tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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授業

授業

劇団東京乾電池

アトリエ乾電池(東京都)

2019/02/08 (金) ~ 2019/02/11 (月)公演終了

満足度★★★★

乾電池、というより柄本明の持ちネタの一つなのだろう、ほぼ喋りまくる教授役の台詞をほぼ淀みなく繰り出していた。イヨネスコ作「授業」観劇は3度目となったが、昨年の西悟志演出による衝撃のSPAC版には遠く及ばないものの、以前見た青年団若手の抽象に抽象を掛けたバージョンよりうんと良い(作品の輪郭が分かるので)。だが古い戯曲である事は確か。また柄本明特有の?素に戻す笑いを挿入(約20年前たまたま世田谷パブリックで観た石橋蓮司との「ゴドー」でも冒頭あたりやっていた)。芝居なんてやってる自分がおかしい、恥ずかしい、照れ臭い、という基本姿勢を示すのが柄本明流だとすれば東京乾電池の色にも通じ納得ではあるのだが。

闇を蒔く~屍と書物と悪辣異端審問官~

闇を蒔く~屍と書物と悪辣異端審問官~

虚飾集団廻天百眼

ザムザ阿佐谷(東京都)

2019/02/03 (日) ~ 2019/02/11 (月)公演終了

満足度★★★★

ザムザ阿佐ヶ谷を初訪問。映画を見歩いてた20代頃もラピュタへはついぞ訪れず、漸く足を踏み入れた。廻天百眼も久々2度目。身体的・精神的嗜虐の快楽と苦痛の相克にフォーカスした世界(と言語的に取り敢えず解釈)としては勘所を押さえて気持ちが良い。被虐の中で輝く女優は地下アイドルの雰囲気に通じるような。。勾配のある階段式客席から見下ろすステージは高さを使って前後がかなり狭いのだが、クライマックスで「書物」(即ち魔術)の使い手らが招び出した異形の怪物らが、巨大な武器を振るいながら擬闘を展開する場面は圧巻。普通あの狭い奥行では上手下手の位置は替えないだろう、しかも主役日毬が彼らの手前側に正面向きで立ち、嘆き混じりの台詞を吐いたりするなど、空間的密度が半端でない。音楽に合わせた生ドラムも臨場感の演出に効果。一種のライブでもある哉。

ネタバレBOX

賑やかな開幕前、団員らの案内に対し「汚れ」の無い高い座席を選んだが正解。終演後劇場外に出てくる人らを見れば血しぶきをしこたま浴びた客たち。これが廻天百眼観劇の醍醐味なのだそうだ。
イーハトーボの劇列車

イーハトーボの劇列車

こまつ座

紀伊國屋ホール(東京都)

2019/02/05 (火) ~ 2019/02/24 (日)公演終了

満足度★★★★

たまに観るこまつ座(本当は「母と暮らせば」をとても観たかったんだが..)。今回何と完売続出の模様で、後方の席なら空いてるかと思いきや、空席は一つ目に入っただけ。ずらり。なるほど松田龍平の名前か、、他の俳優は舞台ではお馴染み、映像ではそこそこ、演目が特段惹きつけたものとは思われず、推測はそこに行き着く。集客力と、ギャラは直結しているだろうか。商売で言うところの自分が消費者になったような不快な気分から逃れるには、芝居の中身である。
冒頭逃してしまったが、終演後確認して演出は長塚圭史、なるほど舞台の色彩感と場転や汽車の音(シューと口で言う)などの泥臭さが頷ける。悪くなかった。一度読んだ戯曲だったがこれほど長い芝居だったか・・。松田氏のもったりした演技と、やり取りを正当化させるための間合を相手役が取るので、10分は伸びているだろう、と思ったりしたが、不快・不要な間合ではない。
広い知識と深慮から生まれた含蓄ある濃い~言語のやりとりは井上ひさしの真骨頂で、何とも言えず脳みそを潤す時間だった。

ネタバレBOX

さて今回の主役。どの映画もドラマも、どこを切っても同じに見える俳優が居るが、松田龍平もその一人。映像では微妙な計算も見えにくかったりするので必ずしも「同じに見える」イコール大根な訳ではないと思うが、松田龍平は台詞の発語が下手に聞こえる。風貌で何とはなしに説得されるタイプ。
発語する事じたいがあまり格好よくなく、無言が一番似合うと恐らく本人が自認しているのではないか、と思えるフシもある。映画では「舟を編む」、ドラマでは「カルテット」にそんな印象を持った事を思い出す。このキャラは狙いとして、宮沢賢治にハマらなくもない。

しかし台詞との格闘を要する舞台では、技術的な修練がやはり必要なのだな、と、思った次第。自然な感情で台詞を吐くと恐らく聞こえない領域になる、そこをメリハリ付けて発語しようとした努力の痕跡が、変な具合になっている。
句点までの一文の中に読点が一つ入る程度の台詞で、前半文の語尾を、くいっと揚げるのだ。台詞を頭で思考し始めた時の模索のパターンで、説明的な意味では言葉は明確になるのだが、幼児性が漂う。人物の「心」になり切れないので台詞に息を吹き込もうとする(本人的には)揺さぶりがそういう形で出てくる風な。揚げなくて良いと思える殆どの箇所で、例えば「僕が考える農村というのは」の語尾を、「はァ」と一段高く上げ、かつ少し伸ばす、このニュアンスは「だからさあ、何度も言うけどお」と噛んで含める抑揚に近く、幼時相手の物言いだ。これが頻出していた。
相手にぐっと踏み込んで言葉を押し込む場合にもこの強調の仕方を用い、形としてはワンパターンとなり、生きた人間の口から出てきたというよりは「言い方」を探ってたまたま今そうなった音を聞いた、という感じになる。これは実際のところ私には興醒めだったが、まあ頑張ってるし、暖かい観客はそこは差引いて観ている(作者が仕込んだ笑える台詞には優しく笑って上げているし、終幕とみるや、実はもう一くさりあっても拍手が前のめりに出てくる・・龍平ちゃんへの応援の気持ちを、そして「大丈夫、よくやってたよ」という気持ちを音にして伝えたい気で一杯なのだ)。
そんな観客の受け止めも俳優という身体の「効果」と解釈すれば、技術的な事を一々云々するのも愚な気がするが、私はファンではないし、たとえファンでも観客として芝居を見るというのは別物ではないか。ちと生真面目すぎか。

身体性が浮遊したような賢治のイメージが、辛うじて芝居を「成立」させていたが、多様な側面を見せて良いこの役を考えると、勿体ないの一言。しかしあまりに飾らない、技術を駆使しようとしない姿勢は、伸びしろの大きさを思わせるものはあった。
雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた

雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた

流山児★事務所

座・高円寺1(東京都)

2019/02/01 (金) ~ 2019/02/10 (日)公演終了

満足度★★★★

良い戯曲だと思った。舞台という魔物、死と亡霊のイメージが『楽屋』に重なる。三十人のジュリエットの登場という所に、蜷川幸雄とのタッグならではの企画性も漂う。事実総勢30名が空襲に追われた難民のように左右から蠢き現われ、照明一転「シャクナゲ歌劇団」メンバー30年振りの再会の喧噪となる場面は迫力で、数の力を実感。その後も続く30名の登場場面は処理も大変そうだが、長いタイトルのこの芝居はそのための芝居だと言っても間違いでなさそうである。
ストーリー的には三十名は補助的なアンサンブルで、意味的には主役のジュリエット役(松本紀保)と重なるし、後半に導入される演出で大勢のロミオが戦場送りとなる場面に類似するが、役柄としては彼女らは女性のみで構成される石楠花(しゃくなげ)少女歌劇団の団員であり、観客の視線はストーリーを追うべく主要登場人物の方に寄る。
舞台には、宝塚にありそうな豪華な幅広の高い階段、舞台両脇に大柱、総じて大理石に見えるセットが組まれ、実はここは百貨店の1階という設定だ。現実の時空ではあるがこの場所は架空の世界を立ち上げるに相応しい舞台空間にも見えており、つねに完璧な衣裳で登場するヒロイン・景子の想念の強さによって「ロミジュリ」の劇世界と、その場を劇場と解釈する二つの次元の行き来を見ている気になる。そこへ介入して来る「現実」の時空は、この劇世界&劇場という次元を否定的に干渉する事はなく、むしろ組み込まれて行き、劇世界が貫徹されるまでが描かれる。この劇で流れた時間は言わば一つの鎮魂のそれで、戦争とそこから離れた歳月を偲ぶ構造を持つ。
30年前結成された歌劇団のヒロイン・景子が記憶を失い、今もジュリエット役の稽古をし続けている背景については最後まで一切語られない。が、「戦争」を思い出させる象徴として十分である。当時の応援団バラ戦士の会の元メンバーで今や町の有力者(龍昇、甲津拓平、井村タカオ、池下重大の取り合わせがまた良し)が、かつてロミオ役で人気を博した俊(しゅん=伊藤弘子)不在のため、男性禁制であるからか唇に紅、アイシャドーを塗ってタキシード姿であたふたと代役を務める。
中心に居る景子は時に激しい発作(自分を百歳のおばあさんのように見るのはやめて!と周囲に罵り狂乱する)をしばしば起こすが、暫くたつと全くしこりを残した風もなく登場し、「さっきはごめんなさいネ、さ稽古やりましょう」となる。リセットの力と主役で舞台をけん引した風格が周囲のモチベーションを引き出している所は強調されていないので記憶に残りづらいが、女優という限りにおいて絶えず前向きな存在を演じる松本女史の貢献は地味に大きい。
舞台の世界をそこに見る力、信じる力は、前途ある若者に前向きな一歩を踏ましめる明るい情景をみせたにもかかわらず、俊の登場で「ロミオとジュリエット」が曲りなりにも終幕に導かれた直後、彼らに内在した「負」に報いるかのように、あれこれ言及する間を与えない「死」という方法で閉じ繰りが付けられる。
舞台世界が「そこにある」と信じる事で現出させる使命を終えて死に赴いた二人を、称揚する事が許されるように思えるのは何故だろう。自己言及式になるが(まあそういう舞台は多いが)演劇が成し得る仕事の貴重さ、大きさ、良さを信じるから、と言うと大仰だが、自分としては殆ど盛っていない。

ネタバレBOX

個人的呟き。村松恭子という名をどこかで見た気がしたが、なんと新宿梁山泊のあの芝居に出ていたとは。懐かしさが余震の如く。退団後は肉感派?として活躍していたらしい。彼女を入れた3人組は最初に登場する石楠花元団員で、他のアンサンブル俳優よりは露出が多いとはいえ、その他大勢に近いが、いま一人は元宝塚トップ(娘役)麻乃佳世と贅沢な起用。成る程一人突出して歌がうまかった。
桟敷童子を退団して以来初めて見た池下重大は、声がやや嗄れていた。同じく井村タカオも昨年こんにゃく座を正式退団し、通る声を生かした役で楽しげ、安定感あり。
付記。終盤に現われた俊と景子が出会いざま、口喧嘩から殴り合いに発展する見事なやり取りは作者清水邦夫の面目躍如、二人の関係を一気呵成に台詞で見せてしまう。他愛ない口論のおかしさと、過去が一気に現在に甦った喜びが満ちる場面は、つい反芻してしまう。
拝啓、衆議院議長様

拝啓、衆議院議長様

Pカンパニー

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2019/02/06 (水) ~ 2019/02/11 (月)公演終了

満足度★★★★

他劇団からの新作要請に高頻度で応えて安定した評価を得ながら、劇団公演も怠らないという、着実に劇作家キャリアを重ねる古川健氏の劇団「外」舞台を観るのはトムプロ『挽歌』以来になるか。日澤雄介氏以外の演出に委ねた舞台となると(番外公演的なのを除けば)初めて。Pカンパニーの同じく社会的テーマを扱った秀作『白い花を隠す』の小笠原響氏演出は堅実な仕事振りである。
戯曲には「遺産」で顕著に感じられた特徴が今回もあって、実際に起こった出来事に果敢に挑む姿勢は以前に変わらないが、この所、簡潔な台詞のある意味淡々としたやり取りが、構成の妙で(場面の繋ぎも淡々としていたがこれは演出か)事実が語る力強さを持つ。
初日の「硬さ」とはこういうのを言うのか、描かれる人物はよりリアルを掘り下げる事歓迎の面持ちで、肉付き血の通う舞台に変貌する予感というか骨格をしっかり見せてもらった。
相模原事件を扱った芝居だとは知らなかったが、開演後間もなく、タイトルの趣旨も判る。出色は、この事件の犯人の人格に斬り込んでいる所。注文があるとすれば、施設職員の「苦労」だけでなく「喜び」を見せて欲しかった(これは演技の領域、難しい所だが)。



ネタバレBOX

犯人の人格に迫った点を評価したが、事件とその背景を巡る「論」として、十全であったかと言うと疑問がある。(もっとも一本2時間の芝居で十全に語り切る事を期待するのも無理な話、ただ押さえたいポイントが私とは違う。)
施設職員の障害者と接する仕事の喜びの側面が欲しいと書いた。先日の初日の舞台にて、女性職員の脳性麻痺の入所者との姿は、その片鱗を見せてくれていた(台詞での説明でなく態度の中で)。だが残像としては疲労の側面が印象づき、また彼女が、犯人に対して「怒りは湧かない、むしろ自分の中にそういう感情が起こらないとは限らない」とこぼした言葉を、主人公である若手弁護士は犯人の人間像に迫る足掛かりとしていく。「論」としては、犯人の所業を許す事はなくともやむを得ざる事情の一つとされるのが正直、難点だ。
がその後の「論」の展開は見事である。
現代の若者論、というか政治の失敗、就職難と非正規雇用増大、勤労環境悪化はトータルとして「社会からの非承認」の状況と言え、そうした若者の生きる風景の片隅に、事件の犯人となった青年の姿も浮かび上がって来る。(犯罪は社会を写す鏡。)
そして芝居は一度は犯人への怒りで弁護を諦めた主人公が、彼を弁護団に誘った先輩弁護士(死刑廃止論者)の「どんな被疑者にも弁護を受ける権利がある。」との説得や妊娠中の細君の助言で考えを変え、犯人と言葉で対峙し、彼の「心」に迫っていく。
ここで作者古川流のリベラルが顔を覗かせる。犯人が衆議院議長にまで送った主張とは、「心失者(自らコミュニケーションが取れない人間)は安楽死させるのが社会のためである(本人のため、とも)」というもの。「今回の事件では方法が乱暴になった点、十分な理解を得ない前に事を起こした点は謝罪せねばならない」が、安楽死の考えは正しい、この考えは変わらないと犯人は顔色一つ変えず答え続けるのだが、弁護士は「君だけではない」と切り込む。証言を得た彼の生い立ちを語り、コンプレックスで自分を大きく見せたい欲求に君は負けただけだ、と言う(このあたりで犯人は初めて冷静さの仮面を脱ぎ怒声をもって否定する)。この時彼は犯人に言う、「だが(君と同じく疑問を持った)彼女はそうしなかった。障害者に向き合い必死に答えを探そうとしている。」
長くなったがこれがリベラルの1。作品のキーワードでもある「生きるに値しない命など存在しない」、どんな命も全て尊い、という命題である。
同時に、弁護士の態度は死刑廃止論にも掛かっている。犯人が考えを改めないなら、死刑廃止の意味は半減する。犯人と本音で向き合う事が彼の「弁護」の意味であり、死刑廃止論の実質化でもある、と見える。これがリベラルの2である。

リベラルの1は難題である。酒鬼薔薇事件の頃だったか「なぜ人を殺してはいけないのか」、どう大人は答えるのかが議論になった。
少し遡って学生の頃の話、ある授業の試験で渡部昇一なるウヨ学者が書いた文章を批評対象として何か書けという問題が出た。そこには「障害者は家族にも国家にも負担を与える存在、経済的なお荷物」といった事が書かれていた(どういう文脈かは判らないが嫌悪感を催す表現であった)。この感性は今に始まった事ではなくむしろ近年までスタンダードであったのを渡部は居直って書いたのに違いない。
なぜ「全ての命は尊い」のか。今答えるとすれば一つ。可能性が開かれているから(年齢問わず)。個性(変わらない異質性)こそ他者を人間理解に導くもの。異質な存在と出くわすと反射的に疎ましさが走るが、その背後に人間の自然な感情を発見した時、得したように嬉しくなるのは演劇での発見の喜びに近い。
障害は際立った個性であり、個性は人間性を伴う。従って多様な異質との接触は、「人間」の条件を考えさせ、間口を広くし、開かれた可能性への想像力を助ける。この絶大な長所を持つ事実から出発して、「何が生産的か」を再考したいものだ。
その点、過去既に書いたレビューで、障害者を周囲の者を葛藤に追い込む負の存在と位置付け何やら深刻ぶったドラマをやっていた青年団若手のその舞台を難じたが、障害の「負担」の側面しか見せていないとすれば、今作も残念ながら同じステージにある事になる。対照的な作品として「ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド」を思い出す。
確かに障害の中でも最も重い重症心身障害の人は必要とされる介助量が大きく、「負担」という概念は脳裏を過る事だろう。
個人的に見聞きした話をすれば、、施設職員は長い付き合いの中で利用者それぞれの個性を見ており、人格に触れている。多くは脳性麻痺と言われる人達だが、頭脳明晰な人も意外に多い。明晰でなくとも人は本質的にコミュニケーションを「取ろう」という意思を持ち、その「内容」に個性が滲む。利用者と接する喜びが彼らの仕事の支えになっているのを私は感じる。
経済的な話、そこには公費が投じられている。だが人間とそれを助ける人を支えている「生産的」なお金だ。方や「アメリカのご機嫌取り」ないし「他国で事を起こす」ための莫大な軍事費は果して「生産的」か・・。桁も違うが議論があって良い。
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夜が摑む

夜が摑む

オフィスコットーネ

シアター711(東京都)

2019/02/02 (土) ~ 2019/02/12 (火)公演終了

満足度★★★★

この数年オフィスコットーネで大竹野作品を数作鑑賞させてもらったが、会場、出演者、演出と趣向も毎度異なり、評伝の新作を出したりと色々工夫されている。
今回の詩森ろば氏の演出への起用は意外、というか何となしに合わない感じがあった。犯罪を好んで(?)題材にし、観客を道徳・通念の埒外へ迷い込ませる大竹野氏作品に、詩森氏の感覚が降りて行けるか、という所に。だがシアター711という、コットーネでも最も小さな会場でうまく舞台を捌いており、何より役者陣の力を引き出し、高い水準の舞台になっていた。
主人公の神経過敏な男(山田百次)を取り巻く団地住民(異儀田、有薗ほか)や、男の「家族」的存在(町田、塩野谷)による喜劇調のオイシイ場面は、役者の高い力量と、テンポ重視の詩森氏演出に拠る事は確か。

さて実際あった殺人事件を題材にした作品という事だが、舞台は抽象度が高く、私の印象では大竹野氏の作品にしてはドライである。そこで戯曲に改めて目を通してみたところ、なるほど自分が微かに感じた事が裏付けられた気がした。
結論的には、「不条理」に近い劇に見えたのは演出詩森氏の処理に拠るところが大きく、しかしそれは元々原作とはやや異なる。特に終盤で回収して行く伏線をあえて「回収しない」事で抽象化しているのが、今回詩森氏のとった選択のようなのだ。その是非は於くとして・・具体的な話はまた後日。

『本当は知らない。 』ソロ・グループ2本立て公演

『本当は知らない。 』ソロ・グループ2本立て公演

lal banshees

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/30 (水) ~ 2019/02/03 (日)公演終了

満足度★★★★

昨年のトラム公演が気になって未見だったlal banshees、初観劇。今回はvol.3とはなっておらず、webを覗くと他にもナンバーの付かない上演があり、本公演とは区別している模様。タイトルも試作のような。主宰横山彰乃女史は東京ELECTRIC STAIRSのコアメンバーで、そのチラシにある思わず目を引く細密なイラストを描く本人でもある(後で知った)。
つい先日の舞踊系パフォーマンスに続き、馴染み深いアゴラ劇場で若い感性が光る踊りをみる。踊りも様々である。だが身体的動きとしては意外に制約があるのを痛感する。その中で独自の身体言語の体系を目指し、美を追求する。そのプロセスを見た感触というのはどの舞踊にも共通だったりするが、演劇の範疇に属するドラマ性や、テーマ性、ストーリー・・観客は(作り手は)何をそこに見ようとしているのだろう・・素朴な疑問が湧く。舞踊は第一義には身体の美であるのだが、古よりそれはしばしば神秘の領域を司るものとされ、そのようにして囲ったという事があるのだと思う。囲う必要は、身体それ自体の神秘=本能を制御する必要に他ならず、同様に現代も舞踊がテーマや物語といったものと親和性を持とうとする理由はそのような「理解可能(言語化可能)」な枠組みを与える事でとりあえずの安心をもたらしている。だがその内実は身体の神秘(美というものの神秘と通じる)に、おののきつつ浸る時間である、と言えるかも知れない。もちろん踊り手側の都合もあるだろう。「物語」「意味」の領域と手を携える事で効果的に身体の美を表出させる、その主体となる資格を持つ。。
さて前半は可愛らしげな衣裳の女子3人の踊り。最前列では暗めの照明という事もあって動きの早さと広がりが視野に収まりきらず、度々睡魔が。内、唯一lal banshees vol.1と2に参加した踊り手の後藤ゆうは、昨年STスポット「地上波 第四波」にソロ出演していて見覚えもあったのだが。。
休憩を挟む間もなく横山女史の踊りに移るとなぜか目がパチッと開き(焦点が一箇所に絞れたから?)、身体の小さな動きも凝視できた。前半のもそうだが音楽主体で構成されるタイプのステージ。足首を上下、または左右に動かす動作を取り入れているのが横山氏の特徴で、前半の踊り手もやっていたが、様になるには技量が必要、とリーダーの踊りを見て実感。
黒い三方の壁には大型ペットボトル(1.5~2リットル)をバインド線で吊るされ、照明で効果を出していた。
切れ味鋭い身体さばきの中に、「この先」への希望、期待を見る。完成された何かではなく。

ストアハウスコレクション・タイ週間Vol.3

ストアハウスコレクション・タイ週間Vol.3

ストアハウス

上野ストアハウス(東京都)

2019/01/30 (水) ~ 2019/02/03 (日)公演終了

満足度★★★★

ストアハウスカンパニーは自作と海外グループの作品の二本立て公演を打ち続けている。韓国、マレーシア、今回はタイ。このシリーズを観る機会を今回初めて得た。この種の企画をコンスタントに打ち続ける精力的活動の、問題は舞台の中身なのだが、事前情報はなにぶん少ない。百語は一見に如かず。想像した事と言えばこの「コンスタント」さが質の低下をもたらさないか・・というネガティブな連想くらい。
2時間超えと聞いて耐えられるかと懸念したが自分には全く杞憂であった。
最初のグループをタイのグループと思い込んだまま終演まで観た。なぜ思い込んだか・・言葉を発しないのも大きな理由だが、背後の入口からゆっくりと順次出て来た役者の風情、彫りの深いのや、山岳地帯の先住民「ぽい」人、アジア系美人っぽい人などが揃っている。だが実は逆であった事を休憩のアナウンスで判った(苦)。

好感触な舞台は、叙情的な音楽が基調になり、時に無機質な音、急き立てるようなリズム音、など多彩に場面を作っている。「世界(人間)、この悲しきもの」・・抜き差しならぬ緊張が身体を満たし、溢れ出るものを交換し合う事で濃密な舞台空間を作っている。絶えず動き、言語でない声を発する。大きく変化する1時間強の進展の最初は、まず人が歩き始める。そこに流れが生まれる。流転する自然界や社会や、一個の人生を想像させる。やがて音楽が激しくなりテンポが上がり、正面を向き、足踏みを始める、という要素が加わる。・・これは変転する舞台上の現象のほんの一部だ。人間ー自然がシンクロして見える描写が、最後には「生物」限定の「性」イメージに変わって長く展開し、そこに孤独や倦みなど人間的感情が表出するような按配だが、私には異質な要素を接ぎ足したように感じられた。しかし今作から非日本人的な精神世界を旅する感覚をおぼえた理由は何だろう。日本人的、とは大雑把な概念だが、小市民的自虐的「あるある」(そこを突かれてもさして痛くない)が今思い当たるそれだが。。作り手の照準はそこから遠い場所にあるように感じられる。

二番目のタイのグループの作品はさらに好感触。5人が舞踊(各々別のタイプの)への習熟を感じさせる身体の線を見せ、それぞれの人的持ち味を出し合いながら全体としての蠱惑的な群像が生まれる、楽しくも高度に抽象化された作品だった。
多様な場面を作るテクニックもさる事ながら、脈絡に自然に身を置き、存在している。個人的に凝視し引き込まれてしまったのは、舞台上のこの存在の仕方である。
例えば、動作のユニゾンはピッタリとは行かない。日本人ならそこを揃えるのに拘りそうだが、一つにはオンタイムでない打音をミックスした背景音を多用していて、揃えるのは難しい。
だがそれ以上に彼らがそれぞれ自立した動きを持ち、自由な相互作用に委ねた事により場面の自然な成立があり、各人のキャラがみえて楽しい・面白いという感覚が凌駕する。男3人、女2人が、くすんだ灰色や薄い褐色の薄汚れたボロを、ラフに着流したような洒脱さがあり、5人が一列に並んで動いている場面は並んでいるだけで目を喜ばせるものがある。
動きの自然さは、言わば意思・感情を持って移動しているかのよう。たとえば他者との距離が縮まり過ぎた場合、その不自然さをさりげなくフォローする術を普段私たちが使うように行使する。ちょっとおどけたり、わざとそうやったんだと見せてごまかす、プログラム化されているとすればかなり緻密な作りだが、この絶妙な按配は、この舞台がわが家であるかのような自然な態度から湧き出ているように私には見えた。要はパフォーマーとして良い状態(良い意味のリラックス)、身体が表現意思の対象との距離を自在に案配している状態が、まるで自分の家に居るような直裁な「心身の状態の伝達」を可能にする。私の感じ方が一般的ならば伝達において相当に効率的なコミュニケーションが生じている事になる。
「意味」は分からない。多彩な場面が数珠繋ぎに現われ、変化するが、変化それ自体には意味はない(昨夜と逆を書いてるが)。ただ断片に人間個体の感応的閃きがあり、それで十分。

罪と罰

罪と罰

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2019/01/09 (水) ~ 2019/02/01 (金)公演終了

満足度★★★★★

文句の付け所のない文学作品の舞台化であるが、学生時代から三度挑んで遂げず、それでもいつか読了し「一応『罪と罰』は読んだ」人生として終えたいと望んでいた作品を舞台で易々と味わう事となり、複雑な心境だ。
・・それはさておき、小説を読み始めの雰囲気、ロシアの片田舎の酒場や価値観の雑然とした風景そのままに、階段式に奥が高い斜面全体が雑多な家具等で覆われ、中段もしくは下段の平場で芝居が展開するが、その雑然と置かれた物を移動する事で(まるで散らかった部屋で座る場所を作るような)場面転換になるといった進行である。茶褐色が埃を被ったようなくすんだ色に、ちょっとした赤や緑や青が仄かに浮かび上る色彩の収め方を確認した上で、台詞に聞き入る。・・娘が体を売って稼いだ金が今自分が飲んでいる酒に化けた事をラスコーリニコフに自虐的に話す親父役の台詞が、早速聞き取りづらい。ラスコーリニコフの台詞も時折聞き取れないのだが、マイクを仕込んで増幅してスピーカーから言語情報を伝えるより、舞台上の世界で展開する現象それ自体を「見る」よう作り手が望んでいると判断し、「見る」のに専念する事にした。
前半は大昔読んだ小説(4分の1も読めていないが)や耳知識で大方理解できたが、後半、予期しない展開もあった。よく出来た一大娯楽作品、とは友人の言だが、小説を読んでいる感覚も想像しながらストーリーを追った。主人公、またその妹もある意味で特殊な人物である事が物語の動力源となっているのは確かだが、ドストエフスキーという作家が一人の人間をその結末へ導くために膨大な文字を刻んだ、そのラストが見せる風景は「特殊」=個体差を超えた人間の姿である。
開幕以降主人公は懊悩に呻き続けているが、主人公が何かに開かれて行く過程を三浦春馬という俳優(初見だったか)は見事に辿っていた。
ドストエフスキーは「悪霊」でロシアの大地に近代というものがもたらすものの本質を抉り出した(小説ではなくアンジェイ・ワイダの映画を観ただけだが)が、「罪と罰」でもキリスト教の本質に触れる「神の赦し」を巡る作品であると同時に主人公の精神の中に(彼が頭脳明晰な学生という設定が示唆的)近代の病弊の典型的症状を描いてもいる。そして「人間とは何か」を問う作品である。
勝村政信演じる主人公と対峙する警官役が出色。休憩込み3時間40分。
大熊ワタルがこういう舞台の音楽もやるとは・・これも驚き。

ネタバレBOX

主人公の内面世界と「外界」との距離が絶望的に開いていく中で、彼の中に変化をもたらす二人の人物がある。演出は主人公の観念とは裏腹に己が所行におののく身体を「失神」という形で繰り返し見せる。彼の妹やその婚約者、またスヴィドリガイロフなる富豪(これも彼の妹にぞっこん)が彼の価値観を補強するのに対し、それを反証するのが先の酔っ払いの娘、娼婦のソーニャである。社会の犠牲者たる彼女への特別な思いは募り、父が亡くなった際には夫人(ソーニャの母)に金銭を与える。終盤、精神の危機に面した彼は自分の信念を確かめるように「あなただけには話しておきたかった」と、ソーニャに彼独自の思想を語る。相手は何を言っているのか判らないと答える。念を押すように彼は自分が犯した所行を告白する。だが彼女は彼の心が求めているものをみてただ抱きしめる。彼は自分の語った事の空疎さを恥じ、にも関わらず自分から離れて行かない相手に驚き、訝しく思い、動揺する。そしてもう一人は、コロンボのように老獪で陽気な刑事である。彼は事件を追っている。それを知るラスコーリニコフは彼が真相を知っている可能性に脅える。だが刑事はそれを見て笑う。それも油断させる手だろうとラスコーリニコフは言うが相手は「時間はいくらでもある」とだけ、彼に何を求めるでもなく、ただ話そうと言う。刑事はラスコーリニコフの鏡となり、彼にただ真実を見ることを促し、何も裁かず、急がせず、待つ。つまり人間的交流を求めて来る存在として登場し、それゆえ主人公は混乱するのだ。
彼が決意した時、その刑事は既に左遷された後であった。語るべき相手を失い、彼を露も疑わない応対した警官の様子に、表面上彼は安堵したかに見えたが、彼は内なる衝動に従うようにして、私がやった、私は人殺しです、と中空に向かって叫ぶ。光が向こうから差し、キリストの十字架を思わせる材木が置かれ、彼は礫刑の場所に自ら収まろうとするに違いない事が仄めかされ、彼は「語る」相手として神を見出す。その事は舞台奥上方から降り注ぐ光で示される。ここがラスト、言わばクライマックスだ。と、そこへ見知らぬ娘がもそもそと現われ、「現実」には彼がうずくまっているのを恐らく見つけたらしく、無言で包みを開け、差し出す。無言で彼はそれを受け取り、無心に食べ始める姿が見えたかと思うと、静寂の内に暗転となる。ラスコーリニコフが初めて軛から解き放たれ、体温を感じさせる身体を我々に晒すのが、闇がかぶさってくる僅か3、4秒という時間である。三時間十九分という長大な伏線が回収された瞬間とも言え、生身の体が作る芸術の可能性に、言いようのない感興が湧き起こる。
韓国現代戯曲ドラマリーディング Vol.9

韓国現代戯曲ドラマリーディング Vol.9

日韓演劇交流センター

座・高円寺1(東京都)

2019/01/23 (水) ~ 2019/01/27 (日)公演終了

満足度★★★★

[少年Bが住む家」を観劇。最終日のシンポジウムに来場した作者はおっとり系書斎派に見え(あくまで外見)、戯曲が醸している鋭さとギャップあり。先日観たのと比べて非常に分かりやすい(比較対象の問題か)家族の物語。犯罪当事者(加害者)の一人となった息子(デファン)を持つ父母、外で暮らす娘(息子の姉)、通り向かいに越してきた妊婦らが登場。屋根裏に住まわせた息子を巡っての夫婦間のピリピリとした空気、その緊張の奇妙な緩和の仕方、外界への警戒心、それら病み=闇を覗かせる人物の心理を丁寧に描いていた。
3作の内1作を断念、残りを選ぶのに迷ったが新国立研修所出身の荒巻女史が出演の今作に決める。能天気な娘役だが最後には家族を日の当たる場所へ連れ出す役回りを予感させる、太陽の存在で照明も暗めのドラマに華をもたらし、個人的に満悦至極。
「判りやすさ」もさりながら役者皆的確に演じ、動線や舞台処理、衣裳の色彩、褐色系の照明もうまく使って視覚的な効果も高い。主人公デファンにはその化身のような存在が二人居て(黒装束)、台詞を言う人物のそばに移動して見守ったり、デファンの心理や潜在意識を表すかのようで(戯曲指定でなく演出との事)。少年Bの「B」とは主犯格をAと言うのに対して受動的、消極的に事件に巻き込まれた人の符丁として用いたらしく、シンポジウムで言及された昨年の瀬戸山美咲の「残り火」(交通事故の被害者と加害者との間にどのような「償い」と「赦し」があり得るのかを問うた昨年の秀作)に通じる。本作では加害家族は精神的に十分な「罰」を被っているように見え、「人の噂」「偏見」といった世間の冷たい風は被害者よりは赤の他人が吹かせている事を想像する。娘を除いた家族が、罪状の前に自ら伏しているというのが、日本ではあまり書かれない設定であるかも知れない(加害者がのうのうと生きている、法的に裁く事はできないが法の埒外で加害者に罰を与える方法はないか・・を探る視点が圧倒的だと思う)。そう言えばイ・チャンドン監督「密陽-シークレット・サンシャイン-」がこのテーマを独特な味付けで描いていた。

ショウジョジゴク

ショウジョジゴク

日本のラジオ

新宿眼科画廊(東京都)

2019/01/18 (金) ~ 2019/01/22 (火)公演終了

満足度★★★★

「新青年」な幻想怪奇との接点は二昔も前、青林堂の漫画。小説は殆ど読まず夢野久作の「少女地獄」「ドグラマグラ」も本棚に飾ったまま。「ドグラ・・」は映画と舞台で、「少女地獄」は今回初めてストーリーを知った。
知ったと言っても、今回の舞台はストーリーがくっきりと浮かび上がる仕様でなく、謎めいたバスの運転手と女車掌、女子学校の生徒らと男教師、ある看護師と医師の逸話がそれぞれあって、時々接点を持つ形。開幕、小さな四角の舞台の四隅に白衣の女性が座り、客を患者に見立てた前説を思わせぶりな口調で斉唱する。男は医師、バス運転手、学校教師と役は固定、女優陣も車掌、看護師、学生と固定の役で、場面が変れば女優は椅子に着いたり離れたり、男優は袖から出入りをするので、別個のエピソードが並行していると理解される。特にバス運転手の逸話は独立していて、時々他のエピソードの人物がバスに乗って来る形の絡ませ方だ。
怪奇の体験者(=語り手)と、その観察対象となる怪しい人物の存在という構図に加え、各エピソードをぼんやり程度、間接的に知る者として別エピソードの人物が配されている格好なのだが、演者の雰囲気や場面に幻想怪奇の風味があって心地よいものの、ストーリー自体は薄味に終わる感がある。後で調べると小説は独立した三つの短編から成るらしく、物語全体を語り切るのでなくそのテイストを摘出して舞台に上げて見せたという事のようである。
幻想怪奇譚は「謎」が解かれるオチへ辿り着くことは大事だが、実際はオチはあっても怪奇は残り、オチはさほど重要でないという事も。原作を未読で何とも言えないが、今回、結末よりその世界観、即ち怪奇な場面・風情に重きを置いたとすれば、医師と看護婦、学生と教師の逸話のほうに「異常」な観察対象を観客も目で見る愉しさ、「異常さ」の片鱗が見えるか見えないかというスリリングさがあり、その線を追及するのも良かったのでは・・とも思う。無責任な意見だが。

唖蝉坊・知道の浅草を唄い語る

唖蝉坊・知道の浅草を唄い語る

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2019/01/20 (日) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

添田唖蝉坊なる人物が誰か、ようやくにしてはっきり認知した頃に、チラシが目にとまった。基本はライブだが、土取利行氏の浅草界隈郷土史・芸能誌への造詣の深さ(博覧強記)に驚き、いとうせいこうのパフォーマンスの反骨精神にも驚き、見終えた感覚としては演劇の舞台を観たような濃さが後味として残った。音楽といっても「音」が持つ美よりは、歌詞の存在もそうだが唖蝉坊や界隈の人々の人生やドラマを想像しながらの2時間半で、満腹にさせてもらった。

陰獣 INTO THE DARKNESS

陰獣 INTO THE DARKNESS

metro

赤坂RED/THEATER(東京都)

2019/01/17 (木) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

metroも3作目だか4作目だか。ちょっとした楽しみになっている。エログロな世界を真顔で作ろうとするこだわりの態度は期待をさせる。今回はmetro第一作の満を持しての再演という意気込みを何となく感じ、足を運んだのだったが。。

ネタバレBOX

千秋楽が影響したか。それとも・・。私の感知器にはぎくしゃく感が多少ならず認められた。
江戸川乱歩を題材にするならど真ん中と言える題材を、舞台としてはこれ以上ない程の隠微な世界が作り込まれている。
気になったのはサヘル・ローズが中盤以降ずっと泣いているのだ。演技として意図的に泣こうとしているのか、それとも最終ステージに感極まり、「先生」との愛の側面が役の人格を覆ってしまって、悲劇の主人公と化したか。。弱々しくなった彼女は、本来「我が道を行く」強さの証となるべき「人と目を合わせず自身と向き合う」体勢をとる事が殆どなくなり、常に相手役のことを涙目で見ている、という具合になっていた。
劇では月船と人格的に共通する部分があったり、実際舞台上で両者の人格が入れ替わったり、二人の身体が蛇のように絡まって二人で一つの様相を見せたり、妖しく立ち回る二人であるのだが、その妖しさがサヘルから中盤以降消えてしまい、しおらしさだけが残った。これは非常に気になった。
千秋楽終演後の月船の挨拶がやや重たく湿っぽかったのも気になったが、次の10年も隠微な世界に拘り、体当たり演技で独自な舞台を追及されん事を願う。
飛んで孫悟空

飛んで孫悟空

劇団東京乾電池

ザ・スズナリ(東京都)

2019/01/11 (金) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

2015年あたりに乾電池を初観劇した時は(夏の夜の夢)驚き呆れ果てた。学芸会に見えた。柄本兄弟の「ゴドー」など上質のものもあるが、劇団員総出のガス抜き公演(ひどい言い方だが実際そう思えた初観劇の舞台。二度ディスって御免)はこうなるのであるか・・と。二組編成した今回はその範疇にあるが、その他1本だか観て(あと加藤一浩作品のDVD等みて)、少しばかり見方を変えた。「学芸会」との感想の大きな理由はたぶん、架空の世界が立ち上がるために客の目を「ごまかす」努力を半ば放棄している様相だ。「夏の夜の夢」の光景を思い出すと、一段上がったステージに貼られた黒のパンチシートに塵や糸くずが付いたのが目に入ったり、ロマンもクソもない(普通照明とかでごまかすでしょ)。これがコスト削減ゆえなのか主義なのかは微妙なところだ。
だが、乾電池流というのか柄本明流というのか、それがある、と考えてみている。即ち優劣を付けず、上下をつけず(人の上に人を作らず)、フラットである事、そして役者は演じる人物以前にその人自身である事、裸で勝負するべきである事、舞台は飾り立てたりせず、スマートでなくて良い事(あのスズナリが壁の地肌丸出しで、奥にスピーカーがポツン、役者の「素」が見えるような明かりを多用)・・・そういった流儀が、一見「やる気のない」舞台と感じさせる。だがそれは敢えて選択した態度なのであり、「文句があるなら見なきゃいい」とまでに血肉化した劇団の風土であるかも知れない、と考える事が可能のように感じている。
「飛んで孫悟空」は別役実の喜劇。単純に笑える。劇団は別役作品を好んでやっているが、上述した役者の佇まいは別役の世界に合っているかも知れない。
過去データをみると、決まった演目を何度も再演し、準備時間もなく総出の舞台を、となると過去レパに頼らざるを得ない・・そんな劇団内事情を、隠す事もなく見せている風もあって、あけすけ感が東京乾電池の、否、もしや仙人・柄本明の志向するあり方なのかも知れぬ。
もっとも今回の「孫悟空」は2017年ピッコロ劇団初演の演目で、乾電池としては新作だ。やる気を出した公演・・・と思って反芻してみるが、舞台上の役者は相変わらず、乾電池な方々である。
過日細君を亡くされた御大の姿も劇場に見えたが、劇団員含め湿っぽさの欠片もない。飾らず、素のままが大事教の伝道師・柄本明は、我々にこう言っている気がする。優劣を付けようとする態度を恥じよ。つまらない舞台、面白い舞台、お金をかけた舞台、そうでない舞台様々あるだろうが、呼吸するように芝居する、それでいい。

韓国現代戯曲ドラマリーディング Vol.9

韓国現代戯曲ドラマリーディング Vol.9

日韓演劇交流センター

座・高円寺1(東京都)

2019/01/23 (水) ~ 2019/01/27 (日)公演終了

昨年(2018)は「エクストラエディション」として2本のリーディング公演があった(事情は知らない)が、今年が正式な日本開催年、3本の韓国戯曲をリーディング上演。今年は2~3本観られそうだ。
初年の2002年から数えて今回が9回目で、当初の方針通りなら10回の開催まで残り1回、日本での公演は再来年で一応区切りとなるらしい。
演出は昨年夏に公募し、毎回新顔がリーディング演出に挑戦している。リーディングだけに戯曲を構造的に読み込み、簡潔な舞台表現とする、その工夫を吟味するのも個人的には楽しみの一つ。
開幕を飾ったのは「刺客列伝」で、作品解説を読んだ時点で食指は激しく動き、私としては今回の本命だったのだが・・・何と爆睡。考えれば不眠続きであった。
という事で毎回出ている戯曲集の今年版(1000円安い)を今年も購入。必ずや読んで感想加筆するつもり。

お正月

お正月

玉造小劇店

座・高円寺1(東京都)

2019/01/17 (木) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

リリパット・アーミーを同時代体験できなかった身としては、演出でらも氏と組んだわかぎえふの新店舗(もう何年も経つが)玉造小劇店に出かけるのがせめてもの・・・という事で数年振り二度目の観劇。
関西演劇界(芸能界?)の腕利き役者を揃え、明治維新から数代にわたる「鈴木家」の正月の日の一日の風景を淡々と描いた。美術が立派で和室の内側がで~んと。下手は隣家に通じており、引き戸を開けて鈴木家の裏庭に黒豆をお裾分けに時折入って来る女性は各世代とも同役者が演じ、違った調子を演じ分けて笑いを取っていた。
この作品は阪神淡路大震災の年にその原形が書かれ、上演されたもので、後で解説をみると今回は東日本大震災を受けて書き加えられたようだ。芝居に出てくる「あの震災の・・・」との台詞は阪神のそれを指し、最後に出てくる東北弁っぽい喋りの女性は、被災地から移住して来た人だったらしい(観劇時点では綺麗な着物だし被災の臨場感がなく連想が及ばなかった)。
加筆された(らしい)部分はともかく、この芝居の基調は波瀾に満ちた一族史というより、時代の波を受けながらもそれを鷹揚に受け止め受け流して時代を潜ってきた・・つまりは「波乱などなく」淡々と営みを続けてきた一族史。関西人に精神的打撃を与えた震災の光景も、連綿と続く人間・家族の歴史の一コマに過ぎない、そう見える「時」がいずれ来る・・・そのようなメッセージを当時は言外に告げた事だろうと想像した。
言葉と文化は不可分で、関西弁と関西文化も切り離して存在せず、関西弁の使い手が書き、達者な「関西弁役者」によって息を吹き込まれた戯曲。

顕れ ~女神イニイエの涙~

顕れ ~女神イニイエの涙~

SPAC-静岡県舞台芸術センター / コリーヌ国立劇場

静岡芸術劇場(静岡県)

2019/01/14 (月) ~ 2019/02/03 (日)公演終了

満足度★★★★

度々出かけているSPACだが、宮城聰演出舞台で観たのは「野田版 真夏の夜の夢」「寿歌」くらい。今回の作品は大航海時代の奴隷貿易を題材とした珍しい舞台で、フランス在住カメルーン人女性が書いて宮城氏に演出を指名した事で実現した。初演は仏パリ郊外にあるコリーヌ劇場(SPAC俳優が出演)。
寓話的舞台。イニイエとはアフリカ神話の創造神(男女ある内の女神)で、世界に君臨するこの役のみプレイヤー(美加里)とスピーカー(鈴木陽代)の様式で演じられ、舞台の奥、時に前と、常に舞台上に居る。地上の世界はこの劇には現われないが、言及されるのは地上世界の歴史、それも奴隷貿易時代にヨーロッパの商人たちへ奴隷を売り渡したアフリカ人のことだ。彼らは「千年の罪びと」として灰色の谷に数百年閉じ込められている。他に登場するのは「始まりの大地」に生まれる赤子たちに飛ばされる魂=ムイブイエ(だったか)、彷徨える魂=イブントゥ(だったか)。大西洋の藻屑となった奴隷たち、故郷へ帰れなかった奴隷たちの魂が未だ弔われる事なく彷徨っている事を知り、魂たちは地上へ向かうのを拒み始めたため、その原因に深くかかわる「千年の罪びと」たちを禁を破ってでも呼び寄せ、その証言を聞かせてほしいと要求してきた・・・という経緯がイニイエの部下に当たるカルンガ(だったか)に彼らを谷連れ出すよう命ずる理由として冒頭説明される。
冥界での時間はゆっくりと、威厳をもって儀式のように流れる。棚川氏の音楽がリズミカルに、緩急激しく鼓動するのと対照的だ。「上空」には巨大な円が二つ浮かび、当初は照明により手前が闇、奥が光を受け、自分の席からはちょうど三分の二ほど欠けた月と見えるが、気づかぬ内に形は変わり、手前の円は縦を向き、さらに時間を経て両方とも縦に並ぶ。最後はまた円形を見せている。数百年という人類が刻んだ一定の「時間」が、この天上世界によって支配されたものであるというイメージは、人類の悲劇をもある種の冷厳さをもってわが事として眺めている、その隠喩をいつしか伝える。罪びとそれぞれの証言が終わり、終幕、女神が高らかに申し渡しを行う。ゆっくりとまた闇が訪れる。
囃し方が静まって衣擦れの音とともに立ち去る、能の終いに重なるイメージは意図的なのだろう。だがこの舞台は鎮魂を含めて現在の人間の営みは未来に差し出されている事を思い出させる。

海底で履く靴には紐がない ダブバージョン

海底で履く靴には紐がない ダブバージョン

オフィスマウンテン

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/14 (月) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

オフィスマウンテン観劇で6公演を曲がりなりに走破(冒頭見逃したのも含め)。
二度目のオフィスMは、山縣氏のユニット立ち上げレパ(2015)であるが、後でデータみれば初演は出演者4名となっている。今回のアゴラ公演は山縣氏単独のパフォーマンス。「一人芝居か・・1時間弱とは言え耐えられるかな」と一瞬過ぎった不安は杞憂、上演開始から左脳的理解を拒んだ動作と発語に引き込まれていた。予測を裏切りつつ、しかしある「流れ」を辿っている感じ。また「今初めてそこで起こったかのような」身体的反応は近代演劇が俳優に求めた高度な技術の範疇。
山縣太一という鍛えられた肉体と芸が鑑賞の対象と言って誤りでない。
昨年観た「ドッグマンノーライフ」の感想に私は「個々の役者の身体能力のバラツキが気になった(山縣氏がやれば見られる芸になる)」という趣旨の事を書いていた。それを裏付ける結果を見た気もするが、私としては共演舞台の道は手放さないでほしい(手放してないと思うが)。
身体動作の基調は主観的な「呟き」(勿論発語も含め)であるが、演じられる本人(だか別人)が職場の後輩二人を飲みに誘う(ノミニケーション)という具体的シーンも断片的に外側から入り込んでくるように現れるのが面白い。
現代の(演者自身の年齢である)アラフォーの生活風景、精神風景が表現者・山縣太一の身体から立ち上るのがこの上演のミソ。
私の近くの兄貴は一々ツボであるらしく山縣氏の発語に吹き出していた。私にも伝染しそうになったが(私も十分楽しんでいたが)、徒手で挑む姿勢と独特なポジティブ志向は「天性」(天然?)に属するものかな。氏が追求する方向性に何があるのか私には想像もつかないが。
今回の「競演者」である大谷能生氏の音楽は微妙に絡む距離感で、これも色彩を明確に出さず左脳的理解をさり気なくかわしていた。
呆気ないと言えば呆気なく終わる「演劇」だったが、山縣氏の身体負荷に同期していたのか緊張が解けた瞬間の快い疲労が見舞った。
ネタバレにて、後日「企画」総評を。

ネタバレBOX

以前書くと約した「総評」を律儀にも物そうと、ノープランで書き始めてみる。
「これは演劇ではない」なる刺激的タイトルの下、若手であり一定の実践経験もあり一定評価もある集合に属するアラサーからアラフォーまでの手合いが勢ぞろいの感。競演する当人もこの「集合」で括られる事が満更でも無いらしいと、様子を見ながら思う。孤独な戦いである。時に手を携え、互いを労い合う機会も、この「集合」を観客も認知し劇場につめかける事の上に初めて成り立つとすれば、つめかけた一人である自分がそれをした甲斐もあったというものだ。良かった良かった。
全くかぶる事のないパフォーマンスたちは、見事に「棲み分けた」というよりは、まだ十分に隙き間がある、棲む場所は探せばある、そう思わせる広がりを総体として見せた。アングラ以来演劇が求めた自由を、彼らも求め続けている、その系譜にある。そう思えば応援もしたくなる。そんな気持ちにさせた皆々方に心底より感謝したい。
28時01分

28時01分

演劇屋 モメラス

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/14 (月) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

個人的には本企画の目玉、モメラス。ことごとく不都合な時間ばかりだったが、無理矢理どうにか観劇できた。才女ぶりを確認。みて面白いかどうかが全て、という基準で測れば、「オイシイ」場面が仕込まれた本作は高得点。
妊娠という特殊な身体状態にある女性の心象風景といった風にも見えるが、展開の着想、視角的イメージの着想ににんまりである。

幸福な島の誕生

幸福な島の誕生

カゲヤマ気象台

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/14 (月) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

これは演劇ではないシリーズ後半1作目を観劇。既に3演目とも見終えた。
個別に評するのが難しい作品群で、何か言葉を添えようとすると身もフタも無い言葉が口をついて出そうになり、前衛の世界ではそれは逆に敗北、作品に勝ちを譲るだけの当て馬・・? それでも何か一言。
カゲヤマ気象台(作演出の名)のsons wo:は以前一度だけ目にしていて、1ステージ2演目あった一つのみを観たので完全とは言えないが、後半の演目は人物らの突飛な所作や扮装の比喩の対象を定めきれず、リフレインの多い舞台だった、とだけ。今回も「繰り返し」の時間が長く、この作り手の特徴とは早合点か。
「文章を読む」行為を微積分する新聞家と比べれば、順に登退場する三人(男二人女一人)はモノローグを発しているのかモノローグっぽい口調で誰かに喋っているのか(ダイアログ)、という風に見え、<演劇>を観るいつもの感覚で「関係性」を読み取ろうと、つい前傾姿勢になるのだったが。
各自、喋る「身体」は内向きで鬱屈し、「明朗な声で明確に感情や意志を伝える」のが演劇のベース、といった健康優良児な演劇イメージを拒絶する感じがなくもなく、また俳優三人が序盤に吐く言葉がちょっと思わせ振りでもあり、様式の解体と、再構築を期待させる出だしだった。
・・・が、断片でしかない個々の俳優が、舞台上に会して漸く始まるのは、鬱屈度が高くやや知的キャラを担う男による、他の二人への怪しげな誘導(イメージとしては洗脳)である。具体性のないぼんやりした言葉が、鬱屈からの悲壮味を伴う「もっともらしい」響きで二人に投げられ、精神修養らしきものを二人に施すという場面が後半延々と続く。
「・・して下さい」というオーダーに、二人はただ従順に上体を揺らし、腕をブラブラと上げる。「正解権」を完全に相手に手渡してしまった人間との非対称な光景はオウムの麻原を連想させ、その問題提起にも思われるが、不要にしつこく、だれる。同じような体験に観客を巻き込む意図があったか知れないが、そこだけ追求する意義には賛同しがたい。
示唆されていたのは、この鬱屈したタイプの青年がある一貫性を持つ事で主体性薄の他者を操る先導者にもなり得ること、誰しも悲喜劇の種をその内に持っていること、でもあるか。
いや、主題やメッセージを伝えるのが目的なら、むしろ既存の、正統な舞台様式を借りてでもやろうとするのが正しい。
消去法で残るのは、追求されているのは演劇の新たな「あり方」の提唱者となる事(の名誉)、であるか、表現したいものを表現するための最良の手法の模索、であるか。後者から前衛は生まれるとすれば、この表現主体の求めるところはまだ判らない。

ネタバレBOX

不規則な呟き。「演劇とは何か」
別役実なら「演劇」の条件を何と言ったか、いや恐らく断言めいた事を氏は書かない。氏が言う「風が吹いている」のは舞台が成立する「条件」ではなく、舞台の「実態」である。
では場・俳優・言葉の三要素・・いやいや無言劇がある。要素と言えば観客は外せないだろう、とか。しかし特殊な状況、客にではなくその場に居ない死者、あるいは西洋では神を観客と見なして芝居を上演するなんて事も・・ただその場合、観客は存在すると言える。
ポストドラマと言われるカテゴリーに思いを馳せる。この企画に呼ばれた6者とも、この範疇に入りそうだが、ドラマに飽き足らなくなった時代、あるいは状況とは何だろう。嘘っぽいのは嫌である。現実が斯様にシビアであるのに。せめて夢を見させてくれ・・・現実逃避。逃避した気にもならない逼迫した「現実」に直面する人間に、寄り添える演劇のあり方が、様々に模索されているのかも知れない。

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