水の駅 公演情報 KUNIO「水の駅」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    「水の駅」初日の当日券抽選に並び、くじ運の無い身が引いた事のない一番を引いて不吉さにビビりながらも、ほくほく観劇した。
    沈黙の劇世界を彩る音楽はジムノペティ。ゆったりビートのアレンジ、通常演奏、エフェクトで歪めたバージョンと出てきて、このまま同曲の変奏で行くかと期待したがそれはなかった。他は基本クラシックで3曲位使っていたろうか。無音の箇所との組み合わせで変化を付けていた。
    場内は、森下スタジオの内壁そのまま見せ、雛壇客席と開帳場の舞台装置が対面し(普通の舞台・客席の関係)、その周囲に隠しは置かず、照明の影に目立つ事なく沈むのみ。開帳場のどん詰まり(頂点)が人の登場する所だ。その頂上ラインの右寄りから左手前へ斜め一直線に白い矢印が、通路のように書かれている。実際人は皆ここを通る。その斜めラインに沿って、中空には洗濯物干しのように綱が渡され、綱には小型の照明が下向きに吊るされている。左奥に粗大ゴミっぽい山。そして白い通路の真ん中あたりに、ちょろちょろ水の出る音を立てて蛇口が立っている。
    ・・と情景の説明をしたが、聴覚情報は音楽か無音、芝居は視覚情報に殆ど頼るしかない。が、前の席の頭が舞台手前中央に位置取り、視界を阻むので、声のヒントがないと重要な情報を見損ねる。二人組の時など双方の働きかけや、それとは別におもむろにわーっと大口を開けて叫ぶ所が幾つかあるが、これを見逃してしまう。情景が見えないと退屈で睡魔が襲うので、後半は割り切って「今観るべきポイント」を探って忙しく上体を動かすことになった(もちろん最小限に)。
    あと、元の形式(太田省吾演出)を知らないが、多数の出演者から想像されるように恐らくKUNIO演出の特徴と言えるのは、開帳場の奥から「役」を担った人物が順次登場し、無言のドラマを展開し去って行く仕様である事。各人物の「動き」というコンテンツ(人物設定・関係性)の作り次第で、舞台の質が左右される、という作りである事だろう。舞台全体が志向するものは多分無かった。が、意外に「まじめに」作られた印象で、生前の太田省吾の教え子であった杉原氏が、師匠の遺したものへ現在の彼なりに答えを返そうとした舞台と感じた次第。舞踏に通じるスローな動きを基準にした点にそれは表われたが、しかし貫徹するものが見えなかった、というのは、トークに招かれた内田儀がうまく解説していたが80年当時はバブルへ走り出す時代、物事が過剰さを帯びて行く世相があり、太田氏はそれをそぎ落とす事に表現の目的を据えた。過剰なドラマ性(ドラマティック)が無くとも人の営みがある事を、それを超低速の動きに映し出そうとした・・。今回の舞台の中で「あ」と思うシーンが、それは何でもない役者の動きの中にであるが、あった。「この感じが本来この舞台が狙ったものではないか」と、風が頬に当たるように感じた箇所の一つは、後ろ向きの歩行であったと思う。迷いの無い動きであるが速度は遅い。過剰を削り取っていった人間の姿は、即ち「余計なもの」がなくても生きて行ける要素を備えた姿と言える。余計なもの、の中に文化は含まれようが、本来不要なものに依存したあり方を疑うプリミティブを志向する舞台は、緩慢さに徹し、シンプルさに徹する、という所にあったことだろう。対して杉原演出版は、基本を無言、緩急に据えながら時にスピーディにも動く。人間模様に多様さを持ち込む。そうなると「水」は何の象徴なのか、という疑問が(これも内田氏が述べていたが)残る。まさにそのような印象を私も持った。「水の駅」という伝説ありきの、レイヤーとしての舞台であるが、視覚的な「形」を似せるという継ぎ方も、あるのやも知れぬ。「面白ければよい」のである。ただし私の目には(席の問題なのか)シーンが数々ある中で関係性を読み取ることができず判らず仕舞いのシーンが幾つか残り(全て判る必要は無いと考えているが)、あるいは複数いた男女カップルの営みに差異を感じられず、それがそのまま「面白さ」の半減となったのは事実だった。
    部分的には表現の面白さや巧さ、形の美しさ、情緒など楽しむべき所はあったし、太田省吾のかつての仕事について想像を及ばせる貴重な材料にもなった。

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    2019/04/01 09:00

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