オペラ研修所修了公演「フィガロの結婚」 公演情報 新国立劇場「オペラ研修所修了公演「フィガロの結婚」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    オペラ初心者
    入門として適当かと観劇に赴いた。ある程度「長い」ことは覚悟していたが、14時開演、休憩25分、終演17時半。ラスト10分前で退出せざるを得ず、それで知ったこと。
    ・・「フィガロ」のラストの畳み込みは10分の中に凝縮されている(17時半終演が正しければの話だが、スタッフは「きっかり」だと言っていた)。
    ・・二組のカップル(若い婚約者同士と、伯爵・伯爵夫人)が、女性二人による計略(困った伯爵を懲らしめるための)により、自分の「本来の相手」と会っていながら(変装しているため)違う相手だと思い込んでいるところ、暴露され、大団円というラストだ。
     音楽はドラマに使われると叙情性が増す。素で聴いてピンと来ないポピュラーソングが、実はこのドラマに使われていた・・とドラマを見て発見し、「売れた」理由が分かる。つまり、音楽にとって、それがどんなシチュエーションのために作られたか、という事はとても大切な要素。
     「フィガロ」のモーツァルトの楽曲には有名なものも多い事だろう、耳にした事のある楽曲もあった。だが何よりの「発見」は、オペラ歌手の声の「色」=感情が、音楽に乗って明確な(芝居上の)表現になっていることだった。ほぼ、開演から終演まで、鳴り続ける音楽。台詞っぽい音の並びのときと、芝居の中でも「歌っている」歌との違いもある。「歌」は心情吐露であり、個人の感情というのは切々と迫ってくる(ミュージカルに同じ)。
     「フィガロ」はモーツァルトが愛される原点のようなものではないだろうか・・。ドラマの力、侮れず。モーツァルト・イメージというものがここで出来上がれば、この原点との差異によって他の仕事の意味付けが可能で、しばらくは持つ。(芝居もそうかも) その1ヒットが奇跡的に出来た訳でなく、モーツァルトは名曲を多産した人だからこの法則を持ち出すに不適切かも知れないが・・
     間違いなく人類の貴い遺産だ。
     
     あと二点ほど、考えた。日本人がこれをやること、について。「北京ヴァイオリン」という映画があったな。たとえば東南アジアの国に「フィガロ」を自分の声でやろうと志す人は居るんだろうか・・?(反語的疑問にあらず)
     もう一点、オペラのほとんどは、「知ってる話」である。見に行く人にとってはなおそうである。完成度の高いドラマ(と音楽の融合体)を、あの美味しい料理を、味わいに行く。 「演劇」という世界では、古典、定番的なものは、本流でないと思う。発展するものとして、「現在」に呼吸するものとして演劇はあり、そこに最大の価値と快感がある。ただ、「定番的な」ギャグやドラマ図式を借りていたりするし、時にはカレーを食べたくなるのは否定できない。 
     さて「フィガロ」は自分に何をくれたのだろう・・・。モーツァルトの楽曲は私の中に快感を埋め込んだ。 喜劇調の中に、時に心情吐露、感情の高まりが挿入されると、ハッとさせられ、思わず感動する。しかし、冷静に考えれば伯爵夫人が伯爵に振り向いてほしい心情なんて、どうでも良いではないか。だがドラマという仕掛けの中では、美しい歌声が意味を持ち、なぜか迫ってくるのである。「あそこ、よかったな・・また聴いてみたい」と、いつか思うかも知れない「快」が、あった。なぜそう反応したのか、について、しばらく考えてみよう。

    ネタバレBOX

    付言すれば・・この公演を観劇リストに選んだのは、東京イボンヌの「モーツァルトとマリーアントワネット」観劇の影響に違いない。 かの舞台には「演劇」として難点が多々あると渋いコメントを書いたが、あの劇が、生の楽団の演奏、声楽家の声によって本格的に「引用」しているモーツァルトの音楽に「主役」を譲っていると見えたからだった。 だが天才の所産を前にそうしない訳に行かない、やむにやまれぬ思い、というのも恐らくある、とも想像されたので、どれほどの求心力を見せるものかを垣間見に行った訳である。
     演劇の中にモーツァルト楽曲を「引用」する場合、すでに楽曲が持つ魅力、威力(皆が知る)を踏まえて物語が語られるのなら、実際に楽曲を本格的に鳴らす必要はなく、物語を先へと語り進めればよい、と、やはり思う。 だが、本格的に鳴らさなくては理解できない要素が「物語」にある場合は、鳴らす必然性があり、その効果を持つ。必然性にかこつけて、贅沢な演奏を聴くことが正当化される訳である。
    例えば・・・モーツァルトの音楽にケチを付けるやつがいる、害悪だとののしる者がいる、そんなやつらに、さてそのお膳立てをした上で、いざ!と、聴かせてやる。溶解して行く彼らの顔が、演技が、痛快なことだろう・・。など。
     色々と意見を言わせる芝居というのは一定のレベルを印している場合が多いが、イボンヌの昨秋の舞台はそれに違いなく、オペラなるものの小さな扉を押してみようとさせるだけの力は、あの「演奏組」(楽隊と声楽家)が擁していたとすれば・・・。
     余談が過ぎた。


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    2016/02/21 03:03

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