tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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Be My Baby いとしのベイビー

Be My Baby いとしのベイビー

加藤健一事務所

本多劇場(東京都)

2016/03/03 (木) ~ 2016/03/06 (日)公演終了

満足度★★★★

初☆加藤健一事務所
少数キャストの芝居を多くやっているので、何となしに小劇場芝居の雰囲気を想像していた。 そういえば本多劇場の常連であった。(本多は小劇場か?私は微妙だと思う、特に後部席の場合。)
さて会場に入ると、乗峯氏の美術が、軽快なコメディに違いないお芝居へと客を誘っている。白地にポップアートな色彩のイラスト(線書き)で、まずステージが囲まれ、ロンドンだかの街にある家の書割りも舞台上に置いてある。
コメディでは役者のはじけた演技、気の利いた仕草が、芝居を豊かに膨らませる。役者の力量がえらく大きく左右することは間違いない。
出演者計六名。二組の男女(親子の世代差あり)と、その他の端役を男女それぞれ一名の俳優が担う。この端役組の粟野史浩、加藤忍が縦横に演じ分け、会場を沸かせていた。 
再演でも会場はほぼ埋まり、盛況だ。配役がもちろん違うのだろう。加藤健一以下、戯曲の分かりやすさもあるが明快な演技で俳優の力を見せつける舞台だった。(細かい部分では「もっと欲しい」所もなくはなかったが・・) 
軽快なコメディ、ではあるが、ロンドン育ちとスコットランドの文化的な距離も描かれ、結婚式にキルトを着る、着ないの意見対立が「笑い」の中にも「あり得る光景」として描かれており、これは「現実を刺す」笑いに分類され得ると思う。よその国の事として日本では気楽に見れるが、それでも最後に訪れる感動は、そうした事々が乗り越えられたゆえの感動に他ならない。大いに祝福を送らねばならぬ所以だ。

ネタバレBOX

隣席に座ったご高齢な女性二人が時々、何か喋っていた。これを一つのバロメータとするのは乱暴かも知れないが、気になったこと。
最近「宗教」を巡って考える事が多いが、この芝居の最後、大団円は言わずもがなの結婚式、牧師がありきたりの言葉ではあるが二人への祝福を述べる。そこには笑わせる要素はなく、従ってドラマの「笑い」に紛れていたメッセージを、真顔で語らせる場面だと知れたが、「大団円」のノリそのまま会場がガヤガヤとしているのだ。そして、牧師が喋り始めるやお隣の女性がまたボソボソと話し始めた(しょっちゅう話しているのではなく、劇中三度程だったので、そこには理由があるかも知れない、と推測した)。
このドラマは、当初反目し合っていた男女が、一つの新しい生命の媒介によって理解そして愛へと導かれて行く。そこには「愛」にとって必要なものと、不要なものとが示されている。人は如何に不要なものにとらわれているか・・。現実はこのドラマのようには行かないが、ドラマが感動を用意しているのは確かで、「神は奇跡を成したもう」という希望が恐らく(作者にとって)核である。その事を改めて確認し、ドラマを終えようとするのが最後の牧師の場面なのである。・・と、芝居の流れで感じたのだったが、ガヤガヤとスルーされたのは、まぁたまたまかもしれない。芝居の方の問題かもしれない。だが日本人にはそういった辛気臭い場面、宗教的な臭いのする場面を嫌う感覚がやっぱりあるのではないか。(あそこは台詞、聞きたいでしょう・・違うかな??)
深読みかも知れぬが、そんな事を考えた。(以前「禁断の裸体」で感じた、宗教の扱いの不得手さに通じるだろうか。)
いつかの膿

いつかの膿

VAICE★

駅前劇場(東京都)

2016/03/01 (火) ~ 2016/03/06 (日)公演終了

満足度★★★★

旗は翻るか?
ユニットとは言え、劇団的結束をアピール。プロデュース公演と劇団の違い、なんてのは古いテーマかも知れないが、ふとその事を考えた。
劇団は「継続」が前提になっており、「次にご期待」と言える。それはある面では「言い訳」にもなるが「継続」を約したのだから覚悟の表明でもある。また一つの公演を、劇団という文脈上に位置づける事が正当化される。
プロデュースは、それ一発で評価を受ける。だから最大公約数的な舞台になりやすい・・とは必ずしも言えないと思うが(舞台を観ての感想)、しかし俳優の選定、劇場選びには確実に影響しそうだ。
 アラフィフ、と自称する面白い陣容のユニットVAICE★(ヴァイスあかぼし)は今後も第二弾三弾と、揚げた旗ははためかせて欲しいし、もしそうあるなら、今回の舞台も良かったと思う。
 今作は、これ一本で(他の文脈を借りず)成立するかと言えば、私は微妙だと思った、というのが上のように書いた理由だが、とは言っても、それなりのレベルを達成し、面白い舞台ではあった。
劇の中盤から浮かび上る「不在の人物」の、現われ方が面白い。映像でしか見ない白川和子という女優による母役が、この人物(息子)を手引きする。「ソファ」ゆえに、人物らはこの場所に集い、劇を展開するが、その吸引力をソファに持たせるのは少し無理がある。母の思い一つが皆をそこに引き留めている訳だが、同じ時・同じ場所に集うのは「話合い」のためで、話合う議題としての「ソファ」が弱い。ただ、ソファは単に媒体であって、ドラマの本体はその媒体を通して露見して行く真実のほうにあり、この本体に観客の関心を引きつけられれば「弱点」は問題にならない、のかも知れない。
見終えた全体の感想としては、俳優は難しい人物形象をよくやってたが、戯曲が要求する地点にはあと一歩と思える部分も正直あった。が、戯曲が説明していない部分をよく埋めた、という方を評価すべきなのかも知れない。
 「付け足し」のような場面が、ラスト、長い暗転後にある。暗転前の投げかけに対する、ドラマの作り手の答えが、その場面だ、という事になっているが、そこに突如、それまで登場しない、またパンフにも乗らない男優と女優1名が何の説明もなく登場する。そしてよく意味の判らない作業(置き式の暖炉を移動しようとして、また元に戻す)を、男衆がやって終演となる。
この閉じ繰りが、それまでのドラマの穴を全て埋めるためのやや強引な「仄めかし」術になっていると感じるが、なぜか後味が悪くない。体を使っているからだろうか・・。最後は汗かいて号令かけて、締めくくる。「劇団」らしいと言えばらしい。

赤い竜と土の旅人

赤い竜と土の旅人

舞台芸術集団 地下空港

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2016/03/03 (木) ~ 2016/03/13 (日)公演終了

満足度★★★★

「原発こわい」と口で言ってみよ。
印象・・・真剣さ、誠実さ、若さ。

ネタバレBOX

最近「原発」の話題を避ける風潮があり、その結果被ばく地域の住民保護や移住の権利を云々したり、より正確な実態を究明しよう、といった話に繋がるようなドキュメントやドラマも、敬遠されている。
 そうした心情が多くの日本人を支配している理由を、「言わずもがな」と一蹴せず、考えて言語化したほうが良いと思うのは、禁忌の領域が拡大させることは自分の首を絞めるに等しい愚かなことだと思うゆえだ。
 で、端的に言えば被ばくは健康の逆だから、触れたくない。だが、本当に健康に注意するなら、放射能被害の実態を可能な限り知ろうとするはずだ。実際には人々は「健康であろうとする」選択肢を奪われている、ないしは放棄している訳である。
 そこには、曖昧なら触れるまじ、という基準はありそうだ。例えば、放射能は測りづらい、という事情。しかしそれ以上に、放射能に言及すべからず、という「空気」から、正確な情報を得る可能性が低いことを悟っており、結果「判らないのなら触れないほうが良い」、という判断なのだと思う。つまり、「放射能問題に触れるまじ」との「圧力」に、負けているという訳なのだ。
 だが、そういう事では身も蓋もないから、例えば反原発派が「必要以上に騒ぎ立てている」といった説を採用し、後ろめたさを回避している、という事もあるだろう。 ただ、国内に間違った意見を持つ者が勢力を得ているなら、本気で彼らを諭し、原発推進を唱えるべきだ。そうしないのは「反原発派が必要以上に力を持っているから」「自分が悪者にされる」と、ここでも言い訳に使われるが、実際にはそれを本気で信じていないからだろうと思う。
 ・・・こうした奇天烈なあれこれは、結局のところ「被害の実態を明らかにする」という方針を実現できていない、という既成事実から、「風桶」式に導かれている現象なんだろう。

 自民党改憲案がもし通ればこれは歴史的な「えらいこと」だが、これが如何にえらい事かを見るより、野党共闘を人々が応援するのかどうかと、風見鶏のように「空気」を読んでいる。でもって当然ながらマスコミはこれを白々しい視線で報じるので、「空気」としては自民党支持が多数派と見える(日本ではテレビ報道を信じる人の割合が8割と言われる。諸外国では50%以下)。 大樹になびく心情が巷を漂うさまが見えるようだ。 

 遠大な前置きが果たして相応しいかどうか・・・だいぶ引かれそうだが、今回の地下空港の舞台で、久々に「原発」の恐怖に触れたと感じた。それだけ、如何に普段この話題が遠くなっているか、という証左なのだろう。
 イギリスはウェールズの西端の島には原発があり、2013年、経年劣化した原発を新調する取引相手に日立製作所の名が挙がった。 この地を作品製作のために訪れ(助成により)、今回の作品が出来たという。

 岬に行けば竜(赤)の声が聞こえるという片足の青年ロイの物語は、「旅人」がその村に持ち込んだ「窯」、その窯に棲む竜(黒)の存在、青年が恋をする旅人の娘、青年のおばさん(母は昔死んだ)、窯の力がもたらす「経済効果」に目をつけた事業家、その妻、息子、村長、役人その他を巻き込み、紡がれて行く。 劇団桟敷童子の拠点すみだパークスタジオが、ややなだらかに組まれた客席以外はがらんどうに椅子だけがあり、役者は開場時刻から場内で発声練習しながら案内などをやっているが、いざ劇が始まると無駄の無い統一した挙動に入る。椅子を使った場面転換、本域の歌をはさみながら、最初牧歌的にみえた「物語」が徐々に暗雲が垂れ込め、最終的には悪夢の様相を呈するに伴い、語られている「窯」が、原子炉の隠喩である事が明白になる。
 このお話が含んでいる警鐘は、日本では既に起きてしまった原発事故についての言及を促すが、恐らく観客は受け止めがたい思いで劇場を後にしたのではないか。俳優の演技に拍手を送りつつも。
 もし、この歪な状況を変え得るとすれば、やはり「語ること」「言葉を見つけること」で、息をするしかないのだと思う。
 日本は今危うい所にいる。実際の危機より、その危機への対し方について。

 「敢えて」語ってみせた地下空港の今作には、その意味で驚き、「語られない」奇妙さが、改めて思い出された。 そして「語らない」のは自分も同罪である。
わが闘争

わが闘争

ハツビロコウ

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2016/03/01 (火) ~ 2016/03/06 (日)公演終了

満足度★★★★

鐘下辰男の台詞劇。
のっけから喧嘩腰で始まる会話は、「事件」後、雨音響く村のとある場所で、喪服の事件関係者と刑事二人によるもの。男ばかりの中に女の喪服が一人混じり、奥にはこの場面には関わらないスウェット姿の青年、後に判る「犯人」に当たる青年がぼうっと立っている。 「喧嘩」は刑事のほうが嗾(けしか)けているが、この態度が「正解」である事が一人ずつ露見して行くというドラマの運びだ。 にしても、喧嘩言葉のドスの利き具合が半端ない。この場面にあるどす黒い快感は、鋭利な言葉の応酬が互いに拮抗している所から来る。
 「津山事件」にどの程度依拠しているかは不明。オリジナルとして観た。かつて村人が信じる宗教(神道系?)を司る辰巳家が、新興勢力に敗退した三、四代前の過去を、事件の背景に据えている。新興勢力とは企業であり、雇用創出する土建業が利権と結びついて「力」を持って行くといった光景は、きっと日本の近代史上津々浦々に数多見られた事だろう。 この村でも「神」は周縁に追いやられ、ある時点で辛うじて保っていた村における象徴的権威まで奪われた。 この因縁にケリを付ける事を使命とする「信者」(青年)が、殺しの加害者となり、殺された女はたまたま青年の描く「ストーリー」上に位置づけられ、被害女性となった。女の日頃の「素行」もあってか、犯人を一方的な悪だとは他の者たちも考えていないらしい。ここに集った被害女性の夫、実兄、加害青年の姉(被害者兄の妻)、三人の「関わり」が次第に浮かび上がる。展開ごとに、事実はその前の認識を覆し、納得できる「全容」に結実して行く、文字通りのサスペンスだ。
 この戯曲の強烈な特徴は「過去の因縁」を、現在に影響を及ぼし得る(及ぼす資格のある)要因として刻みつけようとする意志である。戯曲は刑事に、逃走中の犯人が「死」に追いやられる可能性を憂える台詞を言わせている。青年が殺してしまった女性を、でなく、彼をこの物語の悲しいヒーローと見ているのだ。
 辰巳家の末裔である姉弟は親を早くに亡くし、母代りの姉は弟に辰巳家の末裔としての誇りを説き、弟は純真な「信者」となる。一方姉は敵方の家の長男に嫁いだ。相手は容姿端麗な姉に十代の頃から惚れていたが、終盤の姉の台詞は結婚承諾が両家の因縁への自分なりの決意である事を仄めかす。が、彼を本当に好きになった、とも言う。彼女の異性に対する本心は被害女性の夫にあり、相思相愛であったらしい事等も仄めかされ、関係は入り組んでいるが、いかにも小さな村の狭い人間関係を示している。物語のテーマの核心はやはり、犯人と宗教との関係、宗教側が近代に領土侵犯された歴史にあると思われる(これを単なる<味付け>に用いるには重すぎ、晦渋だ)。 
 犯罪には社会が一目おくべき示唆を含むことがある、と思う。ある価値観の浸透が、多くの「負」を帯びたものである場合、「負」は何か別の形をとってでも噴出しない訳に行かない・・と教える。テロに対する見方も違ってくるだろう。・・そんな事を考える。
 まァ作品解釈はともかく、俳優の佇まいに見惚れた舞台であった。

ネタバレBOX

テーマをめぐって追記。
辰巳家の没落は、端から見れば、単に権力関係が変わって一方が隆興し、一方が凋落しただけの事だ。ただ、信仰に支えられた秩序と貨幣経済による秩序(合理主義?)の本質的な対立は洋の東西をまたいで根深い問題だ。
自由主義経済が放任主義では立ち行かないのは周知の事実だが(これに反駁する新自由主義なるものもあるが)、弊害を来たした時、市場原理に代わる決定原理を、どこに求めるかという問題が浮上する。まず、「民主主義」というシステムが挙る事だろうが、全ての案件を有権者による投票で決める事はできないから、限界がある訳である。選ばれた政治家が政治決定を行なう(代行する)際、決定の根拠としての思想がなければならない。何に価値をおくか、倫理的機能をどこに求めるか、という時に人類が長年にわたって蓄積した宗教的価値体系、慣習のご登場となる訳である。
 かつて社会主義陣営がとった政治システムは、統制経済であったため、自由競争が阻害され、人員配置も「競争」によらず人脈や自己利益誘導という原理で決定し、歪な官僚制が発達してしまった云々といった弊害が指摘された。ソ連の科学技術の発達は、ある意味で「米国との競争」が成したもので、やっぱり競争原理な訳である。で、東側が敗北したのは世界が「競争原理」で動いていたため、競争原理を排した陣営が当然の如く敗北した、という事である。高福祉を実現している北欧などを見ると(あまり詳しくはないが)貿易黒字や国内総生産などで一定の経済面の実績を上げている(「競争」にも対応している)。かつての東欧は対外的な(経済的)勝利を、他の問題に優先できず、その原因は恐らくソ連の覇権の影響と思われる。
 「競争原理」があらゆる技術を発達させている事は間違いなく、それが国力・企業力となって「支配」関係を生み出す。この事はある種の「自然現象」だ。これを正当化しているのは「科学・技術の進歩」だろう。 では、「科学・技術の進歩」じたいを相対化する価値観、例えば宗教がそこにあったとしたら、どうだろうか。市場経済や、ある種の競争原理は、当然に主張していた正当性を、この宗教の前では失うのだ。 そして、こうした宗教を見出し、あるいは生み出す契機と考えられる状況が、はっきり見られるのも事実。構造的経済格差がそれだ。
 辰巳家の青年は、「宗教」に立つ地点から、たまたま敵への復讐に至ってしまったのかも知れないが、強力に働いていたのは「没落」という状況であったのかも知れない。(宗教は文字どおり彼の生の「拠り所」となった・・)
君は即ち春を吸ひこんだのだ

君は即ち春を吸ひこんだのだ

公益社団法人日本劇団協議会

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2016/02/25 (木) ~ 2016/03/01 (火)公演終了

満足度★★★★

新美南吉半生の記
若くして逝った童話作家・新美南吉の短かった作家人生と青春を、素朴なタッチで描いた作品。否、「素朴」は新美南吉の人生への印象か・・ 等身大の人間の温度を感じるストレートプレイだった。
エコー劇場に作り込まれた田舎の家屋、上手には紅梅か桃の花が咲き乱れた裏庭があり、これに面した縁側のある畳部屋が、新美正八=南吉(寺本一樹)のささやかな「書斎」で、彼が人生の殆どを過ごしたのがここ愛知県半田市(知多半島)だという。冒頭セピア色の照明が強く当たり、一気に「そのむかし」へ観客を連れて来る。
微妙な恋仲の女性・ちゑ(まりゑ)が、医師として大阪で活躍したり動的であるのと対照的に、田舎で教員生活を送っている新美は、徴兵検査ではねられた肺病病みが最後に露見する事で諸々が符合する「陰」を帯びている。ただしその時点までは(肺病については)「噂」の真偽は明かさず、新美の「陰」も見えるような見えないような、微妙な色づけにしてある。
肺病を巡っては、彼を慕う事になる女生徒(白勢未生)がいずれもこの死病で亡くした二人の友人に対し、サバイバル・ギルティを抱いているエピソードの後、新美の喀血が始まる、という仕立てになっている(彼女が献身的に彼を介抱しようとする)。 ちゑや、生涯の友人(シライケイタ)の「死」も新美の生に強く突き刺さる。その一方で欲得を隠さず生きる一庶民である父(高橋長英)と、あっけらかんとした継母(南一恵)が、老いてなお健康そうなのも、新美との対照を印象づける。
そうこうする内に「病」に倒れ、死に行く新美南吉・・彼の生が一体何であったのか。本編には新美の作品があまり出てこず、作家としての葛藤も具体的には触れられない。ただ、彼のはかない人生が、それでも彼の内側には豊かな時間が流れ、彼は外的な「何か」にすがる事なく、自立して人と対し、彼自身の生き方を貫徹した・・そんな風情が台詞や行動よりは佇まいによって象られていたと感じた。そうなると新美南吉が登場人物である必要があったのか、素朴な疑問は湧くが・・。
演技の質の面では、新劇系の高橋、南と、技巧的?な若手と、ややバラけた感があったが、それぞれの良さが出た場面が認められ、群像劇としては成立した。ただ、もっと場面の意味を鋭利に作り込める余地はあったかも知れない。 今回の「日本の劇」戯曲賞受賞戯曲は、観客全員に配布されていた。

クラッシュ・ワルツ

クラッシュ・ワルツ

刈馬演劇設計社

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/02/26 (金) ~ 2016/02/29 (月)公演終了

満足度★★★

リアルとウェルメイド
贅沢なトークゲストが並んでいたが(当日は柴幸男+かもめんたる)、都合により退座(芝居を観れただけで御の字)。 芝居はナンセンス劇の始まりかと勘違い。次第にマジメにストレートプレイを仕上げているのだと、途中で修正した。 ただ、無理もない。 事故現場に花を供えているのを咎め、あるいは表札を見ていただけで泥棒と疑い、彼女らを家の中に連れ込んで、(セミパブリック空間でもない)「応接室」を人のクラッシュする場に設定しているからで。 どことなく不自然さが漂うので「不条理系?」とみても、罪はないと思う。
 息が詰まるようなやり取りがすったもんだあって、互いの不理解状態が、(隣家の下手なピアノのように)「少しずつ良くなって行ってる」と、芝居を観て実感されるかどうかだが、私は登場人物たちの心情を、終始「眺める」立場を離れずに終ったし、「よくなってる」と信じる気持ちにはあまりなれなかった(ならなくて良いとも言える)。 お話のほうは、謎かけ(伏線)を謎解くプロセスを飽きずに追えた。が、リアリティを逸脱する箇所がそこここにあり、解消しきれず残ったように思う。
 たとえば・・息子を轢き殺した加害女性を許さない父(元夫)が、実は相手をホテルに連れ込んでいた・・。また、女性の方は愛のないセックスで子を宿したが、毎月命日に花を捧げるうちに偏執的な愛を膨らませたか、子を産み育てたいと願い、一度も献花をしない母親を難じて自分のほうが彼を愛していると嘯く・・。など。
 最大の謎は、相手を「許したい」と言い出す妻が、なかなかその態度を示さず、恐縮し続ける加害女性をずっと眺め続け、どうにもサディズムを感じてしまう面。だが彼女は地味な服装や髪型に甘んじるその女性の人生を奪ったことを申し訳ないと、頭を下げて泣く。途方もない分裂があるが、それを自覚的に摘出しているとも見えない。
 最後のオチは如何にもウェルメイドだが、抑え目な演出でも、私は甘く感じた。沖縄行きの話をしながら泣くシーンは、「リアル」に重心を置くなら、最後までリアルを貫徹してほしかった。「踊り」はもっと「型」が決まっていて良いが、このあたりは好みの問題か・・

 演目は二年前の劇作家協会新人戯曲賞(最優秀)をとった作品で、作者本人の演出による再々演。この年の最終選考に残った5作に「東京アレルギー」「血の家」など、こまばアゴラで上演された作品があり、中々接戦だったのではないかと想像された。

ROMEO and TOILET

ROMEO and TOILET

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2016/02/25 (木) ~ 2016/02/28 (日)公演終了

満足度★★★★

見なきゃ分からない。
全身白タイツで何をやるのか・・なるほど。パフォーマンスとして、一つのコンセプトに貫かれた一まとまりの出し物を、提示されたスッキリした後味があった。衣裳は制服の意味を帯び、集団で動く場面では号令が飛び交う、そのおかしさの一方、ゆったりと一人で語るのも白タイツなのも笑える。 事前に想像したイメージを、大きく裏切る豊かな出し物だった。
 会場に赴くと、客席を取っ払ったトラムの広間に両サイドの階段で降りて行き、中央にドーンと置かれた白亜の直方体を立って見上げ、客が開始を待っている。正面奥にはトイペを縦に積み上げた城壁がそびえ、直方体の周囲にもトイペが取り囲んでいる。
 「 白くてぼやっとした物」達は、誕生の極大である銀河と、極小である精子のイメージの間を縦横無尽、様々な場面を繰り出す。床に下りて客に混じりながら流しのギター弾きをやったり、なぜかカレーの材料を探せ!と豚を追いかけて客の居る床で大騒ぎの捕獲劇を延々と続ける。ここでの「延々」は、すでに開始以来あの手この手でこのテーマを追っかけている「延々」の延長としてあるので、言うなればジャブが効きすぎて笑うしかない状態である。
 凱旋公演との事で、正面のサイドの壁面に英語字幕が出る。外国人客の姿も見えたが、大いに楽しんでみえた。 

野鳩

野鳩

野鳩

駅前劇場(東京都)

2016/02/25 (木) ~ 2016/02/28 (日)公演終了

満足度★★★★

野鳩★三度目にして最後。
他劇団出演の佐々木幸子の所属として劇団名を認識し、一昨年初観劇、良い感じの脱力系はオチ無し、この劇団の目指す地点はどこだ・・?との興味。「外してくる」感じはナカゴーに近似だが、無意味度はこちらが高く、「それ系」?の原点を標した劇団なのであるか?・・などと想像。
 昨年の下北沢公演ではしまおまほ降板があり、味噌が付いたと感じた。そして今回の「解散」アピール公演の印象は、それなら、と見に来る客も居るだろうし(私もその一人)、色んな意味で「回収」しきろうというなら乗って上げましょうと、その覚悟の形を見に行った。
 近未来、ある中小企業の朝の朝礼の中にゾンビが一人居る、という驚愕の日常風景のオープニングから、「共存」の理想形がやがて絵に書いた餅、化けの皮をはがせば人というもの世知辛く、しかし最後は通るべき事実が通って物語はそれなりの大団円?に行き着く「まともな」芝居だった。
 ゾンビ話は「バイオハザード」を参照しており(・・ウイルスで感染し、一旦死んで蘇生する、欲求は食欲だけ、頭に打撃を加えれば死ぬ)、例外的に言語を覚えるゾンビが見出されため、人間生活の実験が始まる格好である。
 言語を覚えると共に感情を発達させ、仕事をまじめにやるので便利に使われていたが、社員による不正に気づいたりもする。そんなこんなで疎ましい存在となったゾンビ君は、ある「感染」事件の被疑者に仕立てられ、他の不正の罪もかぶせられようとする。彼が差別構造の下位の存在に位置づけられるのは、よくある構図だが、お涙頂戴にならない所に「らしさ」がある。彼は決して人間を攻撃せず、その事を周囲も確信している=ナメている。
 野鳩の主役佐伯女史との恋愛感情の芽生えも自然。マジ演技の二人以外は、キャラきわどい演技、キャラ破綻演技などそれぞれ持ち味を出していた。
 差別といえば、イキウメの「太陽」に、「我々と異なるが人間に近い存在」に対する差別が描かれていたが、およそ人間のトラブルが差別に源を発するゆえか、あからさまでない暗黙の合意でゾンビが(それまでの称賛の対象から)蔑視の対象となり不利な立場に落とし込まれて行く経過は、生々しく見入らせるものがあった。

この声

この声

オイスターズ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/02/19 (金) ~ 2016/02/23 (火)公演終了

満足度★★★★

何を考えているんだろう・・・
一介の美術教師のもとへ「相談」を持ち込んで困らせる女子生徒3人。シンプルな構成で、我々は「フツウのひと」である美術教師にどちらかと言えば自分を重ね、不可思議で掴み所なく底意地の悪そうでそうでなさそうでやっぱり空恐ろしい異性人な女子生徒の「出方」に翻弄される。ラストに「おっかしいだろお前ら」と、漸くぶちきれた一個人の叫びは、時すでに遅い遠吠えながら、理不尽さそれ自体への我らの憤懣を代弁して、ある種のカタルシス(笑)。 それにしてもオイスターズの芝居(三本ばかり観た限りだが)は、常識的で自己保身的で凡人な主人公を、周囲の者が独特の仕方で困らせる不条理劇だが、「困った人たち」の風情が面白い。つぶらな瞳をして「私、誤解してました」とか「人間というものは、こうして成長していくのですね、先生、勉強になりました!」とか、わざとらし~~い芝居がかった台詞を、「純粋さ」を失わずに言う、という演技をするので、リアリティは両極に引き裂かれ、「この混乱は夢だ・・」「悪夢だ・・」と頭を抱えることになる。 今回も頭を抱えたが、我らが凡人代表が舞台上でスケープゴートとして大変困ってくれるので、笑って劇場を出る事ができる。 現代生活の澱を、笑で解毒する一種の儀式だとするなら、今回も十分「毒」を味わえた。

ソンナニイヤカ?

ソンナニイヤカ?

演劇ユニットどうかとおもう

パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)

2016/02/14 (日) ~ 2016/02/15 (月)公演終了

満足度★★★★

からしのきいた八編
素人が突つけば痛くてジメっと沈下しそうな話題が、劇的に生き生きと立ち上がる視角をもって切り込まれている。さらっと流す短短編から、ややじっくりといたぶる中短編まで、どの話も刺し具合が適度で芝居としてのムラもなく楽しめた。「現実」と地続きである所がミソだ。舞台の簡素な設えや、「裏」なはずの黒幕の仕切りの向こうに人が移動してるのが見えたりも、適度な風通しだと感じる。役者の佇まいも良い。お話は即ち問題をどう切り取り、評したか、というものとして、観客側に着地する。それゆえ、個々のお話にそれぞれ感想は湧き、それじたいが作者の提起した問題にコミットする事となる。
一作品だけ挙げれば、、ホームレスを扱った「今夜は住所不定」、渋谷区の条例の話題も含めてリアルに厳しい現実をなぞっている。しかし舞台であるマックの店員(外国人バイトと正社員)が、私達がそうあってほしいと思い描く人物に描かれていた、と私には見えた(現実にはもっと無理解で、当たらず触らずの対応にとどまり問題は自覚されない)。現実離れしない限度で考えられる最も温かいお話に仕上げたこと。それは「見放さない」眼差しに私には感じられた。 他のお話も、突き放して「異」なものとして笑うにとどまらず、どこか問題に踏み入っている。その具体的な場面としてそれぞれ立ち上がってみえるのだ。
短編が面白くある可能性が、こんな素朴な姿で現れてくれたという感じである。

猥り現(みだりうつつ)

猥り現(みだりうつつ)

TRASHMASTERS

赤坂RED/THEATER(東京都)

2016/02/18 (木) ~ 2016/02/28 (日)公演終了

満足度★★★★

お馴染み中津留節ににんまりしつつ、「自粛・自主規制・空気読みしない」この劇団が「日本」という集団に叩き潰されないことを祈る
今回の題材は宗教(とりわけイスラム)。これをめぐって論戦活発、言論を使っての神経戦がとある商店街の異国料理店内で展開する。
 中津留氏の書くものと言えば社会的な事象を真正面から取り上げ、B級映画的とも評される意想外の展開で楽しませる(そこが賛否両論であったりする模様)。人物たちはいたって真剣で、ドラマのリアリティからすれば笑えて良いところ、鬼気迫る演技で笑う余地を与えないというギャップが、TRASHならではの独特な味の源なのだろうと思う。事実、「笑えない」現実はある。問題をあぶり出す状況設定や議論を押し進める台詞に長け、あるテーマを巡る問題群を洗いざらいテーブルに載せ切る… これはなかなか出来る技ではない、というのもリアルな現実ではそんな言葉は吐かれないからである(朝まで討論でもない限り)。中津留氏の戯曲は人がとにかく喋る。観客の気を引くようなフックを繰り出し、論点が次また次とシフトし、つい見入らせられてしまうが、当然ながら、その結果人物の行為としてはそこここに不自然さを残す。近年のお笑いに多い、笑う対象であるところの「きわもの」が突如出現したかのようになる。私などは思わず「うわ〜」と笑う。深刻な問題を考える脳と、奇妙な人間の行動を見る脳は、同時に働いている。この違和感を展開の面白さでカバーする手腕もあるし、作品によっては違和感が限りなく小さいものもあるが、今のところ私にとってはそこがTRASHの持ち味になっている。
TRASHを観る者はこの両のバランスの一方が犠牲になる可能性を承知しておくべし。この劇団の突出した価値が「現実」への即応性にある限りは。…以上は、一応(私としては)褒め言葉である。

カゲキ・浅草カルメン

カゲキ・浅草カルメン

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2016/02/19 (金) ~ 2016/02/29 (月)公演終了

満足度★★★★

浅草東洋館へ初潜入
喜劇の聖地・浅草は漫才の常設小屋・東洋館、その入口には「客引き」をやる作演出・望月氏の姿あり、客席をみれば五十がらみのおじさんおばさん、はたまたオタク風の者ら、「場末」的演出に総出で一役買ってるよな劇場にて、これも浅草の地に似つかわしい歌あり踊りあり、サービス精神に徹した芝居が飲食自由・嬉しい休憩付きで上演されていた。
 ドガドガプラスは昨年唐ゼミに作品提供したのが望月六郎氏(観れなかったが)、「芝居もやってるのだ」と知って今回初めて観劇できた。
 序盤は劇団が擁する若い役者がキャッキャと元気にやってる、、とだけ目に映っていたが、中々どうして徐々にそれぞれの役柄が見えてくると、それぞれがうまい。出はけも多くテンポの早い芝居だが台詞は澱む箇所一つなく、役にハマり切って小気味良いシーンも多々。もっとも皆、艶やかな着物を召して「女」を売り、男もホスト並みに化粧と仕草で「男」を売る、女郎に悪党のダークヒーローな演技の範疇に留まるとは言えるが、華ある役者にしか出来ないとも言える。 
 「お話」は一本筋が通って破綻は無いが、幕末とカルメンというイメージの飛躍ぶり、舞台に漂う雰囲気は唐十郎に近い。

ネタバレBOX

カルメンの物語が幕末を舞台に展開。主な登場人物が、悪党弾左衛門一味、島流しから戻ってくるガルシア(我流史荒)、その妻である軽女=カルメンと女郎仲間、彼女に虜にされた男ドンホセ(干愚鈍)、彼を慕う弟分、江戸一喧嘩の強い勝小吉一家、彼の息子勝驎太郎(後の海舟)・・といった具合。物語の箱をひっくり返したような多彩さは、堅気とヤクザ、体制と反体制、幕府側と尊王側といった判りやすい図式には全く回収されない。人物の殆どがアウトロー的であり、彼らへの批判的視線(説教がましさ)を入れずして物語を語り切っている所が私などには新鮮だ。テーマは個々がそれぞれの道を生き切る事であり、それが呪われた宿命であれ個人の欲求であれ、行動こそ尊ばれ、正当化こそすれ後悔せず、道を全うした果ての死に際は潔い・・要は皆が皆格好良いんである。屈折の極みにして妖気漂うカルメンがやはり中心にあって迫力満点。その屈折したあり方が、終盤の本人の語りで明らかになり、屈折しているにも関わらず観客の理解する所となる。
 従ってこの芝居は「分かる話」だが、雰囲気は唐十郎を彷彿とさせた。舞台崩しも短調の音楽と照明の頻繁な変化による転換もないのだが、今回ガルシアに唐組の久保井研、他にも唐ゼミの役者が客演しているのは自然に思われた。
 産休で離れていたらしい女優が子を産んだ女として登場し、1歳位の赤子を抱いて出ていたが、劇団事情を知っているのだろう、少なくない客から自然拍手が起きていた。この赤子が天然に快活で子役ならぬ赤子役が存在するなら、十分タメを張っていたのが笑えた。
親の顔が見たい

親の顔が見たい

かわさきシアターカンパニー

川崎H&Bシアター(神奈川県)

2016/02/19 (金) ~ 2016/02/21 (日)公演終了

満足度★★★★

役者力、堅実。
マンション内の、にしてはそこそこの(70人程入りそう)スペースで、ぶち抜いたコンクリの梁が低い天井に残るのも黒く、劇場としての味わいを有しているのにまず驚いた。
「親の顔」は数多くやられている演目だが、やはり味のある戯曲だ。中学生にしてはかなり過激ないじめ内容や、援助交際など、ドラマ的な演出を「盛った」ようにも捉えられるが、うまく解消していく戯曲だ。
新たな証言や物証が、事実を徐々に露呈させるが、その段階段階で、その状況に見合っただけの抵抗を親たちは繰り広げる。そして退路を断たれて事実に向き合わざるを得なくなる・・という意味では、「悲劇」に始まりそれは覆らないが、ある意味ハッピーエンドである。
 この劇団は、口跡もすっきりした堅実な役者が押さえる所を押さえた演劇を繰り出し、劇の終盤にはある「高み」へと観客を押し上げていた。 開幕当初に見られた、各自の仕事をしている感の演技(横同士の反応がやや堅い)は、しかし個々の「仕事」を延長した先に、しっかりぶつかり合う形が出来ていた、そんな感じ。演技を機能的に捉えているのか、やれる事をこなせばここまで持って行けるという事か・・不思議な感覚だ。
 一点、最後に残る夫婦の対話、そして退出の場面。 芝居中では夫に抵抗した妻だが、最後には夫の後について行く、古典的な妻を演じる日常に帰って行く、という処理にしていた。 簡単には変わらない・・それが脚本に書かれてもいる一つの結語だが、それでも何か変わって行くのではないか・・そう感じたい観客に、この演出は「簡単に変わらない」ことを形として強調してみせたのだろうか。

オペラ研修所修了公演「フィガロの結婚」

オペラ研修所修了公演「フィガロの結婚」

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2016/02/19 (金) ~ 2016/02/21 (日)公演終了

満足度★★★★

オペラ初心者
入門として適当かと観劇に赴いた。ある程度「長い」ことは覚悟していたが、14時開演、休憩25分、終演17時半。ラスト10分前で退出せざるを得ず、それで知ったこと。
・・「フィガロ」のラストの畳み込みは10分の中に凝縮されている(17時半終演が正しければの話だが、スタッフは「きっかり」だと言っていた)。
・・二組のカップル(若い婚約者同士と、伯爵・伯爵夫人)が、女性二人による計略(困った伯爵を懲らしめるための)により、自分の「本来の相手」と会っていながら(変装しているため)違う相手だと思い込んでいるところ、暴露され、大団円というラストだ。
 音楽はドラマに使われると叙情性が増す。素で聴いてピンと来ないポピュラーソングが、実はこのドラマに使われていた・・とドラマを見て発見し、「売れた」理由が分かる。つまり、音楽にとって、それがどんなシチュエーションのために作られたか、という事はとても大切な要素。
 「フィガロ」のモーツァルトの楽曲には有名なものも多い事だろう、耳にした事のある楽曲もあった。だが何よりの「発見」は、オペラ歌手の声の「色」=感情が、音楽に乗って明確な(芝居上の)表現になっていることだった。ほぼ、開演から終演まで、鳴り続ける音楽。台詞っぽい音の並びのときと、芝居の中でも「歌っている」歌との違いもある。「歌」は心情吐露であり、個人の感情というのは切々と迫ってくる(ミュージカルに同じ)。
 「フィガロ」はモーツァルトが愛される原点のようなものではないだろうか・・。ドラマの力、侮れず。モーツァルト・イメージというものがここで出来上がれば、この原点との差異によって他の仕事の意味付けが可能で、しばらくは持つ。(芝居もそうかも) その1ヒットが奇跡的に出来た訳でなく、モーツァルトは名曲を多産した人だからこの法則を持ち出すに不適切かも知れないが・・
 間違いなく人類の貴い遺産だ。
 
 あと二点ほど、考えた。日本人がこれをやること、について。「北京ヴァイオリン」という映画があったな。たとえば東南アジアの国に「フィガロ」を自分の声でやろうと志す人は居るんだろうか・・?(反語的疑問にあらず)
 もう一点、オペラのほとんどは、「知ってる話」である。見に行く人にとってはなおそうである。完成度の高いドラマ(と音楽の融合体)を、あの美味しい料理を、味わいに行く。 「演劇」という世界では、古典、定番的なものは、本流でないと思う。発展するものとして、「現在」に呼吸するものとして演劇はあり、そこに最大の価値と快感がある。ただ、「定番的な」ギャグやドラマ図式を借りていたりするし、時にはカレーを食べたくなるのは否定できない。 
 さて「フィガロ」は自分に何をくれたのだろう・・・。モーツァルトの楽曲は私の中に快感を埋め込んだ。 喜劇調の中に、時に心情吐露、感情の高まりが挿入されると、ハッとさせられ、思わず感動する。しかし、冷静に考えれば伯爵夫人が伯爵に振り向いてほしい心情なんて、どうでも良いではないか。だがドラマという仕掛けの中では、美しい歌声が意味を持ち、なぜか迫ってくるのである。「あそこ、よかったな・・また聴いてみたい」と、いつか思うかも知れない「快」が、あった。なぜそう反応したのか、について、しばらく考えてみよう。

ネタバレBOX

付言すれば・・この公演を観劇リストに選んだのは、東京イボンヌの「モーツァルトとマリーアントワネット」観劇の影響に違いない。 かの舞台には「演劇」として難点が多々あると渋いコメントを書いたが、あの劇が、生の楽団の演奏、声楽家の声によって本格的に「引用」しているモーツァルトの音楽に「主役」を譲っていると見えたからだった。 だが天才の所産を前にそうしない訳に行かない、やむにやまれぬ思い、というのも恐らくある、とも想像されたので、どれほどの求心力を見せるものかを垣間見に行った訳である。
 演劇の中にモーツァルト楽曲を「引用」する場合、すでに楽曲が持つ魅力、威力(皆が知る)を踏まえて物語が語られるのなら、実際に楽曲を本格的に鳴らす必要はなく、物語を先へと語り進めればよい、と、やはり思う。 だが、本格的に鳴らさなくては理解できない要素が「物語」にある場合は、鳴らす必然性があり、その効果を持つ。必然性にかこつけて、贅沢な演奏を聴くことが正当化される訳である。
例えば・・・モーツァルトの音楽にケチを付けるやつがいる、害悪だとののしる者がいる、そんなやつらに、さてそのお膳立てをした上で、いざ!と、聴かせてやる。溶解して行く彼らの顔が、演技が、痛快なことだろう・・。など。
 色々と意見を言わせる芝居というのは一定のレベルを印している場合が多いが、イボンヌの昨秋の舞台はそれに違いなく、オペラなるものの小さな扉を押してみようとさせるだけの力は、あの「演奏組」(楽隊と声楽家)が擁していたとすれば・・・。
 余談が過ぎた。


ザ・ドリンカー

ザ・ドリンカー

浮世企画

駅前劇場(東京都)

2016/02/17 (水) ~ 2016/02/22 (月)公演終了

満足度★★★★

キモノ芝居。
それなりに精魂使った投稿が、「登録する!」をクリック後、「このページは表示できません」となり、戻ると白紙になっていた。 この盛況ぶり(アクセス数の多さ?)、良きことながら・・ 理論的にでなく文体として微妙に表現した文章は再現できないので、箇条書きにする。

・西岡未央、どこかで見た・・そうだ新国立研修所で・・と芝居終盤で発見。主役の伊達暁もその何期か前の。他に猫ホテ・村上航、ナイロン猪俣、あと一人顔は一致しないが見たはずの役者・・・ 実力ある役者を使っての「浮世企画」の浮世とは、江戸の事? 氏素性知らぬユニット。
・文学座・山谷典子、俳優座・美苗ら「演じて書ける」才女の一人、今城氏の出自も知らず(こちらの方が経歴は長いかも?)。
・幽霊噺。・・語り部&男の幽霊役という難物が、猪俣による力技でどうにか成立したという点を除けば、各場面面白く観た。
・芸の道を求める主人公狂斎は絵師だが、その闇を描き出している。描きたい欲求に正直に描いてきた彼の、酒と饒舌に暮らす日々が西南戦争以後、死に怯える日々となる。虚しさにさまよい、絶望に漂う彼は、死んだ妻と死んだ後妻の霊、そして先の男の霊とのやり取りの中で、再生して行く。そこでは彼の裸の姿、弱さが暴露される。
・この場面は台詞劇としてぐっと深まるが、所詮幽霊とのこと、安定を獲得したその後の彼にとって、それは一つの通過儀礼、いわば「夢落ち」と言える。
・メッセージ的には、人は安定を欲するなら逆説的に、自分を極限に追い込み、何かを追求する所に身をおかねばならない・・といった風である(書き手の意図とは異なるかも知れないが)。名も無き失敗者のそれでなく、著名人のそれは、「成功の秘訣」的な教訓に変換されかねず、しかしそうした「極限」を欲する若者は存在するし、「極限」になり得ない現実に突き当たり、その神話を既に放棄した者も居るだろう。
・「闇」が印象に残る。台詞と、照明、音響のリズムが作ったのだろう、悪夢のある瞬間のようなイメージが、感覚的に(肌触りのように)残っている。人間の心の闇を舞台上にイメージとして表出させ得た。演出のうまさ。
・本に戻れば、時代や人物の情報の台詞への織り込み方、台詞回しの切れ具合もよろし。
・何yり、狂斎と交わる人物たちが魅力的に形象され、それぞれにおいしい場面が作れていた。役者たちの面目躍如。
・歴史に何を汲み取って行くのか・・作家の仕事をまた、覗いてみたい。

同じ夢

同じ夢

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2016/02/05 (金) ~ 2016/02/21 (日)公演終了

満足度★★★★★

久々にこれは赤堀戯曲の世界だ・・と気分をよくして客で埋った場内を眺めやった。
小劇場=僕らの味方(単に「小さめの劇場」以上の意味がある)、そこへ行くとシアター・トラムは「小さめ」組でも、最近ちょっと違うんじゃない?(スタッフの対応など)・・・と、訝ることの多々あった所、このたびこのカンパニーであたかもスズナリのShampoohat!の世界が立ち上がっているのを見ると、それで何となく劇場まで見直してしまうから不思議だ。いつもは神経質な顔してる黒い制服のお姐様方の顔も少し緩んでいる。そうでなきゃ、である。
 ビッグネームの俳優たちであった。が例によって観劇前に情報をチェックしない癖で、赤堀作品とだけを念頭に、まず場内に入るとリアルな作り込み系の舞台装置で、思わず美術担当の名を見ようとしたがパンフは別売。最後まで判明しなかった俳優の名も含めて、観劇後に確認した。 分からなかった俳優とは女優二名。木下あかりは名前を認知していなかったが、麻生久美子は、麻生系の顔であるマイコかと思っており、声が麻生に似ているのでオヤこんな声だったか・・とそんな按配。 後方席からは「声」と身体の動きの情報のみで、顔の表情までは見えない。が、俳優が誰か、という余計な意識を最後まで斥けた上質なストレートプレイであった、というのが言いたい結論だ。 ただ麻生久美子の件は、そうなると主人公が好意を抱く女性、清純に見えて意外と摺れてる(煙草吸ったり)といったキャラが、麻生がやる役の定番なので意外性に欠く(つまり麻生と判った上で見たら先が読めた可能性あり)。
 だがそういった小さな憾みはともかく、赤堀ワールドのストレートプレイはこのメンバーが劇団を構成しているようにマッチングし、心をこめて当て書きした痕跡が見えた。 その意味では「キャラを活用」した訳でもあるが、現代口語やスーパーリアリズムの方に寄った芝居にとってキャラは重要。しかし決してキャラに「頼って」いない、役者の魅力をむしろ引き出していた。

 最後にはほのぼのと終わるドラマだが、「毒」がそれと意識されない程ベースに染み込んでいる(そう感じさせる余地がある)ため、最後に少々ほのぼのしても許せる気になる。 一見奇妙な人間たち、欠陥だらけの人間たちは、現実の社会よりも少しだけ周囲に分かりやすくその欠陥を気づかせてしまう分だけ、奇妙に見えるに過ぎない、という事は先刻承知で、その奇妙さ具合を見届ける体験が、赤堀戯曲の舞台の中身だと言ってよいかも知れない。 自分ならちょっと恥ずかしくて表に出せない部分を、暴露するのを注視しているのである。
 彼らは外的要因で何らかの救済を受けることなく、絶望的な破綻を回避してどうにか人間らしく立つ場所を確保する。今回の舞台では、登場する皆が、最後は、その瞬間だけかも知れないが「同じ夢」を見ているかのように見える。芝居としての慎ましい大団円が善である理由は、ここに描かれる人々の地続きに、非情な現実がぼんやりながら、確実に見通せるからだと思う。
 そして劇の終幕を感じ取る頃合、ドラマの舞台となったリアルな台所と居間、そこに仕込まれた細々とした品を一つ一つ見始める自分がいた。 リアルに「世界」が立ち上がった快楽を、そこにある物たちを目に刻みつける事で確かなものにしようとするかのように。杉山至のこんな具象な舞台は初めてだ。そしてここを包み込んでいる劇場を見回す。客席も見回す。
いや~芝居って、本当にいいものですねェ。。
(The Shampoohatの公演もぜひ)

鈍色の水槽

鈍色の水槽

ロデオ★座★ヘヴン

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2016/02/09 (火) ~ 2016/02/14 (日)公演終了

満足度★★★★

ロデオ☆二度目
十七戦地舞台「花と魚」+1、ロデオ前作「幻書奇譚」と同作者の舞台をみて、今回。いずれもミステリーの構造に、独特なオチ、それが成立するための世界観や思想についての劇中の議論。総じてそれなりにしっかり「落とす」手腕と、現代人にとって関心のあるテーマについて議論を試みるあたりに、一定の才能を感じる。
 コンパクトにまとめ、そのタイト感がよかったりするが、今回は「説明しきれてなさ」が勿体なく残り、いま少し粘って書き込んでよかったのではないか、と思ったりした。それはそれで良さが削がれてしまうのかも知れないが・・。

ネタバレBOX

人間と他の生物の異種交配による子が、人間らしく生きているなら、彼と人間の交配による子はもっと人間らしく生まれてくるだろうから心配ないんじゃないか(もっとも次はイルカ側に近いかも知れないが)・・と、考え始めると荒唐無稽なフィクションではある。
ただ、種の境界(ひいては様々な境界)を乗り越える、というテーマが流れているので、もっと過激な展開・・周囲の者も「異種愛に目覚めて行く」とか・・があっても良いのでは(一つの比喩であるので)、とも。
彼の地

彼の地

北九州芸術劇場

あうるすぽっと(東京都)

2016/02/12 (金) ~ 2016/02/14 (日)公演終了

満足度★★★★

見届けた。
かの地出身としては罪深くも初演を見逃し、再演に歓喜、but,ステージ数少ないなァ・・ その少ない一人として見届よう・・ という事で懐かしい地名の出てくるお芝居を堪能した。
 「地域発」の「ご当地ドラマ」企画の中では、名所旧跡を無理やりに取り上げる事なく、当地の「現在」の生活感覚・風俗を軸にした作りがなされていたのが特徴。 それなりに踏み込んだ、バラエティに富むエピソード(フィクション)が織物のように紡がれている。 人間の暗面を見据える作家の視線は健在で、北九州は十分に都会ではあるが、「都市⇔地方」というありがちな図に還元される物語でなく、当地に「現代」を見出し得るドラマであることにより、光った舞台となった。

ネタバレBOX

北九州弁のネイティヴと、そうでない人が違和感なく混在する様。
 語尾「・・っちゃろ! これ北九州弁?」 正解は博多文化圏になる(と思う)が、東京人が関西弁使うのと同様、「どぎつさ」(鋭角な感情)を緩和する効果。
 懐かしの皿倉山・・これをサラクラヤマ(サを低音程、ラ以降を高音程で平板=アスカヤマに同じ)と発音していたが、私の周囲では「サラクラサン」(ラクラを高音程で言う=タカオサンに同じ)であった。(正式にはヤマなのだろうけれど)
 同地出身のうずめ劇場は在京で目にできるが、「飛ぶ劇場」は未見であった。 今回中心的な役を演じた同劇団俳優を通して、離れて久しい我が?北九州の空気を呼吸した気がした。 極々個人的感慨であるが。。
Opera club Macbeth

Opera club Macbeth

オペラシアターこんにゃく座

吉祥寺シアター(東京都)

2016/02/05 (金) ~ 2016/02/14 (日)公演終了

満足度★★★★

ナイトクラブでマクベス
ピアノ、フルート、パーカッションの楽隊が下手に控え、「マクベス」なのにどちらかと言うと軽快な音楽。初演で林光は作曲に苦労し、歌稽古は大変だったという(パンフより)。今回はリベンジ、とも。悲劇か喜劇か、難しいバランスの戯曲だった。酔った男が迷い込んだクラブでマクベスが上演される。観客は一人。いつしか男はマクベスになっていて、最後に印象的なオチがあるが、この二つを繋ぐ途中経過をどう描くか。戯曲としてはうまく書けたのか。酔った中年男がマクベスに重なって行く必然性に難があっては問題だが、観客の想像力が埋めるにしても、一方で厳粛に?進行して行く事態(マクベスのドラマ)をないがしろにも出来ない。男のドラマがマクベスに合流するお膳立てがしっかりなされていないので、マクベスのドラマに観客は没入しつつも男が出て来ると違和感を生じてしまう。そうした不調和も「不思議の世界の出来事」として軽快な音楽でまとめようとするが、そうするとマクベスのドラマ世界と不協和をきたしてしまう・・ そんな事で「苦労」があったのかと想像された。
役者はうまいし飽きない演出も施されていたが、スッキリしなさも。難しい挑戦をしたものだ、という感想。

No.32「米とりんご」

No.32「米とりんご」

KARAS

KARAS APPARATUS(東京都)

2016/02/12 (金) ~ 2016/02/22 (月)公演終了

満足度★★★★

勅使河原メソッド
舞踊は何を目指すものぞ。・・と問うてみる気にさせるがKARAS的たる処だろう。・・とは、果たして褒め言葉か(筆者はそのつもりだが・・)。 振付:勅使河原三郎とあり、師匠・佐藤利穂子のラインの先、つまり師の後を追う弟子の現在形=通過点としての今の形が見えた。つまり、勅使河原三郎語のボキャブラリーというものの存在が、みえた。でもって、このメソッド(実証者が勅使河原であり佐藤)による動きはそれ自体美しさ・不思議さ・軽妙さを醸す鑑賞に堪えるもので、その域に達しようと日々研鑽する鰐川枝里、という存在が確かにある。 のだが、勅使河原語(teshishとでも)を駆使したもう一つ別の「形」がそこにあるようにも見えた。振付:勅使河原は恐らく彼女を自分のイメージを再現する道具としてでなく彼女から発する何かを汲み上げているのだろう。「語」の使い手としては、ネイティブの正確な発音に達することはもはや目標でなく、ピジン語としての道を歩き始めている・・みたいな。
 それは何か、というのは端的に選曲された音楽に表れていそうだが、音楽のセンス自体は師匠のもの(恐らく)で、音楽が持つ崇高な完成度と、本質的に脆弱である人間の身体との非対称関係の中に、身体を人間的に輝かせる根っこがある、という「感じ」が流れているように思った。
 若く、動きのスピードは速い。荒い息遣いを洩らしながら、疾走して踊り終えた。後に何が残るかと言うと、彼女という存在以上に強い「メソッド」の存在感。この場を選んだ彼女がこの場所でどう育つか・・ 何となく楽しみではある。といった舞踊素人の感想であった。

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