演劇/大学09秋 近畿大学 『腰巻お仙─義理人情いろはにほへと篇』 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「演劇/大学09秋 近畿大学 『腰巻お仙─義理人情いろはにほへと篇』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    思いのほか、ライトな味わい
    春のときは普通の座席で通路を花道に使っていたが、今回は、江戸初期の
    歌舞伎の名乗り台という花道の原型に似た、スロープをつけた短い花道
    を客席前方の真ん中に通し、両側を桟敷席にして、テント芝居の感じを
    出していた。
    「腰巻お仙」の初演は観ていないが、テントを建てた花園神社の反対で
    題名が変更されたという新聞記事を読んだことがある。初演を観た人に
    聞くと「明治時代に盛んだった即興劇はあんな感じだったのでは」という
    答えが返ってきて、長く興味を持っていた芝居。それを大学生たちが上演
    するというので楽しみにしていた。
    「お仙」という役名だが、「お仙」というと私は浮世絵の美人画でも有名な
    「笠森お仙」をまず思い浮かべる。「明和三美人」の1人に謳われた水茶屋
    (江戸時代の美人喫茶みたいなものだ)の看板娘。当時、唐の夫人で看板女優李礼仙(麗仙)の「仙」に引っ掛けたのかもしれないが、喫茶店が出てくる
    芝居なので「笠森お仙」も関係あるのかもしれない(ロビーに唐さんがいたの
    で質問すればよかった。でもコワイ)。
    そして母を捜す忠太郎という少年が登場する。忠太郎といえば、長谷川伸の
    「瞼の母」の番場の忠太郎を連想する(若い人は知らないかも)が、これは
    その話をモチーフにしている。それを知らないとパロディーが活きて来ない
    のが残念だ。唐十郎の芝居には「何か(誰か)を探している」人物が必ずと
    言っていいほど登場するが、ノスタルジックで物悲しい音楽とともに
    主人公が独白するというパターンはその後のアングラ劇団にも模倣されている。
    (私がよく観ていた劇団サーカス劇場の芝居は作者が唐信奉者のためか、その典型であり、「捜す」パターンで何本作られたことか)。
    実際にその伝説的な「腰巻お仙」を観て、あまりにライトなので拍子抜けがした。
    初演の李礼仙の胸に晒しを巻き、諸肌脱いだ官能的な舞台写真を見ているせいかもっとぬめぬめした感触の江戸・浅草の見世物小屋みたいな芝居を想像していたのだが。
    このライトな感覚が近大の唐十郎演劇塾の特色なのかもしれない。
    私にとってはいろんな意味で楽しめる作品でした。詳しくはネタバレで。

    ネタバレBOX

    「ヒャラーリヒャラーリコ」の笛吹童子の主題歌で始まったのでワクワクした。
    「この歌大好き!懐かしい」と言っても、若い人は知らないかも。ラジオドラマ化・映画化・TV化され、大ヒットしたので、昭和にはよく知られた歌です。
    この芝居自体、いつもにも増して歌の場面が多く、楽器の生演奏もあって、ちょっとした音楽劇の様相。
    もぐりの医者で犬殺しの顔も持つ袋小路(小林徳久)がリヤカーを引いて登場するときに歌うのは「空に星があるように」(荒木一郎のヒット曲)だし、床屋の娘かおる(松山弓珂)が歌う「シュガータウンは恋の町」はだれの歌か忘れたが、歌詞がいまもすぐ出てくる。子供たちが「シュワワー」とまねしてよく歌っていた。「ブルーシャトー」はブルー・コメッツのリードボーカルの
    井上忠夫がフルートを吹くので、お仙の横笛に引っ掛けたのだろうか。
    歌だけではなく、この芝居にはちゃんと当時の世相が反映されている。
    無免許医師の話は三面記事に多く、お笑いのネタにもよく取り上げられた。
    犬殺しを職業とする者は東京にもいて、私の家にも警察官が注意に回ってきた。
    「犬の患者」というのが出てくるが、愛犬家がブームになり、人間の病院に患者として並ばせた飼い主の記事を当時読んだことがある。
    床屋(藤波航己)と禿の客(青山哲也)とのやり取りも、唐十郎芝居の笑いのねちっこさはなく、むしろ現代的な笑いのテンポに感じた。「ワンダフルは洗剤でしょ」とか「果てしない水平線バカ」など60年代ギャグもあったが。藤波は唐十郎の芝居らしい雰囲気のある俳優だ。
    かおるにストーカーのようにつきまとう袋小路を中心とする床屋の連中の追いかけっこなど、とても唐十郎とは思えぬ明るい場面だった。袋小路という男、音楽喫茶の専属歌手でシャンソンまで歌うおかしな男だが、小林のインチキ臭さはどこか憎めない(60年代、一世を風靡したコメディアン内藤陳に演技の質が似ている)。
    かおるは前半ポニーテールで明るく歌う場面が印象的なだけに、後半の凄惨さが際立つ。
    忠太郎(高阪勝之)は夢の遊眠社にいた若いころの段田安則に雰囲気が似ており、忠太郎を慕うオカマの新約お春(居石竜治)は春にも注目したが、思いのほかオカマ役が似合い、ドランクドラゴンの塚地に似ていて愛嬌がある。
    後半になると、ようやく唐十郎らしいドロドロした話になってくる。忠太郎が音楽喫茶で出会った美少年(久保田友理)は、忠太郎が母にもらった手紙と同じ文面の手紙を持っており、「あれは僕の母親だ」と言い、「母は美少年狂いさ」と明かす。堕胎児らしいガキ五ヶ月と名乗る少年(東千紗都)を「自分の弟だ」とも言う。久保田は口跡はよいが、春の公演のときより若干肉付きがよくなったような気がした。衣装の白のスーツがはち切れんばかりで、スーツの皺がとても気になった。唐ゼミ☆の「下谷万年町」で椎野裕美子のカッコイイ白いスーツの男装を見たあとだけに比較してしまう。衣装は大切だ。
    「母危篤」の知らせで病院に駆けつけるが、忠太郎は「葛飾区のせんべい屋」としかと聞いておらず、母親の名前を知らないと言って袋小路に呆れられる。「瞼の母」では母親の名前を知らないために実母の前に身の証がたたず悔し泣きする番場の忠太郎の苦悩が描かれ、そのことを知って観るのとそうでないのでは、この場面のとらえかたが違ってくると思う。
    なぜか顔に包帯をした母は子宮ガンで亡くなってしまうが、忠太郎の母は「ごめんねジロー」(奥村チヨの代表曲)と一節歌ってこと切れる。ずいぶんふざけてるが、「ジロー」という名で、この母が忠太郎の母でないことを示した
    のか。そこへ、家出して放浪の旅を続けていたかおるが堕胎児たち4人を引き連れて戻ってくる。
    顔には包帯が巻かれ、因幡の白兎のように顔の皮が剥けて無惨な姿なのだ。
    「では、あなたが僕のお母さん」と問う忠太郎。笛の音が耳について離れないというかおるの前に赤い腰巻姿のお仙(久保田友理)が横笛を吹きながら登場する。
    このお仙、袋小路のリヤカーから現れたこともあるが、何者なのかよくわからないし、かおるとの関係もよくわからない。
    他の唐作品に比べて難解ではないが、江戸時代の絵草紙をもとに作られた歌舞伎にみられるような
    叙情的な芝居だ。「状況劇場の芝居は歌舞伎より歌舞伎らしい」と評されたゆえんもここにあるような気がする。
    唐十郎が指導しているという点では、横国大時代の唐ゼミ☆と同様だが、唐ゼミ☆と違って劇団化はせず、あくまで演劇塾で他大学の学生も受け入れているそうだ。
    唐ゼミ☆で唐十郎の演出補佐をやっていた中野敦志は「新焼け跡派」と言われるほど、唐のレトロな雰囲気を踏襲した演出をするが、俳優と演出補佐を兼ねる小林には、逆にもっと軽やかで洗練された現代的な色がある。
    唐十郎は、この演劇塾で唐ゼミ☆とはまた違う芝居を狙っているのだろう。
    「今後も唐十郎演劇塾はいろいろと新たな活動を考えている」というので期待したい。





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    2009/12/04 11:28

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  • きゃるさん

    普段は自分がレビューをアップするまで、他のメンバーのネタバレまでは開かないことが圧倒的なのですが、いやー、きゃるさんのレビューが目に入ってしまい、そうしたら、もうネタバレを開かずにはいられませんでした。だから、その中身に驚きつつ、拝見しました。凄い!

    でもって、私が感じていた点と同じことがあったり、ここをどう表現しようかと考えを私なりにめぐらせていたことがズバリと書かれていたりで、本当に凄い!感服です。

    では、恥ずかしならが、これから、我が友(アルコール)の援軍を得ながら、酔いに身を任せてレビュー書きにいそしみます。ああ、でも、筆が進まなそう。

    2009/12/04 22:46

    きゃるさん、凄いですね。浮世絵から唐の夫人の看板女優李礼仙(麗仙)のことから、多岐に渡って本当に物知りでびっくりします。
    確かに唐作品は展開が良く解らなくて・・・だからパロディーも活きて来なかったのかも知れません。そして唐十郎の芝居は「何か(誰か)を探している」人物が必ずと登場するのも知らなかったです。
    そして、犬殺しを職業とする。というのはいったい何のために?

    後半の部分の展開はワタクシにとって奇妙でよく理解出来なかったのですが、きゃるさんはどんな風に捕らえましたか?

    2009/12/04 12:59

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