往転 公演情報 KAKUTA「往転」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    痛恨の中止発表が相次ぐ中、どうかこれだけは・・と祈る気持ちで当日を待った公演。
    9年前の初演(もう9年!)は、せわしない日々に紛れて見のがした。震災の起きた年。初演をプロデュースした元・世田谷パブリックの矢作氏(現・穂の国とよはし芸術劇場)がパンフで上演までの紆余曲折を記しており、舞台が被災地福島である事と「事故」にまつわる物語である事とで、上演見送りの声もあったらしいが、演出・青木豪氏の押しで(具体的な地名を止める等して)上演が実現したという。
    つまり作品自体は震災を踏まえて作られたものではない。にも拘らず会場に入るや高みから見下ろす舞台装置のシルエット、そして流れているノイズから2011年当時に引き戻される感覚に襲われた。混沌の状況で現在地を探していた、と今は思い出すあの混沌を思い出させる雑音。初演時に用いた音源使用なら合点だし新たに作ったとしても納得する。
    夜行バスというプライベートかつ公共空間で人がたまたま居合わせ、そこでの出会いもあった3組の「それまで」と「それから」を点描し、全体を構成する本作は、人の言動のディテールに人の心を発見し、その接触と変化にハッとさせられる、桑原女史らしい上質な劇であった。

    ネタバレBOX

    作品と無関係だが...
    言い逃れ(桜)と責任転嫁(森友籠池判決)が横行する政府でも、以前ならとっていただろう感染症に当たっての「緊急事態」的対応を、今回全くとれていない事に疑問符が湧く。様子見をして、一定の拡がりを見せてから対応をし始めた。
    これは、人には李下に冠を正さずという意識、つまり疑われまいとする心理があって、緊急事態的対応は「権力」にとっては目指すべき本丸なので、今回それを発動する事で下手をすれば(つまり感染拡大が見られなかった場合)顰蹙を買う(本来なら顰蹙を買ってでも国民生活を乱す要因を初期段階から排除する事に乗り出すのがお上であり、以前はそうしていた)、その結果国民に(改憲などへの)警戒心が「実感」として芽生えてしまう事を嫌がったのでは・・とでも勘繰りたくなる。いや物事は単純で、少ない情報では「確定的」判断が出来なかった、だからやらなかった位が妥当か。

    しかし・・今回は以前(2002年)のSARSコロナウイルスと同系のウイルスで、ウイルス名にもSARSであるらしい。
    とすれば、従来なら「サーズ」とか「今回のサーズ」くらいが適切な呼称だろうに、なぜか普通の風邪ウイルスも含む一般名詞の「コロナウイルス」に「新」を付けた新型コロナの名称が飛びかっている。
    サーズであれば、前のSARS(感染拡大の規模じたいが小さかったが)が殆ど子どもの感染例(正確には発症例?)が無かった事実にも、言及がされそうなのだがこの情報がマスコミで全く流れないのがまた疑問だ(警戒心を下げる情報を敢えて出さないという方針が周知されているのだろうか)。

    入って来る情報そのものが少ない、と言いたげだが、そうは言っても検査薬の「対応できる数」の発表をする厚労大臣が、単純に「在庫数」を発表しないのは何故か、とか。もし足りないなら従来なら国際協力を呼びかける、など、しかしそれもない。わかりやすい情報がどれだけ人々の実態把握を助け、一定の個々の正しい判断を助けることか。
    また疫学観点から言えば、他国からの入国状況の実態把握をしていないのか、情報をとめているのか、人の移動の規模からして無理なのか、かなりの統制力で人々の不都合を要求する事になってしまうからやらない、という事なのか・・・いずれにせよ霞ヶ関は自分らが判断した結果のみチョロチョロと滴らすのみで、我々に総括的判断を可能にする情報を出さない(本来は一日何回となく会見を開いて新情報を流していい)。
    民主的な社会では、一部の人間がパニックに陥る可能性を盾に情報公開を渋るのでなく、個々人の判断力に信頼して公開する事が原則でなければならないと思う。
    以前のSARSでの子ども感染例がなかった事も、今回の中国での子どもの感染状況数と合せれば、インフルエンザが子どもに感染しやすいウイルスである事と比較し、それなりに判断材料になるのでないか?

    「判っていること」を囲う線が知られることは、「判ってないこと」の存在をバラしてしまう事であるゆえに、官僚という人種(に限らず上に立つ者)は情報はなるべく出さない、というのが(今ではそれが許されてしまうので)暗黙の了解なのではないか。
    知と不知を峻別する境目がシフトするに従って、その時点で効果的と判断できる措置の中身も変わる。だが、知と不知の境界が伝えられれば、人は政府が今どういう状況で判断をしているかが、経過として判る。そしてそれに対して現場の状況を逆にフィードバックしていく事ができる。そういう流れを作れていないのは、このかん現政権が「国民を信頼した情報の公開の仕方」でなく「誘導する(嘘をごまかして忘れさせる)情報の出し方」しか為されて来なかった事のこれ以上ない証左ではないか。

    そして残念な事に、情報を枯らすことによって、人々を「自分で考えず受動的に行動する」事に慣れさせ、公開された情報を受けて自ら考え対処する習いが希薄になっている、と思う(昔から日本人はそうだった説もあるが程度問題という事がある)。
    小出しにしか出さない、というのはお金にせよ情報にせよ、「持つ」立場になればケチ臭くなるのが人の性というもので。いやはや(で終えたくないがもはや・・)。

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    2020/03/04 08:24

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