黒い鳥 公演情報 アートグループ青涯「黒い鳥」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    初の成城学園前そしてアトリエ第Q藝術。駅から徒歩2分の道のりだったが見失い、心細くなったその時、前方から歩いて来るある若手演出家(先日舞台を観たばかり)の家族連れが目に入った。「このへん?、いや違う」的会話をしている風。これは心強い先客と安堵し、後をついて行こうかと家族を追った視線をふと進行方向に戻すと、数間先に劇場の小さな看板が手招きしているではないか。やあそこに居たのか君は。さっきの演出家はここに立ち寄ったのかい? 無言の対応で、どうやら全く無縁だったと了解。暖かいお出かけ日和、さほど遠くない土地にこんな劇場が、と嬉しくなる。調べれば2017年~とまだ新しい。狭い受付スペースを通って劇場へ入ると、どことなくアトリエ春風舎似。座席はゆったり幅に置かれ、隣席の脚に接触する(嫌がられる)心配なく、心は舞台に集中した。
    劇団阿彌出身の二人のユニットによる立上げ一発目公演が実現の由。パフォーマンスは阿彌特有の世界がやはりベースにある。と言っても私は十年以上前、王子神谷駅からの道を迷いに迷ってたどり着いて20分程度目にしただけだが、舞踏と能を観た目には馴染みある世界。超低速の身こなしと、面の使用、劇的シチュエーション(ストーリーでなく)の吟味の時間。パフォーマンス中の時間は、人間のある劇的状況をするめを噛むように噛み締める時間であり、視覚的な美が物語の状況を突き放すように端麗さを保っている、という能の風景は阿彌のそれと(多分)共通している。舞台は霊的交感が目指され、そのための俳優の身体的鍛錬が恐らくあり、観客はその念を共有し霊性を感受する。観客(信者)を説得し続けるのが「道」の探求者となった者の宿命。

    さて今回の舞台は、私には、阿彌の特徴がある仕方で継承可能である事を示した、という感想になる。それ自体物語を持つ個体(身体)と、物語の世界とを橋渡す言語が、今探り始めたように恐る恐る、ぎこちなく吐かれ、培われたそれなりの年輪と、素人性が同居する独自な空気が流れていた。つまり、阿彌との比較では言語世界の方へ一歩踏み出そうというベクトルを感じ、しかし未だ不分明、手探りとの印象だ。
    現在進行形のストーリーを追う「お芝居」的側面がそれに当たるが、言葉は詩のモードで書かれ、出来事を既にあったこととして俯瞰的に捉える場所に誘う(彼女らの出自)。ストーリーとして見た整合性の甘さは、「芝居」のモードで浮き上がり、一方詩劇の基調となれば、ディテイルよりは全体を覆うディストピアに生きる人間の実存に意識が向かう。問題は「芝居」な部分で、舞台にメリハリを与えるピースにはなっていたが、演技態かテキストか、いささかぎこちなかった。
    美術、照明含めシンプルな中に趣向(意図)が窺える。次の点を探り当て「青涯」の線(足跡)を画いて行ってほしい。

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    2020/03/12 05:46

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