青色文庫 ー其四、恋文小夜曲ー
青☆組
ゆうど(東京都)
2018/07/13 (金) ~ 2018/07/19 (木)公演終了
満足度★★★★
青色文庫と聞いて昨年アトリエ春風舎でやった歌入りの回(何故歌だったかも憶えてないが)の鮮烈な記憶が蘇り、今回さらに古民家での上演というので良い事ばかりを期待して(夏だし)、観に出掛けた。
変則形はなく、折り目正しいテキストの上演であったが、皺の数も分かる間近な距離が実は特殊であった事実はいつしか忘れ、成り行きを見守る。客席が組まれた四角のエリアの左手の廊下が役者の下手側の出はけ通路、こちらに小庭が見渡せるガラス戸がある。狭いステージの上手は壁、手前側に90㎝幅位に開いた別室への隙き間があってそこからも登退場。正面、左手に床の間、そこから右の方へ壁に組み込んであるような調度がうるさくなく配置され、そこここに硝子椀の中に灯された灯り(蝋燭?)が置かれる。
完成形のパフォーマンスをみたというより、青組が向かう所へ探り歩く時間を共にした、という感覚だったのは距離のせいだろうか。こう書くと、「模索」の段階に立ち合った感覚だった、要は正解に達しなかった舞台という内実を婉曲表現しただけのようだが、古民家とは言え日常領域の浸食を許している空間での、朗読である事とはそういう事でもあると思う。
朗読。前半は文豪が残した文(ふみ)の朗読、珍品を愛でる時間。藤川氏が読んだ松井須磨子へ宛てた島村抱月の長い泣き言のような手紙は感情を込める程に滑稽で笑えた。説明し過ぎる位にしつこく書かれているから観客を置いていく事がない。一方、女性同士の思い合う二人による往還の文は、二人の関係性が知られていない事と、比較的短文である事から、もっとゆっくりと、隠微に、仰々しくやってくれても良かった。親切にやるなら、という話だが。
親切と言えば、後半は吉田女史自身の戯曲からの抜粋で、着想はユニークだが劇の一場面の再現は、劇の「感動の再現」をもっと直截に狙って良かったのでは・・とも思った。例えば「海の五線譜」の、あの場面・・と朧ろに思い出す感動の箇所が再現されたのだが、物語の筋と人物の再構成が自分の中で追いつかず、取りこぼした感があった。観た芝居がそうであれば、況んや・・という事で、「手紙の紹介」が趣旨ではあっても、観客が「感動」へ飛び込めるよう演者は真摯に演じてくれていたものの、出典を知らなければ言葉の背景が分からない。戯曲の一部である以上それは致し方なく、従って出し物としてはこれにストーリーを補完する言葉を追加する、という事を欲してしまったのだが、それは邪道だろうか。
私は世界
ワンツーワークス
赤坂RED/THEATER(東京都)
2018/07/20 (金) ~ 2018/07/29 (日)公演終了
満足度★★★★
今まで観たワンツーワークスの印象通りの芝居。ドキュメンタリーシアターを主にみて来たから、別物を期待したが。ただし作り込まれたムーヴが冒頭あり、名物(らしい)を堪能。
さて、シリア入りしたフリージャーナリストが武装組織に拘束された例の事件(未だ帰還せず)を扱った劇である。
これを「自己責任」のワードで日本の若者の就職難や格差問題と関連付け、我々の日常と地続きに捉えようとした狙い?と思われるが、成果については微妙だ。「概念」を橋渡しに用いて概念の域を出ない事がもどかしい、つまり私の日常感覚に迫るものが薄まった。それは橋渡しとなる日本の現状についての言及が、(それを担う人物を据えてはいるが)一般的な説明を超えないように思えたからだろう。
以前チャリT企画が後藤某さんのISによる処刑事件を40分の劇にしていたのは優れた「説明」になっていたが、考察に必要な情報量と論理構成ゆえだ。
今作はドキュメンタリー性を排してドラマに寄っている。ならばもっと人間を描くドラマに徹して然るべきでは・・?と。
消えていくなら朝
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2018/07/12 (木) ~ 2018/07/29 (日)公演終了
満足度★★★★
蓬莱竜太の新国立書下ろしは二作品あった(『まほろば』『エネミイ』。忘れていたがどちらも観ていた。『まほろば』は再演で)。
宮田慶子芸術監督としての最終演出作という事で、「大味にならないかなァ」と一抹の懸念を抱きつつも(それで人を誘うのを躊躇ったが)、初めて目にする「誰も並んでいない」10時のチケット窓口で当日券を購入。
繊細な蓬莱戯曲と宮田演出の相性は悪くなかった。逆に、ナイーブな台詞で互いを刺し合い液状化する家族の劇は、新劇風笑いのテイストが良い具合に相殺して「ちょうどよく」なったかも知れない。
東京で演劇を続けている主人公は「公共劇場で上演される舞台の戯曲の執筆を依頼された」と、家族に告げる。十数年ぶりに訪れた実家には兄、妹も来て、独特の歓迎ぶりである。家に寄りつかなかった主人公への文句か嫌味か、はたまた純粋な質問かが口から放たれ、家族でない唯一の人(主人公が連れてきた恋人=女優)に聴かれることも厭わず感情が露わになっていく。応戦する主人公との言論戦は当初の「いささか粗野な挨拶」から離陸して次第に本音合戦となる。
蓬莱の台詞はどこまでも、台詞が足されるたび実在しそうな人格が輪郭を露わす補助的な役目を果たしている。ドラマをドラマティックにするための台詞というよりは、最もドラマティックであり謎である「人間」に新たな陰影を加えるためのものだ。・・とベタ褒めしたくなる程、人間本位の戯曲を書く人だと近年益々思う。
屋内の広いリビングに母、父、長男、妹、自分、恋人。そこから戸外に出ると、波の音がしていた。主人公と恋人が会話する場所として2,3回使われる、ただそれだけなのだが、設定を海の近くとした。恐らくは蓬莱氏が十代を過ごした能登半島のとある町なのだろう。終幕、背景にうっすら陽光が滲む程度のどんよりとした雲がホリゾントに映る。これも恐らく日本海の空だ。ドラマの骨格に関わってこないので、台本指定ではなく宮田演出の計らいだろうと思う。演劇人という設定といい、この芝居は蓬莱氏自身が濃く投影されたドラマである。
家族環境は特殊でも、1つずつを見れば誰にも起きる普遍的な人間の姿であり、あり得る心のすれ違い。孤独。人間の業。そして、罵りあう事の根底にある繋がり(これを否定すべきなのか肯定すべきなのかは分からないが)。
当日は学生の集団観劇、席の4分の3は高校生?の制服が占めていて圧倒されたが、観劇中そちらが気になった事は一度もなかった。終演直後、「すげえ」・・学生が言うのが耳に入り、心中ホッと安堵する。若い人達に良い演劇との出会いをしてほしい。
가모메 カルメギ
東京デスロック
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2018/06/30 (土) ~ 2018/07/08 (日)公演終了
満足度★★★★
日帝植民地時代の朝鮮に翻案した『かもめ』は原作を尊重した作りで重厚。一秒たりとも注意を怠れない、疲労を伴う観劇でこれに見合う感想の言葉を混沌とした感覚の海から拾い出すのも一作業だ。物語の進行と同時に、演出をみる観劇であり、対面客席の間に横に長くとって様々な大小の「ゴミ」が雑然と置かれたステージがまず観客に突きつけられている。
このステージの両脇には(恐らく反対側もそうだろう)モニターが地味に置かれており、中央には壊れた傾いた台が置かれ、端から昇った先でストンと降りる設定のため人物はその方向にしか移動せず、登退場も一方向だけである。従って役者はハケた先のドアから裏を通って会場の対角線の先まで移動して登場している事になる。
この方向が破られるのは一度、それまで殆ど目に止まらなかったモニター上の動きを観客は察知して注目する。出口には金網の扉があり、これが一度だけ施錠され、人々が閉じ込められた時間が暫時流れたあと、鍵を開けにやってくる男だけが逆方向を「許される」。
数々の演出のそこが私にとってのピークで、言わば「予感」と「期待」の時間であったが、その後「戦争」という局面に入って行くと、多田演出は尚も観客の注意を喚起する「場面の変化」のツールとして、地響きを多様したり思わせぶりな照明変化を入れてくるのだが、私の読み取りが凡庸なのか、同じ手に頼っているようにみえた。言葉にするなら、「実は・・」「実は・・」「いや実は・・」と、物語を聴く者の関心を繋ぎ止める手段を演出的な作為で行なおうとする、その「手」が長大な芝居ではカバーできなかった、という言い方になるだろうか。
「期待」と「予感」の時間の延長戦として登場した「戦争」の位置づけ方にも理由があるかも知れない。植民地で志願兵制度という名の緩い徴兵制が導入されたり、やがては徴用や労働力徴収(強制連行)と発展してゆく「背景」としての「日本がおっぱじめた戦争」というものが、朝鮮半島の生活にも浮上する。ただ、朝鮮人民にとってそれは自分らが都合良く利用される植民地時代というレジームの延長であり、平時から戦争体制という変化の意味合いは日本とは本質的に異なる。「戦争」が持つドラマ性に朝鮮人民が親和的になる事は、当事者にとって「恥」として回顧される類いであり、それこそが他国の支配がもたらす悲劇であったりする。即ち朝鮮人民の「分断」こそが悲劇であり、「戦争になったこと」そのもの以上に禍根を残すものだった、私はそう考える。
その意味では、「戦争」という事実の強調として地響きを用いる演出などは、私には違和感があった。思わず注目はするが何か薄まってしまうものを感じたのは正直なところ。
「期待」と「予感」の前半があまりに素晴らしいために、膨らんだ期待に見合う後半には届かなかった、という全体の印象の、それはほんの一瞬よぎったものにすぎないが。
だが、果敢な挑戦がもたらした舞台であり、ネタ切れ?とは言ったものの、演出という技術の可能性を発見させてもくれる大作だ。
韓国俳優陣も素晴らしく、女優(母)が息子トレープレフの感情的罵りに遭い、不意を突かれて自らの来歴にまで思いを馳せ「心が崩れた」瞬間を、動かない背中で演じた演技と演出は、彼女の人生がそこに包摂される歴史の悲劇も浮き彫りにし、圧巻というほか無かった。
ザ・空気 ver.2 誰も書いてはならぬ
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2018/06/23 (土) ~ 2018/07/16 (月)公演終了
満足度★★★★
「vol.1を期待してはいけない」と思いつつ当日を迎えたが、劇場に入れば当然だが期待は高まる。・・うまくまとめた戯曲ではあった。だが一作目が「空気」の怖さを鋭く伝えていたのに対し、二作目では「空気」の問題は背景化して薄まったように思う。「ザ・空気」のタイトルに偽りとまでは言わないけれど、もし残すなら単にvol.2ではなく副題を付す等が親切といえば親切?(国会記者会館屋上を封鎖せよ! とか。まぁそれはないが..)
演技の問題では、コメディとシリアスのバランスの取り方の点で、安田成美がシリアスを背負い切れないというか・・。
・・などと何か言いたくなるものの、時事や社会的問題を反映した作品が期間をおかず世に出される演劇の形は貴重で、この完成度に対して作品批評な言葉を連ねる事の申し訳なさ、もどかしさもあるのだが。
何度も壊れる赤い橋
The Stone Age ブライアント
小劇場 楽園(東京都)
2018/07/19 (木) ~ 2018/07/22 (日)公演終了
満足度★★★★
The StoneAgeブライアントは5月のコラボでの衝撃舞台からまだ2ヶ月。その以前に2回観た、説明少なめの芝居のテイストが戻っていた。同じ書き手とは思えない。緒方晋はこたびも緒方晋風味健在。舞台のほうは日常リアル感覚の延長にさらりと「鬼」を登場させ、行方を見守らせる。劇団10年やって見切りを付けるかどうか・・「青春の終わり」を迎えさせる事で鬼は鬼の世界に戻れるという、この設定が暗い陰を落とす。逆の設定なら、客も彼らの頑張りを応援し、期待の眼差しを寄せ、コメディタッチも可、ところが逆ときた。この設定の先に何を見せたいのか・・。
採用ケースは演劇によくある、「劇団10年やってきて30手前、見切りをつけるかどうか・・」。団員は四人。一人があるやむを得ない事情で退団させられるが、それをきっかけに三人は将来と向き合い、演劇を離れる決断をしてしまう。ここで絡むのが演劇志望者である彼らに安くアパートの部屋を貸している大家、人間が情熱を手放した(青春にさよならした)時に吐き出す言われる石を河原で探す妙齢の鬼のカップル、そうしたシステムもよく知らず教えを受ける女の子の鬼。
飄々とした拍子抜けな鬼の風情と、深刻がって「諦め」なる境地を身に引き受けてしまう人間との対比が何とも言えない。鬼はこの世界に一時的に寄留している事になっているが、様子からこの世に鬼は相当数いそうである。ただ両の存在はシステム上共生しえない。と、そこに先の退団させられた、最も情熱のある男をマークするていで見守っていた若い鬼、鬼ともつかない、人間に感化されつつある(かも知れない)彼女の存在が、ドラマに色を与え始める。
ただ、そこ止まりである。「ここから何をしようとするのか」「この後彼らはどうなるのか」までを見たい欲求は、そこここで残った。
ユニークな「楽園」の内部だが、装置としてステージ奥の90度の壁に模様の立体が貼り付けられていて、終演後に両面見える場所に立つと色彩バランスが良いのだが、客席からは片面を観続ける事になり、すると美的に難あり、なぜこうなのかと、妙に気になってしまった。
街ノ麦
少年王者舘
上野ストアハウス(東京都)
2018/07/05 (木) ~ 2018/07/09 (月)公演終了
満足度★★★★
天野天街的衝動が抑制された舞台の印象は、音楽(生演奏)がフィーチュアされているから、と途中で気づいた。前回公演に続き脚本は(天野氏でなく)虎馬鯨、原作者がそのバンドのリーダー加藤千晶であった。話のテーマは何だったろう。生きる場所、時間、過去と未来。歌い手・原マスミがヨレヨレコートで登場しヨレヨレと歌い始めるとそれまでの劇の風景が一点に凝縮し、詩の雫となって落ちた。奇抜な演出に隠された天野氏の詩情を覗きみた思い。夕沈がそれに相応しい主役として奮闘。
serialnumberのserialnumber
serial number(風琴工房改め)
The Fleming House(東京都)
2018/06/21 (木) ~ 2018/07/16 (月)公演終了
満足度★★★★
二本目「nursery」。小品におまけ付きのシリーズで、今回のは詩森、杉木による短い前日譚のリーディングとの事だったが、結構本域での芝居。もっともこれの評価は本編の出来次第。
問題の本編は昨年名取事務所がやった海外戯曲「エレファントソング」を思い出させる、精神科医と手強い患者の緊迫の台詞対決だったが、今作は二重人格を一つのあり方と了解した上でそれを手掛かりに「事実解明」に向かう。
上述の海外戯曲(映画化もされた秀作と比べるのも何だが。確か二重人格とも違った)では、新任医師の内面に鋭く斬り込んで翻弄する患者(青年)のズバ抜けた洞察力感知力との勝負の中で、患者である青年の精神性へと近づいていく。
今作は二重人格を必要とした青年の過去や精神性そのものより、二重人格の仕組みと事件(前任医師の死)との関係の解明が前面に出た印象だった。言葉による説明の比重が大きく、言葉の背後にある人物感情が見えづらかったのは演技の問題か脚本の問題か。
このエピソードの中に織り込まれた、新任医師の前任医師への「感情」が出来事を立体化し後半に情景を浮上させる鍵だったが、一方の青年個人の情景は、奇抜な表層からその奥には進めなかった感が残った。「犯されて可哀想」という憐憫(観る側にとってドラマティックさを掻き立てるフックとなる感情)にとどまったというあたりがそれ。
しかし俳優田島亮の活躍の場を作る事のために、難度の高い(そうな)二人芝居をそれなりのクオリティで三本も書く情熱、又は才能に注目な今回の公演である。
蛸入道 忘却ノ儀
庭劇団ペニノ
森下スタジオ(東京都)
2018/06/28 (木) ~ 2018/07/01 (日)公演終了
満足度★★★★
ここ二、三年の観客である私がみた二系統、即ち作り込み系(『地獄谷温泉 無明の宿』『ダークマスター』)と、参加型系(ドワーフを媒介とした)。いずれも追求された「形」がタニノ氏の中に浮かんだのだろうか。
端正な四角い空間の森下スタジオが、隙なくお寺の御堂の内部となっており、数十センチ上がった広い板間を取り囲むように観客が並ぶ。(長辺側は狭くイス二列とその足元のみ)
出演者は儀式を執り行う修行僧といったところ。観客は配布された儀式の次第と鳴り物(鳴子と小さな鈴)を手にして成り行きを見守る。開演時刻直前に入場するとタニノ氏の長い前説が始まっており、生物の蛸の進化が謎である事、役者は「何を着るかも告げてなく」行き当たりばったりの即興である事(これは事前に不要な赤い衣類の提供を呼び掛けていて、それを着る事だとは後で知った)。
初めの説明で期待感も高まったが、結論的には、ここで行なわれた事は芝居ではなく、「忘却ノ儀」と名付けられた儀式であり、仏教の教典(般若心経)を借用して進められた。まずシンプルに読む、ブルガリアンボイス風にハモる(読む)、ホーメイやその親戚である低音を震わす声を鳴らす、ディジュリドゥ、三味線、スティールドラム、エレキベース・・。
中央には炭火が焚かれ(ているかはよく見えないが赤く光り、温度を上げているのは確か)、男女それぞれ四、五人の修行僧のうち男の一部は中盤から自ら「熱」に飛び込み限界まで耐えて飛び出してくる、といった事もやる。はじめ厚く身にまとった赤い衣類は、やがて耐えられず脱ぎ捨てられていく。
板間の四隅と長辺の中央に柱があり、よくみると名前の入った札が貼り付けられている。これは序盤の確か「開爐ノ儀」で炉の上から八方に垂れた糸に、予め客に書かせた名前の札が吊され、蛸の足を模した聖体?が完成するのだが、前のステージで使われたものだろう(開演ギリギリに入った私には紙は渡されなかったが)。名前の札、鳴り物。また熱気がこもった後半、奥から冷水の入ったペットボトルが高速リレーで配布される。
儀式を共有する空間となる演出であったが、この儀式、というより催しの狙わんとするものは何であったか。
蛸という生物の脳が高等である事の説明が作者より冒頭にあるが、この異星人(もちろん人間が描いたイメージだが)に似た「蛸」が、事実「外」から地球へやってきた生命体で、あらゆる文化も宗教もこの生命体によってもたらされた、という可能性が示唆される。般若心経も蛸が我々に与えた有難いもの、という事になっている。
「忘却ノ儀」の忘却とは・・ 現代病である理性を忘却の果てに追いやる儀式、といった意味合いなのか、忘却の果てにあったものを蘇らせる儀式か・・。
パフォーマンスはほぼ、音楽で構成された、ライブと言えた。ライブの構成はお経の声明に始まり上に上げた楽器や発声など、世界に散在する「原初的」響きが多用され、「原初感」が高まっていくものだ。
一抹の疑問は、この「原初」の中に、このパフォーマンスが衒いなく乗っかっている「仏教」は含まれるのか?という事だ。
着想には賛同しつつ、音も楽しんだが、儀式を支える背景図(今回の出し物を「演劇」と呼ぶ事を許している)に、人類をめぐっての緻密なドラマ設定が描けていたのか・・そこが今回の決定的な弱点だという気がする。
嫌いでないパフォーマンスだったが、演劇的としてはもっと「作り込まれる」必要があり、そうなるとライヴである事と両立し難い。
日本文学盛衰史
青年団
吉祥寺シアター(東京都)
2018/06/07 (木) ~ 2018/07/09 (月)公演終了
満足度★★★★
通夜振舞いの席、というセミパブリック空間で、日本近~現代文学史に名だたる面々を青年団総出で登場させ、芝居的にいじりまくる。同時同空間で突如、現代の風俗の話題が飛び出たりもする(会場の一角に居る佐藤さん・田中さん等が発信源。中には長野海がコーエツガール風衣裳でそれ風にもじった台詞を言うのを受け、「シン・ゴジラの英語はどうよ??」といった場面も)。
そうした中にもエポックメイクな文学者の文学史的位置が作者(この場合どのあたりまでが高橋源一郎氏でどこからが平田オリザ氏のものかは不明だが)によるシニカルな解釈と台詞で、そこはタイトルに違わずきっちりと明示されており、具体的な人の営みが連なって形成される人の歴史の画になる。
不覚にも、ラストにはじんと来るものがあった。
日本人である自分がコミットし得る日本近代作家の多彩な話題に、退屈する暇なく振り回され、作家についての固定観念を解体されたり、批判的視点の存在を厳しく思い出させられたりしながら、最後に訪れる長台詞で導かれる巨視的視野が半ば強引な導きにもかかわらず琴線を弾くもので、これは演劇史的には「三人姉妹」が提供した定型であろうか・・等と思考して平静を保とうとしても間に合わなかった。
滑りそうなギャグも含めて終ってみれば無駄のない舞台。藤村と花袋の私的会話をブリッジにした構成も妙。
ニンゲン御破算
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2018/06/07 (木) ~ 2018/07/01 (日)公演終了
満足度★★★★
旬の大人計画を知らず、過去作品の再演はその頃を遅まきに賞味しようと、たまに観る。今回のは『キレイ~神様と待ち合わせした女』に通じる風合いがあった。軸となる複数のエピソードが絡み合い、ベタだったり分かりにくかったりするギャグも動員しながら一大叙事詩を前へと進めていく。
「通じる」と感じた最大のものは、松尾スズキ作品の特徴だろうか、権威に繋がるもの、シリアスなものを茶化す茶化し方、美徳と言われるものの虚飾を剥ぐ剥ぎ方で、今作(明治維新前後の時代設定)では、例えば冒頭、西南戦争の両陣営が衝突する場所を間近に見下ろす土手に婆アどもがベタっと座って緩~り弁当を食っており、「こ、ここは(男の見せ場たる)戦場だぞっ」とやるせなく男ら吠える図、など。
面白いのだが、(演劇とは押し並べてそうとも言えるが)時代の風俗と密に相関して成り立った作品、であるのだろう、「今この時が旬」とは行かない。ギャグの回し方は古くはないが研ぎ立ての鋭利さはない。過去テキストに息を吹き込むのに何か一工夫要すると感じたのは、再々演『キレイ』も同様だった。長丁場を持たせていたし、作りこ込まれた大作なのは確かで、会場もほぼ満席、終演後の客の表情も良かったが。。
緑色のスカート
みどり人
新宿眼科画廊(東京都)
2018/06/29 (金) ~ 2018/07/03 (火)公演終了
満足度★★★★
遅れて入場した分暫く迷走したが、演技がまず目を引き付け、そのうち関係性とパターンが見え、色彩が生まれ、場面の前段が想像されてきたのも、テキストの「物語綴り」の簡潔さ、堅固さの証か・・と思った。ラストにあった集団ムーブと、部屋の内側を描いた絵画のプロジェクトマッピング風映写(一瞬の事だ)に面喰らい、いずれも冒頭に置かれた演出のリフレインか、と推測でき、唐突感なく自然な流れとして受け取る事ができた。
みどり人は前作に続き二度目の観劇。現代の男女関係の局所的なシーン描写の程よい省略、飛躍が心地よく(描かれている事態は心地よくはないが)、情景の背後に拡がるもっと広い世界に意識が行く感じがある。必ずしも自然とは言えない人物の行動も、背景の絵画の中の一点となり全体として成立している構図だろうか。
どんな閉塞状況が訪れようともその「外側」がある・・そのように見せる意識が作り手にあるのかないのか判らないが・・またラストに仄めかされる人間の関係がその可能性の示唆なのかどうかも判らないが、「ここでない別のどこか」を人は閉塞状況にあっても見出す・・言葉にすれば野暮ったいが、そんな仄めかしを感知してか、終演後はどこか爽快だった。
青い鳥 完全版
演劇屋 モメラス
STスポット(神奈川県)
2018/06/20 (水) ~ 2018/07/01 (日)公演終了
満足度★★★★
メーテルリンクの『青い鳥』は元々戯曲だと聞いて古書店の文庫版を買ったらその通り。20世紀初頭の作品だが、当時の技術で実現できるのか訝るような贅沢な舞台装置、衣裳、ミラクルな仕掛けを要する細かなト書きに最初は驚いたが、最後には作者の拘りと情熱に納得させられる。
昨年夏の利賀演出家コンクールの課題作品の一つで、この演目を選んだ3組(3人)が優秀賞を分け合ったそう。その中でも最上位をモメラスが取り、その前の公演「こしらえる」(松村翔子作演出)にみた才気が実証されたものと想像したが、期待ばかりを膨らませて観劇日を迎えた。
確かに・・既成作品に取り組む事で「演出家」の輪郭がみえてくる。「こしらえる」の時とはうってかわって、「努力」の痕跡がみえた。(詳細後日)
木星のおおよその大きさ
犬飼勝哉
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/06/20 (水) ~ 2018/06/25 (月)公演終了
満足度★★★★
初わっしょいハウス。ミニサイズで手書き字体の宣材が似通ってるワワフラミンゴとかトリコロールケーキとか、未見で判別不能カテゴリーにあった一つ。やっと目で確かめた。ユニット名でなく実名を冠した経緯や、芝居の中身がなぜ「木星」なのかもよく判らなかったが、ある「日常」を非日常(非現実?)側から触った感覚が舞台上に確実にあり、この感触は気持ちがよい。コントという言葉を当ててよいのかどうか判らない。
スーツを着込み会社人として訓育された人間が登場人物のスタンダードに置かれている。通常のスーツでない人物が一人居て、これは役者が自前のそれを持っていないからそれに当て書きしたのだろうか?など、余計な事を考えたりした。
会社的日常の「あるある」シーン、かどうか自分には判らないが、会社的日常がスタンダードに据えられているからこそ「逸脱」が笑える構図はあった。「おかしな生き物」である人間の矛盾、悲しさ。今回の連作では「何かに所属せずには生きて行けない」「アイデンティティが持てない」結果の組織人の悲しさ・弱点という所に収斂していく感があって、木星を引っ張り出す事でもないのでは・・とも思ったが作者的にはどうなのだろう。
しずかミラクル
コトリ会議
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/06/13 (水) ~ 2018/06/17 (日)公演終了
満足度★★★★
昨年の「あ、カッコンの竹」よりは、判り易かった気がした。宇宙人と地球人(人類)が居て、地球人は追い込まれている。侵略の様相だがそれも微妙で、繊細な宇宙人が「あんな事やっちゃったんだもの(憎まれても仕方ない)」なんて台詞はちょうど侵略者の末裔が先住民を慮るような調子で、言わば宇宙人を擬人化して描く事によるおかしみが随所に。「地球人からみれば俺たちこうなんだろうな」と、自己相対化してみる態度は地球人以上にシンパシーの対象だったり。宇宙人がどうやら「海」を消してしまった事で人類は絶滅に瀕しているが、さほど憎しみを抱いてなかったり、恐れていなかったり、ドラマ性が漂白されてナンセンスの味が生じる。「よく判らない話」の部類であるが、面白味があった。突飛な設定も何やら飲ませられる。
果たして、この芝居の中では、人類の絶滅から逃れることが至上命令なのか。必ずしもそうではなく、そうした状況下にあっても、どう存在するか、生きるか、時間や倫理や合目的性を脇に置いて、私たちは人間や人生というものをどう見通すことができるのか・・何が愛すべきものとして見えてくるのか・・大袈裟な表現ではあるがそんなテーマがこの芝居(というかナンセンスそのもの)に埋まっているように思う。
serialnumberのserialnumber
serial number(風琴工房改め)
The Fleming House(東京都)
2018/06/21 (木) ~ 2018/07/16 (月)公演終了
満足度★★★★
第一弾「next move」を観劇。二人芝居。ビフォアトーク付き。話題は、なぜBTか・・の謎掛けから今公演の事、これが立上げとなるserial numberの由来の解明へ、そして芝居へ・・書き手で演出家・詩森氏の構成力をそのあたりにも見る。あまり判り易くはなかった此度の経緯が観客として実感的に理解、咀嚼できた。
芝居は棋士を目指す二人の少年~青年の、二人だけの物語。詩森らしいテンポ感ある芝居で、言わばこの世界のある典型的な断面だろう(取材もしっかり行なっただろう)と思われるが、ストーリーの表層にみえない(台詞としても説明されない)人の内側に吹き荒れるあらゆる感情が想像されて来るのがむしろ面白く、気持ちよくみた。
野外劇 新譚 糸地獄
吉野翼企画
西戸山野外円形劇場(シェイクスピアアレイ)(東京都)
2018/06/21 (木) ~ 2018/06/24 (日)公演終了
満足度★★★★
音楽が大きな要素であり魅力である吉野翼企画。『恋 其ノ弐』『血花血縄』(どちらもリオフェス。こまばアゴラ)と確かな手応えあり、野外劇に足を運ぶ。こういう場所がある事も知らなかった。半欠け椀状の野外劇場の客席段の方を演技エリアとし、平らな底にイスを並べ(200席弱といった所)若干見上げる角度で観劇する。上部の手すりの背後に木々があり、夕闇迫る天然の照明を利用。声の音量に難あり、魂込めた台詞が宙に拡散しがちで言葉そのものが聞こえない場面も多くあったが、あちこちに散らばる「白い女」(多数で定位置、遊女のように観客に手招きの風情)と中央上段に居座るのぐち和美、男4名、黒装束の踊り手8名がつくる「劇場」全体の構図じたいが戯曲と齟齬なく完成されている感で、引き込むものがあった。
岸田理生、寺山修司、野外・・と無理なく連想されたが、このユニットでは初の試みだったよう。
奇行遊戯
TRASHMASTERS
上野ストアハウス(東京都)
2018/06/20 (水) ~ 2018/06/24 (日)公演終了
満足度★★★★
2010年上演作の再演とは後で知った。
トラッシュお得意の二幕構成(後半が近未来。緊迫感ある音楽をバックに高速ナレーション+テロップが間を繋ぐ)が突如「復活」?(新作で)と思ったのはヌカ悦びだったが、久々にガッツリと構築されたトラッシュ舞台を観た。
この独自の二部構成舞台は、じっくり練り上げた戯曲である事が不可欠で、現在の中都留氏の多忙さでは当分お目にかかれないだろう・・とは今回の舞台を見ての実感でもあり、つまりよく出来た舞台だった。
「よく出来た」とは言葉足らずで、「呆気に取られた」という位が程度に即している場面は、漁村の人々の(九州弁を駆使した)口調とそれに伴った身体の動きや佇まい、台詞の展開の巧さ、自然さ。最近の中津留戯曲からは想像できない「心地よい」台詞劇の才能がそこにあった。むろん中津留氏独特の「事件性」のねじ込み、「対立」のねじ込みはあるが「リアル」に踏みとどまり、俳優の奮闘により醸成される温度とアトモスフィアが舞台を包んでいたのだ。
そんなことで中津留氏の「新境地?」と色めいたのだったが・・(しつこいか)。
サルサ踊る田端、真ん中
青年団若手自主企画 宮部企画
アトリエ春風舎(東京都)
2018/06/15 (金) ~ 2018/06/18 (月)公演終了
満足度★★★★
無隣館・宮部企画の第二弾(正確には無隣館卒業後第一作?)は第一弾より芝居らしくやっていた。と言っても「現代口語演劇」が許容する範囲で。つまり、何でもあり感は否めない。
宮部自身が役で登場した後、背を丸めて客席側の右端に移動し演出として見ている姿、川隅奈保子とやりまんキャラのギャップ一本で持たせた舞台作り、説明を省いた(異化的)転換やブリッジの仕方に、ワークショップ発表な雰囲気・・「所詮お芝居ざんす」と堂々居直る系の作り。間違いなく五反田団の弛さがDNAの中に。
サルサを踊る田端が真ん中、の芝居。その田端の「生態」「生き方」がこの作品の目玉で、どんな人?と客席から凝視してしまう所。私は面白かったが「いい加減」の加減には賛否ありそうだ。
山山
地点
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2018/06/06 (水) ~ 2018/06/16 (土)公演終了
満足度★★★★
「悪霊」以降観てきたKAAT×地点、今回は昨年の「忘れる日本人」に続き松原俊太郎作の新作<戯曲>。忘れる日本人とは皮肉の効いたタイトルだが今回の「山山」とは・・。最初に耳に入ってきたそれは「何々したいのは山々だが」の山山。そして普通にmountainの意も。地点のレパでもあるイェリネク戯曲に似て人物一人のモノローグもしくは自問自答の<戯曲>、ギリシャ戯曲の壮大なモノローグとも異なるこれは後世の文学史の教科書にどう紹介されるのだろう。。松原氏による前作と今作の(テキストそのままの)舞台化を果して地点メソッドなくして可能だったのか、などと素朴に思ってしまう。
しかし今作も刺激的であった。
アゴラ演出家コンクールで平田オリザが地点を「既視感あり」とディスっていたが、師匠の一言で色褪せるような見かけ倒しコケ威しの代物では最早ないように思える。この面白さは何なのか・・地点語(と以前も書いたのでそれを使えば)は単に通常の生理に逆らう言い回し、なのではなく何らかの能動的な精神作用の反映された(語意伝達に狭められない)表現となっている。だが喋っているのは言語であり、語意・語感が波動を形成し、身体の動きと相まって伝えてくるのは「現在」という時に対するある種の疑念である。この通奏低音のように鼓動する「批判的・懐疑的視点」に不快を催すタイプの観劇者は、これをあまり好かないだろう。私は逆である。
前回まで出演していた特徴的な女優の姿が見られず淋しかったが、新顔も「地点語」の世界でパワフルに遊んでいた。