深呼吸する惑星
サードステージ
キャナルシティ劇場(福岡県)
2012/01/15 (日) ~ 2012/01/15 (日)公演終了
満足度★
残骸の底から
第三舞台は80年代後半から90年代にかけて、演劇界において確かに天下を取った。しかし、第三舞台とは何だったのか、演劇界におけるその功罪は、と考えた時、罪の方がはるかに大きかったと判断せざるを得ない。未成熟なアダルトチルドレンの自己肯定(=甘え)を、それらしい社会的なテーマやキワモノ的なガジェットで粉飾して、傷つきぶりっこな観客に媚を売ってきた、結局はそれが第三舞台の正体ではなかったのか。
90年代後半当りから、鴻上尚史の舞台に失望させられることが多くなっても、それでも先入観は捨てようと思って観劇した。だから冒頭のキレのよい“いつもの”ダンスパフォーマンスには、懐かしさも含めて好意的に観始めることができたのだ。しかし、期待感はすぐに失速する。陳腐で幼稚な物語、学生演劇特有の間を無視したデタラメな演技、ぐちゃぐちゃな場面転換、虚仮威しの照明、既製作品及び自分たちの過去作からのパクリ寸前の引用と、「演劇がやってはいけない」ことのオンパレード。
しかし、かつて彼らと「同世代」だった我々が応援していたのは、そのデタラメさゆえにであった。新劇などの既製作品にない爆発的なエネルギーだったのだ。だから「これは本当はもの凄く下手くそでつまらないのではないか」と感じつつも、あえて旗を振ってきたのだ。しかしデタラメは結局デタラメでしかない。そのことに観客は次第に気付いていく。この20年あまりで、第三舞台のメッキはすっかり剥げてしまった。元のファンの多くは自らの不明を恥じつつ、彼らのステージから離れた。
「時代の寵児」でしかなかったことを痛感しているのは鴻上尚史自身であろう。第三舞台から産み出される新しいものはもう何もない。第三舞台は変わらない。変わり続けもしなかった。解散公演は、みっともなくモダモダと愚作を発表し続けてきた鴻上の、最後の潔さだと言えるだろう。
ネタバレBOX
舞台となる惑星の名前が「アルテア」と聞いて、なんだ『禁断の惑星』のパクリかとガッカリしてしまった。「人間の意識が具現化する」という設定も全く同じ。もっともこれはSF作品にはよく見られる設定ではある。しかし既製作品のアイデアを借りるのであれば、そこに独自のアレンジを加えるのが作家としての矜持だろう。鴻上尚史にはそれがない。
同じアイデアを元にしていても、フレドリック・ブラウン『プラセット』はスラップスティック・ギャグとして昇華させていたし、スタニスワフ・レム『ソラリスの陽の下に』は哲学的深淵まで覗かせてくれていた。梶尾真治『黄泉がえり』はリリカルSFの一つの完成形を見せてくれもした。『深呼吸する惑星』は先行作のどれと比べてもはるかに劣っている。
鴻上尚史がSFファンであることは、これまでの作品に「引用」されてきたキーワードから容易に理解できることであった。それこそ藤子・F・不二雄『ドラえもん』からフィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』、ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』あたりまで、幅広い読書量を誇っている。『ドラえもん』に至っては、自身で舞台化までしたほどの入れ込みようだ。
しかしそれらのSFガジェットは、戯曲自体のテーマと殆ど絡むことなく、単に「自分が好きだから作品に引用してみました」程度の意味しか持ってはいなかった。それはそうだろう。それ以上にSFの提唱するテーマを自らのものとして内省し、作品として昇華させる能力が鴻上にはなかったからである。
柴幸男『わが星』が岸田戯曲賞を受賞した時、選考委員の中で鴻上だけが唯一「ワイルダー『わが町』のままではないのか」と受賞に反対した。しかし、鴻上がこれまで何をしてきたかを熟知している者には、彼の発言の裏が容易に理解できるはずである。『わが星』は確かにワイルダーやブラッドベリ『火星年代記』をベースにしてはいるが、その上に幾重にも柴自身のオリジナルアイデアを積み重ねている。鴻上の「引用」にはそれがない。鴻上は自らの劣等感から、柴に嫉妬したのだ。
もともと、自作に好きな作品をこれでもかというほどに引用しパロディ化する手法は、80年代、吾妻ひでおやいしかわじゅんら「ニューウェーブ」の漫画家たちが好んで行っていた手法だ。文学畑では栗本薫が評論『文学の輪郭』や『エーリアン殺人事件』でそれを試みていたのだが、鴻上は演劇でそれを大々的にやって見せた。それだけのことである。
ところが演劇界の人間は、昔から文学方面にこそ眼を向けてはいたが(稚拙な文学コンプレックスゆえであるが)、漫画やSF、それらを含めたサブカルチャーの動きにはとんと疎かった。だから「鴻上尚史が新しく見えた」のである。単なる模倣に過ぎない底の浅さに気がつかなかったのだ。
『テアトロ』2月号では、小山内伸が『第三舞台、「深呼吸する惑星」までの30年』と題して、その活動を包括し賞賛している。しかし、そこで小山内氏が指摘する第三舞台の三つの特徴、「複数の世界を並行してゲーム的に描く」「一人の役者が状況に応じて即興的に別の役に早変わりしたりする入れ子構造」「日常や社会を戯画化する一方で、物語は虚実の反転を繰り返して核や深層に到達せず、あくまで状況をオータナティブに示す」などは、全て、“漫画の中で吾妻ひでおがとっくにやっていた”ことなのだった。
それでも鴻上尚史と同世代である我々は、彼とそして第三舞台を支持した。その「罪」は、結果的に、小劇場演劇に安易な笑いとベタな人情話を浸透させる結果となってしまった。
更なる第三舞台エピゴーネン、たとえば演劇集団キャラメルボックスや劇団☆新感線、ヨーロッパ企画といった劇団に至る、「演劇って、この程度でいいんだ」という「極めて低いライン」を産み出してしまったのだ。
鴻上は、『深呼吸する惑星』のパンフレットの角田光代との対談で、「阪神淡路大震災以後、観客が難解な作品を拒むようになった」と発言している。確かに、ここ20年ほどの観客の低レベル化は私も実感していることではあるが、その原因を震災による人々の現実逃避に求めるのは短絡的に過ぎるだろう。アニメーションの世界などでは、むしろ95年以降では難解な作品が増えているくらいで、それはもちろん大震災と同じ年の『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下にある。『エヴァ』を自作中に引用したこともある鴻上なら、その事実に気付いていないはずはない。観客が幼稚化したのは、鴻上の芝居が難解でも何でもなく、もともと幼稚だったためで、マトモな観客が呆れて次第に離れていったのは当然の結果だったと言えるだろう。言葉を装飾して小難しく見せかけたところで、所詮、「虚仮威し」は見透かされてしまうのである。
鴻上の『朝日のような夕日をつれて'97』に、象徴的なシーンがある。既成の演劇を登場人物たちがマネをしてからかうシーンだが、「新劇病」「ミュージカル病」「小劇場病」などに続いて、平田オリザの現代口語演劇を「イギリス静かな演劇病」と称して演じてみせるのだ。皮肉なことに、これが役者たちの演技力が一番発揮されていて面白かったのだ。それまでの絶叫型演技が覆され、役者たちが接近し、普段の口調で喋るのだが、緊張感は倍増ししている。鴻上は平田オリザをからかったつもりで、自らの演出が平田の足元にも及ばないことを露呈してしまっていたのだった。
90年代後半からの鴻上の凋落は、目も当てられないほどであった。
熱狂的なファンでも、鴻上が映画畑に進出した『ジュリエット・ゲーム』や『青空に一番近い場所』の惨憺たる出来に茫然とした。90年代に入る頃から、「鴻上尚史って、実はただの馬鹿だったんだ」ということに気がついて、去っていった者が少なくなかったと思う。近作『恋愛戯曲』に至っては、映画、演劇界の双方で酷評ないしは黙殺と言った状況になってしまっている。
私が、それでも「何か引っかかるもの」を感じて、鴻上作品を追いかけてきたのは、鴻上作品の底流にある“喪失感“、この正体は何なのだろうと気にかかっていたからだ。寡聞にして、私は商業演劇化する以前の、早稲田大学時代の第三舞台を知らなかった。旗揚げメンバーの一人、岩谷真哉が事故死していた事実を知らなかった。それを知ったのは、10年前の活動封印作『ファントム・ペイン』を観劇したあと、戯曲の後書きを読んだ時だった。
鴻上の劇作の多くに、「失われた友」の影が、形を変え、さながら変奏曲を奏でるように描かれていく。『深呼吸する惑星』でも、冒頭は「葬儀」のシーンで始まり、放置されたままのブログ内の小説の話が語られ、そして幻想惑星アルテアで、神崎(筧利夫)は死んだ友(高橋一生)に出会う。それは確かに『ソラリス』からの引用ではあるが、同時に自作『天使は瞳を閉じて』や『トランス』などの変奏曲でもあるのだ。
第三舞台にいる限り、鴻上は、帰ってこない友への思いから逃れることはできなかった。その「進歩の無さ」を、進歩がないゆえに批判することは簡単である。しかし、進歩ならざることがまさしく鴻上の「人間性」なのだ。理性として、鴻上作品が駄作のオンパレードであることはもっと指弾されなければならないだろう。しかし「情」においては、それはまた別の問題なのである。
アイドル、かくの如し
森崎事務所M&Oplays
キャナルシティ劇場(福岡県)
2012/01/11 (水) ~ 2012/01/11 (水)公演終了
満足度★★★
岩松了的アイドル論&観客論
岩松了とアイドルという取り合わせは、ちょっと意外な気もするが、よく考えてみれば、これまでのドラマ、映画、舞台出演を通して、間近でアイドルに接する機会も決して少なくはなかったはずである。
「アイドルがドラマ出演すること」について、事務所の意向や、ファンの反応などの実態を見て、アイドルたちにどのような葛藤があったか、それらが演劇化するに相応しい題材だと判断したのだろう。芸能事務所の一室だけに限定された舞台で、そこに集う関係者たちの思惑の違いが作り出すドラマは、極めて繊細で、時には激しく、時には静かな中にも狂気すら感じさせて、観る者を飽きさせない。岩松了お得意の「幻想」シーンも、ここぞというクライマックスに差し挟まれる。
しかし、観劇後の印象は、一言で言えば「後味が悪い」。それは岩松了の他作品についても言えることだが、登場人物がみな、アダルトチルドレンであり、アイドルに群がる人々が「模範としての大人」とはほど遠く、それはアイドルを食い物にしているマスコミも、そして観客である我々もまたアイドルの心情を思いやる気持ちに欠けた「ダメな大人」であることを暗に指摘されてしまっているからであろう。
それは岩松了の計算通りではあるのだろうが、劇中のアイドルが哀れさを増すに付けても、芸能界に、そして世間に、もう少しマトモな大人はいないのかという憤懣を抱かないではいられないのである。
ネタバレBOX
劇中、アイドル・高樹くらら(上間美緒)が、ドラマ出演に不安を抱くシーンがある。偶然にも先日、AKB48の前田敦子が、役者を続けることのプレッシャーを述懐していた。歌って踊ってだけがアイドルに求められる要素でないのは、アイドルの旬が極めて短期間であることを、関係者の誰もが熟知しているからだ。あえて断言すれば、「役者の道」を選ばない限り、アイドルには殆ど生き残りの道がない。
事務所の所長である祥子(夏川結衣)と夫の古賀(宮藤官九郎)は、くららに役者の才能がないと思いつつも、無理やり仕事を押しつける。ストレスに耐えられないくららが頼ったのは、ディレクターの「平野」だった。
この劇の中で最重要人物なのは、この“最後まで一度も登場することがなかった”平野だろう。もちろんこれは『ゴドーを待ちながら』のゴドーなのであって、実はこの世界の中心となる「論理」の象徴的存在である。この平野がどんな人物かというと、未成年への淫行事件を起こして逮捕され、自殺したとんでもないやつなのだ。しかしそんな腐った人間を“愛さなければならなかった”くららの苦悩の深さ、この劇の登場人物の誰一人として、「頼れる大人がいない」という悲痛な現実が、くららという「アイドル」を取り巻く環境なのである。
自殺したのは、愛された平野の方である。しかし私は、くららと平野の関係に、自殺した実在のアイドル・岡田有希子と、峰岸徹の関係を重ね合わさないではいられない(自殺したアイドルは他にもいるが、象徴的なのはやはり岡田有希子のケースである)。
岡田有希子は、同世代のアイドルの中では、かなり「しっかりした」印象があった。劇中のくららも、今どきのアイドルにしては、随分と喋り方が大人びていて硬い。それは「頑なさ」の表れでもある。マネージャーの百瀬(津田寛治)はあからさまに自分に好意を抱いているが、気持ちを汲んでくれる人間ではない。所長の祥子は、事務所の先輩であるトシノブ(金子岳憲)を「破滅」に追いやった人物であり、元女優という、まるで「見たくもない自分の未来」を見せつけられているような存在である。そして、自分を芸能界に送り込んだ母親の木山(宮下今日子)は、作詞家の池田(岩松了)と不倫関係にある。古賀もまた秘書の坂口(伊勢志摩)と不倫しているが、当然くららはその事実にも気付いているだろう。
彼らが淫行事件を起こした平野よりもさらに下劣だったのか、冷静に考えれば疑問ではあるが、少なくとも、くららにとっては「そう見えた」のだろう。彼女の孤独には「救い」というものが感じられない。
どうしてくららは自殺しなかったのか、平野の自殺が、そして明示はされないが、トシノブの「事故死」が、くららを呪縛したのだ。破滅もさせて貰えない、「アイドル」という名の牢獄の中に。
祥子は、トシノブとくららの姿を幻視する。それは祥子がトシノブの死に責任を感じるがゆえの防衛機制だ。祥子は、幻視したくららの口から、「みんな、平野さんに死んでほしかった」と言わせる。しかし「自己を責める」行為は、本当の意味での贖罪ではなく、たいていの場合は「責めた自分」を認識することによって自己否定から逃れるための手段なのだ。
大人たちは、誰一人、アイドルの未来に責任を負ってはいない。
アイドルは虚像である。虚像でなければアイドルとは呼ばれない。しかし、虚像を演じきれる人間などいるのだろうか。「大人にならなきゃ」と言い残して消えたトシノブの言葉が虚しく聞こえるのは、虚像に大人的要素など誰も求めてはいず、そして転落していくアイドルに、周囲の「見かけだけは大人」な人々が、誰も助けの手を伸ばさないということだ。
もちろん、観客である我々も。
RICHARD O'BRIEN'S『ロッキー・ホラー・ショー』
パルコ・プロデュース
キャナルシティ劇場(福岡県)
2011/12/31 (土) ~ 2012/01/04 (水)公演終了
満足度★★
カルト・ムービーのカルトな楽しみ方
いったいどんな客層が今どき『ロッキー・ホラー・ショー』を観に来るのだろうかと思っていたが、観客のはしゃぎぶり、スタンディングオベーションの熱狂ぶりは、どうにも70年代カルト作品としての本作を賞賛してきた客層とはかなりズレがあるように見える。古田新太がティム・カリー(フランケ“ン”・フルター)かよ、と幻滅した世代は、さほど劇場に足を運んではいなかったのだろう。
基本的には映画と舞台は殆ど同じものである。ということは、この作品を70年代のゲイカルチャーやB級ホラーの再評価の流れと無関係に語ることは出来ないはずなのだが、現代日本の観客は、そんなものはいっこうに気にしない。と言うよりは「何も知らない」。実際、私が受けていたマニアックな(と言っても当時の文化を知る者にとっては常識の)部分では、若い観客は一切笑っていなかった。なのに最後には賞賛の嵐が渦巻くのだ。この矛盾の原因は何なのか。いったい彼らはこれの何をどう面白がっているのだろうか。
作り手たちはもちろん、自分の好きな作品をあえて現代に同化させずに好きに演じるのだから、基本的には「客に理解不能だって構わない」というスタンスだ。しかし実のところ、「どんなに訳の分からないことをやっても、客は受けるに違いない」と彼らは確信しているのではないか。
恐らくいのうえひでのりらは客を舐めている。観客の大半は「よく分かんないけれども、これは面白い気がするから面白がろうとする」と思っているのだ。そして実際、今の観客は、笑いどころで笑わずに笑えないところで笑っている。作り手としてはそれでもこの舞台は成功したと言ってのけられるのだろう。でも本当は、そういう阿呆な観客にこそ、冷水を浴びせかけるのが、『ロッキー・ホラー・ショー』の真髄であるはずなんだけどね。
ネタバレBOX
パンフレットには、この舞台の「元ネタ」がかなり詳細に解説されている。
それでもどうやら「タブー」に触れるらしいところは巧妙に避けられている。
どうして屋敷の人間たちがゲイでエイリアン(宇宙人=規格外者)なのか、という点だが、もともと50年代くらいまでのB級ホラーでは、普通の人間が迷い込んでしまうのは「怪物」たちの住いであり、その「怪物たち」は、たいてい実際のフリークス(不具者)によって演じられていた。トッド・ブラウニング『怪物団』が代表的な作品であり、そこには小人を始め、実際のシャム双生児などが大挙して登場している。しかし、時を経て小人たちや奇形俳優が使いづらくなってくると、「奇形を模した」メイキャップ俳優たちに役割は移されていく。パンフで『ピンク・フラミンゴ』のディヴァインや『ファントム・オブ・パラダイス』が紹介されているのはそのためだ。
被差別者の叫びを舞台や映像を通して訴える、そういう意味合いがあの当時のサブカルチャーには色濃くあった。日本でその影響を受けたのはもちろん寺山修司で、彼の映画や舞台に小人たちが登場するのは、この“被差別者からのサブカルチャー”の流れである。
英米のゲイ差別は今も続く問題だが、ハーヴェイ・ミルクの暗殺事件などもあり、あちらのゲイは、宗教的な観点から、まさしく「化け物」扱いされていたのが70年代である。ホラー映画のフリークスにゲイを重ね合わせて、「我々は被差別者だ」と訴えるのはごく自然な流れであった。
優生思想に凝り固まった元ナチスの科学者が悪者に擬せられるのも当然の扱いである。なぜ彼に「フォン」の名前が付くかということまではパンフにも解説があるが、その先の説明がない。あの科学者のモデルは、アメリカに亡命した実在のロケット工学者、フォン・ブラウンであり、既にスタンリー・キューブリックが『博士の異常な愛情』でストレンジラブ博士として登場させている。だから“車椅子に乗っている”のだ。
フランクが「フェイ・レイになりたかった!」と歌うのも、それが『キング・コング』のヒロインの俳優だという解説はパンフにあるが、彼女がどういう人かということについては何も書かれていない。フェイは世界初の「スクリーム(叫び)」女優であり、野獣に攫われる美女(もちろんベースにはジャン・コクトー『美女と野獣』がある)であり、自らがケダモノ扱いされるフランクにとっては、まさしく求めても求められない憧憬の存在であるのだ。彼がロッキーを怪物ではなくマッチョに造形したのも、「自分が襲われたい」からなのね。基本、モンスターの発明者は、モンスターによって復讐されるものだからね。そこには被差別者としてのゲイの悲痛がしっかり背景にある。
“ロック・ミュージカル”と言いながら、場末のバーレスクに近いデタラメなダンスであるのも、それがフリークスによって演じられることを前提としているからに他ならない。いっそのこと古田新太は無理してダイエットせずに(一応、ティム・カリーに合わせようとしたのだろうが)、超デブなまま醜く息も絶え絶えに踊ってくれた方がよかったのではないか。このミュージカルのダンスは、必ずしも巧い必要はない。むしろ「ゲテモノ」であればあるほど、「ゲテモノで何が悪いか」という強烈な「毒」を観客に発信することになるのだから。
そういう点をとってみても、作り手側も本当に『ロッキー』フリークなんだろうかと疑問を覚えざるを得なくなる部分が随所にあるのだ。 最後に登場する宇宙人が本邦の『怪獣大戦争』に登場するX星人のコスチュームなのは何の冗談なのかね。日本にもこんなB級カルトがあるぞと言いたいのかも知れないが、その手のギャグはもうさんざん漫画やアニメで見せられてきているので、今更感の方が強い。昔ながらの特撮ファンも特に喜ばないだろうし、若い人は意味が分からないだろう。だから誰に向けてのギャグなんだか、さっぱり見当が付かないのである。
自己満足だけで舞台を作られてもなあ。
コデ。
劇団きらら
熊本市現代美術館(熊本県)
2011/08/26 (金) ~ 2011/08/28 (日)公演終了
満足度★★★
旧世界のままで終わる物語
新古書販売のチェーン店に取材した、中年の店長と心が壊れた奥さん、新人だがやはり中年でちょっとイケメンの男、うるさい熊本弁おばさん、バツイチ子持ちで学のない女と、その元夫で「せどり屋」の男、コミュニケーション不全の青年、美貌の声楽の先生ら、一風変わった人間たちが織りなす群像劇。
になるはずが、核になるドラマが弱く、一人一人のキャラクターの魅力も描き切れてはいない。軽妙な会話のやり取りや、個々人の部分的な描写には鋭い切り口を見せる面もあるが、全体としての印象は盛り上がりに欠け、あのエピソードもこのエピソードも、消化不良な形で終わってしまっている。演劇の持つ「限定性」をうまく活用しきれなかったことが失敗の原因だろう。
とは言え、俳優のアンサンブルには目をみはらされた点も少なくなく、何人かの俳優の間の取り方の巧さには、訓練だけでは習得しきれない天性の勘のよさすら感じさせられた。物語として、声楽を物語に取り込む必然性は実はあまりないのだが、かと言って邪魔になっているわけでもない。ドラマの弱さを、声楽の練習を通して癒されていく登場人物たちの伸びやかな声と笑顔が補強している。
ネタバレBOX
「コデ。」という珍妙なタイトルは、作者・池田美樹が、人生の夕方を迎えた時に、“ココで何してるんだろう”という思いに駆られて付けたものだということである。でもなぜここまで意味が分からなくなるほどに省略しないといけないのか、理由がよく分からない。単に奇を衒っただけかも知れない(苦笑)。
もっともタイトルの問題は枝葉末節で、いささか困ってしまうことは、物語の中身の方である。
店長の目黒(井上ゴム)と新人の成増(寺田剛史)の37歳コンビ、「人生の黄昏」がテーマであるのならば、この二人が中心人物にならなければならないはずなのだが、決してそうなってはいない。掛け合い漫才のような楽しさはあるものの、この二人のドラマが物語の核になるほどには強くないのである。
成増のドラマは、書店の店長を辞めて彼女に振られたことと、「飛ぶ夢をしばらく見ない」というどこかで聞いたような話くらいしかない。目黒は心を病んで家事を全く放棄している妻との離婚を真剣に考えているが、そのドラマは「家庭」の問題なのであって、殆ど「舞台外」のこととしてモノローグでしか語られない。舞台はその8割が新古書店内に限定されており、他の場所へ移動する余裕を持ち得てはいないのである。
もしかしたら脚本の意図としては、この夫婦の確執と離婚に至るまでの修羅場などについては、観客の想像に任せたい、ということなのかも知れない。しかしこれは、ちゃんと舞台上で展開させなければならない話なのではないか。
目黒は現実逃避からか、バツイチ女の阿比留(森岡光)にも言い寄るが、夫婦間のすれ違いや愛憎がきちんと描かれないために、共感どころか感情移入自体し難いキャラクターになってしまっているのである。
主役が主役に見えなくなってしまうのは、中盤、物語が完全に阿比留の方に移ってしまうせいでもある。
浮気や放蕩の末に阿比留と別れた軽薄な夫・野野原(豊永英憲)は、現在は「せどり屋」という奇妙な商売をしている(古書の転売で利ザヤを儲けること。梶山季之『せどり男爵数奇譚』や三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』などにその詳細が描かれている。野野原は「セドラー」と自称)。古書の相場を見抜く「勝負師」の勘が必要になる商売で、とても本能だけで生きているような野野原に務まるとは思えない。案の定、彼は元妻の阿比留のところに借金をねだりに来る。
元夫婦の諍いが何度か繰り返され、二人の関係がどんな結末を迎えるのか、観客は固唾を飲まされる。しかし、口論の果てに二人が本当に別れることになったのか、野野原は借金を重ねた末に破滅に至ったのかどうか、このエピソードも何も語られないままになぜか尻切れトンボで終わるのである。
他のたいして主要ではないキャラクターについても、バックボーンとなる設定がちょこちょこと語られはするが、一つ一つのエピソードはやはり散漫で比重も小さく、その程度の「ヒミツ」なら、もう何も語らない方がいいんじゃないかとさえ思う。
唯一、全ての登場人物をつなぐ要素となっているのが、スタッフのスキルアップ研修として導入された「合唱」の練習である。
声楽の先生・佐倉レイ子(青柳美穂)の指導で、店員たちは『遠き山に日は落ちて』(ドヴォルザーク『新世界より』)を練習する。その歌詞に「人生の黄昏」を感じ取る店員たち。若い店員たちもどこか涙ぐんで見えるのはおかしな感じではあるが、本作のテーマを内包した合唱のシーンが時折挟み込まれることによって、物語が空中分解してしまうのをかろうじて食い止めた、と言えるだろう。
以上のように、脚本に少なからず難はあるものの、全体としてはそうつまらないという印象を抱かなかったのは、俳優たちの台詞の「間」の取り方に熟練の業を見ることができたからである。
特に成増役の寺田剛史は、相手のツッコミにかなり間を置いて頷いたり返答したりして、確実に観客の笑いを誘っていた。古書店のブログに載せるからということで、写真を撮られる時に、店長から「加瀬亮っぽく」と注文される。聞いた瞬間、固まってしまう成増だが、しばらく「間」を置いた後で、“それらしい”ポーズを取る。また、野野原に自分の名札の文字を「セイゾウさん」と間違って読まれた時にも、正確な読み方を教えるのも面倒くさいとばかりにかなり「間」を取った後で「はい」と答えてしまう。
様々な場面で、もうほんの1秒、タイミングを逃したら客に笑ってはもらえないという、ギリギリのところで絶妙な応対をするのだ。
声楽の練習のシーンでも、青柳美穂の指導で、森岡光が次第に「巧く」なっていく過程をリアリスティックに描けたのは見事としか言いようがない。このシークエンスなどは本作で最もドラマチックなシーンとなった。
通常の発声で歌う森岡と、ソプラノの青柳との合唱が声質が違うにも関わらず違和感なく受け止められたのは、表現された「感情」がシンクロしているからなのだ。これが「演劇」を構築する、ということなのだ。
優れた演技が見られた反面、甲高い声で誇張され過ぎてかえって笑いを取り損なっていたのは野野原役の豊永英憲だったが、軽薄さを表現するためだとしても、もう少し抑えないことには「なぜこんな男に惚れて阿比留は結婚していたのか」という説得力が生まれない。これは演出の指示もよくなかったのだろうと思われる。
舞台転換に、書架に見立てた「枠」を役者各人が動かしたり、映像を使った『遠き山に日は落ちて』の解説したりなどのアイデアも気が利いている。それだけに、どうしてもドラマの希薄さが気になってしまうのである。
演劇大学2011 in 福岡
日本演出者協会 福岡ブロック
パピオビールーム・大練習室(福岡県)
2011/08/11 (木) ~ 2011/08/14 (日)公演終了
満足度★
「大学」もなければ「演劇」もない
幼稚園のお遊戯会で「あの芝居はなっちゃいない」と文句を付ける人間はいない。講師こそ一流どころを呼んできてはいるものの、練習期間はたったの4日、素人を集めて素人が演出を務めているのだから、そもそも「演劇」になりようがない。「一人一人、その人なりに一生懸命、頑張ったねえ」と、出演者のみなさんを労ってあげるのが順当な対応というものだろう。
客だって殆どが出演者の身内のようで、よく笑ってあげている。正直な話、私にはどの芝居も苦痛なくらいに退屈だったのだが、一般客がこの場に紛れ込んでしまったこと自体が間違いなのだろう。
と言って終わりにすることができ難いのは、この発表会が、曲がりなりにも「日本演出家協会」の企画によって成り立っているという事実があるからである。
演出家協会の目的は何か。それは、各地域において演劇の土壌を作り、演劇文化の活性化を図る、即ち「一般客にも見せられるレベルの演劇の構築と、プロの演劇人を育成すること」ではないのか。
だとすれば、現行の演劇大学の「お遊戯」な有りさまは、全く目的を果たしてはいないと断じざるを得ない。2ヶ月なり3ヶ月、じっくり時間を取って、演出も中央から招聘する演出家に全面的に任せる程度のことをしないことには、決して効果は上がるまい。もしそこまでの予算も時間もないというのであれば、「演劇大学」などという仰々しい看板を揚げるのはやめて、「演劇セミナー」程度にしておいていただきたいものだ。
福岡の演劇人が参加しているとなれば、その内容も質も吟味分析することなく、安易な現状肯定、根拠も示さない擁護や賞賛、的外れなアドバイスを行う者も少なくない。「これは試演だから」などという擁護にもならない詭弁を弄する者も出てくる始末で、そんな言い訳が通用するのであれば、全ての演劇が試演ということになってしまう。そんな馬鹿な話があるはずもない。一般客の眼に晒されたものは、それが一つの完成形として観られることを覚悟しなければならないものなのだ。
それでもなおあれが試演であって、あえてオモテに出して一般客の俎上に供したのだと主張するのであれば、そんな「演劇以前」のシロモノが批判に晒されるのは当然であろう。結局、擁護派の言は何の言い訳にもなってはいないのだ。
そういう劇団や俳優にすり寄り、媚びる乞食のような連中によって「誉め殺された」劇団も福岡には少なくない。妙に「人の輪(和)を作る」行為が福岡では質の低下、逆方向にしか作用していない。演劇大学のこの無様な結果は、その端的な象徴と言ってよいだろう。
ネタバレBOX
企画自体に問題がある以上は、個々の作品について心情的にはマットウには評価がしにくい。
しかし観客は、制作の裏事情などは忖度せず、「そこにあるもの」をただ観て評価するものだ。と言うか、「時間がなかったんだろうねえ」なんて制作の裏事情が透けて見えるような舞台は演劇の名に値しない。素人が演じようがプロが演じようが、面白いものは面白いし、つまらないものはつまらない。その視点で個々の作品を鑑賞してみる。
『二つの星』青井陽治(講師)三浦直喜(作・演出/熊本総合舞台芸術舎)
東日本大震災からの復興を、宮本武蔵や太陽系の惑星たちが協議するという何だか意味がよく分からない脚本。地震が起きたのはどうやら海王星の管理ミス、ということらしいのだが、これは「海王」=海の神ポセイドンの管轄、と言いたいのだろうか。惑星の名前、人間が勝手に付けただけなんだが。全てがこの調子で、被災の現実を直視して我々に何ができるかと真剣に悩んだ形跡が見られない。
人の輪(和)が復興を助けるとでも言わんばかりに、観客を無理やり最後に舞台に引き出して輪を作らせる傲慢な演出。これが子ども、家族向けミュージカルとして、そういう場で上演されていたのならそれもありえるだろうが、ここは「演劇大学の発表会」である。場を一切理解していないとしか思えない。
観客無視のこの酷い演出は何なのだ、と思っていたが、実際の演出は田坂哲郎(非・売れ線形ビーナス)が行っていたということが最後の挨拶で明かされた。どうしてそういうことになったのか事情が分からないが、これも「看板に偽りあり」ではないのか。
『あの星はいつ現はれるか』岸田國士(作)柴幸男(講師)渡部光泰(演出/village80%)
このところ、岸田國士が上演される機会をよく眼にするが、これ、単純に版権が切れていて上演の許諾が要らないからなんじゃないだろうね。課題を与えたのが企画側からなのか、講師か演出家からなのかは分からないが、出来上がった舞台からは、岸田戯曲に真剣に取り組んだとは思えない、惨憺たる空気しか流れては来ない。
対話劇(会話劇)を基盤とする岸田戯曲の台詞は、安易な改変を拒否する極めて微細な心情のやり取りで成り立っている。相当な演技力の俳優でない限り太刀打ちできない、というのが現実だ。つまりこんな劣悪な制作システムで岸田戯曲を上演しようというのが誤りで、実際、俳優は全く台詞を自分のものにしていない。
演出は懸命に台詞に抑揚を付け、奇妙な動きを付け、台詞とは無関係なパフォーマンスを多々盛り込み、何とか舞台を「見せられる」ものにしようと努力するが、それが一切「内面の表現」には結びついてこない。ブツ切れに解体される台詞はドラマを完全に崩壊させてしまった。これでは舞台を見るだけでは筋も人間関係も分からない。戯曲をそのまま読んだ方がよっぽど面白い。
岸田國士を上演するのに小手先の技術は役に立たないのだ。
『秋の対話』岸田國士(作)流山児祥(講師)幸田真洋(演出/劇団HallBrothers)
同じ岸田戯曲の上演でも、まだこちらの方が見られるが、それは前者が酷すぎたために相対的にそう感じてしまうだけのことで、ト書きを台詞で言わせるなど、やはり戯曲を読み込んでいるとは言えない拙い演出が目立つ。
戯曲には、花の役の俳優がそれらしい衣装を身につけるように指示されているが、衣装や舞台装置を用意する費用も時間もないから、状況を台詞で説明しようと考えたのだろうが、木は木の、草花は草花の、虫は虫の演技をすれば、そう見えるものだ。と言うか、それを「教える」のが「大学」だろう。ここでも「素人に四日間で演技を教えるのはムリ」というマイナスの判断が働いている。
一つの役を、二人に分ける演出は、要するに全員に役を振らなければならないための苦肉の策か。これも演劇的な効果を考えてやったものではないから表現として昇華してはおらず、誰が誰の役なのやら混乱するばかりで、各キャラクターの心情などいっこうに伝わってこない。混乱させていい戯曲ではないだろう。
『知恵』小林七緒(講師)山下キスコ(作・演出/演玩カミシモ)
教師と保護者の母親との、子どもを巡っての諍いを滑稽に描く「二人芝居」だが、これも一人の役をそれぞれ五人ほどが入れ替わり立ち替わり演じる。既にこの無意味な演出が「仕方なく行われている」ことには諦めが付いていたので、舞台上の出来事はあまり気にせず、筋と台詞のやり取りだけに集中したら、まあ何とか楽しめた。
要するにどの芝居も、キャストが無駄に多い、でも全員役付けで出さないといけない、しかし演技力を付けさせる時間なんてない、どうにもならない状況で舞台を作っているのである。
制約があってもなお、それなりのものを作らなければならない、というのが演劇の絶対条件ではある。しかし演劇大学の惨状はあまりにも演劇のありようからかけ離れている。これは参加者にとっても殆ど益のないシステムなのではないか。彼らがここで何を学べたというのだろう。学んだ気になれたという「雰囲気」だけではないのか。
演出家協会が何を考えているのか、本当に理解に苦しむのだが、素人を使うのであるからそこには相当のストラテジー、「戦略」が必要になるのである。それが何もない。あるいはこの程度の企画で、福岡の演劇シーンの惨状をなんとかできると甘く見つもったのだろうか。それを何とかせよと烏滸がましいことを発言するつもりはないが、馬鹿が安易に誉めているからといって、これでいいのだと錯覚だけはしないでいて欲しいものである。
身内客の跳梁のせいで、一般客が迷惑被ってるんだよ。
スガンさんのやぎ
北九州芸術劇場
J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)
2011/08/12 (金) ~ 2011/08/13 (土)公演終了
満足度★★★★★
赤頭巾ちゃん気をつけて
原作はドーデ『風車小屋便り』の一編。もちろん“童話ではない”。しかしフランスでこれが童話として絵本になっていることは事実で、「子どもには美しいものだけを見せたい」と考える親なら、この話をよく子どもに語って聞かせられるものだと、フランス人の教育意識に疑問を抱くことだろう。
しかし、大人がこの寓話から、恐怖やエロス、生と死の問題、あるいは文明批評までも感じ取るように、子どももまた、言葉には出来なくともその鋭敏な感覚で、物語の背景にある「得体の知れない何か」を直観することは可能であるはずなのだ。そしてそれが子どもの成長に欠くべからざるものであることを、フランス人は確信しているのだろう。
エレナ・ボスコは、哀れなスガンさんのやぎをマイムで演じる。子ども相手だからと言って、“わかりやすく”妥協することはしない。作り手、演じ手が、観客の想像力を信頼しているからこそ、この舞台は成立している。『スガンさんのやぎ』を観た子どもが大人になって、再びこの舞台を観る機会があったなら、当時は言葉には出来なかった心の中の「もやもや」の正体に気づき、慄然とさせられることだろう。
ネタバレBOX
今井朋彦の日本語によるナレーションは、原作を99%、そのまま朗読したものである。日本人には分かりにくい「グランゴワール」「エスメラルダ」(いずれもユゴー『ノートルダムの傴偃男』の登場人物)などは省略、ないしは「言葉の置き換え」が為されたが、物語には一切、手を加えていない。
即ち、ドーデが小説に込めたテーマは、そのまま舞台にも継承されたと判断してよい。作者が語りかける「グランゴワール」は架空の人物であるから、これはドーデが若き日の自分自身に向かって呼びかけているのだ、と解釈するのが一般的である。教職を辞して作家生活に入った自分と、新聞記者を辞めたグランゴワールを重ね合わせているのだ。
冒険好きな若い雌山羊のブランケットは、飼い主のスガンさんの制止も振り切って、「自由」を求めて山へと旅立つ。山が狼の巣だということは熟知しているが、その恐怖もブランケットを翻意させることはできない。彼女は希望を胸に新天地に勇躍するが、果たして数々の苦難と危険を乗り越えて「成功」を手中にすることができたか。否である。彼女はあっさりと狼に嬲られて喰われ、物語は終わる。そこには何の意外性もない。“読者が心配していた通りの結末”が提示されるのだ。
『風車小屋便り』を書くまでのドーデは、まだ作家として成功したとは言えなかった。彼の小説が評判を呼ぶのは、まさしくこの短編集以後のことである。数多くの夢見る青年が挫折を味わったのと同じく、ドーデも自らの人生への不安を『スガンさんのやぎ』のモチーフとしたと判断してよいだろう。そしてそれは読者である「若者たち」にとっても教訓となるとドーデは考えたはずだ。
ところがあろうことか、フランス人たちは、この物語を「子供たち」に提供した。それは、本来は社交界のうら若き子女たちに向けて語られていた『赤頭巾』の物語が、「童話」として広まっていった過程とよく似ている。戒めは、“早ければ早いほどよい”と考えているのであろうか。
舞台にはもちろん本物の山羊も狼も登場はしない。たった一人の出演者、エレナ・ボスコは、白い服を身に纏って、美しい白山羊を体技だけで演じている。時折、身体を掻く、紐に噛みつくなどの動物的な仕草を取り入れはするものの、彼女は紛う方なき“人間”である。
旅立ちにあたり、彼女は靴下を履き、手袋を付け、帽子を被る。山羊はもちろんそんなことは“絶対にしない”。彼女は山羊に見立てられた人間ではなく、“人間”なのだ。全身の「白さ」は彼女の純真無垢の象徴ではあるが、同時に“これからどのようにでも汚される”ことを暗示してもいる。
ブランケットは、山で、一頭のカモシカと恋に落ちる。舞台では、人形を抱きしめる演技でそれを表現する。ブランケットと人形は、箱の中に閉じ籠もって一夜を過ごすが、これはもちろんセックスの婉曲的な表現だ。彼女は白い衣装を脱ぎ捨て、黒い下着だけになる。
そして彼女は狼と出会う。暴行と陵辱。回り舞台の壁を突き破り、彼女は遁走するが出口はない。舞台は轟音を上げ、回転はますます速まる。やがて彼女は動きを止め、その身を横たえ、いびつな姿勢のまま固まる。この救いようのない結末に「恐怖」を覚えない子どもがどれだけいることだろうか。
イプセンが『人形の家』で女性の解放を描いたのは1879年、『風車小屋便り』の発表は1869年でちょうど10年前になる。まだ欧州でも女性の参政権は認められていないが、社会への参画が叫ばれていた頃であり、ドーデのこの寓話は、旧弊な“男に伍することを企む生意気な女”をたしなめたもの、と見なすこともできるだろう。実際に「自由」の獲得のために血を流した女性たちは数知れない。
しかし、スガンさんが六匹の山羊を飼い、その全てが失われ、七匹目の山羊もまた同じ運命を辿っても、恐らく八匹目の山羊は必ず現れるのだ。ブランケットは、死しても何一つ後悔はしていない。最後に黒い衣装を身に纏った彼女は、もはや何も知らなかった頃のいたいけな少女ではない。命を賭してもなお、求める価値があるもの、それが「自由」なのだと知っているのだ。
死の恐怖に襲われながらもブランケットが戦った「狼」の正体はいったい何だったのか。彼女が壁に描いた「もう?」のあとに続く言葉は何か。観客の子供たちがその意味に思い至る時が来た時、彼ら彼女らには新しい「生」が見えてくるはずである。
荒野に立つ
阿佐ヶ谷スパイダース
イムズホール(福岡県)
2011/08/11 (木) ~ 2011/08/12 (金)公演終了
満足度★★★★★
ゆえにその名をバベルと呼ぶ
たった今、演劇でしか表現できないことは何か、そのことを常に念頭に置いて作劇している点で、長塚圭史は演劇界の最前線を走り続けている。
“目玉をなくした女”朝緒(中村ゆり)と、その友人たち、教師、両親、目玉を探すべく依頼された3人の探偵、といった人々によって、何となく物語らしいものは紡がれていくが、彼らの「旅」は時間と空間が混濁した奇怪な迷宮に囚われ、出口はいっこうに見えない。
肝心なことは、世界の中心にいる朝緒が“目玉をなくしたことを自覚していない”点にある。長塚圭史が観客に問いかけているのは、この世界を認識している我々の自我そのものが極めて不安定で、個々人の思い込みや妄想によってかろうじて崩壊を免れていて、しかしそのせいでコミュニケーションの基盤となる共同幻想を持ち得なくなっている現実をどうしたらよいのか、ということなのではないだろうか。
他者との関係を認識できない我々は、自らを「孤独」と規定することすらできないのである。
ネタバレBOX
舞台は緩やかな段差のある平舞台、上手やや奥に木が一本立っているのみ。ここがどこであるかは、どのようにも見立てられる。ある時は学校の教室に、ある時は朝緒の家の茶の間に、ある時は探偵事務所に、ある時は潮干狩りの浜辺に、ある時は……。
それだけならば通常の演劇でも同様であるが、長塚圭史は、その「見立て」を“同時”に行った。過去と現在、全く別の場所が混在しズレていく、時折は“そこにいてはならない人物”を別の誰かが代行する。文章で書いても何だかよく分からないが、たとえば“現在の”父親(中村まこと)が逃げ出した朝緒を追いかけるのに同行しているのは“過去の”朝緒の友人である田端(黒木華)であり、その場所は父親には自分の家と認識されているが、田端には外とも浜辺とも認識されている、といった具合だ。朝緒が失踪している間は、彼女の役割を友人の玲音(中村ゆり)が代行したり、朝緒の夫の代行を探偵B(福田転球)が務めたりする。
こういうデタラメを「そういうことになっているみたいです」と彼らは受け入れる。「名前」もまた然りで、朝緒は、大学の映画作りの仲間からは勝手に「メクライ(眼喰らい)」と名付けられる。朝緒は朝緒なのかメクライなのか目玉をなくしたメクラなのか。そんなことはどうでもいいとばかりに放置されるが、このようないい加減な設定が「現実に」存在しえるとなれば、それは「どこ」であろうか。
「夢」の中だけである。
大学時代の朝緒に映画の主演を依頼する監督が、映画『ふくろうの河』の話をするくだりがある。アンブローズ・ビアス『アウル・クリーク橋の一事件』を原作に、ロベール・アンリコが映画化したこの「悪夢」に関する物語は、数々のフォロワーを生んで、世界と実存の不安定を訴えた傑作と讃えられている。
アイデンティティーが常に揺れ動き、世界と自分との間に違和感を覚え続け、自らの行動を「ト書き」として語っていなければ安定していられない朝緒は、まさしく、ふくろうの河に吊り下げられた兵士だ。ではこの『荒野に立つ』の物語は彼女の「走馬灯」の物語であるのか。そう解釈することも可能ではあるが、問題はそう単純に解決はしない。
これが彼女の「悪夢」だとすれば、この夢の中に巻き込まれた人々の「自我」は誰のものなのか、彼女の「代行」を玲音が務めたのはなぜなのか、この世界を仕組んだ「演出家」は果たして本当に朝緒なのか、それとも他に“眼に見えない誰か”がいるのか、等々と、疑問は次々と生まれてくるのである。
もちろんそれらの「混乱」も含めて、これは「バベルの塔」の物語である。
「神」は人々の「傲慢」の罰として、我々の「言葉」を乱(=バベル)した。担任教師(横田栄司)が言う。「分かったと思った瞬間に分からなくなる」。言葉という「現実」は、発せられた瞬間に「虚構」となる。所詮、我々は自らの作り上げた物語、虚構の中でしか生きられないが、我々が不幸であるのは、それぞれの抱く虚構に同調し得る共通項を見出せなくなってしまっているということなのだ。
共通する認識がなければ「客観性」は生まれない。我々は等しく自らの「主観」の中でしか生きられない。それは「実存」を確認できない「不可知論」の世界である。我々の存在そのものが「妄想」である可能性を、誰も否定はできないのだ。
「我々は、夢と同じもので織りなされている」(シェークスピア『テンペスト』)
朝緒ばかりでなく、登場人物全てが「我々」である。戯画化され、滑稽なやり取りを演じる彼らはしばしば観客の笑いを誘うが、我々は我々自身を嗤っているのである。その意味で、こんなに皮肉でブラックなスラップスティック・コメディもない。
我々の観る世界は全て違っている。朝緒は、最後に失っていたことすら自覚できなかった目玉を取り戻すが、それから彼女が行く先は、いずこともしれない。バックに流れる音は、どこかの駅の喧噪か。そこは紛れもなく、混乱の街、「バベル」という名の「荒野」なのである。
彼女は悪夢から覚めたのではない。別の悪夢を観るための、「もう一つの新しい眼」を手に入れただけなのだ。それが以前と同じ眼であると誰に証明することができるだろうか。
そして我々もまた、今、ここでこうして観ている悪夢から抜け出す術を持ち得ないのである。
世界は、恐怖だ。
散歩する侵略者
イキウメ
J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)
2011/06/12 (日) ~ 2011/06/12 (日)公演終了
満足度★★★★★
インベーダー・ゴー・ホーム!
演劇でSF作品が成功した例は少ない。小説のようにどこまでも読者のイマジネーションに頼ることもできないし、映画のように主にSFXによるスケールアップも困難である。下手にセットや仕掛けに凝ってもかえってチャチになるばかりだ。
必然的に、舞台を限定した日常SF、ワンアイデア勝負の作品が多くなるが、プロでもSF作品に通暁している劇団は必ずしも多くはなく、傑作が生まれにくいのが現状だ。ヨーロッパ企画の舞台など、この程度のレベルで演劇人たちが賞賛するのはどうかと疑問に思わざるを得ない。他のジャンルに疎すぎるのが現代演劇人の大きな欠点であろう。
その点、「イキウメ」に期待できたのは、タイトルで既に『ウルトラマン/侵略者を撃て!』や『ウルトラセブン/散歩する惑星』などを連想させていて(劇中、ちゃんと『ウルトラマン』にも言及されている)、観客にSFファンを視野に入れていることが明示されていたからだ。脚本・演出の前川知大の、これは観客への大胆な「挑戦」である。
結果、私たち観客は、見事に前川氏の前に「敗北」することになった。『散歩する侵略者』は、数ある日常SF、侵略SFのジャンルの中で、斬新なアイデアを盛り込んだ傑作になり得ていた。
宇宙人と地球人の邂逅を描く場合、文化の違い、価値観の違い、存在の成り立ち自体の違いから起きるディスコミュニケーションをモチーフに描くのは基本中の基本だが、ともすればそれは「どちらの文化が優秀か」という優位性の問題に収斂されがちだ。
本作の場合も、観客はうっかりすれば情動的に「“愛”の優位性」を感じて涙を流すことになるかもしれない。しかし、本質的にはこの物語は「奇跡」や「感動」を拒絶し、極めて理知的な整合性のみで成り立っていろ点に最大の面白さがある。「愛」は事態を解決する手段としては、実は全く機能していない。「愛」がもたらすものは、むしろ「混乱」なのである。
「愛は地球を救う」という陳腐な結末になりそうになった寸前で「止める」、その「抑制」がなければ、この物語は凡百な既存のSF作品の中に埋没してしまうことになっただろう。ラストの一言こそが本作のキモである。聞き逃してはならない。
未見の方には、小説版(メディアファクトリー/1400円)も出版されています。戯曲版との相違点もありますので、ご一読を乞う次第です。
ネタバレBOX
とは言え、その「ラストの台詞」は、いかにも聞き逃しやすいように、さらりと語られる。「泣き屋」の観客には、そこまでの展開で充分泣かしておいて、「気がつく人にだけ気付く」ように、最後のどんでん返しを前川氏は仕掛けた形だ。
宇宙からの侵略者たちは、地球人に乗り移り、他人とのコミュニケーションの中で、自分たちにはない地球人の持っている「概念」を調査しようとする。
侵略のための「前準備」で、ここまでならば、既存のSF作品にもよくある手法だ。しかし、斬新なのは、宇宙人たちにとって単なる「調査」のはずだった行為が、実質的に「侵略」として機能してしまった点だ。「概念」をもらう行為が、文字通り、他者から概念を「喪失」させることになる。
その結果、「概念」を奪われた者たちは、「言葉は知っているのに、その意味するものが分からない」ゲシュタルト崩壊を起こす。人為的に、相手にアスペルガー症候群と同じような症状を起こさせることになるのだ(恐らく、作者の発想もそこから取られたのだろう)。
「侵略行為に移るつもりはまだ無かったけれども、侵略してしまった」、それがインベーダーたちにとっても“イレギュラー”であったことがこれまでにないアイデアで、本質的に、宇宙人と、地球人とのディスコミュニケーションが「埋められない」ことを、この事実は示唆している。
「地球人の概念」を奪い取っていったその先、宇宙人はどうなるのか。
もちろん、「地球人」になるのである。
宇宙人から「地球人としての概念」を奪われていった地球人はどうなるのか、「宇宙人」に近づいていくのである。
これでは、二者は立場が逆転するばかりで、交流は不可能である。実際、宇宙人・真治に「愛」の概念を奪われた妻の鳴海は、“愛を知った”真治の哀しみ、苦しみが分からない。
真治に「所有」の概念を奪われた丸尾は、真治に向かって「国家、財産、人種、宗教、そういうの奪ったら戦争もなくなる」と訴える。それが、迫り来る侵略者たちに対抗する手段になるだろうと一同も賛成する。鳴海は、侵略者である真治が、地球人のために協力するはずがない、と反論するが、それに対する真治の答えがこうだ。
「それが、今はもう、よく分からないんだ」
「愛」を知った真治は、もうほぼ「地球人」である。だから「侵略者」の意識ではいられない。「愛」を奪うことが、地球人を「かつての自分たち」にしてしまうことになることを知ってしまっている。
しかし、既に「概念」を奪われた「元地球人」たちは、更に「概念」を奪ってくれることを望んでいるのだ。「宇宙人」に対抗するために、「宇宙人」になろうとしている。その方が、「地球人のため」になるのだとすれば、「侵略されること」は肯定されるべきことなのか。しかしそれでは、地球人がこれまでに産み出してきた「災厄」を、今度は“宇宙人”が引き受けなければならないことになる。
これではいつまで経ってもどうどうめぐりだ。真治にはそこまで、「真実」が見えてしまっている。真治はパンドラの筺を開けてしまったのだ。もはや真治は“誰の立場にも付けない”。 「愛」を知ったことが、永遠のジレンマの中に真治を置く結果になってしまったのだ。
「概念」を奪われた人々は、確かにどこか平和である。
初めこそ涙し混乱しているが、じきに慣れる。「概念を持たなくても生きていける」あるいは「生きていってもよい」と指摘してみせたことは、自閉症やアスペルガー症候群の子どもを持つ親などにとっては、「福音」に聞こえるのではないか。「痴呆」などと一括りで偏見の眼で見られていた彼らは、実は「結構元気」(鳴海の台詞)なのである。
ドストエフスキー『白痴』のムイシュキン公爵も、白痴と言うよりは発達障碍なのではないかという気がする。彼らを「純粋」とする無条件な礼賛には問題があるが、「概念」に囚われることが我々の思考に枷をはめてしまっている事実についてはもっと再考されてよかろうと思う。
本当に苦しんでいるのは、「概念を持たざるを得ない」我々の方ではないのか。
厳密に考えると、「所有」の概念を失っただけで、丸尾がコミュニストになってしまうという論法には無理がある。普通に考えれば、「あの家とこの家と、どれが“私の”家か分からない」ような状態になるだけではないのか。本当に戦争が無くなるかどうかも疑わしい。
また、どうやらもともと「言葉」自体を持たない宇宙人たちが、「言葉」を知った段階で、いちいち概念を奪わなくてもその知った言葉から概念を作り上げることができないものなのか、とも思う。人間の赤ん坊は、言葉からちゃんと概念を作り上げるが、人間の子どもほどの能力も宇宙人は持っていないのか、それとも宇宙人たちも生まれつきのアスペルガーなのだろうかと疑問に思う。だとしたら、彼らは「侵略」という概念はどこから得たのだろう?
しかし、それらの疑問点も、全てはラストの「混乱」を演出するための伏線だと考えれば、瑕瑾に過ぎないように思える。
SFとは、既成概念に対するアンチテーゼを象徴的に描く「手法」である。
『散歩する侵略者』は、それが最も効果的に発揮された舞台となった。発想の元になったのは、劇中でも示唆されていた通り、テレビドラマ『ウルトラ』シリーズであるが、宇宙人とのディスコミュニケーションを扱ったり、隣人が侵略者かもしれない恐怖を扱ったSF作品は、数限りなくなある。
Twitterで、本作の発想の元を大友克洋『宇宙パトロール・シゲマ』に求めた人がいたが、あれはそういった侵略SFのパロディであって(手塚治虫『W3』や永井豪『くずれる』の設定をもじっている)、本作に直接的に影響を与えた作品だとは言えない。感想であれ批評であれ、過去作品を挙げるのであれば、元作品をどう換骨奪胎し、差異化を図ったのかを具体的に指摘できるものを例としなければ、知見の狭さを露呈することにしかならない。
宇宙人が地球人の“姿を借り”、地球人との間の交流と齟齬を描いた作品の「源流」あるいは「代表作」を挙げるのならば、真っ先にハインライン『異星の客』や、ジョン・ウィンダム『呪われた村』(映画化名『光る眼』)や、映画『地球の静止する日』(ロバート・ワイズ監督)などを思い浮かべるのが順当だろう。テレビドラマシリーズなら、往年の『インベーダー』『謎の円盤UFO』、『ミステリーゾーン』のいくつかのエピソードから『Xファイル』に至るまで、枚挙に暇がない。フレドリック・ブラウンは、パロディとして『火星人ゴーホーム』をものにしている。
この程度の基礎教養的なSFは誰でも読んだり観たりしているものだと思っていたが、どうもそうではないらしい。Twitterで呟いていた御仁は、一応は演劇のプロなのだが、やはり他分野についての教養は疎いのだなと思わざるを得なかった。でも、演劇人なら、安部公房『人間そっくり』を連想したっておかしくないんだけどね。
『革命日記』
青年団
ぽんプラザホール(福岡県)
2011/06/10 (金) ~ 2011/06/12 (日)公演終了
満足度★★★★★
化石の記憶
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』のような、連合赤軍の山岳ベース事件、あさま山荘事件や、『マイ・バック・ページ』の赤衛軍事件などの、過去の革命闘争を描いた物語ではない。『機動警察パトレイバー2 the movie』のような、近未来における自衛隊の蜂起など、日本に革命が起きうるとすればそれはどのような形を取るかというシミュレーションを行った物語でもない。
これは、過去において確かに存在はしていたが、現在はすっかり時代遅れになった、現実から乖離し、観念的かつ独善的で、自己陶酔と視野狭窄に陥った、今でも「革命」などというものが本気で起こせるという妄想に取り憑かれてしまった、「現代の化石」とでも称するのがふさわしい愚か者たちの物語である。「オルグ」なんてコトバ、今どき使ってるのって、日教組くらいじゃないのか(笑)。
登場人物たちを滑稽だと笑える観客は幸いだ。彼らのような愚かさを具象化したような存在は、その人の周囲には全くいないのだろう。
しかし、必ずしも「革命家」でなくとも、彼らのような自己顕示欲の塊、自我肥大に陥ったナルシスト、他人を支配下に置くことで悦に入る精神的ファシストは、巷にはいくらでも存在している。そういう人間に関わらざるを得なくなった者にとっては、この物語を笑うことはできない。うっかりすれば、彼らの「夢想」に、こちらの「現実」が浸食される事態にもなりかねないからだ。
あるいは、「彼ら自身」が、この舞台を観たとしたらどうであろう。彼らが登場人物たちを自分の分身であるように感じ、胸に刺さるものを憶えられたのならば、まだ幸せだろう。その場合、彼らには、自らの愚かさと向き合うことのできる精神的余地がある。しかし、「他山の石」と思えなかった時は恐ろしい。彼らは決して自らの過ちには気付かない。そして彼らの「愚かさ」がそのまま実行に移されても、それを止めることは誰にもできないのである。
悲劇を回避する方法があるとすれば、まさしくこの物語が終わったところから始まるのだろう。しかしそれは、「取り返しの付かない事態」が生じて後のことである。
題材自体にどうしても眼が行くが、この舞台では、現代口語演劇の方法論が、最も効果的に作用している。
同時会話も、長い間も、観客に背を見せる演技も、この場合は自然さの演出と言うよりは、緊張感や逼塞感、重苦しさと言った、舞台空間を維持するために働いている。
レッテル的に語られてきた「静かな演劇」を拒絶した「叫び」の部分も、登場人物たちのやるせなさと密接に結びついていて、批判的に語れることの多い「絵日記」的な表現から脱して、昇華されたものになっている。
ネタバレBOX
「私たちはオウムではないのか?」
パンフレットに書かれた、平田オリザ氏のこの言葉を、事件が起きた1995年当時、自問自答した青年たちは決して少なくはなかった。
学生運動など、とうに下火の時代である。「革命」を本気で唱える人間などいなかった。けれどもバブル崩壊後のモヤモヤとしたいらだちや鬱屈のような沈滞感から、何か一つ突き抜けたい、そういう空気が時代を覆っていた。
オウム真理教が本気で世界を革命する気だったのかと言えば、それは否としか言えまい。アニメのタームを多く借りていたオウムは、存在自体がファンタジーに過ぎなかった。
しかし、オウムに帰依した人々は、時代を打ち破る矛として「これだ」という感触を持ったのだろう。金銭も社会的地位も自分を満たしてくれない、「自分探し」の果てに、彼らが行き着いた先が、「精神的な生き甲斐」を提供してくれるオウムだった。
その過程は、かつての学生運動の闘士たちの姿にも重なる。彼らは本当に共産主義革命が成ると信じていただろうか。信じていた者もいただろう。無理やり自己暗示をかけて信じ込もうとしていた者もいただろう。正義は自分たちにあると、正義が成らないはずはないと、そう考えるのが自然であった時代なのだ。学生の多くがその共同幻想の中に飲み込まれ、全国の大学で、デモとロックアウトが繰り返されていた。
もっとも、そんな「夢」から醒めていた者もいた。「何かがおかしい」と気付いていた者もいた。
しかし、連合赤軍は、その醒めた者たちを「総括」という名のもとに粛正した。オウムは「ポア」と呼んでいくつかの殺人と、地下鉄サリン事件を起こした。遡れば、戦前の思想統制、言論統制は、大杉栄を、小林多喜二を、そのほか多くの思想家を虐殺した。
この類似は、「人間は過去の過ちに学び反省することなどできない。結局は同じ轍を踏み続ける」という哀しい真実を物語っている。
「劇団も、演劇人も、彼らと同じなのではないか?」平田オリザの非凡さは、その組織の内側にいる者が最も気付きにくい、自らの思想の誤謬に眼を向けることができた点にある。
物語の冒頭で、篠田は既に革命の計画についてこう発言している。
「机上の空論でしょ?」
少人数での空港と大使館の同時占拠など、実行不可能なことは素人にだって分かる。サイバーテロの方がずっと実効性があるにも関わらず、その方法を採れないのは、彼らの脳が「化石」だからだ。
この革命計画は最初から瓦解が予測されている。にもかかわらず、彼らは自らの思想の呪縛に囚われて、計画を中止することができない。そもそもこの計画に無理があることに気付けない。
後半、首謀者の佐々木は、民衆を啓蒙し煽動することが目的だと嘯くが、三島由紀夫の失敗が、ビジョンのないアジテートだけでは、人心を掌握することもできなければ、誰も行動に走らないことを見抜けなかったことにあることを理解していない。
そうなのだ、彼らは、全共闘世代の革命家たちと同様に、革命を成したあとの具体的な政治、外交、経済、産業、文化その他、諸々の社会構築のための計画を、何一つ考えてはいなかったのだ。
なのに、誰も、この無謀な計画を止められない。
増田武雄は 「カルトはいいよなあ、金があって」と愚痴を言うが、つまり彼らは「金のないカルト」なのである。そしてその姿は、自尊心だけが肥大した、現代の演劇人たちの姿にも繋がってくる。
増田典子が立花の「感情」を自己反省に基づいて批判する論理は、連合赤軍の永田洋子が、山岳ベース事件の時に遠山美枝子を「自己批判」させようとした時の論理と全く同じである。遠山美枝子は、後にリンチに遭い死亡した。立花の口から、当局に計画が漏れれば全ては水泡に帰する。観客は、どうしても立花の安否を気遣わないわけにはいかない。
典子はまた、組織の実態に感づいた柳田から「粛正とかされちゃうんですか?」と聞かれた時に、「そんな時代じゃないし」と答える。しかしその時、計画に批判的だった篠田は、会合に現れなかった島崎に刺されているのである。その理由は判然としないが、彼らの組織もまた、何かのきっかけで簡単に崩壊してしまうことを暗示して、物語は終わる。
アフタートークで、平田オリザ氏は、演劇人を革命家たちになぞらえたことを明言した上で、「集団が(劇団が)崩壊するのはたいてい金と女が原因です。若い世代は優しいからそれをうまく回避していますが」と冗談めかして説明した。
しかしこれもまた、永田洋子の殺害の動機が、本人は「思想」の問題であると主張していたにもかかわらず、他のメンバーからは「女としての嫉妬」であると看破されてしまったように、「劇団の崩壊」もまた、当事者からは「思想的対立」が原因であると主張されることが多いのに対して、実態はきわめて下世話な理由に基づくことが多い事実を示唆している。
平田氏は、自らを映す「鏡」として、この戯曲を書いた。
それはもちろん、世の演劇人、劇団員たちにとっても「鏡」となる。
戯画化されてはいるが、佐々木のような観念でしか演劇を語れない演出家、櫻井のような自己犠牲が格好いいことであるかのように錯覚している役者、山際のような劇団にすり寄ることで自己のステイタスを上げた気になっているスポンサーやシンパは、実際にいるのだ。
しかし、彼らにこの舞台が「鏡」として見えるようなら、初めから自画自賛型の舞台を作ったり、賞賛したりはしないだろう。平田氏の、世の演劇人たちへの切々としたメッセージは殆ど届くことはあるまい。
奇形鍋
財団、江本純子
西鉄ホール(福岡県)
2011/05/28 (土) ~ 2011/05/29 (日)公演終了
満足度★
形ばかりの生ぬるさ
タイトルに偽りあり、羊頭狗肉とはこのことで、「奇形鍋」と言いつつ、本当の奇形は一人しか出てこない。
「人間はみな“奇形”だ」という主旨だろうかと初めは思ってみてものの、それならば“あのような落ち”を付けるはずもない。10分か20分ほどのコントならばあの落ちも生きたものを、物語を一時間以上も引き延ばし、すっかり散漫なものにしてしまった。
「奇形」が現代のタブーであり、彼らへの差別や偏見に抵抗しようとする意識が江本純子にあったことは見て取れるが、その手法が結果的には小手先で終わり、観客の心胆を寒からしむるまでには至っていない。「演劇」の表現力はこの程度のものではないし、あのラスト以降を描くことこそが「演劇の使命」なのではないのだろうか。
ネタバレBOX
「奇形鍋」とは、意欲的かつ挑戦的なタイトルである。
テレビや映画ではもちろん、出版物においても、殆どのメディアにおいて、「奇形」は自主規制コードに引っかかって使えないのが現状である。「奇形」に゜限らず、様々な表現が「差別的」とされて抹消、「表現の自由」が実質的に侵犯され続けた哀しい歴史、それはもう半世紀を超えようとしている。
「奇形」の問題に限って言えば、『ノートルダムのせむし男』は『ノートルダムの鐘』に、『ダレン・シャン 奇形のサーカス』は『奇妙なサーカス』に改題させられている。
「言葉狩り」をしたところで、差別の実態がなくなるわけではない。逆に差別は巧妙に「地下」に潜り、陰湿化する。被差別者自体に社会の目が向けられなくなる。身障者の社会への参画は改善されつつはあるが、「奇形」へのまなざしは、決して暖かくはない。むしろ看過されてきた面の方が大きいだろう。
しかし、演劇の場合は、この間、そういった自主規制からは比較的自由であった。「かたわ」や「きちがい」などの一般的には「賎称語」とされる言葉の飛び交う戯曲も少なくないし、舞台に本物の一寸法師が登場することもあった。それは、演劇が「表現」と「実態」は別、という仕分けをキッチリと理解してきたという輝かしい歴史でもある。
映画やテレビにおいても、「小人役者」は、一昔前までは決して珍しい存在ではなかった。東宝怪獣映画の「ミニラ」の中に入っていた「小人のマーチャン」などは、私たちの世代には馴染みが深い。
だが現在においては、そういった役者がテレビ画面で観られる機会はほぼ皆無に等しくなっている。「奇形の人を見世物にするなんてかわいそう」という視聴者の「良識」が、彼らの生活の手段を奪っていったのだ。
十年ほど前だったろうか、「小人プロレス」が「身障者を不当に苛んでいる」と非難を受けたことがあるが、その意見に真っ向から反駁したのが当の小人レスラーたちであった。
今はなきペヨトル書房発行の『夜想』という文芸誌で、30年ほど前に「奇形」特集を組んだことがある。
当時、ほぼ封印状態にあった、小人や小頭症、シャム双生児ら奇形のサーカス団を「本人たち」を使って描いたトッド・ブラウニング監督作『フリークス(怪物団)』のスチル紹介を中心に、例の「エレファントマン」やアンドロギュノス(半陰陽)など様々な奇形写真の紹介と、識者の評論で構成されていた。特に近世文学評論家の松田修の寄稿は注目に値する。即ち、「蜘蛛男」などの「見世物小屋」での奇形の興行は、彼らの生活を保障する手段であったという事実の提示である。
「親の因果が子に報い」という彼らへの「哀れ」の庶民感情は、近世と現代とでは全く逆転してしまっている。「可哀想だから」木戸銭を払う。「可哀想だから」見たくないと、世間からその存在を消そうとする。どちらが彼らにとって差別的かは言うまでもないだろう。
そして、「見世物の復権」を唱えて、現代、あえて「奇形」を舞台に上げようとしてきたのが、寺山修司だった。小人や大女が舞台せましと走り回る。その片鱗は、実験映像の『トマトケチャップ皇帝』などで今も鑑賞することが可能だ。
石井輝男は、江戸川乱歩原作の『恐怖奇形人間』や『盲獣vs一寸法師』で、「奇形の復讐」を繰り返し描いてきた。奇形がいかに差別され迫害されてきたか、それを真正面から描こうとすれば、彼らの怒りや恨みも描かないわけにはいかない。それは時には彼らを「犯罪者」にもする。それが偽らざる現実だろう。「奇形」の問題に踏み込めば、そこまで描かないわけにはいかない。
この舞台にも「奇形」は登場する。
最初は、男性のような女性、「ボイタチ」と呼ばれるバイトのリーダーが「奇形」として登場したように見せかけて、ラストシーンで、妊娠中の女性のように見えたセイコちゃんが、実は「豆太鼓」と呼ばれる「奇形」であることが判明する。途端に、そこにいたバイトたちは、しんと無言になってしまう。
本物の奇形を前にして、なすすべもなくなってしまうのだ。
我々一般人が、いかに「奇形」の存在を意識から遠ざけて、あるいは存在しないもののように扱ってきたか、我々の無自覚な差別意識が露呈する瞬間である。
ところが、劇中、価値の反転を図って最も「演劇的」だったこのシーンが、全体の中ではまるで印象深く残らない。それまでの工場内での愚にも付かないやり取り、感情移入を拒絶するような俗物と情緒不安定者ばかりが右往左往する展開が長すぎて、肝心の「奇形」の問題が、取って付けたもののようにしか見えない。「Aと見えていたものが実はBであった」という落ちを生かすための伏線が少なすぎるのである。
この意外性で落ちを付けるのが得意だったのは、コント作家時代の井上ひさしである。てんぷくトリオのコントは、ほぼこのパターンであった。NHKの「言葉狩り」に最初に反意を示した彼のことである。もしも「奇形」をモチーフにすれば、こんなダラダラした芝居よりも、よっぽど「毒」の利いた、鮮烈なコントを作っていたことだろう。
グンナイ
万能グローブ ガラパゴスダイナモス
イムズホール(福岡県)
2011/05/28 (土) ~ 2011/05/29 (日)公演終了
満足度★★★
喜劇にキ印さんは鬼門
毎回、一定水準のシチュエーションコメディを提供してくれる、福岡では貴重なエンタテイメント中心の劇団。
しかし、感想もまた毎回同じで、総体としてはそこそこ面白いものの、既成作品の枠を超えたものではなく、設定に無理があり、伏線の張り方にもほころびが見受けられ、役者の演技ももう一歩、一応は中央でも通用するレベルに達してはいるものの、十年一日で進歩がない、ということになってしまう。
毎回、暢気な人々の暢気なやり取りで物語を構築するのが定番であったが、今回はサイコホラーなテイストも加味して、“この劇団にしては”新機軸を打ち出してはいる。しかし、単体の演劇として観た場合、それも決して目新しい手法ではない。
ルーティーンワークを否定するつもりはないし、「とりあえずハズレはないから」という「安全策」を取って毎回観に来る常連客が多数いるのも理解はできるが、それは同時に、この劇団が「演劇的な驚き」とは無縁であるという事実も物語っているのである。
ネタバレBOX
川口大樹は、福岡では最も計算された戯曲を書ける「作家」であるとは思う。
シチュエーションコメディを書ける才能の持主が、全国的に見ても決して多くはないという現実も、彼には有利に作用している。コンスタントに一定水準の作品を送り出すスキルは確かに高く、中央でも充分集客を続けていけるだろう。しかしそれは、三谷幸喜がかつて「ライバルがいなかったから自分は売れた」と述懐したのと同じ理屈だ。
何しろヨーロッパ企画の上田誠程度の腑抜けた喜劇ですらヒットしているのである(もっとも映画では上田誠は惨敗続きである)。相対的に川口大樹が「優秀」に見えてしまうのも無理はない。
しかし、子細に見ていけば、『グンナイ』にも設定や構成の不備は随所に見られるのだ。
海外のリゾートに集まった人々、彼らにそれぞれの思惑があり、決して偶然に遭遇したわけではないことが次第に明らかになっていく、そのアイデア自体はミステリーの定番であって、決して悪くはない。
だが、これは三谷幸喜にも言えることだが、本来、集まるはずのない人間を集結させるために、一部の登場人物を必要以上の間抜けやサイコさんに設定してしまい、その結果、無理が生じてしまっている部分がかなりある。
たとえば、会社社長となったタミオ(松田裕太郎)は、兄が自殺したために仕方なく社長の後釜に就いたという設定である。しかし、はたして自分の婚約者の正体にも気付かないほどの間抜けを社長の椅子に据える企業があるものなのだろうか。いや、世襲制の会社ならありうると言われるかもしれないが、婚約者の和美(多田香織)は明らかにサイコさんなのである。社長本人は間抜けでも、仮にも記者に取材を受けるほどの大企業の幹部が、あからさまに頭のおかしい社長の婚約者に関して、素行調査を全く行っていないようなのは不自然極まりない。本当なら、その時点で和美が兄の元カノであることは判明しているはずなのだ。
井手(椎木樹人)や船小屋(松野尾亮)が、チームメイトの姉である渚(横山祐香里)と全く面識がないことも不自然だ。「私を甲子園に連れてって」と約束した身内が、高校野球の応援に一度も行ったことがないのか? 渚がサイドスローのフォームを取ったことでようやく井手は彼女の正体に気付くが、脚本家としては巧くトリックを仕掛けたつもりなのだろうが、実際には「もっと早く気付けよ」という印象しか観客には与えない。
同じように、宗教団体の探索を行っている女がいるという情報を手に入れていた天草(阿部周平)が、渚の顔写真一つ持っていないのも変ではないか。情報が情報として機能していないのだ。
そんなことは枝葉末節だと主張するのは、シチュエーションコメディを知らぬ者の妄言であろう。勘違いや思い込みやウソを絡み合わせて喜劇とするためには、こういったディテールに細心の注意を払うことが基本条件であるからだ。
伏線は張っているけれども、それがご都合主義で紡ぎ上げられているのは決して誉められた話ではない。そういう杜撰な設定が多すぎる。結果、「それはありえないだろう」という印象を観客に与えてしまっている。この「杜撰さ」は、川口大樹が、自作の範として三谷幸喜を置いていることが原因ではないかと推測するが、むしろ三谷が範としているビリー・ワイルダーやレイ・クーニー、ニール・サイモン、エルンスト・ルビッチ、メル・ブルックスといった喜劇の先人たちを参考にした方が、瑕瑾は少なくなっていただろう。
彼ら海外作家たちの諸作に不自然なご都合主義は少ないし、あっても「勢い」で押し切るスキルを持っている。川口大樹の戯曲からすぐに「ほころび」を発見してしまうのは、彼が三谷幸喜流の「台詞のもたつき」までも踏襲しているせいで、その結果、ドラマとしての「勢い」を失ってしまっていることにも原因があるのだ。
全てが烏有に帰すラストは、『アッシャー家の崩壊』パターンで、これも目新しくはない。
というか、和美というサイコさんを出した時点で、ラストまでの展開が概ね読めてしまうのである。自分が今言ったことを否定してしまうほどの狂人に彼女を設定する必要がどこにあったのだろうか。もう少し筆を抑えて、ちょっと不思議ちゃん、程度の描写に留めておけば、観客に先を見透かされることもなかっただろうと思う。
川口大樹も、ミステリーやサイコホラーをそれなりに読んではきているのだろう。しかし、どうにも「不慣れ」な部分が目立つ。役者たちもまた、陰影のあるキャラクターを演じるにはまだまだ実力不足で、特に井手と船小屋の二人が、麻薬や野球賭博に手を出して親友を死なせた罪悪感や屈折を表現しきれていない。
演技的に「見られた」のは、胡散臭い宗教家を軽やかに演じた天草とケンケン(加賀田浩二)くらいのものであった。
『prayer/s』※ワーク・イン・プログレス公演
RAWWORKS
SRギャラリー(福岡県)
2011/05/16 (月) ~ 2011/05/17 (火)公演終了
満足度★★★★
モノの怪たちの祝祭
タイトル『prayer/s』の「/(スラッシュ)」が気になっている。
登場人物たちが、お互いに関わりたいと願いながら関わることができない、一人一人が「遮断」されている象徴として、この「/」が置かれているように感じるからだ。
彼らの言葉が「pray=祈り」であるのならば、その祈りは誰にも届かないようにも思える。もちろん「神」にも。
半裸の男女たちは、めいめい、何かに向かって、誰かに向かって語りかけてはいるが、その意味内容も抽象的で、果たしてそれが本当に「祈り」なのかどうかも分からない。
しかし、そこにはこの時空間に、現実に、肉体に縛られ追い詰められて、自由になれない人間の精神の、根源的な「痛み」があり「叫び」がある。
その叫びを口にできただけでも、彼ら、彼女らは幸福なのだろう。特にストーリーのない点景のみの舞台で、陰鬱な暗闇の中で演じられていながら、そこには人々が織りなす「物語」があり、苦しみの後にささやかな開放感が漂っている。
ネタバレBOX
舞台は穴蔵のような、細長い小部屋。
照明はなく、床のそこここに、グラスに入った蝋燭が置かれている。十人ほどの男女が、床や壁や椅子に、死体のように転がっている。彼らはみな半裸だ。
灯火があるのみの暗闇、裸の死体の群れと言えば、どうしても芥川龍之介『羅生門』を想起してしまう。あの小説は、固定された舞台設定と時間経過において、二幕ものの「演劇」を強く意識しているが、あれをそのまま舞台にすれば、こんな感じだろうかと思わせる。
実際に彼らがぶつぶつと呟く言葉の中には、宮澤賢治の心象スケッチがあり、中島敦の『山月記』があり、といった具合で、本作の「文学志向」は随所に見られる。しかし、それは必ずしも脚本・演出の永山智行の志向と一致しているわけではないようだ。本作は演出家が、役者たち一人一人と対話する中で、台詞や演技を作り上げていったと聞く。
となれば、この舞台の「文学性」は、役者たち一人一人の「生き方」が必然的に産み出したものだということになる。
「文学は死んだ」と言われて久しい。しかし、役者たちの「生」への探求が、「演劇」という表現形式に内包されている文学性を引き出すことになったのだとすれば、人間を描くための手法として、文学はまだまだ有効であると言えるのではないだろうか。
一見、前衛的なアングラ演劇のように見えるが、『prayer/s』の演劇としての構成は、ミュージカル『キャッツ』とほぼ同一である。
T.S.エリオットの詩集に登場する猫たち、“月の猫”ジェリクルキャッツに選ばれるべく「祈り」を捧げる彼らを一匹一匹紹介していく形式、意識してか無意識的にか、『prayer/s』は、それを模倣している。しかも登場人物一人一人が、ジェリクルキャッツとなった娼婦猫グリザベラのように、自らの「叫び」を語り終えた後、この穴蔵から扉の向こうに、光の世界へと旅立っていくのだ。
いや、『prayer/s』を『キャッツ』の模倣である、と捉えることは乱暴に過ぎるだろう。ではなぜ両者は似通っているのか。
むしろ『キャッツ』のあの「祈り」の形式が、古代から連綿と続く「神殿での祝詞」、日本ならば「神楽」の形式を踏襲したものだと考えれば、その類似性に妥当な説明を与えることは可能であろうと思う。
「祈り」こそが、全ての「演劇」の原点なのであり、『キャッツ』も『prayer/s』も、「演劇の原初に還る」ことを目的として作られた、文字通りの「モノ・ガタリ」であるのだ。
一人の女は、「私、生きてる」と呟いた。しかし、扉の向こうでも彼女が生きているかどうかは分からない。
また一人のは、「私、生きたい」と呟いた。しかしそれは「逝きたい」の意味だったかもしれない。
彼ら、彼女たちの「言葉」は、ともすれば抽象的になり、何について語っているのか、その叫びを産み出した背景となる事実が何だったのかは曖昧で、ただその言葉に込められた「感情」ばかりが暗闇の中に浮遊していく。
だが、彼ら、彼女たちのことばは、決して空を漂ったまま消えたりはしない。たとえ語られることはなくても、彼ら彼女らには確かにその叫びと祈りを産み出すに至った「過去」があり、苦しみと痛みの中で常に「死」の影を纏いつつも、彼らが紛れもなく、そこに「実在」していることを訴え続けている。
だから哀しい。
しかし、だから彼らが、彼女たちが愛おしくなる。
神殿も仏閣もない、現代の「祈り人=プレイヤーズ」にとって、彼らの願いを捧げる「神」はあってなきがごときあやふやな、それこそ一本の「藁」にすぎないのかもしれない。
しかし、彼らの「実在」だけは決して否定することはできない。彼らの祈りと叫びは観客の胸に直接、呼応する。そして我々は、自らもまた「祈り人」の一人であることを自覚するのである。
『prayer/s』の「/」は、舞台の役者たちと、我々観客の間にある「垣根」かもしれない。もちろんこの「垣根」は、たやすく飛び越えることが可能なのである。我々の「祈り」も、「誰か」に届くことがあるのだろうか。
「ワーク・イン・プログレス公演」ということであるが、演劇は元々、公演の度ごとに進化するもので、現在は常に通過点であり、同時にその時点における完成形だろう。つかこうへいの諸作など、毎日のように演出を変えたこともあったと聞く。
再びこの舞台を観る機会もあるかとは思うが、そのときはまた印象は一変しているかもしれない。それも楽しみなことである。
紅姉妹~べにしまい~
G2プロデュース
J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)
2011/05/15 (日) ~ 2011/05/15 (日)公演終了
満足度★★★★
鶯の身を逆に初音かな
3軒茶屋婦人会の第4回公演、というよりも、わかぎゑふオリジナル脚本&G2演出、という組み合わせに、大いに期待して観劇。
結果は、決して悪い印象ではなく、充分に面白くはあった。しかし何かが足りない。
「女形三人」というか「オカマ三人」というか、その掛け合い漫才的な応酬は終始楽しい。時間を徐々に遡っていく構成が、最後にはしんみりと胸を打つ感動を呼び起こす、その効果を評価するに吝かではない。
けれども、「この芝居は、もっと面白くできるはずだ」という思いを、どうしても拭い去ることができない。演劇としての仕掛けが「理に落ちている」ために、ドラマそのものに破綻はないが意外性もない、あるいは「演劇の“神”が降り損なっている」のである。
もっとも、箸にも棒にもかからない「演劇もどき」の舞台に比べれば、『紅姉妹』への不満は「贅沢な悩み」でしかないのだが。
ネタバレBOX
中島らものリリパット・アーミーに関わってきたわかぎゑふとG2の二人だが、初期の先鋭的な作風に比べると、近作は大向こうを相手にした「新劇」に近い舞台作りを志向しているように見える。実際、5年ほど前のトークショーで、G2氏は、「帝国劇場が目標」、なんてことを口にしている。その後、新橋演舞場に進出することはできたから、一応、G2氏の目標機達成されつつあるようだ。
そのこと自体は悪いことでも何でもない。大衆を唸らせるエンタテインメントを作る実力は、わかぎ、G2両氏には充分備わっている。ただ、初期の既成概念をひっくり返すような悪意や狂気に満ちた「毒」のある劇作、それが薄まっていく傾向にあることには、いささかならず寂しさも覚えてしまうのである。
『紅姉妹』に感じる不満の正体もそれだ。
物語は2011年現在、ニューヨークのBAR「紅や」で、年老いたミミ(篠井英介)が、電話で、息子のジョーに“もう一人の母親”であるジュン(大谷亮介)が死んだことを告げるシーンから始まる。ジョーには更にもう一人母親がいて、そのベニィ(深沢敦)も昨年死んでいる。
この三人が、彼女たちの愛した男・ケンの忘れ形見・ジョーを、この60余年、育て、見守ってきたのだ。
ミミはジョーに葬式の相談をするが、その声に元気はなく、埃をかぶったBARには、孤独と寂しさだけが漂っている。
そこから、場面は少しずつ、ほぼ十年置きに過去に遡り、この60余年の歴史を描いていく。
老いた三人のボケた団欒、ジョーが離婚したこと、ジョーが結婚したこと、ベニィが性転換して女になったこと、ベニィは男でありながら、実は従兄のケンを愛していたこと、「紅や」が資金難から売却されるところを、ミミが夫の遺産で間一髪、救ったこと、しかしその遺産は発作を起こした夫をミミが見殺しにして手に入れたものであったこと、三人がそれぞれ親として赤子のジョーを育てる決心をしたこと、そして三人が出会った1945年。
ただの回想ではなく、時間を順を追って遡る手法は、近年直木賞を受賞した桜庭一樹『私の男』などに見られる。桜庭一樹はこのアイデアを夢野久作『瓶詰の地獄』から得たことを述べているが、わかぎゑふは、そのどちらも読んではいないようだ。
先行作を知らず、このアイデアを思い付いたことは賞賛に値する。しかし、先行作を知らなかったために、わかぎえふはこの手法の最も効果的な作劇の仕方に気付けなかった。それが『紅姉妹』の「甘さ」に繋がっている。
読者や観客は、物語の冒頭で「結末」を知らされる。通常のドラマツルギーならば、「落ち」を最初に知ることは興醒めになってもおかしくないはずだ。それがそうならないのは、「原因」によって謎が解かれる仕掛けになっているからである。
冒頭で描かれる「別れ」や「死」、それが悲劇的であるがゆえに、「なぜそれは起きたのか」という謎に惹かれて、私たちは「過去」を追うのだ。
しかし『紅姉妹』にはさしたる謎は提示されない。ベニィがなぜ女になったかとか、どういういきさつで三人の女がジョーの母親になったかなどは、充分に予測がつく範囲内で、意外性がないのだ。
そのために、途中の展開は結構「もたつく」。三人が赤子の母となるラストシーンは、それまでの彼女たちの苦労を知っているがゆえに静かな感動を呼びはするが、本来、この時間遡行の手法が持っている劇的効果を十全に引き出すまでには至っていない。
三人のうち、ミミとジュンが本物の女で、ベニィだけが性転換した男だという設定にも無理がある。篠井英介はまだしも、大谷亮介を本物の女と見立てるのは出来の悪いギャグでしかない。大谷亮介は「取り立て屋の男」も二役で演じているから、観客はますますこいつは男なのか女なのかと混乱させられることになる。
すんなりと、三人とも“元男”ということにして、ジョーの両親とも死んだことにして、「ニューハーフ三人の子育て奮戦記」にした方が、「子を作れない元男達の哀しみ」も描くことが可能になり、よりドラマチックにできたのではないだろうか。
そうすると映画『赤ちゃんに乾杯!』(あるいは『スリーメン&ベビー』)にかなり似通ってくるので、それを避けたのかもしれないが、篠井を除いて「女形には見えない」男たちが女を演じるとなれば、あくまで全員「女」にするか「オカマ」にするか、どちらかに統一しなければ、観客の見立てを阻害することにしかならないだろうと思うのである。
と、批判はしてるけれど、一応、四つ星ですから(苦笑)。
わが星
ままごと
J:COM北九州芸術劇場 小劇場(福岡県)
2011/05/19 (木) ~ 2011/05/22 (日)公演終了
満足度★★★★★
First Contact:Boy meets Girl Version
初演バージョンのDVD、昨年の北九州芸術劇場リーディング公演、そして今回の本公演と、都合三度目の『わが星』観劇体験になるが、やはり今回が最も胸に響く。
「観客もまた劇場においては空間を構成する俳優の一人だ」とはよく言われることだ。具体的に我々が何か演技をするわけではないが、その演劇空間に身を置いているうちに、我々はいつの間にか感情を揺さぶられ、心は浮遊し、そこにあるべき何かの役割を与えられている。
『わが星』において、我々はいったいどんな「役」を振られていたか。気がつけばめまぐるしく翻弄された我々の心は、ある時は「ちーちゃん」の中の小さな人類の一人となっている。またある時は「ちーちゃん」自身に、そして「ちーちゃん」を見守る「家族」に、あるいは「先生」になっている。そして。
彼らへの感情移入が、我々自身を「彼らそのもの」にさせている。実際、柴幸男は、「全ての登場人物に感情移入させる」というとんでもない演出を試みているのだ。それが可能になるのは、我々の卑近な「日常」の視点と、我々を俯瞰する「宇宙」の視点とが、常に二重写しの関係となって我々に提示されているからに他ならない。
αとωの邂逅が、恋の始まりと終わりとに重ね合わされる。ノスタルジーを我々が感じるのも無理はない。これは新世紀の『時をかける少女』の物語なのだ。
ネタバレBOX
パンフレットの解説で、扇田昭彦は、『わが星』の着想がソーントン・ワイルダー『わが町』から取られていることを指摘している。日常と町の歴史との二重写しの手法は確かに『わが町』から取られたものだろう。岸田國士戯曲賞の選考で、鴻上尚史は「『わが星』の面白さは『わが町』の面白さではないのか」と疑義を呈して受賞に反対した。
しかし、『わが星』は決して『わが町』そのままではない。単に舞台を宇宙に移しただけのものではない。むしろ「宇宙」をクロニクルとして描くことが主題としてあって、二重写しはそのための手段に過ぎないと私には思われた。
そして、その発想の中心にはレイ・ブラッドベリ『火星年代記』があるのではないかと想像していたのだが、同じくパンフレットのインタビューで、柴幸男自身からそのタイトルが口に出されたのを読んで、やはり『わが星』の叙情性は、ブラッドベリの直系の子孫であったがためのものだったのだと納得した。
そう改めて確信して本作を見返してみると、他にも「それらしい」SF作品のガジェットが至る所に見られる。
「恐竜」のエピソードは同じブラッドベリの『霧笛』や星新一『午後の恐竜』を連想させるし、「そのまたお母さんのお母さんの……」と遡った末に、ギャグで落とすのは、まるでラファティ『九百人のお祖母さん』だ。
同じ時間を繰り返す「ループSF」の作品を挙げていけばきりがない。近年では映画『恋はデジャブ』が、ニーチェの永劫回帰の思想を映像化した傑作として高評価を受けている。
時間を巻き戻して、死んだ人間を生き返らせるのもタイムトラベルものの定番だ。成功する例は映画『スーパーマン』の、あの「地球の自転逆回転巻き戻し」というトンデモな手がある。自転と公転の違いはあるが「地球の回転を逆回し」という点では本作に最も近いのはこの映画だ。
いずれも過去のSF作品のアイデアにインスパイアされたことは確実で、間違っても輪廻とか業とか、そんなオカルティズムが入り込む余地はないのである。柴幸男は紛れもなく「科学の子」だ。
しかし、柴幸男がこれらのSF作品をどれだけ読んで(観て)いるのか、本当のところは分からない。いや、しかし、読んでいなくてもそれはいっこうに構わないのだ。賞賛すべきなのは、これらの作品に横溢しているSFマインド――センス・オブ・ワンダーを、柴幸男が単なる模倣ではなく、自らの血肉とし、縦横無尽に組み合わせて、まさしく一つの「セカイ」を構築しているという事実なのだ。
そしてSF最大のモチーフとしてある「ファースト・コンタクト」。それを彼はラストに持ってきた。
「ちーちゃん」が「地球」であることは論を俟たない。「地球の擬人化」が、ちょっとませてはいるがやはり幼くわがままでやんちゃな「少女」であるとは何とも可笑しい。彼女のその性格は彼女が「死ぬまで」変わらない。彼女には「進歩」とか「成熟」というものがない。そう言われてみると、この地球は氷河期と間氷期を繰り返しているだけの、学習障碍を起こしている困った子どものように見えてくる。
地球に対する「母なる大地」という一般的なイメージがカケラも無いのはなかなか皮肉が効いている。我々人類はきまぐれな幼い少女に抱かれているのだ。自然災害も含めて、様々な点で、我々が地球に翻弄されてしまうのも無理はない。
そして彼女が彼女の「日常」を描き、思い出を語り始める時、彼女は地球であると同時に「我々自身」にもなる。
では、彼女を百億年見続けてきた、「家族」と「先生」と、そして「彼(もう一人の『先生』)」は誰なのだろうか。無理にどこかの惑星や恒星を当てはめる必要はない。地球の誕生は謎に包まれている。産んだのは誰か、それは分からない。分からないけれども、地球がここにこうしてある以上は、その「奇跡」を産み出した彼ら「家族」は、間違いなく「どこかに」存在しているはずなのだ。
そして「彼」もまた百億年、「ちーちゃん」を見続けてきた。そして「会いたい」と思ってくれた。「彼」が言葉には出さないが「ちーちゃん」に一番伝えたいと思ったのはこの言葉だろう。「We are not alone.」。『未知との遭遇』の、あの台詞である。
谷川俊太郎がかつて詩にした『二十億光年の孤独』の中に、我々人類は、地球はいる。その孤独は、光速を越えてやって来てくれた者にしか癒せない。我々の地球は、他の星々とはあまりにも遠くて遙かな、闇の中のほんのわずかな光点に過ぎない。
しかし我々は空を見上げることを忘れない。「ちーちゃん」は、そこにいつか出会える「友」がいることを信じている。「月ちゃん」が離れていっても、その「友」がいつか必ず来てくれることを信じている。「彼」が誰であるかを答える必要はないだろう。名前などはどうでもいい。「彼」は、我々が求めていた、我々を「超える」存在である。
だから、私たちもまた、「もう一つの地球」のために、時を、光を超えて、彼女に会いに行くことができるはずだ。そしてこう言ってあげられる。「こんにちは」そして「おやすみ」と。
「わが星」とは「我々の住む星」という意味だけではない。
「彼」が、「先生」が言っていたではないか。「これは『ボクの星』だ」と。「君は、ボクのものだ」。そう言ってくれる相手に、「ちーちゃん」は、最後の最後でようやく出会えたのだ。
これは「宇宙」の「初恋」の物語である。
生きよう。力強く。みんな、重なりあって。
桜の園
地点
イムズホール(福岡県)
2011/05/21 (土) ~ 2011/05/22 (日)公演終了
満足度★★★
桜の園の満開の下
チェーホフの『桜の園』の「読み」は様々だろう。その中には少女小説的な読みがされてきた一連の流れもあって、これはもの凄く乱暴にまとめてしまえば、没落貴族であるヒロインの哀しみを描いているという感傷的な読み方だ。演出家もそれを念頭にして、登場人物たちにしきりと「涙」を流させる。
ところが「地点」の三浦基は、彼ら彼女らに一切の涙を流させない。泣きの芝居を入れない。それどころか、舞台を終始支配するのは、狂気に満ちた「哄笑」である。
この「感傷」を徹底的に排除する姿勢は面白い。三浦基は原作戯曲をいったん解体し展開を変えて再構成、四幕のものを一幕の超ダイジェスト版にスピードアップして見せるが、これはチェーホフの否定ではない。原作の描いた「感傷」の果てには「狂気」がありえることを、演出家が喝破した、一つの解釈である。
ネタバレBOX
日本の女子校の演劇部には、例年卒業制作として『桜の園』を上演するところがあるというが(笑)、それは、日本においてはチェーホフのロマンチシズムあるいはセンチメンタリズムのみが抽出されてきたことの象徴的な現象だろう。
近年は初期作品も含めて、ユーモリストとしてのチェーホフが再評価されているが、『桜の園』も本来は「喜劇」としての側面が強かった。「桜の園」に執着するラネフスカヤ夫人の姿は普通に鑑賞すればかなり滑稽なのである。
日本の新劇は、これを「感傷劇」として定着させた。今回アフタートークで指摘されたことでもあるが、これには日本語とロシア語という言語の違いも原因としてあるだろう。あっさりとしてテンポのいいロシア語に比べて、日本語はどうしても感情を“溜め込む”。貴族の台詞ともなれば、既に日本人には日本的なイメージ、「山の手」的な、あるいは「皇室」の気品と優雅さを備えた言い回しが前提とされてしまう。母親は「お母様」であって「ママ」ではないのだ。
こういった「チェーホフの日本化」は、新劇のみならず、文学では太宰治『斜陽』に、映画では吉村公三郎『安城家の舞踏会』での没落華族の描写にも影響していく。これらはよく言えばチェーホフと日本との幸福な融合であるが、見方を変えれば「どこの国の話だ」という違和感、非現実感を生んでしまうことになる。チェーホフの「現代化」における新たなアプローチは、この「違和感」をどう解消したらよいか、という点にかかっていると言える。
舞台の中央には「窓枠」の山が積み上げられている。床には一面、一円玉。四方を取り囲む長大な“ベンチ”はプラットホームの謂いだという。
「桜の園」の人々は、その「窓」に囚われている。舞台上を彼らは殆ど動かず、立ちつくしたままだ。彼らの喋る言葉に抑揚は存在するが、感情には明らかに欠落がある。前述したように「哀しみ」の感情が極力排除されているのだ。
もちろん原作でも一家は「桜の園」に執着し続けるのだが、それは自らの没落を受け入れれば、未来に絶望しか見出だせなくなるからである。
しかし、この舞台の「桜の園」は言わば精神病院であり、彼らは「窓」という鉄格子の中に閉じ込められてはいるが、精神の欠落ゆえにかえってその心は解放されている。
ハッとさせられるのは彼らの「哄笑」を聞いた瞬間で、「感傷」を捨て去り、哀しみが狂気に変換されれば、たとえ鉄格子の向こうにいようとも、人間はこんなにも自由になれるのだ、という事実だ。実際、物語の最後になっても、一家は「さよなら」と言いつつつ、自らの立ち位置を変えることはない。彼らは「どこにも出ていかない」のである。
原作と違い、ラネフスカヤ夫人のモノローグで終わるこの「桜の園」は、子宮の中で眠る、幸福な「胎児の夢」を描いているのだ。
しかし、登場人物を全て狂人にしてしまうという大胆な手法は、反面、キャラクターへの観客の感情移入を拒むことにもなる。安易に舞台に狂人を出せないのはそのためだ。
狂人だけでなく、愚か者、僻み者、悪人、犯罪者などのアウトローに観客がシンパシーを抱くためには、彼らを相対化するための「常識人」が舞台上に必要になる。『男はつらいよ』の寅さんが乱暴狼藉を働いても「善人」と見なされるのは「とらや」の人々が彼の「本質」を見抜いてあげるからだし、『レインマン』のダスティン・ホフマンの感情の欠落した振る舞いの更に奥底に人間らしい感情があることを見抜くのは、トム・クルーズの役割なのだ。
本来なら、その役目は桜の園を買い取るリアリストのロパーヒンが受け持たなければならないところだろう。ところがベンチの上を歩き回り、舞台上で踊りまわり、たまに一円玉に足を滑らせ、さらに金をばらまく「自由度」を獲得している彼もまた、一家と同じく「狂気の人」なのである。
彼は物理的には一家を救いはするが、精神的に、“観客のために”一家を救いはしない。彼もまた観客の感情移入を拒んでいる「あちら側の人」なのである。
結果として、狂人だけの舞台は単調なものにならざるを得ないが、そうしたリスク、あるいはハンディを引き受けてなお、三浦基はこの戯曲から「感傷的要素」を除去したかったのだろう。固定化しているとも言えるチェーホフの戯曲解釈に一石を投じ、観客が安易な感動に流れることを拒絶、演劇の感動とは「涙だけではない」ということを示したかったのだと思う。
外に出て行かないラストシーン一家の姿は、そのまま「幸福な家族のポートレイト」として通用する。幸せは「狂気の果て」にも存在しているのではないか、三浦基はそう主張しているようにも思えるのである。
『Family Days -キレイで、グロテスク-』
座”K2T3
大博多ホール(福岡県)
2011/05/13 (金) ~ 2011/05/14 (土)公演終了
満足度★★★
夢と知りせば覚めざらましを
「終末」もので「疑似家族」もの。
巷に溢れている設定の物語で、新味はない。言い換えるなら、どのような展開が行われ、結末がどうなるかは概ね見当がついてしまう。
しかし観劇中、一時も目を離すことができない。それはこの舞台に、観客のイマジネーションを刺激する力が備わっているからだ。
ここで描かれる「世界が終わるまでの期間限定の理想郷」は、初めから崩壊することが約束されている。登場人物の誰もが、それが「虚構」にすぎないことを認識している。しかし、我々の住む「現実」とやらも、極めてあやふやな思い込みによって成り立っている「虚構」ではないのか。東日本大震災と原発事故を経験し、「安全神話」がいかに脆弱なものであったかを我々が自覚している今、そのことを特に痛感しないではいられない。
「多様な解釈が可能な作品ほど優れている」という言葉がある。この物語の結末が果たしてハッピーエンドなのかバッドエンドなのか、それも観る者によって受け取り方は様々だろう。脚本の三浦としまるははっきりとメッセージを込めて戯曲を書いてはいるが、それは決して押しつけがましいものではない。
ネタバレBOX
観劇中、既視感に囚われて困った。
「終わる世界の中で人はいかに過ごすか」はSF作品の一ジャンルを成しているほどに数限りなくある。
しかし「現実」にも、世界が終わることを前提にして、一つの集団が「疑似家族」を築く事例は決して少なくない。有名な例が、1960年代に、ハルマゲドンを予告し、UFOからの救済を求めて「信者」たちがコミュニティを作ろうとしたCBS(宇宙友好協会)事件だ。もちろん終末が来ることはなく、このカルト教団は崩壊していった。
この事件をマンガ『モジャ公』でパロディ化したのが藤子・F・不二雄である。終末前の社会の混乱、そして終末直前の「静かな家族」の茶の間での情景描写は、『Family Days』の「疑似家族」がテーブルを囲んだ情景ともよく似ている。「幸福な家族はみな似通っている」という『アンナ・カレーニナ』の言葉を想起しないではいられない。
ノアの箱船事件も現実の出来事だとすれば、我々人類は常に「世界の崩壊」を夢想してきたことになる。このような事件が現実に起きてしまうのは、我々の遺伝子に「死に至る病」が予めインプットされているせいだろう。だからこそ「終わらなかった世界」はかえって我々に「地獄」をもたらすことになる。
しかし三浦としまるは、劇中で何度も繰り返す。「みんな偉いよ、世界が終わるのに、電気はちゃんと通ってて、バスも電車も動いていて、みんな仕事している」。混乱は確かにある。自暴自棄からパニックを起こす人々もいる。しかし、それでも「一粒の種を撒く」人々がいること、「秩序」を希求する人々がいることを、三浦としまるは、世界が終わるまでと、“終わらなかったあと”も共通して、ためらいなく描いていく。
「崩壊」と「新生」が等価のものとして提示されるために、観客はこの虚構の物語にリアリティを感じることができるのだ。ラストでは「終わらなかった世界」に流れ星が落ちる。それは、やはり世界を滅ぼす隕石の飛来の予兆なのか、希望を託す願い星なのか、それも観客の想像に任されている。
それはすなわち、「終わりをいかに過ごすか、その決断も、我々の手の中にある」ことを明確に示唆しているのだ。
「疑似家族」たちは、崩壊の中で家族を殺され、心の壊れた少女サキを守るためにコミュニティを作った(物語は最初、サキの「本物の家族」を登場させるが、俳優はあとの「疑似家族」とのダブルキャストなので判別がつきにくくややこしい。「疑似家族」だけの物語でよかったと思う)。
彼女の名前がまだ分からぬ間、彼らはサキを「イーヨー」と呼んでいた。
それはサキが誰から何を聞かれても「いいよう」としか返事をしなかったからだが、恐らくは多くの観客が、『くまのプーさん』に登場するシッポをなくしてばかりいるロバ、イーヨーを想起するだろう。『くまのプーさん』の世界もまた、作者A.A.ミルンが息子クリストファ・ロビンのために作り上げた「ぬいぐるみたちの疑似世界」だった。そしてその「現実」に恐らく一番自覚的だったのがロバのイーヨーなのである。
『Family Days』の「イーヨー」は、気がおかしくなっているが、ナレーションを担当する時は正常な思考力で状況を正確に分析し、語っていく。彼女だけが、夢の中にいて、これが夢であると自覚している唯一の存在なのだ。狂気こそが現実の虚構性を喝破する逆説。自分が正常だと信じて疑わない人間には決して発想できない鋭い視点がそこにはある。
ねずみとり
ゲキダン大河
ぽんプラザホール(福岡県)
2011/05/10 (火) ~ 2011/05/13 (金)公演終了
満足度★
素養のないもの通しゃせぬ
アガサ・クリスティーの、言わずと知れた世界最長ロングランを現在も更新中の本格ミステリーである。
マザー・グース「三匹のめくらネズミ(劇中では『目の見えぬネズミ』と翻訳)」の調べに乗せて起きる連続殺人。クリスティーお得意の「童謡殺人」もので、しかも舞台は閉ざされた雪の山荘。集められたのは正体を隠した一癖も二癖もある人物ばかり。犯人はいったい誰か? ミステリーファンには垂涎の筋立てだ。
『検察側の証人』『そして誰もいなくなった』と並んで、謎解きの難易度が高く、クリスティー戯曲の中でも傑作と評されるが、これだけ有名な作品だと、既に犯人もトリックも一般にかなり浸透している。しかし二度、三度観ても楽しめるように数々の「仕掛け」を施しているのがクリスティー戯曲の醍醐味だ。その「仕掛け」を俳優がいかに演じきるか。観客の楽しみはその点に集中する。
ところが実際の舞台を観る限り、演出にも俳優にも、その「仕掛け」の意味が理解できているようには見えなかった。「ミステリーを愛好するには『素養』が必要だ」と主張したのはミステリー評論家兼映画評論家の故・瀬戸川猛資氏だったが、その「素養」が制作者たちには決定的に欠けているのだ。
ミステリーを書こうと思う者、舞台に掛けようと思う者は、すべからく氏の言葉の重みを噛みしめておくべきだろう。
※ネタバレBOXには、トリックについて詳細に述べておりますので、未見の方は決してお読みになりませんよう、お願い申し上げます。原作戯曲はハヤカワ文庫で読めます。
ネタバレBOX
謎解き中心のミステリー戯曲を演じるに当たって、最も難しいのは、登場人物の全てにダブルミーニングの演技が要求される点である。
犯人以外の人間もまた犯人らしく見せかけるためには、「犯人らしい行動」を取ってもらうしかない。しかし真相が明かされた後では、犯人以外の人物の行動は、どんなに犯人らしく見えていても、「別の意味があった」と観客に納得させなければならない。
たとえば、主人公夫婦のモリーとジャイルズ。
彼らは第一の事件当日、それぞれ別々に山荘を離れて事件のあったロンドンに出かけていた。なぜそのことを秘密にしていたのか、彼らはお互いをなじる。実は翌日が二人の結婚記念日で、それぞれがプレゼントを買いに行っていただけなのだが、その程度のことなら、さっさと喋ってしまえばよかったではないかと、あまりにあっけない理由に観客は唖然としてしまう。
そう観客に思わせてしまってはいけないのだ。戯曲を子細に読めば分かることだが、彼ら二人は、決してお互いを犯人ではないかと疑っていたわけではない。いや、全く疑っていなくて、ロンドンに出かけていた理由も見当がついていたのだ。なのに、妻の方は刑事から夫が犯人かもしれないと言われて、夫の方は妻が客のクリストファにご執心なのに嫉妬して、ついお互いの「秘密主義」にむかついただけなのだ。
つまりこれは最初からただの“痴話喧嘩”なので、あまり悲愴な感じで演じてはいけない。どこかに「甘さ」を残しておかないといけない。そうすれば真相が判明したあとで、「そう言えばあの時のケンカは激しいようでいてどこか相手に甘えるようなところがあったよなあ、疑心暗鬼にとらわれて怖がっていたわけでもなかったなあ」と観客は気がつくのだ。
ところが今回の舞台上の二人は、本気でののしりあっている。これは完全に解釈を間違っている。だいたい、「本気で相手を疑う」演技をされてしまっては、「二人とも犯人ではない」と観客に思わせることになるではないか。観客に「どちらかが犯人ではないか」と錯覚させるためには、演技を抑制しなければならないのである。
そして三角関係の一端を担うクリストファを、原作の男から女に変更したことも、戯曲を台無しにする結果となった。
原作のクリストファは、簡単に言ってしまえばオタクである。しかもやや病的で幼児的な。だから犯人だと疑われても仕方がなく、その彼をモリーが同情してかばうから、ジャイルズは嫉妬することになる。
それを女性に変えてしまっては、三角関係自体が成立しなくなる。舞台ではモリーとクリストファーが、ジャイルズから百合だと疑われる設定になっていたが、それじゃあ夫は嫉妬する以前に戸惑うだろう。それにクリストファが女の子だと、やたら自意識過剰なお喋りでも「この年頃の女の子にはよくあることだよねえ」で終わってしまう。殺人を犯すほどの狂人には見えないのだ。
さらにパラビチーニをやはり女に変えたのも、クリスティーの趣向を無意味にしてしまう結果になった。戯曲にしっかり書いてあることだが、パラビチーニはエルキュール・ポアロそっくりの風貌なのだ。観客はラスト近くになるまで、彼が実は名を隠したポアロではないかと疑う仕掛けになっているのだ。女性に変えてしまってはこの趣向が完全に台無しになる。
せっかくの仕掛けを全て無にしてしまっているので、「犯人じゃない」登場人物を排除していくと、結局は消去法で「犯人」が分かってしまう。あまりにもクリスティーの戯曲と乖離してしまっている。
劇団としては、男性の所属俳優が少なく、苦肉の策で女性に性別を変えたのだろうが、それならトリックそのものを変更して、新しいトリックを考案するくらいのことはしてもよかったのにと思う。
おやすみ・ザ・ワールド
非・売れ線系ビーナス
西鉄ホール(福岡県)
2011/05/08 (日) ~ 2011/05/08 (日)公演終了
満足度★★★
シュレーディンガーの猫は病気だ
いわゆる「セカイ系」の物語が、いかにゼロ年代のサブカルチャーを席巻していたか、それを今この瞬間のガジェットを積み重ね、それらに共通している現代人の逼塞した自意識を浮き彫りにしようとする意欲作。
ものすごくおおざっぱに言ってしまえば、「誰も彼もみんな自分の狭いセカイの中だけで充足しちゃってていいの?」という問いかけだ。実際にラブプラスにハマり、Twitterにハマり、虚構世界をリアルと錯覚したまま自分が「魍魎の匣」の中にいることに無自覚な人間たちには、この物語は痛烈な皮肉となって映る……はずなのだが、どうも観客の反応を観ていると、揶揄されているのが自分たち自身なのだということに気がついていないようにも見える。
「匣の中に自意識を閉じ込めた自分をいかに肯定するか」、物語はそこまでを描いてはいるが、「果たして我々は匣の外に出て行けるのか」、その先の展開は暗示のみで終わる。そこがこの物語の最大の弱点で、表層的にしか物語を捉えきれなかった観客が少なくなかったようなのも、この「落ちの弱さ」に起因していたのではないだろうか。
ネタバレBOX
作者の田坂哲郎は、これまでにもマンガやアニメ、ゲームなど様々なサブカルチャーからインスパイアされたと思しい作品を書いてきた。もっともこれまではそれらが戯曲の中に有機的に取り込まれてきたとは言えず、「借り物」に留まっていた印象が強かった。
今回はそうではない。物語は全て「セカイ系」の作品群を戯曲内に必要充分条件のものとして取り込み、それらの作品群に共通してある量子論に基づく「人間主義」を明確に批判している。
『新世紀エヴァンゲリオン』を嚆矢として、ゼロ年代のアニメを席巻した「セカイ系」の作品群は、現象としては「自分はこのままでいいんだよ」というヒキコモリ的オタクを増殖させた。自分を取り巻くセカイと、自意識との間の「ずれ」をいかに調整して自己を肯定していくか、これが全ての芸術活動の基盤にあるが、その肯定の仕方があまりにも単純で安易だったのがセカイ系アニメの弱点であった。シュレーディンガーの猫が生きているのか死んでいるのか、それを確かめようとしたアニメーションはなかったし、「ループ系」の物語に顕著な通り、「人生のリセット」はいかにも簡単なのである。田坂哲郎は、そこを鋭く突いている。
「匣の中の二億円」は、確かめられないからこそ斎藤とあやかの物語を紡いでいくが、彼らの人生が正しいのか間違っているのか、彼らはそれを確かめる方法そのものを放棄してしまっている。水嶋ヒロの『KAGEROU』のラストの「安易な再生」を思い返す時、彼の「今後」をシミュレーションして見せた(現実にはそうはならないだろうが)このエピソードの「再生など叶わない」という展開は秀逸だ。
トイレの“女”神様を初めとして、私たちが信奉する神様たちは、実は我々の外にいる存在ではないことも指摘されている。流行のガジェットによって場つなぎのギャグのように語られてしまうために見逃してしまいそうだが、「神」が人間の作った概念に過ぎないことにも目配せがちゃんとなされている。
恋愛シミュレーションゲーム「ラブプラス」の寧々ちゃんに陶酔し、袋を被った女を殺す男は、殺人という手段を取ってなお自己を超克し得ない。もともと自己の内面に閉じ籠もるための殺人なのだ。
その殺された姉を慕う弟は、その姉の膝枕でまどろみの中から目を覚ますが、もちろんそれも彼が見ている幻に過ぎない。「おはよう」の挨拶は、いったい誰に向けられたものか、定かでないまま、物語は幕を閉じる。
誰も彼もが袋を被っている状況は、顔の見えないネットの中でコミュニケーションが成り立っていると錯覚している我々自身を揶揄している。みな、自らが作り出した虚構の物語の中で充足しているだけなのだ。舞台中央に設置された「匣」は、我々が自己の妄想を閉じ込めた「魍魎の匣」である。そのことに気がつけば、我々観客が閉じ込められている西鉄ホールという匣もまた「魍魎の匣」であると理解できる仕掛けになっている。田坂哲郎は、今回、観客に一切阿ろうとはしていない。我々が安易に自己陶酔に陥ることも許そうとはしない。
仮に『KAGEROU』や『魍魎の匣』を読んでいなくても、「トイレの神様」を聞いたことがなくても、ラブプラスをやったことがなくても、Twitterにはまっていなくても(全く経験がなければ何のことを語っているのか分からない辛さはあろうが)、よほど鈍感な人間でない限り、我々がしばしば自分の作り出した虚構の物語の中に逃げ込んで、そこから踏み出そうとはしない愚かな動物であることに気付かされるはずなのだ。いや、我々は自分の愚かさすら肯定して、「バカの壁」の中にすら逃げ込みがちな哀れな生きものなのである。
残念なことに、田坂哲郎はその「みながまどろみの中にいるセカイ」を描きはするが、そこからいかに脱却するかという道しるべを示唆することはしない。恐らく、田坂哲郎はまだ「迷って」いるのだ。果たしてそのまどろみのセカイから抜け出してもまだ自己を肯定できるのかどうか。そもそも人間が自らの「虚構」のセカイから抜け出せるものなのかどうか。その「迷い」がこの物語の後半を散漫にし、結果的にふやけた印象のものにしてしまっている。
特に、これはタイミングが悪かったとしか言いようがないが、ゼロ年代アニメの集大成であり、内面世界からの脱却を図った『魔法少女まどか☆マギカ』の直後では、「彼らがまだ眠りの中にいるセカイ」を描くだけでは、それはただの「停滞」にしか見えない。
しかし、ネットの疑似世界に充足し、自らの小さな世界に閉じ籠もって、リアルな人間関係を追求し得なくなっている状況から脱却する方法を、様々なガジェットを組み合わせることで表現しようとする動きは、SFやアニメ業界では見られていたが、演劇の世界ではさほど顕著ではなかった。岩井秀人の弱点も、彼の戯曲が自己充足、自己肯定に終始するところにあった。そこから一歩踏み出す可能性、状況分析から具体的方法を総合していく方向(方向だけではあるが)を示唆したという点では、本作は充分な評価に値すると思うのである。
四つの部屋と、住人と。
演劇関係いすと校舎
西鉄ホール(福岡県)
2011/05/05 (木) ~ 2011/05/05 (木)公演終了
満足度★★
等身大の、しかし「リアル」のない芝居
アパートもの、寮ものは、ドラマでもマンガでもたいていはラブコメだ。
しかし、この四つの部屋の住人は、互いにそんなには深く関わらない。別れはある。けれども現実のアパートの引っ越しが他の住人の生活と無関係に淡々と行われるように、この戯曲の別れもありふれた点景でしかない。
戯曲家は、あえて過剰な「ドラマ」を描くことを避けているようだ。「日常」は小さな変化の積み重ねであって、さりげなく過ぎていくもの、と考えているのかもしれない。しかしその方法論は、最も日常を表現するのに適していると思われる「現代口語演劇」の手法ではない。役者たちの演技は平田オリザ以前の大仰なもので、「日常らしさ」はない。
そこに、描かれている世界と実際の演技との間に「ずれ」が生じている。それが演劇としての緊張感を喪失させる結果になった。役者も演出も真摯だ。それは充分に伝わってくるから、嫌悪感はない。しかし真摯さだけの舞台では、やはり「演劇」には成り得ていないのである。
ネタバレBOX
演劇が表現するのに最も不得手なのは、実は「日常」である。演劇で普段のありふれた生活をリアリティを以て表現することは、映画よりもテレビドラマよりもずっと難しい。
それは舞台という物理的に制限された場所を使用せざるを得ないという側面ゆえでもある。演劇がカリカチュアによって人間や世界を表現することが得意な形式だったからでもある(その意味では演劇は映画よりもマンガに近い)。極端な感情表現は描けるが、さりげない眼差しやあるかないかの微笑はクローズアップのできる映画には敵わないのである。
それら演劇が不得意としてきた微妙な感情表現を可能にしようというのが平田オリザの「現代口語演劇」であった。そしてそれは曲がりなりにも成功はしている。
しかし、いすと校舎は、「静かな演劇」の方法論を取らない。たとえば冒頭、アパートの大家は、住人たちを背にして、客席に向かって歌を歌う。一応はその方向に桜の木があって、その木に向かってという説明はされるが、それが「常に正面を向いて喋らなければならない」ことが本当の理由であることは明らかだろう。青年団の舞台のように、役者が観客にしょっちゅう背中を向けたり、台詞が重なったり、声がよく聞き取れないことがあったりと、そういった「自然な演技」は、殆ど行われない。
だから舞台上の俳優たちの演技は、実にキッチリとしているように見える。しかしそれは演技の基盤がしっかりしているという意味ではない。「日常」を演じていながら、日常が持っている「緩急」、それがないのだ。
俳優の会話は殆ど均質な間で行われる。相手の台詞を聞いてちゃんと答える、そういう間だ。しかし現実には「均質な間で行われる会話」などは存在しない。だから用意されている台詞を喋っているだけだな、ということが分かって、生身のドラマを感じられなくなってしまう。しかも演技が大仰なので、ますます舞台からはリアリティが失われていく。
カーテンをドア代わりに使ったのは、開け閉めによる時間のロスをなくすためや、部屋の中の様子が観客によく分かるように見せるためなど、理由があることは理解できる。しかし、そのために「個室」が象徴している都会の途絶感、孤独感といったものが薄れてしまったことは否めない。舞台美術としても「リアル」は犠牲になっているのである。
唯一、リアリティが感じられたのは、デビルスティックの「芸」であるが、こういう誤魔化しの利かない「芸」こそが舞台ならではのリアリティを生み出せることに気がついていながら、どうして他の演技は平田オリザ以前の新劇演技、滑舌はよくしましょう、発声はきちんと舞台奥まで届くように、客に背中を見せてはいけません、の古臭いものになってしまっているのか。恐らくは他の方法論を知らないのだ。
戯曲には戯曲が求める表現形式がある。「日常」を描きたいのならば、本物の日常が舞台上で再現できる方法論を考えればよい。私たちは日常で決して予定された台詞は喋ってはいない。アタマだけで考えた戯曲には、予定調和が多すぎてリアリティを生み出すことができない。だからこそ平田オリザは練習にエチュードを多く盛り込んだ。そういった過程の上に現代の演劇が成立していることを、いすと校舎のメンバーは知らないのだろうか。
作・演出を兼任していながら、守田慎之介は自らの戯曲に最も相応しい方法論を見つけていなかった。ここで「固まって」しまえば、いすと校舎は、ただ平凡なだけの舞台を作り続けることしかできなくなるだろう。残念である。
「吉林食堂〜おはぎの美味しい中華料理店〜」
特定非営利活動法人 劇団道化
西鉄ホール(福岡県)
2011/04/28 (木) ~ 2011/04/28 (木)公演終了
満足度★★★
罪を作るのも許すのも人の心
中国残留孤児の帰還事業が最も活発だった1980年代初頭、巷では、帰国、肉親との再会を称揚するニュースばかりが流れていた。しかし帰国者たちの言葉も通じぬ日本での生活の苦しさはなかなか報道されなかった。問題が顕在化してくるのは80年代も後半になってからだった。
物語は、福岡で吉林料理屋を営む元残留孤児の一家を通して、「あの時、何が行われたのか」を浮き彫りにしていく。深刻な問題だが、それを鬱々と描くのではなく、すれ違い・勘違い・その場しのぎのウソによるシチュエーションコメディとして構成したことには好感が持てる。深刻なものを深刻に描くのは簡単なことだが、人間はもう少し複雑なものだろう。最も悲惨な目に遭った時に笑いもする。そうした要素が随所に散りばめられていて、むりやり作られたわざとらしい笑いも少ない。おかげで全編を微笑ましく観ることができた。
しかし、反面、喜劇としての構造が弱く、俳優の演技にもやや難があるために、クライマックスに向けてのドラマが生まれ損なっていることも否めない。
ネタバレBOX
博=ケンミンさんはマサばあちゃんの息子だが、中国人の養父母に育てられて、生活感覚は中国人。日本語はカタコトで、「タイジョブ、タイジョブ、没問題(メイウェンティ)」が口癖だ。大丈夫な根拠なんて全くないから、息子と娘はハラハラするばかりだが、観ているこちらは何が起きても本当に大丈夫になりそうな大らかさを感じる。逆にほぼ日本語を習得している新一と純子の方が、逆境に弱そうで、物語を子細に見ていけば、事態のドタバタは、実はこの二人が引き起こしていることが分かる。
最近になって消息が分かって帰国してきた博の妹・さと子は全く日本語ができない。この妹の存在を母のマサには隠しておかなければならない、という状況がすれ違いとウソの喜劇を産む。
その「娘の存在を母親には隠さなければならない」事情が、残留孤児の問題に詳しくない若い人にはピンと来ないものであるようだ。マサはさと子を中国に置き去りにしただけというわけではない。軍命で「足手まといにならないように」殺そうとした。自分では殺せずに中国人の隣人に殺害を依頼した。娘が生きていたとしても、その自分の罪が消えるわけではない。いや、生きていれば、その罪を自覚せざるを得ない。娘から責められるかもしれない。
新一たちがマサばあちゃんにさと子を遭わせられなかったことには納得できる理由がある。
喜劇仕立てになるのは、ばあちゃんとさと子を遭わせないために、家族が相談をするあたりからだが、時間がずれて会わないですむはずの二人が出会ってしまう。とっさに純子は、さと子を博の恋人だとウソをつく。そのウソもいずれはばれることになるが、喜劇として弱いのは、このあとの二転三転、といった展開がなく、あっさり事態が収束してしまうことだ。
ばあちゃんが「生きていてくれてありがとう」とさと子に頭を下げるのも、実は婆ちゃんの心の中で様々な葛藤が既に解決済みだったのだろうと想像はできるが、舞台上の展開としてはどうしても「はやすぎる」という印象を拭えない。前半をカットして、このあたりの展開をもっと重層的に描いた方が、ドラマとしての深みは増したのではないだろうか。
「そのうち、日本人も中国人もない時代が来る」。
お婆ちゃんの述懐は、心が洗われるが同時に切ない。そんな時代はまだ来ていないし、多分これからも来ることはないだろうから。