満足度★★★★
ポストトークは和田ながら+渋皮まろん、後者が前者の考えを聞き出す質問者役という図になっていて、和田女史の「演出家」職への若い野心を垣間見るトークだった。
窺えたのは和田ながらメソッドの片鱗ではなく、ただ取り組む対象である戯曲を前にしてその料理法を模索する、その自分なりの思考の進め方を持っている、という事のようだ。競技に挑むように戯曲に挑む、この遊びが楽しく、これを仕事にして行けたらどんなに良いか・・成長と拡がりの途上にある躍動がとりわけ伝わって来る。
今春の演出家コンクールでは二日とも和田演出の発表を見逃したから今回はリベンジでもあったのだが、渋皮氏によれば「コンクールとは印象が随分違う」という。だが和田氏は「実は同じなのだ」という。
同じ、とは演出家の姿勢が同じなのであって作品から受ける印象が違う、という事をどう作り手は思うのか、についての返答は聞かれなかった。そこを問題にしない強い作り手なのかも知れないし、自身の中の「これしかない」と思える答えが実は様々な選択肢の一つである事を相対化できていないだけなのかも知れない(相対化できる事が創造者にとって良い事なのかどうかは判らないが)。
さて舞台の方は、小説の地文を4人の役者(男女二人ずつ)が分担しつつ発し続け、しかも様々な「動き」を課せられる。このアプローチは地点を思い出させる。「テキストをどう役者の身体に負荷をかけつつ語らせるか」。演出家の発想が問われる。
私の感想だが、まずこの小説というのが、一人の女性翻訳家が一冊の本を訳す仕事のためにカナリア諸島の中のある島に逗留する、そのかんの主人公の苦闘と現地人との接触がもたらす思考の、一人称による語りなのだが、「翻訳」という作業に伴う苦悩(産みの苦しみ)がよく表現されている、と感じた。文体がそうであるし俳優の動きと語りも小説の世界を舞台上に立ち上げる事に貢献していた。
だがこの「翻訳家の苦悩と彷徨」の物語が万人の興味を持つものかと言えば疑問が生じる。私はひどく親しみを覚えて聞き入っていたが、一歩間違えば「どうでも良い」と思ってしまいかねない心許なさも時折よぎった。
それだけに終盤のアクティブな作りは、渋皮氏によれば前半との間に断絶があり、感想の中には「後半の巻き返しがすごい」というのもあって、この芝居をある意味言い当てていたが、終盤の<それ>はそれまでなぞっていた小説の世界からの離陸ではなかったか。原作を斜め読みすると、終盤主人公が何者かに追われて逃走するくだり、推測だが「翻訳」に伴うありとあらゆる煩わしさを戯画的に表現したものか、「苦悩」のパンチドランカー状態が見た狂気の夢か・・いずれにせよ翻訳の苦しみと、そのために地球の果てを訪れた自分に対する問いの延長に、逃走劇は置かれている・・と想像される。だが舞台のほうは「言葉」を言わせていた前半と、役者の身体ごと主人公の「逃げる」行為を体現する後半では、舞台の成り立ち方が異なり、後半は小説が持つニュアンスから空へ舞い飛んで行った印象だ。だがまあそれも有りなのかも知れぬ。
冒頭、姿の見えない俳優の声(小説の文をリレーで、妙な区切り方をして読んでいる)が響き、やがて照明がゆっくりと入ってくると、横一列につるされた4枚の(顔を隠す程度の)透明アクリル板の向こうに役者が立っている。目の前に飛び込んだのは知った女優の顔(アルカンパニー『荒れ野』で鮮烈だった)、暗闇では「演技しい」な声やなァ位に響いていた四人の声色が、視覚による情報が付加されると別の響きを持って来る。そう言えばチラシには役者名が書かれていなかった。演出家・和田の自負だろうか。・・そんなこんなで声と顔と、動きとを駆使し俳優はしっかりそれらをこなしていたものの、小説の地文を読む、即ちリーディングという今回の出し物にやはりほしかったのは、和田氏が「なぜこれを選んだか」、いや、そんな疑問さえ封じるほど必然に思える何か、である。