密やかな結晶
ホリプロ
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2018/02/02 (金) ~ 2018/02/25 (日)公演終了
満足度★★★★
この所鄭義信の舞台を立て続けに観ている。在日・朝鮮モノから離れた今度の作品は、私の中ではかつての新宿梁山泊の記憶をくすぐられるものだった。
宣材やタイトルのイメージとは異質なギャグ連発の始まりは、鈴木浩介・石原さとみのキャスティングには適合し、鄭演出の本領がのっけから暴走。シリアス、ナチュラルなモードから異質(笑い)モードへの転換の瞬間は実に判りやすく、コメディエンヌ石原に合わせた演出と得心する。
寓話的で示唆的な原作者小川洋子の筆致が想像される舞台だったが、ラストは原作通りかどうかは判らない。
音楽は芝居全編を、主に「暗鬱な社会」と「その片隅で慎ましく生きる人々」の二つのモチーフで包み、悲話の色調に仕立てている。その色調と適度の笑いのバランスは結果的にとても良く取れていた。
回転式(可動式)美術を筆頭にスタッフワークは美しく、作品世界を十全に表現した一方、キャスト(の演技)の評価は分かれるかも知れない。
いずれにしても初日、思わぬハプニングもあったが、終わってみれば鄭義信らしい愛の物語だった。
ハプニング分を差し引き、今後の伸びしろも計算に入れると、結構質の高い舞台になるかもである。
Do Munch
みどり人
新宿眼科画廊(東京都)
2018/01/26 (金) ~ 2018/01/30 (火)公演終了
満足度★★★★
前公演あたりから気になり、初観劇。面白い理由を考えた。俳優がきちんとしている(見てくれも良く演技もしっかり)。何も無い舞台のすっきりした清潔感。水道をひねるマイムで「じゃ~」と言う(潔い)。ムンクのドラマ上の正体が最後に明らかになる(タイトルにもあるのに意識させず、最後に存在感)。色合いの異なる場面の転換で緩急。現代の庶民生活のあるある会話やエピソード。意外と深い一言が幾つか。
あるシーンの最後と別のシーンの最初が無音で繋がり、時には重なり、完全に二場面同時進行もある。その形式=芝居上の約束事が、やる側の潔さなのか、全く苦にならず、省エネでもあるが不思議とけち臭くならない。
謎解きを終えた後の展開は現実シーンは大団円、それに続く回想(抽象)シーンでは、物語の背後に流れる物語、テーマが示され、作者の意図の全的開陳となる。
横に広くステージを取り、相対する壁に言わば張り付けたような客席だったが、シーン転換の多い演出ではその形が相応しく感じられた。
殆ど地味な日常シーンの寄せ集めが、中華鍋でサッと火をとおせば鮮やかに発色。程よく予測を裏切られる気持ちよさに書き手の手練を思う。佳作。
第3回 神奈川かもめ短編演劇祭
神奈川かもめ短編演劇祭実行委員会
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2018/01/25 (木) ~ 2018/01/28 (日)公演終了
審査会もみた。
一点、前投稿に訂正。「アンケート用紙が無かった」は誤り、チラシの間に挟まっていた(陳謝)。
前稿で「地元意識」を毒づいたが、今回は神奈川からの選抜が2団体、実行委で司会もやるtheater045syndicateの中山氏による一人芝居と、昨年の勝者・チリアクターズ。結果は、前者が観客票を集めたものの戯曲選抜チーム(平泳ぎ本店)に一歩及ばず次点、後者は不評でタイトル戦に食い込めなかった。
従って「yeah!」は起こらなかったが、それよりも空席の多さだ。後部3列ガラ空きは見た目も淋しく、途中駆けつけた黒岩知事とそのお付き数名が通路近くに陣取るのに利しただけで。。上演の回は私の観た回は盛況だったが、審査会こそ面白いし盛り上がりたい。
さて審査会。今年は5名の審査員の顔ぶれも充実、初の中屋敷氏と松本祐子氏が入ってぐっと締まった。そしてお馴染みの成井豊氏、伴一彦氏、ラサール石井氏と、意見は多様ながら的確コメントで参加団体も頷いた事だろう。
問題の得点システムについて、ここでも訂正一点。観客票が4団体の内<2>団体に投票するルールが「今回新たに」と前稿で書いたが、第2回もこのルールで、1団体のみ選ぶのは第1回のみだった。
計算法も従来通りだが、今回は審査員が各人とも得点配分が20~30点とヒト桁という具合に、メリハリがついていた。恐らくそのような話が審査員内部であったか、主催側が内規的な取り決めをしたのだろう。
にも関わらず・・審査員の間で1位だった(確かそうだったと思う)中国代表亀ニ藤が、総合点で次点に泣いた。観客票合計600点、審査員票は今回5名なので計500点。
つまり、観客賞を取ったら、半ば自動的に「かもめ賞」(最優秀賞)も取ってしまう結果に終ったという訳だ。審査員票が全く無意味という訳ではないが、観客票1位と審査員票1位が別団体になった場合、換算法の決め方次第でどちらかに決まってしまう、というシステムの問題がどうしても浮かび上がってしまう。
引き続き、改善を望む。
第3回 神奈川かもめ短編演劇祭
神奈川かもめ短編演劇祭実行委員会
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2018/01/25 (木) ~ 2018/01/28 (日)公演終了
満足度★★★★
Aのみ鑑賞。
シャカ力(りき)は四国から3回連続出場だが第一回のインパクトから昨年落ちた(レベル的に)所を見事這い上がった。最後の味加減を見る(出演を兼ねた彼でない)演出が欲しい。
中国代表も複数劇団による座組だが構成がシンプルで、笑いとシリアスの共存する風味が冒頭から出来上がっていてオチもOK。好きな世界。
三つ目が戯曲選抜組だったが何故か睡魔が襲い、複数エリアの「関係」を序盤で見失ったら後は霧の中、出来はよさそうだったが外さざるを得ず。
神奈川選抜は最後にほのぼの良い気分な処理は相変わらずという感じ。小田原の劇団だが、私の中にある「神奈川な感じ」というのが実は苦手(説明は省く)。だが面白く作られてはいた。
という事で票は四国代表、中国代表の二つ。
美しきものの伝説
文学座附属演劇研究所
文学座アトリエ(東京都)
2018/01/26 (金) ~ 2018/01/28 (日)公演終了
満足度★★★★
俳優の卵の発表だが文学座のそれは、役との年齢差を見事にこえ、発語のニュアンスの精度は一つ上を行っている。Bを観劇したが、見応えあり。
宮本研作品は二度目か。大正期の傑人たちの私的世界にフォーカスした群像劇で、主な語り手に堺利彦、中心に大杉栄と野枝、その周りに島村抱月と松井須磨子、作曲家中山晋平、荒畑寒村、その他の人々。時代は東京大震災に先立つベルエポックの時代。
1968年文学座初演(書下ろし)。
最後に流れる歌が良い。素朴な旋律、深い(転調のある)コード進行は林光との事。古きよき日の映画や演劇を林光の音楽は彷彿とさせる。
プルートゥ PLUTO
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2018/01/06 (土) ~ 2018/01/28 (日)公演終了
満足度★★★★★
グレードアップした再演との事だが、著名な振付師が演劇舞台に舞踊を織り込んだ・・というレベルではなかった。シディ・ラルビ・シェルカウイという才能がなければ、他のアプローチで同じ山には登れないだろう。
初演も原作コミックも未見だが、原作の成り立ちからして重層的な芝居の予感、関心大いに沸いて観劇した。お薦めしたいが残念ながら日本上演は28日が最後(来月より海外)。
要所で映像が用いられ、特に序盤では原作コミックの場面が映し出されて劇世界を原作に寄せて「説明」すると同時に、漫画というジャンルへのオマージュを表現する。美術では漫画のコマを模した図形(四角形)のピースを変幻自在に用い、巨大なコマ形をバトンで上げ下ろし、映写幕にしたり背後の場面の枠としたり、象徴的な表現に終始するかと思えば作りこんだバザールや店内の鮮やかな具象が出現したり。
また「芝居」の領域に積極的に絡む凄腕のダンサーたちのアンサンブル、ソロは「芝居」全体を一つの生き物とする神経系統や循環器など生命機構の一部として躍動し、「人物」を体現する俳優の世界と同居していた。
その他ロボットの模型などの小道具、衣裳、ロボット役(或いは人工部分を身体に持つ役)の演技の端々まで、SF世界の風景の構築に動員され、大胆で緻密。
ダンスで印象的な箇所、役者も含めて群舞となる場面があるが、暗色基調の衣裳がそのシーンだけは個性溢れる色彩の衣裳をまとい(パステルでなくコンテのような、地味な差でも豊かな色彩感のある)、高度に発達したロボットが席捲する世界の物語に、新たな変化の予感(希望の予兆?)を表現した。
現実の21世紀に加速した矛盾と重なりあう矛盾(イラク戦争を想起させる)が一人の人間の感情に集約される。即ち復讐のベクトルの存在が、次第に浮かび上がってくる。現代を語るに外せない9・11由来の世界秩序の問題がこのドラマの軸となっている訳だが、(今や日本のどんなドラマ、映画でもお目にかかれない)正当な視点が示される。
その一事、復讐側と秩序側が本来的には対等であること、「怒り」の側を体現する役(吹越満)の演技によって形象された人物は、今や秀逸に感じられる。しかもご都合主義の匂いは周到に排され、架空設定の真性SFなのに、「今」の事のように突き刺さる。
島
東京×こふく劇場
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/01/24 (水) ~ 2018/01/28 (日)公演終了
満足度★★★★
宮崎県立芸術劇場・演劇ディレクターの任を下りて身軽になった?永山智行氏の東京滞在製作舞台。期間は1ヶ月という。俳優は全て東京で調達。青年団との繋がりも濃いらしい永山氏の下に参じたのは、青年団所縁の俳優、その所縁の俳優という具合だが、内輪感なく、内容的には質の高い布陣となった。
劇形式のユニークさは前回の「ただいま」でも物言いの様式にあった記憶が(朧ろに)あるが、今回は会話が無く、二組の夫婦の他方の一人称語り(モノローグ)を代弁する、という形式で発語があり、他は殆ど言葉を発せず能か舞踏のようにゆっくり動く様式の場面で占められる。男女の宿命的関係、倦怠、愛を持ちながらの行き詰まり・・それらの非言語表現が次第に言葉に劣らない雄弁さを持つのに見入っていた。
終盤言葉が多くなり、やや唐突感のある台詞(災害にまつわる比較的具体的描写、政治や世界の事)がどの次元の言葉に解すべきか戸惑ったが、大まかなイメージでどうにか受け止める。終始俳優の様子がよく、穏やかな閉じ繰りの後、ゆったりした時間に身を委ねていた。
この道はいつか来た道
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2018/01/16 (火) ~ 2018/01/21 (日)公演終了
満足度★★★★
文学座「有志」!老優金内喜久夫・本山可久子両名と、演出藤原の齢を足すと二百五十歳!(作者別役(80)も足せば三百何十歳!)などと惹句が踊るが、詳細不記載のチラシのみで情報を得るのが遅れ、予定に無かったが、別用ポシャって急遽観劇す。
昨秋の『鼻』に続き、今回の別役も文学座であるが、さて。
97年頃の作という。ダンボール、ゴザをそれぞれ抱えて登場する老齢の男女。身なりはそれなりだが持ち歩くものはホームレスのそれ。舞台中央には電柱、その脇に大きなポリバケツ、それのみ。ポリバケツをずらしてその場所に座って休もうとした老女は、場所をずらした事をポリバケツが「嫌がっている」とふと感じて会話を始める。そこへ男が登場し「こんなやつに気を使うことはない。何なら蹴飛ばしてやる」と息巻き、人間の方が如何にえらいか、を言う。・・今思い返せば、ごみを漁る行為がすでに習慣化している女は女ゆえの飾らなさで、対等にポリバケツと話し、拾い物をする事も隠さない、これは自然な流れとしてあり(登場も上手から)、対する男(下手から登場)の方は実情自分がポリバケツと同等かも知れないと「恐れる」ゆえに、反発した(作者はそのように書いた)、と解釈できる。持たざる者同士という設定、それまずどうにかしようよ、という所で微妙な男女差を描くなんざ別役ならではだ。
さてそうして二人は休憩に入り、湯のみや急須のそれぞれ足りない部品を出し合ったり、女が「拾ったイカの塩辛」をお茶受けに出したが乾燥していて「まるでスルメだ」と男がこぼす、といった和やかなやり取りが続く。
別役流の会話の飛躍は、二人が会話を始めてさほど間もない頃、男女の接近のニュアンスが漂うや唐突を物とせず「結婚して下さい」とプロポーズするあたり。男性の目には欲求に素直でむしろ判り易いが、社会性逸脱の言動が、女にどう受け止められたかに注意が向く。女は、「驚いた」と口では言っても体は拒絶しておらず、言葉でこの緊張を解きほぐして差し上げる。そんな奇妙な空気の中から、実はこのような事が過去何度か繰り返されたらしい事も仄めかされる。・・その終盤あたりで不覚にもうとうとし、程なく終演。従って勝手なことは書けないが、恐らく、二人が知人なのか夫婦なのか全くの初対面なのかは明らかにされず、という事はつまりそのどちらかはさして重要でない、との示唆がもたげており、二人にとって何らかの関係の成就が遂げられるために必要な条件とは何か、世間の約束事や常識によらない二人だけの間に成立すべきものとは何か・・そんな問いを含む台詞がそのかんあったに違いなく、最後に男は遠くへ(まるで青年の如く)「愛している」と叫ぶ。
1997年頃と言えば不況の影響で駅や公園にダンボールハウス、野宿者の姿が見え始めた頃。別役氏はこれに着目し、果たして「ホームレス=人並の人生を歩めなくなった人達」、というステロタイプに疑いを入れ、人が繋がる事の本質を半ばユートピア的に描き出した、と言えるのだろうか・・。
会場には高年齢層が多かったが、終演後涙を拭うしぐさが客席に散見された。
またも「感動する別役」・・色んな見方そして作り方があろうが、私の「正解」別役舞台の持論(別役戯曲は毒を味わい笑い飛ばすもの)は、まだ捨てずにおこう。
ドッグマンノーライフ
オフィスマウンテン
STスポット(神奈川県)
2018/01/17 (水) ~ 2018/01/21 (日)公演終了
黒蜥蜴
梅田芸術劇場
日生劇場(東京都)
2018/01/09 (火) ~ 2018/01/28 (日)公演終了
満足度★★★★
「黒蜥蜴」は最近も三輪明宏版、花組芝居版と人気演目だが、SPACの舞台に心酔した者としては、三島由紀夫脚色「黒蜥蜴」だからこそ、敷居の高い劇場へと足を運んだ由。江戸川乱歩の原作も面白かったが、三島戯曲では追跡劇の躍動感を残しながら人物像の掘り下げが正面からなされていて、人間ドラマの骨格がある。デイヴィッド・ルヴォーの演出も初めての事で一目見ておきたく観劇。
日生劇場も初である。昨年の初クリエに続き、主婦層占有エリア(偏見?)におずおずと立ち入れば、主婦率は高いものの客層は多様であった。
先日の「近松」同様、二幕以降のめり込む。喧騒から束の間離れた時間、じっくりと交わされる会話というのは固唾を呑むサスペンスだ。
さて休憩時にパンフで役者を確認、主役は中谷美紀、そうだった(チラシに写真載ってたじゃん)。二階席からは顔の判別できず、声でも判定できずで。・・この「大」女優の舞台での力量は未知だったが、カーテンコールで一回り大きな拍手を受けるのが当然と思える緩急自在な立ち回り、屈折愛の表現など、遠目に見た評価だが出色、引き込むものがあった。対する明智小五郎(井上芳雄)は、特に声が、役柄に比してかなり若くみえた。
注目点は中谷の演技と、演出(デヴィッド・ルヴォー)、と普通なコメントでつまらないが仕方ない。ルヴォー初心者、中谷初お目見え、両者ともその芸の浸透力(普遍性)を感じさせた。そして、「黒蜥蜴」はやっぱしいい。
郷愁の丘ロマントピア
ホエイ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/01/11 (木) ~ 2018/01/21 (日)公演終了
満足度★★★★
ホエイは舞台に金をかけず、戯曲で勝負、役者は体で勝負。「珈琲法要」「麦とくしゃみ」に続き北海道三部作を完結させる今作は、時代を戦後、題材を炭坑町・夕張にとったお話。
台詞を聞いていると詳細なデータが踏まえられ、事実としては深刻だが、芝居はトボけている。
三部作の一作目が江戸後期に津軽藩から送られた開拓使の話だった事を思い出し、今更ながら北海道の歴史(有史)はごく短いという事実に思い当たる。(アイヌ民族は文字を持たなかった)
看過されがちなこの彼我の違い(沖縄の歴史意識も然り)を、作者山田氏はディテイル描写によって巧妙に際立たせる。
「珈琲法要」では病気になっていく過程を細かく幾段階かに分けて描写していた。ドラマ性を演出するならそこは見せなくて良く、想像させて共感を掴むのが得策なのに、それをやらない。
今作では、SEを一つも使わなかった。風や、水辺のさざ波や、木々のこすれる音など、背景に流れるだけでも情感が漂い、「郷愁」を揺さぶるだろうに・・。
この潔い(?)勝負の仕方は、演劇を「心地よさ」に浸る場所としない、こだわり故だろうか?
妙に味わいある芝居なのには、違いない。
ハマの弥太っぺ
theater 045 syndicate
横浜ベイサイドスタジオ(神奈川県)
2018/01/12 (金) ~ 2018/01/15 (月)公演終了
満足度★★★★★
初見かつ来歴も全く知らない(名からすると地元横浜の)ユニットに佃典彦が書き下ろした作品という。京急神奈川新町駅近くの古い鉄筋ビル2階のスタジオで上演。30分以内で行ける劇場はそうなく、どうしたって同郷感覚が芽生える。加えて上出来の舞台であれば尚の事。観たのは千秋楽で人に紹介しても観てもらえないのが悔しい。
アウトローたちの飛ばす啖呵の応酬がおいしいハードボイルドな世界、そこに女あり、人生哲学あり。尋常ならざる「弥太っぺ」という傑物を演ずるに不足ない俳優を得、またそれぞれに不足ない脇役を得て、「乱暴」スレスレの照明、美術ともみくちゃに摩擦熱を上げながら、鎮火されず最後まで走り切った。佃氏らしい?ハチャメチャな局面もきっちり物語に回収される堅固な戯曲は見事で、男の芝居である。めっけもの。
秘密の花園
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2018/01/13 (土) ~ 2018/02/04 (日)公演終了
満足度★★★★
テントでも狭い小屋でもなく芸劇で唐十郎をやる。蜷川はコクーンでやったし駅前劇場で所狭しとやった木野花演出のもあった。小屋っぽい場所でやるのは正統、大劇場でたっぷりやるのも趣向、だが芸劇イーストでどうやって・・
作品は82年本多劇場杮落としで初演、少し前の唐組テント上演がバッタ本の中でキラッと光った印象だったが、既成の枠に囚われない福原演出は、適役寺島しのぶを謎の女に配して、恐らく最大限頑張っていた。こうして見ると難しい芝居の世界だと思う。演出も演技も、唐十郎本人、あるいは唐の脳味噌を感覚的に飲み込んだ身体なら自然とやるのだろうそれを、折り目正しい現代俳優に精一杯寄り添わせ、再構成した手触り。忙しなくモード変転する台詞(照明変化と共に)、姿形が似る二人の女の彼女はどちらなのか次第に不分明になっていく過程、そこに絡む奇妙な人たちの奇行・・難物に挑み、現代的な処理もされ笑いを取っていた。
近松心中物語
シス・カンパニー
新国立劇場 中劇場(東京都)
2018/01/10 (水) ~ 2018/02/18 (日)公演終了
満足度★★★★
劇団☆新感線を自ら観ることはないと思っていたが、かの秋元松代の戯曲をいのうえひでのりが演出というので物見高く観劇と決めた。
「伝説」のように言われる蜷川幸雄演出舞台を私は知らないが、壮観な装置と流れるような転換(それも場面の一つであるかのよう)は蜷川「身毒丸」を彷彿とさせる。
が、新国立中劇場を使いこなす松井るみの美術(蜷川演出では朝倉摂)と演出いのうえのタッグの成果も認められた。
美しい「形」や「様式」には、それが形や様式に過ぎないと分かっても浸ってみたくなるものがある。休憩を挟んだ後半、心中の道行きを辿ることになる二組の男女の一対一の会話や、逼迫した状況を演出する追っ手の登場などでズームが人物に寄り、舞台が立体に見えてくる。
前半には「買う」道楽と無縁の忠兵衛が女郎・梅川と遭遇し、互いに一目ぼれしあう場面があったはずだが見逃している。もう一組の男女、与兵衛とおカメ(だったか)を知らず、与兵衛と忠兵衛を同一視したりで筋が飲み込めず前半を終えたが、後半で理解できた。
新国立中劇場は2年以上ご無沙汰、にもかかわらず床の黒や奥行きの特徴に「ああ」と懐かしさがよぎった。
空間を存分に生かした美術は、とりわけ終盤、目に飛び込む刺激だけでご飯が進むが如し。もとい、芝居が極上の料理の如くになり。
「心中」が日本人の深層に訴えるものでありエンタテインメントたり得ることを再認識。「心中」を鏡にして浮かぶ江戸の庶民の姿(悲哀を帯びながらも現世の春をしたたかに謳歌する)こそが、物語の主役として浮上する、という構図が今回の演出にもあり、これを見事に図案化してみせた確かな仕事があった。
モナカ
Co.山田うん
スパイラルホール(東京都)
2018/01/05 (金) ~ 2018/01/08 (月)公演終了
満足度★★★★★
久々にダンス公演に興奮した。言葉のない舞踊は、補完要素としての「音楽」と密接に関係し、影響される(同じ事をいつだったか書いたが)。
エッジの効いた「音」に拮抗せんと身体まるごと総動員で挑みかかる姿は、スポーツに似て理屈抜きに観る者を揺さぶる。別役実曰く、観客が演じ手の身体の動き(静止していても呼吸し生存する意味でその時間のあいだ演者は「動いている」。)に引き込まれ、観客の身体が演者のそれに(今で言う所の)同期する事を(「共感」ではなく)「共振」「共鳴」と言う。今回、ほとんどがアンサンブルであり群舞であったが、時折ソロ・パートがあり、その時かの「共振」状態にふと陥る。目の前の体の動きに見入り、共時体験しようとしてふとそうなるのだが、あまりに高度で華麗な動きは観る者の「予測」を超えて行き、共振作用があるトランス状態をもたらす。
プロローグとエピローグに挟まれた三部という全体の構成で、始まりはスピーディな群舞、様々な色彩の舞いが展開し、最後には冒頭に似たスピーディな音楽に戻り、「汗」をかき切って終演となる。
ローザス「ドラミング」を思い出させる群舞は、交錯する基本スキップか走りの移動。グループが作られたり、離合集散し、異なる振りのパーツが同時進行で進み、滞留時間が微妙にずれたり、「決して繰り返さないが何らかの規則がありそうに見える」分子運動状の動きが延々と続いて、浜辺の波のように単調だが見飽きない。
これらの動きは何を表すのか・・というより、私は何を感じたのか、だが、意識下で感知する何かを今は言葉にできない。
強烈なイメージは終盤に凝縮されている。
超絶なソロ・ダンスを見せる女性はカンパニーの中心ダンサーだろうか、筋肉の摩擦による熱で狂乱の度が増し、先程から音楽が空気の分子運動も活発化させていて、にも関わらず、大詰めの光景・・腰で体を支える倒れた人間が何体も転がり、倒れた者の片手を握って引っぱろうとする者が次々と付いて生まれたコンビは、「最大限動いている」様相をみせているのに速度は限りなくゼロに近いという異様な現象から、破滅的に重くなった人体が今出現したかのような錯覚に陥る・・・そんな(風にみえる)現象の視覚的イメージはただもう強烈だ。何だこれは一体・・?
この終局に至って山田うんの舞踊の言語の多様さはローザス(「ドラミング」の)と比べるべきものでなかった。「言語」の解読はできないが・・
開演当初は踊り手個々の動作に目が行ったが、最後は演出(作り手)の頭の中を覗き見るようだった。
ハイサイせば
渡辺源四郎商店
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/01/06 (土) ~ 2018/01/08 (月)公演終了
満足度★★★★★
アゴラ劇場は満席。沖縄の団体とのコラボは要注目、というのも、畑澤聖悟氏は一貫して地元青森にこだわり、作品を生み続けてきた。そこへ「沖縄」である。気にならない方が不思議である。
しかし、沖縄と青森の(特に方言が中心の)あるある話をこんな形で紹介されるとは・・。ネタ一つ一つ思い出すと、まだニヤけてしまう。だが・・
二地域のリアル現地人がいる実在感は、(物語の舞台である)戦争末期の現実と2018年の今の現実を、(役者自身が意図するまでもなく)裏打ちする。
裏切りと分断を強いる力にもかかわらず、目を見合ってしっかり出会おうとする、その意思を伝えようとする青森のおばちゃんと、どうにかこうにかそれに応じた(同郷の沖縄人を)裏切った者。それまでの時間が「現実」に属する時間だとすれば(それがためにコミカルに描いてもいる)、そこから先のおばちゃんの行動は「現実」の彼岸を見ようとする祈りになる。「民」同士が、お上の目の届く場所で許される形ではなく、損得でもなく、出会い直そうとするのがその場面だ。
方言作戦の奇妙な予行練習から、作戦「遂行」(英国大使館に電話する)の緊迫の時間を経て、そこから解かれた和やかな時間、おばちゃんに伝言を頼んできた沖縄の男を実は炙り出すための作戦であった事が明らかになる。絵に描いたようなノンポリ差別主義の相撲取り(青森人)が、戻って来た軍人に「何か頼んでましたよ」とチクる。途端に場の空気が凍りつき、おばちゃんが苦しいながらに嘘の証言をすると、もう一人の沖縄の男がそばで聞いたままを報告し、相手を売ったのだ。
「沖縄に返してくれるんですよね」と軍人に言い、「(捕えた男の)命は取らない約束でしたね」とも言うが、虚しく響く。
他の者が去った後である。それに続いて去ろうとする男におばちゃんがこう尋ねる。「なんであんな事言ったの」、責める口調でなく、真っ白な疑問を投げることが最大の責め苦となる。別の言い方をすると、「あなたはそんな人じゃないのに」が枕にある。三上晴佳のおばちゃん力の本領だ。・・心が崩れていく男に、「手紙を送ります」と言うおばちゃん。浦添に戻ってもどこに住む事になるか・・、「浦添の比嘉さん宛に送ります」、とおばちゃん。住民の4割が比嘉です、と男。「浦添の比嘉さん全員に手紙を送ります」、とおばちゃん。両頬を涙で濡らして頷く男。
「戦争」の国民的記憶と言えるものがあり、しかし「戦争」は異なる様相を持ち得る21世紀の今、古い印象を与えかねない。渡辺源四郎商店はそこをうまく扱っている。
高校演劇サミット2017
高校演劇サミット
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/12/28 (木) ~ 2017/12/30 (土)公演終了
満足度★★★★
いわき総合、新座柳瀬の二校を観劇。全国上位を集めた訳ではないが、高校演劇侮る勿れ、と実感(先日見た畑澤聖悟の顔が・・) 被災地福島いわきからは、被災の事実がどういう「過去」となっているか、非常に興味深いものがあった。十代の彼らは震災時小学校の中高学年。「今」、テレビ報道が関東のそれと同じ内容なら、震災は遠い過去。そういう空気がまずある。その空気感を敢えて表現する場面が劇中にもある。だがそれは世間の「空気」を読んでのことなのか、実際かの地でもそうなのか・・。溌剌としてエネルギッシュな総勢20数名の彼らの顔には影一つ見えなかった。そしてまた思う。元気すぎないか・・。
好対照の新座柳瀬は8名の男女によるフランス軽演劇風の喜劇。どう見ても原作ありに見えたが、上演台本は(恐らく)顧問の名と、オリジナルの題名のみ書かれていて、「ありそう」とは言え新作なら見事な構成。生徒たちも喜劇的な跳躍を演技に見せていて、会場は(ややフライング気味だったが)笑いが絶えなかった。最後に並んだ当人たちの顔には、やや戸惑いが。
最後の駒場も見て、ホクホクの一日と行きたかったが、十分嬉しい休日になった。
扉のむこうのコト
東京エスカルゴ。
シアター711(東京都)
2017/12/20 (水) ~ 2017/12/26 (火)公演終了
満足度★★★★
以前一度くらい名を聞いた程度で、異例の初観劇。独自色がありそうで身構えてると、意外に普通、というか真っ当に稽古して頑張って芝居やってる感のある、それもコメディ。劇団俳優は三名も?居て、ナグリ持って建て込みもやってそうな。
ただし劇団的な一体感はさほどなく、プロデュース公演(仲良し系?)の乗り。特徴と言えばオーバーアクション気味な演技を繰り出す劇団役者、「それほどイケてないけど本人ヤリたがってるんだから」と周囲を看過させるキャラを持ち、映像畑でも拾ってもらえそう、的なあたり。役者顔見世興行とは言わないが、確信犯的ご都合主義なコメディ。
・・要はよくある若者のドタバタ芝居のカテゴリーで、吐かれる台詞の中身は殆どなし(作者自身も切に訴えたい言葉は殆どないだろう。目的は役者を輝かせる事なのだから)、だが演劇公演の舞台裏の話でもあり、リアルな感覚はベースにあり、それが細部で説得力を発揮している。主役のベテラン女優のデフォルメされた「大物」ぶりも、(通常ならあり得ない)失敗続きの舞台を一人背負って「行くわよ!」とマネージャーに言い置いて舞台へと去る「感動」の後姿の演出も、笑ってしまう代物だが、一本辛うじて線が残っているのは、役者たちの本気度。とりわけ、真面目な役だがズッコケを「やらされてる」感を残しつつラストまで持ち越せた女優二名が、恐らくは芝居の「感動」部門の下支えになっており、男優はその上で優雅に遊んでいる(それはそれで重要な役割だが)という構図ではなかったろうか。
記憶は朧ろだが「独自色」は、あった。処置に困る奇妙な「間」。笑いへのチャレンジングな姿勢はウェルカム、願わくはウェルメイドでない破壊的な笑いを。
「標〜shirube〜」
劇団桟敷童子
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2017/12/12 (火) ~ 2017/12/25 (月)公演終了
満足度★★★★★
楽日前のステージを観劇。公演期間終盤に足を運んだのは初桟敷の「海獣」以来だろうか。開演前から役者(会場案内に出張る)の熱が伝わってくる。それは芝居の中で情念の渦となり回転する独楽のようにぶつかって火花を散らしていた。
「体夢」以降、私は桟敷童子の「模索」の時と(勝手に)認識しているが、「蝉の詩」そして今作と、何にも囚われない桟敷童子らしさが追求され磨かれた舞台が現前したように思った。
お話は戦争末期、不遇の女たち(夫を戦争にとられた)七人が海に近い場所に集落を作り、幸福(夫)を海の向こうから呼び起こすための儀式を行うべく、古文書にある通り「人柱」となる者を探している所、自殺の名所でもあるその場所を脱走兵3人が訪れ、行き場を失って死のうとするがそこに立てられた看板の奇妙な文字「条件により相談にのります」に疑問が湧き、そうする内に七人衆に取り囲まれ、彼女らの不幸な身の上を聞いて「一度死のうとした身」、儀式に必要な生け贄となる事を約する(一人は消極的)。このあたりの展開、「自死」する羽目になった自らの境遇とまだ若くエネルギッシュな様子とのギャップも手伝い、笑える場面にもなっているが、その後、彼女らを良く思わない村人たち、また(海に落ちたのを見棄たので死んだと思っていた)彼らの上官、七人衆それぞれの事情も絡んで螺旋状にドラマが展開し、思いもつかない進み方をする。通常ドラマの葛藤は対立する二つの要素の相克に収斂されるところ、今作では登場人物が新たな要素を持ち込み、焦点そのものが遷移して行く。
役者としては、今回は客演に朴ろ美(漢字がない)と円の男優、朴は元娼婦の女リーダー役を(鬼龍院花子の夏目雅子ばりに)気を張って演じていたが「力み」を周到に桟敷女優らが中和、最後にはその力みも違和感なく人物らしく見え、総じた所の劇団の俳優の底力と、書き手の更なる成熟をみてホクホクと帰路についた。
君のそれはなんだ
オイスターズ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/12/22 (金) ~ 2017/12/24 (日)公演終了
満足度★★★★
年末の忙しない頭で臨んだ毎度オイスターズの妙ょー芝居、少々追いつけず途中睡魔に。
夜のタクシー営業、人通り少ない山あいの道に大きなカバンを片手に提げた女性、次に現れたのがやはりカバンを提げた男性、それから・・。我らが運転手は彼らが怪しいとギャァギャァ騒いでいる、その奇妙。人物らの会話の奇妙。
そして最後の登場人物が「この事態」の謎解きを担い、タクシー運転手(別の)として介入。冒頭からの設問であった「果たして彼らは幽霊か」(もしや騒いでる男本人が幽霊か)の答えが予期しない姿で解明され、信じてもらえなかった不本意が劇として溜飲を下げる「形」は、笑えもし、哀感も滲ませる。
不条理なのに「イイ話っぽさ」が匂う平塚戯曲のこれは成功例ではないか。
余剰を削いで、以前よりシンプルになったテキスト(と感じさせる演技?)も良い余韻を残した。