母と惑星について、および自転する女たちの記録 公演情報 パルコ・プロデュース「母と惑星について、および自転する女たちの記録」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    普段なやり取りの中に微細な心理表出の契機を書く蓬莱竜太作、だが栗山民也演出の味か、コメディ演技な要素のある二人(鈴木杏・田畑智子)を追うのが大変。結構な傾斜のある開帳場、ステージ高もある紀伊国屋ホールでは前列端の席は確かにつらい条件である。そこへもってきてこの日は序盤でハプニングがあった。開帳場の中腹あたりが「自宅」と「スナック」の場転のための可動式の台になっていて、自宅場面で出ている卓袱台が、最初に引っ込む際、台に乗っていない足があったらしく何かくるくるとお洒落に回転していると思うとガラガッシャーんと食器類ごと落下してしまった。この音たるや破壊的で、ちょうど場転で三女(芳根京子)が客席に向かって語る最中、一所懸命な喋りを彼女はストップさせる事なくペラペラと喋り続けるので全く台詞が入って来ず。おもむろに現れた「お店」の簡易セットと共に母(キムラ緑子)が登場するも、このお芝居のルール説明も兼ねている序盤では「つなぎ」を失敗し、酔った姿のインパクトもわざとらしく見えてやはり台詞が入って来ず、わあわあと騒ぐ長女(田端)次女(鈴木)も、母のいる時間との関係性が把握できず、続く台詞の数々が全く意味不明という時間が暫く続いた。この時点で「金返せ」という気分に満たされ、今後の展開でどれだけ回収できるか?と考えた程だ。
    後から「もし席が違ったら」と想像してみたのだが、舞台上の失敗というのは常にあるものだが、俯瞰できる場所なら卓袱台の奇妙な動きから「転落」は予測の範疇となり、「ああやっちゃったな(うっしっし)」くらいに受け流したのではないか。それが見えづらい席の目線では、まず「お洒落に回転する卓袱台」に目が行き、見えなくなって破壊音が鳴った時点でもまだそれも芝居に含まれる可能性を考え、いやそうではないと打ち消すまでに結構時間を費やしている。役者の声はガンガン聞こえているが頭の上を通って行く。事ほど左様に芝居というものは言葉だけでなく身体、ミザンス(立ち位置)全てで表現されるものもあり、「見えづらい」というのは(同じ料金なのに)結構なハンディであった。とりわけこの芝居のような、言葉にしない部分、表面に見えない部分を語るような繊細な芝居を観る場合には。
    そんな事で、前半は役者の芝居全てが「ミスを取り戻そうとする誇張した演技」によるリアルもへったくれも無い芝居にしか見えて来なかったり、頭の修正機能では歯が立たなかったが、第二幕、役者も心をリセットしたことだろうと信頼し、身を委ねた。新劇出身栗山式コメディ調(こまつ座に多い)がわざとらしく感じる部分もありつつ、この芝居は母が生前行きたいと言ったらしい国(中東っぽい)へ三姉妹が母の骨を撒きに来た時間が「現在」で、道行の過程で母との回想シーンが挿入してくる構造でそれ以外の要素はないと判った。三姉妹それぞれの母との一対一の場面は酷寒の地で無風の湖水を眺めるように、研ぎ澄まされリアルである。このリアルはキムラの演技に過重なほど依存しており、凄みがある。初演の斉藤由貴の母は恐らく「男を変える、それを隠そうとせず自分を貫こうとする」女性そのままのイメージを当てたに違いなく、女長女次女二人のコメディ演技(といっても通常これが大舞台での平均的リアリズム演技だろう。純粋リアルな演技と比較しての事だ)との取り合わせは自然であった事だろうと想像する。どちらが良いとは言えないがキムラの演技が突出してみえた結果は否めない。初演と変わったもう一人、三女役芳根の特徴はよく知らないが、一般に苦労を知らないと言われる末娘のイメージを覆す中心的エピソードでの役割を果敢に演じていた。
    親という理不尽な存在を、受け止めていく成長の過程が描かれている、と言ってよいドラマだが、特に三女エピソードの渦中(過去)と、当人が居ないその後(旅の途上)で娘らにとっての母親の像が変貌する(蓬莱だけに微細なのだが)様は見事というしかなく、微妙なラインを演じたキムラは初演で作られた自然な関係性に挑み、捻じ伏せた勝利者とも言えようか。
    しかし・・旅の終焉に至り、語りの中で序盤で触れたらしい台詞(伏線)が出てくると、「ああここで芝居は全てを整理して収まるのだな」と、最初に水面下の流れを読み損ねた自分は置いてけぼりを食う。後は想像で補うしかないが、私の逞しい想像力?にも限界があり、結果的には中抜け感の残る観劇となったのは事実である。

    終演後、何らかの釈明でもあればと思ったが、何もなかった。その事には無力感がよぎる。商業につきまとう「責任」の問題では近年は消費者劣位の状況が作られつつあると感じているせいもあるが、規定の商品を提供したとは言えますので・・とでも説明されそうで苦い味が残る。劇の評価とは別物とは言え結果的に感動は薄れた。私の周りの多数が(恐らく芝居を掴み損ねたせいだろう)寝ていた。
    事故への対処はある。まず芝居を止め、客にこれは予定外の事態である事を共有してもらう、そのちょっとした時間をもらい、芳根が語りをやり直す。芝居は損なわれないどころか、失敗を克服して芝居を成立させようと、観客は能動的・協力的な観劇態度を示すはずだ。不慮の事故は身体がそれに反応するのが自然で、そういうリアルな存在を観客は信頼する。その信頼に値する身体が、気を取り直して芝居をまた続けて行く態度を応援しない客がいるだろうか。芝居中それが出来なかったとしても、終演後、「そのこと」について作り手が感知していることを示すだけでどれだけ報われるか。主催者に言えという話ではあるが。

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    2019/03/23 10:09

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