満足度★★★★
万有引力 in スズナリへ、また出掛けてしまった。非寺山作品に挑み、天井桟敷を正統に継承する舞台と評価された作品とか。狂気の演劇人アルトナン・アルトーの名に「オ?」と目が行くが、かの地の前衛の前衛たる所以はこのテキストからは判らなかった。残酷な状況が取り上げられているとは言え、人物に正当な台詞を言わせ、主張をさせている。様々な理不尽を、相手を慮って受容するという「残酷」とも言える現象に、エロティシズムさえ重ねられる日本人の精神の屈折からすれば、理が勝った西洋のそれなど単純に見えてしまうという事だろうか。
さて冒頭から光と音、美術のアンサンブルで舞台は魅せていく。今回は特にJAシーザーの音楽の木目細やかな音使いを、初めてしかと確かめた。再演というから、楽曲も若き日のシーザー氏の迸る才気が書かせたものだろうか。それとも今回新たに書き下ろしたものか(現代的アレンジも感じたので)。単純構造の戯曲の色彩を与えていたのは美術+照明と、間断なく寄せて返す音楽だった。
この話、前半は貴族の家庭内残酷劇、後半はチェンチ伯爵を殺した娘ベアトリスの裁判で情状酌量の余地を認めるか認めないかを延々と争っていると言ってもいい話だ。
日本人の感覚では(に限らないかも知れないが)、認められようが認められまいが罪は罪、結果に差はないと考え、いずれの処断も受け容れるというのが「ストレスのない」覚悟であったりするが、このドラマの主人公である被虐の親殺しベアトリス・チェンチは頑として「罪はない」と主張し続ける。
戯曲が用意する頂点は、処刑されようとする孤高のベアトリスが、「神の名の下に」彼女を裁こうとする判事や教皇の使者へ反駁をする最後の場面。現状への嘆きと、希望を裏付ける切々たる正当性の主張は、ギリシャ悲劇の詩(長台詞)を思わせる。彼女の弁は人間宣言であり、律法学者を難じて処刑されたキリストが重なる。相手が聖職だけに痛烈な皮肉となるが、この正当な批評態度は、仏では異端のそれなのだろうか? アルトーをまだよく判っていないので、考え保留。