tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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密やかな結晶

密やかな結晶

ホリプロ

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2018/02/02 (金) ~ 2018/02/25 (日)公演終了

満足度★★★★

この所鄭義信の舞台を立て続けに観ている。在日・朝鮮モノから離れた今度の作品は、私の中ではかつての新宿梁山泊の記憶をくすぐられるものだった。
宣材やタイトルのイメージとは異質なギャグ連発の始まりは、鈴木浩介・石原さとみのキャスティングには適合し、鄭演出の本領がのっけから暴走。シリアス、ナチュラルなモードから異質(笑い)モードへの転換の瞬間は実に判りやすく、コメディエンヌ石原に合わせた演出と得心する。
寓話的で示唆的な原作者小川洋子の筆致が想像される舞台だったが、ラストは原作通りかどうかは判らない。
音楽は芝居全編を、主に「暗鬱な社会」と「その片隅で慎ましく生きる人々」の二つのモチーフで包み、悲話の色調に仕立てている。その色調と適度の笑いのバランスは結果的にとても良く取れていた。
回転式(可動式)美術を筆頭にスタッフワークは美しく、作品世界を十全に表現した一方、キャスト(の演技)の評価は分かれるかも知れない。
いずれにしても初日、思わぬハプニングもあったが、終わってみれば鄭義信らしい愛の物語だった。
ハプニング分を差し引き、今後の伸びしろも計算に入れると、結構質の高い舞台になるかもである。

ネタバレBOX

ある島では一つずつ物(概念)が「消滅」し続けていて、今も新たに「鳥」が消滅し、やがては「小説」が消える。いろんなものが消失していくという荒唐無稽だが詩的イメージに満ちたSF物語である。
秘密警察が暗躍し、殆どの島民は消失を感知し、受け入れるが、中に例外=レコーダー=と呼ばれる人たちがいる。彼らは記憶を留めているがゆえにそう呼ばれる。芝居の冒頭は、鳥が消滅した日、鳥かごを抱えて逃げる男がついに秘密警察に捕らえられ、人々はそれをフェンス越しに見、ある一人が闇に隠れるように姿を消す、という場面だ。
照明が明るくなると、主な舞台となる邸の居間で、父母を失った娘(石原)が、「おじいさん」と呼ばれる献身的な男(村上虹郎)と共に消滅したはずの品物(両親の遺品)を手に取りながら語り合う場面。彼らはレコーダーではないが、父母の遺品を捨てられず隠し部屋に隠しているという小さなレジスタンス。ただし大多数の市民と同じく彼らも物の名を忘れ、消滅を受け入れ、その物にまつわる感情も消えている。その日、秘密警察がやって来て、父の遺品である書物を奪っていった。
小説を書き、1~2冊本も出版できるようになった娘の、貢献者だろう編集者(鈴木浩介)は彼女の小説の第一のファンと自称し、熱い賛辞を送っている。その彼は実はレコーダーであった。失われた物を全て記憶するが故に失われた物の貴さを説かずには居られない衝動を抱えもつ。秘密警察の追っ手を逃れながら、いつかそれらが自分らの手に戻ってくる日を、まだ見ぬ夢のように望んでいる・・この設定が、「物について語る」態度によって伝わり、喪失した物への愛着と、知って欲しい相手への愛が自然と重なる。かくして「消滅」の意味、消滅させる意思?の正体へのベクトルが生じるが、そこは秘密警察という見える存在によって巧みに伏せられている。
喪失について、「あながち悪いものではない」、人はそれが無くても生きて行ける事が判り、むしろサバサバしている・・と、物語の始まりで登場人物に語らせる。この「清貧」に通じる観念の一方で、失わせようとする意思の存在が、明示されないながらも変質していく局面が、終盤「左足」が消滅した時だ。不便極まりない状態に、アウトローの最後の掬い網である秘密警察の面々が「一抜けた」と言い始める。島は滅亡の予兆をはらむが、別の何かが変わる(明るい)予兆にも感じられ始めるというポイントだ。
この寓話は、愚かな権力の理不尽を人間の宿命として設定した暗喩で、まさに今の状況に当てはめる事もできる象徴的な芝居ともなったが、物語中での「消滅」が、身体に関する場合、消滅の予感があるという設定は、この暗喩から遠ざける。人が左足を引きずりながら動き回る「世も末」な終盤で、次に何が失われるかが判る、と娘は言う。衰弱した娘はついに命を落とす。一方レコーダーは左足を引きずることはない。実は消滅とは人々への洗脳を意味するのではないか・・その仮説は娘が命を奪われる事で否定されたかに見える。
秘密警察のボスとレコーダーの青年が兄弟であったエピソードや、元気の素にと娘から手渡されたラムネ(消滅したはずの)がアダとなり、町で集団リンチに遭って食材を奪い去られる「おじいさん」、一つずつ物が失われるたびに生きる力を奪われていくという様・・それらが不思議に一つの物語の中に溶け合って共存し、直線的でなく広がりのある芝居になっていた。

最後に一言。石原さとみのある種の器用さは、なり切れなさから来る下手さと同居し、結局下手に着地している。鈴木浩介の方は巧さが勝ってはいたが、二人の愛し合う様が芯の所で融合していないと、判りながら見ている状態。石原の根明さが救い、と言ってしまって良いのか考えてしまう。
むろん欠陥の無い舞台などなく、不足は観客が想像力で補うもので、今回もそのように観客は観たに違いないが、演技的にはうんと上を目指せると思われた。

初日のハプニングとは、回転舞台を回す時、現われた居間の上手端に置かれているはずのワゴンが、遠心力だろう、暗転中にガラガラガッシャンとやってしまった。明転した後、鈴木氏が下手前の惨状を、様子を窺いつつアドリブで対応し、ワゴンと必要なカップだけ拾って芝居を続けたのに客は笑いを返していた。だが上方席から見るとこのカップの残骸は一幕の最後まで気になり、またアドリブ後の仕切り直し以降の芝居は、二人の間のビビッドな関係を会話で表現する場面であったはずで、芝居としてはそこが「喪失」した穴となってしまった。もっとも、それに奮起して稽古以上の芝居ができたのだとしたら、怪我の功名なのだろうけれど。
長々と駄弁を弄した。陳謝。
Do Munch

Do Munch

みどり人

新宿眼科画廊(東京都)

2018/01/26 (金) ~ 2018/01/30 (火)公演終了

満足度★★★★

前公演あたりから気になり、初観劇。面白い理由を考えた。俳優がきちんとしている(見てくれも良く演技もしっかり)。何も無い舞台のすっきりした清潔感。水道をひねるマイムで「じゃ~」と言う(潔い)。ムンクのドラマ上の正体が最後に明らかになる(タイトルにもあるのに意識させず、最後に存在感)。色合いの異なる場面の転換で緩急。現代の庶民生活のあるある会話やエピソード。意外と深い一言が幾つか。
あるシーンの最後と別のシーンの最初が無音で繋がり、時には重なり、完全に二場面同時進行もある。その形式=芝居上の約束事が、やる側の潔さなのか、全く苦にならず、省エネでもあるが不思議とけち臭くならない。
謎解きを終えた後の展開は現実シーンは大団円、それに続く回想(抽象)シーンでは、物語の背後に流れる物語、テーマが示され、作者の意図の全的開陳となる。
横に広くステージを取り、相対する壁に言わば張り付けたような客席だったが、シーン転換の多い演出ではその形が相応しく感じられた。
殆ど地味な日常シーンの寄せ集めが、中華鍋でサッと火をとおせば鮮やかに発色。程よく予測を裏切られる気持ちよさに書き手の手練を思う。佳作。

第3回 神奈川かもめ短編演劇祭

第3回 神奈川かもめ短編演劇祭

神奈川かもめ短編演劇祭実行委員会

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2018/01/25 (木) ~ 2018/01/28 (日)公演終了

審査会もみた。

一点、前投稿に訂正。「アンケート用紙が無かった」は誤り、チラシの間に挟まっていた(陳謝)。

前稿で「地元意識」を毒づいたが、今回は神奈川からの選抜が2団体、実行委で司会もやるtheater045syndicateの中山氏による一人芝居と、昨年の勝者・チリアクターズ。結果は、前者が観客票を集めたものの戯曲選抜チーム(平泳ぎ本店)に一歩及ばず次点、後者は不評でタイトル戦に食い込めなかった。
従って「yeah!」は起こらなかったが、それよりも空席の多さだ。後部3列ガラ空きは見た目も淋しく、途中駆けつけた黒岩知事とそのお付き数名が通路近くに陣取るのに利しただけで。。上演の回は私の観た回は盛況だったが、審査会こそ面白いし盛り上がりたい。

さて審査会。今年は5名の審査員の顔ぶれも充実、初の中屋敷氏と松本祐子氏が入ってぐっと締まった。そしてお馴染みの成井豊氏、伴一彦氏、ラサール石井氏と、意見は多様ながら的確コメントで参加団体も頷いた事だろう。

問題の得点システムについて、ここでも訂正一点。観客票が4団体の内<2>団体に投票するルールが「今回新たに」と前稿で書いたが、第2回もこのルールで、1団体のみ選ぶのは第1回のみだった。
計算法も従来通りだが、今回は審査員が各人とも得点配分が20~30点とヒト桁という具合に、メリハリがついていた。恐らくそのような話が審査員内部であったか、主催側が内規的な取り決めをしたのだろう。
にも関わらず・・審査員の間で1位だった(確かそうだったと思う)中国代表亀ニ藤が、総合点で次点に泣いた。観客票合計600点、審査員票は今回5名なので計500点。
つまり、観客賞を取ったら、半ば自動的に「かもめ賞」(最優秀賞)も取ってしまう結果に終ったという訳だ。審査員票が全く無意味という訳ではないが、観客票1位と審査員票1位が別団体になった場合、換算法の決め方次第でどちらかに決まってしまう、というシステムの問題がどうしても浮かび上がってしまう。
引き続き、改善を望む。

ネタバレBOX

以下提案。

今の形を続けるなら・・
個人賞は審査員により事前に決まっているので、まずはそちらを発表。そして集計結果を「じゃ~ん」と発表し、「観客賞」が授与された後、「さあ、ついにかもめ賞の発表! ××(観客賞受賞団体)はその勝者となる最有力候補という事になりますが、果たして、最も大きなトロフィーを手にするのか、それとも審査員票がこれを覆し、別の団体がかもめ勝者となるのか!?」、といった煽りの後ドラムロール、じゃ~ん! 「××、守りました!審査員席、う~ん○○氏は悔しがっています」もしくは「なんと○○、××を押さえて勝者に!」といった展開。つまり、「観客vs審査員」の対決要素を入れ、作り手である団体に代わってこの両者が競い合う(もちろん擬似的にだが)事で、「もう一度楽しめる」。遊戯性が高められる事は作り手にとっても本望ではないか。

ただし、審査会というプログラムは審査員の発言が主導で進行し、バトルはそこから始まっていて、きちんと根拠をもった作品評価がなされていく。それがいざ得票の段になって審査員票の比重が軽いとなると、やはりよろしくない。投票という形でしか発言(意思表示)しない観客のほうが、二つの賞について授賞権を行使できる事実は、何か齟齬がある。

従って、最もすっきりするのは、観客賞をやめることだ。
個人賞授与のあと、審査員票が集計され、観客票と合わせた集計結果の発表と同時に「かもめ賞」の発表を大々的に行う、というので良いのではないか。意味の重複した賞が二つ続き、最優秀賞が二番目だと、いまいち盛り上がらない。審査員票が観客賞を覆した時のみ、何らかの盛り上がりはあり、そうならない場合、何となくしらけるのだ。(もちろん紳士的な観客により会場は受賞者への称賛で盛り上がっていたが。)

もし観客賞を残したいなら、「かもめ賞」に含めるべき観客票は、審査員が5名だとすればもう一人の審査員分に換算した観客票を加える、という扱いがふさわしい。「観客無視では決めないぞ」というこだわりがあるなら、そういう形で残す。いやそりゃ少なすぎるよ、というなら観客賞をやめなさい。いい加減気づきなさい。・・という話。

ゲームは面白く遊ぶためのルール改正をどんどんやるべきだ。
第3回 神奈川かもめ短編演劇祭

第3回 神奈川かもめ短編演劇祭

神奈川かもめ短編演劇祭実行委員会

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2018/01/25 (木) ~ 2018/01/28 (日)公演終了

満足度★★★★

Aのみ鑑賞。
シャカ力(りき)は四国から3回連続出場だが第一回のインパクトから昨年落ちた(レベル的に)所を見事這い上がった。最後の味加減を見る(出演を兼ねた彼でない)演出が欲しい。
中国代表も複数劇団による座組だが構成がシンプルで、笑いとシリアスの共存する風味が冒頭から出来上がっていてオチもOK。好きな世界。
三つ目が戯曲選抜組だったが何故か睡魔が襲い、複数エリアの「関係」を序盤で見失ったら後は霧の中、出来はよさそうだったが外さざるを得ず。
神奈川選抜は最後にほのぼの良い気分な処理は相変わらずという感じ。小田原の劇団だが、私の中にある「神奈川な感じ」というのが実は苦手(説明は省く)。だが面白く作られてはいた。
という事で票は四国代表、中国代表の二つ。

ネタバレBOX

コンペとして成熟してほしいと思いつつ、昨年までの愚痴を言えば・・
客は神奈川県民多数らしく、それは良い事なのだが、地元が勝って「いえ~い!」とJリーグに似た妙な空気が流れる。恥ずかしくないか、と思う。あなたも神奈川県人、私も神奈川県人、だから神奈川代表に入れるよね、それが神奈川県人だよね、あ、周りみんなそうじゃん、応援するぞ、おう! 馬鹿か。
集団化すると集団外の存在が見えなくなる、的なのはいやだ。コンペを開催する、参加する資質としてどうか。
勝ために競うスポーツ文化とは戦い方の異なる芸術文化、勝負は真剣で良いし喜ぶのも良いが投票が地元に偏ったら恥ずかしい、フォローせねば、と思いたいもの。

アンケート用紙があれば書き連ねるつもりだったが用紙がなかったのでここで。願わくは考慮を。
実は観客票については今回から「4劇団から2劇団を選ぶ」システムに変更(確か)となった。これは神奈川に集まりがちな票の分散効果がありそうだ。(これ以外に観客賞というのもあるので重複してしまう)
で、審査員票だが、持ち点が100とかあって、前回まではそれを各劇団に配分する形だった。従って、差を殆どつけずに点数を配分すると、観客票で大きく割れた差に拮抗する票力に全くなり得ない、という事が起きる。第一回で学習した審査員は若干差を大きく入れていたが、初心者は1点差とかで、「差」をつける意味がない。審査員のみで競う場合は問題ないが、観客票と合わせるため、観客と同じレベルの競争モードを持たないと得点の意味じたいが無くなってしまう。
(ただし昨年は上位2劇団の一騎打ちで僅差勝負となったため、コンペとしての盛り上がりは出た。)
審査員も○式か順位式にして、係数を掛ける、などで「勝負」感を出すならはっきり出したい。
さて、今回はどうか・・。
美しきものの伝説

美しきものの伝説

文学座附属演劇研究所

文学座アトリエ(東京都)

2018/01/26 (金) ~ 2018/01/28 (日)公演終了

満足度★★★★

俳優の卵の発表だが文学座のそれは、役との年齢差を見事にこえ、発語のニュアンスの精度は一つ上を行っている。Bを観劇したが、見応えあり。
宮本研作品は二度目か。大正期の傑人たちの私的世界にフォーカスした群像劇で、主な語り手に堺利彦、中心に大杉栄と野枝、その周りに島村抱月と松井須磨子、作曲家中山晋平、荒畑寒村、その他の人々。時代は東京大震災に先立つベルエポックの時代。
1968年文学座初演(書下ろし)。
最後に流れる歌が良い。素朴な旋律、深い(転調のある)コード進行は林光との事。古きよき日の映画や演劇を林光の音楽は彷彿とさせる。

プルートゥ PLUTO

プルートゥ PLUTO

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2018/01/06 (土) ~ 2018/01/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

グレードアップした再演との事だが、著名な振付師が演劇舞台に舞踊を織り込んだ・・というレベルではなかった。シディ・ラルビ・シェルカウイという才能がなければ、他のアプローチで同じ山には登れないだろう。
初演も原作コミックも未見だが、原作の成り立ちからして重層的な芝居の予感、関心大いに沸いて観劇した。お薦めしたいが残念ながら日本上演は28日が最後(来月より海外)。
要所で映像が用いられ、特に序盤では原作コミックの場面が映し出されて劇世界を原作に寄せて「説明」すると同時に、漫画というジャンルへのオマージュを表現する。美術では漫画のコマを模した図形(四角形)のピースを変幻自在に用い、巨大なコマ形をバトンで上げ下ろし、映写幕にしたり背後の場面の枠としたり、象徴的な表現に終始するかと思えば作りこんだバザールや店内の鮮やかな具象が出現したり。
また「芝居」の領域に積極的に絡む凄腕のダンサーたちのアンサンブル、ソロは「芝居」全体を一つの生き物とする神経系統や循環器など生命機構の一部として躍動し、「人物」を体現する俳優の世界と同居していた。
その他ロボットの模型などの小道具、衣裳、ロボット役(或いは人工部分を身体に持つ役)の演技の端々まで、SF世界の風景の構築に動員され、大胆で緻密。
ダンスで印象的な箇所、役者も含めて群舞となる場面があるが、暗色基調の衣裳がそのシーンだけは個性溢れる色彩の衣裳をまとい(パステルでなくコンテのような、地味な差でも豊かな色彩感のある)、高度に発達したロボットが席捲する世界の物語に、新たな変化の予感(希望の予兆?)を表現した。

現実の21世紀に加速した矛盾と重なりあう矛盾(イラク戦争を想起させる)が一人の人間の感情に集約される。即ち復讐のベクトルの存在が、次第に浮かび上がってくる。現代を語るに外せない9・11由来の世界秩序の問題がこのドラマの軸となっている訳だが、(今や日本のどんなドラマ、映画でもお目にかかれない)正当な視点が示される。
その一事、復讐側と秩序側が本来的には対等であること、「怒り」の側を体現する役(吹越満)の演技によって形象された人物は、今や秀逸に感じられる。しかもご都合主義の匂いは周到に排され、架空設定の真性SFなのに、「今」の事のように突き刺さる。

島

東京×こふく劇場

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/01/24 (水) ~ 2018/01/28 (日)公演終了

満足度★★★★

宮崎県立芸術劇場・演劇ディレクターの任を下りて身軽になった?永山智行氏の東京滞在製作舞台。期間は1ヶ月という。俳優は全て東京で調達。青年団との繋がりも濃いらしい永山氏の下に参じたのは、青年団所縁の俳優、その所縁の俳優という具合だが、内輪感なく、内容的には質の高い布陣となった。
劇形式のユニークさは前回の「ただいま」でも物言いの様式にあった記憶が(朧ろに)あるが、今回は会話が無く、二組の夫婦の他方の一人称語り(モノローグ)を代弁する、という形式で発語があり、他は殆ど言葉を発せず能か舞踏のようにゆっくり動く様式の場面で占められる。男女の宿命的関係、倦怠、愛を持ちながらの行き詰まり・・それらの非言語表現が次第に言葉に劣らない雄弁さを持つのに見入っていた。
終盤言葉が多くなり、やや唐突感のある台詞(災害にまつわる比較的具体的描写、政治や世界の事)がどの次元の言葉に解すべきか戸惑ったが、大まかなイメージでどうにか受け止める。終始俳優の様子がよく、穏やかな閉じ繰りの後、ゆったりした時間に身を委ねていた。

この道はいつか来た道

この道はいつか来た道

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2018/01/16 (火) ~ 2018/01/21 (日)公演終了

満足度★★★★

文学座「有志」!老優金内喜久夫・本山可久子両名と、演出藤原の齢を足すと二百五十歳!(作者別役(80)も足せば三百何十歳!)などと惹句が踊るが、詳細不記載のチラシのみで情報を得るのが遅れ、予定に無かったが、別用ポシャって急遽観劇す。
昨秋の『鼻』に続き、今回の別役も文学座であるが、さて。
97年頃の作という。ダンボール、ゴザをそれぞれ抱えて登場する老齢の男女。身なりはそれなりだが持ち歩くものはホームレスのそれ。舞台中央には電柱、その脇に大きなポリバケツ、それのみ。ポリバケツをずらしてその場所に座って休もうとした老女は、場所をずらした事をポリバケツが「嫌がっている」とふと感じて会話を始める。そこへ男が登場し「こんなやつに気を使うことはない。何なら蹴飛ばしてやる」と息巻き、人間の方が如何にえらいか、を言う。・・今思い返せば、ごみを漁る行為がすでに習慣化している女は女ゆえの飾らなさで、対等にポリバケツと話し、拾い物をする事も隠さない、これは自然な流れとしてあり(登場も上手から)、対する男(下手から登場)の方は実情自分がポリバケツと同等かも知れないと「恐れる」ゆえに、反発した(作者はそのように書いた)、と解釈できる。持たざる者同士という設定、それまずどうにかしようよ、という所で微妙な男女差を描くなんざ別役ならではだ。
さてそうして二人は休憩に入り、湯のみや急須のそれぞれ足りない部品を出し合ったり、女が「拾ったイカの塩辛」をお茶受けに出したが乾燥していて「まるでスルメだ」と男がこぼす、といった和やかなやり取りが続く。
別役流の会話の飛躍は、二人が会話を始めてさほど間もない頃、男女の接近のニュアンスが漂うや唐突を物とせず「結婚して下さい」とプロポーズするあたり。男性の目には欲求に素直でむしろ判り易いが、社会性逸脱の言動が、女にどう受け止められたかに注意が向く。女は、「驚いた」と口では言っても体は拒絶しておらず、言葉でこの緊張を解きほぐして差し上げる。そんな奇妙な空気の中から、実はこのような事が過去何度か繰り返されたらしい事も仄めかされる。・・その終盤あたりで不覚にもうとうとし、程なく終演。従って勝手なことは書けないが、恐らく、二人が知人なのか夫婦なのか全くの初対面なのかは明らかにされず、という事はつまりそのどちらかはさして重要でない、との示唆がもたげており、二人にとって何らかの関係の成就が遂げられるために必要な条件とは何か、世間の約束事や常識によらない二人だけの間に成立すべきものとは何か・・そんな問いを含む台詞がそのかんあったに違いなく、最後に男は遠くへ(まるで青年の如く)「愛している」と叫ぶ。
1997年頃と言えば不況の影響で駅や公園にダンボールハウス、野宿者の姿が見え始めた頃。別役氏はこれに着目し、果たして「ホームレス=人並の人生を歩めなくなった人達」、というステロタイプに疑いを入れ、人が繋がる事の本質を半ばユートピア的に描き出した、と言えるのだろうか・・。
会場には高年齢層が多かったが、終演後涙を拭うしぐさが客席に散見された。
またも「感動する別役」・・色んな見方そして作り方があろうが、私の「正解」別役舞台の持論(別役戯曲は毒を味わい笑い飛ばすもの)は、まだ捨てずにおこう。

ネタバレBOX

出演した二人の演技。あまりに自然に別役台詞をこなし、見事だった。男っぷりと、女振りも滲み出している(八十超えにはとても見えない)。
ただ、年齢の存在感は役のイメージを固め、その分「敢えてする」演劇行為の批評性が減退しているのは否めない。つまりリアルな身体を晒し、「感動する別役」路線に向かうしかない(この点は『鼻』も似ている)。
ドッグマンノーライフ

ドッグマンノーライフ

オフィスマウンテン

STスポット(神奈川県)

2018/01/17 (水) ~ 2018/01/21 (日)公演終了

満足度★★★★

STスポットも地元の範疇。

ネタバレBOX

考察に値するかしないか、迷うパフォーマンス。そこからかい・・と言われそうだが、実際そうだ。まんず初期チェルフィッチュ(映像での『三月の5日間』しか見てないが)が、間違いなく母体である所のパフォーマンスが開演と同時に始まっている。ただしかの舞台のように饒舌ではない。作家が第一に言葉に託す(書く)行為を完結させる必要は、パフォーマーである山縣氏にはないと理解。言葉を重視しないのでなく、むしろ少ない発語に凝縮されるが、それが独特だ。正直「粋な省略」台詞と、「駄洒落」以上でない呟きと、玉石混交の印象である。
そう見える原因を同時進行で探るに、一言で言えばパフォーマー個々の力量と、方向性?のばらつき、ではないかと思える瞬間が。。
山縣氏の描く「劇」は自立したテキストを要せず、俳優のパフォーマンスと補完し合って仕上がる「表れ」、従ってパフォーマンスがどこを目指して為されているのか、が見えてこなければならないが、理解が及ばず。役者一人一人はどのようにしてそこに「立っている」のか・・?という事な訳だが、一旦保留しても考えは進められそうなのでそうしてみる。
『三月の5日間』は多様な魅力を持っていて、台詞(発語)と身体動作の関係の異化、語りの対象の曖昧さ、それらにもかかわらず何かを伝えるパフォーマンスが成立しているという衝撃があれにはあった。その場に山縣氏や、「ドッグマン」初演に出演した松村翔子女史も居合せた訳だが、特に発語と身体動作の関係に山縣氏は「目指すに値する」境地を見出した、と推測でき、今回見てその印象は確かになった。それだけに、予想をもう一段上回る何かを期待したというのもある。
「喋り」の口跡がいまいち、という場面(人)が一度(一人)ならずあったのが結構大きい。声は心情を表わすが、それに代わる意思が前面に来る場合もある。口跡の問題は、発語がそのどちらにも属さず空に漂ってしまったような印象を与えた。
山縣氏が有する声だからこそ「是」とされるパフォーマンスが、未熟な身体では表現として自立する域に到達するのは至難ではないか。
登場している間、絶えず意識とは乖離した生物体のように動き・居続ける俳優の「身体部門」での頑張りも良いが、未熟を露呈してしまう滑舌をもっと鍛えるべきでないか・・そんな事を思ってしまうのだった。
松村女史の「三月・・」でのパフォーマンスはある種天性の勘の良さで成立・自立したもののように見える。他の俳優らも粒ぞろいに見えたが、それは役者の力量でなく方法論、アプローチの為せるものである、という風に(とりあえずは)考えていた。だがそのお陰では、必ずしも無かった、という予感がよぎる。これは山縣氏の試みの全否定になるだろうか・・?
高度な遊びを「遊び切った」と見えないのは、テキスト・構成の問題か、役者の力量の問題かのどちらかだ。
何度も恐縮、「三月の5日間」に登場していた若者たちそれぞれの身体性、個性は強く、ニュアンスを湛えていたが、それは「喋る」行為を主とし、身体が従であったからこそ身体が異化として機能したと考えられる。今回はその逆、即ち身体動作が主で、(極めて少ない)「喋り」が従とならざるを得ないとき、身体がより雄弁である事を求められ、「喋り」は凝縮された何かを露呈する瞬間でありたい。果たしてどうだったか。喋り続ける脳の価値を肉体がせり上げる、でなく、動き続ける肉体の価値を喋り=脳が価値付ける、という関係が、今回の作品のフォーマットで、中々難しい課題だったのだろう。また、一つの有機体でもあるこの出し物を相互に高めあえる出演者の「棲み分け」が成功していたかどうか・・初演が気になる。
黒蜥蜴

黒蜥蜴

梅田芸術劇場

日生劇場(東京都)

2018/01/09 (火) ~ 2018/01/28 (日)公演終了

満足度★★★★

「黒蜥蜴」は最近も三輪明宏版、花組芝居版と人気演目だが、SPACの舞台に心酔した者としては、三島由紀夫脚色「黒蜥蜴」だからこそ、敷居の高い劇場へと足を運んだ由。江戸川乱歩の原作も面白かったが、三島戯曲では追跡劇の躍動感を残しながら人物像の掘り下げが正面からなされていて、人間ドラマの骨格がある。デイヴィッド・ルヴォーの演出も初めての事で一目見ておきたく観劇。
日生劇場も初である。昨年の初クリエに続き、主婦層占有エリア(偏見?)におずおずと立ち入れば、主婦率は高いものの客層は多様であった。
先日の「近松」同様、二幕以降のめり込む。喧騒から束の間離れた時間、じっくりと交わされる会話というのは固唾を呑むサスペンスだ。
さて休憩時にパンフで役者を確認、主役は中谷美紀、そうだった(チラシに写真載ってたじゃん)。二階席からは顔の判別できず、声でも判定できずで。・・この「大」女優の舞台での力量は未知だったが、カーテンコールで一回り大きな拍手を受けるのが当然と思える緩急自在な立ち回り、屈折愛の表現など、遠目に見た評価だが出色、引き込むものがあった。対する明智小五郎(井上芳雄)は、特に声が、役柄に比してかなり若くみえた。
注目点は中谷の演技と、演出(デヴィッド・ルヴォー)、と普通なコメントでつまらないが仕方ない。ルヴォー初心者、中谷初お目見え、両者ともその芸の浸透力(普遍性)を感じさせた。そして、「黒蜥蜴」はやっぱしいい。

ネタバレBOX

ラスト、明智は依頼者である社長に高価な宝石と彼の娘を引き渡した後、今自死を遂げた黒蜥蜴をかき抱きながら、社長の扱う商品=宝石の価値をこき下ろし、世界の全ては色あせて見えると嘆く。「なぜなら、本当に美しい宝石はもう死んでしまったのだから・・。」
三島の追い求めた「美」が視覚的なそれ、また芸術のそれにとどまらず「生き方」に見出されている事、そしてそれがある種説得力を持ちえている事に、是非の議論はともかく、言いようのない危険な魅力を感じる。
そう考えると、大きな舞台で実力派とは言え「大型女優」を使い高名な演出家によって、「美」が作られてしまうと、変な言い方だが戯曲との緊張関係は意味論的には減退する。SPACでの「黒蜥蜴」は世間一般には無名の役者によって演じられ、作品の普遍的魅力が示された。SPAC版は硬質な作りで、彼らの生きる場を象徴するような、一面の黒は、忘れがたい。
ルヴォーの演出には息を飲む場面も幾つもあったが、この演出家が向かっている目的地は何なのだろう・・そこに関心が向く。三島作品は初めてでなく、古典名作を多く演出している事から、「新たな切り口」をもって挑もうとする演出家魂の持ち主のようだ・・と推測し、考察はまたの機会に。
郷愁の丘ロマントピア

郷愁の丘ロマントピア

ホエイ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/01/11 (木) ~ 2018/01/21 (日)公演終了

満足度★★★★

ホエイは舞台に金をかけず、戯曲で勝負、役者は体で勝負。「珈琲法要」「麦とくしゃみ」に続き北海道三部作を完結させる今作は、時代を戦後、題材を炭坑町・夕張にとったお話。
台詞を聞いていると詳細なデータが踏まえられ、事実としては深刻だが、芝居はトボけている。
三部作の一作目が江戸後期に津軽藩から送られた開拓使の話だった事を思い出し、今更ながら北海道の歴史(有史)はごく短いという事実に思い当たる。(アイヌ民族は文字を持たなかった)
看過されがちなこの彼我の違い(沖縄の歴史意識も然り)を、作者山田氏はディテイル描写によって巧妙に際立たせる。
「珈琲法要」では病気になっていく過程を細かく幾段階かに分けて描写していた。ドラマ性を演出するならそこは見せなくて良く、想像させて共感を掴むのが得策なのに、それをやらない。
今作では、SEを一つも使わなかった。風や、水辺のさざ波や、木々のこすれる音など、背景に流れるだけでも情感が漂い、「郷愁」を揺さぶるだろうに・・。
この潔い(?)勝負の仕方は、演劇を「心地よさ」に浸る場所としない、こだわり故だろうか?
妙に味わいある芝居なのには、違いない。

ハマの弥太っぺ

ハマの弥太っぺ

theater 045 syndicate

横浜ベイサイドスタジオ(神奈川県)

2018/01/12 (金) ~ 2018/01/15 (月)公演終了

満足度★★★★★

初見かつ来歴も全く知らない(名からすると地元横浜の)ユニットに佃典彦が書き下ろした作品という。京急神奈川新町駅近くの古い鉄筋ビル2階のスタジオで上演。30分以内で行ける劇場はそうなく、どうしたって同郷感覚が芽生える。加えて上出来の舞台であれば尚の事。観たのは千秋楽で人に紹介しても観てもらえないのが悔しい。
アウトローたちの飛ばす啖呵の応酬がおいしいハードボイルドな世界、そこに女あり、人生哲学あり。尋常ならざる「弥太っぺ」という傑物を演ずるに不足ない俳優を得、またそれぞれに不足ない脇役を得て、「乱暴」スレスレの照明、美術ともみくちゃに摩擦熱を上げながら、鎮火されず最後まで走り切った。佃氏らしい?ハチャメチャな局面もきっちり物語に回収される堅固な戯曲は見事で、男の芝居である。めっけもの。

秘密の花園

秘密の花園

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/01/13 (土) ~ 2018/02/04 (日)公演終了

満足度★★★★

テントでも狭い小屋でもなく芸劇で唐十郎をやる。蜷川はコクーンでやったし駅前劇場で所狭しとやった木野花演出のもあった。小屋っぽい場所でやるのは正統、大劇場でたっぷりやるのも趣向、だが芸劇イーストでどうやって・・
作品は82年本多劇場杮落としで初演、少し前の唐組テント上演がバッタ本の中でキラッと光った印象だったが、既成の枠に囚われない福原演出は、適役寺島しのぶを謎の女に配して、恐らく最大限頑張っていた。こうして見ると難しい芝居の世界だと思う。演出も演技も、唐十郎本人、あるいは唐の脳味噌を感覚的に飲み込んだ身体なら自然とやるのだろうそれを、折り目正しい現代俳優に精一杯寄り添わせ、再構成した手触り。忙しなくモード変転する台詞(照明変化と共に)、姿形が似る二人の女の彼女はどちらなのか次第に不分明になっていく過程、そこに絡む奇妙な人たちの奇行・・難物に挑み、現代的な処理もされ笑いを取っていた。

ネタバレBOX

よくやった、と思うが、ここまでやれば最後は屋台崩し(正面にある部屋の壁が取り払われる)を期待してしまう。音量等の最大値を、このラストに持って来るのが正統であったが、今回はラストを哀感漂う情景で閉じくくった。苦肉の策とも言えようが、その構成も、形としても、もう一段上がほしかった。
近松心中物語

近松心中物語

シス・カンパニー

新国立劇場 中劇場(東京都)

2018/01/10 (水) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

満足度★★★★

劇団☆新感線を自ら観ることはないと思っていたが、かの秋元松代の戯曲をいのうえひでのりが演出というので物見高く観劇と決めた。
「伝説」のように言われる蜷川幸雄演出舞台を私は知らないが、壮観な装置と流れるような転換(それも場面の一つであるかのよう)は蜷川「身毒丸」を彷彿とさせる。
が、新国立中劇場を使いこなす松井るみの美術(蜷川演出では朝倉摂)と演出いのうえのタッグの成果も認められた。
美しい「形」や「様式」には、それが形や様式に過ぎないと分かっても浸ってみたくなるものがある。休憩を挟んだ後半、心中の道行きを辿ることになる二組の男女の一対一の会話や、逼迫した状況を演出する追っ手の登場などでズームが人物に寄り、舞台が立体に見えてくる。
前半には「買う」道楽と無縁の忠兵衛が女郎・梅川と遭遇し、互いに一目ぼれしあう場面があったはずだが見逃している。もう一組の男女、与兵衛とおカメ(だったか)を知らず、与兵衛と忠兵衛を同一視したりで筋が飲み込めず前半を終えたが、後半で理解できた。
新国立中劇場は2年以上ご無沙汰、にもかかわらず床の黒や奥行きの特徴に「ああ」と懐かしさがよぎった。
空間を存分に生かした美術は、とりわけ終盤、目に飛び込む刺激だけでご飯が進むが如し。もとい、芝居が極上の料理の如くになり。
「心中」が日本人の深層に訴えるものでありエンタテインメントたり得ることを再認識。「心中」を鏡にして浮かぶ江戸の庶民の姿(悲哀を帯びながらも現世の春をしたたかに謳歌する)こそが、物語の主役として浮上する、という構図が今回の演出にもあり、これを見事に図案化してみせた確かな仕事があった。

ネタバレBOX

舞台づくりの優先順位を意識しながら見ていると、中劇場の宿命=声の届かなさは、この舞台では仕込みマイクを通すことによる音質の違和感として表れた。台詞が聞き取れる事を優先した訳である。心情の「演技」よりはテンポや動きのメリハリが優先。心情の連続性や場の(心情面の)連続性よりは人の滑らかな移動や華麗な動きや展開(見た目の美観)を優先。
前半の「分からなさ」は、(私の感覚では)心情表出の精度に拠った気がしている。また序盤での与兵衛と忠兵衛のキャラ分けは欲しかった。平場での(日常ベースの)やり取りではリアルな演技が物を言う。もっともまだ水面下で台詞に四苦八苦する役者・場面がしばしばみられ、大変だなと思う。
演技としては、堤真一は主役4名の中でも主役である者だが、ナイーブさがもう一つ出せていない。声量を意識し、声を張ると繊細な演技ができず台詞の後半で感情面の帳尻を合わせる「探り」の発語が見られた。百戦錬磨の池田成志が緩急自在なのと印象が好対照となる。風貌で多くを語らせてきた映像主体の堤氏は、声を張らない演技に徹した方が良かったのでは・・と余計な事を考えたが、いのうえ演出ではそれは無い、のだろう。無いものねだりかも知れないが、どこか一度でも役を自分のものにねじ伏せた、と感じとれる一瞬が欲しかった。
モナカ

モナカ

Co.山田うん

スパイラルホール(東京都)

2018/01/05 (金) ~ 2018/01/08 (月)公演終了

満足度★★★★★

久々にダンス公演に興奮した。言葉のない舞踊は、補完要素としての「音楽」と密接に関係し、影響される(同じ事をいつだったか書いたが)。
エッジの効いた「音」に拮抗せんと身体まるごと総動員で挑みかかる姿は、スポーツに似て理屈抜きに観る者を揺さぶる。別役実曰く、観客が演じ手の身体の動き(静止していても呼吸し生存する意味でその時間のあいだ演者は「動いている」。)に引き込まれ、観客の身体が演者のそれに(今で言う所の)同期する事を(「共感」ではなく)「共振」「共鳴」と言う。今回、ほとんどがアンサンブルであり群舞であったが、時折ソロ・パートがあり、その時かの「共振」状態にふと陥る。目の前の体の動きに見入り、共時体験しようとしてふとそうなるのだが、あまりに高度で華麗な動きは観る者の「予測」を超えて行き、共振作用があるトランス状態をもたらす。
プロローグとエピローグに挟まれた三部という全体の構成で、始まりはスピーディな群舞、様々な色彩の舞いが展開し、最後には冒頭に似たスピーディな音楽に戻り、「汗」をかき切って終演となる。
ローザス「ドラミング」を思い出させる群舞は、交錯する基本スキップか走りの移動。グループが作られたり、離合集散し、異なる振りのパーツが同時進行で進み、滞留時間が微妙にずれたり、「決して繰り返さないが何らかの規則がありそうに見える」分子運動状の動きが延々と続いて、浜辺の波のように単調だが見飽きない。
これらの動きは何を表すのか・・というより、私は何を感じたのか、だが、意識下で感知する何かを今は言葉にできない。
強烈なイメージは終盤に凝縮されている。
超絶なソロ・ダンスを見せる女性はカンパニーの中心ダンサーだろうか、筋肉の摩擦による熱で狂乱の度が増し、先程から音楽が空気の分子運動も活発化させていて、にも関わらず、大詰めの光景・・腰で体を支える倒れた人間が何体も転がり、倒れた者の片手を握って引っぱろうとする者が次々と付いて生まれたコンビは、「最大限動いている」様相をみせているのに速度は限りなくゼロに近いという異様な現象から、破滅的に重くなった人体が今出現したかのような錯覚に陥る・・・そんな(風にみえる)現象の視覚的イメージはただもう強烈だ。何だこれは一体・・?
この終局に至って山田うんの舞踊の言語の多様さはローザス(「ドラミング」の)と比べるべきものでなかった。「言語」の解読はできないが・・
開演当初は踊り手個々の動作に目が行ったが、最後は演出(作り手)の頭の中を覗き見るようだった。

ハイサイせば

ハイサイせば

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/01/06 (土) ~ 2018/01/08 (月)公演終了

満足度★★★★★

アゴラ劇場は満席。沖縄の団体とのコラボは要注目、というのも、畑澤聖悟氏は一貫して地元青森にこだわり、作品を生み続けてきた。そこへ「沖縄」である。気にならない方が不思議である。
しかし、沖縄と青森の(特に方言が中心の)あるある話をこんな形で紹介されるとは・・。ネタ一つ一つ思い出すと、まだニヤけてしまう。だが・・
二地域のリアル現地人がいる実在感は、(物語の舞台である)戦争末期の現実と2018年の今の現実を、(役者自身が意図するまでもなく)裏打ちする。
裏切りと分断を強いる力にもかかわらず、目を見合ってしっかり出会おうとする、その意思を伝えようとする青森のおばちゃんと、どうにかこうにかそれに応じた(同郷の沖縄人を)裏切った者。それまでの時間が「現実」に属する時間だとすれば(それがためにコミカルに描いてもいる)、そこから先のおばちゃんの行動は「現実」の彼岸を見ようとする祈りになる。「民」同士が、お上の目の届く場所で許される形ではなく、損得でもなく、出会い直そうとするのがその場面だ。
方言作戦の奇妙な予行練習から、作戦「遂行」(英国大使館に電話する)の緊迫の時間を経て、そこから解かれた和やかな時間、おばちゃんに伝言を頼んできた沖縄の男を実は炙り出すための作戦であった事が明らかになる。絵に描いたようなノンポリ差別主義の相撲取り(青森人)が、戻って来た軍人に「何か頼んでましたよ」とチクる。途端に場の空気が凍りつき、おばちゃんが苦しいながらに嘘の証言をすると、もう一人の沖縄の男がそばで聞いたままを報告し、相手を売ったのだ。
「沖縄に返してくれるんですよね」と軍人に言い、「(捕えた男の)命は取らない約束でしたね」とも言うが、虚しく響く。
他の者が去った後である。それに続いて去ろうとする男におばちゃんがこう尋ねる。「なんであんな事言ったの」、責める口調でなく、真っ白な疑問を投げることが最大の責め苦となる。別の言い方をすると、「あなたはそんな人じゃないのに」が枕にある。三上晴佳のおばちゃん力の本領だ。・・心が崩れていく男に、「手紙を送ります」と言うおばちゃん。浦添に戻ってもどこに住む事になるか・・、「浦添の比嘉さん宛に送ります」、とおばちゃん。住民の4割が比嘉です、と男。「浦添の比嘉さん全員に手紙を送ります」、とおばちゃん。両頬を涙で濡らして頷く男。
「戦争」の国民的記憶と言えるものがあり、しかし「戦争」は異なる様相を持ち得る21世紀の今、古い印象を与えかねない。渡辺源四郎商店はそこをうまく扱っている。

高校演劇サミット2017

高校演劇サミット2017

高校演劇サミット

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/12/28 (木) ~ 2017/12/30 (土)公演終了

満足度★★★★

いわき総合、新座柳瀬の二校を観劇。全国上位を集めた訳ではないが、高校演劇侮る勿れ、と実感(先日見た畑澤聖悟の顔が・・) 被災地福島いわきからは、被災の事実がどういう「過去」となっているか、非常に興味深いものがあった。十代の彼らは震災時小学校の中高学年。「今」、テレビ報道が関東のそれと同じ内容なら、震災は遠い過去。そういう空気がまずある。その空気感を敢えて表現する場面が劇中にもある。だがそれは世間の「空気」を読んでのことなのか、実際かの地でもそうなのか・・。溌剌としてエネルギッシュな総勢20数名の彼らの顔には影一つ見えなかった。そしてまた思う。元気すぎないか・・。
好対照の新座柳瀬は8名の男女によるフランス軽演劇風の喜劇。どう見ても原作ありに見えたが、上演台本は(恐らく)顧問の名と、オリジナルの題名のみ書かれていて、「ありそう」とは言え新作なら見事な構成。生徒たちも喜劇的な跳躍を演技に見せていて、会場は(ややフライング気味だったが)笑いが絶えなかった。最後に並んだ当人たちの顔には、やや戸惑いが。
最後の駒場も見て、ホクホクの一日と行きたかったが、十分嬉しい休日になった。

扉のむこうのコト

扉のむこうのコト

東京エスカルゴ。

シアター711(東京都)

2017/12/20 (水) ~ 2017/12/26 (火)公演終了

満足度★★★★

以前一度くらい名を聞いた程度で、異例の初観劇。独自色がありそうで身構えてると、意外に普通、というか真っ当に稽古して頑張って芝居やってる感のある、それもコメディ。劇団俳優は三名も?居て、ナグリ持って建て込みもやってそうな。
ただし劇団的な一体感はさほどなく、プロデュース公演(仲良し系?)の乗り。特徴と言えばオーバーアクション気味な演技を繰り出す劇団役者、「それほどイケてないけど本人ヤリたがってるんだから」と周囲を看過させるキャラを持ち、映像畑でも拾ってもらえそう、的なあたり。役者顔見世興行とは言わないが、確信犯的ご都合主義なコメディ。
・・要はよくある若者のドタバタ芝居のカテゴリーで、吐かれる台詞の中身は殆どなし(作者自身も切に訴えたい言葉は殆どないだろう。目的は役者を輝かせる事なのだから)、だが演劇公演の舞台裏の話でもあり、リアルな感覚はベースにあり、それが細部で説得力を発揮している。主役のベテラン女優のデフォルメされた「大物」ぶりも、(通常ならあり得ない)失敗続きの舞台を一人背負って「行くわよ!」とマネージャーに言い置いて舞台へと去る「感動」の後姿の演出も、笑ってしまう代物だが、一本辛うじて線が残っているのは、役者たちの本気度。とりわけ、真面目な役だがズッコケを「やらされてる」感を残しつつラストまで持ち越せた女優二名が、恐らくは芝居の「感動」部門の下支えになっており、男優はその上で優雅に遊んでいる(それはそれで重要な役割だが)という構図ではなかったろうか。
記憶は朧ろだが「独自色」は、あった。処置に困る奇妙な「間」。笑いへのチャレンジングな姿勢はウェルカム、願わくはウェルメイドでない破壊的な笑いを。

「標〜shirube〜」

「標〜shirube〜」

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2017/12/12 (火) ~ 2017/12/25 (月)公演終了

満足度★★★★★

楽日前のステージを観劇。公演期間終盤に足を運んだのは初桟敷の「海獣」以来だろうか。開演前から役者(会場案内に出張る)の熱が伝わってくる。それは芝居の中で情念の渦となり回転する独楽のようにぶつかって火花を散らしていた。
「体夢」以降、私は桟敷童子の「模索」の時と(勝手に)認識しているが、「蝉の詩」そして今作と、何にも囚われない桟敷童子らしさが追求され磨かれた舞台が現前したように思った。
お話は戦争末期、不遇の女たち(夫を戦争にとられた)七人が海に近い場所に集落を作り、幸福(夫)を海の向こうから呼び起こすための儀式を行うべく、古文書にある通り「人柱」となる者を探している所、自殺の名所でもあるその場所を脱走兵3人が訪れ、行き場を失って死のうとするがそこに立てられた看板の奇妙な文字「条件により相談にのります」に疑問が湧き、そうする内に七人衆に取り囲まれ、彼女らの不幸な身の上を聞いて「一度死のうとした身」、儀式に必要な生け贄となる事を約する(一人は消極的)。このあたりの展開、「自死」する羽目になった自らの境遇とまだ若くエネルギッシュな様子とのギャップも手伝い、笑える場面にもなっているが、その後、彼女らを良く思わない村人たち、また(海に落ちたのを見棄たので死んだと思っていた)彼らの上官、七人衆それぞれの事情も絡んで螺旋状にドラマが展開し、思いもつかない進み方をする。通常ドラマの葛藤は対立する二つの要素の相克に収斂されるところ、今作では登場人物が新たな要素を持ち込み、焦点そのものが遷移して行く。
役者としては、今回は客演に朴ろ美(漢字がない)と円の男優、朴は元娼婦の女リーダー役を(鬼龍院花子の夏目雅子ばりに)気を張って演じていたが「力み」を周到に桟敷女優らが中和、最後にはその力みも違和感なく人物らしく見え、総じた所の劇団の俳優の底力と、書き手の更なる成熟をみてホクホクと帰路についた。

君のそれはなんだ

君のそれはなんだ

オイスターズ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/12/22 (金) ~ 2017/12/24 (日)公演終了

満足度★★★★

年末の忙しない頭で臨んだ毎度オイスターズの妙ょー芝居、少々追いつけず途中睡魔に。
夜のタクシー営業、人通り少ない山あいの道に大きなカバンを片手に提げた女性、次に現れたのがやはりカバンを提げた男性、それから・・。我らが運転手は彼らが怪しいとギャァギャァ騒いでいる、その奇妙。人物らの会話の奇妙。
そして最後の登場人物が「この事態」の謎解きを担い、タクシー運転手(別の)として介入。冒頭からの設問であった「果たして彼らは幽霊か」(もしや騒いでる男本人が幽霊か)の答えが予期しない姿で解明され、信じてもらえなかった不本意が劇として溜飲を下げる「形」は、笑えもし、哀感も滲ませる。
不条理なのに「イイ話っぽさ」が匂う平塚戯曲のこれは成功例ではないか。
余剰を削いで、以前よりシンプルになったテキスト(と感じさせる演技?)も良い余韻を残した。

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