満足度★★★★
猥らに熱くはじけ散る女体たち・・・純正三浦大輔の舞台。
チケット発売早々、二次市場でしか買えなくなった口。キャストをみると松坂桃李・高岡早紀・佐津川愛理・・そうなると、ああなるのか・・。こたびは裏調達せず当日券狙い、平日昼間のせいか、40名程度、特段アナウンスは無かったので、全員入ったのだろう。
比較的安価な立見席がそこそこ残っており、脇の中ほど、観劇にも支障はなかった。
休憩15分挟んだ3時間が長くない。セックス三昧である。何よりその描写はリアルで、緊張のため体がしびれてくる(結果脳がぼんやりし、酷寒の山中での睡魔のように眠くなる、なんて人も居たかも知れない)。
三浦大輔主宰のポツドールの名は「ニセ・S高原から」なる企画(平田オリザ作「S高原から」を4団体で競演する)で知った。・・という事はセックスレスの芝居もやる訳だ。。 が過去に見た三浦氏の劇団公演2作、外部演出作品3作で、交合シーンの無い芝居は1作のみ。その1作も、中心となる女性が「人間」として裸にされ、衣服を剥いだ時の体臭を嗅いだかのような印象が残っている。
『禁断の裸体』では寺島しのぶが脱ぎ、今回は脱ぐ女優の「数」に眩暈を覚えるが、見どころはそれぞれのセック ス描写のリアルさ、にある。
三浦氏が演出する男女間の心の動き、中でも性衝動に結びつく瞬間の描写は緻密で、唸らせる(何度か見ると三浦風味というべき趣があるが、それは演劇の制約との兼ね合いから生まれたものかも)。
三浦氏の芝居は演技がナチュラルであるから必然的に全体がこまやかで濃密になる。性行為に関しては、物語上の必要最小限というものがあり、赤裸々には見せるが、ご愛嬌と受け止めればで笑えもする。
ところが『娼年』では、どのセックスも省略の技を使わず「行為」の始まりから終わりまでなぞる。姿態の移りゆきから声の変化までが自然で起伏があり、つまり「物語」がある。・・毎度ながら処理はうまい。女性はパンティ、男もパンツを脱ぐがうまく客席の視界をかわしつつ臨場感を失わせない。「行為」のパターンも多様だ。ともかくこの物語にとって、「娼夫」となった学生・森中領がいかに女性の抱える「核」に触れ得たかが重要であるため、その触れる手段である所の行為のディテイルは省けないのである。
互いの身体への距離感が縮まる瞬間、それは女性が欲求を自ら解放する瞬間、自己肯定へと踏み出す瞬間だ。このとき彼女らは神々しい。その根底に切実な何かが見えるからだろう。オーガズムは女性にとっての勝利。 この儀式の媒体である領が、彼女らの存在をそのままに受け入れる器となり、またテクニック(又は名器)を持つゆえ女性を昇天させるが、彼もまた「一緒に行く」(あるいは行かなくとも寄り添う)のだ。
冒頭、領が母親と最後に別れた日のシーンがシルエットで描かれる。年上の女性の心に寄り添う事のできる二十歳の青年。幼い頃に別れた母親の影を追う彼の淋しげな背中が、女性たちの「物語」を投影する映写幕であるような・・そんな具合だろうか。
冷静になれば、快楽を欲する「疼き」を正当化する「物語」としての、出会いの空虚さを思いもする。経済的余裕のある(経済的な悩みから開放された)女性にしか、取りつかない「病い」、否、「業」というものを見る。だが「時間」の芸術である演劇もまた、瞬間の快楽を追い求めてやまない人間の欲求に応えるものだったりする、かも知れない。
領が印象的な出会いを果たした女性とのシーンは最後にやってくる。そこに至る領=娼年の「物語」は存在するが、それに増して、全ての「行為」における手足の動き一つや息遣いの中に刻み込まれた「物語」に、圧倒された『娼年』であった事は確かである。
もっとも、3時間という「一瞬」が過ぎ去った後、(「行為」と同じく)感動と名の付くものは残らない。脳の一部が焼け、ただれた感覚が心地よい。