わが星 公演情報 ままごと「わが星」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    First Contact:Boy meets Girl Version
     初演バージョンのDVD、昨年の北九州芸術劇場リーディング公演、そして今回の本公演と、都合三度目の『わが星』観劇体験になるが、やはり今回が最も胸に響く。
     「観客もまた劇場においては空間を構成する俳優の一人だ」とはよく言われることだ。具体的に我々が何か演技をするわけではないが、その演劇空間に身を置いているうちに、我々はいつの間にか感情を揺さぶられ、心は浮遊し、そこにあるべき何かの役割を与えられている。
     『わが星』において、我々はいったいどんな「役」を振られていたか。気がつけばめまぐるしく翻弄された我々の心は、ある時は「ちーちゃん」の中の小さな人類の一人となっている。またある時は「ちーちゃん」自身に、そして「ちーちゃん」を見守る「家族」に、あるいは「先生」になっている。そして。
     彼らへの感情移入が、我々自身を「彼らそのもの」にさせている。実際、柴幸男は、「全ての登場人物に感情移入させる」というとんでもない演出を試みているのだ。それが可能になるのは、我々の卑近な「日常」の視点と、我々を俯瞰する「宇宙」の視点とが、常に二重写しの関係となって我々に提示されているからに他ならない。
     αとωの邂逅が、恋の始まりと終わりとに重ね合わされる。ノスタルジーを我々が感じるのも無理はない。これは新世紀の『時をかける少女』の物語なのだ。

    ネタバレBOX

     パンフレットの解説で、扇田昭彦は、『わが星』の着想がソーントン・ワイルダー『わが町』から取られていることを指摘している。日常と町の歴史との二重写しの手法は確かに『わが町』から取られたものだろう。岸田國士戯曲賞の選考で、鴻上尚史は「『わが星』の面白さは『わが町』の面白さではないのか」と疑義を呈して受賞に反対した。
     しかし、『わが星』は決して『わが町』そのままではない。単に舞台を宇宙に移しただけのものではない。むしろ「宇宙」をクロニクルとして描くことが主題としてあって、二重写しはそのための手段に過ぎないと私には思われた。
     そして、その発想の中心にはレイ・ブラッドベリ『火星年代記』があるのではないかと想像していたのだが、同じくパンフレットのインタビューで、柴幸男自身からそのタイトルが口に出されたのを読んで、やはり『わが星』の叙情性は、ブラッドベリの直系の子孫であったがためのものだったのだと納得した。

     そう改めて確信して本作を見返してみると、他にも「それらしい」SF作品のガジェットが至る所に見られる。
     「恐竜」のエピソードは同じブラッドベリの『霧笛』や星新一『午後の恐竜』を連想させるし、「そのまたお母さんのお母さんの……」と遡った末に、ギャグで落とすのは、まるでラファティ『九百人のお祖母さん』だ。
     同じ時間を繰り返す「ループSF」の作品を挙げていけばきりがない。近年では映画『恋はデジャブ』が、ニーチェの永劫回帰の思想を映像化した傑作として高評価を受けている。
     時間を巻き戻して、死んだ人間を生き返らせるのもタイムトラベルものの定番だ。成功する例は映画『スーパーマン』の、あの「地球の自転逆回転巻き戻し」というトンデモな手がある。自転と公転の違いはあるが「地球の回転を逆回し」という点では本作に最も近いのはこの映画だ。
     いずれも過去のSF作品のアイデアにインスパイアされたことは確実で、間違っても輪廻とか業とか、そんなオカルティズムが入り込む余地はないのである。柴幸男は紛れもなく「科学の子」だ。

     しかし、柴幸男がこれらのSF作品をどれだけ読んで(観て)いるのか、本当のところは分からない。いや、しかし、読んでいなくてもそれはいっこうに構わないのだ。賞賛すべきなのは、これらの作品に横溢しているSFマインド――センス・オブ・ワンダーを、柴幸男が単なる模倣ではなく、自らの血肉とし、縦横無尽に組み合わせて、まさしく一つの「セカイ」を構築しているという事実なのだ。
     そしてSF最大のモチーフとしてある「ファースト・コンタクト」。それを彼はラストに持ってきた。

     「ちーちゃん」が「地球」であることは論を俟たない。「地球の擬人化」が、ちょっとませてはいるがやはり幼くわがままでやんちゃな「少女」であるとは何とも可笑しい。彼女のその性格は彼女が「死ぬまで」変わらない。彼女には「進歩」とか「成熟」というものがない。そう言われてみると、この地球は氷河期と間氷期を繰り返しているだけの、学習障碍を起こしている困った子どものように見えてくる。
     地球に対する「母なる大地」という一般的なイメージがカケラも無いのはなかなか皮肉が効いている。我々人類はきまぐれな幼い少女に抱かれているのだ。自然災害も含めて、様々な点で、我々が地球に翻弄されてしまうのも無理はない。
     そして彼女が彼女の「日常」を描き、思い出を語り始める時、彼女は地球であると同時に「我々自身」にもなる。

     では、彼女を百億年見続けてきた、「家族」と「先生」と、そして「彼(もう一人の『先生』)」は誰なのだろうか。無理にどこかの惑星や恒星を当てはめる必要はない。地球の誕生は謎に包まれている。産んだのは誰か、それは分からない。分からないけれども、地球がここにこうしてある以上は、その「奇跡」を産み出した彼ら「家族」は、間違いなく「どこかに」存在しているはずなのだ。
     そして「彼」もまた百億年、「ちーちゃん」を見続けてきた。そして「会いたい」と思ってくれた。「彼」が言葉には出さないが「ちーちゃん」に一番伝えたいと思ったのはこの言葉だろう。「We are not alone.」。『未知との遭遇』の、あの台詞である。
     谷川俊太郎がかつて詩にした『二十億光年の孤独』の中に、我々人類は、地球はいる。その孤独は、光速を越えてやって来てくれた者にしか癒せない。我々の地球は、他の星々とはあまりにも遠くて遙かな、闇の中のほんのわずかな光点に過ぎない。
     しかし我々は空を見上げることを忘れない。「ちーちゃん」は、そこにいつか出会える「友」がいることを信じている。「月ちゃん」が離れていっても、その「友」がいつか必ず来てくれることを信じている。「彼」が誰であるかを答える必要はないだろう。名前などはどうでもいい。「彼」は、我々が求めていた、我々を「超える」存在である。
     だから、私たちもまた、「もう一つの地球」のために、時を、光を超えて、彼女に会いに行くことができるはずだ。そしてこう言ってあげられる。「こんにちは」そして「おやすみ」と。

     「わが星」とは「我々の住む星」という意味だけではない。
     「彼」が、「先生」が言っていたではないか。「これは『ボクの星』だ」と。「君は、ボクのものだ」。そう言ってくれる相手に、「ちーちゃん」は、最後の最後でようやく出会えたのだ。
     これは「宇宙」の「初恋」の物語である。

     生きよう。力強く。みんな、重なりあって。

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    2011/05/22 23:26

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