アキラの観てきた!クチコミ一覧

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そして彼女はいなくなった

そして彼女はいなくなった

劇団競泳水着

サンモールスタジオ(東京都)

2010/02/11 (木) ~ 2010/02/21 (日)公演終了

満足度★★★★

うまいなぁ!
とてもよくできた脚本に、見事な演出。

わずか100分程度の上演時間なのに、これだけの登場人物を配し、それが少しずつ結びつき、絡み合って、物語を形作っていく様は、あまりにも美しい。
ストーリーが一本道でないところも素晴らしい。

ネタバレBOX

繰り返しの台詞が、徐々にその長さを増すごとに、うっすらと真相が見えてくる。
繰り返しの台詞が見事に効いてくるのだ。
しかも、それが緩急をうまく織り交ぜながら、いろいろな情報が交錯していく脚本と演出。
こんなに時間と場所が絶えず動きながら描いていく手法は、演劇でしかできないだろう。

ブログの文章の真相や、思い違いや思い過ごしにより、事件が起こり、さらに脇のエピソードを紡ぐことで、物語の登場人物たちの姿が浮かび上がるというのが素晴らしい。

観客に対していろいろな情報を与えつつも、消えた女性を探す男や、彼女の安否を気遣う人の視線からなので、なかなかパズルの形が見えてこない。
フリーライターがことの真相を匂わすように進めながらも、実はそうではなかったという、ストーリーの進行方法もうまい。
また、夫婦間の問題と、夫が抱える問題をさらりと匂わすように、表面は普通に見えながらも、ほとんどの登場人物が心に問題を抱えているという設定も憎い。
それをわずかな台詞で見せていく。

そうして観客の頭の中に組み立てられていく真相をエンジンとして物語を進行させる方法は巧みだ。

人の気配の置き方、特に姉の気配や台詞が気持ちに響いてくるあたりの効果の高め方は見事というしかない。

全体に抑えたトーンで進行するというのも気が利いている。
その中での「絶対に誰にも言わないで」という台詞があまりにも怖い。

ラストは、血を見せなくてもよかったような気がするのだが、見せるのであれば、スパッと一瞬だけで十分だったように思えるし、事件の内容を伝えるアナウンサーの声は蛇足のような気がした。

これはこのレベルで作られているのだから、欲を言えば、ラストは何かもう1つ欲しかったと思う。それはどんでん返しのようなものではなく、人の気持ちに寄り添うような何かがほしかった。例えば、崩壊している夫婦のこととか、仲が良かった3人のこととかなど。
凡骨タウン

凡骨タウン

モダンスイマーズ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2010/02/05 (金) ~ 2010/02/21 (日)公演終了

満足度★★★★★

ヒトは運命とやらに、がんじがらめ。そして、それにもがき苦しむ。
主人公ケンが抱く、いらだちにも似た閉塞感は、誰しもが経験した(あるいは「する」)ことでもあろう。
だから観客は、ケンの姿に「嫌悪」し、「共感」をする。

重圧とも言えるような舞台に、息をのみ、目も心も釘付けになった。

ネタバレBOX

ケン(萩原聖人)は、暴力と悪事の中に生きていた。ある日ふと聞いた「生活の音」で自分の中に何かが目覚め、今の生活から抜け出そうとする。しかし、彼を作り上げた早乙女(千葉哲也)は、ケンからすべてを奪うことで、それを阻む。
ケンはなぜそういう男になっていったのか、それは早乙女が言う、「抗うことのできない、決まっている運命」なのか、過去と現在を交錯させながらケンの運命を描く。

とにかく、全編にケンの荒んだ気持ちが現れている。自分の運命と向き合いながら、今の自分へのターニングポイントを振り返る。
「あそこでこうしなかったら・・・」という後悔にも似た感情が渦巻く。

早乙女は、困窮していたケンを救う形で、自分によく似たケンに肩入れをし、自分の手で、ケンという暴力と悪の怪物を作り上げようとする。
しかし、それは、ケンという人間がもとから持っていた「定め」のようなものであると言う。

ケンにとって、初めて芽生えた「生活」という言葉への感情は、自分にとってもどう処理していいのかわからない。
その「もがき」のような「いらだち」のような感情をコントロールできずにいる様子を、じっくりと演じていた萩原聖人さんの好演と、そのケンの定め、運命を重圧とともに演じた千葉哲也さんが特に印象に残る。

もがきや苦しみは、思春期のころに誰しもが抱いた感情に近いのではないだろうか。自分の無力さや、自分の向かう先の不確かさや、見えなさ、自分が何モノなのかという不安やいらだち、そうした感覚と同じなのだろう。

「あそこでこうしなかったら・・・」という後悔にも似た感情がいつまでも頭の中で渦巻くのも似ている。
前に進むことが考えられず、後ろ向きの過去のことしか見えない自分がいる(いた)。

ケンの置かれた場所や境遇が、自分と違っていても、ケンのヒリヒリして、どこに向ければいいのかわからない感情のもやもやは、誰の胸にもあった(あるいは「ある」)ものなので、観ている者の胸にも強くのしかかってくるのだろう。

つまり、観客がケンの姿に嫌悪するのは、何も暴力や悪の姿ではない。そこには、かつて自分が辿った(あるいは「辿っている」)道であり、自分自身が嫌悪する姿でもあったからだ。思い出したくもない、過去の(あるいは「現在の」)自分の姿であり、嫌悪の中には、ケンへの共感も潜んでいるのだ。

そういう意味では、この舞台は「青春モノ」なのかもしれない。

今観客として客席にいる自分は、適当なところで、適当に折り合いをつけて、ここにこうしている。
しかし、ケンを作り上げた運命・早乙女に何もかもを奪われていくことで、そんな折り合いをつけることも、何かを見つけることができなかったケンの辿った行く末は、悲惨であった。
自分の作った、自分の分身であるケンを葬るのは早乙女の役目でもある。ケンは結局、運命から自由になれなかったのだ。

ケンは、早乙女の言う「運命」の前に何もできず身体を捧げた。

早乙女の妹(緒川たまき)の、「ケンをここに縛っているのは自分だ」と何回も言う台詞が哀しい。そう思わなければ、自分がここにいる意味や価値が見出せなかったのだろう。さらに、カラスの入れ墨を最初に入れたのは妹であったという、エピソードも切ない。
ケンはそれに応えることはできなかったが、ラストに明かされる、ケンの気持ちを揺さぶった「生活の音」の正体を知り、切なさが増す。

音や無音が見事に配置され、ワンポイントの赤い傘以外は、暗い舞台装置がこの舞台全体を覆う感情を見事に現していたと思う。
暗い、薄汚れた街に降る雪も街を白くはしてくれなかった。
 『F』

『F』

青年団リンク 二騎の会

こまばアゴラ劇場(東京都)

2010/01/29 (金) ~ 2010/02/07 (日)公演終了

満足度★★★★

結局ヒトはわかり合えない、けど、ヒト同士だから救われることもある
アンドロイドの台詞のトーンが変わってからの、舞台での空気の変化が素晴らしいと思った。
予定されている結末へ一直線なのだが、それでも見入ってしまう魅力がそこにあった。

ネタバレBOX

フライヤーなどの説明を読んで「ああ、アンドロイドねぇ」と思いつつも観劇。
つまり、アンドロイドという生命のないモノから、「無生物・生物」という境界を経て、命みたいなものを感じるような作品なんだろうと考えていた。
確かに、そんな糸口を見せながら、浮かんでくるのは、人の「孤独さ」。
そして「不自由さ」。

一生懸命努力しても他人のことはわからない。
それは人の心がわからないアンドロイドだけのことではない。
察しの悪い人、鈍い人だけのことでもない。
誰も他人のことなんかわかるはずがない。

人間同士がわかり合っているように見えるのは、「曖昧さ」があるからで、その曖昧さ、ゆるさの隙間に相手の感情を入れることで、「わかったような気がする」だけなのではないだろうか。
お互いがその「曖昧さ」の中にお互いを入れ合うことで、「わかり合った感じ」が産まれてくるのだろう。

アンドロイドには、もちろんそういう曖昧さがない。
だから、わかり合うことができない。
お互いにもどかしい関係となる。

タイトルの「F」には「Free」を一番に感じた。

お金や階級みたいなものに縛られていた女が、お金で自由を買ったようでも、やっぱりお金に縛られて、そのために時間に縛られ、さらに部屋に縛られる(外出できたのは春だけだったようだし)。アンドロイドも契約に縛られ、ご主人様に縛られる。

自由がまったくない。

お金で買った自由で、パートナーとして選んだのは、お金で買える相手。
唯一自由であるはずの、心の自由までも失ってしまった。

女は最後に「自由」について考えが及んだのだが、時すでに遅く、自分はどうにもならない状態にあった。だからこそ、アンドロイドに「逃げろ」と言う。
時間は戻らず、自由は誰の手にも入らない。

アンドロイドは、なまじヒトガタをしているだけに、また反応が言葉で返ってくるだけに、始末が悪い。
人との交流を期待してしまうからだ。これだったら、テレビとか電子レンジとかに向かって話していたほうがマシだ。

女が欲しかったのは、「パートナー」であり、「どこまでも従順な召使い」ではない。
「そんなことやめろ」と強く言ったり、女がわがままを言ったら、怒ってくれたり、反論してくれるパートナーだったはずだ。

たぶん今までの生活でもそういう相手がいなかったから、女はそういう相手が必要だったことに気がつかなかったのだろう。もっとも、そういう相手がいたら、こういう危険な治験には応募しなかっただろう。
女もそのことに薄々気がついてくる。

だって、数カ月もともにいるのに、女はアンドロイドをパートナーとして認めていないのだ。ペットにだって名前を付けるのに、アンドロイドは「オレ」としか呼ばれない。一緒にやっていくつもりだったら、名前ぐらい付けるだろうと思う。
たぶん、自分の時間と引き換えにアンドロイドを手入れた選択が失敗だったことは、アンドロイドと最初に話したときに気づいてしまったのではないだろうか。

相当哀しい物語だ。
アンドロイドが男性の形をしているということも含めて。
(男性型を選択したのは女なのだから)

「人はわかり合えない」「人は孤独だ」と書いてきたが、それでもやはり、ヒト同士ならば「わかり合えた」ような「幻想」を抱くことができるだけマシだ、ということか。
何でも自分のことをきいてくれる人よりも、ぶつかり合いながらも語り合ったりできる相手こそが人には必要なのだろう。
そういう関係は、本当の意味での「救い」であろう。



物干に衣装が掛かっていくことでの時間の積み重ね方、そして、舞台をとてもうまく広がりと緊密さをもって活用した演出の巧みさは素晴らしいと思った。

また、出演の2人もとてもよかった。
女の声のトーンの響きが、響けば響くほど空しくて哀しいのも良かった。

そして「小さい秋」は、とても美しい歌だった。
ゴージャスな雰囲気/めんどくさい人(千秋楽満員御礼で終了しました・感謝!御感想お待ちしています)

ゴージャスな雰囲気/めんどくさい人(千秋楽満員御礼で終了しました・感謝!御感想お待ちしています)

MU

OFF OFFシアター(東京都)

2010/02/03 (水) ~ 2010/02/14 (日)公演終了

満足度★★★

【Bバージョン】「めんどくさい人」のほうが好き
MUの短編はとてもいい。
その余韻が好きだ。

しかし、今回は、もっとタイトにしたほうがよかったように思えた。
やや長いと感じたからだ。
特に「ゴージャスな雰囲気」が。

★はそれぞれごとにも付けてみた。

ネタバレBOX

「ゴージャスな雰囲気」Bバージョン★★★
シチュエーションコメディ的な展開になるかと思っていたが、そういう方向にはならず、意外と普通に物語は展開する。ちょっともったいない。

いろんなナルシストの集まりというのだが、そのナルシストぶりが徹底してないところが、物語を「長く」感じさせてしまったように思える。
つまり、自分のナルシストに自信がないようにしか思えない。

もちろん、そういう設定なのかもしれないが。であれば、少なくともナルシストなのだから、虚勢を張ってほしいのだ。痛々しいほどの虚勢があれば、もっと入り込めたと思う。
それがあれば、かなり面白くなったように思えるし、笑いも起こっただろう。

ただし、女子高生が携帯で話すあたりから面白くなってくる。この感じはベタだけど悪くはない。
とはいえ、ラストにはあまり意外性みたいなものや、カタルシス的なものは感じなかったのだが・・・。

自分の発想が好きな浜口(足立紀子)の存在感と語り口、トップにいるのが好きな秋山(川添美和)がときどき見せる目の光(ナルシストを語るときの)が印象に残った。



「めんどくさい人」Bバージョン★★★★
MUらしい雰囲気が満載。ちょっとしたくすぐりもいい。
奇妙な空気感が全編に漂い、それがとてもいいのだ。

ただし、短編なのに転換が多いところがマイナスだ。
ベットと机はわざわざ変えなくても、毛布を少したくし上げる程度でOKだったのではないだろうか。

とはいえ、どのキャラも一癖ありそうで、匂い立つというか臭い立つような濃さが逆に虚無を際立てる。
実際は、一番虚無感が漂うはずの花輪よりも、売春夫の2人とその元締めの男の、何も信じていないように感じられる虚無感が素敵だ。

「愛」を信じているようで、信じているのではなく、必死に信じようとしている(本人は無自覚かもしれないが)。
だから、花輪も「信じようとする」ことにしたのだと思うのだ。

ラストに何度も戻って来て確認する花輪は、愛だの何だのめんどくさいことを「信じようとする自分」を「信じようとする」姿であり、美しくも哀しい。

花輪(浜野隆之)の真面目だから虚無になった的な実直な姿と、野木(三嶋義信)のねっとり感溢れる店長が印象に残る。

今回もホワイトバンド(笑)からの青い羽という展開は、ハセガワさんの舞台でよく出てくる、胡散臭さや空虚なイメージの象徴であり、徹底してこういうことを扱うのだなあ、とほくそ笑んだ。虚無好きということなんだろう(笑)。

ただ、物語として「青い鳥」に集約されないものの、青い鳥というアイコンは、ちょっと辛いなあと思ったりも。



2本を観た結果、オリジナルのほうが、絶対的に面白いという結論だ。
「めんどくさい人」がこういうラストならば、「ゴージャスな雰囲気」にはもっと突き抜けるような感じが欲しかった。人の脚本だからそれは無理なのかもしれないが。

★は3と4だが、今回全体の★としては、かなり辛めの3つとした。
とにかく、もっとタイトですぱっといって欲しかったからだ。



今回のMUもめんどくさいことに、男女を変えたりしていくつかのバージョンを行うという。
しかし、このめんどくさくて、大変なスタイルでずっとやっていくのだろう。その姿勢には支持をしたい。
H・アール・カオス×大友直人×東京シティ・フィル

H・アール・カオス×大友直人×東京シティ・フィル

H・アール・カオス

東京文化会館 大ホール(東京都)

2010/01/30 (土) ~ 2010/01/30 (土)公演終了

満足度★★★★★

あまりにも美しく、あまりにも強い舞台に、圧倒されるのみ
「中国の不思議な役人」の幕が開いた瞬間から、「ボレロ」 で幕が閉じられるまで、息をするのを忘れそうなほど、気持ちが持っていかれ、見入った。
そんな生やさしいコトバでは表現できない存在感がそこにある。

私は、それを観るだけである。

ネタバレBOX

「中国の不思議な役人」
空中までも使い(宙づり)、舞台装置や照明がとにかく美しい。
どのパート、どの場所、どの踊り手を観ても、影までも計算されたような整然さと、肉体の存在感を強く示す溢れんばかりの躍動感がある。しかもそれは一瞬でも途切れることがない。
不気味さと不安と耽美的な美しさが同居する「中国の不思議な役人」がそこにあった。

「瀕死の白鳥」
白河さんのソロ。
舞台裏や袖を隠している覆いをすべて外し、裸になった舞台の中央にはイスがただ1つあるだけ。
オープニングは、その舞台を無音で踊る。観客は息をのむのみ。ぴりぴりした緊張感の中、しなやかに舞う。
そこへ「瀕死の白鳥」の旋律が優しく重なる瞬間は鳥肌モノだ。
曲と合わせて踊る姿には、ダンスというカタチではなく、音楽が見えているようにしか思えない。音と肉体が融合していくような感覚だ。
音楽が終わった後の余韻のような無音の中の踊りは、最初のような緊張感ではなく、静寂が広がる。
白河さん1人だけしか舞台の上にいないのに、舞台の広さはまったく感じない。

「ボレロ」
曲の高まりとともに舞台の上が朱色に染まっていく。曲のボルテージの上がり方と踊り手たちのシナジーが生み出す、美しさは圧巻! 震えるほどの感動が身体を走った。
強靭な肉体たちがボレロの強い曲を軽々と乗り越え、さらに天上へ突き抜けていく。

それにしても、なんというダンスの存在感。
H・アール・カオスというカンパニーの全員がそれを持っているということが素晴らしい。奇跡のようなことなのかもしれない。

上手いとか何とか、軽々しく口にできないほどの存在感と確かさがある。
東京文化会館大ホールの広い舞台が、彼女たちの存在で溢れるようだ。
そして観客を虜にさせてしまう。
次回も必ず観なければならない、と心に誓った。



「瀕死の白鳥」と「ボレロ」の間には、白河さんが息を整えたり、セットの設置などのため、対談が行われたが、申し訳ないが、やはり間つなぎにしか見えず、せっかくの余韻が分断されてしまうようだ。
「瀕死の白鳥」は短い曲なのだが、休憩を入れたほうがよかったように思う。
演目ごとに休憩を入れても、問題はないと思うのだが。

それと、「ボレロ」。演奏にミスがあったように聞こえたのだが(管楽器で)、それは私の聞き違いだったのだろうか。
あたしちゃん、行く先を言って-太田省吾全テクストより-

あたしちゃん、行く先を言って-太田省吾全テクストより-

地点

吉祥寺シアター(東京都)

2010/01/22 (金) ~ 2010/01/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

テクストをコラージュし「演劇」を見せる。それはドキドキする体験。
前回同じ会場で観た『三人姉妹』は、台詞が音楽に聞こえた。それは抑制の効いた、ミニマル・ミュージックとも言えそうな室内音楽の調べだった。

今回の音楽は、オーケストレーションされた現代音楽のようで、うねりと音の響き(特に役者の身体に響く発声)、ステレオ効果のような音の存在を楽しんだ。

そして、「地点」はとても好きな劇団になった。

ネタバレBOX

テクストのコラージュ作品。
そのテクストの中から聞こえてくる調べは、演劇(論)の演劇だった。

太田氏のエッセーや理論の著作から取り出されたであろう、2つの印象的な長台詞では、発声についての確認と、「私という」身体(存在)の確認がなされる。
発声の音の大小と内容の関係、身体(存在)の不確かさから確認へ、そうした作業を経て「私」の声(発声)と身体(存在)が確実ではないものの獲得された。

獲得した声(発声)と身体は、私のものであり、自由に使用できる。
その自由さは、太田氏の戯曲から取り出された、家族を巡る台詞で試される。

移動、身体の動き、声の大小、発声場所の高低、生声、スピーカーからの発声など、さまざまな自由さ・カタチが披露される。

さらに、もう1つの、地を這いながら発せられ、繰り返される台詞では、「演劇」の位置(どのような位置づけにあるのか)について述べられる。

役者たちは、まるで演劇の、あるいは、演劇人としての自分の位置を探すようにコンクリートブロックを手にして舞台を徘徊する。

舞台の左右さらに上方へ連なる傾斜に敷かれたコンクリートブロックは、さながら先人たち(演劇の先人たち)が築いてきた道程にも見える。
その上、あるいは、その脇に、役者たちは自分の立ち位置を見つけ、ドシンとコンクリートブロックを置いてみる。

ドシンと置かれたコンクリートブロックに役者たちは乗るが、そのサイズはわずかに40センチ×20センチ程度で、安定はしない。
さらに役者たちは、自分の立ち位置を探し、重いコンクリートブロックを持ち彷徨う。
コンクリートブロックという、自分(たち)の立ち位置は、思った以上に重いのだ。

後ろのモニターでは、延々北緯と東経により、「地点」が示される。どうやらその地点は、劇団の活動拠点である京都界隈のどこかのようである。
そこに役者たちや、劇団の立ち位置があるのか、ないのか、居場所があるのか、ないのか。モニターには、映像という「生」ではなく、リアル感がやや乏しい立ち位置が延々流されていく。

ラスト近くでは、発声と台詞の関係を実験する。
同じ台詞の速度やイントネーションを変えることでの変化、さらに役者や男女を変えての違いを見せる。

太田氏のテクストを用いて、演劇を再認識するような、刺激的な舞台だったと思う。
役者たちの鍛えられた(演劇的)身体性も楽しんだ。
・・・冒頭のニヤニヤ笑いは怖かったけど(笑)。

途中、舞台の上段(キャットウォーク?)で見事に5人がハモリ(まさかコーラスになるとは思わなかったので、少し笑ってしまったが)、1人が下で台詞を言うシーンには、ちょっとだけ感動した。鳥肌モノで。
その理由は自分でもわからない。
人形演劇”銀河鉄道の夜”

人形演劇”銀河鉄道の夜”

せんがわ劇場

調布市せんがわ劇場(東京都)

2010/01/21 (木) ~ 2010/01/24 (日)公演終了

満足度★★

ジョバンニとカンパネルラの人形たちに、命は与えられていたのか
音楽が素晴らしく、美術もなかなかよかった。
そして、フライヤーにあるジョバンニとカンパネルラの人形も魅力的な顔つきであったと思う。
しかし、彼らには、この舞台で命が与えられていたのだろうか?

ネタバレBOX

かなり期待していたが、銀河鉄道の夜ではなかったように思えた。
確かに、銀河鉄道の夜をモチーフにして、その物語の中の印象的なエピソードの断片やモノが扱われていたのだが、あえて物語を解体し、物語性を排して上演していた。

もちろん、もともと未完であり、いくつもの稿が存在する原作なので、それをさらに解体するという、そういう方法もアリだと思うのだが、銀河鉄道の夜として何かが欠けていたように思った。
つまり、そこにはカタチはあるのだか、テーマとなるような軸がないように見えてしまったということなのだ。
たぶん、昼の回の観客の中には「銀河鉄道の夜」のお話自体を知らない子どもたちも多くいるだろうし。

銀河鉄道の夜として足りないと、私が特に感じたのは、ジョバンニとカンパネルラの関係が見えてこないことだ。
この物語では、彼ら2人の関係が大切だと思うのだが、舞台の上の彼らは交わることもなく、ただ、いるだけ。

主人公たちが人形であることで、人間である他の出演者との違いが際立っているのだから、別に特別なことをしなくても、それをきちんと見せるだけでよかったのではないのだろうか。
彼ら主役たち(人形)の存在を、舞台の上で立ち上がらせてほしかったのだ。
しかし、この上演での人形は人形でしかなく、いろいろなことが起こっていた舞台の上での存在は、そのサイズと同様にかなり小さくなっていた。

また、人形演劇と銘打って公演を行っているのだが、その「人形」に命が与えられたように見えたのは、わずか数シーンだけで(活版屋とラストぐらいか?)、あとは、「人」として扱われているようには見えず、「モノ」として、つまり、一個の小道具として扱われていたように感じてしまったのが、非常に哀しかった。

冒頭のリンゴから人が現れるシーンのように、イメージの膨らみと造形の豊かさは見事だと思ったが、それらが有機的に結びついた印象はなかった。今回は、あえてもととなる「銀河鉄道の夜」の物語性を排したようだが、その物語だけでも背骨にあれば、印象は異なったと思う。

また、ダンスなどの身体的な動きが舞台の基本にあるのだが、身体のノビのようなものが感じられず、魅力的には見えなかった(特に最初のほうのシーン)。あくまでも素人の見方ではあるが、重心や腰の据わり方がしっかりとしてないように感じた。

数少なく台詞はあるが、それは物語を進行させる道具としてではなく、「音」やストレートに「コトバ」として存在していた。
基本は無言劇と言っていいだろう。

それだけに、演じる俳優の動きは大切であり、慎重に演じられなくてはならなかったと思うし、同様に主人公の人形たちにも、慎重に演じてもらわなくてはならななかったと思うのだ。

いずれにしても、音楽や美術、そして、2体の人形は素晴らしいものであり、また、期待が大きかっただけにそれが活きてこなかったのが残念でならない。
十三月の男 -メメント・モリ-

十三月の男 -メメント・モリ-

無頼組合

テアトルBONBON(東京都)

2010/01/20 (水) ~ 2010/01/24 (日)公演終了

満足度★★★★

濃い登場人物たちの、男臭さ溢れるアクション・ドラマ、で、なおかつ面白い
まず、物語が面白い。
物語の展開と、個人への収斂のさせ方がいいのだ。
テンポもいいし。
(一部説明台詞のところがちょっと苦しかったけど)

そして、キャラクターが濃い。男臭いというか(笑)。
男前の女優陣(笑)もいる。
さらに彼らの演技はカッコつけすぎで、こちらもちょっと臭い(笑)。
でも、誰もが演じ切っているので、好感が持てる。
むしろ、こういう風に演じてくれるからこそ、面白いのだ。

キャラクター設定がくっきりとしていてわかりやすい。
そして、印象に残った登場人物が、とても多い。
ほぼ全員のことを、今もすぐに思い出せるほどだ。
こんなことって、なかなかないのでは。

映画などのジャンルで言えば、アクションものだけど、よく聞いていると、台詞の端々の言葉がいい。
センスがいいのか、吟味されているのか、言葉の言い回しが独特だったりする。
(「十三月の男」なんていうあたりがナイス)

ネタバレBOX

因縁のある傭兵の男たちとそのボス、そして、凍血病という死亡率の高い奇病を取り巻く社会暴力に対抗する患者たちの組織、さらに首都移転がらみの犯罪を追う刑事たち。
そうした3つのエピソードが、シンプルに、かつスピーディに展開し、絡み合う。

人生に星は輝くのか、がテーマであり、ある男は、人生の終わりに、病気の人々を取り巻く社会を、暴力を使っても変えようとする。
また、ある男は、人生の終わりにそれを阻止しようとする。

外人部隊にいた主人公は、実は妻を失ってからは、まるで、時間の止まってしまった十三月にいるような、空虚な中にいた。
戦場では、死はそばにあったのだが、それは単なる終焉としてのことであり、死について考えたこともなかった。
つまり、メメント・モリ、死について想うことはなかった。それは病気により自分の死が目前に迫っていても同じだった。
しかし、人とふれ合い、妻のことを思い出すことで、死を見つめ直す。それはとりもなおさず「生」を見つめ直すことであった。
彼の、心の中の時計が、再び秒針を動かしたときに、物語は大きく展開していく。

とにかくわかりやすい、どんどん話は先に進む。
冒頭やラストにはダイナミックなシーンがあるのだが、舞台の上でできることは限られているものの、それは情熱のようなもので伝わった。

唯一女性性を示す、イカロスの妻が、単に弱いだけの女性でないところ、明るさとちょっとした強さのようなものが見えるのもうまいと思った。

普段は何も考えてないように見えて、やるときはやる、という熱血の刑事もいい。ハードな雰囲気の傭兵たちとは違う、一般人的な風貌がうまく活かされている。

さらに悪役(傭兵会社のボスと、主人公と因縁のある傭兵たち)が悪役然としているのが、わかりやすいし、そのキャラのちょっとした深みが見えるような、つくり込みも楽しい。
それに、悪役たちの立ち居振る舞いに、ちょっとしたB級テイストがあるのがとてもいい。そういう意味ではB級アクション・ドラマの匂いがプンプンしてくる。
アクションはB級が最高だと思っている私にとって、この舞台はこの上ない作品だ(もっともA級アクションってあるのか?・笑)。
しかも、B級アクションの衣をまといつつ、ドラマ性もあるし。

主人公のイカロスの死体は発見されていないという。
こうなると、イカロスが再び現れて続編がつくられても、まったく問題はない・・・と私は思うのだが(笑)。

面白かった!



個人的なことではあるのだが、この日はイヤなことがあったのだが、これ観て面白かったので、ちょっとすっきりした(笑)。
TVロード

TVロード

劇団東京乾電池

ザ・スズナリ(東京都)

2010/01/20 (水) ~ 2010/01/27 (水)公演終了

満足度★★★

うーん、ナンというか・・うーん
いつもの感じと言えば、いつもの感じなのだが・・・。

群像劇なのだが、なんと言うか、エピソードをバラッとふり撒いた印象。
もちろん、エピソードのいくつかは交錯するのだが、それが相乗効果に結びついていかないようなもどかしさを感じてしまった。

エピソードが分断されていて、それぞれがそれぞれのエピソードを演じているようだ。群像劇はそうしたものだ、と言われても、やはり、群像劇を通して何か伝えるものがあるのだろうから、そうした全体像がイマイチ浮かび上がらない。
というか、私には伝わってこなかった。

それは、ほとんどの登場人物が、自分の順番を常に待っているようで、それはまるで、他人のエピソードとの関係は、自分のエピソードの始まりのきっかけぐらいの感じなのだ。

ネタバレBOX

ボー読み(風?)の台詞、
さらに、ほぼボー立ち(風?)の佇まいに
ちょっと変な間。

これって、前にも感じたことがある独特の雰囲気だ。
もちろん、(たぶん)演出的なものだったりするのかもしれないのだが。

しかし、そういう要素(演出)が、そこはかとない面白さを醸し出すことがある。
それが気分に合うことが結構あるというのが、東京乾電池の面白さであり、ついつい観に行ってしまう理由でもある。

しかし、今回は、そればかりが目についてしまった。
大勢の登場人物が出るので、そういう人が多く見えてしまったのだ。

たぶん、たぶんだが、ベテラン勢は、かなり強力な、と言うか、強烈な持ち味や力があるので、独特の間であっても、とにかく面白くて目が離せなくなるのだが、中堅・若手の俳優さんたちを見せる手法としては、まだしっくりこない部分があるからではないのだろうか。

舞台の上に出ているだけで、存在感のあるベテランたちとの違いであろう。
また、ベテランたちに「間」のようなものを預けても、彼らはそれをうまく転がすことができる力があるのではないのだろうか。


だから、特に若手たちを、ベテランたちを見せるときのように演出すると、ちょっとツライものがあるのかもしれない、と思ったり。

全部の中堅・若手の俳優さんたちにツラサを感じるのではなく、そういう演出でも十分面白い人がいるのだが、そうではない人もいるのは確かだと思う。

で、今回は、うーん・・・だったのだ。うーん・・・の要素が多いかなと。

そして、その上に長かった。
終わるときに、あー長かったなあと思った。

始発前の広場にいろいろな人が行き交う。
ただし、時間設定はほとんど舞台の上からは感じられない。
1人を除き、誰も眠くも疲れてもいないようだ。だから時間がいつなのかが、台詞以外からは、まったくわからない。それはどうなんだろう。

行き交うのは、居酒屋のバイトあがりだったり、なぜかそんな時間なのにフリマよろしく服を売っている男女や、掃除のボランティア、そして便利屋などなどなどなど。
とにかく大勢が出てくる。
もう、それは嫌んなるほど出てくる。
31人!

それが面白かったり、がっかりだったりする。
ま、有り体に言えば、がっかり3に、面白2、どっちでもないが5、ぐらいの割合。どっちでもないのは、がっかりではないけど、面白くはない。まさにどっちでもない。

今回は、ベテラン勢が1人も登場しないので、軸がないようで、物語もふわっとした感じ。
ワークショップの卒業公演用につくった脚本ということで、とにかく人が大勢出てくるということが唯一のポイントだったのだろうか。

後半にちょっとだけ、変な盛り上がりかけたところ、物語に波乱が起こりそうなところがあったのだが、それも不発。
もちろん演出としての、あえての不発でもいいのだが、不発にもオトシマエみたいなものが欲しい。

東京乾電池は、不条理な舞台が多いのだが、今回のは、不条理にしては振り幅が狭いし、人間模様にしては、どうなんだろうと思ってしまうし。
妙な時間帯に、だらだらと時間だけを過ごしてしまう人々を、だらだらと観るということだろうか。

とは言え、飽きて時計ばかりを気にするということもなく、それなりに集中して観られたということは、やはり何か少しは魅力があるのだろうか。
不思議。

役者は、服を売っている男女の女性のほうが、何か面白そうだったのだが、期待していた以上にはならなかった。

また、夜遊びの女性たちの会話が唯一テンポがあって面白かったのだが、ずっとゲームをやって座り込んでいた男性たちが絡むと、とたんにトーンダウンしてしまった。彼らに足を引っ張られたのか、女性たちが、自分たちのテンポを変えられることに対応できなかったということなのだろうか。

さらに、冒頭に出てくる掃除ボランティア3人の会話は、いかにも台詞を言っています、ていう感じが笑いにも繋がらず、大切な物語の冒頭なのに、見ていてちっとも気持ちが入っていかなかった。

便利屋の2人はなかなか面白かったのだが、あまりに連続した独特の間ぶりなので、最初は笑っても、全部それだけで押されても・・・っていうことで、もうひとつ大きな笑いに結びつかなかった。

中堅には味がある役者さんたちも確実にいるのだが、それがイマイチ果実になっていかないもどかしさがある。玉石混淆ではなくて、力のある人たちを確実に見せてほしいと思う。
と言うか、やっぱり、ベテラン勢が出ているときの公演を観るべきなのだろうか。
正直、考えてしまった。

で、「TVロード」ってナニ?
EKKKYO-!(公演終了!次回3月[家族の証明∴]は1/30より発売)

EKKKYO-!(公演終了!次回3月[家族の証明∴]は1/30より発売)

冨士山アネット

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2010/01/14 (木) ~ 2010/01/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

EKKKYOしている団体の濃すぎるライブにお腹一杯
まるで、地下のライブハウスで、いろいろなバンドの演奏を次々観ているような感覚。
演劇の公演というより、音楽のライブを観ている感じに一番近いと感じた。

ライブハウスで、対バンが何バンドもあるライブでは、似たような匂いを持ったバンドを集める。そうしないとお目当てのバンド以外が楽しめないからだ。例えば、1バンドを観に来て、残りの対バンの3バンドが趣味にまったく合わなかったら、また次のライブに足を運ぼうとは思わない。
また、そういう場では、新しいバンドとの出会いもあったりもする。

持つ匂いが同じバンドというのは、何も同じジャンルのバンドとは限らない。極端な話、フォークとノイズなんていう組み合わせだってあり得る。
いわゆる音楽ジャンルでは違っていても、持つ匂いが同じということもあるのだ。

まさに今回は、微妙にジャンルは異なっていても、持つ匂いが似通っている団体の集いだった。
そういう意味では、確かに「EKKKYO-!」なんだなと。

ただ、それだけではなく、今回集ったのは、もともとジャンルだとか、イメージだとか、(暗黙の)ルールのようなものだとかを軽々とEKKKYOしてきている団体ばかりなので、そういう意味においても、「EKKKYO-!」だったのだ。

そして、その集いは、私にはとても楽しめた。

ネタバレBOX

今回のこの企画は、興味のある団体ばかりが出るということで、ずいぶん前から気になっていた。

ただし、各団体の持ち時間が短そうだから、いわゆるダイジェストを行う、ショーケース的なものになるのではないか、ということを危惧していた。
とは言え、そのときはそれでもいいや的な感じもあった。
ところが、実際感じたのは、単なるダイジェストでもなく、単なるショーケースということもでもなかったようだ。
つまり、それぞれがきちんとパフォーマンスを見せてくれたように感じられたのだ。

そういう感じも、ライブハウスでの音楽ライブに近い。例えば、5バンドが出る夜ライブだったりすると、1バンドの持ち時間はセットチェンジを含めて40分程度、ということは、演奏は正味25分程度だったりする。しかし、そこで演奏するのは、ダイジェストでもなく、ショーケースだけでもない。その限られた時間内に、バンドそのものを見せてくれるのだ。

つまり、今回も限られた時間内で、その団体そのものを見せてくれたような気がする。

今回パフォーマンスを見せてくれたのは、個性の固まりのような団体ばかりで、共通点と言えば、「アゴラ劇場」で上演したことがあるぐらいかなと・・・ライン京急は違うか。

この団体たちの匂いに合わない人にとっては、約2時間の上演時間は拷問にも等しいものだったのではないかと思ってしまう。それぐらいキツい匂いだったようにも思える。

私はと言えば、とにかくどれも面白く、ニヤニヤを顔に浮かべたりしながら観たりして、約2時間の上演時間はまったく長くは感じなかった。

今回、出てきた団体は、動きもそうなのだが、より「音〈サウンド〉」にこだわりがあり、それがパフォーマンスの柱になっていたように感じた。
「音」とは、音楽だけでなく、台詞の重なり合いや声質、足を踏みならす音も含めてのことである。

〈ライン京急〉
音楽だけではなく、台詞もサンプリングとして、スクラッチさせたりしながらコラージュしていく。
台詞自体も話の逸れ方が、まるでスクラッチのようで、意味のない靴下の取り扱いや動き、スタイル、ダンス的な動き、影までもが、インスタレーションを観ているようで心地よかった。
台詞を言う、男性のふらふら感が良く、自然体の演じ方がよいなあと。
そして、全体は、ひとつところにとどまらず、実にうまく構成されているなあとも感じた。

〈ままごと〉
2人の女性のかかわりを時間軸を前後させながら、3人の女優が、そのポジションをめまぐるしく変えながら演じる。
まさに、人的スクラッチ&コラージュの極地。
まったく外見も雰囲気も異なる3人が、年齢が異なったりもする2人の人物を、それぞれ瞬時に演じ分ける凄さには舌を巻いた。
小学生の頃からの付き合いで、いつも自分の前を歩いていた友人の人生が、ふと断ち切られてしまったという物語は、かなり切ない。
今OLになっている彼女は、地球上にすでにいない友人の引力に今も強く引かれているのだ。

〈CASTAYA Project〉
何を見せてくれるのか期待が高まったが、「これから演劇を始めます。」という字幕でわかってしまった。「ああ、誰も舞台に現れないのだな」と。
たぶん、その字幕だけで持ち時間が過ぎていくのだろうと思ったが、結構字幕で楽しませてくれた。そういう意味では想像していたより普通だったかもしれない。
ただ、最初の何も起こらない時間にイライラしていた人もいたようだったので、それはそれでOKだったのだろう。
ECOの字幕にはニヤリとしてしまったし、なんか読んだことがあるような長い字幕だなと思っていたら、アノ歌の歌詞だったりと、そのメッセージのようなものがどこまで本気なのかと考えると、さらにニヤついてしまった。

CASTAYAは、最初のアレは確かに衝撃的だったけど、後はその余韻のようで、こねくり回している感じしかしないし、予想がつくのが哀しいし、悪のりだし、おふざけがすぎるけど、許す。まだちょっとは面白いから許す・・・って何様発言(笑)
どこまでこのスタイルでいくのか興味津々。ネタ切れして、徐々にフェードアウトしていくのも、もののあはれとぞ思ふ。

〈モモンガ・コンプレックス〉
カーテンコールの宴会芸のようなものが前半。とは言え、それには結構笑ってしまった。
後半のエネルギッシュなダンスは見事だった。地に足がついたというか、「存在」を強く感じるダンスだったと思う。
オープニングとエンディングの、変なゆるさも好きな雰囲気だった。

〈岡崎藝術座〉
リーディング・ロック・ミュージカルとでも言うのだろうか、3人の登場人物がスティーブン・タイラーさながらに(笑)、宇宙から帰還する宇宙飛行士たちを歌い上げる。歌は下手だけど(笑)。
3人がそれぞれマイクの前に立つ様子や、曲間のMC的な雰囲気は、やはり音楽のライブを彷彿とさせる。
イマドキやるか? なスターウォーズっぽいオープニング字幕といい、宇宙飛行士たちのワケのわからない性生活の葛藤など、どーでも良さが爆発していた。
まるで感動的風なラストも、まったくしょーもなくて、素敵すぎる。
雑な感じがとてもいい。
エアで宇宙服のヘルメットを小脇に抱えている姿と敬礼がちょっとツポだった。

〈冨士山アネット〉
家族がテーマのパフォーマンス。
動画カメラの使い方が面白かったが、なんと言っても、そのダンスのキレや運動量に目を奪われた。凄いなあと単純に思った。格闘的な様は、ちょっとジャッキー・チェンを思い浮かべてしまったが。
次男が鼻歌のように歌う「ラヴ」がバックにあり、その次の歌詞が記憶から出てこないのがテーマでもあるように思えた。家族への不満を挙げていた次男にだけは、それがわからないのだ。


終わってみれば、どの団体も楽しめた。
そして、どの団体もまた観たくなった。
中には、正直キツイなあ、という団体もあるのだが。

て言うか、これぐらいが適当かも。各団体の持ち時間が90分とか120分とかで、朝から1日中やっていたのならば、行くのをためらったような気がする。酷い胸焼けになりそうだから。
シャドーランズ

シャドーランズ

加藤健一事務所

本多劇場(東京都)

2010/01/06 (水) ~ 2010/01/17 (日)公演終了

満足度★★★★

愛と痛み、そして神
セットの色調もあるが、重厚でしっとりとした舞台だった。
やはり舞台に引き込まれてしまった。

途中の休憩で、ふーっと息をついた感じがある。
休憩があってよかったと思った。
それぐらいの深さの中に、私もいたような気がする。

ロビーに主人公ジャックことC・S・ルイスの書いた物語のあらすじが貼り出してあるのだが、これを読んでおくと、舞台の内容がもう少しわかるところもあると思う。

ネタバレBOX

主人公ジャックの神への疑問で幕が開く。
つまり、そのとき神は知っていたのに何もしてくれなかったということ。
遠藤周作の『沈黙』などを挙げるまでもなく、神について語られるときに、当時に発せられることの多い疑問だ。

ジャックは、さらに続けてこう言う。
人が形成されていくには、「痛み」が必要だ。それは、まるで大きな岩にノミを当て、削り出していくことで人間が形作られていくように、ノミのひと削りひと削りの痛みが必要なのだと。
そして、この世の中は影であるとも言う。

神の愛とは何かということも。

このときの彼の言葉は、まだ他人事であったのだが、後にジョイに知り合うことで、身をもって、まさに自分の身体と心で体験していく。

大人の恋物語であるのだが、恋に年齢はない。
いつだって、それは同じなのだ。

ジャックは自分のそういう気持ちに気がつかず、この年齢まで1人でいた。
そのことを気づかせてくれたのは、ジョイだった。
他のイギリス人から見ると、ジョイは少々違和感のある女性だったようだが、ジャックにとっては、そうではなかった。まず、自分の理解者であるということがあり、恋に落ちてからは後のことは何も見えなかったのだろう。
恋を知ることで、彼は変わっていった。

しかし、重くて、つらい物語だった。
ファンタジーへの扉が開くシーンも、黄金のリンゴのエピソードが絡み、つらい。

人を失うことは、ある年齢に達しないと、リアルな感覚にはならないのかもしれない。
ジャックが子どものときに母を失い「楽なほう」へ行ったように。

観客の私にとっても、そういう年齢に達した今、この舞台での出来事はずっしりと重くやってきた。
繰り返し述べられる、神のノミで石から削り出される人間のエピソードが、彼の心の支えになっていく。そして現実は影だということも。

私にはたぶんそうはできないような気がする。
宗教観の違いかもしれないし、求めるものの違いかもしれない。

しかし、人は何らかの方法で、喪失感と向き合い、それを乗り越えていかなくてはならないのだ、ということを強く感じた。

物語が物語だけにしょうがないのだが、もう少し明るさがあれば申し分なかったと思う。次回もまた死を扱い、重そうなので、観劇はちょっと考えてしまうなぁ。


ジョイはまるで台風のように ジャックのもとを訪れ去って行った。
残されたジャックは、その後どんな物語を描いたのかが気になった。つまり、前と後では創作上、何が変わったのかが知りたくなったのだ。
美しいヒポリタ

美しいヒポリタ

世田谷シルク

小劇場 楽園(東京都)

2010/01/13 (水) ~ 2010/01/17 (日)公演終了

満足度★★★★

夏の夜の夢をうまく取り込んだなぁ
『夏の夜の夢』との関係をどう見せてくれるのかということが、一番気になっていたのだが、それがなかなかいい感じまとまっていた。
会社内での、口語劇的な部分の会話の雰囲気もなかなか良かったし。

ネタバレBOX

前半に繰り広げられる、女子社員&派遣社員(バイト?)たちの会話は、「なんかそれ本当にありそうだ感」に満ちていて、面白かった。
いかにもテキトーに仕事をこなしていたりする人がいたり、仕事よりも恋愛だけが気になっていたりと、オイオイと思ってしまうのだが、それが、「なんかそれ本当にありそうだ感」に満ちていたのだ。

そして、後半、携帯の中の仮想世界と『夏の夜の夢』と現実が混在してくるあたりから俄然面白くなってくる。そのセンスがなかなかいい。

『夏の夜の夢』のエピソードをうまく盛り込んで、恋愛喜劇(コメディというより喜劇かな、ニュアンスだけど・笑)になっていた。
大笑いするところはないのだが、くすりくすりとなってしまうところがいくつかあった。
社長夫人がロバに恋するという展開も、伏線が利いていたし、ああ、なるほどそういうことだったのかと納得させてくれた。

現代のいたずら妖精は、コンピュータのエンジニアなのね、なんて思ったり。
恋の話は、たとえ携帯ができても、何百年前と変わらないし、メールや携帯ができてロマンスがなくなったなんて劇中では言ってたけれど、それもやっぱり変わらない。不倫も恋の鞘当ても変わらない。
ラストのパックの台詞も利いていたし。

ダンスシーンはいくつかあったものの、どうも狭さのせいか、身体の伸びのようなものが感じられないのが少々もったいなかった。
イスを使ったような動きが一番合っていたように思えた。
ここは、思い切って、身体が密着するぐらいにぎゅっと全員がくっついてダンスしたほうがよかったのではないかと、素人の私は勝手に思ったりした。

下北沢・楽園の変な柱のある空間をすべてうまく活用していたのもナイス。
柱の陰もうまく使っていたし(劇場に入ったときに、段ボールが積んであったので、オイオイこれは片付けないのか、と思っていたがそれは舞台用だった・笑)。

ただ、ラストは社長の不倫がわかるというものだけど、単純に余興の馬のダンスを全員で踊る、なんていうのでよかったような気がした。
もちろん、その大騒ぎの中で、社長の不倫がうっすらと見えてもいいのだが。

今回の公演とは関係ないのだが、他劇団のフライヤーを上演前に壁に投影するのは、上演までの退屈な時間を過ごすのにはとてもいいアイデアだと思った。
折り込みを行わないというのは大英断だと思う。賛否両論があるとは思うが、確かに置いてあれば十分な気もするからだ。ほしい人は持って帰ればいいというものだから。
しかし、逆にこ公演のフライヤーは、たまたま本多劇場に置いてあるものを手にしたのだが、そうしなかったら、まったく手にすることはなかっただろうと思うのだが・・・。
黒いインクの輝き

黒いインクの輝き

ブルドッキングヘッドロック

サンモールスタジオ(東京都)

2010/01/07 (木) ~ 2010/01/18 (月)公演終了

満足度★★★★★

吹雪の中に立ちすくむ孤独
当たり前と言えば、当たり前なのかもしれないが、台詞のすべてに意味があるように思えた。
だから、一言も聞き逃さないようにしたかった。

火花散るように思える台詞とそのやり取りが心地よく、約2時間があっと言う間だった。

やばり好きだ、ブルドッキングヘッドロック!

ネタバレBOX

女性だけの職場に、ちょっとした亀裂が生じる。
それは、先生がどこにもいないということと、外の吹雪だ。
吹雪の一夜の物語に、先生や職場で起こった昔の記憶が重なっていく。

先生がいなくなって、まるで呼び寄せたように先生に関係した人が集まってくる。外は吹雪だというのに。
先生はどの部屋にもいない。
外は吹雪だというのに。

だけど、ほとんどの登場人物は、先生がいなくなったということをあまり深刻に考えていない。先生がいないから仕事の打ち合わせができない、という程度のことだけが問題となる。
そのことより、外の雪のほうが気になるし、雪がテンションを上げてくれる。

テンションが上がったときに、ちよっとしたほころびが生まれ、ホンネが顔を出す。
それは、相手との仕事だけでのコミュニケーションの中に勝手に想像を巡らせて、読み取ったりしたもので、積年の想いになっているが、思い込みが大半だったりする。そして、先生との関係、先生への想いも噴出する。

その中でうっすらと浮かび上がるのは、先生の孤独。
若い男では埋められない孤独であり、マンガが描けない自分という存在の孤独。
実は、アシスタント全員も同じような孤独を抱えているのかもしれない。
それは、娘がアシスタントになってしまった母親にもある。
孤独というか、乾きが。

女性の職場ならではの感覚なのだろうか。
そこが適当に仕事をやってお給料もらって、という職場ではなく、いつか自分も力をつけて漫画家として独立してやろうという、上昇志向のある人たちがせめぎ合う場であるからかもしれない。

漫画家の仕事場には、吹雪の夜に孤立した家のような寒々とした孤独が横たわる。
ときどき吹雪のような感情が突出することもある。

誰かの夢という台詞があったが、それは孤独な先生の悪夢なのかもしれないし、孤独な女性たちの悪夢かもしれない。

朝になっても先生は戻ってこない。
さて、救いはあるのだろうか。

各キャラクターがくっきりしている。
わかりやすすぎるほど、くっきりしている。
だから、観ている側の理解も早い。

男たちは、間抜けだ。
つくづくそう思った。

時間の移動が頻繁にあり、それが少々かったるい感じがしてしまった。
でも、面白かったので、許す・・・って、私は何様だ(笑)。

ちなみに、ピカソやゴッホがバトルをする先生のマンガは、そんなには読みたくないと思った(笑)。

そういえば、ドラえもんは、ああいう状況なのに連載がずっと続いているなあと思ったり。
『カガクするココロ』『北限の猿』

『カガクするココロ』『北限の猿』

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2009/12/26 (土) ~ 2010/01/26 (火)公演終了

満足度★★★★

【北限の猿】ヒトはすべてイヴから産まれる
先日観た『カガクするココロ』との緩やかな関係があるような作品であるが、それからは完全に独立した作品であると考えたほうがよいようだ。

と、いうより、個人的には『カガクするココロ』を観てから少し時間が経っているので、そこでの役名等はほとんど頭から消えているものの、『北限の猿』での登場人物との違和感(「なんか違う」のような違和感)が出てきたので、すぐに頭を切り替えることにした。
つまり、『カガクするココロ』での各登場人物を記憶から引っ張ってきて、今、目の前で行われている『北限の猿』の役と結びつけて考えることは一切しないことにした。
「えっと、あの人は前のときは、何していた人だっけ」と考えないということだ。

もちろん、大学の研究室にある休憩室をスケッチしたような作品ということでは、『カガクするココロ』と同じ構造を持つ。

そして同様に、青年団的な見事な会話劇が続く。それは観ていてとてもいい感じだ。

ネタバレBOX

『北限の猿』でも『カガクするココロ』と同様に、舞台には登場しないラモスと呼ばれる教授の「ネアンデルタール作戦」というとんでもない研究は続いているようだが、今回、そのマッドサイエンストぶりはほとんど感じることはない。

むしろ「ヒト」と「サル(類人猿含む)」との差異や、進化についてが物語の背骨となる。
それは、ボノボというキーワードですぐに思い出した、王立フランドル劇場(KVS)&トランスカンカナル『森の奥』ほどの重さはないが、後半から物語の全体をじっとりと覆う。

2つの作品は、それぞれのタイトルが示すように、扱うテーマが違うのだ。だったら、10年後の同じ研究室の休憩室ということではなく、まったく同じ時間の同じ場所の別の出来事として描いたほうがすっきりしたように思える。
まるでパラレルワールドのようにだ。


人類のすべての母は、アフリカにいたイヴと呼ばれる者であったという理論が披露される。

あたり前だが、女性からヒトは生まれたのだ。最初のヒトも現在のヒトもそれは同じ。

また、かつて森にいた類人猿が、ジャングルの端にある木の枝にぶら下がりながら、サバンナを眺めていて、思い切って踏み出した一歩が「ヒト」への道へ通じていたのだろうと、女性研究員が言う。

そして、彼女は自分が行き詰まったときに、まるで最初のヒトとなるサルが行ったように、自宅の鴨居にぶらさがり、6畳の部屋をながめて気持ちを高めている。

研究室では、同僚の研究員との不倫の結果、妊娠している女性がいる。当然、研究室の誰にも話すことはできず、ようやく、相手の男にのみに告げることができる。
不倫相手は、妊娠した研究員を避けるようにしており、また、休憩室の人の出入りがあって、どうするのか、という結論までにはまったく話は進まない。
さらにその彼は来年アフリカに行くということもわかってくる。

妊娠した女性は、誰もいない休憩室で椅子の上に立ち、最初のヒトのように、休憩室を眺める。

次に、彼女は、南の島で行われていた、口減らしのための妊婦の儀式、すなわち離れた岩場から岩場へ飛び移るということ(失敗した妊婦は谷底に落ち死ぬし、恐怖のために流産することもあるという儀式)を、椅子を2つ置いて試そうとする。
しかし、飛ぶことすらできない。
ここには、ストレートながら、彼女の気持ちの揺れが示されていた。

彼女は、最初のヒトのように一歩を踏み出すのであろうか。

彼女はヒトになるのか、ヒトの母になるのか、イヴになるのかという岐路に立っている。
つまり、彼女は今、間違いなく、自分が進むであろうサバンナを、木の枝にぶら下がりながら眺めているのだ。

さらに、劇中で語られる、サルには中絶はないと言う事実(つまりヒトにはある)が、彼女の行く末に暗く陰を落としたりする。

そんな会話が、この会話劇の中で唯一の事件とも言える、彼女のことをちょっと際立てる。
しかし、それが物語の中心ではないところがいい。

彼女のただならぬ様子を察している、同じ研究室の女性の、救いの一言がいいし、ラストのゴリラのドラミングは印象的。
『森の奥』のラストに似た印象のシーンだ(意味はかなり違うが)。
妊娠した女性が、彼女の何かを察してくれた女性の気持ちにちょっと触れるいいシーンだったと思う。
・・・ただ、確かゴリラのドラミングは雄だけが行い、しかも相手を威嚇するときに発する行いだったような気がするのだが(違っていたらすみません)。であれば、類人猿を研究している人たちが知っていて行ったのだから、何かもっと意味があるのかなと深読みしてみようとしたが・・・単にうかつだったとしか思い当たらなかった(笑)。

研究員たちが言う、人間と猿との違いとは、「許せるか許せないか」だと言う。
そして北限にいる猿、というか人間が餌付けをしない猿の集団にはボスがいないらしい。
ヒトは許すことができないし、「餌付け」されているから上下関係もあるし、ボスもいる。
ボノボのようなコミュニケーションはとれるはずもなく、コトバそのものと、その裏を読んだりする。
だから、ヒトとサルの平行線が研究室の中にどこまでも続く。


先に書いた『森の奥』は、今回の『カガクするココロ』『北限の猿』の姉妹編となっているので、『森の奥』には、『北限の猿』に名前が出ていたアフリカに行っている研究者を登場させ、3本立てで上演する、なんていうのもよかったかもしれない。


まったく関係ないけど、たまが『さよなら人類』って曲で、「今日人類が初めて木星に着いたよー、ピテカントロプスになる日も近づいたんだよ、サルになるよ、サルになるよ(さるにはなりたくないって歌詞もあったなあ)」と歌っていたのを思い出したりして。なんか近いなと思ったり。

シンプルなコミュニケーションで、許しがある。サルとヒトはどっちが進化しているんだろうな、とまた考えたり。
【無事終演!】LOOKING FOR A RAINBOW【公演写真多数UP!】

【無事終演!】LOOKING FOR A RAINBOW【公演写真多数UP!】

劇団宇宙キャンパス

吉祥寺シアター(東京都)

2010/01/07 (木) ~ 2010/01/10 (日)公演終了

満足度★★★★

なんだか爽やか
これが宇宙キャンパスの持ち味なのだろうか。
ちょっと青臭くって、ベタでストレート。

だけと味わいもあるし、飽きることはまったくなく、十分に楽しめる。
ひょっとしたら、そこには、今まで味わったことがなかった感覚があったのかもしれない。

ネタバレBOX

まだ売れていない小劇場の役者が、なぜ演劇を始めたのかを高校生のときにさかのぼって語るというストーリー。
毎日がそれほど充実していない主人公の高校生男子が、部員が少なく舞台ができない演劇部に誘われる。彼は演劇に参加することで何かを感じ、仲間も誘う。さらにクラス内で孤立している女子2名も演劇に参加させていく。彼らは一生懸命に練習を重ね、文化祭の上演になんとかこぎつけようとするのだが・・・。

というベタで想像の範囲内の展開となる、ストレートな物語。
もちろん、ストレートと言っても一本調子というわけではないし、本筋に絡んでくる話も絡んでこないエピソードもあり、そこはいろいろ趣向を凝らしてあり楽しませてくれる。

まあ、有り体に言ってしまえば、演劇で演劇のことを扱う、しかも現在小劇場の役者をやっている主人公が、高校の演劇部での出来事を語るという筋立てであり、さらにちょっと青臭い香りが漂ってくるという話には、観ているほうも、ちょっとこっ恥ずかしい感じがしてしまう・・・と思ったら、意外にそんなことはなかった。

しかも、演劇の話だから、ベタに月影センセとかマヤとか言う登場人物が登場したり、D4というF4の漫画のバロディまで出てきたりするのだから、私の性格からすると、ひたすら苦笑の観劇となるところが、これもまったくそんなふうにはならなかった。

こういうベタなストーリーにベタな設定は、あまり好みではない私が、楽しめてしまったのだ(「楽しめてしまった」は失礼すぎるか・笑)。

これは不思議。不思議な感覚だ。

いい意味で、まるで高校の文化祭で演劇部の舞台を観ているような錯覚すら覚えた。内容(テーマ)も一生懸命さも。
なんか、爽やかなのだ。
きっとこれが、この劇団の持ち味なのだろう。
誰かが特別に目立つことはなく、ひちすら自分の持ち場をしっかり演じている姿は清々しくもあり、とにかく気持ちいい。

役者たちはそれぞれがよかったのだが、中でも主人公の男子生徒と、主人公を演劇部に誘う女子生徒役の2人がとても印象に残る。
特に演劇部の女子生徒の溌剌として、ちょっと無理しているくらいに感じる明るさは、「ああ、いるなぁ、こんな子」と思ってしまう。そのポジティヴさに嫌味のかけらも感じなかった。

1日の終わりに、こんな舞台を観て、「ああ、楽しかった」と言えるのはいいことだなとホントに思う。

舞台の上で、主人公が、たとえ光が当たらなくても、売れなくても、ずっと演劇を続けていくことを高らかに宣言するが、ここだけは、リアル高校生が演じているのではないので、現実と重なり重い。

当日の二つ折りパンフの中に、「簡単に手に入るささやかな幸せすら犠牲にして泥くさくしがみつき続けていたら10年の年月が経っていたのです」なんてことが書いてあるのを読むと余計にそれを感じてしまう。

主人公のその台詞は、一見当たり前でベタにも聞こえてしまうのだが、10年続けてきた劇団と劇団員の宣言でもあり、単なる台詞以上の重みがある。
だからこそ、素直に心に届いた。

オープニングの映像と展開は、とても素晴らしいもので、虹が美しく輝いていた。
高校生のときの舞台は、残念な結果になってしまうのだが、そこから劇団の宣言とも言える、主人公の台詞のときには、全員が出て「虹」を「虹」として、もう一度きれいに見せてほしかった。

きれいだけど、絶対につかめない「虹」を、演劇を続けると宣言した、今、舞台に出ている役者全員に、もう一度見せてあげたかったのだ。
そして、私もそれを一緒に見たかった。



少々余計なことだが、オープニング前の注意事項は、キャラメルを彷彿させたが、あれはいらなかったように思う。ちよっとイラっとした(笑)。もっとうまく物語にリンクさせてくれれば言うことはなかったのだか。
『カガクするココロ』『北限の猿』

『カガクするココロ』『北限の猿』

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2009/12/26 (土) ~ 2010/01/26 (火)公演終了

満足度★★★★

【カガクするココロ】人間の好奇心は無責任
青年団、というか平田オリザ氏特有の台詞のリズムがとても気持ちいい。
重なったり、遮られたり、そんな普通にありそうな会話の応酬なのだが、聞かせたい台詞はきちんと届く。
そこがいいのだ。

登場人物のキャラクターもはっきりしているので、とても見やすいということもある。

さらに、ちょっとした笑いもあったりするし。

ネタバレBOX

遺伝子操作をナニして、いろんなことをアレするみたいな実験室の、ロッカーのある休憩室での一幕。
台詞で登場人物のバックボーンや現状が浮かび上がる様が気持ちいい。
薬剤メーカーの営業マンの存在がいいアクセントになっているし、いろいろ起こるちょっとした事件も楽しい。

舞台となる実験室の主任教授は、自分の興味と欲望のままに「ネアンデルタール作戦」と称するとんでもない研究を進めようとしている。
そのためには、各学部からも人を無理矢理集めてくる。

この教授の存在と研究は、ある意味マッドサイエンストで「ドクター・モローの島」であるのだが、物語の中心に見えるようには置いてはなく、背骨にしっかりと位置づけられる。
この研究が、後ろに見え隠れするので、学生たちの台詞や行動が意味を帯びてくるのだ。

研究室にいる学生たちは、意外にお喜楽で、そんな教授に「困ったなぁ」とちょっと言ったりしているけれど、本気では困っていない。
それよりも、バイトのことや自分や他人の恋愛や、揉め事のほうが気になっているのだ。動物が好きではない者さえいる。

遺伝子を操作して・・なんて最先端のことを扱っていても、やはり「人」のことはわからない。人の気持ちはわからないし、自分のことさえもわからない。
そんなアンバランスな生き物が人間なのに、そのアンバランスな人間は、新しい生き物を創造してしまうような技術を手にしようとしている。
倫理とかなんとかよりも、自分の好奇心のほうが最優先されてしまう。
それが「カガクするココロ」なのかもしれない。

そして、そんな「力」を手にしようとしている者(学生たち)は、そんな力には学問としての興味はあるものの、(たぶん)自分や社会、世界との関係性について考えてもいないのだ。それはちょっと恐ろしくもある。

彼らは、おふざけで、遺伝子操作をして創りたい動物の絵を書いてみるのだが、それが(たぶん)好奇心の根源であり、カガクするココロでもある。
好奇心は無責任。止めるものがいなければ、どこまでも突っ走っていく。

そんな好奇心で進化した猿だったり、得体の知れない生き物だったり、最悪のウイルスなどが創られしまうかもしれないのだ。
もちろん、それが有用となることもあるのだが。

そうした無責任な「カガクするココロ」=「好奇心」の積み重ねで「今」があるのかもしれないのだけれども。



話は違うが、観劇した日に、たまたまラジオを聞いていたら、地下鉄漫才で一世を風靡した春日三球が漫談をやっていて、「人参は上に出ているところが食べられない。逆にほうれん草は根のほうが食べられない。だったら、人参とほうれん草を掛け合わせると、ほうれん草の葉で人参の根の、葉も根も両方食べられる野菜ができるかもしれない。だけど、逆に人参の葉でほうれん草の根の、どちらも食べられないものができちゃったりして」なんて言っていた。これってシンクロニシティ?・笑。
エンジェル・イヤーズ・ストーリー

エンジェル・イヤーズ・ストーリー

演劇集団キャラメルボックス

サンシャイン劇場(東京都)

2009/11/28 (土) ~ 2009/12/25 (金)公演終了

満足度★★★★

とにかくわかりやすく、楽しめる舞台
舞台でしかできない演出の巧みさに引き込まれ、2時間まったく飽きない。
温かくファンが見守っているということもあろうが、舞台と客席との一体感もある。
そして、観劇後には、いつもの爽やかな印象が残る。

ネタバレBOX

フライヤーの写真と文章から、甘〜いクリスマスの物語かと思っていたらそうではなかった。

家庭を大切にしていると思っていた主人公が、頭を打つことにより、他人の心の声が聞こえるようになってしまう(それをエンジェル・イヤー:天使の耳と言うらしい)。
それによって、自分が実は家庭をあまり顧みていなかったことに気づき、家族の絆を取り戻すという、王道で予定調和で大団円で、だから安心して観られるストーリー。

あくまで親子が中心の物語なのだが、後半、やや様子が変わってくる。それは、娘が勤める学習塾で犯罪が行われていると父親が推理するのだ。しかし、その根拠があまりにも希薄すぎて、まるで冗談のようだ。

したがって、てっきり娘を想うあまりの、単なる思い過ごしで、ラストに真相が明らかになり、笑いに結びつくのかと思っていたらそうではなかった。実際に犯罪は行われていたのだ。
クリスマスにふさわしい物語が見られると思っていたので、ここは犯罪が行われていなかったという甘〜い展開にしてほしかったというのが本心だ。
物語的にもクリスマスはそれほど関係ないのだけれど。

甘いのは、ミュージシャンを目指す息子が、ミュージシャン一本に絞ってやっていく! と決意するのかと思えば、「大学院に行かせてください」と頭を下げてしまうことだ。ミュージシャンになるのが本気だと言っているのに、滑り止め的なモノは一応押さえておきたいというところなのか。甘いなあ(笑)。

とはいえ、物語は父親が事の顛末を自分の会社の社員に語って聞かせるという形式で、舞台の上では時間と場所が早いテンポで移動するのという複雑なものなのだが、実に手際良く、かつわかりやすく見せる演出は素晴らしいの一言に尽きる。

これは、舞台でしかできない演出であり、うまいなぁと唸ってしまう。
もちろん役者たちもフル回転で疾走し、その演出に見事に応えていた。それによって、2時間まったくダレることない。

また、心の声が聞こえる。というのがポイントなのだが、それもうまく見せてくれる。
さらに、お約束的な笑いも随所に盛り込まれており、とにかくサービス精神が旺盛でそれも素晴らしいと思う(とは言え、お約束の笑いの中で、太っているとか、背が低いとかという見た目に関する笑いは好きになれないのだが)。

ストーリー的には家族を顧みていない父親なのだが、家族の誰もが父親に対してある種の偏見、つまり、自分のことを言えば父親に必ず反対されると思い込んでいる。父親だけがつまはじきにされ、信頼されていないという悲しい設定。
しかし、息子に対しても娘に対しても、父権を取り戻したようなラストは、この物語の中での一番のメルヘンだった。
モンキー・チョップ・ブルックナー!!

モンキー・チョップ・ブルックナー!!

アマヤドリ

シアタートラム(東京都)

2009/12/15 (火) ~ 2009/12/23 (水)公演終了

満足度★★★★★

私の中では、間違いなく今年度ベストワン!!
脚本、演出、役者のすべてが素晴らしい上に、それらが奏でるアンサンブルも見事。思わず唸るほど。

スピード感とグルーヴがそこにある。
そして、舞台から照射されるエネルギーが凄い!

ひょっと乱舞は「プラスチック・レモン」から観ている。その後の「旅がはてしない」も含め、宿題のように後から考えさせられるという舞台の印象が強かった。しかし、今回は、考えるというより、「今そこに居る」と言うようなライブ感(体験)、つまり舞台の醍醐味が確実にあった。

ネタバレBOX

小田の同居人の星野が、ある女性を助ける。彼女は監禁されていたところから逃げてきたと言う。
星野はバイトに行くために、その女性、三谷を小田に預ける。
しかし、今度は小田が、三谷をまるで監禁しているような生活が始まってしまう。
星野や彼の友人たちにはそれぞれパートナーと呼べる人がいて、それぞれに充実している生活を営んでいる。
小田にはそういう相手がおらず、また自分でも人と付き合うのがうまくないと感じていた。
そんな小田にとって、三谷が現れたことは彼にとっての僥倖だったのだ。
しかし、小田と同居する星野と仁村は、小田が三谷を監禁しているような状況が、このまま続くのはあまりよくないと思っているのだった・・・。

シアタートラムに入ると手前と正面に向かい合うように階段状の客席がある。その客席の真ん中に舞台がある。
左右にベンチ、そしてちゃぶ台サイズの四角い机が6つあるだけで、後は電話ぐらいという極めてシンプルなセット&装置。
しかし、この使い方と動かし方がうまい。

そしてとにかく役者が凄い。
小田役のチョウソンハさんの凄さは前から感じていたのだが、今回の小田の気持ちの動きと、それを表現する台詞と身体の動きの縦横無尽さは、まるで化け物とかモンスターのようだ。それぐらい凄い。
また、星野役の小菅さんの柔らかさと自然さにも舌を巻いた。仁村役のコロさんの佇まいにも痺れた。とにかく出演しているすべての役者が良いのだ。

台詞の重ね方、テンポ、リズム、たたみ掛け方、そして、舞台を挟んで両側にある客席への見せ方、身体の使い方、身のこなし、何をとっても素晴らしいとしか言いようがない。無駄が一切なく、きちっと組み合った台詞と動きにはスキもない。役者たちのフォーメーションとも言えるような動きと位置関係も美しい。
もちろん、演出の巧みさがそこにあるし、それに応えている役者の肉体と精神もある。

こう書いてくると重苦しい芝居のように見えるのだが、実は笑いも要所要所にあり、そのバランスも素晴らしいのだ。

監禁されていたという女性、三谷を3人の女優(笠井・中村・佐藤)が演じる。
三谷の心の変化をそれぞれが演じ分け、かつ、3人が同時に演じることで、三谷の内面を表している(例えば、座っている3人の、微妙なそれぞれの首の角度などで、それを表していたり)。とても大胆で刺激的、そして緻密な演出だ。

同居人である星野と仁村が、小田に忠告をするあたりからの展開が凄い。この応酬と小田のヒートアップは鳥肌が立つほど。小田の、星野への距離の詰め方、そのスピードには思わず「おっ」となったりした。

「自分はプレイヤーではなく、観客側にいたい」と言う小田が、実は三谷と暮らすことによって、プレイヤーに引きずり出されていて、さらに小田は三谷を監禁しているように見えるのだが、実は三谷によって、逆に精神的に監禁されていることが浮かび上がる。

外に出ることができなくなってしまった小田が、部屋から出ることができた、と思っていたら、そうではなく、三谷という存在の見えない壁の中に監禁されているような幕切れの怖さ。

そして、壁一枚外の町の音の美しさ。「外」はいつも壁一枚隔てたところにあり、ひっそりとその存在を感じるものであり、自分が参加する場所ではないという感覚。

ラストに町の喧噪とともに降りてくる枠は、われわれが囚われている「枠」なのかもしれない。冒頭に「監禁」についての問いかけと回答が挙げられていたが、そんな「枠」がそこにあるのだということなのだろう。
そして、そのような枠に囚われていることに気がつかないことがあるし、一見、監禁する側と監禁される側が逆のように見えることもある。まるで小田と三谷の関係のようにだ。

客席と舞台が近いので、役者の持つ身体、肉体がそこにあり、「存在している」という実感が強く伴う。
その「存在」の強い地場のようなものが、役者たちの身体から発せられ、無駄に発散されることなく、見事に一体化され、シナジー作用により増大していく。
そういうすべてのベクトルが一致したような舞台に出会えたことの感激がある。
そして、その輝くようなエネルギーに魂まで奪われ、舞台を見続けたのだ。

100の言葉を尽くしても、やはり何がそこにあったのかは語ることができないのだ。だから、観てよかったと思う。

モンキー・チョップ・ブルックナーって何のことかわからなかったけど、3人のことを指しているのかな、と思ったり。
そう言えば、前2回の公演にはかなりのウエイトを占めていたダンスシーンが、今回はなかった。
曲がれ!スプーン

曲がれ!スプーン

ヨーロッパ企画

紀伊國屋ホール(東京都)

2009/12/10 (木) ~ 2009/12/22 (火)公演終了

満足度★★★★★

笑った! 笑った!
ヨーロッパ企画にしか出せない空気感と世界観がある。
完全に普通と地続きでありながら、それはないだろうという展開と設定になってもさほど違和感を感じさせない(というか、舞台に釘付けになり、そんな余裕を与えないというか)ところがウマイのだ。

やるなー! ヨーロッパ企画!

ヨーロッパ企画はやっぱり大好きだ。

ネタバレBOX

クリスマスの日にエスパーに助けられたというエピソードを持つマスターがやっている喫茶店、カフェ・ド・念力に、ここの常連たちのエスパーが集う。
彼らは、日頃は周囲には秘密にしている、透視や瞬間移動、テレパシーなどの超能力を見せ合おうというのだ。
5人の男たちは、それぞれの力を披露するのだが、遅れてやって来た6人目の痩せた男の様子が変だ。
その6人目の男のスゴイ能力とは何なのか、そして、ある人の危機を察知し、そこから救うために、カフェ・ド・念力に集まった超能力者たち力を合わせることになるのだが・・・。
そんなストーリー。

とにかく、ゆるいというか、普通というか、ヨーロッパ企画らしい空気感が素晴らしい。
この感じが好きなのだ。
どうでもいいような伏線が楽しいし、あり得ないようなゆるい展開も楽しい。
しかも、笑いがたたみ掛けるように襲って来る。

どうやって見せるのだろうと思っていた、超能力の見せ方も、思わず笑ってしまうほど楽しいし、マスターの能力の開花や(TVでインドの・・って出た時点でややフライング気味に笑ってしまった)、マスターを助けたエスパーの正体などを、あえて指摘せず、さりげなく見せるあたりのセンスもさすがだ。

1時間50分ずっと笑いっばなし、いや、ちょっと大げさだけど、結構笑ってしまう。

とにかく、会話(台詞)がいい。確かにそんな風に突っ込むな、というような台詞が挟まれる。物語的には脇道にそれちゃうような会話って日常しているので、それが実に楽しいのだ。

これを9年前の21歳ぐらいのときに書いていたという、上田さんの力にも驚く。

肩の力が抜けているようにしか見えない役者たちの演技もあってこその、ヨーロッパ企画だと思う。
劇団としての一体感もあるし。

前回のドラゴンのやつは、ちょっとアレだったのだが、今回は思いっ切り笑えた。
それは、前回は、そのバックボーンというか、世界観の背景までも観客のイメージの中にゆだねてしまったので、ちょっとアレだったのだが、今回はそんなこともなかったし、前回は、会話の普通さというかゆるさが究極すぎた感じだったのだが、今回はお芝居的に展開が楽しめたということもあるだろう。

今回は、再演なので、新作となる次回が一体どういうことになるのかが、気になるところだ。そして、同時に非常に楽しみでもある。
サンタクロース会議(再演)

サンタクロース会議(再演)

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2009/12/11 (金) ~ 2009/12/23 (水)公演終了

満足度★★★★

【アダルト編】楽しいなぁ
ヤルタ会談でも感じたような、ちよっとしたガチャガチャ感がする舞台。
それぞれが、それぞれの主張をするため、会議につきものの、ガチャガチャ感とも言える。

やっぱり青年団は、観ていて楽しい。
安定感があるので、安心感がある。
笑いのまぶし方もとてもいい感じで、あっという間に60分は終わってしまう。

ネタバレBOX

そもそも何のための会議なのかわからないサンタクロース会議というものに、父兄や近所のおじさん(?)、学校の先生、クリスマス研究者とサンタ研究者の博士たち、そして子どもの代表などが集い、どーでもいいことを、一応話し合うという内容。

メルヘンなサンタクロースや魔女、リアルなジェンダーだ、学校教育だと言う参加者の大人たちの中間に位置する博士たち。
そういう人々がメルヘンとリアルの微妙な間を、ゆるやかに動き回る。
魔女はいるのに、サンタの存在は、信じている者はあまりいないし。
子どもたちもリアルだったり、でもやっぱりサンタを信じていたりと微妙なバランス。

会議は踊るだけで、何かの結論がびしっと出るわけではない。
そういうゆるい感じは、日本的だとも言える。

また、それこそが、宗教的な意味合いがない、日本のクリスマスなんだろうと思う。
節分に豆をまいても、本気に鬼がいると思って投げているわけではないのに、それでもやっぱり豆はまいてしまうという感覚に似ている。
だから、欧米のキリスト教信者の人たちが、日本のクリスマスを見ると「クリスマスってサンタの日じゃないだろ!」って思うのだろう。
そういう意味では純和風な会議なのだ。

個人的なことで言えば、クリスマスもサンタもどう見ても西洋の感じだったから、日本とは直接関係ない西洋の行事を、日本が単にまねしているのだろうなぁ、と思っていたので、サンタがいるとかいないとかなんてことは考えたこともなかった子ども時代だったことを思い出したりして。

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