満足度★★★★
上演履歴に見当たらず、企画の〆は新作?と乗り気でいたらもっと若気の作品という。それはそれで興味が湧く。
パンフjに「参考図書」としてフルトヴェングラー関連書の題名が見えた。二十世紀(前半)の最も著名な指揮者とだけ耳にしていたが、ナチスとのエピソードがあったと観ながら思い出した。史実が題材でもドラマ進行のポイントとなっているエピソードが史実をなぞっているかは不明。指揮者の名も呼ばれず、宣伝相とあってゲッペルスと書かれていないので相当程度フィクションが混じるとも窺えるが、楽団へのナチスの真綿で締めるような介入がうまく描けている。実際に宣伝相本人までが出張って言葉を交わしたかは疑わしいが。
オーケストラを描くのに演奏場面を出すかどうかは判断の分れ目になりそうだが、演奏どころか楽器を取り出す事もない(チェロなどは布でくるんだ中身は間違いなくフェイク)この舞台には違和感も不足感も覚えず、音楽と芸術について真正面から語った作品になっていた。
冒頭、袖で演奏を聴く指揮者の秘書、少し離れて鉤十字の腕章が見える制服姿。流れる演奏は古い音質からして恐らくフルトヴェングラー指揮の実際の音源で(クリアな音より余程いい)、緊張感が漂う。芸術を権力に利用し統制下に置こうとする力と、それに抗う音楽家(たち)、という単純図式でない配置もうまい。
戯曲中の出色は、良心的な存在として登場するチェリストに作者は「私は演奏が出来さえすればいい」と言わせる。だが彼の態度に「演奏すること」が即ち自分の良心に従う事である、という哲学が立ち上っている。これまで観た野木作品の中で、この最も若い時代の作品が最も老成し深みを感じさせた。
高名な指揮者が率いる楽団ながら、三分の一のユダヤ人演奏家が在籍するという状況が徐々に、やがてはっきりと桎梏となっていく。ある演奏会の開演間際にナチスが旗の掲揚を要求し、飲まざるを得なかった事に始まり、「敗北」を喫していく暗鬱の中、「私たちは演奏をしよう」と誰かが言う。この取り立てて何の飾りもない台詞に、虚を突かれた客は多かったろう。芸術を志す者たちへの敬意と静かな声援がひたひたと会場を浸すような感覚が作られた。「演奏をする」とは何か・・音楽家にとっての日常だろうか、それとも特別な何かであり、特別を担う者が芸術家であるのか・・。いずれにせよ「演奏をする」ただそれだけが希望であるような瞬間を作り得たことが、この作品の価値だ。
(劇団websiteによれば)初期作品の中には女性が登場する戯曲もまだあったが、やがて男一色の作品ばかりになったようである。本作は紅一点だが(演奏家に女性性を感じる部分もあってか一人という感じもしなかったが)、ドラマに丸みと膨らみを与えていた。