満足度★★★★
日帝植民地時代の朝鮮に翻案した『かもめ』は原作を尊重した作りで重厚。一秒たりとも注意を怠れない、疲労を伴う観劇でこれに見合う感想の言葉を混沌とした感覚の海から拾い出すのも一作業だ。物語の進行と同時に、演出をみる観劇であり、対面客席の間に横に長くとって様々な大小の「ゴミ」が雑然と置かれたステージがまず観客に突きつけられている。
このステージの両脇には(恐らく反対側もそうだろう)モニターが地味に置かれており、中央には壊れた傾いた台が置かれ、端から昇った先でストンと降りる設定のため人物はその方向にしか移動せず、登退場も一方向だけである。従って役者はハケた先のドアから裏を通って会場の対角線の先まで移動して登場している事になる。
この方向が破られるのは一度、それまで殆ど目に止まらなかったモニター上の動きを観客は察知して注目する。出口には金網の扉があり、これが一度だけ施錠され、人々が閉じ込められた時間が暫時流れたあと、鍵を開けにやってくる男だけが逆方向を「許される」。
数々の演出のそこが私にとってのピークで、言わば「予感」と「期待」の時間であったが、その後「戦争」という局面に入って行くと、多田演出は尚も観客の注意を喚起する「場面の変化」のツールとして、地響きを多様したり思わせぶりな照明変化を入れてくるのだが、私の読み取りが凡庸なのか、同じ手に頼っているようにみえた。言葉にするなら、「実は・・」「実は・・」「いや実は・・」と、物語を聴く者の関心を繋ぎ止める手段を演出的な作為で行なおうとする、その「手」が長大な芝居ではカバーできなかった、という言い方になるだろうか。
「期待」と「予感」の時間の延長戦として登場した「戦争」の位置づけ方にも理由があるかも知れない。植民地で志願兵制度という名の緩い徴兵制が導入されたり、やがては徴用や労働力徴収(強制連行)と発展してゆく「背景」としての「日本がおっぱじめた戦争」というものが、朝鮮半島の生活にも浮上する。ただ、朝鮮人民にとってそれは自分らが都合良く利用される植民地時代というレジームの延長であり、平時から戦争体制という変化の意味合いは日本とは本質的に異なる。「戦争」が持つドラマ性に朝鮮人民が親和的になる事は、当事者にとって「恥」として回顧される類いであり、それこそが他国の支配がもたらす悲劇であったりする。即ち朝鮮人民の「分断」こそが悲劇であり、「戦争になったこと」そのもの以上に禍根を残すものだった、私はそう考える。
その意味では、「戦争」という事実の強調として地響きを用いる演出などは、私には違和感があった。思わず注目はするが何か薄まってしまうものを感じたのは正直なところ。
「期待」と「予感」の前半があまりに素晴らしいために、膨らんだ期待に見合う後半には届かなかった、という全体の印象の、それはほんの一瞬よぎったものにすぎないが。
だが、果敢な挑戦がもたらした舞台であり、ネタ切れ?とは言ったものの、演出という技術の可能性を発見させてもくれる大作だ。
韓国俳優陣も素晴らしく、女優(母)が息子トレープレフの感情的罵りに遭い、不意を突かれて自らの来歴にまで思いを馳せ「心が崩れた」瞬間を、動かない背中で演じた演技と演出は、彼女の人生がそこに包摂される歴史の悲劇も浮き彫りにし、圧巻というほか無かった。