満足度★★★★
虚構の劇団2度目。若い。
前回は鐘下辰男脚本・千葉哲也演出という番外編?だったから実質今回が初の虚構・本公演観劇(自主企画公演は二度ばかり観た)だ。
ノリの若さ、撥ね方が少し前時代風に感じるのは、己のひねた人格のせいか。 正面向いて面白さ(役者の魅力=観客への浸透力)アピール!な場面満載で、俳優アピール公演か・・とふと思う。
冒頭は、原発事故で放射能に汚染された被災地を訪れた人たちが「実験台」となる。透明な壁で囲われた(おそらく天井も、なのでSFだ)シェルターと化したこの区域は、その後外界で起こった悲惨な顛末によって、世界で唯一人間の住む場所となった。そうとも知らず、エリアからの脱出をあきらめた彼らは「街を作ろう」と、目標を一転、その「街」での物語が芝居の大半、展開する。
「作られた街」での出来事だから、奇妙な設定も、登場人物らが特殊な職業(テレビプロデューサーとか)に就いててもさほど違和感なく、その彼が「らしからぬ」言動をとっても、大丈夫。中心的な夫婦を取り巻く人脈たちの人間模様が、時にシリアスに描かれるかと思えばすぐそれは「はいカット!どこからがドラマでどこからがドキュメントか判らないまったく新しい形態のドラマ」とか説明をつけ、その後も同じパターンが何度か。終盤、「ドラマ収録」に戻らない夫婦の深刻な局面を迎えたりするが、この「街」での劇じたいがどこから真実でどこから虚構だか判らない作りになっているので、厳密に物語を追う必要性を感じさせず、そもそもよく判らない。
一定間隔で挿入される笑える場面(ショータイムなどの番組)で観劇者をラストまで引っ張る戦法だ。
この戯曲が、比較的愛されて再演を6度重ねてきたという、その大元が私にはよく判らなかった。時代が何を求めていたのか、その残り香がこの舞台にはあって、それを味わいに客はきっと観にくるのだろうと考えた。その核心部分が、興味の対象ではある。
ラストのナレーションによるシリアス落ちが、劇中のドラマとどうリンクするのか・・・私にはここにも相当飛躍が感じられる。
想像するに・・、深刻な問題をそれとして語ることや、語る態度じたいが忌避すべきもので、忌避する事の正当性が80年代、90年代当時にはあった、のだろう。この「アンチ」がある種軽薄なノリに「芯」を与え、確信をもって馬鹿をやる役者を動かし、「虚構」の中に少しだけ真実味をまぶすのがせいぜいな「劇的」の形を作らせているのだ、と解釈してみた。
冒頭のくだりで、俳優の演技にもっと深みを求めたくなったが、全体に対する不足感の原因は、そのあたりか。
今年劇作家協会会長となった鴻上尚史氏の「劇作」、以前読んだものはシリアスな問題をエンタメに置換した「楽しめる」戯曲だったが、今回のは少し高度だったのではないか。
美的に一定レベル以上の役者による、今回の芝居。役者としての「出世」を夢見ることのある程度許される層が、そうした観客の応援も想定しながら大衆演劇よろしく披露している(鴻上氏自身がそうした業界と出入りしている関係で)公演で、でもそれだけじゃないよ、それなりにしっかり演劇やってますよ、そう胸を張れる部分もある、その両サイドの境界を歩んでいる劇団の公演、と理解すれば一番よいのかも知れない(そういう位置づけkの劇団は他にもありそう)。
・・ほとんど酷評、になっているかも知れないが、特に嫌な印象を持ったわけではない。ただ演劇の質として私の期待を下回った理由について、(浅いかもしれない)考察をしてみた。
他の気に入らない部分が原因かも。音響の「こけ脅し」効果は嫌いである。ショータイムなどの場面転換で、音がガッ!と鳴る。若者にはライブ感覚で効果ありかも知れないが・・だが基本ライブのノリの芝居じゃない、と思う。
ストレートプレイの誇りをもって、脅しで勝負しないでほしい・・などと心で呟いていた。許される最大音量を出し、台詞直前でグッと落とす、この落とすのは音響のセオリーだが、「落差」を最大化することで悦に入ってるだけなんじゃない?と、オペ(だけを責めるのは酷かもしれないが)の姿を思い浮かべたり。申し訳ないが、万事こういう若さ勝負な感性に「忌避」感情が発してしまったかも知れない。
最後は自省となった。