島 The Island
キダハシワークス
芸能花伝舎(東京都)
2015/09/06 (日) ~ 2015/09/13 (日)公演終了
満足度★★★★
二人芝居の密度
この日は劇場をハシゴしたが、この手作り感のある平場での芝居が、「見るに値した」と最も記憶に残る芝居な気がする。 南ア戯曲、何27年ぶりで上演、という惹句に、うかうかと足を運んだが、観て良かった。
アパルトヘイトの時代、政治犯の投獄は後を絶たず。一つの「珍しくない光景」から、戯曲を立ち上げた。27年前が「書かれた」時だとすれば、アパルトヘイトは徐々に雪解けに向かう時期。90年代前半でマンデラが大統領になった、その激しい道行きのさなか。・・(あまり詳しくはないが、アパルトヘイトは上からの改革で廃絶したのでなく、立ち上がった民衆のうねりに一歩一歩後退しついに撤廃となった、という事らしい。つまり熱い時代だった。)
舞台は二役者が、幅広く豊かな演技で「閉塞」した空間のプライベートな人間の多様なカラーを演じ、時に取っ組み合い、喜怒哀楽をぶつけ合う。キャラ作り、緩急は見事だった。
二人の関係は単なる「相部屋同士」「仕事上の相方」でなく、ある願望によって、もう一つの色彩が加わっている。ここが仕掛けだ。
極限状況で光る台詞の散りばめられた、優れた戯曲。
劇場の様子もよかった。
無頼茫々
風琴工房
ザ・スズナリ(東京都)
2015/09/12 (土) ~ 2015/09/20 (日)公演終了
満足度★★★★
大正時代の「マスコミ」=新聞
現代は当時の比較でない状況であるが、にせよ、「新聞」というシステムが、国民に広く情報を提供するツールに育って行くと同時に、「国民意識」の醸成にも深く噛んで行くという時代、国家権力介入は必定。 今そこにある「事実」、記者としての使命と、「情勢」とのはざまで右往左往する人々。その中にあって純粋一徹な新聞人魂を痛快に見せる人物も登場し、「新聞とは何か」を問いかける劇であった。
ジャズ&ダンスの転換(大正時代をデフォルメ?)で、新聞社と、記者の知己宅の二場面を往復し、伏流になるドラマも進行する。 最後の最後に、不在者の再登場での強引ともいえるエピソード挿入に、なぜか泣かされた。役の佇まいが的確ではまっていた。他の役にも、はまり具合を気味良く見れた人が多くいた。演技面でのクオリティが印象に残る。
その頬、熱線に焼かれ
On7
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/09/10 (木) ~ 2015/09/20 (日)公演終了
満足度★★★★
おんなななふしぎ
いつもそっけない感じのこまばアゴラの出入口あたりが、華やか。舞台のほうも、女7人の舞台は否が応でも華やかである。だが劇団チョコレートとの共同は、やはり濃く重かった。「重さ」は、そこに役ごと埋まる事で(リアルさを帯びることで)息を飲むような時間になる。 冒頭、尾身美詞の底辺から立ち上がるような声、はかなげに笑む智子役に始まり、渋谷はるかの割り入りの流れはすごみがある。 個人的には渋谷の急角度の演技の入り方は快楽である。昨年夏か、『父と暮らせば』での広島弁を思い出し、彼女にとって一連なりの仕事に見えたが、その価値のある仕事に思える。仰ぐように見る女優の一人。 他の6名はほぼ初の女優も多かったが、今回の舞台で全員、印象に刻まれた。劇団チョコレートとのコラボ、想像に違わず、重く、濃い。ノリの良さげなユニット名とはギャップのある舞台だったかも知れないが、「その頬・・」のタイトルと布の垂れた装置の意味が女優の登場と同時に氷解して以後、息詰まる時間を味わう演劇の快楽。
マクベス - Paint it, Black!
流山児★事務所
座・高円寺1(東京都)
2015/08/14 (金) ~ 2015/08/23 (日)公演終了
満足度★★★★
破滅のカタルシス
四角く象られた広間と奥へ続く階段、段上に王の椅子、背後に通路。人が手前脇や奥脇、上段の上下から頻繁に出入りし、歌い、走る。階段の上手側に坂本弘道と諏訪創が控え、生演奏をしている。坂本氏のパフォーマンス色も健在だったが、シンプルなコード進行の短調の曲が多く、もっと猥雑感のある曲も欲しかった。
正方形の演技エリアの左右にも客席があり、自分は上手側に座ったが、装置、群舞など正面に向けて作られており、初めは若干淋しく感じたが次第に物語に引き込まれ、気にならなくなった。
マクベスと夫人の両頭が突出し、二人の微妙な関係性から導かれる王殺しと隠蔽工作の顛末が、鮮やかに描き出されている。アジアのどこかを舞台に置き換えたとの事だが、その特色はさほど印象に残らなかった。
この作品はやはり美味しい。狂気が手を血に染めて行く。宴席、無二の戦友バンクォーの亡霊を見て取り乱す場面などは、小気味良い。
ダンカン王の子孫の巻き返しが勢いづく中、再び魔女に会って身の保証を取り付けたマクベスは、「森が動いぬ限り大丈夫」「女から産まれた者の手にはかからない」という約束に束の間の安堵を得るが、ついに臣下からの「森が・・!」、そして城門を破った宿敵マクダフの奇異な出自を告げられる、その瞬間のマクベスの身体。ある選択の過ちが自らを破滅へと陥れた悔恨の断末魔は、カタルシスそのもので、この快楽の立役者は間違いなくマクベス役若杉宏二、夫人役伊藤弘子。また改めてシェイクスピアの「創造力」を噛みしめた。
テンポ感のある舞台処理により、美味しいマクベスになった。チラシにあった翻案や演出の斬新さよりは、戯曲の幹をしっかり見せる演出で、実直な舞台作りだったと思う。
南の島に雪が降る
劇団前進座
三越劇場(東京都)
2015/08/07 (金) ~ 2015/08/17 (月)公演終了
満足度★★★★
思い出し投稿☆本家の「南雪」
原作者加東大介の所属劇団による上演は必見と、観に行った。 (会場は武蔵野市民文化会館で、三越にあらず)
ベッド&メイキングスの同演目の公演は、「野外劇」の強みで、会場じたいが物語の舞台となったマノクワリの空気を肌身に感じさせ、この違いの大きさをまず実感した。
戦前から続く老舗劇団の領分は、歌舞伎や新派に近い人情劇かと、よく知らないながら思っていたが、演技のほうは大舞台向けの分かり易いどちらかと言えば大味な表現で、位置的には新劇に近いように思った。前進座に関わりのある俳優の演技を、最近見たときの印象とちょうど重なり、「前進座はあの演技」と、私の中では刻まれてしまった。一本見て決めつけるのも何であるが。
笑い所を作っていて、私の目にはうまく行ってないのだが、逆に新鮮で興味深かった。手が古いというか・・、いきなりその俳優にスポットが当たって強調され、一呼吸置いて台詞を言う、という演出がそこかしこにある。このお話にはユニークな登場人物とエピソードがあるので「笑い」に事欠かないが、それでも戦中、南島に放置された部隊の悲惨な大状況であるから、涙の場面にも事欠かない。小説の最後は、帰国した後に知った戦友の後日譚を紹介し、俳優である自身の抱負で締められている。舞台はどう締めるか。つぶさに覚えていないが、前進座の先輩が実際に体験したこのお話を、引き継いで行く、そのために劇団があり続ける事への決意、だったかな。加東大介とこの劇団との繋がりへと収斂して行くのは自然な事で、その部分は納得できた、という感想を持ったのは覚えている。
演芸部のリーダーだった加東役が語り手ではなく、その部下が語りをやり、リーダーの奮闘振りを紹介するという構図も、加東を大先輩と仰ぐ前進座ならではかも知れない。
難点を敢えて言えば、先述した「間」のあとの台詞、というパターン、そして全体に台詞を丁寧に言うので、テンポが緩くなり、「緩急」がいまいちである。これ以上のテンポにはならないと、観客が悟ってしまうと眠気に繋がる。スポットを当てて笑い所を作るなど、その俳優が重鎮で、気遣いからなのか?と余計な想像が膨らんでしまう。もっとも、劇団が抱える観客のニーズに応えているという事かも知れないが、、出来得るならば、新たな客にも受けやすい演出をぜひ。
ザムザ二アン
虫会
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2015/08/20 (木) ~ 2015/08/23 (日)公演終了
満足度★★★
思い出し投稿☆希少な恐怖演劇
客席の傾斜をキャンパスにありそな緩い段々に見立て、ステージに客席を組んだ。奥(上段)の両側と、下手前側の三箇所から出入りできる。広いキャンパスのセミ・パブリック空間が、序盤、大学の「らしい」現代口語劇を展開させるにふさわしい雰囲気を出していた。
一転、ミステリードラマに突入し、非日常な状況が起きてくると、「現代口語」を得意とするだろう学生俳優の「非日常でなさ」がたどたどしく印象づけられる事になった。が、それも含め、人が一人また一人消えて行く事態にかなり遅く対応するドラマとしてののんびりさ加減も含め、脱力系、などとレッテルを貼るつもりはないが、そこはかとない可笑しみが漂い、悪くない。
「自然体」演技の仕上がり具合は、高いレベルだったと思う。
ジャガーの眼2008
日本の30代
駅前劇場(東京都)
2015/08/28 (金) ~ 2015/09/07 (月)公演終了
満足度★★★★
わかりやすい唐十郎。
昨年の新宿梁山泊のテント公演「ジャガーの眼」では叫びまくって分からなかった台詞も、絶対噛まない30代の上級役者たちの手にかかればきちんと聴こえ、それだけに、戯曲の分からなさも、見えてくる。例えば、最初の「眼」の持ち主は誰なのか、であったり、最初の「妻」であるはずの女の事をそう認識していなかったとか、そもそも唐十郎作品に矛盾解消を要求するのが間違い、というか、そこを楽しむ物じゃないという・・達観を要求される。というか・・テンポや、瞬間の輝き、印象的な台詞を「味わう」もの。その点梁山泊のジャガーは色々と、娯楽満載だったかも知れない。
駅前劇場というタッパの低い舞台に、さびれた家屋が並ぶセットは良かった。唐十郎と言えばヒーローそしてヒロインだが、ジャガーの眼には何人ものヒーローヒロインがいて、群像劇になっている。最後にヒロインくるみの劇中歌を全員で唄う演出は、よくある手だが「群像」だからこそ舞台が締まった。
平岩紙(くるみ)が後半露出の多いヒロインだが、突出したヒロインという雰囲気より、コメディエンヌ色が強いので笑い所なのかマジなのか、という所はあった。最初、平岩が何かやる度に小笑が起きていた。顔の知れた人が何かやると「笑い」を投げ返す、これは頂けない。
いたって真面目に、芝居をやっていたと思うが、「ジャガーの眼」を選択したという挑戦は、積極評価したい。合間に「素」っぽく振る舞った笑い所を挿入する手に、頼る事なく、笑いは熱演によって引き起こす、という所に誠実さを感じた。
「劇場」で唐作品をやるハンディ(?)が見えた公演だったが、役者の弾け力の総和で気持ちの良い舞台になっていた、と思う。
ユニークな集まりを多方向への挑戦の場として活用してほしい。
地獄谷温泉 無明ノ宿
庭劇団ペニノ
森下スタジオ(東京都)
2015/08/27 (木) ~ 2015/08/30 (日)公演終了
満足度★★★★★
つげ義春
もの凄い舞台を観た。固唾を飲んでみた。目を凝らして見た。
温泉宿。時代設定はあったようだが、昭和の半ばあたりか、ちょっと古い設定だとは後の方で気づいた。緻密に作られた装置は回転式で90度の壁で区切られた4つのエリアそれぞれが趣き深い。誰もいない玄関ロビーに人形遣いの父子がやって来る。暗転の後、案内された部屋に変わっており、度肝を抜く。岩風呂の場面では人が普通に裸で入ってくる。脱衣場もあってそこで「脱ぐ」所作もあるから役者は大変だろう。だが普段私たちも銭湯や温泉では他人に裸を見せている、その感覚が、この舞台での光景を奇異と思わせない。
人形遣い役をやったマメ山田の、異形に見合う舞台。息子が唐組の辻孝彦。今回初めて見た勝手な印象だが身体で覚えるタイプで、愚直に俳優を続けてきての「今」という雰囲気を醸し、作品での「学校にも行かず人形師の父に付いていた」息子という役柄に符合するものがあった(あくまで勝手な想像)。小人症の父の異形と、「空っぽ」の息子が、他の登場人物に初見でのインパクトを与える。
芸妓役の久保亜津子と日高ボブ美の三味線は相当練習したのだろう、勢いのある曲をちゃんと盛り上げて終わらせた。三助がいる。父は「おう」と驚き、背中を流してもらう。その感じ。相部屋となった盲人の松尾、二階に住む老婆も、皆(三助以外)風呂に入るので、裸をさらす。かくして夜には妖しい気配が漂ってくる。声の出演田村律子は老婆の呟きで、折々に入る語りが良い。
鄙びた温泉のあるこの地には来年新幹線が通るという。立ち退きも間近い(らしい)温泉には、まだ喧噪のけの字もなく、追われ行く身のうらぶれた雰囲気が勝っているが、それでも生活があり、自分の生きる土地である。若いいく(日高)が三助との性交で子が授かる事が、この界隈の者にも望みとしてあるらしい。多くは説明されないが、三助とは婚姻関係にはなく、ただ子種を求めているようだ。つげ義春が漫画に描いた、鄙びた土地で暮らす人たちの原初的な生態に近い感じが全体に漂う。狂気を宿す夜は『ゲンセンカン主人』だったかの雰囲気に近い。
その日、酔った芸妓二人が勢いで父子の部屋に入り、人形遣いを見せてほしいせがむ。その声を二階で聴く老婆の中にやにわに嫉妬心が燃え上がる。三味線を手にした小さい時分、しかし自分は芸妓になる器量でないと、三味線を置いた。部屋へ押し入るが、結局そこで異形の父子の異形の人形遣いを観る。息子は胡弓を鳴らし、父は大きな首と手を持つ自分のサイズに近い人形とじゃれ戯れる。 これに一同はそれぞれに強い衝撃を受ける。ざわついた夜となる。いくは皆が寝静まったと思い三助の元へ行く。よがり声が響く。松尾は「触りたい衝動」を二人に喚起され、懊悩して浴場に走り込む。女二人は玄関ロビーに出て煙草を吸う。空っぽで深淵でつかみ所のない「息子」は、ゆっくりと回転する舞台の各部屋を、煙草を吸いながら扉を開けて巡り、眺めるともなしに眺める、という場面が終盤にある。二周目、ロビーでは文枝が老婆の胸に顔をうずめて泣いている。松尾は湯船の脇でお経を唱えている。お湯の流れる温泉場の湿った音が鳴り続け、客席には無機質な椅子が並んでいるのに、すぐそこにグロテスクにリアルな、昭和の鄙びた温泉宿と、湯煙に浮かんで彷徨う魂が、見えた。
「つげ的世界」が、舞台として出現したと感じた。蠱惑的で、離れがたいアトモスフィアは、舞台装置と役者の存在感による。こいつは心の何かに引っかかってくるが、その正体はつかみ所がない。
KUNIO12『TATAMI』
KUNIO
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2015/08/22 (土) ~ 2015/08/30 (日)公演終了
満足度★★★★
終演後も残りたい造語「畳む」
人生を畳む、とは、時間経過とともに広げ過ぎた(自分に帰属する/関わる)空間や、そこにある増え過ぎた物たちを、片付け、元のサイズに戻す。そうして自分が「散らかした」ものを「片付け」て人生を終えるという意味。
情報は日々流される。諸々のメディアを通じたそれらは時代を追うごとに加速して増加し、接触可能な情報はネットに溢れ返っている。エントロピーは21世紀に入ってなお増大し続ける。
そうして「大事なこと」の大事さが薄まり、ONE OF THEMにしか過ぎなくなる。これが被災者や原発やオスプレイやヘイトや冤罪を忘れさせている元凶だとしたら、せめて自分が散らかした情報や物は、片付けようという、いじましい公共精神に富んだ「偏屈者」が、主人公である父だ。
この話は、ずっと「畳もうとする」父と、息子のやり取りで進む。「畳む」ことの限界に突き当たったりもして、物語としては迷走するが、この「畳む」発想の強烈さが、父子の物語の帰趨への注視を続けさせる。
装置は面白い。TATAMIと印字された一畳スペースの枠に、父は寝る。だだっ広いKAAT大スタジオ一杯に布が敷かれ、何もなくなった時点を表わしたりする。そうした演出は悪くない。
が、お話のほうに一抹の疑問ありだ。
エトランゼ
劇団桟敷童子
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2015/08/19 (水) ~ 2015/08/30 (日)公演終了
満足度★★★★
やはりさすがと納得する
数年観てきた桟敷童子の前作「体夢」が、従来とかけ離れたイメージ世界であった路線を継いでの、「エトランゼ」(カタカナだし)と思いきや、舞台装置をみれば以前の桟敷と同じ木々に囲まれた、今回は山奥、登場人物も土着の人達で「ばっち(しかし=but)」がやはり出てくる、九州の話。
だが今回、新鮮に感じたのは、題名となった「エトランゼ」=外来者の存在がドラマで果たす恐ろしげな役割だ。得体の知れない「外部の者」を演じたもりちえが絶妙で巧い。従来の桟敷のドラマにあった、内部の関係性から来る問題、強者と弱者といった目に見える確執や、神秘的なものへの畏怖ではなく、「外の人間」の未知ゆえの恐怖が、今回桟敷童子の芝居としては初めて見せる要素であったと思う。東憲司が呼吸する現代の「問題性」が九州の山奥を舞台にした物語に落ちてきた、そんな感慨を持った。
沼を出現させた舞台も、多言は不要。ネタはまだまだあると言わんばかりで視覚的快楽を提供していた。
大手と板垣の母娘が良い。二人と松下の規格外れの父が、不安定な三角をなし、最後に細いながら線で繋がる構成は見事。超自然の温かさを具現した婆さんという「奥の手」を借りつつ、「エトランゼ」の不穏な介在によって話が進行し、エトランゼ自身も昇華されるお伽噺。女に同行する若い男女(新井と深津)も不思議な存在感(エトランゼ感)を醸し、土着の側の役者との色合いの違いを出していたのも印象的だった。
幼女Xの人生で一番楽しい数時間
範宙遊泳
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/09/02 (水) ~ 2015/09/07 (月)公演終了
満足度★★★
映像の範宙
芸劇で観た作品は「意表を突かなさ」に疲れ、昨年のアゴラでの作品は覚えていない(興味深く見れる場面もあった程度)。今回も実はあまり期待せずに(失礼だが)足を運んだ。
「幼女X」は自信を持って送る(?)再演だけあってテーマとストーリーが分かり易く入ってきた。「幼女連続殺人事件」がブラックボックスのように置かれていて、不可解の領域に、2人の落ちぶれた負け組の青年が、それぞれのアプローチで(それとは意図せず)接近する。二人のどちらも事件の犯人では無かった訳だが、この事件と同じ地平に二人は立っている、そんな含意を感じる。
範宙遊泳ならではの映像使用だが、ベタの単色にゴシック文字、というパターンは、パソコンやテレビに見入っている時に近い疲労を起こさせる。単純に文字を読ませる(台詞として、また挿入詩として)効果以上に、文字面だけを見せられ、それを読む行為の中で、一人PCに向かっている感覚=孤独なんだが文字(意味)に救われている感覚=が呼び起こされる。画面はシンプルで涼しげを装っているが、書かれる文字は次第にスキャンダラスさを帯びる。「物語」としては二人の青年像が終盤で反転する具合が気持ちよく、「演劇」を観た気にさせた。
後半の「楽しい時間」は一人であれこれやる。生への否定感情を、手を変え品を変えて延々と吐き出す。最初は肯定に転じる契機もあるかと見ているとどうも「否定」を言い立てたいようで、如何に否定すべきか、というか否定したいか、を言い換えながら繰り返している、という印象を拭えなかった。よく見れば最後は「肯定」の言葉を吐いているが、救いにならない。「波」への怨念を語る詩のような場面がある。波との結婚式での挨拶だが、津波の事を言ってるのなら、悪いのは波か。これを言って誰かが溜飲を下げるのか。やや食傷である。世の中の理不尽なあれこれに不満だから生を否定してみる、だが本当は肯定したいのだ・・という命題、これを観念図として語られるだけでは、演劇としては物足りない。生身の体が声を発する人間ドラマに行くか、もっと深められた思索の提示を試みるか、どちらかだ。
・・深めるとは例えば、最後に「生きたい」と言ったその言葉を疑うことなど。「生への不満」の持ち方が、浅いか疑念の余地があるため、「生きたい」がドラマティックに響いていない。「生きたくない」と言わせる事とは何か。具体的に思い起こそうとすると中々大変だ。つまり「生きたくない」とは単なる言い方で、登校拒否と同じ、人生の「積極的否定」ではない(消極的否定)。自己の否定というより、環境への否定、もしくは自分と他者、社会との関係のあり方が「こうでしかない」事への不満(否定したい欲求)だから、特段「人生」そのものの意味を疑うといった、哲学的な思索には向かわない。そこを「生」の積極的意味の議論にまで深めれば、それはそれとして、抽象的な出し物であっても見応えのあるものになるんじゃないか。
そんな事を考えた。
☆‥「幼女X」3.5/「楽しい」2.0
人民の敵
オフィスコットーネ
吉祥寺シアター(東京都)
2015/08/21 (金) ~ 2015/09/02 (水)公演終了
満足度★★★★
四隅から役者が出入りする正方形舞台上で衆人環視の中。
吼える主人公ストックマンが若い、というのが最大の特徴。厳しい面もあった、という意味を含むが、意表をつくストックマン像での「人民の敵」を体験できた。「厳しい」とは、脇を固める役者の凄腕ゆえに相対的に「作り切れてなさ」が若干みられた、という事かも知れない。全体としては休憩を挟んで2時間50分、イプセン作のリアリズム劇にがっぷり取り組んだ硬質な舞台が観れた。近々にあったサンモールスタジオでの同戯曲の上演と比較してしまうが・・ストックマンの民衆の前での演説と、最後の家族を前にして吐く台詞が、どう決まるかが勝負だとすれば、サンモールでの寺十吾のストックマンが数段腑に落ちた。 ただ、両舞台の大きな差は劇場規模。吉祥寺シアターを四面舞台に組み、観客を巻き込んで長時間臨場感を保たせたこちらの演出、また俳優、特に「悪役」側の青山勝、山本亨ら(紅一点の松永玲子も)が、練達を個人技でなくアンサンブルへ昇華させていた所が、印象深かった。 骨太な舞台となった。
『血の家』
劇団HIT!STAGE
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/08/21 (金) ~ 2015/08/23 (日)公演終了
満足度★★★★
家族・・掘っても尽きないドラマの源泉
九州で活動する劇団。
時おり長女の幻聴として声を聴かせる、舞台中央の布団の中の死者(父)以外は、生きた人物が登場し、遡ったりしない時間を生きる、リアリズムの劇。
ステップファミリーを違和感なく成立させている所、九州訛りという武器、俳優のレベルも合格点、よく見ると抽象的な舞台美術だが役者の演技に集中するとちゃんと家の中に見えている・・ といったあたり、質の高い劇を持ってきてくれたと素直に思う。 音楽の使用は殆どなくストイックな感じを受けるが、実際に展開している事象は「リアル」の限界の中では相当飛躍しており、それが笑いも誘うが、グロさを醸してもいる。突飛な展開が「笑い」というオチ=弁明によって挿入されているのでなく、何か身につまされる「リアル」に収まっているのは、書き手の実力だろうと感じた。
父を許す事のできない長女が話の中心となるが、周辺のエピソードも面白い。自分も九州出身だが、父権の強さ(が容認されている風土)から、女性が黙して叫ばないゆえの燻りがあり、昇華させたい願望の強さが作者の筆を動かしたとすれば、「九州」という土地の固有さと言えるかも知れない。(作者は女性)
終盤のカタルシスな場面が、芝居の頂点とするに相応しいが、この芝居では、主人公は実はそれによって傷が癒えた訳ではなく、燻り続けてこれからも生きて行く、という宣言と解せるラストになっていた。これは大人になっても拭えない傷を負わされた人間が、実際に繰り返すパターンであり、しかしそれでも希望を持たずには居れないのも人間であり、他者(観客である私ら)の身勝手な願望(人は不幸を乗り越えるべきだ)を、拒絶しているようにも思えた。深読みかも知れないが・・。
カゾクというものの、掘り尽くされない深さをまた思わされた舞台だった。
土田英生セレクションvol.3 『算段兄弟』
Cucumber
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2015/07/31 (金) ~ 2015/08/09 (日)公演終了
満足度★★★★
土田英生戯曲を初観劇
名前は知っていたがこの人の書いた戯曲の舞台化は初めて、やっと観た。
背中を押したのは出演する村岡希美の名前。注目する数少ない「役者」の一人で、TheShampoohat「砂町の王」で独特の存在感に嵌まり、ナイロンの役者だと後で知った。リーディングを除けばそれ以来のお目見えだったが、役の収まり具合と言い、初めての時と同じく唸った。ツボである。
異父三兄弟(三人とも違う父)が母と暮らす知人を知っているが、子供を生んでは逃げてしまうのでお互いを知らない兄弟同士、という設定は想像した事もなく、ユニークだ。 キャラ設定もユニークで笑えたが、面白さ優先でリアルが飛躍しがちな所、やはり締めるのは村岡の存在だったように思う(贔屓目、という事もないと思う)。
終盤の暗〜くなった所で終わり、でも良いと思ったが、普通に閉じ繰りを付けて終わった。 基本が「笑い」で、二時間持たせるという工夫は、配慮なのか・・。人物の突出したキャラは、人間の本質を隠せないという所に演劇としては意味があって、共感の笑いが生じる。 だが近年の「お笑い」にほとんど例外でないのが「突出したキャラ」の突出具合を楽しむパターンで、最初は「本質をうがつ」所に笑いが生じていたはずが、ちょっとズレて来ているように思う。演劇としては、本質をうがつ「変キャラ」は突き詰め甲斐があるわけなので、そちらの方向へぜひ、たなごころを加えず引っ張ってほしい、と思ってしまう。舞台を和ませるキャラ止りでは勿体ない、と感じる所である。 作者はそんなつもりはなく、単なる好みの問題かも知れないが・・。
彼らの敵
ミナモザ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/07/25 (土) ~ 2015/08/04 (火)公演終了
満足度★★★★
再演乾杯
同じくアゴラでの初演で、初ミナモザ観劇。2年振りの再演は、芝居として格段に良くなっていた。脚本は(恐らく、殆ど)変わっておらず、6人のキャストも初演と同じ。場面のピースがきめ細かに接続され、全体として芝居が熟成し、強くなったという感触だ。最後にホームでほとんど呟くように、離れた位置で言葉をかわす男女の間には、(敗北したにも関わらず)ステージを一段昇った人間の背中が見え、今回は心から応援したくなった。
外交官〈前売券完売/当日券若干枚あり〉
劇団青年座
青年座劇場(東京都)
2015/07/31 (金) ~ 2015/08/09 (日)公演終了
満足度★★★★
史実を再構成する面白さ
青年座で野木萌葱作品を初観劇。歴史モノを割と書く人か・・。満州事変から日米開戦・敗戦までの日本の「悪行」の立役者たちを、東京裁判の被告席に並んだ面々に見ることができるが(小林正樹監督「東京裁判」参照)、その中の重光、東郷、広田、松岡ら、外交部門を担った外務大臣と、それを取り巻く外務官僚がこの芝居の登場人物だ。かの戦犯法廷の開廷前夜、一つ所に集い、「破滅」への道のりを決定づけた幾つかの節目を振り返り、証言し、議論する。そこに流れているのは「外交官」というアイデンティティと誇りであり、それゆえに成り立つ真剣で熱い議論が、綴られている。
実在した彼らが、主観的に「国を憂い」「最善を尽そうとした」かどうかはともかく、「外交官」の視点を一本貫く事で、15年戦争史が(一般的な記述と大きく異なる訳ではないが)独自の記述で構成され直す、ユニークさがあった。会合を行なっている「現在」のシーンと、話題になった過去の回想場面が交互にある。
「外交官ならばどうあらねばならなかったか」という問いは、今の日本の「国を売る」(事によって米国の傘を得る)外交のあり方の異様さを浮き彫りにする要素を持つものだ。
ただ、焦点の当てられる史実について、一通り知っておかないと、どの登場人物が、何に、どう関わったかを台詞を追って把握して行く作業が大変だ。人物を特徴づけて名前と顔を一致させる配慮は、戯曲を書く上で念頭にあるべき要素だと思うが、作者は上に挙げた人物くらいは皆知っている、という前提で書かれたかと思われる。私は後半で人物が判別できるようになったが、それで前半と繋がるかと言うとそうはならず、ぼやけたまま。それゆえか、どうしても70年前の歴史の「内部」に生起し終息した出来事に見えてしまい、「現在」に反射して来るようではなかったのが惜しいと思った。受け取る側の感性次第かも知れないが。。
史実としては柳条湖事件(満州事変)〜リットン調査団、国連脱退、日独伊防共協定、日華事変、ハルノート〜日米開戦までが扱われ、最後に一人の重鎮に「国民への責任」を吐露させ、戦争終結を送らせた事による非戦闘員数十万の死(沖縄戦、空襲、新型爆弾)を仄めかした。
中盤、鋭い対立のシーンがある。在外領事館で外務省生え抜きの官吏が辞令を受けた直後、新たに赴任する軍出身の官僚がやって来てかち合い、火花を散らせる場面だが、こういう判り易い場面がもっと序盤にあると良かったかも。
国のリーダー的存在に見える風貌はさすがに青年座の人材という気がしたが、その功罪はネタバレにて。
友情
NPO法人 演劇倶楽部『座』
サンモールスタジオ(東京都)
2015/08/01 (土) ~ 2015/08/09 (日)公演終了
満足度★★★★
おもしろき哉。
主人公の設定を少し変えたり、加筆した他は原文を尊重している(はるか昔読んだ切りだが恐らく)。壤晴彦の語りと、コロス的人間が動くところもあるが、役を得た俳優が演じる「劇」シーンは十分にあり、原作通りと思われる台詞も交わされている。つまり、「芝居になる」ドラマだった。
中学の病欠の日に一気に読んで主人公と共に激した『友情』を、噛みしめるようにして舞台に見入ったが、テンポよくうまく作られた舞台。暗転後音楽が鳴る。と、それに乗って役者たちが客席通路を通って舞台に上がる。衣裳がしっかり時代を醸している。中に楽器を持っている者が居る。生演奏であった。ピアニカ(後にアコーディオンも弾く)、アコギ、エレキギターの3名。彼らは下手のオケボックスに入り、すのこ状のタテ縞の隙間から青い照明が当たった姿が見える。柔らかな演奏が、痛く生々しい「恋」の道に静かに寄り添う。
地の文を読む壤晴彦が絶品で、それゆえ演じる俳優の演技にも息が通うのではないか、と思える位。 舞台で動く役者も語りが丁寧で、衣裳とともに明治大正頃の「時代」を感じさせ、信じられた。
私は2才
KARAS
KARAS APPARATUS(東京都)
2015/08/03 (月) ~ 2015/08/11 (火)公演終了
満足度★★★★
音楽、身体、自然を思考する舞踊家
10ヶ月振り・2度目のカラスアパラタス。「満2才」と言えばまだ始動したばかりと言えるが、この場を得た事で勅使河原三郎、佐藤利穂子とKARASダンサーズの「UPDATE」シリーズをこまめに公演する事が可能になり、観客にとっては半ば稽古過程を覗きに行く感覚でこの場所を訪れる事ができるようになった。でもって、年間100を超える上演なら、2年は遠い道のりに思える。もっとも毎日踊っているだろう二人にとっては、目の前に客がいるか居ないかの差に過ぎないかも知れないが。
踊りはマンボと、バッハ。喋ると初々しくて、御大の三歩後ろを歩いてそうな佐藤は、舞い出すと自立した一個の生命体で、動きのヴァリエーションでは敵わない勅使河原三郎がマンボのイントロから登場し、交互に踊る。最後はマンボを二人で踊った。
何度も書いたが踊りは同系の動きのヴァリエーションなので、つけられている変化に気づきにくく、また照明がかなり抑えられている事と、そのため手先(黒服からそこだけ白く出ている)の速い動きが線の残像となって眩惑する事から、睡魔との闘いも大変だ。 だが身体言語とでも言うべき「一連の動き」が伝えようとして来る文脈と、これ読み取ろうとする観客との水面下の対話は、いかにも高尚なコミュニケーションである。
終演後、儀式のようなカーテンコールを手際よくこなした後に10分程のお喋りがあった。そこで強調されていたこと・・「音楽」へのリスペクト。また、音楽がその中に擁している「自然」。身体も自然の一部であり、音楽との呼応がある。人工的なものの中でしか生きれなくなった人間にとっての自然、また舞踊の生まれる海としての音楽、それらを身体を通して見つめて行く歩みを続けて行く決意を「2才」になったアパラタスで二人は語っていた。
演劇と一線を画する抽象性の高い舞踊は、抽象であるままに思考し続ける身体の芸術だ。大衆受けして家が建つようなジャンルでもなく、何をやってもいいという制限の無さは、どう踊るのか、あるいはなぜこう踊るのか、についての自問を求めるのだろうか。その思考はきっと社会的存在としての身体への洞察にも至るだろう。 このストイックな思考の行方を、時々、見守りたい。
くちべにきって
劇団ゆらじしゃく
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2015/07/31 (金) ~ 2015/08/02 (日)公演終了
満足度★★★★
初。確かにミュージカル。
「学生演劇」というカテゴリーは「高校演劇」ほどには確立していないと思うが、もしその特徴があるとすれば、「やりたい事をやる」「お金目的じゃない」。・・もちろん現在活躍している在野やプロの劇団の多くもそうかも知れないが、一つには音楽にそれを感じた。 ミュージカルというジャンルをどう捉えるか、私は詳しい人間ではないが、今回の作品に流れているのは確かに「ミュージカル」のテイストだ。歌が多数挿入され、きちんと「感情の発露」の場面に歌が唄われ、基本はソロ(一人の感情)、集団で歌う場合はテーマ提示の意味合い・・というミュージカルの定式(私が勝手に考える)にそっている。それらを高い質で提供するための曲が、殆どが既存のミュージカルからの借用だという。数多あるミュージカル楽曲の中から、適した曲を選定している訳である。オケバージョンがあれば良しだが、無い場合は音質処理をしてヴォーカルを低く抑えても、日本語の歌の背後にうっすらと原曲の声が流れていたりする。この手作り感に、「使える物は何でも使う」という、学生演劇ならではの「気」を感じる。 そこにあるのはミュージカルへの愛、である。
歌唱力は一定クリアされており、何より選ばれた楽曲が良い。優れたミュージカル曲は曲が流れるだけでその状況の人間感情を詩情豊かに表現してくれるので、浸れる。そして曲負けしないだけのキャラを明確に押し出した各演技者と、恋愛感情だけを押し出しても見苦しくならない主役女性の素材と、工夫のある台本で、成功した舞台だった。
「本来形」の恋から、逸脱する線が、それも有りと思わせる必然性のある、人間の一面だと思わせる描写が出来ていた事が、脚本として優れていた点。その脇道が、徐々に破綻を来すのも自然で良い。
からまる法則
劇団銅鑼
俳優座劇場(東京都)
2015/07/30 (木) ~ 2015/08/02 (日)公演終了
満足度★★★
野宿者支援という場所
バブル崩壊後の90年代末頃から、都市部の駅周辺で「ダンボールハウス」が目立つようになった。その頃にあった同テーマを扱った芝居を思い出す(野宿者支援に関わる事になった診療所が舞台。行き別れた父娘の再会という設定は今作に似ている)。そちらは笑い所・泣き所のある舞台だったが、銅鑼の今作はもっとリアル寄りの舞台ながら、和む雰囲気を醸していて、こういう支援の現場が「笑い」を武器に継続している事情と、相似していると思った。
展開に難を感じる箇所は幾つかあり、役者の動きでも損をしている所が散見されたが、作り込んだ家屋のリアルさと照明が効奏して鮮明に記憶に残るシーンがある。キャベツを切るシーンと、炊き出しの準備を全員で行なうシーン。ここ、商店街の中にあるという広めの住居を供出した「かけはし」という名の支援拠点は、学生で団体代表でもある女の子が思わず吐露するように、そこに関わる人の「居場所」。息の通う生活の場の息づかいが舞台上に見えたのがそのシーンだった。光景が写真を焚いたように焼き付けられる事はそうない。どこか大仰(コミカル)だったり淡白だったりする他の演者の中で、主役の弓田英明のみリアルな陰影があり、これも記憶にとどめる効果を持っていた(もっとも他が薄くて良いのかというモンダイは残るが‥)。