満足度★★★★
座・高円寺でのTOKYOハンバーグは「KUDAN」(再演)以来。このときは横広の舞台いっぱい動き回り跳ね回っていたが、今度の舞台は「日常」の時間が流れるドラマ。仄かに暖かく浮び上がる教室に、生活臭をまとった顔、顔がいそいそと集まって来る。題材は夜間中学。「糀谷」と書かれてあるから実在する(大田区の)学校である。多様な境遇や来歴を持つ生徒らの多くは、仕事を終えて駆け付け、皆背負う日常も柔でないがそこは大人、教室は騒がしくも気の利いたやり取りで暖かく。ただし最年少の十代女子がハネッ返りで、本音勝負じゃ大人がたじたじ。そんな平和だか戦々恐々だか一見判らない教室へ、最高齢となるだろうそば屋の主人が入校して来る・・。物語は、彼が娘の同伴で学校の説明を受ける場面に始まり、卒業式を迎える時までを切り取ったもの。この学校に通う事がその表われであるが、弱みを抱えた人らが懸命に生きながら互いに触れ合い、人生そして社会(人の繋がり)という編み物を織っていく姿をさり気なく描いた作品。秀作だ。
この題材を描いたモデルとしては、私の中には山田洋次の『学校』があった。映画では登場人物の取り合わせに出来すぎ感が否めないが、様々なタイプの人間が一所に集い繋がって行く暖かい感触は、この映画を思い出した。
主人公は一応このそば屋のオヤジさんではあるものの、群像劇では一人一人が重要。台詞やエピソードで語り切れない生徒たち一人一人の佇まいの中に、「信じられる」生活感、存在感があり、「教室」を介して人生での貴重な時間を刻む姿が立ち上がってくる。・・妻が妊娠中の鳶職人、いい年のトラックの運転手、(実家の?)廃品回収業を頑張る青年、内装業に雇われている中国人、同じニューカマーの韓国人女性、脳性マヒの少女(20代?)。教室では定番のやり合いがあって毎回一時限目が始まる、その教室での国語の授業の様子もじっくり描かれる。学校側の登場人物は担任の女性教師、副校長、新任教師(ともに男性)。だが、舞台中央に浮かんだ教室の「外」の場面も重要。何名かは舞台際に立って自分の事を紹介する。仕事中の他の生徒と出くわす場面も。登下校の道のりも教室の周囲に長く取られていたり、後半ある課外授業の様子も「外」で描かれ、今回の座高円寺の広さというハンディを、教室とそれを取り巻く社会という図式に転換させ効果を出していた。
人間トータルの存在を納得させられる毎に胸がざわざわ鳴る。中でも障害を持つ少女を演じた永田涼香(夏に一人芝居に挑戦した)は地味ながら出色で、この役柄のような人と接触した事のある観客は、その風情から発する多くのものを重ねた事だろう。生きる事への健気さ、仲間が好きである事、知らない事を恥と思わない事、誇り高さ、等々。。事実彼女のような存在が人と人を結びつける。弱さがハンディでなく武器となる社会のモデルがここにある。「学校」とは何か・・・映画『学校』にもその問いがあったな、と思い出した。