街の下で
今泉力哉と玉田企画
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/10/24 (木) ~ 2019/11/04 (月)公演終了
満足度★★★★
川﨑麻里子、長井短、師岡広明と、弾けそうな役者陣に期待を膨らませ、劇場へ。他の初見の役者はどことなく映像系(今泉氏繋がり?)に感じられたのは力の抜け具合。あの川﨑女史が役者の「武器」を使わず自然体で演じる(だけでもそこはかとユーモラスではあるのだが)という、場面は多々変わるが現代口語劇のまったりした快い時間が流れる芝居であった(途中まで)。
冒頭は川﨑演じる姉(早季子)、ベッドの男(小山内)、そのそばで泣く男(正雄)の風景。三人は幼馴染で、泣く男が一応主役だと後で判る。姉は泣く男の元カノだが、泣く男は今余命幾ばくもないベッドの友人でなく、かみさんに離婚届を渡された自分の事で泣いている。それを二人は慰めている。ちょっとシュールな出だしだがここを出発点に面白く話は展開する。姉は弟(祐介)の親代わりらしくお金を稼いで弟を高校に通わせているが、弟とのキャッチボールでの会話は弟が今付き合っている彼女にどう別れを切り出せば良いか、というもの。姉は男に振られてもその後友達付き合いができている(泣く男然り)、自分もそんな具合にうまく収まりたいんだけど、と。姉からは「クズ」と言われるが、「相手に泣かれたらどうすれば・・」と訊かれて、ふと「自分も泣けば?」と自分の過去を思い出して答えてしまう暢気さ。そして泣く男の家では、妻(弓子)に三行半を突きつけられる場面に時間が遡っている。ここでの会話がいい。演劇やってきた泣く男が最近、ベッド男(予備校講師)の紹介で予備校の事務員になった。お金を稼がなきゃという気になっている訳だが、一方相手はと言えば「演劇頑張ってる正雄が私は好きだった。もうやらないの?」と言う。「お金は今まで通り私が稼ぐから。」最後には「どうして俺は自分の演劇が面白いと思ってる、応援してくれって言えないの?」と迫り、なんと泣ける話かと思ってしまうが、男のほうは煮えきらず結局女は去って行く。去るの手前のやり取りで、泣く男は妻に「いずれあんたは孤独死。これからあんたなんかに惚れる女なんて絶対ない」と言われて反論、対抗馬を出す。それが、冒頭の幼馴染同士の見舞いの日、男が泣きながら去って行くのと入れ違いに、ちょうど講師を見舞いに訪れ、すれ違い様に避け損なってお見合いをしてしまった女生徒であった。弟が「別れようと思っている」と言ったカノジョがまさにこの女生徒。弟は嫌がる彼女を最後には「泣き」で納得させ、彼女からは「きっと祐介君の事はずっと忘れない、また気持ちが戻ったら言ってほしい」と、有難い置き土産まで頂戴した。しかし女心(しかも十代)はなんとやら、ある日、元講師が亡くなったのだろう、葬儀場の庭で彼女は泣く男を見つけ、告白する。泣く男は当惑するが彼女側には理由があり、慕っていた予備校講師のベッドの前で大泣きしていた姿に心を打たれたのであった(誤解)。思わぬ積極的な申し出に、泣く男はかみさんとの事で泣いてるくらいだから簡単にはなびかないが、例の離縁話がもつれたその時に「俺に惚れてる女は居るんだぞ。」と、詳細情報付きで返す。その彼女(二胡)は、葬儀での告白の後、同じく葬儀に来ていた元彼(祐介)に付きまとわれる。喪服姿にキュンと来たか、「付き合って欲しい。いつでも待つって言ってくれたでしょ」と迫る弟。半分男を見切っている彼女は、男をホテルに誘う。「そんなんじゃない」と言いながらホテルの一室に来た彼は、喪服のままベッドに仰向けになった彼女を前に、やはり逡巡し「俺はまじめに付き合いたいんだ」などとほざく。彼女は相手を試す気分半分だが、本気と信じられないから本気を見せるチャンスを相手に与えた、が予想通り相手は尻込みした、というありがちな顛末。(後でそれを姉に話して引かれる、というくだりは蛇足に思えた。)さて妻との悶着の最中、泣く男の携帯に、彼女から電話が入る。「今、ホテルに居るの」・・。
確かこのあたりで、「演出」役の師岡が割って入り、役者に修正を要求する、という事をやり始める。つまり芝居を途中で止め、シーン稽古が始まるのである。
この構図を持ち込んだのは、着想した場面をランダムに入れ込みやすいからだろうか。それ以前に、話が煮詰まってしまったのだろう。もしや川﨑女史の「武器」を使ってもらいたく、異質な場面を挿入するための苦肉の策を講じたのだろうか。
この劇のラスト、ベッドに寝ていたのは泣く男自身で、夢を見ていたらしいという夢オチな雰囲気で終る。二段のオチがある訳だが、残念なのはその前の「稽古」シーンで、演出の繰り出す思いつきのアイデアがいまいち面白くない(飛躍し過ぎで瞬間的笑いは取れるが現実味が湧かない)。初日前日に「書き直す」と言い出すあたりは、劇作りの苦労を偲ばせるのではあるが、演出が出す新たな指示をもっと面白くするか、または演出の焦燥をリアルベースの演技で見せてくれるか、どちらかになりたかった気がした。
可能ならば、前半の芝居の「役」たちが、役者を侵食して役者自身と「役」の顔が判らなくなるとか、どうせ「夢」であるならば混沌としたシュールな場面になって行くもいい。本にするにはもう一段産みの苦しみがありそうだが。
会議
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2019/10/25 (金) ~ 2019/10/30 (水)公演終了
満足度★★★★
別役実作品の舞台化は、怖い、不気味、のパターンが面白い。「うしろの正面だあれ」「にしくむさむらい」「諸国を遍歴する二人の騎士の物語」「病気」「あの子はだあれ、だれでしょね」。。
「会議」も、戦慄の(?)結末を迎える。そこへ至る経過がよく見えた。印象的な修了公演「るつぼ」を残した第12期生の一期下の13期生が、熟練でも難しい別役戯曲をきっちりと成立させていた。これが一つの嬉しい発見であった。
別役劇の顛末には、主体の意思薄弱によって不本意な展開を許し、不本意な結果を招き入れる(強い自己を持たず周囲に合わせて行動する日本人的習性により、手痛い仕打ちを受ける)ケースが多い。『会議』では、あるキーマンの「攻め」が顕著で、犠牲者にとっては抗い難い空気が醸成されて行くのが特徴。頭や腕に包帯を巻き、スーツを着てハットを被った、格好だけは紳士風の男は声に一定の告発トーンがあり、初めはありもしない暴行がここで行われた等と言い募っていたが、やがて場を支配し始める。男の主張に抗えない空気が作られ、ターゲットにされた男は、ある偶然(企みによるとも解釈可だがそれは排しておきたい)の加勢もあって一気に断頭台へ押し上げられてしまう。
(先ほどネットサーフィンで見つけたツイートを捲っていたら、「公式に認定された弱者が一番の強者」なるズバリな一文に出会った。)
他者を扇動し場の空気を作る冷徹なまでの強い「意志」が存在したら・・「会議」の登場人物らはそれなりに主体性を持ち、ラスト、悲劇的結末を前に「何故こうなったのか、それこそ会議で話すべきではないか」と説く者さえ居る。その彼らが、目の前で起きた殺人、死体遺棄、不訴追を許した経過は、この芝居自体、衆人環視の中行なわれた実験とも思える。控えめながら幾つかのポイントで不気味な音響が鳴り、これが演劇である事を思い出させるが、虚構の中の真実、信憑性に現実の断片が脳裏をかすめる。
この戯曲のようにあっと言う間に現実が相貌を変える瞬間が、いつ来ても不思議でない条件は一定整っており、さらに整えられつつある、その息苦しさが現実にある。
燃えつきる荒野
ピープルシアター
シアターX(東京都)
2019/10/30 (水) ~ 2019/11/04 (月)公演終了
満足度★★★★
初ピープルシアター。名を知った当初からの「真面目」(硬派)のレッテルは当りであったが、その劇団なりのテイストを味わうのはやはり新鮮な悦びがある。船戸与一氏の原作も、他の著書も知らず、今作は三部作のラストというので、ストーリー理解面の制約は覚悟の上。後で知った所では、ここに登場する敷島四兄弟は(如何にも歴史上存在したっぽい軍人ぽい名前だが)原作『満州国演義』に出てくる架空の人物。
物語は満州建国から滅亡までの歴史を時間経過的には辿る。硬質な台詞を役者は口にこなして発語できていたが、人物関係図は中々掴みきれなかった。
が、場面処理をはじめ技術は高い。幾つものエピソードを短い場面で繋ぐ一定のテンポ感、人物繋がりのリレー風の場面展開(場面移行がスムースになる)、サスペンスフルな音響。目を引くのがまずシアターXのほぼ正方形に近い広いステージ一杯に広がるススキ野。やや高低差のある各所で、様々な場所のシーンを俳優の無対象演技で見せる。途中、ドラマを推進していたエンジンを切った静寂の中、敷島太郎(長男)と知己であるアウトローな男が身の上話をする(実は自分が君らと血縁であったその由来=そこに日本近代史を俯瞰する視点も)、リアルな時間がある。
エピソードの関係性は把握し切れなかったが、満州国を巡る歴史上の主要な事件が断片的に連なり、架空の人間の物語を借りながら歴史を叙述する仕立てとなっている。即ち、柳条湖事件、二二六事件、盧溝橋事件、関東軍、原爆投下、ソ連参戦、逃避行、シベリア抑留、帰国。。
原作に興味を持ち始めた。
After Ever Happily Ever After
仮想定規
ステージカフェ下北沢亭(東京都)
2019/10/30 (水) ~ 2019/11/04 (月)公演終了
満足度★★★★
旗揚げ公演を見逃して気になっていたユニット・仮想定規を初観劇。うかうかしていたら旗揚げから既に3年、今作早くも第5弾であった。
ステージカフェ下北沢にも初訪問。繁華街から住宅地に一歩入った感じの道にそこだけボッと明るくいい感じに古びた店先が目に留まる。その手前側の外階段を上った2階に遅れて到着すると、ハロウィンよろしく西洋のお伽噺に居そうなのがドアの外に出てまた入って行く。小さな受付机のある踊り場が下手袖という、小箱のような会場である。
入ると横に長めの客席。体温の行き交う雰囲気は、どこかの家でクリスマス劇を観る手触り。手作りで手の届きそうな場所で、あのお父さん、あのお姉さんが化けて出て魔女や物語の脇役の化身やキャラクターを演じ、子どもを騙くらかしている風。夜中におもちゃ達が出て来てやんやと騒いでいる。
役者の動き・発語は機敏・明瞭、映像を使ったり場面も多彩、思わぬ展開もあって上演時間中は飽きない、のだが、「お話」の方はもっと詰めたい印象を残した。
ファンタジックなテイストでファンタジーそのものを取り扱っており、取り扱い方が難しそうである。暗喩性の高いお伽噺の構造に対し、あるメッセージが大枠同意できるものとして提示されるが、このメッセージにもう一振り辛味というか鋭さが欲しいように思った(好みの問題かもだが)。
ファンタジーは現実の暗喩と言えるとすれば、背後に人を刺す鋭利な批評と暴露がある(それを飲み込みやすく示すのが「喩え」の機能)。この作品はその領域を志向していそうに感じての感想、とは自分に引寄せ過ぎか。。
(まだ的確に掴まえられないが、思い当たったらまたしこしことネタバレにて。)
寿歌
劇団東京乾電池
アトリエ乾電池(東京都)
2019/10/24 (木) ~ 2019/10/27 (日)公演終了
満足度★★★★
『寿歌』と言えば昨年のSPAC版野外劇が初にして珠玉。これを超える事は期待しないにしても、冗談半分の(と見える)乾電池の料理法は如何ばかりと不安7割、だが江口のりこまで出張るなら一応ちゃんと作るのではと期待3割。
ところが意外や面白く、戯曲にちゃんと向き合って作られた舞台であった。
乾電池では2011年頃の初演以来何度か上演され、変らない配役がゲサクの西本竜樹、芸人風情が存在そのままで板につき、どっしり安心感がある。ヤスオに血野滉修(何と読むのか不明)、キョウコに江口。随所に脱力系力み系ギャグ硬軟様々取り交ぜて提供。白痴っぽい要素のあるキョウコの色気と色気の無さ境界ギリギリを江口がさらりと演じ、芸人風情のゲサクは冗談寄りだが冗談顔がふと真顔に見えなくない男の背中。超人的役柄であるヤスオ(ヤソ)の「存在から冗談」(笑われキャラ)を時に逆手に取った役者顔を見せつつも、現世的関心を捨てた超越性を信じさせる風情。上演一時間余、3人のアンサンブルがまだ続いてほしく思える舞台であった。
無人のコンピューター制御システムでミサイルが飛び交う世界を、芝居のラスト、ヤスオが目指したというエルサレムへか、はたまた何処へか紙吹雪の中をリヤカーで一足一足行くゲサクとキョウコの姿が胸に迫る。(乾電池の芝居なのに感動してるオレって・・)
『花と爆弾~恋と革命の伝説~』
劇団匂組
OFF OFFシアター(東京都)
2019/10/23 (水) ~ 2019/10/27 (日)公演終了
満足度★★★★★
西山水木演出もさりながら岩野未知推しで観劇。女性の書き手だが骨っぽい作品のようだとの予想通り、否、予想を上回った。冒頭、幸徳秋水家で新たなお手伝い・百代(牧野未幸)をスガ(岩野)が迎えるシーン。スガは勿論その生き様を見つめられる存在であり、百代は見つめる側(ナレーションも担う)であるが、会ったその日にスガの事を「お母さんだと思った」事の判る一分足らずの凝縮したやり取りから、芝居に釘付けになった。
管野スガの名は、「日本文学盛衰史」にそう言えば出ていたと観劇後に思い出した。大逆事件で死刑囚となった紅一点。革命にも事件にも女有り。
男はだらしなくマザコンで甘えん坊だが、彼らが世の中を回している。実母を亡くし親類の家で苛め抜かれたスガは、今この時、恋をする。その相手・荒畑寒村(井手麻渡)、両者の思いを察し、再度二人を引き合わせる手回しはスガの実妹、肺病病みだが好奇心旺盛で寒村を慕う秀子(葵乃まみ)の計略。「スガを見つめる」もう一人であった秀子はやがて亡くなるが、思う合う二人の恋は成就する。恋と言えば百代の方は楽しく働く編集室で、同志となる新村(岩原正典)と出会い、互いに同じ年恰好、相手の中に己の未来を見て、手を振り合う仲に。だがその次の瞬間には主人たる幸徳(成田浬)の欲情の贄となる。風呂敷包みを抱えて実家へ帰る百代と、折しも訪れた新村がすれ違うシーンは一際抒情的に描かれる。西山演出は男女の心の距離感と息遣いを細やかにリアルに、また見事に象徴的に表現する。この本は言論の闘いや主義への情熱と不可分に絡み合う「女と男」の存在をありありと生き生きと捉えている。性(の痛み)を抜きに正義を語る勿れ・・。
スガと結ばれた荒畑は程なくスガを「ねえちゃん」と呼ぶようになり、やがて苦節の中でスガに母性を求めるかに見え始める。スガは母性と優しさを持つが、それは広い視野と行動する誠実さに裏打ちされた優しさであり、相手の願望に従うのでなく己が生きる選択とする。全き自立、良い意味での自己中心が、幼少時からの徹底した「否定」を潜った故だろうかと考えると、複雑な思いになる。
この本ではスガはこの時代に生み落とされた得がたい、宝石のような存在と描かれるが、その内実は彼女が自身を肯定し、表出している事から来ている。男は押しなべて彼女に大なり小なり依存的となる。だが彼女が向かい合った相手の人格を認めた瞬間、相手も輝く。そうした関係性も連想される。
歴史上の彼女の事を私は知らないが、岩野未知という俳優の体を得て具現した管野スガ像には愛おしさを覚え、世界に歴史に存在する(した)こうした女性たち、そして男たちの事を人類の記憶に刻んで行くことの貴重さを思わせられる。
凜として
東京ストーリーテラー
d-倉庫(東京都)
2019/10/24 (木) ~ 2019/10/28 (月)公演終了
満足度★★★★
名もない庶民が、戦争という時期を経てその傷にも関わらず力強く一歩を踏み出す姿。佐世保のとある漁村を舞台に長崎弁が飛び交う物語は、冒頭に提示された逸話を軸に巧みに織られて行く。「ストーリーテラー」とはよく名づけたもの、テキストに熟練を感じさせ、役者は堅実に演じて決め台詞を外さない。
「凜」とは物語の村の出来事を見つめ時に人の間に介入する、ある出来た親子(嫁と姑)の嫁の名でもある。
役者が言葉に命を吹き込む時、言葉はイデオロギーを超え言葉にひそむ陥穽を超える。その証左としてこの芝居で唯一、「戦争の欺瞞と愚かさ」を痛罵する直裁な言葉を凛の姑すえに吐かせる場面がある。他の村からこの漁村にやって来た女(パンパン)が戦時中非道を行った地元の顔役を発見し、復讐を企てた時、彼女の話を聴いたすえは彼女の報復を押し留め、息子を送り出した自分もこの男も同じ罪人だと己の胸を拳で叩いて嘆く。この言葉は戦争責任論で言う「一億総懺悔」(誰も責任を取らない結果に落ち着く)の類型に他ならないが、すえの口から零れ出た言葉は格別の意味を持つ。「私が誰かの掛け声に踊らされて死地へ送り出し、無残に死んで行った犠牲に報いるには、二度と踊らされない事だ。」
だが・・と、ひねた私はやはり考える。A級戦犯は裁かれ、死刑に処せられたが、処せられなかったA級戦犯もいる(例:安倍晋三の祖父岸信介)。裁かれる者と裁かれない者との境い目はどこか。。物語では、住職を騙って成りすましていた、かの女が見つけた顔役は、彼を和尚と信じる村の人々に尽くした事をもって村人に慕われ、偽和尚である事も咎め立てされない。徴兵を免れていた心臓病みの兄を、ヤロウの点数稼ぎに(との表現は芝居には出ないが)戦場に送られた女の復讐心は行き場を失う。
先日の『屠殺人ブッチャー』には復讐を成し遂げる女がいた。しかし日本人「同士」という意識からは、やはり「同じ被害者である」、同質であり同じ立場であるとして同民族内に区別や対立が生じるのを回避する殆ど無意識レベルの指向性がある。ある場合には悪習となるこの「美徳」は、本当の敵への訴追を阻み、社会が良い方へ前進しようとする気配をも拒んでしまう「被支配者たち」のありように帰結する。
もっとも「凛として」には的外れな論であるかも知れない。この芝居には人間の行動の裏側にある真の願望・心情へ届こうとする(すえにおいて体現される)眼差しがある。結論ありき・予定調和の要素が排されたその先に、このドラマは調和を手にした。真情のぶつかりが調和(平穏な日常)をもたらす保証はないが、「凛として」ではこの地を訪れた絵描きの頼みに殊勝に従い、年寄りまでを佐世保の海、九十九島を眺望する石岳へ登らせる。自然が織りなす美に人皆の心は溶け、解かれていく。所有を競う狭隘な世界観が、自然や美といった所有を拒む存在の前に砂粒と散る感覚。
細やかな人間心理の機微にフォーカスした作り手の術中に嵌り、幾度も涙した。
ノート
ティーファクトリー
吉祥寺シアター(東京都)
2019/10/24 (木) ~ 2019/11/04 (月)公演終了
満足度★★★★
初日を観た。川村氏程の熟練なら客の受け止め方を鋭く嗅ぎ分け、日々修正を加えるも手慣れていそうだ(個人の想像です)、という事を考えたのは出来立てナマ物な感触の舞台であったから。原稿用紙の鉛筆書き(かどうかは知らないが)の文字が背中から立ち上るような俳優の様子でもあり。これ即ち筆一本で世に挑む作家魂の顕われ方であろうか・・そんな事を思った。
オウム事件を題材に書かれた戯曲。架空の教団を設定し、脚色はあるが国政選挙出馬から弁護士殺人事件、地下鉄サリン事件と、それと判る事跡を辿る。
当日パンフに川村氏は人間の忘却と記憶について記している。確かに事件は確実に風化している。自分の中でも・・若者たち、それも高学歴の者たちがサティアンなる工場まで建て、高度な技術を要する化学兵器を作って無差別殺人をやらかしてしまった。現代の病理が取り沙汰されたがあの問題はどうなったか。人間疎外(これも今や懐かしい単語)が再生産される構造は所与のもの、この世の自然な姿と受容されている、という事ではないか(別の見解もありそうだが)。
リアルタイムで知る者には未解決のまま思考放棄した疼きのある事件。このテーマに対峙した舞台だ。
リヤの三人娘
まじんプロジェクト
劇場MOMO(東京都)
2019/10/22 (火) ~ 2019/10/27 (日)公演終了
寡作で公演実績は片手で収まる「まじんプロジェクト」を知ったのは、長田育恵が(おそらく初めて)在日朝鮮人を題材に書き下した「くれない坂の猫」の上演。もっともチラシを見た時には公演(再演)は終えていて歯噛みした記憶が。戦後まだ皆が貧しかった頃、高台にある診療所を舞台に繰り広げられる心温まる話とかで、芝居は観てないが、高台から見下ろす古い町並みと猫の絵の温かいチラシがイコール「まじん」となって久しかった。
そこへ今回の「リヤ」。こちらもチラシにまず惹かれ(宣伝美術:荒巻まりの・・「くれない坂」に出演もしていた事を先程知った)、奥泉光の戯曲、出演に林田麻里を認め、観劇を決めた。
もう一つの関心は奥泉光、データを後でみると芥川賞受賞が94年、氏の初戯曲という本作は近年の作かと思いきや、翌年95年3月(オウム事件直後)に初演とあり、シェイクスピアカンパニーで三度再演と大事にされた演目らしい。この4人芝居のゴリネル(リア王の長女)役は何れも奈良谷優季(まじんプロ主宰、当時はラッパ屋所属)と、所縁ある演目であった。
芥川賞作「石の来歴」以来2、3読んだ奥泉作品の印象は少々アカデミックな趣き、ミステリー調。アクロバティックな言辞を文体を崩さず駆使できるコトバの使い手。だがこの文章特技は戯曲には(特に会話には)馴染まないので、氏の劇作家としての力量にあまり期待せず、それでも演劇に魅せられて氏が戯曲を書いてしまう部分に興味があった。作者的にはこの処女作を苦悶の末に書き、今読めば未熟さが見えるとはパンフの一節。
だが、シェイクスピアの原作に則った格調とユーモアを保持した長台詞を織り込んだ翻案は、職人的文才(彫刻の美を想起させるので)・三島由紀夫を思い出す。「話が面白いかどうか」はまた別だが奥泉流が生かされていた。
といった所でそろそろ中身の話へ・・と行きたいが、実は後半の殆どを爆睡し、不覚にも眠りの最中で終演を迎えてしまった(おいおいQ)。
要因は第一に体調であったが、芝居の方も、「リア王」の知名度に頼んでか、ドラマの航海へと進水する初期の起爆がなく、エンジンをふかして前へ進む物語の「意志」を掴み損ね、私は沈没してしまった。
開幕の地獄の風景。これは悪くないが、全編一幕同じ場面、昼夜知れない薄暗めの照明では、逆に息苦しくなってくる(光はしっかり当たっているが夜の灯り)。煉獄での会話劇であるサルトルの「出口なし」はシリアスな会話劇で緊張を強いるが、こちら「リヤ」は基本が喜劇。地獄に堕ちた己らを嘆き、強がり、いがみ合う姉妹を、笑う視線を想定して書かれている。
中央には単管パイプで組まれた、ちょうど土に縦に掘った井戸を柵で囲い、釣瓶を支える塔を据えたようなヤツに(綱の代わりに)鎖を垂らす等は不気味に鈍く光って構図はいい。すばしこい「地獄小僧」役がそこに飛び乗ったりと動きの上下の効果もある。が、使われる事の無い鎖が時間経過とともに淋しく見えてきた。
荒唐無稽な地獄での話では、風景にも、人物たちにも、落語「地獄八景亡者戯」の底抜けの明るさがあって良いように思う。
明るさの加減については、「湿っぽさ」の領域に1ミリもはみ出てはならない、と行きたい。姉妹は同情を買ってはならない。
(後日若干追記)
「隣の家-THE NEIGHBOURS」 「屠殺人 ブッチャー」
名取事務所
「劇」小劇場(東京都)
2019/10/17 (木) ~ 2019/10/29 (火)公演終了
満足度★★★★★
カナダの作家ビヨンの2作品公演。初演を見逃した『屠殺人ブッチャー』を数ヶ月前から今かと待ち続け、観劇日を迎えた。2年前に同じ「劇」小劇場で上演された同じ扇田拓也演出による『エレファント・ソング』も同じ作者。今回の一方の作品『隣の家』は名取事務所への書き下ろしという。
再演ではキャストが2名変わり、ついその事を意識して観てしまう。男性3名と女性1名の4人芝居。女役は初演が森尾舞(今回「隣の家」に出演)の所、渋谷はるか(中々見合う人選だ)。若い弁護士役も名取事務所の常連・佐川和正の所、西山聖了。演出者も初演の小笠原響は今回「隣の家」演出のため、代わって『エレファント・ソング』を演出した扇田拓也が当った。
という事で、果たしてどんな違いが・・と言っても初演は観ていないので想像しながらであったが、最終的にはそんな事は忘れた。上演前半で各所に残した違和感は全て回収され、この架空の国をめぐる実しやかなドラマをリアルに想像させられた。
久々に舞台で観た渋谷はるかはやはり印象に残る演技者。
ビニールの城
劇団唐組
下北沢特設紅テント 本多劇場グループ テント企画 (仮称)下北沢交番横小田急線跡地 (東京都)
2019/10/18 (金) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
満足度★★★★★
「不評」投稿が続いたが、これは手放しの賛辞。下北沢の空き地にテント初進出の巻。ネタバレになるが(凡そ想像される事だが)屋台崩しの真正面は新しくなった小田急及び京王の駅舎のネオン。夜の灯りを見せるラストと言えば我が初観劇新宿梁山泊「青き美しきアジア」の都庁ビルの窓明かり(25年前)を思い出す(実際その後このパターンは無く、上記観劇の衝撃を思い出した瞬間だった。
「ビニールの城」は一風変わった屈折した者同士の恋愛ストーリーで主役は男女とも一人ずつ、判りやすい。初演は第七病棟で石橋蓮司と緑魔子がこれをやったのかと思いながら、「復活!」したらしい稲荷氏とお馴染み藤井由紀の掛け合いを眺めた。唐組俳優を初めて観たオフィスコットーネ『密会』、その異常性人格を本物かと疑うリアルさで演じて以来の主役・稲荷卓央。彼不在でこの演目はやれなかったのではないか・・とさえ。
予約して訪れたが立見。しかし疲れを忘れて、目が望遠機能を持ったかのような錯覚に陥りながら役者の身体に釘づけであった。この心地よさは何だろうか。
パーマ屋スミレ
よこはま壱座
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2019/10/18 (金) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
満足度★★★★
TAK in KAATという地元劇団枠に、アマ劇団での上演をあまり聞かない鄭義信作品が登場。どう料理されるのか興味が湧いた。
戯曲に書かれたある状況での感情の迸りを精一杯演じ、見せ場をクリアしていた。が、限界のようなものも感じる。一つは戯曲そのものについて。鄭の在日三部作の一つとされるが『焼肉ドラゴン』も含め辛酸を舐めた先人と後の世代への継承の風景が美しく描かれる。素材は在日社会でも、ドラマには普遍性がある、悪く言えば一般的なのだ。笑いを必ず忍ばせる鄭氏だがこの「笑い」は共有される苦しみ悲しみが深いほど生きて来る。ただし苦しみがそこそこ程度でも笑いは成立するように書かれている。水面下の苦しみ怒り哀しみ辛さ、理不尽な思い、絶望・・鄭氏はそこに光を当てる事に拘泥しないが、台詞以前の人物の存在そのものから滲み出るものがリアルの、引いては笑いの土台になる。要は「難しい」戯曲には違いないのである。
例えば民族文化を負った在日らしさ、制度的な限界、そこから来る諦観、人生観、炭鉱という環境、経済成長という時代感覚のリアルが、掘り下げられれば掘り下げられるほどに情感が満ちて来る。芝居として一応成立するラインから、その先の厚みをもたらす伸びしろが長いタイプの作品という事になるか。
今回のよこはま壱座の舞台は、しっかりした美しいセットと役者の頑張りで(役年齢とのギャップに慣れるのに時間を要したものの)戯曲が求めるものをクリアし、胸を突く瞬間もあったが観終えてみるとやはり「その先」を求めている自分を見出す。特にラストに掛けては(終わり良ければというように)ドラマ=人々の人生が集約されていく、あるいは俯瞰される地点に連れて行く何らかの作り方が見たかった。
部分的な難点を挙げればきりがないが、例えばKAATの特徴だが袖幕がなく役者がはけるのに時間を要し、しかも隠れる場所が見切れ、ラストで引いていくリヤカーは上段の上手奥へとはけるが、奥には行けないらしくそのまま置かれて見えてしまっていたり、土の道をカーブして舞台となる床屋が平場に立っているが床が黒の板張りで床そのものに見えて興醒めだったり。また初日のせいか下手袖の裏から声や物の接触音がクリアに聞こえたり・・。演技面も結構できているだけに、ニュアンスを捉え損ねた物言いが一つ挟まれるだけでも素に戻りそうになる。寸分も気を抜けない芝居である。
この演目に挑戦しここまでのレベルに到達した事に敬意を表するが、この芝居をやる以上はもう一つ上に行きたかったというのも正直な感想。
ファーム
フェスティバル/トーキョー実行委員会
あうるすぽっと(東京都)
2019/10/19 (土) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
満足度★★★
本年度より統括が変わり(3代目)新たな試みもあるらしいF/Tトーキョー、毎回1、2本観られればラッキーで今年もオープニングの「セノ派」のパフォーマンスは目にとどめたが、気になっていた松井周作「ファーム」韓国人演出バージョンもどうにか観る事ができた。
「ファーム」は私のサンプル初観劇の舞台で、芸劇らしい舞台の使い方と近未来の雰囲気と役者の佇まい、静かな会話の中からじわじわと異形が首をもたげる感じが好感触だった。
が今回の演出はまるで違った(演出家本人も作者の思いとは正反対の方向かも知れないと吐露)。その評価は難しく、字幕を介しての観劇という事もあり身体パフォーマンスに寄ったのかも知れないが、初演を観て期待した者としては、その片鱗だけでも感じたかった所、換骨奪胎というか、初演では「異形」の根底に静かに流れていた愛情・愛着のような気分を、激烈な愛情表現として前面に出してきた。
さて、それが作品の核であるはずの「近未来」の人間のありようを探る試みとしてどうだったかと言えば、クローン技術や遺伝子操作といった生命倫理の問題は吹き飛んでしまい、達者な俳優らの声色・身のこなしの芸を見ることは出来たがより高次な「作品」への貢献として印象づけられる事がなかった。
作り手はこの作品の上に乗っかって「遊んだ」のだろうが、作者が最も注意を割いた部分を(手に余ったのか)省いてしまった、と見えた。
残念ながら自分の感性ではこの舞台の意義を掬いとることができなかった。
『パンパンじゃもの、花じゃもの』
劇団天然ポリエステル
小劇場B1(東京都)
2019/10/17 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
女性バージョンを観劇。
今月は初の劇団に見える機会を多く得た。一定水準の俳優を客演に呼べる分母を形成し得た若手集団の一つ、という所。初見でなかった俳優は真島一歌くらい(が観劇中は別の女優と勘違いしていた)。話もさる事ながら俳優に見せ場を作るドラマの趣、つまりは最後は皆良い人、過ちは許され、精一杯生きてるノダ、という。戦後の混乱期はそうしたドラマにはうってつけの背景設定で、女優冥利を体感するに外れなしと言われる役=娼婦たちの話(男優ならば兵士なのだそう)。
話はと言えば、自己犠牲の美学で批判精神の脆弱さを糊塗するお決まりの構図で、土地の権力者の横暴も「俺はお前に本当に惚れていたんだぁっ」の一言で免罪される心地悪さは、無論これを現実に置き換えればの話。芝居のほうはテンポよく俳優も見せ場でそれぞれの魅力を存分にアピール。生い話ではあるが伏線が思わぬ展開で回収な場面もあり、健気な女性たちの残像もあり、無為な時間を過ごすよりは幾らか良いと思えるちょっとした料理。
小刻みに 戸惑う 神様
劇団ジャブジャブサーキット
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/10/17 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
満足度★★★★
何作目のジャブジャブだろうか。今回は主宰はせ氏がリスペクトを表明する平田オリザの拠点、アゴラにて、今までになく「考えオチ」にこだわらず自然の流れを尊重した台詞運びが印象的な舞台であった(はせ独特のカーブのきつい端折り台詞も時折掠めるが)。
この「変化」は(記憶が正しければ)公演時いつもキャップを被って立つはせ氏が好々爺な装い、ベレー帽にチャンチャンコという変化とも関係するのだろうか。しかも物語はとある劇作家の葬儀が執り行われる斎場の控え室に出入りする者達の人間模様。よく判らない「釣り」関連の細かに挟まれる逸話などもどこかはせ氏らしいのだが、話の軸はシンプルに死者の弔いであり、湿っぽさを嫌うはせ氏の筆も、死者を偲ぶ残された者をサイコパスにする訳に行かず、理想的な離別が描かれている。
霊の一人として登場する劇作家本人の具体的なエピソードは控え目で、周囲の人間との「関係」が彼らの様子から逆照射するように浮かび上がる所は泣ける。はせ氏は自分に当てて生前葬よろしく理想的な別離の形を描いたものとシンプルに想像したが、冗談か本気かは判らない。だが少なくとも、同じ日に斎場の2階の会場で葬儀予定の元政治家に作者が当てつけたような最後の顛末(暗転中の録音音声で、家族葬のはずが通夜を明けての告別式には各地からぞくぞくと弔問客が訪れマイクロバスも仕出弁当も足りず電話はひっきりなし、数十の弔電は全て1階の楡原家に当てたものだとの報告等々がかまびすしく・・)は地味に笑えた。微妙なバランスの上に成立した秀作。
・・なのだが、これは芝居にも登場する二代目僧侶にどこか重なる「得体の知れない」作・演出はせ氏の意図に沿った結果なのかどうか・・作り手のこだわった部分とはズレた所で秀作か佳作かいまいちか、評価しているように思えたりする。はぐらかしのジャブジャブの後味はやはり残るのであった。演劇とは奇妙な代物だ。
なにもおきない
燐光群
梅ヶ丘BOX(東京都)
2019/10/02 (水) ~ 2019/10/23 (水)公演終了
満足度★★★★
梅ヶ丘BOXの狭小空間の圧迫感を活用した舞台。チラシの時点で念頭にあった『屋根裏』(2002年以来再演を続けるヒット作)をやはり思い出させる、特徴ある空間に多彩なエピソードを盛り込んだ作り。四角の空間(屋根裏)や右から左へ下る坂(今作)じたいは、その実体をアピールしている訳だから、ひどく具体性を帯びるのに、言葉が喚起するイメージによって何かを象徴する抽象的な図形のように見えて来る。「屋根裏」のように、じっと見てると別物に見えて来る錯覚は、単なる傾斜の板だけでは起きなかったが、狭い斜面上を行き来する二次元感覚から、ふと奥行を見せる照明が入ったり、(観客を含めた)劇場空間を感じさせる演出など趣向は考えられている。
また今作では、奇妙な振り付けで無言で斜面を行進する姿や、シュールなシーンが多彩さを印象づける。失踪亭主や炭鉱、秘密の埋葬空間といったエピソードは具体的な「物語」に属するが、中でも炭鉱の筑豊方言を使っての台詞は書き手・坂手洋二の腕を見せつける名調子で、具体と抽象のバランスの崩れを巧みに回避していた。
ただ「なにもおきない」とはワードとして別物の「なにもしない」を接合するあたりは力技であった。伏線とその回収という点ではこのワードを示していれば収まりよかったかも知れないが、口当たりの良さを求めているのか君は、と一蹴され兼ねない気もする。
どん底
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2019/10/03 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
満足度★★★★
黒沢明監督の日本版「どん底」以来つくづくこの作品が好きである、と今回も実感。ただし数年前初めて観た原作版の舞台は、黒沢版が染み付いているからか、最終盤のやり取りが長く間延びの印象は今回も然り。世の中を見切った者らがそれぞれの仕方で日々を傷つき傷つけ合いながら逞しく生きる様は、やはりどこか江戸の長屋話の登場人物に通じ、群像の中に輝く生が描かれる珠玉の一編であるのは確か。
レッツゴーギャング
劇団東京ミルクホール
小劇場B1(東京都)
2019/10/09 (水) ~ 2019/10/14 (月)公演終了
満足度★★★★
演劇部をそのまま大人にしたような女子劇団がある一方、男子オンリーもある。開幕ペナントレースに近い雰囲気を感じたのは単にそのためか。男子体育会系。
もっともこちらは女役を男子がやる。主宰佐野バビ市本人が女装にこなれていて、大衆演劇の出し物よろしく途中日舞を披露。登場だけで拍手をもらっている。
この集団、以前space早稲田での北村想戯曲リーディングという企画の一作品を受け持ち、所属劇団員を含めた俳優の切れの良さと肩の力の抜けた劇の捉え方、自由さが印象的であった。いつか観たいと思って「漸く観劇に至った」という思いだが、随分歳月が流れたと思いきや未だ3年だった。
笑いのための台本で、ガバと黒幕を落とせば笑点の舞台。演者それぞれの物真似に始まり、本筋はリアル返上の荒唐無稽なスパイ物? 設定は昭和一桁としたがあちこちで現代が無節操に出入り自由。しかし犯罪集団と官憲との追跡劇の行方を、いつしか追っており、不意にホロリとさせる所も。だが基本お笑い興行。
PROMISED LAND~遥かなる道の果てへ~
ネオゼネレイター・プロジェクト
「劇」小劇場(東京都)
2019/10/09 (水) ~ 2019/10/13 (日)公演終了
満足度★★★★
初観劇の集団。昨年1月東神奈川での豪快活劇「浜の弥太っぺ」にも(ゲスト?)出演していた大西一郎主宰「ネオゼネ」を一度観たかったが、初見は躊躇するもので。俳優陣で観劇を決めた。神奈川に所縁のあるユニットと聞くが下北沢「劇」小劇場にて出迎えたスタッフや観客にも何処となく「所縁」な雰囲気が。
不思議な快い味わいは独自のもので、予期せぬ劇世界の発見は視界の開けるような嬉しい瞬間であった。多彩なうんちくを役者が喋る時間は(所属俳優がたまたま出演もしていたが)ジャブジャブはせひろいち氏の文体に似、後半はゴドーのもじり、というよりゴドーの二人に別役風な秀逸な対話をさせ、舞台には風が流れ、時に疾風が吹く。人は旅人(人生は旅)であるという暗喩、達観、旅人でありたい憧れと切望、言わばロマンこそ「物語」の命脈。出会い又別れ行くも旅人であるが故。人生の答えへ導く風の道が、あるいは扉が、人それぞれに隠されていると物語は告げているような。
終夜
風姿花伝プロデュース
シアター風姿花伝(東京都)
2019/09/29 (日) ~ 2019/10/27 (日)公演終了
満足度★★★★★
風姿花伝プロデュース第一弾を飾った「ボビー・フィッシャーはパサデナに棲んでいる」の同作者の作品。演出然り。「パサデナ」と同じく夜部屋で交わされる会話を聴き入る濃密な会話劇であるが、前回は何処か外出から帰宅した一家族のそれ、今回は母の葬儀で久々に顔を合わせた兄弟とその連れ合いとのそれ。老成による退廃と傲岸さ、ナイーブさは岡本健一にしか出せないのでは、と思わせる嵌り具合。栗田桃子、どこかで見たが誰だったか(例によって役者名チェックせず観劇)、思い出せない程の役柄の振り幅・・等々言葉にするだけ野暮に思えてくるので止めにする。
家族という内臓の脈動に4時間弱(途中休憩2回)、どっぷりと浸かる贅沢な時間であった。
亡くなった中嶋しゅう(「パサデナ」に出演)の「5回までは応援する」との言(遺言となった訳だが)に応えた風姿花伝プロデュースのその回を迎えたが、もう5回は続けて欲しい。演目の選定は大変だろうけれど。。