凡骨タウン 公演情報 モダンスイマーズ「凡骨タウン」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    ヒトは運命とやらに、がんじがらめ。そして、それにもがき苦しむ。
    主人公ケンが抱く、いらだちにも似た閉塞感は、誰しもが経験した(あるいは「する」)ことでもあろう。
    だから観客は、ケンの姿に「嫌悪」し、「共感」をする。

    重圧とも言えるような舞台に、息をのみ、目も心も釘付けになった。

    ネタバレBOX

    ケン(萩原聖人)は、暴力と悪事の中に生きていた。ある日ふと聞いた「生活の音」で自分の中に何かが目覚め、今の生活から抜け出そうとする。しかし、彼を作り上げた早乙女(千葉哲也)は、ケンからすべてを奪うことで、それを阻む。
    ケンはなぜそういう男になっていったのか、それは早乙女が言う、「抗うことのできない、決まっている運命」なのか、過去と現在を交錯させながらケンの運命を描く。

    とにかく、全編にケンの荒んだ気持ちが現れている。自分の運命と向き合いながら、今の自分へのターニングポイントを振り返る。
    「あそこでこうしなかったら・・・」という後悔にも似た感情が渦巻く。

    早乙女は、困窮していたケンを救う形で、自分によく似たケンに肩入れをし、自分の手で、ケンという暴力と悪の怪物を作り上げようとする。
    しかし、それは、ケンという人間がもとから持っていた「定め」のようなものであると言う。

    ケンにとって、初めて芽生えた「生活」という言葉への感情は、自分にとってもどう処理していいのかわからない。
    その「もがき」のような「いらだち」のような感情をコントロールできずにいる様子を、じっくりと演じていた萩原聖人さんの好演と、そのケンの定め、運命を重圧とともに演じた千葉哲也さんが特に印象に残る。

    もがきや苦しみは、思春期のころに誰しもが抱いた感情に近いのではないだろうか。自分の無力さや、自分の向かう先の不確かさや、見えなさ、自分が何モノなのかという不安やいらだち、そうした感覚と同じなのだろう。

    「あそこでこうしなかったら・・・」という後悔にも似た感情がいつまでも頭の中で渦巻くのも似ている。
    前に進むことが考えられず、後ろ向きの過去のことしか見えない自分がいる(いた)。

    ケンの置かれた場所や境遇が、自分と違っていても、ケンのヒリヒリして、どこに向ければいいのかわからない感情のもやもやは、誰の胸にもあった(あるいは「ある」)ものなので、観ている者の胸にも強くのしかかってくるのだろう。

    つまり、観客がケンの姿に嫌悪するのは、何も暴力や悪の姿ではない。そこには、かつて自分が辿った(あるいは「辿っている」)道であり、自分自身が嫌悪する姿でもあったからだ。思い出したくもない、過去の(あるいは「現在の」)自分の姿であり、嫌悪の中には、ケンへの共感も潜んでいるのだ。

    そういう意味では、この舞台は「青春モノ」なのかもしれない。

    今観客として客席にいる自分は、適当なところで、適当に折り合いをつけて、ここにこうしている。
    しかし、ケンを作り上げた運命・早乙女に何もかもを奪われていくことで、そんな折り合いをつけることも、何かを見つけることができなかったケンの辿った行く末は、悲惨であった。
    自分の作った、自分の分身であるケンを葬るのは早乙女の役目でもある。ケンは結局、運命から自由になれなかったのだ。

    ケンは、早乙女の言う「運命」の前に何もできず身体を捧げた。

    早乙女の妹(緒川たまき)の、「ケンをここに縛っているのは自分だ」と何回も言う台詞が哀しい。そう思わなければ、自分がここにいる意味や価値が見出せなかったのだろう。さらに、カラスの入れ墨を最初に入れたのは妹であったという、エピソードも切ない。
    ケンはそれに応えることはできなかったが、ラストに明かされる、ケンの気持ちを揺さぶった「生活の音」の正体を知り、切なさが増す。

    音や無音が見事に配置され、ワンポイントの赤い傘以外は、暗い舞台装置がこの舞台全体を覆う感情を見事に現していたと思う。
    暗い、薄汚れた街に降る雪も街を白くはしてくれなかった。

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    2010/02/11 07:03

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