『カガクするココロ』『北限の猿』 公演情報 青年団「『カガクするココロ』『北限の猿』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    【北限の猿】ヒトはすべてイヴから産まれる
    先日観た『カガクするココロ』との緩やかな関係があるような作品であるが、それからは完全に独立した作品であると考えたほうがよいようだ。

    と、いうより、個人的には『カガクするココロ』を観てから少し時間が経っているので、そこでの役名等はほとんど頭から消えているものの、『北限の猿』での登場人物との違和感(「なんか違う」のような違和感)が出てきたので、すぐに頭を切り替えることにした。
    つまり、『カガクするココロ』での各登場人物を記憶から引っ張ってきて、今、目の前で行われている『北限の猿』の役と結びつけて考えることは一切しないことにした。
    「えっと、あの人は前のときは、何していた人だっけ」と考えないということだ。

    もちろん、大学の研究室にある休憩室をスケッチしたような作品ということでは、『カガクするココロ』と同じ構造を持つ。

    そして同様に、青年団的な見事な会話劇が続く。それは観ていてとてもいい感じだ。

    ネタバレBOX

    『北限の猿』でも『カガクするココロ』と同様に、舞台には登場しないラモスと呼ばれる教授の「ネアンデルタール作戦」というとんでもない研究は続いているようだが、今回、そのマッドサイエンストぶりはほとんど感じることはない。

    むしろ「ヒト」と「サル(類人猿含む)」との差異や、進化についてが物語の背骨となる。
    それは、ボノボというキーワードですぐに思い出した、王立フランドル劇場(KVS)&トランスカンカナル『森の奥』ほどの重さはないが、後半から物語の全体をじっとりと覆う。

    2つの作品は、それぞれのタイトルが示すように、扱うテーマが違うのだ。だったら、10年後の同じ研究室の休憩室ということではなく、まったく同じ時間の同じ場所の別の出来事として描いたほうがすっきりしたように思える。
    まるでパラレルワールドのようにだ。


    人類のすべての母は、アフリカにいたイヴと呼ばれる者であったという理論が披露される。

    あたり前だが、女性からヒトは生まれたのだ。最初のヒトも現在のヒトもそれは同じ。

    また、かつて森にいた類人猿が、ジャングルの端にある木の枝にぶら下がりながら、サバンナを眺めていて、思い切って踏み出した一歩が「ヒト」への道へ通じていたのだろうと、女性研究員が言う。

    そして、彼女は自分が行き詰まったときに、まるで最初のヒトとなるサルが行ったように、自宅の鴨居にぶらさがり、6畳の部屋をながめて気持ちを高めている。

    研究室では、同僚の研究員との不倫の結果、妊娠している女性がいる。当然、研究室の誰にも話すことはできず、ようやく、相手の男にのみに告げることができる。
    不倫相手は、妊娠した研究員を避けるようにしており、また、休憩室の人の出入りがあって、どうするのか、という結論までにはまったく話は進まない。
    さらにその彼は来年アフリカに行くということもわかってくる。

    妊娠した女性は、誰もいない休憩室で椅子の上に立ち、最初のヒトのように、休憩室を眺める。

    次に、彼女は、南の島で行われていた、口減らしのための妊婦の儀式、すなわち離れた岩場から岩場へ飛び移るということ(失敗した妊婦は谷底に落ち死ぬし、恐怖のために流産することもあるという儀式)を、椅子を2つ置いて試そうとする。
    しかし、飛ぶことすらできない。
    ここには、ストレートながら、彼女の気持ちの揺れが示されていた。

    彼女は、最初のヒトのように一歩を踏み出すのであろうか。

    彼女はヒトになるのか、ヒトの母になるのか、イヴになるのかという岐路に立っている。
    つまり、彼女は今、間違いなく、自分が進むであろうサバンナを、木の枝にぶら下がりながら眺めているのだ。

    さらに、劇中で語られる、サルには中絶はないと言う事実(つまりヒトにはある)が、彼女の行く末に暗く陰を落としたりする。

    そんな会話が、この会話劇の中で唯一の事件とも言える、彼女のことをちょっと際立てる。
    しかし、それが物語の中心ではないところがいい。

    彼女のただならぬ様子を察している、同じ研究室の女性の、救いの一言がいいし、ラストのゴリラのドラミングは印象的。
    『森の奥』のラストに似た印象のシーンだ(意味はかなり違うが)。
    妊娠した女性が、彼女の何かを察してくれた女性の気持ちにちょっと触れるいいシーンだったと思う。
    ・・・ただ、確かゴリラのドラミングは雄だけが行い、しかも相手を威嚇するときに発する行いだったような気がするのだが(違っていたらすみません)。であれば、類人猿を研究している人たちが知っていて行ったのだから、何かもっと意味があるのかなと深読みしてみようとしたが・・・単にうかつだったとしか思い当たらなかった(笑)。

    研究員たちが言う、人間と猿との違いとは、「許せるか許せないか」だと言う。
    そして北限にいる猿、というか人間が餌付けをしない猿の集団にはボスがいないらしい。
    ヒトは許すことができないし、「餌付け」されているから上下関係もあるし、ボスもいる。
    ボノボのようなコミュニケーションはとれるはずもなく、コトバそのものと、その裏を読んだりする。
    だから、ヒトとサルの平行線が研究室の中にどこまでも続く。


    先に書いた『森の奥』は、今回の『カガクするココロ』『北限の猿』の姉妹編となっているので、『森の奥』には、『北限の猿』に名前が出ていたアフリカに行っている研究者を登場させ、3本立てで上演する、なんていうのもよかったかもしれない。


    まったく関係ないけど、たまが『さよなら人類』って曲で、「今日人類が初めて木星に着いたよー、ピテカントロプスになる日も近づいたんだよ、サルになるよ、サルになるよ(さるにはなりたくないって歌詞もあったなあ)」と歌っていたのを思い出したりして。なんか近いなと思ったり。

    シンプルなコミュニケーションで、許しがある。サルとヒトはどっちが進化しているんだろうな、とまた考えたり。

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    2010/01/14 07:35

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  • きゃるさん

    ああ、そうなんですか、だったらぴったりの演出なんですね。勉強になりました。

    2010/01/15 06:35

    アキラさま

    >・・・ただ、確かゴリラのドラミングは雄だけが行い、しかも相手を威嚇するときに発する行いだったような気がするのだが(違っていたらすみません)。

    私のところのネタバレにも書きましたが、私が観た映画やドキュメンタリーによると、ゴリラのドラミングは威嚇の場合と、仲間同士認め合ったときと両方行われるとされていました。また、仲間同士認め合った場合はメスのゴリラもドラミングを行うということで、だからこの場面は仲間同認め合う場面かなと解釈したのですが。

    2010/01/14 09:29

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