tottoryの観てきた!クチコミ一覧

1101-1120件 / 1809件中
ただいま

ただいま

劇団こふく劇場

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/12/12 (水) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★

初演もアゴラで観た。悪くない感触。ただこの時は「様式」の方が前面に出て見えてしまううらみと、台詞を聞き逃して人物の関係性が見えないまま終演を迎えた事は残念だった。ナチュラル演技なら台詞の聞き逃しも身体反応で補える所、役者は様式の方に身体を動員されている訳である。
今回は何より、作演出の永山氏が昨年東京滞在し製作した舞台(上演は今年1月)が衝撃で、これを挟んで敢えての再演ツアー。作品の進化ぶりを観に出掛けた。
まず装置がかりそめでなくしっかりレトロに誂えられ、照明も深みが出ており(と感じた)、独特な台詞のユニゾンの精度は格段に上がっていた。人物の関係性は見失いかけたが踏みとどまり、大方掴めた。主人公の女性の「お見合い」の相手を紹介した男と、彼女との関係がやっと判った。
ドラマのほうは、主にそのお見合いの顛末、主人公の義兄(見合い相手との仲介者)と彼の失踪した妻との事、主人公のだいぶ年上の従姉(四十で最近やっと結婚)とその父との事、主人公のコーラスサークル仲間(唯一の二十代同士)の事、四つのエピソードがそれぞれ語られていく。場面転換に暗転はなく移動は無機質な摺り足で板付きの場所へ、鳴り物/唄等要員のエリアにも移動。この動きはコミカルに見えたり逆に粛然として見えたり、定まらない所が実験的にやってる感じになる。ユニゾンの「語り」は語る内容が深刻でもコミカルというか軽やかになり、こうした効果は主人公が持つキャラ、その物を見る視線と捉えるとしっくりと収まる感じもある。主人公は終盤訪れるお見合い話の場面で、相手が実直そのものの年下という事もあろうが自分自身を俯瞰してその滑稽さに笑い出してしまう。ほろ苦さの広がるようなお見合いの結果となるが、この場面はそれまで他者の物語を語ったり見ていた主人公が初めて己を開陳する。笑いの奥に一つこじれたものも幽かに匂わせるが、他の三者の物語=人生への応答のようでもあり、劇構造を変則的に示してさりげなく劇的。
問題は、突き放して見せていたドラマに感情移入をかなりの熱度で誘って来る後半。微妙な所だが少々押し付けられ感があり、作者の思いに戸惑う事も。
コミカルにまぶす見せ方はヴェールであってそれを剥ぐ事で見える、という事でもない。思い出したのは青☆組の女優がしばしば見せる演技、泣き笑いの表情(笑い泣きではない)。私としては限定的にしか受け入れ難い表情で、悲しみを圧し殺して笑顔を見せるのはそれ自体美徳でも何でもない、真にやむを得ざる状況で必死に誰かを生かそうとする局面でのみ、崇高さを持つ表情である。父を見送る娘は喪って悲しいか感謝で満たされるか、どちらも無いか、でありたい(泣きながら笑う、如何にもドラマチックだが私は作為を感じてしまった)。
これは恐らくはこのエピソードに限って伏線を幾つも張ってしまったためにその謎解き説明がまどろっこしくなった結果だろう。他の二つのエピソードは
多く語らず、自然に立ち上がって来るものがあったのだ。
例えば唯一の男優は妻が突然いなくなって何年かが経つが、心の隙間から生まれたような架空の女(○○さん、と苗字もある)が時々現れて暢気なやり取りをする。彼の醸す天然の入った鷹膺さはこの芝居そのもののトーンだったりするのだが、その笑みを湛えた穏和な顔が決壊する瞬間がある。その時あらゆる人間の哀しみ怒り無念さがどっと押し寄せる感覚に見舞われる。毎年のように続く災害、犯罪、不正・・。無論、連想するのは私の脳味噌であるが、象徴的表現による効果であるに違いない。
主人公の話し相手でアイスの好きな明るい既婚女性も終盤、おもむろにある男性との事を一人語り出す。僅かな伏線をよすがに滔々と謎解かれても何の事やら状態だが、さらけ出される「思い」だけは迫るものがあった。
永山氏の思い描く人とその関わりの共同体のイメージは、私の実家がそうだが地方人のそれを思わせる。大都市は便利だが地方の疲弊が生む余剰人口は都市へ流れ込み非日常な日常を強いられる階層が存在する。ある意味その病んだ在り方を相対化し解毒するのが演劇であったりする側面もありはしないか。人や社会はどこへ「戻る」べきなのか、容易に答えは出ない。だが永山氏のこふく劇場は答えを、でなく答えを探る道標を示そうとした、と理解した。神奈川で上演したまあるい劇場の事をふと思い出した。

「追想と積木」「いつかの風景」

「追想と積木」「いつかの風景」

劇団水中ランナー

ワーサルシアター(東京都)

2018/12/12 (水) ~ 2018/12/17 (月)公演終了

満足度★★★★

初の劇団だが、「根拠のない予想」に違わず?、正攻法で一定の質を獲得した舞台だった。「追想と積木」を観劇。こちらが再演、もう一方の「いつかの風景」は前者の設定(記憶の障害)を男女入れ替えた新作という事である(解説より)。感想を一言に約めれば、「もう一つのも観てみたかった」、と思えた出来。
青春群像ラブストーリー、と括りたくなる恋愛含有率の高さで役者も登場人物の年代も若者向け、と言えばその通りである。冒頭いかにもな「イイ話」(後で劇中劇と判る)が始まった時だけは不安が過ぎったが、作劇も、要所を押えた演技も一々納得であった。

ネタバレBOX

ママチャリ同好会改め演劇サークルの部室(再現)に7年振りに集う元部員、彼らを迎えるのが事故で記憶を無くした男の今カノ。10名。
現在のシーンは、まず到着した一人を迎え入れ現状を伝える静かな会話に始まり、部員が一人また一人と顔を出す。部活当時の回想シーンは、大勢が登場しフルパワー。話の中心軸は、部員(現記憶喪失男)の闘病中の母の前で、名ばかり演劇サークルを返上、父母の出会いの物語を芝居にして病室で見てもらう事。目標が出来、奮起する部員たち、そこに進路や恋愛話も絡む。
記憶喪失男が失くした記憶は卒業後から現在までの7年という設定だが、この事で彼はまだ学生でサークルの部員の頃の自分である事になる。気丈な今カノも淋しげな顔を見せる一方、回想シーンの進行で次第に男と思い合いながら成就しなかった恋の相手が浮上する。また、男は浦島太郎よろしく7年後の現実に驚く事の一つに、病院で披露した劇の台本を苦労して書いた男とその彼女となった女性が二年前に別れていた事、そしてサークルの精神的リーダーと言える男女の理想的なカップルが子も授かった今二人の関係に不安を覚えているらしい事。。無論、母が闘病の末亡くなった事も今カノに聞いて知った。時間経過の残酷さを訴える男が「現在」の現実に動揺を投げ掛ける要素と、彼が負ってしまった障害にどう対処すべきか迫られる要素とがない交ぜになりながら、最後には「ここから始める」べき一歩を確認して幕が引かれるという、涙涙の観劇であった。
脚本上の矛盾もあったが、投げ掛ける素朴な問いと、俳優たちの魅力が凌駕した。
あゆみ

あゆみ

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2018/12/15 (土) ~ 2018/12/26 (水)公演終了

満足度★★★★

柴幸男の<発案>したユニークな戯曲に、更に演出的工夫を施したfeblaboプロデュース版「あゆみ」を観劇。以前極小空間(野方スタジオ)でのfeblabo版上演を観ており(「あゆみ」の他のバージョンは知らない)、この時は6~7人の女優が、狭いマンションの一室の奥半分の演技エリアを丸椅子で取り囲んだ円形の客席の間に、女優らが座ったり移動する中継点が置かれていた。苦肉の策だが不思議と違和感を起こさず、白い衣をまとった女優たちのしなやかさ、個性と、その個性を超えてドラマを見せる戯曲の強固な構造を印象づけた。
今回も予想通りこの優れモノの演出が踏襲されていたが、空間が違えばまた趣きも変わり、前に無かった趣向も入れている、にもかかわらず、以前のように「あゆみ」の歩みと同道する自分が居た。ズバリ一言で言えないが、不思議な魅力が潜む作品である。(とことこver.を観劇)

ネタバレBOX

まずこの戯曲では主人公の「私」(と交差する人々)が常に一方向へと移動し、役を複数で分担し、リレーで運んでいく事がト書きで指定されている。この形式の劇的効果は特許ものだ。コロンブスの卵と言おうか。。台本には台詞の切り方、割り振り方までは指定せず、上演主体に委ねている。場面々々に要する人数は1~4人程度だから、例えばキャスト4人での上演も、円形なら物理的には可能だ。人数が少なければ役者の「変わり身の早さ」も印象づけ、人数が多ければ(限度はあるにしても)、一人の人生を見守る「多くの目」を持つ舞台となる。キャラも声も、演技態も異なる女優たちが同じ役をリレーで引き継いで行く形式は、箱根駅伝ではないが一つの競技をやりきろうとする姿、仲間の頑張りに応えようと努力する姿も重なり、共同作業という演劇の本質に符合すると同時に、「あゆみ」という女性の(平凡なりに波乱に満ちた)人生を走り抜く姿にも重なる。不思議な感動の源がこの形式の中にある。
feblabo版は、「一方向」との指定を円を時計回りに巡る形とし、客席が取り巻く形にした。客席と舞台との距離は上記狭小空間でのそれには及ばないが、近い。観客ははじめ、普段モードで役者が入場し、自らの楽器演奏に乗せてリズミカルに前説をやるのを見る。「芝居」が始まるのは、役者がある役に入った瞬間であるが、その後も他の役者が入れ替わり立ち替わるため、ドラマそのものに没入して行く訳ではない。殆ど見知らぬ無名の若い女性たちが、役として存在しない素の彼女らとして居並ぶのを、観客は普段初対面の相手を見るように見ている。(ある小さな一役を除いて)特定の役を当てられている訳ではない女優は、主人公の「私」を役者全員がほぼ均等に担い、また頻出する母、高校の先輩、職場の後輩なども、全くカラーの違う女優ら(共通点は白い衣裳のみ)が次々演じる。
この「キャラを飛び越えて一つの役が共有される」点と、「素の彼女らが(役への出入りも含め)見えている」点が、この形式の最大の特徴だ。
さて、役者らははじめ、傍目には「かぼちゃ」というと失礼 だが「演じる要員」として配置されている。が、問題はその後だ。
「観客は役ではなく役者を見ている」、とは、古い演劇人の吐いた言葉だったが、「あゆみ」の形態でその事は明白となる。正確には、役に取り組もうとする役者の姿が見える、と言うべきだろうがそこには抜き去り難い個性がある。8人の女性らがそれぞれ、任務として人物を受け継ぎ=役に入り、担い、次へ渡す、という「行為」を続けて行くが、このプロセスを何度も見せて行く事で役者自身を披露していっているのだ。
ここに柴幸男という演劇人の志向するところが見え隠れする。・・「適役があるか否か」は俳優を選ぶ基準とはなり得ず、「うまい俳優」が必ずしもこの劇を感動的に仕上げる訳ではない、という事。
今回目にした彼女らが素人役者という事では決してなく(未熟な面はもちろんあったが)、一人一人がぶつ切りの場面を演じては退場する、否応なく目に入るその「現象」から、揺るがないものが痕跡として残っていくのだ。
(うまく要点を掴めず長文となりにけり)
THE PILLOWMAN

THE PILLOWMAN

Triglav

山王FOREST 大森theater スタジオ&小劇場(東京都)

2018/12/12 (水) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

PILLOW MAN (枕男)。劇中のあらゆる単語からこれを選んだ作者の思いを噛みしめた。サイコな殺伐とした話が、たとえば人生最後の日に見るに価する泉に変わる「変わりめ」の妙は、同作者「スポケーンの左手」にもあった。
主役と、翻訳もした中西良介は新国立「赤道の下のマクベス」で英語の台詞を喋る戦犯収容所の看守役だったが、伊達ではなかった訳だ。
初めて訪れた山王FORESTは地下の割としっかりと設えられた劇場だが、ステージは狭く、装置に工夫あり、回想話に影絵(シルエット)を使ったりと、巧い。
精巧な時計のように緻密に書かれた戯曲を、十分に再現していた。

ボードゲームと種の起源

ボードゲームと種の起源

The end of company ジエン社

3331 Arts Chiyoda(東京都)

2018/12/11 (火) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★

まだ観劇二度目のユニット。今回はチラシが手元に早くあり、予定が立った。ジエン社の舞台とは作演出・山本氏の思索の演劇的展開(演劇的手法の探求も含む)、という印象を持っていたが、期待に違わず「知」が勝った内容。もっとも、吐かれる言語は晦渋でもなく、ただボードゲーム関連の専門用語(運ゲー=運命ゲーム、勝敗が運任せ。など)がほぼ説明抜きに使われる。ボードゲームについて思索する人物の姿は見られたが、その思索がドラマの結語を捻り出す訳ではなく。もっと手強い難問、即ち人間なるものが「彼」の周囲に居り、問いを仕掛けてくる。
芝居はコンパクトに一時間強、Arts Chiyodaらしい?試作品の趣きであったが、無駄なく濃密な一時間を作った。この会場(地下)は廊下に接したただの四角い空間だが、意外にも劇空間をうまく補い、秀作が産まれる。(サンプル『ブリッジ』、ナカゴーを思い出す。)

ネタバレBOX

ボードゲームやそれを創ったりテストに掛けて改良していく人達のグループがあり、それらをくるめたボードゲーム界隈の事情が話題にのぼるが、これを対話式に思索プロセスを辿る側面と、自らもゲームを作成する登場人物(唯一の男性)と三人の女性との奇妙な関係を紐解いていく側面が並行し、後者が見せる関係性の表情がとても面白く、時に美しい。メンヘラな世界にも見えるが人間の心理の一枚裏で渦巻くドラマを、ひっそりと眺める感覚でもあり、「人間」の輪郭が仄かに見える、というか想像させるのが新鮮である。

「男」には妹がおり、親の影が薄い分、妹は兄をより自由に、つまり男性としても見る視線を弄び、持て余している。また、父母の居ない空き部屋にはもう一人女がどういう訳か住み着いていて(自分の事を語らず身元不明)、ツンデレのこじれたリアクションを常に「男」に対して取る。そして、ボーゲ・フリークで自らチロルと名乗る「妖精」(何百歳になると真顔で話す)が、ある集まりの帰路を「男」に付いて来たため、このとき家の中には三人の女と一人の男が居る。
男はボーゲ、ないしその理論(思想?)には自負があるが世間的な成功を手にしているとは言えない、そのはざまを揺れるナイーブさを持ちながら、「他者」である個々の女性との間では筋を通す事を要請され、葛藤の中から一歩出ようと内心足掻いている、という様子などおくびにも出さず、憂いを帯びている。
身上不明の女はそんな「男」の優しさを当て込んでいる、くせにその優しさに苛立っており、そういう自分を客観的に見る諦観も合わせ持つも、男を責める口を止められないループ状態。
妹は引きこもりで完全に兄に甘えているが(甘えさせてくれる兄でもある)、知的に秀でた兄を憧憬してしまう妹の特性を体現し、社会のしがらみを逃れた箱庭空間で「自由」の時が続く事を願っている、そのループ状態。兄の方も、妹との二人暮らしの円環に安定を見出しているとの疑惑を他の女に指摘さる(「異性」への関心をも充足させる・・性的関係がなくとも)。
自称妖精は、(小倉優子ではないが)奇異に見られる事を意に介さず、自己完結し、割り切った者が(年齢に関わりなく)有する独自の観察眼でまっすぐ相手を見据え、やり合う。この存在がボードゲーム(界)の解説を担ったり、他の二人を観測する定点的役割を(実に変則的に)担う。
終盤、「あの人は何?」と妹に兄が問われるツンデレ疑惑女が、「男」にとって唯一向き合うべき「他者」であるらしい事が浮かび上がるあたりが、加速要因となり、変らぬ日常な風景(4人がボードゲームをやっている)に「恋愛」の色がふっとよぎった瞬間、暗転・終幕となる。
ボーゲ論議が途上にある事が、逆に効いてか、人生の問題は途上にあるとの余韻を残す。語り尽くせない事柄を一くさり語り、ここで一区切り。また改めて語り合おう・・。「思索」がこのあとも続く事は確かなようで。
群盗

群盗

劇団俳小

d-倉庫(東京都)

2018/12/12 (水) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

ゲーテと同時代の、これがあの・・。演劇が持つラディカルも「古典」と教科書に載りゃ無害のお墨付きとか。しかし昨今の「新作」戯曲より余ほど暗く鋭く光る刃が・・。
読み継がれ演じ継がれてきただけに普遍性あるドラマ、何故なら、、と考えて立ち止まる。疾風怒濤(シュトルム ウント ドランク)、これも教科書に載る単語だった(私の頃はね)が、大いなる変動(変革)の時とある。「群盗」は自由を叫び、最後には(形の上では)滅び行く物語だが、作者が掲げたのは滅び(現実)の方でなく、滅びさえ自ら選び摘った実、と宣する(事で成就する)自由の方でなかったか。新しい自由の地平を切り開くべき時代(当時にとっての現代)という感覚は、文明・思想の発展深化の末に、この時代誕生した新たな感覚だったのではないか。。(文学や演劇という芸術が持つ力への期待と熱望と確信が、最も高くあった時代、そしてそれを裏付けた作品たちがあった・・・「疾風怒濤」という語がそんな想念に誘う。)
そんな事を想像させた「今面白い」舞台だった。
特筆は、このスケールの大きなドラマをd 倉庫というスペースで、狭隘さを感じさせず感情表出も目一杯に戯曲のエンタ性をしっかり立ち上げていた事。
歴史的戯曲を手近に届けてくれた感謝も手伝って満点星。(つづく)

エダニク

エダニク

ハイリンド

シアター711(東京都)

2018/12/07 (金) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★

数年前の三鷹でのiaku版は細密度の高い演出で、屠場だけに(控え室ではあるが)照明も暗くじっくり観る芝居だったが、こちらは打って変わったトーンである。照明がまず明るい。如何にも現代の「食肉センター」らしく、清潔感のあるPタイル様の床、ロッカーにテーブル。711の使い方では、私が観た中で随一。確かにこの劇場は狭く、やる側としては出来れば装置は簡略化したい所だろうが、役者は三人、やはりこの芝居では具象がほしくなる。
さて弁明。この日も体調万全でなく(最近そればかり)、そうすると頭の中のiaku版をいつしかなぞっていて待った反応が返って来ない、といって軌道修正の余力なし、結果筋を見失ってうつらうつら。
中盤以降は明快を旨とするハイリンドの本領が我が耳にも届き、追い駆けた。改めてよく出来た脚本、そんな作品には役者を焚き付けるものがある、という事が判る、というか判らせてくれるハイリンド、でもあるか。ハイリンド舞台は直球でポップ志向にも見えるが、既成戯曲の上演主体だけに芝居には逆らわない(自分都合で芝居をしない)、従って今回の作品の「毒」も、いつしか体現している訳なのである。
男の三人芝居ゆえ、枝元女史はこの度は受付周りの立ち回り。演劇関係者(小劇場系女優)の姿もちらほら、注目度が窺えた。

ネタバレBOX

三鷹でのiaku版は、私のツボに入る前の緒方晋(初見)が関西弁で世間知らずのお坊ちゃんをいなしたりブチキレるあたり、またカップ麺青年の陰に籠り方、納品先の様子を見に来た養豚業者の「頑張ってはいるが一つネジが緩いのが惜しい」二代目ぶりなど(今回観た事で色々思い出した)、「リアル」を掘り下げていた分、笑いもあるが人間の暗部が零れ出しそうなサスペンスな風合い。だが後半の刃傷沙汰を基準に据えると、活劇風のテンポ感のある演出が正解なのかも知れぬ。ハイリンド版はそちらに割り切った格好。(途中意識が飛んでしまっては説得力ないが。)

埋める女

埋める女

城山羊の会

ザ・スズナリ(東京都)

2018/12/06 (木) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★

タイトルと内容がごっちゃになり易い劇団の一つ(TRASHMASTERSも然り)。
理由はたぶんチラシが出た段階で内容に関するヒントが殆どない。劇場でいきなり、バーンと見せられる所為だ。
今回も城山羊の会の芝居であったが、そのテイストを演出面にて改めて確認した。場面の変わり目の暗転、どこかから聞こえる奇妙な(どうやら生物が発する)声。濡れ場を作るのは相変わらずだが、今回は話にまとまりがあるせいか不自然さを感じさせず、「筋の通った話」だというだけで良心的な印象を抱かせるのは、「無駄に背徳」でないから、という事だろうか。
今回はユタカという名の中年男(トラックの運ちゃん)が主人公、客に向かって身の上話をするように芝居が始まる。この「観客」の使い方が絶妙で笑ってしまうが、笑いが起きるというのも、「まあ俺の話を聞いてくれ」式の分かりやすい構造が、ズレを作り易いからだろう。舞台はどこかのちょっとした高台にある空き地のよう。話じたいは取り立てて紹介する程のものはないが、居そうな人間のやりそうな言動が満載で、それが溜飲を下げる。
スズナリは「奥」や「裏」があるように感じさせる劇場で、今回の美術でも実在感と奥行が芝居を助けていた。

へたくそな字たち

へたくそな字たち

TOKYOハンバーグ

座・高円寺1(東京都)

2018/12/05 (水) ~ 2018/12/12 (水)公演終了

満足度★★★★

座・高円寺でのTOKYOハンバーグは「KUDAN」(再演)以来。このときは横広の舞台いっぱい動き回り跳ね回っていたが、今度の舞台は「日常」の時間が流れるドラマ。仄かに暖かく浮び上がる教室に、生活臭をまとった顔、顔がいそいそと集まって来る。題材は夜間中学。「糀谷」と書かれてあるから実在する(大田区の)学校である。多様な境遇や来歴を持つ生徒らの多くは、仕事を終えて駆け付け、皆背負う日常も柔でないがそこは大人、教室は騒がしくも気の利いたやり取りで暖かく。ただし最年少の十代女子がハネッ返りで、本音勝負じゃ大人がたじたじ。そんな平和だか戦々恐々だか一見判らない教室へ、最高齢となるだろうそば屋の主人が入校して来る・・。物語は、彼が娘の同伴で学校の説明を受ける場面に始まり、卒業式を迎える時までを切り取ったもの。この学校に通う事がその表われであるが、弱みを抱えた人らが懸命に生きながら互いに触れ合い、人生そして社会(人の繋がり)という編み物を織っていく姿をさり気なく描いた作品。秀作だ。
この題材を描いたモデルとしては、私の中には山田洋次の『学校』があった。映画では登場人物の取り合わせに出来すぎ感が否めないが、様々なタイプの人間が一所に集い繋がって行く暖かい感触は、この映画を思い出した。
主人公は一応このそば屋のオヤジさんではあるものの、群像劇では一人一人が重要。台詞やエピソードで語り切れない生徒たち一人一人の佇まいの中に、「信じられる」生活感、存在感があり、「教室」を介して人生での貴重な時間を刻む姿が立ち上がってくる。・・妻が妊娠中の鳶職人、いい年のトラックの運転手、(実家の?)廃品回収業を頑張る青年、内装業に雇われている中国人、同じニューカマーの韓国人女性、脳性マヒの少女(20代?)。教室では定番のやり合いがあって毎回一時限目が始まる、その教室での国語の授業の様子もじっくり描かれる。学校側の登場人物は担任の女性教師、副校長、新任教師(ともに男性)。だが、舞台中央に浮かんだ教室の「外」の場面も重要。何名かは舞台際に立って自分の事を紹介する。仕事中の他の生徒と出くわす場面も。登下校の道のりも教室の周囲に長く取られていたり、後半ある課外授業の様子も「外」で描かれ、今回の座高円寺の広さというハンディを、教室とそれを取り巻く社会という図式に転換させ効果を出していた。
人間トータルの存在を納得させられる毎に胸がざわざわ鳴る。中でも障害を持つ少女を演じた永田涼香(夏に一人芝居に挑戦した)は地味ながら出色で、この役柄のような人と接触した事のある観客は、その風情から発する多くのものを重ねた事だろう。生きる事への健気さ、仲間が好きである事、知らない事を恥と思わない事、誇り高さ、等々。。事実彼女のような存在が人と人を結びつける。弱さがハンディでなく武器となる社会のモデルがここにある。「学校」とは何か・・・映画『学校』にもその問いがあったな、と思い出した。

ネタバレBOX

注文も幾つか。
西山水木さんがもう一歩「役」(担任)に近づきたかった。登場するのが副校長と新人教師(男)との3人で、西山女史が校長でもおかしくない風格なため、つい偉い先生に見えてしまったり。
生徒同士のアンサンブル、教師のアンサンブル、そして両者の融合という具合に世界が作られたいが、教師側の台詞はあまり多くなく、その分黙っている時の演技=存在の仕方で、私としては「道半ばの教員生活」「心許なさ、不安の中にあっても教職の理想を見出そうとあがく姿」「祈る姿」が見えたかったように思う。難しい注文か。。

ラストに持ってきたオチは、意見の出るところだろう。主人公が生前教室で手を挙げて答えた言葉が、最後の最後に、じらされた後に紹介される(過去のその場面では手を挙げた所で暗転となり、伏せられる)。端的に言えば、オチとしては弱い。また、期待されたのと違う質の言葉であった。
ではどの言葉なら良かったか・・は答えられないが。でも考えたくなる。
この物語は事実に基づく。恐らく作者としてはあの言葉は外せないのではないか、と想像した。
ならリアクションである。例えばあの台詞は他の生徒の口からでなく、やはりオヤジさんに言ってもらう(劇でもそうだったかな・・失念)。するともう一くさり、他の生徒から突っ込みとかリアクションが欲しくなる。少しの間のあと、トラックの運ちゃんが「そりゃその通りだ」とか。するとオヤジさんは、黙して「学びたい」意欲をめらめらと燃やしている。その様子に皆が驚き、やがて感化されて教室が湧く・・。
そんな想像もさせ、それに応えてくれそうな人物たちが私の心に棲んでしまった。
逢いにいくの、雨だけど

逢いにいくの、雨だけど

iaku

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2018/11/29 (木) ~ 2018/12/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

評判が良いので観に行った。口コミの影響大。
今年やった過去作品集のウェルメイド臭が、最近の戯曲(「エダニク」以降今作で6作目だろうか)では殆どみえず、(作者にはどうか知らぬが)私には大きな違い。今作も然りであった。
しかし、思わず「うまいナ」と(悪い意味でなく)呟いてしまうものはある。シーンの切り取り方、役者の使い方。今回は上田一軒でなく作者自身による演出、悪くなかった。
作劇としては、大きく二組に分けられる当事者(要は被害者と加害者)の、過去の出来事のあった時間と、現在の時間それぞれを細切れに重ねて行くように描き、「出来事~現在」の時間が徐々に濃厚に形成されていく構造が優れている。何より、私たちの殆どが経験しない出来事を実感的に追体験するための(想像を促す)時間をじっくりと用意してある事。早急に答えを出そうとするような存在と、そうでない当事者とのやり取りの中で、当事者がどういう実感を持ち、過去から現在への時間を刻んで来たのか・・容易には分らないにせよ、その「想像されたもの」が展開のベースになり、観客が舞台から得るものとなる。
そして役者は、能う限りの精密さで感情を表出し、「そこで何が起きているのか」を雄弁に知らせる。そうして出来上がった幾つかのシーンが記憶の中に珠のように煌いている。

森から来たカーニバル

森から来たカーニバル

劇壇ガルバ

駅前劇場(東京都)

2018/11/29 (木) ~ 2018/12/09 (日)公演終了

満足度★★★

言わぬが花・・とも思ったが一言。
山崎氏は演出をしていない。自身は役者としても顔を出していたが、出演を諦めてでも「演出」に、つまり作品にこだわってほしかった。
しかも題材は別役。それも子ども向けの企画に書いたもの。舞台を「成立」させる事の難しさに考えが及ばないとは。何となく狙いは判るが、何となく以上に思考が詰められていない。
劇的瞬間として焦点化する箇所をどこに据えるかで、全く違って来る不条理なお芝居を、それぞれのシーンを単独で成立させようとする事がそもそも違う、策がない。演技はリアリズムで押しきれないと判ってか、その線を狙ってはいないが、非リアリズムにも徹し切れておらず、成立する演技態を見出し得ていない。そのあたり、塩梅をするのはやはり演出だろう。役者頼みスタッフ頼みでは、残念ながら太刀打ちできなかった。
山崎氏があえて自ら座組をまとめて公演を打つ目的も、よく判らない。役者としての障害である老いに備えて何かに挑戦したかったのか知らん。継続的活動として行くのなら、役者的思考を離れて、一度「演劇なんてクソの役にも立たない」境地にまで下り、そこから舞台を立ち上げてほしい。

その恋、覚え無し

その恋、覚え無し

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2018/11/27 (火) ~ 2018/12/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

十年程前に非演劇系の真面目な雑誌が「新進劇作家」を特集し、今考えると親切な事に蓬莱、赤堀、倉持、はせひろいち、そして東も「飾り込んだ美術は一見の価値あり」と劇団ともども紹介されていた。その後の活躍を見ればその特集は有難い手引きで、他の作家・劇団も観てきたが、桟敷童子ほどコンスタントに新作公演を全力投球で打ち続けている「劇団力」のある集団は、演劇界でも珍しいのではないだろうか。
最近は劇作のクオリティを心配した事がない。本人曰く「同じネタの焼き直し」「およそ三つのパターンの使い回し」と謙遜する通り定番なお話ではあるが、いやいや千年一日とは程遠い、何か新たな要素が加わって来ている気がしている。うまく言葉化できないが・・表現的に危うい部分、ビビッドな瞬間が挿入されるのがそれだろうか。一瞬の間合いだったり、表情の変化だったり、台詞を言っていない人物のちょっとした仕草だったり、それが劇団役者の培った強固なアンサンブルに「揺らぎ」「隙間」をもたらし、観客にさり気なく知覚させる。リアリズム(新劇)系からのアプローチではまた別の言い方で捉えられるものかも知れないが、桟敷童子の文脈では新たな要素ではないか、と思ったりしている。(観る側の変化という可能性もあるが・・。)この微妙なニュアンスの伝達が劇作と相伴い、芝居に深みをもたらす、と同時に劇空間と「現在(現実)」とを繋ぐ非常に重要な回路となり、桟敷童子の芝居を単なる「物語世界」の説明・提示にとどまらない演劇的「現象」にしている所以とみた次第。

ネタバレBOX

今作も実に良い。「良い」、という形容で勘弁して頂く。
盲目にもかかわらず楽天性がのぞく女四人衆の出だしも掴みバッチリ、冒険譚の始まりのように童心に火がともる。そして彼女らを迎える村の者らによる警戒しつつの歓待、山の神信仰に結び付いたしきたり。人々の活力が良い。悪人は出てこないが「自然」という大きな壁が立ちはだかっている。そして平地の方から迫ってくる文明のさざ波、時は大正から昭和の変遷期。山神を恐れ暮らす人々の素朴さ。女の豪快さ。男の繊細さ。どれも、良かった。
役者にはそれぞれの適役が振られる。板垣・大手の両頭と客演女優二名の四勇に、鈴木・原口・もり・稲葉がしっかり脇を固め、川原・新井・新人内野も味を出し、客演男優も団員の如し。さて今回は池下無き後の主役級男を若い深津が担い、長身で風格をみせた。役者は育つのだ、と改めて。久々の山本の健在な姿を見るのも嬉しい。
松本紀保は弱点を背負う役を生き生きと演じ、前回より劇団に馴染んだようにも。余談だが石村みかには終演まで気づかず、コールで名を呼ばれてやっと気づいた(目を閉じた盲人の演技だったため)。中盤までは最近入った(少し年齢を重ねた)新人かと思っており、ぐんぐん存在感が滲み出してくるので一人で驚いていた。
空想科学II

空想科学II

うさぎストライプ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/11/29 (木) ~ 2018/12/09 (日)公演終了

満足度★★★★

開演前から板付いてるベッドの二人。一人の頭には・・‼だがもう一人はそれに頓着なし。既視感を覚えて記憶のページを捲ったが、うさぎストライプ観劇じたい1、2本。「デジタル」の光景は仄かに残るが、粗筋をみるとほぼ同じらしい「空想科学」(2014)、どうやらアトリエ春風舎で観ていたようだが、記憶にない。脳天斧以外、本編通して何も思い出さなかった。
うさぎストライプの舞台は力みがなくふわふわとしている。強く主張もしなければ訴えもせず、伝える事にさえ遠慮がちに見える。断定を避け、出る杭にならぬよう振る舞う現代人の習い性が舞台にも反映、だったらやらなきゃいいくらいな印象。
しかし、人物とエピソードを増やした今作は、しっかり印象に残ったようである。
こういう系の芝居を見慣れて来たせいかどうか、判らないが、自分と全く無関係な話ではなく感じられたという事だろう。勿論相変わらずふわふわしているが、それなりに精一杯、人生讃歌を届けるべくやっておられる、と。
このユニットの特徴である歌や踊りが、ドラマ性を高める相乗効果を生まず、不要な婉曲表現で希釈している感もあるが、師匠平田オリザ風の歌の用い方を私が好まないだけの話かも。今回はある楽曲に乗って得体の知れぬ諸々たちがベッドの周りを踊り巡るシーンがツボに当たった。そしてタカハシを演じた男のキャラ。 

ネタバレBOX

眠りの(夢の)世界と現実世界それぞれの住人が居て、場面が交互に入れ替わる。双方を往き来する人がやがて夢の世界から抜けられなくなり、他方の住人がふと別の方に紛れ込んだりその逆があったり、出ているが背景に過ぎなかったりと、パズルの難解な問題を出されたような気分にもなるが、見た所パズルの方はさして重要でなく(「死」を体現する人物二名のみ押えればよし)、次の事が染み込んで来れば差当り観劇は軟着陸と言えようか。
死は唐突に無意味に訪れる。人の生涯の価値は何人も計れない。それが孤独死であっても。そして思う人の心に死者は住み続ける・・。 
狂和家族

狂和家族

劇団女体盛り

SPACE EDGE(東京都)

2018/11/30 (金) ~ 2018/12/02 (日)公演終了

満足度★★★★

初観劇の団体。チラシに惹かれて観た。
spaceEDGEは小さい。(この会場の別仕様だったか同敷地内の別のスペースかでもっとゆったり観た記憶はあるが。)
先日までトラムで上演していたらまのだ「青いプロペラ」の初演もここの同じ仕様で狭く、舞台を作り込んで(生楽器スペースも仕込んで)中々見せる舞台に仕上げていた。今回の女体盛り公演もその記憶に重なる所が。・・こういう場所でも芝居は出来るという。
折込みには桜美林鐘下クラス(と言うのか)上演の案内あり、ラッキー(徳望館、遠い..)。後でみればこの団体も桜美林卒業生のユニット。しかもまだ卒後二年。半ば予想したとは言え受付人員、客層とも二十代の若さ。ただし落ち着いている(会場のせいか)。また客席には5、60台の姿、身内か、演劇関係者か・・と会場をみながら想像を廻らしていると、無駄なくそつない前説のあと壁のスイッチで室内灯が消され、本編が始まった。
全編が非日常な状況に占められていたが、若い割りには制御されたドラマという構築物がそこにあった。

ネタバレBOX

「狂和」という妙な語感の造語が狙う所が、観終えた今では判り、狂った(歪んだ)ままに和する事のケーススタディと言えなくもない。実例は現今にもナチス時代ドイツにも認められるわけで。このドラマの極端な展開も「有り得なく無く」見える。
リアルを裏付けようと詳細に説明を施し始めたら中々厳しいだろうが、家族の陥らないとも限らない病理をざっくりとながら示していた。
極限な状況から幕を開ける家族の物語はそこに至るプロセスを回想シーンで謎解き、現在進行形の話も進展してある結末を迎える。
ハッピーエンドの訪れは冒頭から断たれているに等しいが、場当たり的にやり過ごしてきた家族の近視眼がやがて破綻を来す段階に至って、ようやくにして遅きに失する「気づき」を得る。再生へと活かされる事のない気づきではあるが。
観客の目には、最後まで歪みを認めない者、従って自分の非も認めないある人物に、諸悪の源を見出だす格好となるが、この人物と切り結べなかった他者=家族の思考の不徹底は看過できず、「何故ここまでコジらせてしまったのか」と思わずに居られないが、ダメダメな中でも最悪は、「気づき」にもかかわらず再生への欲求を湧かせず(真の気づきに非ず?)、死を選んだ事、の一事に尽きてしまう。つまりその前段まででドラマは十分に語られているわけだ。問題人物の背景が見えて来れば、別の選択肢が有り得たが、最後に「ケリをつけた」人間は問題人物の論理に乗ってしまい、ついに主体的行動を取れずに人生を終えてしまった、そういう悲劇にもみえる。
粗削りながら、5人という人物配置での面白い思考実験をみた。
歯車

歯車

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2018/11/24 (土) ~ 2018/12/15 (土)公演終了

満足度★★★★

SPAC今期の三作はどれも観るぞ。との願いは二作目まで叶った。
三つの中でも「歯車」が最も正体不明、戯曲でもなく、著名な作品でもない。未知数度が高いため観劇前にネットの青空文庫でざっと半分ばかり目を通した。
「歯車」は芥川龍之介晩年の、というより殆ど遺作であり、「死」の影が随所に出没する。語り手が語り手自身を「僕」の一人称で綴るこの文章では、確かなストーリーとしては湘南の実家から披露宴のある東京のある場所への移動くらいのもの。文章の殆どはその過程での「僕」の心象風景か幻影か、実際目にした事物からの連想や投影されたものの描写である。

多田淳之介演出が強く出た舞台であるのは予想通りであったが、二時間弱と長めの舞台、ストーリーの薄い題材がどういう出し物に結実したか・・説明し難いが全体の印象と合わせてネタバレに。

ネタバレBOX

舞台は意外に原作小説に忠実、つまり端折らず6章のエピソードを再現しようとしていたように思う。終盤のしつこさは「カルメギ」を思い起こさせる。他者の作品への態度だろうか。自身が作るコンセプトありきのアイデア満載の舞台は、ドラマというより知的な気づきや思考を喚起する刺激を繰り出す仕掛けに近い。宮城聰芸術監督のオファーを受けて思わず考え込んだとアフタートークで演出が語っていたが、他者の作品を演出する態度があったようである。
原作が仄めかすものをざっくり抉り取り、多田流のコンセプチュアルな舞台をオファー側は期待したのではなかったか・・と考えたり。もっとも原作は小説であり、一個の作品である。原作が持つ空気感を多田氏の持てる限りの手を尽くし、舞台化したものと見え、気合いは十分感じるのであるが、一抹の疑問は、演出家が小説から探りとったドラマ性は何だったのか、という点だ。(つづく)

2ヶ月後の追記。
既存台本を演出するように、小説である「歯車」のテキストをほぼきっちり追っている。これは私には最終手段に思えた。「テキストを追う」という形式を採れば誰も「『歯車』を上演した」事実について否定はできない。あとは単なるリーディングにならないためのメニューをどう配置するか、このあたりは多田氏の自任するところだろうが、テキストそのものへの批評をうまく回避している、と見えてしまう。
演劇には色んな形があって良いが、今作では、一つに絞る必要はないがドラマを浮上させてほしい気持ちは残る。ただし、終盤に見えた「ドラマチック」な演出は逆に不要だったかも知れない。作者芥川に重なる主人公が帰宅したとき、迎える妻が甲斐甲斐しく、作家である夫の(文学史上の)価値も間もなく死地へ赴く事も「知っている」体である。多田氏は恐らくあまり自覚的でないが、芥川龍之介という夭逝した作家の物語を彼のことをよく知っている妻の視線を借りて成立させた、一人の天才作家を顕彰する内容になってしまった。『歯車』を通して作者が表現しようとしたもの、または表現された作者自身を、語る事がミッションであったのに、一人の偉い作家の晩年の一コマとして「歯車」のテキストを当てはめ、「かく生きた作家がいた」と、ただそうまとめただけの舞台になった。どう生きたかは皆さん、勉強して調べて下さい。それだけになってしまった。興味深い場面の数々の「面白さ」は認めても、そこが抜けているとやはり欠落感が否めないのだ。
そしてそれを埋めるかのように、音楽が意味深に流れる。冒頭、結婚式に招待され東京行きの汽車に乗るくだりで木村カエラが流れる。「現代で言えばこういうことだよね」という置き換えに、殆ど意味が見出せない。別に、当時を偲ばせるものでよいではないか、と思えてしまう。爆音で流す音楽を使うのも多田氏演出の手法の一つだが、ドラマに乗っからない内に無理やり音楽で盛り上がりを強要されるのも苦痛だった。というか、そんなもので騙されないぞ、という気分になる。

「歯車」は最晩年の作品であり、芸術家が自分の才能の限界や人生という時間や死を意識する話である。多田氏の中にこれに共鳴する素養があったとみて発注した仕事だったのだろうが、多田氏はそこを見せなかった・・その結論をもって終えた観劇。
北村明子 Cross Transit project 「土の脈」

北村明子 Cross Transit project 「土の脈」

北村明子

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2018/10/12 (金) ~ 2018/10/14 (日)公演終了

満足度★★★★

だいぶ日が経ってしまったが・・。
某演劇プロデュース会社の女社長の名と同じ名で覚えていた舞踊家。国際交流・制作をこのかん精力的に行なっているという。今回はインドのある地方の「歌い語り」の芸能(その第一人者を招待)、その地方に伝わる武術と結びついた舞踊(カポエラのような?)も舞台に登場していた。北村女史はこの地方に実際に訪れ、触発されて今回の企画に至ったとか。製作の重要な一端を担う音楽の人も当地を訪ね・・・初めてだけに事前情報は仕込んで観劇に赴いたのだが。

ネタバレBOX

率直な印象・・・。
国際的な活動は「舞踊」(作品)にとっての手段ではなく、国際交流試合そのものが目的となっている(手段化し得ていない)、という様相が気になった所である。
「手段化し得ていない」とは、北村明子メソッド、ないしは目指すもの・探究テーマが確固としてあった上で、アジア諸国のアーティストとの共演がその「手段」として位置づけられる、という具合になっていない、という意味だ。
大変失礼な事を書いているやも知れぬが(製作の苦労は尋常でない事だろうが)、作品そのものの成り立ちが、先方の持ち込み(実際はこちらが共演を申し込んだ訳だが)を受容するのは良いが、それに乗っかってしまったような感触。つまり迎え撃つ側の主体が弱いのだ。
従って、何のための交流か・・・疑問が湧く。
北村女史は、現在は西洋から持ち込まれた舞踊が主流だが、もっと近いアジアが芸術・パフォーマンスの宝庫である事に気づき、今は目がそちらに向いている、といった趣旨をパンフか何かで述べていた。この発想の入り口はよく分かる気がする。
ただ、具体的に発見した「何か」・・・今回はインドのとある地方の伝統芸能であったが、これらがなぜ「選ばれたのか」・・・(そこまで厳密に根拠づけが無ければならないの?厳しくね?・・突っ込まれそうだが)、そこは事実気になったのだ。これは動機の問題というよりは、パフォーマンスに取り入れる技術の問題であるかも知れないが・・。

中盤以降、違った風景が見える。パフォーマーの半分を占める日本人の踊り手と、外国の踊り手のコンビによって展開されるコミュニケーション実験のような目まぐるしいやり取りは美味しいシーンの一つだ。これが幾つかあり、「国際交流」の舞台化として見せる芸になっており、秀逸であった。海外の踊り手もうまく踊る。だが、これらは付加された脇筋に見える。これをやるならこれを軸に構成すべきでなかったか。
幕開き、敷き詰められた砂の上に、ちょうど人一人の尻が乗る位の台座が点在し、踊り手は袖から一人また一人と出てくる。武術系の動きが激しく交差し、やがて台座の一つに腰を落とし、その場所から機敏に動作を開始して別の台座に着く、という場面に移る。そこでは姿勢を低く探るような動きで砂を手でサッと散らす動作が入る。・・この動きが冒頭暫く続くが、この抽象表現の意味合い、比喩、美的要素・・つまり狙いがはっきりしない。目に面白くないのだ。まず、敷き詰めた砂とは自然を象徴すると見えるが、これを踏んでいるだけで十分に接触がなされているのに、わざわざ手で触れ、砂を飛ばすのが余計なしぐさに見えてくる。また台座に座っている状態とは何なのか、何かを読み取ろうとするが分からない。「自分の場所」にこだわる狭量さの象徴か・・・だがそういう病的要素はこの出し物の対象からは外れているように思える、だとすれば「自分の場所」=国・民族?を意味し、そこから互いの事を探り合うイメージか、と考えたりしたが、今それをやる意味があるようにも思えず・・。
この長い冒頭の段階で、パフォーマンスの狙い所が示されない事が、まず消化不良である。
中盤以降、ようやくにして徐々に熱を帯びて来るが、音楽共々終盤に近づくにつれ、期待されたのが、舞台四隅に吊された白く光るレースの布である。先端の紐は天井へ向かい、レース布は円錐形を作って「時」を待っているかに見え始め、その「時」には、紐が上方へ引かれ、下方で布は広がり、風景が変貌する・・・テント芝居で言うところの屋台崩し(観客個々の様々な想像の受け皿となる劇的効果)を期待したわけであるが、予想に違わず、徐々に引き上げられていった。
・・のだが、ほんの少しで終わってしまった。KAATの高さから言ってもっと「劇的」変化を見せるまで、引き上げられただろうに、なぜその中途半端な高さで終わる・・・?何を遠慮したのだろうか、と。
まぁ技術的問題が何かあったに違いないと信じたいが。

終わってみれば、インドの芸能の出番が多く、全体を相当程度浸食した事で、逆に有り難みが・・という憾みもあり、「主体」が霞んでしまう憾みもあり、スカッとしないものが残った。
前情報ではかなり期待させた音楽も、私にはいまいち存在感を感じさせず、拍子抜けであった。
『眼球綺譚/再生』

『眼球綺譚/再生』

idenshi195

新宿眼科画廊(東京都)

2018/11/16 (金) ~ 2018/11/27 (火)公演終了

満足度★★★★

「朔」を鑑賞。リーディングという。幾らか著名な読み手を揃えたせいか、入場料はやや高め。何か趣向が凝らされているに違いないと期待値高めで席に座ったが、動き無し、言葉のみ。厳しいものがあった。
体調も悪かったが、元々遅読で何度も文節を行き来する自分にとって、言語情報だけを脳内変換して作品の世界を構築するには補助線(身体を動員した演技)が不足。
睡魔と闘い必死で食らいついたがかなりの語数を逃した。最後のオチは聞けたから、そこから本編の構成を推測した次第。巻き戻しが出来ればなァ。。

出演者4名に役割をうまく振り分け、構成にこだわってスマートな印象はあった。主宰の高橋郁子氏がどの程度「リーディング用の脚色」を施したかは判らないが、パンフをよく見ると各出演者に役名がしっかり振ってある。最早思い出せないが、ネタバレ的な配役表記に一定の脚色意図があったらしい事が窺え、もう一度見たくなった。が・・・この回が千秋楽であった。

満州戦線

満州戦線

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2018/07/11 (水) ~ 2018/07/16 (月)公演終了

思い出し投稿:
恐らくは疲労で途中舞台でなく夢をみた。到底眠りを誘うような要素は無く、メリハリのあるスピーディな演出だったが、人物関係の把握ができない滞留時間が暫くあった事(台詞では名は呼ばれ説明が施されているが説明された人間関係の風情がみえず混迷)、もう一つはこの韓国人作家による満州在住の(現吉林省あたりだろうか)朝鮮人の話が、どの視点で描かれているのか、シライケイタがどのような潤色で臨んだのか(前回は朝鮮人を全て日本人に置き換えて上演したと聞いていた)、見えて来なかった事による。
「前回」とは同作家による戯曲の上演で同じくシライケイタ氏の演出であった(観なかったが知人から面白かったと聞いた)。
そんな訳でコメントを控えていたが、日の丸に命を捧げた朝鮮人の話を日本人が芝居として上演する行為が孕むナイーブな問題が、まず第一に意識されない上演は、たとえそれが完成された戯曲であっても、意味的には不明瞭になる。そういう舞台に私には見えていて、その感触は払拭されずに終わった。見当違いな印象である可能性もあり、それを検証する材料が無いが(戯曲も日本語に印字されたものは無いらしい)、記憶にとどめて置こう。

ダンス30s!!! シアターコレクション

ダンス30s!!! シアターコレクション

モモンガ・コンプレックス プロジェクト大山 MOKK

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/02/01 (木) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

思い出し投稿:
MOKK「f」岩渕貞太版を鑑賞。女性の踊り手のバージョンと出来れば二つを見て考察したかったがその機会は当面なさそうだ。
舞踏系のゆっくりとした動き。リノを全面に敷き、あるのは簡易ベッド(ストレッチャーのような)のみ。四箇所(確か)で天井から液がポタリ・・・・・・・ポタリ・・・・・・・。若干の粘着性があって床に落ちても滴が飛ばず広がらない。薄暗がり、僅かな照明のため陰影がくっきりと。演者はモノクロに染まった場内を、移動式の鑑賞形態に戸惑いつつ眺めている観客の影の間を、ゆっくり移動する。白いワイシャツは濡れ、長髪も濡れ、時に観客に関わりながら、進み、ベッドに横たわると、無言で客の何名かに頼んで何かをしてもらったりする(肌に触れるとか何かで、その後腹部が激しく起伏し、何かが産み落とされる、という顛末だった気がする)。しまった体、長髪は性的アピールがあり、手を取られた女性はキュンと来た事だろうな、等と想像したりする。「美しい身体の鑑賞」以外の目的をこのパフォーマンスに見いだせず過ぎった思念であったが、今なお判らない。ポタリ、ポタリが撥ねないのは特許もので、何かに使えないものか・・と考えたまでに終わった。申し訳ない。

キャンプ荼毘

キャンプ荼毘

ひとりぼっちのみんな

STスポット(神奈川県)

2018/11/21 (水) ~ 2018/12/02 (日)公演終了

満足度★★★★

先日の「だ」組に続き「び」組が観られた。リピートは滅多にしないが、料金手頃アクセス良し、何よりこの独特な出し物が別チームではどうなっているのか、気になった。
成る程。違いは随所にある。役者の得意技や持ち味、集団が作る色でどうやら細かく演出を、時には台詞も変えている。まず冒頭の「キャンプ荼毘」のテーマ曲に合わせたムーブ(比較的激しい動きのアンサンブル)から振りが異なり、「だ」組以上に切れ味がよく、「だ」のオープニングは思わずにんまりしたが、「び」には思わず見入った。
一方芝居に入ると、「だ」はある程度キャラが立ち、流暢で声量バランスも適切。場の雰囲気は「だ」がよく出して情趣があったが、「び」では台詞は折り重るがキャラ立ちがして来ず「人物」が判別でき始めるのはだいぶ後だった。
同時進行で台詞(歌)が重なる箇所での、声量の塩梅も違う。序盤で主人公がナレーション的に呟く台詞と、彼女にディスられている女子数名の会話が重なるが、「だ」組では女子数名の会話の方が聞こえ、「び」は逆。中盤の(カラオケの)唄と飲みながらの会話が重なる箇所では、「だ」はカラオケの歌をバックに、歌の合間で酔った女子の会話が聞こえてぐっと親近感が増すが、「び」では歌の声が完全に会話をかき消していた。歌はそれぞれ異なる曲目で、感情を注ぎこんで熱唱する。
戯曲の前半は人物らの関係図や心情が入りづらい分、役者の個性が場面の作りを左右する面が大であったが、後半は両チームの違いはほぼ無く、テキスト+動き(パフォーマンス)の持つ力で劇を終幕へと一気に運んだ。言葉だけで押し切らず、静寂と、嘘のない身体を通過して伝えて来る何かがある。

ネタバレBOX

主人公は最初、周囲の人間を他者として観察する対立構図があるが、中盤から彼女も群像の一欠片と見えてくる。
演劇部時代の「先生」と部員全員が恋していたり関係を持っていた、という荒唐無稽も話の前提にしてしまえば深追いされず、「自分」語りの背景程度の味付けとしてどうにか飲み込める。
そして安定を手にする事の出来ない若い世代(主人公がその代表)の痛い自意識が、「自己肯定」の手掛かりを過去に探し求める局面にまで至る。
この芝居の人物たちは、特別な不幸を背負っている訳ではないが、現実に向かって足掻くそれぞれの生の風景は、定まらない存在の寄る辺なさ、心もとなさを基調にしていじましい。素裸にされた存在たちだからこそ、上を向いて今日を歩いて行く姿に胸が熱くなる。

このページのQRコードです。

拡大