シラノ・ド・ベルジュラック
東宝/ホリプロ
日生劇場(東京都)
2018/05/15 (火) ~ 2018/05/30 (水)公演終了
満足度★★★★
新しいシラノである。もともと、これは仁義の話で、極端な鈴木忠志の手にかかると日本の葉隠と重ね合わせたりするシリアスドラマである。ところが今回のマキノ台本、鈴木裕美演出のシラノはやたらに明るく元気がいい。役者も、吉田剛太郎に黒木瞳。それに新人(見た回は白洲迅・大声になるとマイク使いがうまくなくて台詞が通らない)の士官役。この三人に軸を置いて、愛情の行き違いを、テンポよくショーの感覚で見せていく。冒頭の百人斬りを始め、有名な影の声で口説くシーンなど、それだけを面白く見せることに集中している。そのためか、六角精治の役など、物語はつながりにくくなっている感じだ。だが、原作のシーンは殆ど踏襲しているので、長い。3時間15分。これは名場面集のようにピックアップしてやっても面白かったのではないか。もてあましているシーンもなくはない。とにかく、主演者二人の湿っぽくならない芝居で劇場は大いに沸く。ピアノとドラムスのだけの音楽ながら音楽劇風な作りのシーンもあり、こういうシラノもあるかと、新鮮で楽しめた。
消す
小松台東
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2018/05/18 (金) ~ 2018/05/27 (日)公演終了
満足度★★★★
通夜ではないが、誰かが死んで、人々が動き出すという設定は実によくある。これは父親死後三か月、故郷を守る弟のところに都会でも食い詰めているらしいきらわれものの兄が帰ってくる、一族迷惑、という、菊池寛みたいな古めかしい話だ。宮崎の閉鎖的社会を舞台にした家族物語だが、新しい発見がない。劇団員に役を振るためか、無用に複雑な人間関係である。1時間半しかないのにホンが行き届かず、何をしていいやらと立っているだけの役者もいる。家族近隣だからわかりあっているような、いないような微妙なところでドラマを作ろうとしているのだがそういう努力は、戯曲練習と劇団内練習で十分練ったうえでに、公演にしてほしい。
図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの
イキウメ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2018/05/15 (火) ~ 2018/06/03 (日)公演終了
満足度★★★★
いかにもイキウメらしい三つの短編集である。
総タイトルに「襲ってくるもの」とあって、いかにも禍々しいが、日常的に現代人に襲ってくるものの不可解さを芝居にしている。まずは現代科学。次は制御出来ない本能的行動。最後はコミュニケーション、ということになろうか、いずれも現代では完全に制御することはできない。そこを頼っているかのような、あるいは完全が可能であるかのように信じたい現代への警告と言おうか。過去になんどもこのようなテーマを扱ってきたイキウメである。そこは、この劇団特有の舞台にまとめている。
だが、今回の素材は、かつて、同じような短編から出発して、近未来的な面白い一夜芝居に仕上がった内容に比べると、奥行きがない。本質的に短編的な素材に見えた。
長年こだわって改変を続けてきた長編「散歩する侵略者」が昨秋の公演で一応「出来上がった」ので、ちょっと骨休めの公演だった。
切られの与三
松竹/Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2018/05/09 (水) ~ 2018/05/31 (木)公演終了
満足度★★★★★
コクーン歌舞伎が、再び新しい歌舞伎の面白さを見せてくれた。
補綴の木下祐一は、歌舞伎を若い観客を含めて小劇場で見せてきた。その彼もそろそろ40歳。青年期を脱するところで大きな商業劇場での公演である。演出の串田和美はオンシアター自由劇場を率いてこの劇場の芸術監督を長く務めて還暦を越えた。花形女形の七之介も三十歳半ば。ここで一つと言う課題を持つ芝居者が集まって、その情熱が勘三郎亡きあとのコクーン歌舞伎に新魅力を加えた。
劇評はすでに渡辺保さんがネットの「歌舞伎劇評」で詳しく述べられている。早い!いつも通り、なるほど、と思う行き届いた劇評でこれを読んで出かけるとツボがよくわかる。
この渡辺さんが芝居見物の面白さは舞台で繰り広げられる人間の「官能のしたたり」を観客が受け取ることだと書いている。この芝居、必ずしも全体がよく出来ているのではなく、洗い直してほしいところもあるのだが、舞台が非常に官能的であることは特筆すべきだろう。ことに私は渡辺さんがあまり触れられていない三幕の伊豆家から大詰めが、今まで見たことがなかったせいもあってか、この芝居にこんな後半があったのかと動かされた。ここで、お富が与三郎の傷を数えながら夢多き人生を回顧する甘やかな場面、義理の親とのいきさつ、最後の大どんでんがえし、今回の工夫だろうが、大詰めのゆすりの台詞が全く意味が違って聞こえるあたり、実に見事なもので久しぶりに「堪能」した。
今回は下座は幕開きの録音邦楽を除くとナマのコンボ編成の洋楽で、幕間にも演奏があったりするが、ここぞというところで、必ずと言っていいほどポロロンと音楽が始まるのは数重なると耳障りになる。それがなくても大丈夫なほど役者もうまくなっている。
七之介は女方だから、本当はニンではないが、大健闘。梅枝も同じく大健闘。萬太郎・梅松が、与三の弟夫婦で短いシーンにしか出てこないが、これが初々しく役を務めて、この芝居の清涼剤にもなっている。
美術は串田和美で、白木の骨を使った抽象道具でそっけない。木下歌舞伎はいつも小道具に凝っているのだが今回は大劇場と言う事もあってかそこはなかった。
グッド・デス・バイブレーション考
サンプル
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2018/05/05 (土) ~ 2018/05/15 (火)公演終了
満足度★★★★
楢山節考の現代版、と言う事だが、こちらは未来の話なっている。しかし、その設定も中央にテントのようなぼろ小屋があり、廃棄物に囲まれていて、何やらのんびりした調子の音楽から始まると
雰囲気としてはかつての近未来デストピアもの名作「寿歌」のようなファンタジーか、と思っているとさにあらず、原爆が始終落ちてくるような世界ではないが、いつの間にか、環境もモラルも荒廃してかつてはそういうもんがあったという記憶の中でただただ死の船出を待っている市民の話と分かってくる。格好だけつけたくだらない新国立の「1984」を見たばかりなのでおぉっと見なおした。はるかに現代の現実的な設定を踏まえたデストピアものなのだった。
注文が二つ。一つは照明。全体に暗すぎるのではないか。よく見えない世界と言う劇的設定もあるかもしれないが、やはり場面の明るさ、ポイントの当て方のメリハリは必要である。観客がつかれる。二つめはかなり場なれた俳優たちがやっているのに、間口の広い劇場での台詞の発声がうまくない。横長の観客席なので両脇の観客にも台詞が届くように。これは青年団系の劇団共通の課題だと思う。これでは50人規模の劇場でしか通用しない。今回の公演、300人規模の客席に平日の夜ほとんど満席に近かった。久しぶりのサンプルの登場と松井周を観客は期待している。まずは期待にたがわずということだろうが、前半少しだれるところもある。物語性が強いこの手の作品では、テレずにストーリーテリングもうまく運んでほしいものだ。
「ヒナ」の使い方のうまさと、絵文字日記が時代を記録しているところ、ホントにうまいと思った。金ばかりかけた新国立をそれだけで凌駕している。
731
パラドックス定数
シアター風姿花伝(東京都)
2018/04/24 (火) ~ 2018/05/02 (水)公演終了
満足度★★★★
この劇団お得意の歴史事件ものである。三億円事件は面白かったが、これは70年前、となるとさすがに観客も馴染みがなさそうだ。満州の731はもっと古い話で、軍隊亡き今ますます縁遠い。いつもの通り、会議ドラマであるが、今回は少しすべった。
一つは内容で、事件ものをやるならそれが、今上演される時代と何らかの意味でつながらないと面白くない。帝銀事件の真犯人探しは、今の客にはなじみが薄すぎるし、731はさんざんドキュメンタリーで掘り返されていて、どうにでも作れるが新鮮さに欠ける。劇場が犯行現場の椎名町に近いとか、被害者が運び込まれたのが隣りの聖母病院だ、などと言う事は末梢的なことしかな
い。今やるなら、化学兵器に現代人としての科学者がどう向き合ったか、と言う事に尽きると思うが、そこは深みがなく科学者の「生活」と「良心」と言った程度の議論に終わっている。15年前の作品と言うが、こういう劇は時代とともに書き直していかないと観客の気持ちをそいでしまう。連続公演に水を差すようだが、歌舞伎でも、「洗う」と言って、再演の度に洗い直して工夫しているのだ。それが生でやる芝居の義務でもある。
二つ目は、この劇団の俳優の力である。もっとちゃんと訓練して舞台に上がってほしい。この小さな劇場で後ろの席(たった5列!)に声が届かない。劇場に不相応に空調があって音が大きいと言う事もあるがまず、俳優の声をそろえるという基本が出来ていない。ちょっと横に振ると聞こえなくなる。こういう「技術」はちゃんと学ばなければ。舞台なんだからその不自然は俳優が克服することだ。
ヘッダ・ガブラー
シス・カンパニー
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2018/04/07 (土) ~ 2018/04/30 (月)公演終了
満足度★★★★
こんなに客席が笑う「ヘッダガブラー」は初めてだ。今現代劇をやらせればトップクラスの俳優を並べた久しぶりのヘッダガブラー、大劇場の大公演である。こういう座組みは、よかれあしかれ、今や、シスカンパニーにしかできなくなった。
客が笑うのは、もっぱら、人物と場面のずれと言ったところだが、今まではそういうところは人物が孤立していく悲劇的シーンだった。つまりは、資本主義時代を迎えて崩壊しかけている前時代のモラルの中で、行き場を見つけられない人々を描く悲劇、ことに女性の悲劇、が今までのヘッダガブラーである。
いつものように栗山演出は行儀よく、場面を重ねていく。演出の意図に、お互いに理解しあえない人々、はあるだろうが、笑わせようという意識はなかったのではないかと思う。しかし、寺島の行き場のない勝手次第のヘッダにも、夫の小日向の場の読めないオロオロぶりにも、段田の判事のセクハラにも客はよく笑う。それは時代の反映だから仕方がない。
劇中、、現実妥協派の水野美紀が役がもっとも時代に近いせいか、この曲者ぞろいの配役に埋もれず、生き生きと演じて、大健闘だった。
十二夜
演劇集団円
シアターX(東京都)
2018/04/20 (金) ~ 2018/04/29 (日)公演終了
満足度★★★★
どうして新劇団がこの芝居をやりたがるのか、不思議だ。内容にまったく主張なく、変革の遺志もなし、取り違えの笑いだけが面白い芝居なのにどこの新劇団も一度はやっているはずだ。
もう一つ、最近の新劇団には学者演出家がいなくなった。これは必ずしも功だけでなく、先生ご出馬で碌なことにならなかった芝居も過去にはたくさんあった。それは大方が翻訳が機縁になっていて、先生方も女優に囲まれるのがうれしかったのだろうがそういう牧歌時代は終わった。
さて、「十二夜」の安西徹雄追悼公演は新劇の円である。故安西先生は学者と言っても、象牙の塔型でなく、結構舞台のこともよく知っていた。演出の時、最初役者にやって見せるのがやたらにうまかったので、役者どもが恐れ入った、と言う逸話もあるが、苦労して東京に出てくる前は出身の松山で放送劇団や地方演劇で若きスターだった。学者としてもシェイクスピア学会の会長もやったくらいだから文武両道の珍しい学者だった。十二夜は主張はともかく、役者がやって嬉しくなる人情の機微が満載されている戯曲で、多分小理屈疲れの新劇団の清涼剤になっていたのだろう。安西先生のシェイクスピアはこのメール版や、日本に舞台を移した{確か}間違いの喜劇や、ぺリグリースの日本初演など、変わったものが多かった。蜷川の歌舞伎座が「十二夜」としてはキマリのできだったが、こういう小劇場の「十二夜」も捨てがたい。
1984
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2018/04/12 (木) ~ 2018/05/13 (日)公演終了
満足度★★★★
二十世紀文学の代表作の近未来SF、多くのデストピア小説の元祖的な作品である。この小説、イギリスでは、誰でも知っているが誰も読み通せないという小説だそうで(文庫解説)なるほど、仕掛けがたくさんあってムツカシイ。しかし、この劇化にあたっては、そこをうまく利用して舞台化、世情がきな臭いこともあって、イギリスで大当たり、ついでアメリカでも当たったと言う事で急ぎ、政情不安、小説そっくりの北朝鮮もみじかにある我が国での上演となった。
原作は1946年に書かれて、ほぼ四半世紀後のデストピアを描いている。今は2018年。小説の世界は固定しているから、かつて未来であった世界は今となっては過去、SFの世界が時代劇の世界になっているという奇妙なことになってしまった。もちろん舞台設定の時代を過去にして未来のデストピアとしても芝居は作れるが、この作品は一ひねり。小説の最後でさらに未来を予測してそこで使われる言葉(全体主義のための二重思考の言語、ニュースピーク)の解説が書かれているが、さらに未来にその言葉によって、この1984年という本を、人々が学習する、と言う枠を作っている。これで、SF的な物語の構造が落ち着いた。
この枠の中で、かなり忠実に手際よく原作の物語が進行する。しかし、映画でもないからデストピア社会を大セットで組むわけにもいかず、原作の全体主義管理社会の中で出会う男女のラブスト-リーが、ほとんどノーセットの舞台で演じられる。
演出は今秋から芸術監督になる小川絵梨子。せっかく時宜タイミングよく、全体主義志向の政府下の公演(それで英米でも話題を呼んだ)なのに文化庁官僚への忖度か小劇場風に小ぎれいにまとめている。時代感覚がないから客席もわかない。これでは井上芳雄ファン以外に客は広がらない。秋からのラインアップも発表されているが、エエッツと言う小粒な作品が並んで、全方位的な抱負は殆ど反映していない。官制劇場のヒラメ監督でなく、国民の方を向いてくれないと、公務員だけが観客ではあるまいし、先が思いやられる。
最後の炎
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2018/04/14 (土) ~ 2018/04/28 (土)公演終了
満足度★★★★
ドイツの作家の新作である。イスラムのテロで揺れるヨーロッパの市民生活の現在を表すようなコラージュである。こういうスタイルの現代演劇の始祖はブレヒトだからドイツの作家が受け継いで展開させていくのはごもっともであるが、この作品に限っては、日本の観客に届くには距離がある。戯曲の内容はそれほど特異なものではなく、イスラムのテロや難民問題だけでなく現在のヨーロッパが直面する高齢者問題、家庭の崩壊、市民社会のモラルの問題なども素材にしていて、一般性もあり、現代社会をトータルで舞台に乗せてみようという作者の意図なのだが、演出のスタイルが大上段に構えた前衛風なので、観客も受けて立つのが大変である。
フォトグラフ51
フォトグラフ51制作実行委員会
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2018/04/06 (金) ~ 2018/04/22 (日)公演終了
満足度★★★★
科学者を主人公にするのは珍しくなくなったが、演劇と自然科学は文化としても対極にあるもので、現代劇の素材としても興味を引く。
しかし、これは、1950年代の女性科学者が主人公で、研究内容も出てくるが科学の唯一真実性を信奉する科学者の人間ドラマである。2015年ロンドン初演の創作劇で、この公演は外国人の演出家を迎えての日本初演だ。最新の芝居を簡単に見に行くことが出来ないこの国のシアターゴーアーズにとってはありがたい企画だ。この舞台はロンドンの後はニューヨークでも上演されたようで、今の英米演劇の一端を知ることができる。
ロンドンではニコールキッドマンが主人公を演じていろいろ賞も取っている。映画でおなじみの俳優だからその芝居ぶりが想像できる。男社会のイギリスのオックスブリッジの科学者社会のなかで、研究だけが生きがいの女性科学者のノーベル賞ものの発見が抹殺されてしまうというこの話が、今も芝居になるほど関心をもたれるのは、欧米の性差別もなかなか根が深いと思う。舞台は主演以外はすべて男性キャストで、イギリスの男社会で身を処していく男たちのいやらしさが短くフラッシュ的に重ねられる。最近の海外戯曲によくあるシーンよりも証言を重ねる形式である。
その戯曲と、舞台の速度を重視した演出がこの公演の日本上演の成否を分けた。
Farewell(フェアウェル)
松本紀保プロデュース
サンモールスタジオ(東京都)
2018/04/06 (金) ~ 2018/04/15 (日)公演終了
満足度★★★★
小劇場は、若者演劇でどうしても舞台も登場人物も20歳代が中心になるが、これは30歳代から40歳代までの現代人ドラマ。芝居もオーソドックスな人間ドラマになっていて、この作家の舞台を見たのは初めてだが、世評の高さが納得できた。
登場人物に現代の息遣いがある。ことに女性たちの生きの良さ、いつも聞こえてくるような現代女性語を見事に台詞にしている。今の男たちのだらしなさもよくかけていて、現代人の生活と心情をよく観察していると感心した。
話の軸は二組の離婚した夫婦(松本紀保と伊達暁)と、その夫にまつわる二人の女、離婚はしていない一組の夫婦(久保貫太郎、柿丸美知恵)、の男女の、言ってしまえば中年の自分探しなのであるが、若者とちがって、話は煮え切れない。中年の自分探しが直面する濁った愛や嫉妬がなかなかうまく描かれている。女性が労働者としても機能するようになった現代の市井のよくある話であるが、今まであまりこういう小劇場で「ストレイトプレイ」として芝居になってこなかった。この舞台では、べたにやるとテレビの昼メロみたいになりそうな話を危惧してか、物語の進行を逆にしている。これはちょっと凝り過ぎで、観客も前後混乱する。登場人物もあと二人くらいは整理したほうがいいように感じた。その分、折角の女性から見た職場の人物関係や、高校時代の交友関係、街中で触れる人間関係などが薄くなってしまった。俳優は制作した松本紀保が知っている俳優で組んだのか、作者も配慮したとみえ、適材適所。小劇場にありがちのボロが出ていないところはよかったが、舞台のセットが俳優にとっては動きにくそうなのが気になった。そこは、劇場が60人規模のスペースでは仕方がないか。
しかし、地に足を付けた素材と切り口でイマドキ芝居としては十分楽しめたから、松本紀保プロデュースという一回限りの舞台ではもったいないとも思う。客も満席ではなかったが、老若男女いいバランスの客席だった。
悪人
テレビマンユニオン
シアタートラム(東京都)
2018/03/29 (木) ~ 2018/04/08 (日)公演終了
満足度★★★★
原作モノを舞台化して成功させるのは容易ではない。ことにこの原作は、新聞小説で新しい側面を開き、ベストセラーにもなり、映画化もされ、それがベストテンにも挙げられている人口に膾炙している評価の高い作品で、観客の方もすでにこの素材に触れている。早い話、私は原作も読み、映画も封切の時に見、改めてDVDを見て劇場に行った。
演劇としては、屋上屋を架すだけの表現をしなければならないわけでハードルは高い。
素材は佐賀県の典型的な地方に生きる人々の荒涼たる孤独をきわめて現代的な風景の中で多角的に描いたもので、発表以来十年を超えても、いまなお新鮮さを失っていない。作品の中の人間たちの配置も物語もよく考えられていて、それが主人公たちの最後の道行きに収斂されていく。小説の世界を映画はほぼストーリーを追って、演出の映像のリアリズムと俳優の好演で、再現して優れた映画になった。
演劇は、場を舞台にせざるを得ないし、俳優の数にも限りがある。公演の時間で完結するように脚本を組まなければならない。条件が悪い中で、テレビ出身の脚本演出が選んだのは、原作の最後の部分にあたる主役男女の幼い頃の心に残った燈台への道行きに絞る、と言う工夫である。さらに、独白を多用して、短い時間で大部の小説の世界を拾う。その結果、二人の男女の演劇的な絡みよりも語りドラマのような舞台になった。この便宜的のようにも見える手法が、意外に登場人物二人の孤独を浮き出させることになった。終盤は手紙の朗読が続くがこれも効果をあげた。演劇としてはこうだ、という独自性は出せたし、劇場と言う狭い空間でうまく素材を生かせたと言える。1時間25分。映画が大作で2時間15分あったわけだから、ずいぶん思い切った舞台化である。
Ten Commandments
ミナモザ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/03/21 (水) ~ 2018/03/31 (土)公演終了
満足度★★★★
何も横文字でタイトルにすることはないようにも思えるある科学者の「十戒」を素材にしている。その科学者はアインシュタインと共に原爆(原子力の利用開発)の開発推進をしたレオ・シラードと言うユダヤ人で、その動機はナチスドイツに原爆の先行を許さないため、と言う事で、実験成功後はナチスの崩壊もあって日本への原爆投下には反対した。野に下った後は、ミステリやSFも書いたと言うが、寡聞にして知らなかった。
しかし、ここでは奇人風につたえられるジラード本人の活動よりも、彼が書いたという「十戒」の中に、現在の原子力と向き合う(大きく言えば)人類の課題があると、劇作家は読んだのであろう。舞台は白でまとめられた一室、占部房子の劇作家が、原発事故以後言葉を失って夫と生活している。夫との言葉のない生活や、つきあいのある技術系学生たち、アインシュタインなどの先人に向かって書く手紙、などがコラージュされていて、「十戒」が検証される。もともとの「十戒」が、矛盾に満ちていて、そこが現在の巨大社会に向かう人間の現在と交差している。原子力に限らず、人間が発明発見をしておきながら制御できなくなっているものが多くなっている今、このテーマは興味深い。かつてのように人間が制御にあたって使える単純な大衆的な倫理(乱暴に例を挙げればキリスト教のような)を失っている中で、劇作家は言葉を失ってしまうのである。この状況に向かうにはどうすればいいのか。もちろんそういう課題に簡単に答えが見つかるはずもない。
ブラインド・タッチ
オフィスミヤモト
ザ・スズナリ(東京都)
2018/03/19 (月) ~ 2018/04/01 (日)公演終了
満足度★★★★
昔の坂手には、素材とテーマの間に距離を置き、そこに倫理論理で割り切れない人間性を潜ませ、そこから現代社会を告発するという形で成功した作品があった。2002年に新劇団に書いて岸田今日子・塩見三省が演じた旧作の再演は男闘呼組の高橋和也と文学座の都築に二人芝居。最近の燐光群の作品にない演劇的な面白さがある。
反政府の大衆運動を抑圧しようとする権力の犠牲になって十六年もの刑務所生活を強いられた男が、獄中結婚をした六歳年上の女(妻)のもとに釈放されて帰ってくる。アパートの一室が舞台で、出獄の日、日常を回復しようとする日、沖縄の支援者への旅を試みた日、新聞配達をする日の4場。男が元バンドでピアノをひいていたという設定をうまく使って効果を上げている。
権力がこのような理不尽を行うのは珍しいことではなく、時に、身も蓋もない権力の暴力に出ることはあり、今もまさに森友問題で籠池夫妻を長期拘留している。民主主義社会の人権の視点から言えば許されない、と言ってしまえば簡単な正邪の政治劇で成立するが、それではただのプロバカンダ劇でシュプレヒコールの景気づけにしかならない。かつての新劇にはそういう作品は数多くあって辟易したものだが、この作品はそこからは危うくのがれている。素材となった実話が背景にあるらしく、時に正義感を押し売りされる最近の燐光群の芝居とは一味違う。ほとんど冤罪と言ってもいい男も、実際にいたらさぞウザそうな年上の女も、リアリティがあり、いつもは燐光群節で語られるセリフも肉体化されている。高橋和也好演。都築は難しい役どころで、正義感だけでなく、嫌味なところもやらなければならないのだがその出し入れがうまい。ピアノともよく取り組んでいる。
見ているうちにかつての円の舞台を見ていることを思い出したが、時代性が欠かせない素材で、芝居を生かしていくのはとても難しいことだ痛感した。しかし、しかし、坂手にはこれだけの芝居を組める力量がある。ここの所多くなった素材直結の社会派正義芝居ではなくて、こういう人間の息遣いのする演劇を見たいのである。芝居の中でも言っているではないか、「再出発することは人生で必要だ」と。
あるサラリーマンの死
タテヨコ企画
Galeri KATAK・KATAK(東京都)
2018/03/07 (水) ~ 2018/03/18 (日)公演終了
満足度★★★★
ご近所のスペースでの上演。下駄ばき気分で出かけた。こういう形で小劇場を見るのは珍しい経験だった。狭いスペースの既設の場所をうまく使って奥行きのある舞台を作った美術がうまい。客席三十。1時間45分。この条件の中で、一つの家族の昭和から平成に至る約50年を過去現在をフラッシュバック的に描きながら描くのだからかなり大変で、そこはうまく筋を通している。作演出の横田修ももうかなり長くなってその辺の技術はできている、俳優たちを良く稽古が出来ていて、不便なスペースでこちらも大健闘である。目の前で行われるわけだから、演劇はナマの力、が生きていやでも見てしまう。そこまではご苦労様でいいのだが、芝居の中身は物足りない。群馬の田舎から出てきた青年がいよいよ定年になるという話、と言えば浮かぶようなエピソードが多く、兄弟の葛藤、夫婦の行き違い親族の不協和など、ホームドラマだからこの条件では多くを注文することは酷だが、よくある話によりかかりすぎている。俳優では、主演の西山隆一は張り切りすぎて一本調子が惜しいが筋を通して。あとは舘智子、青木シシャモ、藤谷ミキ、坂口修一、矢内文章は手の内の芝居だろう、安心して見ていられる。ご近所芝居としては観客には楽しい芝居にはなっているのだが、さて、演劇の成果となると、ホームドラマとして新しい視点があるわけでもなく、新しい人間像が出るわけでもなく、社会的なユニークな主張が強いわけでもない。また、まとまりはいいこの芝居をもう少し大きなスペースでやるとしてもせいぜい100までだろう。やってみるという試演の成果もなさそうだ。ここで今しか見られないとすると随分贅沢な経験をしたことになる。
何しても不謹慎
箱庭円舞曲
駅前劇場(東京都)
2018/03/08 (木) ~ 2018/03/13 (火)公演終了
満足度★★★
東北の小さな村に伝わるお祭りの実施を検討する実行委員会の月々の会議を一年間にわたって見せる。既に形骸化している祭りをやめるにしても続けるにしても、責任を押し付けられる形になった委員会の右往左往であるが、いかにも現在の日本の各地で起きていそうな話の進行で、それが大きな政治への皮肉になっている面はあるとはいえ、話題も人間像も常識的な展開で、その結果もまた平凡である。それがリアルであればあるほど、芝居としては見どころがない。この作者、どこかでいい本を見た記憶があって、自分の劇団と言うこの小劇場を始めてみたが、最近の小劇場の習いでほとんど自前の劇団員はいなくてプロデュース公演とさして変りがない。劇団の色もはっきりしない。目立つ俳優もいない。正直、退屈した。観客席の中央を割って中央に置いた舞台の会議場を両方から見る趣向。1時間40分。
罠
俳優座劇場
俳優座劇場(東京都)
2018/03/09 (金) ~ 2018/03/17 (土)公演終了
満足度★★★★
ミステリ劇ベストテンをやれば必ず上位に入る名作。よく上演されるが、今回は俳優座が主導したと見える新劇団からの俳優の合同公演で文学座の松本裕子の演出。よく出来た本なので大丈夫と踏んでか、タレントを軸にした公演もよくやるが殆ど面白くない。数あって勘定足りず、になる。今回は新訳で、元戯曲に忠実らしく、ウエルメイドプレイはかくあるべし、と言う典型的な出来で久しぶりにこの本の良さが出た。俳優陣もよく本を飲み込んでそういう点ではいいのだが、新劇も層が薄くなって、年齢に合わせて配役が出来ない。石母田も加藤忍もいい役者でこの公演も十分役割を果たしているが、年齢は小劇場ではごまかせない。ここはやはり、若い無軌道な感じが残る役者の出番だ。上原も乾電池とは勝手が違う。そこへ行くと老年の方は層が厚い。石住は貫録十分、鵜沢・清水も新劇の良さを出している。ことに石住はよくこの舞台を支え切った。かつてこの劇場を沸かせた三島雅夫の芝居を思い出した。
埋没
TRASHMASTERS
座・高円寺1(東京都)
2018/03/01 (木) ~ 2018/03/11 (日)公演終了
満足度★★★★
日本新劇伝統・お得意の近代化による農村崩壊劇である。トラッシュマスターも新しい視点と言う意気込みで、公と私、メディアの浅薄さなどのテーマを取り入れているが、農村封建社会をうーんと納得させるようにも、これからはこうだよ、という風にも切れなかった。日本の農村問題はどこにも遍在していて、人間関係も問題も根深い。私はいささか四国の農村をしっているが、ここは関東者には理解できない奥の深さである。多分作者はそれを知っていて、この解りやすさにとどめたのだろう。素材も劇的対立もいつもの鋭さがない。役者もなつかしや、山本亘が客演しているが、これはトラッシュマスターズの俳優たちとは、質が違い過ぎて(良し悪しを言っているのではない)効果を挙げなかった。
岸 リトラル
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2018/02/20 (火) ~ 2018/03/11 (日)公演終了
満足度★★★★
数年前、この劇場で高い評価を得たレバノンの作家の自分探しのドラマ。中東の舞台だから、日本とはずいぶん違って戸惑う挿話も多いがそれを越えて人類に普遍的に共通する親子関係や死との直面、を織り交ぜて青年の自己のアイデンテティのドラマにしている。自分探しの旅をする亀田が既に死んでいる父・岡本を背負って旅をするという設定もこの場所だから受け入れられる。
上村聡史の演出は一つの瀬とだけで3時間半を持つのだから随分気合が入って長丁場だけに肩がこるが、この話だから仕方がない。それより俳優陣がぼろを出さずについて行ったことを評価すべきだろう。中嶋朋子の歌もなかなかいい。これは中東の音楽らしきものと弦楽合奏を硬軟取り混ぜた作曲がツボに入ってよかったせいもある。
だが、この小屋で3時間半は辛い。固いベンチシートで6800円。長さを考え、見やすい劇場であることを考えれば高くはないだろうが、この椅子では少し客のことも考えてほしいと愚痴がでる。