に帰って親の面倒を見ると言う。半年分の家賃は大家さんに預けておくから、と。男は-15℃になると行動力が鈍る」と言いつつ、「車の運転も弁当作りも俺のほうがうまいからさ。一緒に田舎に行くよ」と初めて優しさを見せるところで終わる。西尾のこういう役は若い女優では味が出せない。だが、この男、大丈夫か?優しさと言うより、生活力がないので置いてけぼりになるのが嫌なだけでは?「-15℃」を理由に働かないのでは、と不安になった(笑)。
お金に苦労する女と、女にたかる男を描く作品が多かった成瀬巳喜男の映画を思わせる作品だ。このへんの機微を描くには人生経験がものを言うが、大根はさすがだと思う。

「横恋慕」
漫才で長年コンビを組み、どんどん後輩に追い抜かれて売れないままの2人(島本和人、湯澤千佳)。女は35歳になったのを潮時に芸人をやめ、就職を決めたと言い、男にピン芸人になるよう勧める。女は独身で、男は既婚者。
「女子高生のときに大学生だった男と組んでいたら売れたかもしれない」と回想する女。男は学生劇団に所属していたが、女は一度も男の自宅に遊びに来なかったという。漫才に使った思い出の張り扇。しかし、それは手先の器用な男の妻が作ったものだと別れ際に初めて女は知る。お互い、憎からず思っていたのに一線を越えなかった男女の間のほろ苦くも温かな思いを描いている。小道具で語る巧さ。
巨漢の島本は愛嬌のある笑顔に男の色気がにじむ。この島本が「守ってあげたい」の演出を担当しているというのもこれを観て納得。

「すてきなホリディ」
ミニスカサンタ姿でティッシュ配りをする女(塚原美穂)が高校の演劇部の先輩(大岡伸次)とバッタリ再会。男に手伝いを頼む。男は母がイスラム教に入信したため、クリスマスの思い出がないと言う。女はコスプレ、パフォーマンスでティッシュ配りをする会社を起業したが、この不況でうまく行かず、社員にも逃げられた。男は宗教が原因で子供がいじめにあい、自殺を図ったことから妻に離婚される。互いに弱みを隠しての再会。「メリークリスマス」とは言わず、「ハッピー・ホリディ」と言う男。イスラム教という設定がいかにも突飛に思え、そのこと以外話に特徴がないので、あまり面白く感じられなかった。女がティッシュを客席に配る場面で、知っている顔の客に配ろうと探しているのか、動きが鈍ってギクシャクするのが気になった。こういう小道具は思い切って気前良く、リズミカルに配らないと楽しさが出ない。
高階は竹内まりあのこの曲を「古き良きハリウッド・ミュージカルのよう」と評している。本作にあまりその感じが出ていないように思え、残念。
ヒットパレード・スペシャル

ヒットパレード・スペシャル

tea for two

劇場MOMO(東京都)

2009/12/22 (火) ~ 2009/12/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

こんな芝居が観たかった
旗揚げから10周年だとか。
「tea for two」という劇団名にちなみ、大根健一はは文字通り
「二人でお茶を」という雰囲気の芝居を書いている作家。
だが、私がここの芝居で最初に観たのは法廷劇であった。
馴染みがある東大の学生劇団出身らしく、知的なコメディーで
面白かった。
2回目に観たのがまさに「二人でお茶を」系統の芝居だったが、
悪くはなかったものの★3つという印象の芝居で、以来ずっと観にい
ってなかった。
今回、日程の都合上、千秋楽のAプロしか行けなかったのだが、
あまり良かったので、急遽、午後の予定を変更して、Cプロも観ることに
した。
年齢を重ねた人ほど深く楽しめる芝居だと思った。
オーソドックスだが、ちゃんと毒のある大人のドラマが描かれている。
こういうのは単なる想像力や技術では書けない。
ちゃんと人情の機微についてわかっていないとね。
その点では、往年の邦画のような味わいのある作品でした。
まず、Aプロについての感想を書きます。
「天体観測」のみ、ミノタケプランの石井信之の作・演出。
「桜坂」は大根が唯一好きになれない歌だそうだが、
好きになれない歌で、こんなすばらしいドラマが作れるなんてねぇ。
面白い。

ネタバレBOX

「タッチ」
歌詞の世界とは直接関係ないストーリー。
満員電車で遭遇した2人の男女(大岡伸次・嵐田由宇)。
男は痴漢とまちがえられないかとヒヤヒヤしながらも美しい女性に惹かれ、コンタクトを取りたいと言う願望が芽生える。女性は、最初は密着される不快感を覚えるが、痴漢ではないことがわかり、男が高校のとき憧れていた先輩に似ていることに気づき、知り合いになるのも悪くないなと思い始める。
双方の妄想は次第にエスカレートしていくが、思いはすれ違ったまま、無情にも別れの時が訪れる。
ありがちなシチュエーションだけに共感できる部分が多いのか、観客は
トンチンカンな妄想合戦に大笑いしていた。巧い!

「重き荷を背負いて」
小型OA機器の営業に飛び回るキャリアウーマン(倉田知美)。
まさに「重き荷を背負いて」だ。営業先での売り込みを描いた一人芝居だが、
倉田は実力派女優だけにぐいぐい演技で引っ張っていく。
このキャリアウーマン、子持ちのシングルマザーらしく、「重いのは、
子供を抱えるので慣れてますから」と言い、一礼した直後に、リュックの中の
機器見本がドサドサと床に落ちてしまい、何とも言えぬ哀感が漂う。
旧型機器は製造中止でアフターサービスがきかないにもかかわらず、会社は承知で在庫品を売れと命じる。
開発部に中途入社した長谷川という男性社員が年上の女性と
恋仲になるが安月給のため、この商談がまとまらないと昇給できずに
結婚できないという事情がある。最後の台詞によると、長谷川の
相手は彼女なのか?
「頑張れ!」と心の中でエールを送りたくなる。

「天体観測」
都会で一人暮らしの妹リエ(湯澤千佳)のもとに実家の農家から出稼ぎの兄
(小森健彰)が上京して泊り込んでいる。兄は借金があるのに息子の
クリスマスプレゼントに高価な天体望遠鏡を購入し、妹に責められる。妹は妻子ある男性と不倫しているらしい。
兄がシャンプー、リンスの容器に区別する字を書いたため「シ、リになって
みっともない」と妹が怒るが、逆に読めば「リ、シ」で兄の借金の「利子」
と符合するという場面も入れてほしかった(笑)。
互いの非を責める2人だが、認め合ってもいる。流星に「リエの幸せ!」と連呼する兄。レジ袋から妹が兄の好きなチューハイやツリーのミニチュアを取り出して1個1個テーブルに並べていくことで和解の気持ちを表す演出が心憎い。

「桜坂」
職場を寿退社し二児の母となった先輩ユミ(畠山明子)と同期で唯一独身OLのマキ(渡邊亜希子)が喫茶店で会っている。ユミはマキに早く幸せな結婚をしてもらいたいと言い、見合相手を何人も紹介しているが気に入らない様子。マキはユミの夫である課長と不倫していたのだ。
誕生日の1月5日にちなみ、このテーブルも15番テーブルでユミの席に「彼」である夫がいつもすわっていたと言うことから、ユミは15の数にちなんだ覚えのない商品が家に届く嫌がらせをマキに告白する。
マキは居直って意地悪なことを並べ立てるが、ユミはなじりもせず、じっと受け止める。
経験から言うと、世間にはこういうけなげな妻も実際存在する。
2人の女の間を立ち回っている男(夫)の姿が想像できる。
畠山は演技経験が豊富なだけに、こういう受けの芝居が巧い。
服装からしても、小綺麗なマキに対して、所帯くささがにじみ出ており、
その姿でマキに「いまから高いお店連れて行ってよ」と毒づかれても、
耐える表情がいい。
しかし、大根健一はどうしてここまで女性心理に詳しいのか。
脱帽する。
銀河鉄道の夜

銀河鉄道の夜

東京演劇アンサンブル

ブレヒトの芝居小屋(東京都)

2009/12/23 (水) ~ 2009/12/26 (土)公演終了

満足度★★★★★

アットホームな劇場で観るのにふさわしい
わが家から歩いて行けるもっとも近い劇場が東京演劇アンサンブルの本拠地「ブレヒトの芝居小屋」である。木造のレトロな雰囲気の小劇場で、劇場そのものが「イーハートーヴォ」の世界のよう。別の作品で初めてこの劇場に足を踏み入れたときにもそのような印象を受けた。劇団の後援会名も「ケンタウルスの会」だし、イーハートーヴォを意識した内装なのかもしれない。
東京演劇アンサンブルは、毎年、この時期に「銀河鉄道の夜」を上演しており、街でポスターも見ていたが、ここでこの作品を観るのは今年が初めて。
ロビーには劇団員の入れるコーヒーの芳香が漂う。赤、白のワインも供される。「毎年、ここのクリスマス・ケーキを食べて、『銀河鉄道の夜』を観ないとクリスマスが来た気がしないのよ」と若い女性が話していた。エスプレッソのシフォンケーキを雪のようにふんわりと生クリームで飾ったクリスマス・ケーキも、もちろん劇団員手作りで有名店のものに劣らず美味しい。客席に膝掛け毛布を配って歩いていたのは、この公演には出演していないが、何と看板俳優の公家義徳。東京演劇アンサンブルはそんなアット・ホームな劇団だ。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は、さまざまな脚色により劇化され、今日も多くの劇団で上演されているが、この劇団の創始者、故・広渡常敏が愛着を持っていただけに、オーソドックスに原作の世界を表現しており、世代を超えて愛され続けてきたのだろう。

ネタバレBOX

今回、客席はすべて座布団席(ふだん椅子席の公演もある)になっていて、
銀河を思わせる長いスロープが1本通され、唐十郎のテント芝居を思わせる。
スロープによって本舞台と客席上段の仮舞台が結ばれ、2つの舞台を
俳優は行き来して芝居をする。
本舞台にはいぶし銀に光る傾斜した弧形の回転台座があり、その台座が銀河鉄道の列車という設定。
語り手、ジョバンニ、カンパネルラ以外の俳優は、仮面をつけ、「影」といくつかの役を受け持つ。
音楽はピアノの生演奏(吉村安見子)。闇にスライドで満天の星と星座が映し出される。
観客も銀河鉄道で主人公たちと一緒に旅している気分になる。
私がこの公演に感じたのは「鉄の時代」。プリオシンの岸辺に埋もれている
化石を掘り起こす「影」たちの姿に、つるはしを振るう鉄道工夫たちの姿が
重なる。「影」たちは時代に排除されたものたちの「化石」=「歴史の歴史」
を掘り起こしているのだ。
左翼演劇活動を通じ、「労働」にこだわり、工業化社会への警鐘を鳴らし続けた広渡はこの作品に「鉄の時代の終焉」を込めたという。「鉄とともにこの国の軍国主義もすすんだ。(中略)ぼくの網膜のなかに傾斜角をもった第三インター記念塔のイメージが浮かびあがる。始動する鉄の時代の過激な朝-。」と広渡はプログラムに書いている。
すると、舞台の傾斜台座=銀河鉄道の列車は広渡の中の「第三インターナショナル記念塔」をも表しているのだろうか。
幻想的で美しい場面がたくさんあった。
ケンタウルスの祭の夜、「影」たちが丸いライトをカスタネットのように鳴らしながら輪になって流星のように踊る場面は夢のようだ。
広渡が「ダダの画家、マルセル。デュシャンに啓示を受けて」とらえたという
「おかあさんのおかあさん」は銀髪のロングヘアの美しい尼僧姿で、「銀河鉄道999」に出てくるメーテルそっくり。
猟師のような「赤ひげ」が、鷺や鶴を「押し葉」にして、絵画のように楽しめると
見せたり、仕掛けでたくさんの鳥が飛んできて赤ひげの手に収まる場面はCG顔負けのアナログの迫力だ。
「火の鳥」を思わせる真紅の「さそり」が沖縄民謡のような林光作曲の「さそりの歌」に乗って華麗なダンスを踊る。さそりを演じる樋口祐歌がこんなに踊れる人だとは知らなかった。
船が転覆し、家庭教師の青年が教え子の幼い姉弟を救おうとして救えず、ともに水底に沈んだ様子を語る場面は、戦時中、学童疎開の児童を乗せた船が撃沈させられたことを連想した。反戦家の広渡も同じ想いだったかもしれない。
「お母さんが待っているから行きましょう」と下車を促す姉に幼い弟が「まだ乗っていたいよ」とむずかる姿が、この世への未練のようで胸を締め付けられた。
この青年のエピソードが、のちのカンパネルラの死への伏線にもなっている。
「銀河鉄道の夜」は、「自己犠牲」がテーマでもある。
そして、ひとりぽっちになろうと生き続けなければならない。どこまでも人生の旅は続けていかねばならないと訴えているようだ。
子供たちも目を輝かせておとなしく劇を観ているが、大人の鑑賞にもじゅうぶん堪え得る作品であることは言うまでもない。昨今は嗜好の多様化により、広い層に受け入れられる劇は少ないが、広渡の「銀河鉄道の夜」は年齢に関係なく、その人なりの楽しみ方ができるゆえに地元の演劇ファンに愛され続けているのだろう。
メリーゴーラウンド トーキョー4 スクラップ ラブ

メリーゴーラウンド トーキョー4 スクラップ ラブ

遊々団ブランシャ☆ルージュ

SPACE107(東京都)

2009/12/23 (水) ~ 2009/12/27 (日)公演終了

満足度★★★★

やっぱり、レビューって楽しい!
すごく楽しめた一夜でした。
開演前、森繁久弥の「ゴンドラの唄」が流れてて、
心憎いと思いました。
森繁もその昔、新宿にあったレビュー小屋の
ムーラン・ルージュで芸を鍛えた俳優の一人です。
今回、私はやはり、レビューが好きなんだなと
再認識しました。
「ダウンタウン物語」という子供が大人の1920年代
の世界を演じるアラン・パーカー監督の映画が
あるのだけど、子供とは思えないほど色っぽい少女
たちが演じるクラブのレビューの場面(歌は吹き替えだが
歌姫役はあのジョディ・フォスター)が私は大好きで、
サントラ盤もその場面しつこく聴いたし、ビデオも
DVDも繰り返し観たほど大好き。こういう可愛い女の子が
歌って踊るレビュー・ショーなら通い詰めたいと思ったほど
好きな場面だったのです。
宝塚にも今回のショーに似たレビュー場面はけっこうあります。
もう少し上品な感じだけど。
往年の宝塚はお芝居よりレビューが中心だったせいか、
男性の宝塚ファンがいまよりたくさんいたのですよ。
「新東京レビューROUGE」は60年代の映画に出てくるキャバレーのショーに似た雰囲気がありますね。
衣裳はキャバクラの女の子みたいで露出度満点だし、
疲れたお父さんたちに観てもらいたいと思いました。
この入場料金で目の保養になるのだから。
主宰のかた、夕刊紙の「日刊ゲンダイ」に週末、演劇紹介面が
あるのでぜひ、今度プレス・リリースを送ってみてください。
男性読者にファンが増えると思いますよ。
最前列に陣取った男性たちがカクテルライトが回ってくるたびに顔を必死に隠してるのが笑えた。もっと堂々と楽しめばいいのに(笑)。

ネタバレBOX

オープニングは本当にキャバレーのショーみたいでした。
ちょっと泥臭い。
私、田中浩子さん、好きです。
彼女が歌うナンバーは、どれも60年代後半の奥村チヨみたいな
雰囲気があって、懐かしい感じだから。
私は本来、バンドの音楽がガンガン鳴るライブが苦手なんだけど、
舞台に近いところでも心地よかったのは相当ストレスが
たまってるのかな(笑)。
「フレンチ・カンカン」みたいなダンスもあるのは、まさに
ムーラン・ルージュっぽい。
「アナタと二人でいる時にケータイいじっちゃダメですか」
という歌。歌詞を読んだら「ダメだろ。人と会ってるときくらい
相手とむきあえ。いやなら会うな」と思った。
でも、この歌の曲がいいんだよねぇ(笑)。
「ダメですかー」のうら声になるところがツボで(笑)。
「さみしくてやりきれない」は、今年フォークルの加藤和彦が
亡くなったことなど思い出して聴いていた。
衣裳の感じからか、ちょっと沖縄風にも聴こえた。
歌もダンスもステキだったんだけど、ソープ嬢のユニフォームみたいな
着物姿はいただけなかった(笑)。
男性陣が歌う「男星」は「巨人の星」の替え歌アレンジみたいで
男子社員の宴会芸風(笑)。
今回、男性がトリオで出演するが、常に秋葉系男子のような冴えない
役回りなのは残念。もう少し、昔の日劇や宝塚みたいにデュエットダンスでかっこよく絡めば面白いが。
ショーの小道具も工夫しててよかった。
金物とペットボトルを楽器に見立てて奏でる場面、アイディアはいいが、
音が大きすぎて耳に響き、ちょっと苦痛だった。
あと、歌があまりうまくない歌手に長いバラード・ナンバーを歌わせるのは
考えもの。
田中さん以外ではストレートヘアで声の美しい工藤綾乃さん、オデコが印象的でシャープなダンスの武隈梨恵さんが好みでした。

終演後、率先して道路に一番近い出口に立ち、お見送りしていた
代表の田中さん、さすがです。
クラブのママに見送られたような良い気分でした(笑)。
加賀見山旧錦絵

加賀見山旧錦絵

日本伝統芸能振興会

みらい座いけぶくろ(豊島公会堂)(東京都)

2009/12/24 (木) ~ 2009/12/25 (金)公演終了

満足度★★★

さまざまな感想が錯綜して・・・
豊島公会堂に来たのは子供のころ以来、数十年ぶりで「みらい座いけぶくろ」というから新しくなったのかと思ったら、建物は古色蒼然としたまま。公会堂前に着くと、何人もから「チケット余ってますが買ってください」と声をかけられました。
会場も「タダの切符ありがとうね」「いえいえ」と言葉を交わすおばさんグループでごったがえしていた。
この公演の実情がかいまみえるような。
舞台創造研究所のこれまでの活動も見てきましたし、NPO法人立ち上げへ向けての署名活動にも参加した1人なので、「伝統芸能としての歌舞伎普及の草の根活動を大切にする」主催意図は理解していますが、観客動員には苦戦しているようだ。
もともと、舞台創造研究所の企画は、昔盛んだった小芝居の上演に力を入れていて、松竹のやっている大歌舞伎とは違う面白さをアピールしていたのですが、興行採算面で苦労が大きかったと聞く。
近年は、「歌舞伎ルネサンス」と題して、古典歌舞伎に現代的味付けをし、
有名俳優をゲストに迎えて上演しているようだ。
それが歌舞伎紹介の草の根活動として功を奏しているかといえば、
今回の内容を見た限り、疑問を感じる。
「本来の歌舞伎とは似て非なるもの」だからで、新作歌舞伎とも違うし、どっちつかずの印象だった。

ネタバレBOX

4幕7場で3時間近い上演時間。終盤はきっちり義太夫、歌舞伎で言うところのチョボを入れるので、かなり長い。
普通の俳優が、歌舞伎俳優でもなかなか褒めてもらえない「ノリ地」の芝居をするのは至難の業。
「歌舞伎」と謳っている関係上、なるべく本編の雰囲気に近づける努力をしているのだろうが、演出上、接木のようで違和感がある。
「割りぜりふ」を言う奥女中も女性ばかりなので、声がそろわず、聞き苦しいところがあった。うまく行っている箇所もあったのだが。
歌舞伎の言葉だが、現代語も一部入れている。
奥女中たちのおふざけ場面は軽演劇調。
本家の「鏡山」のように単純に勧善懲悪で描かず、悪のほうにも一分の利を与えている。岩藤(浅利香津代)の「これまでの利権と新興勢力台頭への口惜しさ」を表現する台詞が、なんとなく現自民党の本音を聞いているみたいで唯一面白かった。
岩藤は歌舞伎では通常立ち役が演じるだけに位の大きい難役だが、浅利は前進座の若手女優時代に歌舞伎の世話物を演じて絶賛された人だけに、天性の勘が働くのか、立ち回りなどの動きはさすが見劣りしない。
台詞が出てこず、2度ほど間があいたのは残念だったが。
尾上(朝丘雪路)は気品も位どりもあり、女優の女形芸としては最高の演技だと思う。女優に年はないというが、この人はいくつになっても実年齢がわからないほど若々しく魅力がある。
お初の竜小太郎は女形で台詞を言う芝居はほとんど経験がないそうだが、歌舞伎の台詞回しは初めてにしては上手。ただ、肩がごつく見えると、かいがいしい動きの邪魔になる。これは歌舞伎の女形としての体の生け殺しが身についていないためで、女形の舞踊ショーとは勝手が違うし、年季がいるので難しいと思う。
お初はまさに歌舞伎の女形としての「肉体」を晒す役どころとも言えるので、ちょっと荷が重かったのでは。
かと言って、普通の若手女優では手が出ない役だ。
「本日はまずこれぎり」という口上による幕引きは歌舞伎仕立てだった。
洋食器でナンチャッテ懐石料理を食べた気分。ナイフとフォークでは気分が出ませんね。
芝居の内容が年配の団体客向けの感じがするが、客席からは「言葉が歌舞伎みたいで難しいねぇ」との声が。
だったら、本物の歌舞伎を観せたほうが歌舞伎の普及にはなるだろう。
この種の企画公演の難しさを感じた。
公会堂のようなところで、巡業の大歌舞伎をたまに観ることもあるが、
その場合は当方、目が悪いので、あらかじめ1階席を確保している。
今回、招待席は2階席の1列があてがわれたようで、ほとんど空席。
この場合、小劇場芝居ではないのであらかじめ、「2階席になります」と
知らせていただければ、オペラグラスを持って行ったのに残念です。
ハコの大きいところで上演する歌舞伎の場合は、配慮がほしい。
暖房が暑く、ケータイのバイブ音と婦人客の私語がうるさく、
タダ観するだけならまだしも、レビューを書くのが前提の招待者には環境が最悪。
近くの席の招待客らしい青年は興味がないのか退屈したのか、ほとんど最後まで眠っていた。
プログラムを買おうとしたら、「600円です」と言ったきり、係員が席をはずして戻ってこないので、急いでいたこともあり、買うのをやめて帰りました。
運営がボランティアなので対応が悪くてもしかたないのか。
後の予定があるため、できればあらかじめ上演時間はHP等で知らせてほしかった。(松竹歌舞伎の公会堂公演の場合は、終演予定時刻がチラシに書いてある)。
曲がれ!スプーン

曲がれ!スプーン

ヨーロッパ企画

紀伊國屋ホール(東京都)

2009/12/10 (木) ~ 2009/12/22 (火)公演終了

満足度★★★

劇場空間とのミスマッチ感が
この作品が何年にもわたり繰り返し上演されてきたということは、
それだけ観客に支持されてきたということであり、脚本・演出家、
出演者らの間でじゅうぶん練られ、熟成されたということになる。
その熟成の要素の中には当然、観客と俳優との「間合い」、
芝居の世界で言うところの「息」も含まれていると思う。
小劇場の芝居におけるこの「間合い」「息」は独特のもの
であり、それが芝居の密度の濃さにも通じ、大劇場にはない
小劇場演劇ならではの魅力を生むのだと思う。
その密度の濃さという点で、私には今回の紀伊國屋ホールと
いう劇場とこの芝居との微妙な温度差というか、ミスマッチ
感を拭えなかった。個人的にはサンモールスタジオあたりで
観たらもっと楽しめたかなという気がした。
しかし、この戯曲が傑作であることに変わりはない。

ネタバレBOX

映画版はヒロインがAD役の長澤まさみだが、舞台版はより
エスパーたちが中心で楽しめるものと期待したが、自分の場合、
そう単純な結果にはならなかった。
この芝居を知り尽くしている常連ファンが多く来ているせいか、
台詞の頭を言っただけでけたたましく笑い出す人がいて、
申し訳ないがその声が耳障りでかえって興がそがれてしまった。
TVのお笑いバラエティーで録音済みの笑い声を入れるのと同じ効果
(逆効果と言うべきだが)で、みなまで言わないうちに先に笑いが
くる。お笑いライブに来ている親衛隊ファンや狂言の茂山家の若い
ファンにも共通するが、本当に可笑しくて笑っているというより、
「ここで笑わなくちゃ」という雰囲気で笑っているふうに感じてし
まう。
エスパーたちの会話も内容は面白いのだが、台詞が劇場の壁に
吸収されてパワーダウンしてしまうように感じた。
会話のテンポも演劇というよりコントに近く、良くも悪くも
小劇場的な芝居に見えて、最後まで劇場空間との違和感が残った。
風間杜夫も初めて紀伊國屋ホールに出演したときの感想として、
「台詞が劇場の壁に吸い込まれるようで小劇場とは勝手が違い、
冷や汗が出た」と語っていたことを思い出す。
上田誠によれば、紀伊國屋ホールの内部はこの作品の舞台となる古風な
喫茶店の雰囲気が合っているとのことで、それは同感だ。
映画版のマスター役・志賀廣太郎は古風な喫茶店のマスターがよく似合う
俳優だが、映画版のセットはカフェ風だと上田氏は言い、舞台のマスター
(角田貴志)は若くてむしろカフェ風なのも面白い。
映画のマスターは一歩引きながらもエスパーたちの能力を当然のように
認めているが、舞台のほうは積極的にエスパーたちの中に入ってまぜっかえす。
透視の際、筧(中川晴樹)が女性ADの名刺の「米」という字を毒蜘蛛の形と
誤って認識してしまい、映像では一目瞭然で大笑いした場面。
これも舞台が遠いため、混乱の中で「ヨネ」という名が発せられてもわかりにくかった。映画を観ていなかったら、聞いただけで名前のヨネ→米とすぐにピンと来なかったと思う。
長澤まさみが参考にしたと言うだけあって、桜井米役の山脇唯は雰囲気も何となく似ていた。
透視という超能力のため、筧がエスパーたちからエロの偏見を持たれて分が悪くなっていき、僻むあたりが可笑しい。
テレポーテーションの小山(本多力)が時間を数秒ストップさせ、映画版よりも悠然と歩いていく。
細男(永野宗典)がトイレの窓から脱出をはかろうとして見つかる場面も意外に客席の笑いは少なかった。これも舞台の大きさが関係しているように思う。
トイレのドアがこじあけられたとき、目前で細男のからだが窓枠にはめ込まれたようなせせこましさが直接伝わらないからだろう。
ラストのサンタクロースにされて細男が飛ばされる場面もチープな仕掛けで
笑わせるが、小劇場ならより面白く感じたのではないだろうか。
この細男という役はエスパーではなく、TV出演候補者としてADとの打ち合わせのためにこの喫茶店を指定してやってきたのだが、舞台版の細男は、態度が大きく、エスパーたちに自己紹介されてもさほど当惑する様子はなく、むしろ余裕でふんぞり返って見ている。
実際に狭くないところの「通り抜け」も当然と言うべきか簡単に通り抜けてしまう(笑)。
映画版の岩井秀人は、エスパーたちに囲まれ、「どうも様子が変だぞ」と
いう警戒心と困惑が見え、「通り抜け技」も勿体をつけて難しそうに演じた。
終演後のトーク・ショーで以前、細男を演じた土佐和成が良かったと言う
中川のリクエストにより、土佐がそのときの「通り抜け」の演技を再現して
客席を沸かせた。
好みの問題だが、確かにこのほうが映画の岩井に近い感じで私には面白く感じた。
今後も上演を繰り返して、進化を続けそうな魅力的な作品だとは思う。
DAILY

DAILY

きせかえできるねこちゃん

明治大学和泉校舎第二学生会館地下アトリエ(東京都)

2009/12/18 (金) ~ 2009/12/20 (日)公演終了

満足度★★★★★

大学生が初演の快挙!作者の命日に観劇
如月小春は、野田秀樹、渡辺えり子(現えり)、川村毅、鴻上尚史らと
並び、1980年代の小劇場ブームを牽引した演劇第三世代に当たる。
「女子大生亡国論」が定着した時代に、才色兼備の女子大生劇作家
として彗星のごとく現れ、メディアの寵児となった。
存命であれば、その活動はいまも注目を浴びていたに違いない。
44歳の若さで亡くなったのが2000年の12月19日で、私が観劇したこの日は
奇しくも祥月命日。
近年、渡辺えりのプロデュースにより作品の追悼上演が行われたが、
その作品が上演される機会は稀で、名前を知らない世代も多い。
今回、如月小春の戯曲を愛する1人の大学生が縁あって幻の
未発表戯曲に出合い、ご遺族の許可を得て上演の運びとなった。
戯曲は小説と違い、上演されなければ一般の目に触れる機会が少ない。
それだけに今回極めて貴重な機会を与えてくださった学生の皆さんに
深く感謝する次第です。
戯曲は13のシーンで構成され、上演時間1時間10分。
キャストは全員女性です。
脚色・演出の坂本麻衣さん(女子大生時代の如月さんに雰囲気が似てる)によると、時間の関係で割愛した場面はあるが台詞にはまったく手を加えず、忠実に上演したという。
陽の目を見た作品はみずみずしく、まったく古さを感じさせない。
むしろ斬新だ。一番喜ばれたのは泉下の如月さんでしょう。
何よりの供養になったと思います。
本当にすばらしい公演なので、できれば再演し、
より多くの人に観ていただければと思った。
特にフェミニストのかた!
如月小春は美女だったので男性ファンも多かったが、みんないまどうしているんでしょう。

ネタバレBOX

如月小春は「光」と音楽にこだわった作家かもしれない。
今回の舞台も、照明と音楽が効果的に使われていた。
砂漠を思わせるベージュのラグが床に敷かれ、黒い椅子が左右の端に
2個ずつ置かれたシンプルな舞台装置。
キャストの衣裳は全員オフホワイトやオフベージュのカットソーに
ワーキングパンツ。
開演前から舞台奥に白い球体を持った全身白ずくめの人物が座っている。
見たところ性別不詳だが、配役には「白い男」(利田眞実)とある。
物語の語り部となる少年(乗富由衣)が、この白い男にさまざまな質問を
ぶつけるが男は無言。少年は「僕はいまから出かけなくちゃいけない。
そこで待っていてね」と言い残し、出かけていく。
少年は首から帳面をぶら下げていて、見聞したことを書き付けていく。
・「群れもまた一人一人の人間から成る」
少年を含め、5人の人物が行進していく。
抜き抜かれつ。
遅れる者の焦燥。先頭に立つ者の快感と喜び。
歩き疲れた者の諦め。
我々の人生のようだ。陽と陰。
・「生まれたものは皆死ぬ」
女(中島綾香)は少年を相手に、人の死、墓場について語り、夫の帰り
を待って夕飯の支度をする主婦の日常に思いを馳せ、また、墓場について
語る。
女は少年に聞く。「私、泣いてもいい?暴れてもいい?」
少年は「いいよ」と優しく言う。
女はわめき、号泣し、手足をばたつかせる。
静かに語り始めたときから女には本物の涙があふれていた。
見ていて言いようのない悲しみに襲われる場面。
誰の心の奥にもある衝動だからか。
・「椅子式恋愛論」
少年は雑踏の中、椅子の傍にポーズを取って座っている女
(坂本麻衣)を発見する。
「何やってるの?パフォーマンス?」
「椅子よ、椅子。私、椅子になりたいの」
父親が買ってきてくれたという椅子についての恋情を語り始めた女。
「私、この椅子と結婚したいの」と言う娘に両親(北澤茉未子・山田志穂)
は猛反対。女は教会や役所に行って結婚の許可をもらおうとするが
取り合ってもらえない。
椅子と結婚するなら生活設計を考えなくてはと忠告する少年。
「喫茶店は?君がおいしいコーヒーを入れ、お客さんはその椅子に
腰掛けてコーヒーを飲む。それなら一緒に仕事ができるよね」
という少年の提案に喜ぶ女。
存在の証明について考えさせられた。椅子を人間の如く愛するというのが
凄い発想だ。椅子をまねる坂本のポーズがダンスのように美しい。
・「石の想い」
12年間連れ添った夫を20歳の愛人に奪われ、妻(北澤)は愛人(中島)と
口論になるが、どちらも譲らない(リアルな会話だった。身近にこういうケースがあっただけに)。
石段を登ってきた少年。妻と愛人は石の様な固い想いを抱いたまま、狛犬になってしまったらしい。女の一念は恐ろしい。
・「陽のあたらない楽園にて」
さまざまに変化する光。氷河期のような寒さ。焦げるような熱暑。
地球はどうなってしまうのだろう。
・「陽のあたらない楽園にて」(2)
光は影を生む。光を極度に嫌って逃げ惑う影たちが男2人(北澤・山田)
の会話で表される。だが、影たちも本当は光が心地良いのだ。
「光はまなざし、移ろうもの」と如月は捉える。
「如月さんはいつもスポットが当たっていてまぶしいような人と昔は敬
遠していた。でも改めて作品を読み返すと、違う一面に深く共感を覚えた」
と渡辺えりが語っていたことを思い浮かべた。
・「僕の仕事」
瓦礫に埋もれた町。でも「街はまだ死んでいない。生きてるんだ」
と少年は言う。白い男から少年へ白い球体が渡される。
復興の息吹。世紀末、阪神淡路大震災や戦争の世紀と言われた20世紀への想い、これから始まる21世紀への希望を如月は表現したのだろうか。
白い球体は地球?希望?
公演が終わっても珍しく席を立つ人がなく、若い人たちがみな熱心にアンケートにペンを走らせていた姿が印象的。
心が浄化されたような「癒し」の戯曲だった。
いま、如月小春の芝居が猛烈に観たくなっている。


おぼろ

おぼろ

ゲキバカ

吉祥寺シアター(東京都)

2009/12/16 (水) ~ 2009/12/23 (水)公演終了

満足度★★★★★

楽しい公演でした
劇団名改名以来、初の公演。舞台と観客が一体となって
新体制を祝う楽しいお芝居になりました。
「小劇場系の劇団にとって一番観て貰いたいのは
同業者やマスコミ関係者。一般客に観てもらって意見を
聞きたいとは思っていない」という意見を、これまで何人
かの小劇団関係者から聞いたことがあります。
趣味で観ている一般客の自分としては少なからずショックでした。
また、そこまではっきり言わずとも、そういう姿勢が芝居
から伝わってくる劇団にもいくつか出会いました。
でも、「ゲキバカ」はそういう劇団とは対極にいるのだ
と実感しました。
新劇団名については人によっていろいろな感想があると
思いますが、正直なところ、劇団名がどういう名前であれ、
大切なのは中身であります。
お客を大切にする、気持ちよく帰ってもらう、そういう雰囲気
が、舞台にも終演後のロビーにもあふれていました。
アンケートの項目にも積極的なリサーチ姿勢がよく表れてい
ます。
前回観たシェイクスピアの世界とはまったく違う
歌舞伎仕立てのお芝居。
僭越ながら、歌舞伎や時代劇を長く観ている者の目から見ても、
みなさん、よく勉強されていると思いました。
今後の活動が楽しみな劇団です。
気になった点もあり、☆4つと言いたいところですが、気分よく楽しめたのでご祝儀も込めて☆5つとさせていただきます。

ネタバレBOX

開幕時、劇団員全員が舞台に並び、歌舞伎の口上よろしく
挨拶。
せめて主宰のかたの最初の挨拶には「一段高いところからではござい
ますが」の一言が入っているとよいですね。決まり文句ですが、
口上にはつきものの観客への礼儀なので。
賑やかなオープニングに「寿ぎ」の気分が横溢して観るほうも
気合が入る。
語り部の瓦版屋おきよ(木村智早)がきびきびした芝居で
導入部、うまくひきつけた。
登場人物の色分けが明確で無駄な役がなく、人物関係を
つかみやすい。時代劇のツボをきちんと抑えたうえで、近未来の
エピソードをうまく嵌め込み、ありがちな話にはならなかった
のがお手柄だと思う。
義賊おぼろ小僧(次郎吉)の鈴木ハルニは、あのブスコーとは正反対の
カッコイイ役どころ。
次郎吉と銀髪の悪太郎(持永雄恵)、お花(石黒圭一郎)との因縁
は、池波正太郎の『鬼平犯科帳』に出てくるようで、なかなか良く
できている。お花の石黒の女形の演技は本職でもないのに巧い
のに驚いた。声や所作に色気があり、花の鉢を扱う場面など新派をやら
せたくなった。花組芝居の加納幸和の若いときみたいだ。
湯屋の場面。後姿、それも裸体で女形を演じるのは本職でも
難しいものだ。実は、自分は子供の頃、銭湯の常連で許可を得て
女湯に入っていた女形の役者を見ているが、その人の裸体の
後姿はちょうどこんな感じだった。
ただ、宴会芸のような裸で遊ぶ場面は好みではなかった。
ダンス振付でゲス吉の伊藤今人、柳沢慎吾風で面白かった。
けん(渡辺毅)は高倉健のパロディだったが、客層が若いせいか、
「不器用ですから」のギャグは受けてなかった。不器用どころか
器用に女性の胸を触る役だ(笑)。
ゆり(夏日凛子)、りん(堀奈津美)の裏切り・誘惑コンビも印象に
残る。銭形平次(中山貴裕)、おせん(高橋悠)も出演場面に色が
くっきり出る。平賀源内(西川康太郎)の役の印象がやや薄いが、
バランスは取れている。Mi・Kと役名がピンクレディーのような
(UFOでも踊るのかと思った)ウサギの双子(片桐はづき・小堀紗矢香)
は家に連れて帰りたいくらい可愛い。
人類が滅亡した地球は灰色で、江戸時代はまだ地球が青く、「ずっと
あのままだったらよかったのに」という述懐が心に残った。
悪太郎がお尻百叩きの刑で済むのは、お披露目公演ゆえ暗い結末を
避けたのだと思うが、強盗が罪もない町人を何人も惨殺して、江戸時代
に死刑にならないのは理屈としてはおかしい。ま、処理としては
難しいところだが、一番気になった点。
もう少し練れば、大劇場でも通用する芝居だと思った。

*細かい点だが気になったのは雪の形。すごい量の雪が降るが、
飛んできたひとひらを見ると案の定、四角形。
芝居でああいう降らせ方をする場合、四角はだめなんです。
歌舞伎の雪や桜の花びらは道具方でなく、俳優さんのところ
のベテランのお弟子さんが手作りしてるが、雪は角を
切って、丸みを帯びて作る。俳優さんの顔や口に当
たったり、貼りついたりして負担にならないための江戸時代からの
工夫。また、照明が当たったときの効果も断然違ってくる
。以前、歌舞伎俳優に直に聞いた話だが、商業演劇などで
一般の劇場に出ると、劇場側スタッフが四角の雪を降らせるので、
窒息しそうになることがあるそうだ。
徹夜で作り直させたというかたもいるほど。
劇団の方、ここ読んでいらしたら、今後、雪を降らせる芝居の
ときは参考にしてみてください。
大洗にも星はふるなり

大洗にも星はふるなり

ブラボーカンパニー

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2009/12/09 (水) ~ 2009/12/13 (日)公演終了

満足度★★★★

切なさと可笑しさと・・・夏の日の「玉手箱」
歌舞伎や能楽は例外としても、私、元来は映画でも演劇でも男性
ばかりのキャストの作品は苦手なほうです。
しかし、この秋以降、男性だけのキャストのお芝居を観る機会
が多く、慣れてきました(笑)。
この作品はブラボーカンパニーの好評だった作品の再演だそう
ですが、初演は観ていません。舞台版を観ることを決めてから
好奇心を抑えきれず映画版を先に観ました。
舞台に先立ち、映画が公開されるといえば「曲がれ!スプーン」が
そうでした。両者は配給会社や制作方法も違いますが、
ヨーロッパ企画の公演チケットが残席僅少と聞き、焦って購入する
際、キノチケの係員に聞くと「やはり映画の宣伝効果はあると
思いますねぇ」とのことでした。本作の出演者たちのブログを読むと、
軒並み「チケットまだまだあります!」と必死に呼びかけているよう
だったので、どうしてヨーロッパ企画みたいに相乗効果を狙った宣伝
を積極的にしないのかと疑問でした。
ましてや、福田雄一という劇団主宰・作家は、フジテレビの月9ドラマを
始めTV、舞台で活躍中、「曲がれ!~」のヒロインが長澤まさみなら、
「大洗~」のマドンナ役は戸田恵梨香と、どちらも人気女優を起用して
いるのに、と。
しかし、本公演を観劇してわかったことですが、「大洗~」の場合、
映画版の脚本・監督も福田雄一氏自身が手がけていることもあり、
舞台版とは脚本的にもそんなに大きく違わないのです。
ですから相乗効果は考えず、別々に観たほうが良いと思いました。
映画と舞台を両方観るとWキャスト感覚で楽しめます。
映画はまだ続映中なので、これから初めてこの作品を映画版で
ご覧になるかたはネタバレを読まれないほうがよろしいか
と思います。
また、本公演を観逃したがどんな内容か興味があるというかたは映画版
をご覧になることをお勧めします。
ひとことで表現すると、個々の夏の日の想い出を呼び覚まさせてくれる
「心の玉手箱」のようなお芝居です(夏にはまったく想い出がないと
いう場合は除いて)。
あと、楽しみ方としては、他の劇団で上演した場合、だれがどの役に
合ってるかという「妄想遊び」ができます(けっこう楽しめまし
た。我が家だけかもしれませんが)。
あくまで私の個人的な考えですが、CoRichにおけるブラボー
カンパニーの認知度はまだ低いのかこの公演への関心度も高くなかっ
たようなので、チケプレを実施していればもっと多くの人に関心を
持って観てもらえたかなーと思ってちょっと残念です。
詳しい内容はネタバレで。

ネタバレBOX

この芝居にはこの「小屋」が合っていたと思う。劇場に入ると眼前には「海の家」の凝った舞台美術が。よしず張りが丁寧に舞台脇の壁の方にまで貼られていた。同伴者がその1つ1つを読み上げるように説明してくれたものだから、映画とは違う臨場感が胸に迫ってきた(同伴者はこの芝居観るのは初めてですが 笑)。
舞台は茨城県大洗海岸。物語は夏限定の「海の家」を閉める8月31日から始まり、一挙にクリスマス・イヴへと飛ぶ。
「海の家」最後の日の感慨にふけったところで灯りがパッと消え、音楽とともにスクリーン映像にタイトルクレジットが出るところも映画と同じで「へぇー」と驚いた。
「まだ海の家残ってるみたいですよ。もしよかったら、イヴの日にまたそこで会いたいな」
という「海の家」で一緒に働いたマドンナ的存在、江里子からの手紙をもらった男たちのうち、まず5人が鼻の下を伸ばしてやって来る。
だが、同じ文面の手紙が全員に送られていたことを知り、いったんはへこむが「どんなに江里子を愛しているか」と一斉に自己主張を始める。そこへ、「海の家」の撤去を命じに弁護士・関口が現れる。男たちは話し合いが解決するまで撤去は待ってくれと頼む。弁護士はしかたなく待機していたが、「重要なのはどんなに相手を愛していたかではなく、どんなに愛されていたかなのだ」と言って「愛されていた様子」を各自に証言させてから、1つ1つの主張の矛盾点について探偵や刑事のごとく指摘し始める(一番の山場はここ)。挙句、「僕も江里子さんが好きだ」と恋人レースに名乗りを上げる。5人のうち猫田は江里子と共に働いていたよしみという娘と付き合っていて、このよしみが江里子とは対照的な超ド級のブスだったため、猫田がその事実を隠し、事実を知った他の4人がそれを隠す行き違いで笑わせる。
細かいところで面白かったのは、鮫の研究をしている松山の衣裳のカウチン・セーターの編みこみ模様が大小凝った魚。冬のカウチン・セーターで魚柄って見かけないがオリジナルで編んだのかな?よしみから猫田へのケータイの着信音が「タッチ」の主題歌なのは歌手が「岩崎良美」だからだというのは同伴者の指摘だった。
松山がアメリカへの留学が決まっていると打ち明け、みんなが江里子とのデート権を松山に譲ろうとしたところへ、外で待っていたという林が現れ、脳腫瘍で命が危ないとの告白にみんなの同情は林に集まる。
しかし、この手紙を書いて皆を呼び寄せたのは実は林であった。映画版では林の印象が薄いのだが、舞台版では林を演じる山本泰弘が終盤に登場しながらも、1人妄想芝居の長丁場で大車輪の熱演で爆笑を誘う。
映画版は男たちの妄想場面を再現映像で見せるが、舞台版の魅力は文字通りライヴ感覚の芝居で客を引っ張っていく。ここが大きな違いだ。
林は聞き間違いからトンチンカンな行動をする青年という設定で、医師が「どうしよう」と言ったのを「脳腫瘍」と聞き間違えたという後日談がナレーションで加わるが、映画でも舞台でもこのダジャレのようなオチが私には面白くなくて拍子抜けし、欠点に感じられた。
映画版のサイト・レビューでも「キサラギ」と比較し、ラストのオチに不満を述べる声が目立った。自分も「キサラギ」は映画で観たが、まったく別物に思え、思い出して比較する気は起こらなかった。
サザン・オールスターズの曲が劇中効果的に使われるが、「湘南」ではなく「大洗」という田舎の海岸で男たちが妄想の恋を繰り広げる、だからこそ可笑しいし、切ないというのが、作者・福田の狙いらしい。
特に印象に残った俳優は3人。超おしゃべり男で秘密が守れないマスター役の佐藤正和。映画版の佐藤二朗(TVで好きな俳優です)のイメージと重なる好演。10月のクロカミショウネン18番外公演での二枚目風ラジオディレクター役とは別人に見えた。キザなストーカー、杉本役の鎌倉太郎は公演前日に観たNHK教育で録画放送された無名塾の公演「マクベス」に出演していた俳優で、これもまったく別世界の爆笑演技を見せた。
最後にモダンスイマーズからの客演で弁護士を演じた古山憲太郎。モダンスイマーズではこれだけ台詞の多い役は演じないそうで、かなり苦労したらしい。映画版関口の安田顕は器用さを生かして「チャッカリ・したたかタイプ」で演じて面白かったが、古山は弁護士という職業的な真面目さゆえに見逃せない性格の関口を表現し、真面目に矛盾を力説するほど可笑しさが出た。彼の真っ直ぐな芝居を観ていると、「役者は舞台に内面がにじみ出るからふだんの生活が大切」と語った共に名優の市川猿之助と藤山寛美の言葉を思い出す。
カーテンコールでひときわ深々と頭を下げる姿に古山の舞台に対して謙虚で真摯な姿勢がかいまみえた。 
最高傑作 -Magnum Opus-

最高傑作 -Magnum Opus-

劇団銀石

ギャラリーLE DECO(東京都)

2009/12/08 (火) ~ 2009/12/13 (日)公演終了

満足度★★★★

観客を置き去りにしない手腕は見事
「最高傑作」という題名を誤解してしまいましたが、
それも狙いのうちだったのでしょうか(笑)。
パンフレットに親切に「鑑賞のポイント」を書いて
ある。5話のオムニバスだが、ひとつの物語であること。
(柱に分断された空間を逆にうまく生かした芝居で、)
どの位置からも意図的に死角を作り、観客の想像力
にゆだねていること。
一種のSF、神話だが、傍観することなく、壁を作らずに
窓から積極的に覗き込んでほしいということ。
これを読まなかったとしても、自然にそのポイントを理解して
観るようになっている点が巧みだ。
確かに深く理解しようとすると難解だけど、佐野木雄太は
観客を置き去りにしないところが評価できる。
毎回、PPTを開き、積極的に自作を語る。
この姿勢は貴重だ。

ネタバレBOX

ベージュトーンの薄いプリント布を張り巡らし、ガラスブロックや電球、
試験管を使った舞台美術。開幕前から男女の俳優が2人1組になって毛糸玉を巻きとりながら、小声で会話をしている。前列なので囁き声でも聞こえたが、コイバナをしている人や天候の話をしている人など。台詞ではないが、私語でもない。WSのような面白い場面だ。
俳優はコサージュやフリルに彩られた衣裳をまとっている。
「銀石」の魅力を支える要素として浅利ねこの衣裳は欠かせない。
男女の別なく、マガジンハウスの雑誌「Olive」に出てくるようなファンタスティックでちょっとアンティークっぽい、80年代の人気デザイナー金子功(ピンクハウス)のような最近の「森ガール」のような服のコーディネートである。加えて今回の芝居のキーワードともいえる「ガラス」にちなんだのか、スワロフスキーの飾りが多用されている。衣裳に関してはちょっとしたファッションショーのようでもある。ロボットの話が出てくるが、これで衣裳が近未来的なメタリックなものだったり、シンプルなモノトーンの無機質な洋服だったら、視覚的には退屈してしまうかもしれない。
ここに出てくるロボットの話は機械部品開発というよりはクローン研究に近い。佐野木氏は「人類の進化」について考えたという。はるか昔の人類(原人?)は現在の人類とは違っていたし、ならば未来の人類はもっと進化しているかもしれないと。
「観客を巻き込む」という作者の意図に巻き込まれた私は、芝居に登場する博士のような技師を観ていて、観劇2日前に観た60年代の映画「不信のとき」の人工授精の話を思い浮かべた。
有吉佐和子原作のこの映画の本筋は単なるよろめきドラマではない。
「子供さえ産めば完璧なのに」という誤解した夫のつぶやきが妻に「人工授精計画」を決意させる。
「人間扱いされてない」という妻の怒りが描かれるが、それから何十年も経ても、閣僚が「女は産む機械」なんて発言をする国もあり、代理出産など「生殖」にまつわる問題の根は深い。
まるでこの芝居のロボットのようではないか。
この芝居のロボット技師は、より人間に進化していくロボットに戸惑いを覚える。ロボットというより人間に近いのだ。そして、研究室に忍び込んんだのをみつけられたロボットの男女が互いをかばいあい、自分を処分しても相手を逃してほしいと涙ながらに語る場面は、まるで「近松の世界」だ。ここは結構感動的で、この場面は「現代の近松劇」として成立する。
ロボットが「情」を備えているのだ。一方で、ロボットは人間が理解できない言語を操るようになり、人間を攻撃していくのだった。
吟遊詩人であり死の商人でもある男はトランクに人類が滅亡し、廃墟となった町のガラス玉をたくさん詰めて世界を歩いている。このガラス玉を見て、観客は初めのほうに配られた飴玉を思い出すようになっている(私もにっこり笑った浅利ねこちゃんからいただきました)。
ロボットの夢の話をする現代のサラリーマンとその恋人が商人からもらった「未来を見通せる」というガラスの飴玉を口にする。
このカップルは「ロボット近松」の男女と同じ、斉藤マッチュとすずき麻衣子が演じる。カップルが携帯電話で互いに仕事優先の事実を隠そうと会話する場面。最近携帯電話が芝居に登場する場面が増えたが、会話がうそ臭くつまらない劇が多い中、この2人の会話は俳優の間がうまく、真に迫っていてよかった。
実際、戦地となった町の道端に落ちているガラスを収集して歩く人の話を新聞で読んだことがあったので、この劇にとても真実味を感じた。
佐野木氏の芝居は実験劇のようで、観ていて飽きない。
源氏ものがたり

源氏ものがたり

アイサツ

ギャラリーLE DECO(東京都)

2009/12/08 (火) ~ 2009/12/13 (日)公演終了

満足度★★★

感心した点も多かった
「源氏物語」をどうやるんだろうと想像も
つかなかったのですが「宇治十帖」を持って
きたんですね。「源氏」でもここは独立した
いわば番外編なので、小品の題材としては
ふさわしいかもしれません。
また、原作の源氏ファンとしてはちょっとした
プレゼントです。「宇治十帖」の舞台化は。
観る前に「古典のくだらないところ」という表現が
引っかかってたんですね。つまり、「所詮この程度の
話じゃん」という姿勢で劇化されると悲しいなぁと
思って。ネット検索すると、「宇治十帖」について
若い人だと思うが、若者言葉でかなり適当な解説を
つけて茶化している文章もあった。この芝居もそれに近い
部分もあったが、演劇だけに感心する場面もあったのは救い。
「三顧の礼シリーズ」の他の作品を観ていないので、
企画の全体像をとらえて書けないのは残念です。
古典へのアプローチについてはこの作品に限って
の感想を書かせていただくことをご了承ください。

ネタバレBOX

作者自身の尾倉ケント氏が語り部となって登場。tetorapackさん
が書いておられるように、この程度の説明は高校の古文の授業
でもやってるんじゃないかというご指摘は同感です。
ただ、興味のある人は覚えてるけど、古文の授業で習ったこと
なんて全然覚えてないと言う人にけっこう会うので、まー親切
かなと。最近の若い世代の古文の授業内容を知らないもので、
そのへんはよくわかりませんが。
自分は高校のころ、「伊勢物語」のパロディを古文で書いて、
先生に褒められたのが評判となり、生徒たちが手分けして
書き写し、学年中回し読みしてもらえたくらい、古典は得意
で好きなんですけどね。
一緒に観た連れは、やはり簡単な人物相関図をパンフレットに
載せるか、ボードで見せるかしてほしかったと言ってました。
これは「宇治十帖」の場合、結構重要なんです。
なぜかというと、薫と匂宮の性格の違いというのは生い立ちに
関係してくるので、瀬戸内寂聴さんなどはかなりわかりやすく
面白い解説をしてますが。ナレーションだけでも生い立ちの説明は
したほうがよかった。で、ないと、古典の知識なしに観ると、
現代の服装で演じるだけにホストとチンピラの違いにしか見えない。
匂宮は原作でも色好みの「あだ人」として描かれてるが、彼の母方の
祖父が光源氏なので、「光源氏の再来」と言われるほどのプレイ
ボーイ。どこが違うかと言うと、祖父の源氏は生母の問題や義母との
不義など陰のある人生を背負ってるけど、匂宮は天真爛漫な皇子なんです。
この芝居ではチャラ男。一方の薫は、光源氏の子として育てられてま
すが、実は女三の宮と柏木との不義の子で、光も勘付いていた。
紫式部は薫に不義の子という蔭を背負わせ、誠実な「まめ人」として
描いた。で、2人は友人ではなく近い親戚なのでライバル心もそれ相応ある。
こういうところを解説してほしかった。
現代の服装とはいえ、衣裳は悪くはなかった。黒のスーツに匂宮の赤、
薫の青のシャツが性格を対比してたし。
匂宮の側近、時方のチーマーぶりには参った(笑)。信頼厚い忠臣
なんだけど。チンピラのパシリみたいで。でも、愛嬌があった。
身の上を嘆く大君と中の君の会話もしみじみとした心情を表して
わかりやすかった。原作の場面が現代に蘇った感じで。
夜這いの場面も、女優2人(石井舞・渡辺いつか)の
演技が品を失わず、とてもよかった。ここをおちゃらけでやられると
台無しですから。
2つ目の注文は、この時代の女性は父親の後ろ盾が社会的地位に大きな
意味を持ったという説明を入れてほしかった。父のいない姫君のハンディ
は半端ではないのだ。それがわからないとただ意志薄弱な姫君に見えてしまう。
僧侶たちの読経の声が狂言と同じ手法なのは感心した。
注文の3点目。浮舟が途中から女優でなく、尾倉氏に代わってしまう。
「何で!!」この違和感は大きかった。浮舟の哀れさが消えてしまう。
大君と二役を演じた石井舞さんがとても良かっただけに惜しかった。
だが、これは連れに指摘され気づいたのだが、チラシより1人出演者
が減っていた。ということは、配役の変更はやむえなかったのかも。
演出上、最初からの意図で代えたとは思えないので。
だとすれば、小君(これも石井舞さん)を他の俳優に代えて対処できなかったものか。
そのほうがまだ違和感が少なかったと思う。
この配役変更がなかったら意欲を買って☆4つを出しました。
舞台美術の紐を他のかたは「黒、白、赤」3色と書いておられるが、私には暗幕の黒色と比較すると黒ではなく、濃紺に見えたのですが違いますか?これと同配色(紺=花色、白、赤)の舞台美術を源氏物語の劇で観たことがあるのですが。そのほうが古代色の組み合わせとしては適っているものですから。
能「邯鄲」傘の出

能「邯鄲」傘の出

満次郎の会

宝生能楽堂(東京都)

2009/12/04 (金) ~ 2009/12/04 (金)公演終了

満足度★★★★

「一炊の夢」は長かった?
辰巳満次郎はちょうど50歳なのだそうだ。50歳で初めて
自分の会を開くことを許されるということは年功序列の
厳しい能楽界でも珍しく感じるが、宝生流は特にそういう
ことに厳しい流派なのだそうだ。
観世流もいくつか会派に分かれているが、30-40代でも
自分の会を開いている人は何人もいる。
そろそろ、そういう因習から抜け出したらどうだろう。
ただでさえ能楽は地味な芸能で、「秘すれば花」なんて
言ってたら、このパフォーマンス時代に埋没し、観客が
つかなくなってしまう。頼みのお弟子さんたちもどこも
年々高齢化が進み、若いお弟子さんはなかなか集まらない
のが現状なのだ。
満次郎は「マクベス」などの新作能にも積極的に挑戦してお
り、演劇的な才能が高い人である。
もっと多くの広い層に彼のお能を観てもらいたいと思ってい
たので、「人間五十年から」をモットーとし、会を開いたこと
は喜ばしい限りだ。
予定終演時刻が1時間30分近くオーバーしたのには閉口した。「小書」演出のため、フライヤーを刷った時点では上演時間が読めなかったのだろうが、一考を要す。

ネタバレBOX

開演時刻になって、舞台に現れたのは辰巳満次郎本人。
「本日はようこそお越しくださいました」の挨拶の後、
「えー、実は本日解説をお願いした増田正造先生が
まだ、ご到着ではないものですから、急遽私が自ら解説
を致すこととなりました」。増田正造氏は能楽評論家と
いうか研究家というのか、能楽関係のイベントの解説を
よくやっている人だが、仕事が多すぎて忘れてしまったのか
(笑)。交通機関の遅れとか急病とかそういう理由ではなさ
そうで、本人からも連絡が入ってないのでそう説明するしか
なかったのだろう。私にとっては数をこなしてる増田氏より
辰巳本人の解説のほうが有難かったが。解説を終えたのち、
彼はこうも言った。「途中から先生が到着されて代わってい
ただけるかと思ってたのですがとうとういらっしゃらなかった
ですね。また、来年ということにして(笑)」
いや、もう頼まないほうがよいと思う。
宝生流の家元はじめ、佐野登、金井雄資の実力派、観世流家元
の観世清和が「仕舞」を披露した。異流の家元が祝儀を飾るのも
異例だが、清和氏は東京藝術大学の同級生のよしみで出演を
快諾してくれたそうだ。
和泉流狂言の「栗焼き」は秋にふさわしい栗が題材の演目。栗を焼いて
食べることが大きな楽しみだった室町時代のおおどかな話だ。
和泉流狂言は野村萬斎が顕著な例だが、武家式樂の伝統を重んじる大蔵流山本家などと比べると、芸風が明るく、わかりやすい演じ方をするが、
ともすると俗に流れすぎる嫌いもあるのだ。
だが、今回、野村萬・万蔵の狂言を観て、「はぁー」「ほぉー」の掛け合い
などはむしろ山本家に近く、重厚さが感じられ、けれん味が薄く、
好感が持てた。
ひとつの楽器と謡で表現する一調は「三井寺」。近藤乾之助と小鼓の大倉源次郎の火花が散るような至芸の競演はめったに聴けないもの。
メーンイベントは「蝋燭能」で演じる「邯鄲」。作者は不詳だが、世阿弥の子、
観世元雅が濃厚という説もある。粟飯が炊ける短い時間に50年の大栄華の夢を見る青年の話。詳しいストーリーはHPを参照されたし。他流で観た蝋燭能より、照明の落とし方が弱く、ある程度、舞台が明るいので助かった。本当にほの暗いと、装束もよく見えず、眠くなって寝ている人が目立ったので。
今回は「傘の出」という「小書」が付く。
小書(こがき)とは特殊演出のことで、内容が常と大きく変わる場合が多く、
演じられる機会も少ないので貴重である。「傘の出」では、シテ(主役)が
貴人のように傘を差して出てくるので、音楽も荘重なものに変わるそうだ。
帰りは通常は傘を畳んで幕に入るが、今回は傘を差したまま入る。
また、能の場合は作り物という大道具も組み立て式でコンパクトなので
一般演劇でも参考になる点が多いと思う。
シテは橋懸から本舞台に入ると、ほとんどが寝床を表す一畳ほどの狭い空間で舞う。
それだけに動きが抑制される演者は難しい。囃子方は笛が藤田六郎兵衛、小鼓・大倉源次郎、大鼓・柿原弘和、太鼓・観世元信という豪華メンバー。
能は音楽劇で演奏と一体の芸術のため、囃子方の顔ぶれによって全体が大きく左右される。
特に、今回は柿原の大鼓に迫力が加わり、若手から中核へと大きく成長を感じた。
眼目は、ものすごいジャンプ力で寝床の台にシテの蘆生が飛び移って伏せる場面。
「道成寺」で言えば、鐘入りのようなもので、ウルトラC級の技だ。
他流で何度か観ているが、「邯鄲」」は飽きない曲。
だが、あいにく割り振られた席は柱が目に入り、ジャンプの瞬間がよくわからなかった。今回は通常とはジャンプの角度も違うとのことだったが、私の位置からは非常にわかりにくく、これで演目の8割は損をしていることになる。残念だが全席完売の盛況ではいたしかたあるまい。
シテの満次郎の舞は繊細で気品があり、美しかった。

ロビー空間をアートで演出するとのことで期待したが、観世流の会ではあたりまえの内容で、正直感心するほどのものではなかった。宝生流がふだん地味なだけである。カルチャースクールの展示会みたいなセンス。もう少し斬新なことをやってほしい。
観客全員に正絹の手刺繍入りポーチがお土産に渡された。この観劇料金でこのノベルティはなかなかオトク。女性客が多いことを考慮したのだろう。
来年の会の演目は「葛城」だそうで、神楽の小書で演じるのではまたも曲の格式が高くなり、演者は気が抜けない。
魔界転生

魔界転生

劇団キリン食堂

俳優座劇場(東京都)

2009/12/02 (水) ~ 2009/12/06 (日)公演終了

満足度★★★

時代劇としては新味に欠ける
過去、何度か映画化、舞台化されたご存知山田風太郎の時代小説の舞台化作品。天草四郎の島原の乱をモチーフにしているが、正直な感想を言えば、THEちょんまげ軍団SUPERなどちょんまげ軍団系の若手劇団がやっている芝居と雰囲気や内容がそっくりで既視感が強い。敵味方で区別したパンフレットの配役レイアウトまでそっくりだ。
ちょんまげと違うのは、中村誠治郎や川隅美慎といったイケメン
アイドル俳優を客演に迎えていることだ。
そのへんは主宰の久保田さんがマーケティングを考えているのだろう。したがって、客席は彼らがお目当ての若い女性ファンが多く、一挙手一投足を「カッコイイ」「カワイイ」と喜んで温かく見守っている。
だからというわけでもないが、芝居の内容には大いに不満が残った。
HPやパンフレットに「大人のためのライブエンタテインメント集団」とあるが、
大人が楽しむには幼稚すぎて、物足りないと思った。
この劇団はアンケートをとっているので、「面白い率97%、感動率88%(前回実績)」と書いてあるが、だとすると、自分はさしづめ3%と12%の少数派ということになるのか。
詳しくはネタバレで。



ネタバレBOX

「多くの民百姓、老人や女子供の犠牲を払って原城で幕府相手に戦をしたこと」を悔いていた天草四郎(中村誠治郎)は父とともに殺されるが、許嫁クララ(遠藤舞)の魔力を借りて怨念の魔界衆として復活し、幕府に復讐を誓う。剣豪荒木又右衛門や宮本武蔵、柳生但馬守宗矩、興福寺の僧兵で宝蔵院流槍術の始祖胤舜まで復活。クララは魔術を使うたびに、体が不具になっていく。
宗矩の妬みから親子で対立する十兵衛(新井剣史)。徳川将軍職を狙う紀州徳川家の一派。島原の乱を平定した老中・松平伊豆守(大島つかさ)は誘拐された息子を殺されてしまう。
四郎一派は江戸を焦土にする計画を実行するが、十兵衛は水門を開けて消火しようとする。
現代語を交えたり、ギャグなどを取り入れ、わかりやすく見せようとする分、
内容が軽くなり、感動は薄まった。
演出の細部で気になったのは四郎の首をとる場面で、歌舞伎のように顔に布をかぶせないので、私の席からは首をとったあとも、四郎の顔が丸見えだった。
根来衆のくの一お品が何度もとどめを刺されたのに「忍法死んだふり!」と言って死なない。下に鎖帷子を着込んでいたとか仕掛けを見せないとおかしい。
水門を強調し、セットにも位置を示しているので何か仕掛けがあるのかと思ったら何もなかった。歌舞伎のように照明と揺れる水布を使えば、水を表現するとかできたはず。
最後、なますのように斬られた十兵衛が平気で生きているのもおかしい。
島原の乱で民衆の情け容赦ない虐殺を命じた伊豆守の家族愛を描く場面があるが、虐殺についての述懐がまったくなく、「これからの江戸は文化が支配する」なんて終幕、明るく言ってのけるのは納得できない。
伊豆守の遠山の金さんばりのべらんめえ口調も気になった。
四郎が生身の人間から魔物になって、変化したのがメークだけとは。
魔物になっても歩き方がスタスタとそのへんのあんちゃんみたいだし、クララへの想いを告白する場面も生身の人間のときと変わらない演技。だから、内面の変化までは到底演じきれず、そのことが物語のあいまいさにつながるのはまずい。
また、幕府を憎んでいると言いつつ、罪もない町人を生きたまま焼き殺したりするのも矛盾している。
伊豆守の息子と娘を演じた子役(北薗亮介・下田澪夏)がラストシーンで四郎とクララの子供時代を演じる回想場面などは、洒落た演出だったが。
時代劇は 子役が上手いとグッと引き締まるから不思議だ。
天使と悪魔のダンスは下着姿で官能的。悪魔を演じた結樺レイナは
コリッチでもおなじみの「ナインティーン春~旅立ち編~」の振り付けを担当している人。
最近、時代劇を観なくなったが、昔から殺陣は好きでついつい見入ってしまう。この芝居でもそうだった。
だが、全体を通して、雑な脚本と演出が目立ちすぎる。
唇に聴いてみる

唇に聴いてみる

劇団ミカヅキミナト

池袋GEKIBA(東京都)

2009/12/03 (木) ~ 2009/12/06 (日)公演終了

満足度★★★★

熱気にあふれた舞台でした
自分は南河内万歳一座でのこの芝居を観たことがないので、
どのへんが脚色されているのかわからなかったけれど、
熱気あふれる舞台で楽しめました。
何より驚いたのは役者・添野豪の力演。失礼ながら予想以上でした。

ネタバレBOX

青年の部屋の窓から外を見つめる刑事2人。
団地で起こった放火事件を調べているらしい。
ニュータウンに団地が建ち、商店街の経営者たちは商売が儲かると
期待するが、スーパーマーケットができたため、まったく売り上げが
上がらないではないかと、新聞販売店店主の組合長のところにねじこんでくる。
この組合長(添野豪)の名前が黒沢で、商店街店主らがガンマンのいでたちで乗り込んでいき、「黒沢先生!」なんて呼ぶ。
なぜガンマンかと言えば、黒澤明監督の「七人の侍」をリメークしたといわれる「荒野の七人」をイメージしたらしい。
ガンマンというより、どう見てもメキシカンスタイルだったが。
ガンマンの疾走場面はどこか旧コーヒー牛乳(現ゲキバカ)の舞台みたいにパワフルだった。
商店街の連中は団地ができても儲かるのは組合長の新聞店だけだと文句を言う。組合長は販促ツールの「洗剤のニュービーズ」「多摩テックの入場招待券」「日ハム・ロッテ戦の招待券」を三種の神器だと説明し、洗剤がいかに主婦にとって重要なものかということを立て板に水式にしゃべり倒し、一人芝居で演じるのだが、添野が実に魅せる。これまで、ボスカレや電動夏子安置システムなどで観ていた同じ俳優だとは思えない。これまでは顔もぽっちゃりしておっとりした印象だったのだが、ダイエットしたのかとってもスッキリした体型になっていて、セリフの生け殺しも巧い。演技とは直接関係ないが、添野の回転アクションに注目した。軸がぶれないでこれだけきれいに回れるってすごい。能楽師に向いてるかも。仕舞を習ったら上達すると思う。

商店街の連中では、高田淳の床屋と、林希美の豆腐屋が印象に残った。
黒沢は放火があった空き室になぜか入り込んでいた3人の主婦を相手に
ビールの空き缶を「これはただの空き缶なんかではない」と説明し、なぜかそれに主婦と青年らが同調する。しかし、そのうち、青年(都筑星耶)が「空き缶以外のものが見えるというのは嘘だ。僕には最初から何も見えていなかった」と言い出し、「黒沢が放火するところを見ていた」と証言したので、黒沢は
刑事に逮捕されてしまう。
「おい、おまえ、本当に見てたのか。おれが放火するところ見てたのか」と黒沢は叫ぶが青年は無視する。
青年は小学校時代、転校して行った同級生の女の子との運動会の想い出を回想する。運動会の場面は「遊園地再生事業団」の芝居を思わせる。
隣室には小学校の同級生だった子によく似た女(中村梨那の2役)が引っ越してくる。
青年の目の前におびただしい数の空き缶が洪水のように襲う。
少女との遠い想い出、そして自分はいま何を見ているのか自問自答する。
赤い紙テープと紙吹雪が舞うシーンといい、幻想的な場面はどこか唐十郎のアングラ劇を連想する。
ひとつの部屋が、青年の部屋、黒沢の部屋、放火のあった空き室、少女の家族の部屋、運動場など、めまぐるしく変化し、複数のドアが走馬灯のように青年の周りを巡るなど、狭い舞台ながら視覚的な演出に工夫が見られた。
お金をかけなくても、工夫次第で舞台装置などは充実したものにできると、常日頃から思っているけれど、その典型のような舞台だった。







滝野流殺人だ!!

滝野流殺人だ!!

劇団さかあがり

阿佐ヶ谷アートスペース・プロット(東京都)

2009/12/05 (土) ~ 2009/12/06 (日)公演終了

満足度

うーん、とても悩みました
正直、今回ほどレビューを書くにあたって悩んだことはない。
この劇団のHPを見ると、「日野周辺で休日を利用して活動
している」社会人劇団のようで「仲間を募集中。未経験者歓迎」
とあるので、趣味の演劇サークルと考えたほうがよいのだろうか。
というのも、日頃観劇しているコリッチに団体登録している劇団とは
あまりにもレベルが違いすぎるのである。
演劇サークルであれば、どの程度書いてよいのか悩んでしまう。
でも、いちおう、コリッチに団体登録し、チケプレも実施している劇団なの
で、ほかの劇団に対するのと同じような尺度で書かせていただくので
関係者のかたにはご了承いただきたいと思います。
「滝野流殺人」ってどんなやりかたで殺すのかと思ったら、「たきのながれ」と
読むそうです。
会場の地図説明で、「畳屋さんの向かいのブティックエルの横の道を入る」とありますが、畳屋の向かいは新装開店準備中の中華料理店で、ブティックを改装中なのかと思ってその横の道を入ってしまいました。ブティックエルはもう少し先にありますので念のため。

ネタバレBOX

ひとことで言うと、現実社会を描くコメディーなのに脚本にリアリティーが
なさすぎる。
まず「夢の森新聞社」という名前に違和感があります。出版社や
ミニコミ誌の名前ならいざ知らず。どんな規模の新聞社なのかわかりません
が「北東支局に行かされる」というセリフがあるので、少なくともタウン誌ではないのでしょう。赤字部門で存続の危機にさらされている芸能部が
舞台。部と言っても、編集長、女性カメラマン、男性記者の3人だけ。
この編集長が、社長が部屋に来ても席で熟睡しているような男で、バカなことを言って常にヘラヘラ薄ら笑いを浮かべている。こんなバカが一般紙の編集長だったら新聞なんか出ない。昼行灯みたいな描き方にしたかったのかもしれないが、度を超している。しかも俳優の演技が素人なのか、セリフと動きがバラバラで、唾を溜めて物を言う癖があり、滑舌が悪い。カメラマンは正義感が強いという設定らしいが、ただの血の気の多い暴力女にしか見えない。これは俳優の責任ではなく、脚本のせいだ。
編集記者ケビンはハーフという設定。日本語にこだわりがあり、すぐに悩むという性格らしいがハーフである必然性を感じない。井上ひさしの戯曲のように日本語問題を諷刺する機智も感じられず、日本で育って帰国子女でもない設定なのに、言葉のコンプレックスって、いつの時代のハーフ認識か。
おまけに英単語の発音が悪くて、何を言ってるのかわからない(笑)。舌が回らず、演技も下手。
特ダネをでっち上げようと編集部員がもくろむのだが、その手段が噴飯物。
「滝野流」という落ち目の演歌歌手の新曲インタビューの見出しを「滝野流殺人だ!!」にするというのだ。
こんなばかげたアイディアを女性カメラマンが出し、しかもそれが編集長の裏技だと言う。編集記者はそんな見出しで記事は書けないと言い、「東京にUFOが来た」という記事を書くと反論(ありえない)。
そこへ就職の面接にやってきた女子大生に、試験と偽って記者の取材手帳を見せてインタビュー記事を作成させようとすると、女子大生は妄想好きで「UFOの記事を書いてみたい」と言う。
東京タワーやUFOの模型などの小道具を都合よく編集長らが取り出す場面にも呆れた。
新聞社にやってきた滝野流が女子大生相手に「歌の魂」について語りながら、陳腐な歌詞の持ち歌を歌う。この演歌歌手の俳優が力士の故・初代貴ノ花(先代ニ子山親方)に顔が似ており、大物ぶりを表すのか、やたら目を閉じて唸るばかり。さらにまるで親衛隊のような滝野の女性マネージャーがやってきて、やたら「私が死ぬ、死ぬ」とカッターやボールペンを手にみんなを脅かすが、同じギャグの繰り返しで笑えない。だが、この守本彩子という女優だけが唯一演技が女優らしくマシだった。
社長にデッチ上げ記事のたくらみがばれて叱られ絶体絶命に、と思ったら女子大生が出したアイディアが新しいものではなく、結局最初の計画どおり、UFOに乗ってやってきた「滝野流型宇宙人」を滝野自身が演じ、歌の力で平和を守るというばかげた記事の写真をくだんの小道具模型で特撮撮影する。「明日の新聞は売り上げ1位(駅売りの?)まちがいなし」、メデタシ、メデタシって、そんなわけないだろ(笑)。ジャーナリストを舐めるのもたいがいにしてほしい。これが漫才やコントのネタならまだしも、コメディーなら何でもありと考えてほしくない。女性カメラマンが男性記者にしおらしくキスしてロマンスが成就という取って付けたようなラストシーン。何ひとつ納得できなかった。
照明の変化も意味不明な場面がいくつかあったことも付け加えたい。
カメラマンが何か写真を見せて、男性記者を脅す場面も、何の写真なのか説明がないのでわからない。
編集長に「お見合い写真持ってますか」とカメラマンが聞くところもあるが、これも何の意味なのか。
観客のことを考えて作っている作品とは思えない。
今後もコメディーを作り、有料で公演するなら、コメディーに定評のある他劇団の芝居を観て、もっと勉強したほうがよいと思います。評価に苦しむのですが、お稽古をしたことに敬意を払って☆1つとさせていただきます。
パンレットですが、滝野流(たきのながれ)や町野灯(まちのあかり)だけに
ルビをふればいいのに、カナの役名にまでまったく同じルビをふる必要はない。「社長」や「後藤」も読める役名だと思うがルビがふってあった。
チケプレで他のかたの当選メールがまちがえて送られて来て、訂正メールが来たきりだったので3人しか登録がないのに割り当て枚数からおかしいと思い、「落選ですか」と問いあわせたら、「当選でした」とのこと。何か、スタッフワークも慣れていない感じでした。



演劇/大学09秋 近畿大学 『腰巻お仙─義理人情いろはにほへと篇』

演劇/大学09秋 近畿大学 『腰巻お仙─義理人情いろはにほへと篇』

フェスティバル/トーキョー実行委員会

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2009/12/02 (水) ~ 2009/12/03 (木)公演終了

満足度★★★★

思いのほか、ライトな味わい
春のときは普通の座席で通路を花道に使っていたが、今回は、江戸初期の
歌舞伎の名乗り台という花道の原型に似た、スロープをつけた短い花道
を客席前方の真ん中に通し、両側を桟敷席にして、テント芝居の感じを
出していた。
「腰巻お仙」の初演は観ていないが、テントを建てた花園神社の反対で
題名が変更されたという新聞記事を読んだことがある。初演を観た人に
聞くと「明治時代に盛んだった即興劇はあんな感じだったのでは」という
答えが返ってきて、長く興味を持っていた芝居。それを大学生たちが上演
するというので楽しみにしていた。
「お仙」という役名だが、「お仙」というと私は浮世絵の美人画でも有名な
「笠森お仙」をまず思い浮かべる。「明和三美人」の1人に謳われた水茶屋
(江戸時代の美人喫茶みたいなものだ)の看板娘。当時、唐の夫人で看板女優李礼仙(麗仙)の「仙」に引っ掛けたのかもしれないが、喫茶店が出てくる
芝居なので「笠森お仙」も関係あるのかもしれない(ロビーに唐さんがいたの
で質問すればよかった。でもコワイ)。
そして母を捜す忠太郎という少年が登場する。忠太郎といえば、長谷川伸の
「瞼の母」の番場の忠太郎を連想する(若い人は知らないかも)が、これは
その話をモチーフにしている。それを知らないとパロディーが活きて来ない
のが残念だ。唐十郎の芝居には「何か(誰か)を探している」人物が必ずと
言っていいほど登場するが、ノスタルジックで物悲しい音楽とともに
主人公が独白するというパターンはその後のアングラ劇団にも模倣されている。
(私がよく観ていた劇団サーカス劇場の芝居は作者が唐信奉者のためか、その典型であり、「捜す」パターンで何本作られたことか)。
実際にその伝説的な「腰巻お仙」を観て、あまりにライトなので拍子抜けがした。
初演の李礼仙の胸に晒しを巻き、諸肌脱いだ官能的な舞台写真を見ているせいかもっとぬめぬめした感触の江戸・浅草の見世物小屋みたいな芝居を想像していたのだが。
このライトな感覚が近大の唐十郎演劇塾の特色なのかもしれない。
私にとってはいろんな意味で楽しめる作品でした。詳しくはネタバレで。

ネタバレBOX

「ヒャラーリヒャラーリコ」の笛吹童子の主題歌で始まったのでワクワクした。
「この歌大好き!懐かしい」と言っても、若い人は知らないかも。ラジオドラマ化・映画化・TV化され、大ヒットしたので、昭和にはよく知られた歌です。
この芝居自体、いつもにも増して歌の場面が多く、楽器の生演奏もあって、ちょっとした音楽劇の様相。
もぐりの医者で犬殺しの顔も持つ袋小路(小林徳久)がリヤカーを引いて登場するときに歌うのは「空に星があるように」(荒木一郎のヒット曲)だし、床屋の娘かおる(松山弓珂)が歌う「シュガータウンは恋の町」はだれの歌か忘れたが、歌詞がいまもすぐ出てくる。子供たちが「シュワワー」とまねしてよく歌っていた。「ブルーシャトー」はブルー・コメッツのリードボーカルの
井上忠夫がフルートを吹くので、お仙の横笛に引っ掛けたのだろうか。
歌だけではなく、この芝居にはちゃんと当時の世相が反映されている。
無免許医師の話は三面記事に多く、お笑いのネタにもよく取り上げられた。
犬殺しを職業とする者は東京にもいて、私の家にも警察官が注意に回ってきた。
「犬の患者」というのが出てくるが、愛犬家がブームになり、人間の病院に患者として並ばせた飼い主の記事を当時読んだことがある。
床屋(藤波航己)と禿の客(青山哲也)とのやり取りも、唐十郎芝居の笑いのねちっこさはなく、むしろ現代的な笑いのテンポに感じた。「ワンダフルは洗剤でしょ」とか「果てしない水平線バカ」など60年代ギャグもあったが。藤波は唐十郎の芝居らしい雰囲気のある俳優だ。
かおるにストーカーのようにつきまとう袋小路を中心とする床屋の連中の追いかけっこなど、とても唐十郎とは思えぬ明るい場面だった。袋小路という男、音楽喫茶の専属歌手でシャンソンまで歌うおかしな男だが、小林のインチキ臭さはどこか憎めない(60年代、一世を風靡したコメディアン内藤陳に演技の質が似ている)。
かおるは前半ポニーテールで明るく歌う場面が印象的なだけに、後半の凄惨さが際立つ。
忠太郎(高阪勝之)は夢の遊眠社にいた若いころの段田安則に雰囲気が似ており、忠太郎を慕うオカマの新約お春(居石竜治)は春にも注目したが、思いのほかオカマ役が似合い、ドランクドラゴンの塚地に似ていて愛嬌がある。
後半になると、ようやく唐十郎らしいドロドロした話になってくる。忠太郎が音楽喫茶で出会った美少年(久保田友理)は、忠太郎が母にもらった手紙と同じ文面の手紙を持っており、「あれは僕の母親だ」と言い、「母は美少年狂いさ」と明かす。堕胎児らしいガキ五ヶ月と名乗る少年(東千紗都)を「自分の弟だ」とも言う。久保田は口跡はよいが、春の公演のときより若干肉付きがよくなったような気がした。衣装の白のスーツがはち切れんばかりで、スーツの皺がとても気になった。唐ゼミ☆の「下谷万年町」で椎野裕美子のカッコイイ白いスーツの男装を見たあとだけに比較してしまう。衣装は大切だ。
「母危篤」の知らせで病院に駆けつけるが、忠太郎は「葛飾区のせんべい屋」としかと聞いておらず、母親の名前を知らないと言って袋小路に呆れられる。「瞼の母」では母親の名前を知らないために実母の前に身の証がたたず悔し泣きする番場の忠太郎の苦悩が描かれ、そのことを知って観るのとそうでないのでは、この場面のとらえかたが違ってくると思う。
なぜか顔に包帯をした母は子宮ガンで亡くなってしまうが、忠太郎の母は「ごめんねジロー」(奥村チヨの代表曲)と一節歌ってこと切れる。ずいぶんふざけてるが、「ジロー」という名で、この母が忠太郎の母でないことを示した
のか。そこへ、家出して放浪の旅を続けていたかおるが堕胎児たち4人を引き連れて戻ってくる。
顔には包帯が巻かれ、因幡の白兎のように顔の皮が剥けて無惨な姿なのだ。
「では、あなたが僕のお母さん」と問う忠太郎。笛の音が耳について離れないというかおるの前に赤い腰巻姿のお仙(久保田友理)が横笛を吹きながら登場する。
このお仙、袋小路のリヤカーから現れたこともあるが、何者なのかよくわからないし、かおるとの関係もよくわからない。
他の唐作品に比べて難解ではないが、江戸時代の絵草紙をもとに作られた歌舞伎にみられるような
叙情的な芝居だ。「状況劇場の芝居は歌舞伎より歌舞伎らしい」と評されたゆえんもここにあるような気がする。
唐十郎が指導しているという点では、横国大時代の唐ゼミ☆と同様だが、唐ゼミ☆と違って劇団化はせず、あくまで演劇塾で他大学の学生も受け入れているそうだ。
唐ゼミ☆で唐十郎の演出補佐をやっていた中野敦志は「新焼け跡派」と言われるほど、唐のレトロな雰囲気を踏襲した演出をするが、俳優と演出補佐を兼ねる小林には、逆にもっと軽やかで洗練された現代的な色がある。
唐十郎は、この演劇塾で唐ゼミ☆とはまた違う芝居を狙っているのだろう。
「今後も唐十郎演劇塾はいろいろと新たな活動を考えている」というので期待したい。





恐れを知らぬ川上音二郎一座

恐れを知らぬ川上音二郎一座

東宝

シアタークリエ(東京都)

2007/11/07 (水) ~ 2007/12/30 (日)公演終了

満足度★★★★

スチャラカポコポコで乗り切った杮落とし
実は、もっと前にこのレビューを書き終え、登録押したとたんに、ログインに
戻ってしまい、あとかたもなく文章が消えてしまいました。こういうことが何度かあります。なぜでしょう。
でも、書いておきたいので、また書くことにしました。
年を経ているので、通常のレビューとは異なり、参考意見も多くなりますが
ご容赦のほどを。
もう2年前になるのですね。忘れもしませんが、初日にこの公演を観ました。私はさほど不満は感じませんでした。でも、杮落とし以来、一度もこの劇場に足を運んでおりません。
今日までのシアタークリエの公演レビューもざっと読ませていただきました。
すると、「できれば来たくない劇場」とか「チケット代は5000円が妥当」とか言っておられたかたのほうが、もう慣れたのか、何度も足を運ばれているではありませんか。お客とはわからないものです。
文句があっても来る人は来るし、文句を言わなくても来ない人は来ない。東宝さんもそのへんを熟知しておられるかもしれません。
劇場構造に不満が多かったみたいですね。
支配人が芝居を観ない人では?という意見もありましたが、ここの支配人は
聞くところによれば芝居はよく観ている人だそうです。
劇場設計の不備は新しい東京宝塚劇場も同じです。通路の少なさと狭さ、あの1列の長さ。通路側でもない限り、自分の席に行くのに蟹の横歩きで「すみません」と言い続けながら行かねばなりません。利用者の身になってない。
東宝は採算重視だから、利便性は無視。ですからクリエの安普請も当然と言う感じです。
確かに旧芸術座とは雰囲気違いますね。きれいになっても、不便さが増すという東宝方式と言いますか。
良い点はスタッフによる女子トイレの誘導でしょうか。仮設劇場だった1000DAYSの際に実施し、定着しました。この公演でも、長蛇の列に
休憩時間に行くのは無理かと心配しましたが、大丈夫でした。
この誘導ノウハウを松竹が見習って、平成中村座の公演に活かしたのです。
チケット代の1万2000円は確かに高い。毎月、気軽には行けませんね。
宝塚は新劇場になってからお小遣い握り締めて何度もりピートするティーンエイジャーを切り捨て、裕福なマダムにターゲットを絞ってS席1万円台の料金にしてしまいました。加えて、リッチな「お1人様」貴族を当て込み。最近の宝塚はマダムの奢りで観に来るお嬢さん方も多いようです。
「いまに観に行かなくなる」という声もあったけど、いつも大入り満員ですね。
クリエも旧芸術座のお芝居好きな庶民層は切り捨て、銀ブラがてらの裕福なマダムに乗り換えたのでしょう。「このチケット代では高いか安いか」なんて忖度しないで、おしゃれな観劇気分が味わえれば、機嫌よく観て帰ってくれるお客様が来てくれればよいのでしょう。
この公演は主役が張れる人ばかり集めた豪華キャストでした。4番バッターばかりで大丈夫?という感じでしたが、何とか大丈夫でした。
なぜ、東宝が「川上音二郎」を杮落としに選んだのか、お芝居の内容についてはネタバレで。

ネタバレBOX

「夜明けの序曲」のことを書いておられたかたがいましたが、確かに「夜明けの序曲」は芸術祭参加作品で宝塚が初めて受賞した記念すべき作品。
縁起かつぎの興行界にあって、東宝も当然意識したでしょう。
川上音二郎は近代日本演劇の祖とも言える俳優ですし、杮落としに川上音二郎・貞奴の話で行くことは早くから決めていたのではないでしょうか。
再演希望があれほど高かったのに長く上演されなかった「夜明けの序曲」を再演したのも「クリエのためのアドバルーン」だと言う声は以前から一部にありました。「夜明けの序曲」はもともとは松あきらのサヨナラ公演のために書き下ろされ、序幕で人力車に乗った音二郎が「日本のみなさま、おさらばでございます」というせりふで見得を切るのもそのため。艱難辛苦の夫婦愛物語で音二郎の死までを描いた感動作ゆえ、初演を大事に思う私はあえて再演を観なかったたほどです。NHKの大河ドラマ「春の波濤」では中村雅俊・松坂慶子が音二郎・貞夫婦を演じました。両作と比べても、この「恐れを知らぬ
~」は明るくオチャラケていて、まったく印象が違いました。
冒頭の講談仕立ての部分は、宝塚の地方公演で昔よく使った手法です。
ユースケは初日のせいもあってか、セリフ忘れやトチリも多く、座頭としては
いただけなかったですね。音二郎は明治時代に海を渡って海外公演をやろうと言う人物ですから、もっと気骨のある男で、それゆえ、貞奴への嫉妬と屈折した思いがあったはずですが、本作の音二郎はそういうところがまったく感じられない。いまどきのチャラ男で小劇団の勘違い看板俳優程度にしか見えない。一方の貞奴・常盤貴子は大根というか、何をやっても「常盤貴子」で学芸会みたいに稚拙。NHKでの松坂も若い頃は大根と言われ、貫禄の付いたいまも変わらず、演技派とは言いがたいと私は思うが、「演技に定評ある大女優」ということで持ち上げられている。常盤チャンも女優を続けて年をとれば、同じように言ってもらえるから大丈夫でしょう。
私はこの公演の宣伝を見たとき、最初、貞奴は戸田恵子が演じるとばかり思っていた。いっそ常盤と役を入れ替え、戸田の役はあめくみちこあたりが
やったほうがよいのではと思ったほど。常盤は堺雅人の恋人役でお飾りの若い女優でも演じていたほうが似合ってるのでは。でも、それでは華やぎに欠けるので、この配役なのでしょう。
この芝居で何が一番印象に残ったかといえば、堺正章の「スチャラカポコポコ」です。それは2年たったいまでも変わらない。
私はマチャアキのお父さんでコメディアンの堺駿ニのファンだった。マチャアキはGSのスターだった経歴もあり、お父さんのようにバイプレイヤーに徹してきた人ではなく、3枚目を演じてもどこかでしゃばってみえ、脇ではあまり
評価できなかった。だが、この役は、もみくちゃにされながら、「スチャラカポコポコ」を言い続ける老座員で、適度に笑わせ、お父さんを彷彿とさせた。
イマイチ頼りない座頭のユースケにとっても、芝居の設定同様、心強い存在だったのではないだろうか。
そして、この「スチャラカポコポコ」の史実にスポットを当て、「夜明けの序曲」とはまったく正反対の喜劇を書いた三谷幸喜は凄い。エピソード好きな三谷だからもしかして「夜明けの序曲」へのオマージュなの?
三谷幸喜の手抜き芝居との酷評もあるが、ともかく3時間以上の長丁場を飽きさせずに魅せたのはさすが。1時間30分でも飽きて退屈してしまう小劇場芝居に比べたら苦痛はなく、私には快適だった。何より、客の多くが大喜びしていた。これは初めて新宿のシアタートップスの舞台に引っ付いたような狭い客席で東京サンシャインボーイズを観たときから変わらない光景だ。
喜劇は客を喜ばせ、笑わせれば勝ちだ。
こうして、シアタークリエは「スチャラカポコポコ」と日比谷の劇場街を泳いでいくのだろう。時には、大波に揉まれ、危険な目にもあってほしいと思うが、
さてどうなりますか。

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