満足度★★★★
初、M吉BヰT
名を知ってより2年、いや3年か・・ようやく観劇。お値段がそこそこ良い(高値)。て事は、信者を沢山囲ってるな・・と詮索。きっと正しい。
・・・品の良い端麗な奏楽者3人(ピアノと弦2名)が下手舞台下に照明でほのかに浮かぶ。暗闇。破壊的な地震音。声。背後の出入り口から、助けに来た誰か。声の主は相手を知った風。「やっぱり・・助けに来てくれた・・」、戸惑いつつ返事をする(人違いだが合わせてしまう)その男。この後、幾つかの会話。そして壮麗なオープニング楽曲が奏でられ、マッピングのような映像が目くらましに震える中、「物語」の舞台となる、白亜っぽい装置が入って来る。スタイリッシュ。憂いを帯びた楽曲が、余韻を残すリフレインでは和音の複雑さが深化、「物語世界」は暗く沈下・・のイメージも。そうして始まった芝居はピーターパンやフック船長の登場する空想世界と、「うんと過去」の現実世界(半ば幻想が侵食していなくもない)、現在に繋がる「少し過去」の現実世界、そして「現在」の四つを行き来する。そうして各「世界」の関係性が次第に明らかになる。
震災のイメージと、放射能ゆえに「自殺名所」ともなっているらしいある施設、いじめ・・・暗示するものは暗いが、その対極にある空想世界は闊達でエネルギッシュな冒険譚の世界、この対照がバランスとなっている。というか最初は明るい一色なのが徐々に「暗さ」が侵食して来る。その変移の仕方は悪くなかった。
自殺名所の施設は「少し過去」の舞台で、実は障害者(作者は精神病院ともイメージを重ねているらしい)の収容施設で、今は廃墟。その施設だった当時にも遡ったり、場面の時間は「物語の説明」に即して、自由に移り変わる。
時系列でなく、時間を行き来しながら少しずつ真相をバラして行く「謎解き」に付き合うタイプの芝居では、時系列に並べてみて一本筋の通った物語であるかどうか、私にとっては大事だが、芝居は(推理)小説のように読み返したりできない。ノリも重要である。一つ、一つと謎解きが進められ、また空想世界でも新たな進展がある。現実からの侵食を受けてダークな様相を呈するのだ。
ピーターパン症候群、と「症候群」が付いた方のピーターパンのイメージが、彼自身の空想の産物である世界で急速に影のように広がる様も、墨汁が黒色を一気呵成に浸透させるかのようでハッとする。
すっきりしない部分が残るのは、(後で考えると分かるが)観客は主人公マシロを盲目の被害者と見ていたが、じつは被害者の死を認められず、その人格を借りて自分が演じるようになったハイバ(元親友、加害者・・というよりサバイバルギルティ)だと分かる。そして、ハイバを名乗っていた者は元「いじめグループ」の一員で、彼もまた事件に苦しみ、より激しく苦しんでいるハイバを見守り続けている人、だと分かる。
さてマシロは盲目ゆえに突け込まれていじめにあい、かつ、盲目だという事で障害者施設に入れられる(母親から見放される)。
ところが施設に入れられるのは学校を卒業した後で、マシロはいじめ自殺を学校時代に果たしてしまったので、「その後のマシロ」は実は存在しないはずなのだが、「時」を横断して構成された戯曲は、その事を問題にしなかった、あるいは後に引けなかった、らしい。
これは意外と重要だと考える向きと、さほどでないと考える向きとあるだろう。私の好きな大人計画「キレイ」は、時を縦横自在に飛び回るが、話は矛盾しまくっている。
物語、と仮に言えるとする「構造」を借りて、言わばそれを幹として、咲かせる花が美しいものであれば、文句は無いわけである。
私としては震災の事実と「いじめ」・・福島の現実は日本国からのネグレクト、いじめに他ならない・・、復興や解決には程遠い現実が、芝居に流れる暗いトーンに合致し、私はそこに真摯な姿勢を感じた。自らの持つ「影響力」をどう使うか・・という問題について、考えた観劇であった。
ハイバ(になりきる)役をやった末原拓馬が最後列近くから見ても手足長の痩身小顔、優声の、言わば少女漫画から出てきたような素材。彼でなければ自省しながら泣く男は様にならなかったかも知れない。
照明、音響、音楽とスタッフの貢献度も高い。