満足度★★★★
ここ二、三年の観客である私がみた二系統、即ち作り込み系(『地獄谷温泉 無明の宿』『ダークマスター』)と、参加型系(ドワーフを媒介とした)。いずれも追求された「形」がタニノ氏の中に浮かんだのだろうか。
端正な四角い空間の森下スタジオが、隙なくお寺の御堂の内部となっており、数十センチ上がった広い板間を取り囲むように観客が並ぶ。(長辺側は狭くイス二列とその足元のみ)
出演者は儀式を執り行う修行僧といったところ。観客は配布された儀式の次第と鳴り物(鳴子と小さな鈴)を手にして成り行きを見守る。開演時刻直前に入場するとタニノ氏の長い前説が始まっており、生物の蛸の進化が謎である事、役者は「何を着るかも告げてなく」行き当たりばったりの即興である事(これは事前に不要な赤い衣類の提供を呼び掛けていて、それを着る事だとは後で知った)。
初めの説明で期待感も高まったが、結論的には、ここで行なわれた事は芝居ではなく、「忘却ノ儀」と名付けられた儀式であり、仏教の教典(般若心経)を借用して進められた。まずシンプルに読む、ブルガリアンボイス風にハモる(読む)、ホーメイやその親戚である低音を震わす声を鳴らす、ディジュリドゥ、三味線、スティールドラム、エレキベース・・。
中央には炭火が焚かれ(ているかはよく見えないが赤く光り、温度を上げているのは確か)、男女それぞれ四、五人の修行僧のうち男の一部は中盤から自ら「熱」に飛び込み限界まで耐えて飛び出してくる、といった事もやる。はじめ厚く身にまとった赤い衣類は、やがて耐えられず脱ぎ捨てられていく。
板間の四隅と長辺の中央に柱があり、よくみると名前の入った札が貼り付けられている。これは序盤の確か「開爐ノ儀」で炉の上から八方に垂れた糸に、予め客に書かせた名前の札が吊され、蛸の足を模した聖体?が完成するのだが、前のステージで使われたものだろう(開演ギリギリに入った私には紙は渡されなかったが)。名前の札、鳴り物。また熱気がこもった後半、奥から冷水の入ったペットボトルが高速リレーで配布される。
儀式を共有する空間となる演出であったが、この儀式、というより催しの狙わんとするものは何であったか。
蛸という生物の脳が高等である事の説明が作者より冒頭にあるが、この異星人(もちろん人間が描いたイメージだが)に似た「蛸」が、事実「外」から地球へやってきた生命体で、あらゆる文化も宗教もこの生命体によってもたらされた、という可能性が示唆される。般若心経も蛸が我々に与えた有難いもの、という事になっている。
「忘却ノ儀」の忘却とは・・ 現代病である理性を忘却の果てに追いやる儀式、といった意味合いなのか、忘却の果てにあったものを蘇らせる儀式か・・。
パフォーマンスはほぼ、音楽で構成された、ライブと言えた。ライブの構成はお経の声明に始まり上に上げた楽器や発声など、世界に散在する「原初的」響きが多用され、「原初感」が高まっていくものだ。
一抹の疑問は、この「原初」の中に、このパフォーマンスが衒いなく乗っかっている「仏教」は含まれるのか?という事だ。
着想には賛同しつつ、音も楽しんだが、儀式を支える背景図(今回の出し物を「演劇」と呼ぶ事を許している)に、人類をめぐっての緻密なドラマ設定が描けていたのか・・そこが今回の決定的な弱点だという気がする。
嫌いでないパフォーマンスだったが、演劇的としてはもっと「作り込まれる」必要があり、そうなるとライヴである事と両立し難い。