満足度★★★★
勅使河原メソッド
舞踊は何を目指すものぞ。・・と問うてみる気にさせるがKARAS的たる処だろう。・・とは、果たして褒め言葉か(筆者はそのつもりだが・・)。 振付:勅使河原三郎とあり、師匠・佐藤利穂子のラインの先、つまり師の後を追う弟子の現在形=通過点としての今の形が見えた。つまり、勅使河原三郎語のボキャブラリーというものの存在が、みえた。でもって、このメソッド(実証者が勅使河原であり佐藤)による動きはそれ自体美しさ・不思議さ・軽妙さを醸す鑑賞に堪えるもので、その域に達しようと日々研鑽する鰐川枝里、という存在が確かにある。 のだが、勅使河原語(teshishとでも)を駆使したもう一つ別の「形」がそこにあるようにも見えた。振付:勅使河原は恐らく彼女を自分のイメージを再現する道具としてでなく彼女から発する何かを汲み上げているのだろう。「語」の使い手としては、ネイティブの正確な発音に達することはもはや目標でなく、ピジン語としての道を歩き始めている・・みたいな。
それは何か、というのは端的に選曲された音楽に表れていそうだが、音楽のセンス自体は師匠のもの(恐らく)で、音楽が持つ崇高な完成度と、本質的に脆弱である人間の身体との非対称関係の中に、身体を人間的に輝かせる根っこがある、という「感じ」が流れているように思った。
若く、動きのスピードは速い。荒い息遣いを洩らしながら、疾走して踊り終えた。後に何が残るかと言うと、彼女という存在以上に強い「メソッド」の存在感。この場を選んだ彼女がこの場所でどう育つか・・ 何となく楽しみではある。といった舞踊素人の感想であった。