おやすみ・ザ・ワールド 公演情報 非・売れ線系ビーナス「おやすみ・ザ・ワールド」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    シュレーディンガーの猫は病気だ
     いわゆる「セカイ系」の物語が、いかにゼロ年代のサブカルチャーを席巻していたか、それを今この瞬間のガジェットを積み重ね、それらに共通している現代人の逼塞した自意識を浮き彫りにしようとする意欲作。
     ものすごくおおざっぱに言ってしまえば、「誰も彼もみんな自分の狭いセカイの中だけで充足しちゃってていいの?」という問いかけだ。実際にラブプラスにハマり、Twitterにハマり、虚構世界をリアルと錯覚したまま自分が「魍魎の匣」の中にいることに無自覚な人間たちには、この物語は痛烈な皮肉となって映る……はずなのだが、どうも観客の反応を観ていると、揶揄されているのが自分たち自身なのだということに気がついていないようにも見える。
     「匣の中に自意識を閉じ込めた自分をいかに肯定するか」、物語はそこまでを描いてはいるが、「果たして我々は匣の外に出て行けるのか」、その先の展開は暗示のみで終わる。そこがこの物語の最大の弱点で、表層的にしか物語を捉えきれなかった観客が少なくなかったようなのも、この「落ちの弱さ」に起因していたのではないだろうか。

    ネタバレBOX

     作者の田坂哲郎は、これまでにもマンガやアニメ、ゲームなど様々なサブカルチャーからインスパイアされたと思しい作品を書いてきた。もっともこれまではそれらが戯曲の中に有機的に取り込まれてきたとは言えず、「借り物」に留まっていた印象が強かった。
     今回はそうではない。物語は全て「セカイ系」の作品群を戯曲内に必要充分条件のものとして取り込み、それらの作品群に共通してある量子論に基づく「人間主義」を明確に批判している。
     『新世紀エヴァンゲリオン』を嚆矢として、ゼロ年代のアニメを席巻した「セカイ系」の作品群は、現象としては「自分はこのままでいいんだよ」というヒキコモリ的オタクを増殖させた。自分を取り巻くセカイと、自意識との間の「ずれ」をいかに調整して自己を肯定していくか、これが全ての芸術活動の基盤にあるが、その肯定の仕方があまりにも単純で安易だったのがセカイ系アニメの弱点であった。シュレーディンガーの猫が生きているのか死んでいるのか、それを確かめようとしたアニメーションはなかったし、「ループ系」の物語に顕著な通り、「人生のリセット」はいかにも簡単なのである。田坂哲郎は、そこを鋭く突いている。
     「匣の中の二億円」は、確かめられないからこそ斎藤とあやかの物語を紡いでいくが、彼らの人生が正しいのか間違っているのか、彼らはそれを確かめる方法そのものを放棄してしまっている。水嶋ヒロの『KAGEROU』のラストの「安易な再生」を思い返す時、彼の「今後」をシミュレーションして見せた(現実にはそうはならないだろうが)このエピソードの「再生など叶わない」という展開は秀逸だ。
     トイレの“女”神様を初めとして、私たちが信奉する神様たちは、実は我々の外にいる存在ではないことも指摘されている。流行のガジェットによって場つなぎのギャグのように語られてしまうために見逃してしまいそうだが、「神」が人間の作った概念に過ぎないことにも目配せがちゃんとなされている。
     恋愛シミュレーションゲーム「ラブプラス」の寧々ちゃんに陶酔し、袋を被った女を殺す男は、殺人という手段を取ってなお自己を超克し得ない。もともと自己の内面に閉じ籠もるための殺人なのだ。
     その殺された姉を慕う弟は、その姉の膝枕でまどろみの中から目を覚ますが、もちろんそれも彼が見ている幻に過ぎない。「おはよう」の挨拶は、いったい誰に向けられたものか、定かでないまま、物語は幕を閉じる。
     誰も彼もが袋を被っている状況は、顔の見えないネットの中でコミュニケーションが成り立っていると錯覚している我々自身を揶揄している。みな、自らが作り出した虚構の物語の中で充足しているだけなのだ。舞台中央に設置された「匣」は、我々が自己の妄想を閉じ込めた「魍魎の匣」である。そのことに気がつけば、我々観客が閉じ込められている西鉄ホールという匣もまた「魍魎の匣」であると理解できる仕掛けになっている。田坂哲郎は、今回、観客に一切阿ろうとはしていない。我々が安易に自己陶酔に陥ることも許そうとはしない。
     仮に『KAGEROU』や『魍魎の匣』を読んでいなくても、「トイレの神様」を聞いたことがなくても、ラブプラスをやったことがなくても、Twitterにはまっていなくても(全く経験がなければ何のことを語っているのか分からない辛さはあろうが)、よほど鈍感な人間でない限り、我々がしばしば自分の作り出した虚構の物語の中に逃げ込んで、そこから踏み出そうとはしない愚かな動物であることに気付かされるはずなのだ。いや、我々は自分の愚かさすら肯定して、「バカの壁」の中にすら逃げ込みがちな哀れな生きものなのである。
     残念なことに、田坂哲郎はその「みながまどろみの中にいるセカイ」を描きはするが、そこからいかに脱却するかという道しるべを示唆することはしない。恐らく、田坂哲郎はまだ「迷って」いるのだ。果たしてそのまどろみのセカイから抜け出してもまだ自己を肯定できるのかどうか。そもそも人間が自らの「虚構」のセカイから抜け出せるものなのかどうか。その「迷い」がこの物語の後半を散漫にし、結果的にふやけた印象のものにしてしまっている。
     特に、これはタイミングが悪かったとしか言いようがないが、ゼロ年代アニメの集大成であり、内面世界からの脱却を図った『魔法少女まどか☆マギカ』の直後では、「彼らがまだ眠りの中にいるセカイ」を描くだけでは、それはただの「停滞」にしか見えない。
     しかし、ネットの疑似世界に充足し、自らの小さな世界に閉じ籠もって、リアルな人間関係を追求し得なくなっている状況から脱却する方法を、様々なガジェットを組み合わせることで表現しようとする動きは、SFやアニメ業界では見られていたが、演劇の世界ではさほど顕著ではなかった。岩井秀人の弱点も、彼の戯曲が自己充足、自己肯定に終始するところにあった。そこから一歩踏み出す可能性、状況分析から具体的方法を総合していく方向(方向だけではあるが)を示唆したという点では、本作は充分な評価に値すると思うのである。

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    2011/05/09 03:37

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