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演劇研修所第9期生修了公演『嚙みついた娘』

演劇研修所第9期生修了公演『嚙みついた娘』

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2016/01/08 (金) ~ 2016/01/13 (水)公演終了

満足度★★★★

噛みついていた。
1936年初演の作品という。
最近は新国立主催公演より研修所公演の方が面白いと感じる事が多い。 今回が修了公演との事で、前回の「血の婚礼」で演じた俳優たちを思い出しながら観劇。あと一回は観て送り出したかった・・などと勝手な思いを抱きつつ。 今作は、前回母役で印象に残った岡崎さつきが着物姿で女主人を演じる「冨田家」に、八幡みゆき演じる十歳の少女ステが女中として雇われた日から、「富豪」の家中の虚飾と不実の光景を目にした挙句、「噛みつく」時までを描く。 当家の父母と令息令嬢、その婚約先の両親や新聞記者、二人の女中と書生、ピアノ教師、そしてステを紹介した施設の女性が見事にキャラ分けされ、どの役作りも勘所を外さず芝居のアンサンブルは気持ち良いものがあった。 秀逸は主役ステの形象で、聞けば家は貧しく悲惨だが明るくあっけらかんとした、おぼこ娘を好演(怪演)。
 舞台は大きな正方形の台上にあり、頂点を結んだ線で仕切られた一方が食堂、他方はさらに二分割して娘の居室と女中部屋。回転舞台で転換時はゆっくりと回り、ただし高さはなく背後も見通せる。大振りな仕掛けは栗山演出っぽいが、「家庭内」劇の軽妙さは損なわず、ステの無垢な歩行のイメージに当てたようなピアノ曲(古典だが曲名判らず)と相性もピッタリだ。
 終盤、転換ではなく舞台がゆっくりと回って家の中の様相を見せる。この効果は昨年のペニノ「地獄谷温泉 無明の宿」に等しい。
 戯曲の時代的な限界は所々感じたが、現代の上演に耐える仕上がりに持って行けたと思う。ぐっと引きつけ、身につまされる箇所もあり、何より最後まで目が離せなかった。
 ・・とは言いつつ、難点をネタバレに。

ネタバレBOX

戯曲は「金持ちをこき下ろす」左翼的作品と見えなくもなく、むしろ「噛みつく」程度では溜飲を下げきれないものも残り、またステの暴露発言が意図的に見えたり(演技の問題か戯曲の問題か)など、これらは左翼的ドラマ=手段化された芝居、と見えてしまう弊害に繋がるが、紙一重という所もある。
 ステを連れてきた独身女性(キリスト教精神・・ある種の・・を体現)がステに諭した「正直であれ」との言葉が、ステに「暴露」をさせる伏線になっている。
 ステは東北出身の世間知らずな娘だから、大人も油断して弱点を見せてしまっている。それが最後にどんでん返しという事になるが、惜しむらくはこの「暴露」場面の運びがたどたどしい。 これは、言うだけのことを言わせたかった作者の欲の仕業に違いないが、リアルさ(自然さ)より優先させている所が恐らく戯曲としての時代的限界なのだろう。
 女主人は芝居の冒頭、ステを引取った事を自分が顧問をする施設のキリスト教精神に絡めて、美談に仕立てようと新聞記者まで呼んで記事にさせる。 その延長がラスト、一同が集う晩餐の席で「客」としてステが列席し、美談の対象たるステに言葉を引き出そうとする(そうしてまた記事を書かせようとする)、その場面となる。
 女主人はまずステに一般的な事柄についての感想を聞き出し(東京に来た印象など)、ステの答えが既に「望んだ回答」を引き出せない懸念があっておかしくない所、新聞記者の暇乞いを止めてまで、「冨田家についての感想をまだ聞いてない」と、さらにステの発言を求める。ここで、様々なスキャンダルがステの口から飛び出し、場は荒れ、婚約も破棄となる。 お金持ちたちの混乱ぶりをたっぷりと、やりたかった作者の意図が読めるが、現代ではこの金持ち連の描写は少し能天気に過ぎるようにも思われる。
 ここでキリスト教というものを金持ちの道楽とばかりに槍玉に上げているのも、「時代」かも知れない。もっとも、現在も日本のキリスト教界では多数派が保守層だし、保守性をけん引するのは「上流」=経済的地位の高い層のようである。 作品中、「キリスト教も国家も繁栄して」云々と女主人が調子よく宣う場面があり、事実その後国に身を売ったのが日本のキリスト教であった。 作家の鋭い予見性が見える部分だ。
『かもめ』

『かもめ』

演劇ユニットnoyR

Livingood Cafe 高円寺 (東京都杉並区高円寺北2-36-10)(東京都)

2015/12/19 (土) ~ 2015/12/20 (日)公演終了

満足度★★★★

借景と飛び道具
俳優三人による変則的「かもめ」。上演70分程度。会場は高円寺駅から徒歩5分程の宅地エリアにあるカフェ(バー?)の中。路地から段差もなく地続きのフロアへ、入ると手前側に客席、椅子を借り集めたような格好で20人程度か。受付を済ませて覗くと暖色系のランプが吊るされたやや薄暗い内部、正面奥にカウンターがあり、背後にボトルの列が見える。セットではなく、店内のふだんの状態そのままらしい。ユニットnoyrは座高円寺の劇場創造アカデミーを出た3人が作り、今回は樋口ミユを演出として、小野寺ずる(□字ック)を客演に招いた。 開演前から喪服の女優がバーのママよろしく佇み、背の高いウェイター姿の男性が店員風情で掃除をしたりしている。店内がリアルに飲食店なため、二人の存在も借景の「景色」に含まれて見える。佇む女性はユニットの1人、男もアカデミー出身者のようで、残る一人が・・と上手をみると、パーテーションの隙間っぽい引っ込みに垂れた布の下から、ベージュの衣裳と素足がプラプラと揺れている。出番を待つスポーツ選手か。開演すると彼女が飛び出て「小野寺ずるのオンステージ」の様相は、noyr版(樋口ミユ版?)「かもめ」を大きく支配する。マイクを持って歌ったり、演技も持ちネタの披露といった案配で笑いを誘う。役者というより芸人である。
 テキストは当然ながら大胆に構成され、チラシには「喪服のマーシャの視点」とあったが、先程の黒服のバーのママ然たる女性がマーシャで、客待ちの風情で本を読んだり、目の前で展開する人生模様をバーのママ然と眺めたりする、という舞台上の構図があって、ベージュ色の男女が「かもめ」の男女各2役(男はトレープレフとトリゴーリン、女はニーナとアルカージナ)を演じる。役の変化は男女ともかぶり物のみ。 「かもめ」は痛い話である。主な筋は、モスクワから離れたある地方の地主風情(=召使いを雇える階級)の息子トレープレフが文学に熱を上げ、近々帰郷する母アルカージナ(女優)のために自分の作品を地元のニーナという若い女性を舞台に立たせて披露しようとしている、そこへ母は、愛人のトリゴーリンを連れてやってくる、彼は売れ始めた作家で、当然トレープレフにとってはニーナを奪われかねない宿敵登場な訳だが、元々トリゴーリンの読者でもあったニーナは彼にぞっこん、モスクワ帰還の間際に自分も同行したいと申し出る。そして後半、ニーナのその後の噂などが交わされるが、実は彼女は既に帰郷しており、傷ついた彼女の訪問を受けたトレープレフは、あれこれあって最終的に自殺という結末に至る。かもめはニーナの暗喩で、始め死んだカモメが凶兆として登場するが、この作品が輝きを放っているのはこのニーナの(かもめにイメージを重ねられる)描写だろう。周囲の人物との対比で、そこが浮き上がってくる。
 この対比すべき両人物を演じた小野寺ずるだが、真面目に批評するのも無粋と思われそうだが・・ その時点での役の「核」を捉えて凝縮し、カリカチュアして表現する。このカリカチュアの加速具合がレーサー並に激しく、そこが見モノとなっている。しかし役の表現そのものはギアを入れ過ぎて若干ブレが生じ、芝居を作る上では精度が落ちる部分があった。「歌」の挿入はそれ自体が芝居の上ではズレを呼び込んでいるが、そのズレた分を回収して本筋に戻る所がうまく行っていたかどうか。また、泣く場面が長く単調で、「泣く」という行為は表現としてカリカチュアしづらいものだったのか、と想像した。
 「飛び道具」としての小野寺氏の活用の是非は、彼女の演技の「加速」のエンタメ性を優先し過ぎて「本体」に収まり切れなかった、「小野寺」流を使うならより微調整が必要であった、という風に思う。
 テキストに戻れば、最後にマーシャが初めて「芝居」の台詞を語るが、ニーナの台詞だったように思う。最後に「観察者」であったバーのママ=マーシャ?にニーナの心を代弁させる意図だと解せば、理解できなくもないが特段そうする必要もないように思った。ただ、「かもめ」のお話の抄訳としては、判りやすく見れたし役の心情もよく伝わってきた。がやはり何かが惜しい。

暴れ馬/レモネード/コーキーと共に

暴れ馬/レモネード/コーキーと共に

ナカゴー

ムーブ町屋・ハイビジョンルーム(東京都)

2016/01/09 (土) ~ 2016/01/12 (火)公演終了

満足度★★★★

ナカゴー的。をまた観にいった。
ナカゴー独自の世界があり、これは少し癖になりかねない、とは思う。黒幕を上下に設置して出入りは上下のみ、というムーブ町屋の毎度のセッティング。五反田団の脱力芝居の妙味と、こちらは「絶叫」とか汗涙鼻水はあるが、通じるものがある。
 短編3つだが、アメリカ人の役が配され、竜巻があって銃もあるからアメリカが一応舞台のようだ。奇怪な演技をする人達。台詞を食われると、つい笑っている兄貴がいた。おいおい。でもそれしきでは芝居が壊れない、「お芝居」だという事を重々、重々々々判ってお互い観て、演じている空間で、一体何を中心軸にここは回っているのだろう・・・考えてみるのも面白そうだが今はツボにはまった幾つかの役者の動きを思い出して反芻する事にする。

アマルガム手帖+

アマルガム手帖+

リクウズルーム

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/01/08 (金) ~ 2016/01/13 (水)公演終了

満足度★★★★

未開発な感覚(数式の事だが)
この作り手についての事前知識ゼロで観劇。このスタートの差が恐らく開演後間もなくから聞こえる客席の笑いの感覚の落差となり、私としては不親切な作りという事になるのだが、「製作の文脈」を踏まえて観たとしたら腑に落ちるものだろうか、と推察した(あくまで推察だが)。
 個々の場面に書かれた台詞は面白い。 演じ手のそれぞれが持つ持ちキャラ、性質を有効活用した面が、舞台の面白さにも繋がってはいるが主体はテキスト、台詞だと感じる。
 この言語が難しい、というのは特にブライアリー・ロングが繰り出す長い長い台詞の抽象性・比喩性?が高く、その中に「数式」が出て来る。彼女は母国語訛りの強い日本語なので、「何を言ってるのか」判るように、との意味もあろうが、台詞中の数式は映写される。そこで、この数式を追うことになる。 高校までに学んだ数学を、意外に懐かしく思い出し、含意を汲み取る事もできようかと、目をこらして見るが、判らなかった。数式の中に漢字の単語が入ったりもする。単語と単語を分子と分母にして、別の分数とイコールで結んだり、奇妙な世界に入って行くが、その「数式」が文学的表現として、「数・記号」を全く無視して遊んでいるのか、ある程度論理的に考えられたものなのか、判別が付かない。それで、判読するのはやめてしまった。
 言語というものの「論理」の側面は、数学を含めた「法則性と解のある世界」に帰属している。しかし私は自分の言語能力の「論理」の脆弱さを痛感しており、舞台を見ながらそんな痛い気分を思い出したりという事も。
 そんな事でこの舞台の「数式」の導入についての評価は、何も出来ない。
 ただ、言語とそれを使う身体の「関係」(についての固定観念)が相対化される様相が、ダンサーや西尾氏ほかの起用と実演を通して感じられたので、日常言語がそれとかけ離れた代物によって相対化されている様相として、「数式」の事を受け止めた。
 終盤で二人の男女が言葉を交わす場面は美しい。「言語」が、二人の身体(感情)についての情報伝達手段として、実は適さない代物にも関わらず(それしき無いので?)駆使して「心」を探り合い確かめ合う、そんな時間。
 ・・が実はそれは理想化された「私」で、彼女と対になっている女性(タカハシカナコ)が現実の「私」、という構図だと知ると、何やら多義的である。

優子の夢はいつ開く

優子の夢はいつ開く

パイランド

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2015/12/23 (水) ~ 2015/12/27 (日)公演終了

満足度★★★★

チャーミングな毒気
内田春菊の世界(自分も昔漫画を読んだ)を久々に思い出した。演劇のテキストに置き換わっても内田印の香を放っている。かつ、space雑遊で体感したどの芝居とも違う独特な空間--チラシのイメージを立体化した?--の快い肌触りに浸った。
 )冒頭、突如挿入されるミュージカル風の下手ウマな独唱で主人公優子(専業主婦)の住む「小宇宙」が描写され、劇が始まる。古き米国TVホームドラマ風なパッケージがセット(お金持ちの設定)共々提示された感。 鼠の出没の疑いについての言及以後、外部(の人々)の「侵入」に対する無防備さとギリギリの防御の按配がスリリングで、「ある種の侵入(性的な)」を許してもなお主観的には防御戦の延長にあるという内田印ならでは感も一瞥しつつ、始まりは安定した「箱」に見えた家庭(夫と息子がいる)の骨組みも揺らぎ、この「揺らぎ」をも背景としながら、優子が何と対決しているのかよく分からないまま、それでもあたふたと戦う現場に引き込まれている。
 最後にはオチがある(伏線もしっかりある)が、ここに収斂させるには解釈の幅が狭まり、人物の持つ存在感に委ねる余地のある演劇では(漫画等と違って)、「落ち切る」必要はない気がした(・・仄めかすだけで暴露しなくていい)。
 が、そこまでの狂気じみた展開はかなりの毒気を持っているのに、そうした日常があり得る話に見え、軽やかに見れてしまう、そういう世界が出現するのを見る快感は否めない。 
 役者は皆が皆芝居が達者であったが、優子を演じた女優の「天然」具合のハマり方は当て書きか?と目を引くものがあった。
 演出ペーター・ゲスナー氏の守備範囲の広さ(変幻自在さ?)もインパクト有り。

珈琲法要

珈琲法要

ホエイ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2015/12/31 (木) ~ 2016/01/06 (水)公演終了

満足度★★★★

元旦早々
大晦日公演の観劇は体力無く、断念。年明けてアゴラへ参ると、閑散としているかと思いきや意外に席は埋まっていた。
 本作、この再演で初めて拝見。これまで見た青年団リンク・ホエイの舞台や劇団野の上(作者の山田百次主宰)の舞台とは一つ、趣き、というより深まり具合?の違う芝居になっていて、ほのぼの・のほほん・ほんわか といった雰囲気を思わせる題名(ひーとかほーが入ってるし・・)を引っぺ返すと軽い麦でなく(麦も美味いけど)、ずっしりとお米だった。
 三人によるシンプルな芝居。だが語られる事柄の重さ・広がりが、津軽弁の飄けた会話の中から徐々に立ち上がってくる。 
 最後に近い場面、女の口からぽそりと投げられる台詞は、効く。

ネタバレBOX

舞台は簡素だが、その中でアイヌの民族衣裳や、奏されるムックリ(アイヌの口琴)の上手さ、子守唄など、アイヌの風俗がとても丁寧に再現されている。ここに好感が持てた。というより芝居の要であるか。。(アイヌを演じた菊池氏に敬服)
 史実を基に書かれた話という。江戸時代だけにお上の命は絶対、ヲロシア国警備のために派遣された者たち。しかし相手はせめて来ず。 ただ、寒さと飢えの中で人が次々死んで行く。

 ポストトークでの河村氏の発言・・「日本の国はなぜ兵站を軽視するのか」
 確かに、、先の戦争でのインパール作戦、泰緬鉄道しかり。
 日本のアジア進出では、補給路を確保しつつ進軍する計画でなく、中国~東南アジアどこも例外なく、食糧から燃料からを現地調達するという甚だ無責任な方針で、だから強奪が起きたし、逆らう民間人も殺したし、組織的に食糧を奪って百万単位の餓死者をベトナムで出したという話もある。
 南方での玉砕も、餓死すれすれ。米軍の攻撃を受けて辛うじて「戦死」できたという・・・(苦)
 と考えると、「この後先考えなさ」は、文明と合理主義の浸透したはずの今の日本で、もう憂える必要のない心配事、なんだろうか・・
 このところ愚かな決定が頻発している中、最終的に誰も責任をとらない体制が結局何百年も続いてきたのだと、最悪の状況の中で気づくのだけは、避けたいものだ。
ガーデン~空の海、風の国~

ガーデン~空の海、風の国~

オフィス3〇〇

ザ・スズナリ(東京都)

2015/12/16 (水) ~ 2015/12/29 (火)公演終了

満足度★★★★

作り続ける主体
劇団3○○/オフィス3○○はもとより、渡辺えり(子)作品の舞台じたいが初。漸く体験できた。
 80年代~小劇場演劇の賑わいの一翼であったとの説明が、納得のできるスズナリ公演の千秋楽観劇、何かと趣き深いものがあだった。 前作「天使猫」を戯曲で読んだが、確信に満ちたト書き、にも関わらず複雑でよく解らず、「これは見なきゃ判らない」と思っていた所、なじみのスズナリが会場という事で、チケットを購入。
 駅への道中、自転車のチェーンが外れ途方に暮れたかけたが、強引にペダルを回すとカツーン!と嵌り、開演ギリギリに駆け込める電車に駆け込んだ。
 着いてみると外に人が並んでおり(当日券目当てか)、自由席の残席は下手の端の前方、鮨詰めだ。楽日、何と15分押しで開演。だが会場の空気は好意的。客層は意外に若い人が多い(周りは10代後半~20台前半風情)。「渡辺えり」ファンというのが居るんだろうな・・と推察。
 舞台+客席はオーソドックスな組み方で、正面奥は目いっぱいタッパを使って二階部分の壁が見え、下部は奥から人の出入りが出来る。左右の壁も何らかの境界として機能し(それを示すようにコンクリートの隙間に生えたような植物が何箇所か植わって照明が当たっている)、三方の壁に囲まれた一つの「ガーデン」が形作られ、空間として程よく詰まった心地よさがある(箱庭的)。 夢か現か、幻か、謎めいて来た時点で、この舞台が人の想念の世界としても成立するような雰囲気が控えめながら仕込まれていると判る。(美術=伊藤雅子・・3○○とは初仕事のようだ)。
 舞台の中嶋朋子は三度目、毎度堅実な演技と、謎めくと華やぐ風貌でハマり役。驚きは主宰渡辺氏自身の出張り具合、が、終演後の挨拶によれば今回は氏の還暦記念という事で出番の多いこの作品を選んだのだとか。俳優としてもやり手であった。他の俳優も「出来る」役者たちばかり。「塾生たち」として最後に(千秋楽につき)紹介されていた人達も結構いたが、舞台上で遜色なく(出番は少ないが)動いていた。
 渡辺氏が戯曲や演劇について語る時の理屈の勝った印象が、舞台ではどこへやらで、この世界あっての渡辺えりなのだな・・と認識を改める。
 お話はファンジー。冒頭の幻想的なシーンから、突如原始人三人組が登場するが、この三人(渡辺含む)のやり取りが秀逸で、氏がよく口にしそうな持論の片鱗も見えて「らしい」。彼らは「進化」を目指しているが、「なぜそうするのか」判らない。人間の歴史の、あるいはこの芝居の「要請」でやっているのだと半分判っている、という人格を演じ(コントに近いが)、要はメタシアター的な存在たる事を表明(狂言回し?)。この原始人らの行動が人間のゴテゴテした感情のモチベーションを持つとすれば、どこからか迷い込んだ中嶋演じる女は逆に無意識裏に何かに操られている雰囲気で存在する。シリアスな語りをここから広げ、一方ダイナミックな展開の大技を素朴で豪胆な原始人界隈が正当化する、という具合に行き来しながら舞台はヒートアップして行く。
 細かな物語の進行は覚えていない(まず覚えられないと思う)。何やら事態が逼迫して来ると、何らかの「解」を得ようとあがき、想定がなされ、行動し、邪魔が入り、あれこれあって何らかの解決を見る、となるが、このかんの渡辺、中嶋の二役の転換(早替え)も見ものであるし、全体として流れるような進み方そのものが、「予定された事柄」であるかのような後味にも繋がる。技量を要求する芝居であり、主宰が舞台に当然に求めてきたこれがレベルなのだろうと思われた。
 後でアフターイベントやトークのゲスト布陣を見ると、渡辺えりでなければ、という豪華さだったが、千秋楽での渡辺氏の思いの溢るる挨拶は、それをもって替えたいサービス精神の発露であったかと。
 書き手・演出家としての渡辺えりは自らの方法論をとうに確立しており、これをこれからもやり続けて行くのだろう・・そんな想像をさせられるが、「現在」に機能する演劇を生み出す素地があると感じさせる溌剌さも同時にあった。
遅れ馳せであるが今後の仕事にも注目したい。

ライン(国境)の向こう【ご来場ありがとうございました!次回は秋!!】

ライン(国境)の向こう【ご来場ありがとうございました!次回は秋!!】

劇団チョコレートケーキ

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2015/12/17 (木) ~ 2015/12/27 (日)公演終了

満足度★★★★

異種混合が如実であったが成否は如何。
俳優名をみれば大いに期待される陣容、いつもの劇チョコより売れが早く、焦って先のスケジュールを予測し、予約した。個人的な話やや顰蹙を買う結果になったが、その甲斐あってほしいと期待も高まる。
 チョコレートケーキ「らしさ」は題材、脚本にみられたが、舞台上の「世界」は異種のものが同居し、混じり切れない感じが残った。物語の大筋は語り切れているが、劇チョコ単独の公演で遂げられる完成度とは、やや離れてしまった。「それ」を求めていた客には不足感も残っただろうと想像される。
 その一因は、脚本にもある。今回は架空の過去(第二次大戦後の日本分断)が描かれていて、やや朝鮮半島のケースが下敷きになっているが、パロディ的要素も含まれている事もあり、喜劇タッチがそこここにある。これが劇チョコらしくなく、バンダ・ラ・コンチャ的、だったのかも知れない。「リアル」の視点からすると、私としては戸田恵子の演技の質が気になった。最大の見せ場ではきっちり見せ、さすがと感心はしたものの、演技の定型を繰り出すニュアンスがあり、地味でもそこに「存在」しているという様子を感じたいところ、声のトーンで壊されてしまう。粋な農家のおばちゃん的キャラを決めてかかって、「中身」の息づかいが(席が遠かったせいも?)残念ながら感じられなかった。深刻な面は深刻に・・客が引こうが良いではないか、というか引かないよ。その程度で。何をコメディっぽく「上げて行こう!」とかやってんの?と、例によって読み過ぎかも知れないが、ちょっと気になったな~というのは否めない。
 以上は「劇チョコ本公演なら・・」という期待からの評価。
 「物語」はなかなか面白い。(・・と言っても私としてはやはり役者の立ち方と不可分に語れないが) 内戦の波が届かないような奥地にある、「北日本」と「南日本」の境界に近い場所。互いに農民である親戚同士の家族が、それぞれ北と南に国籍上は属しているが実質上、以前と変化なく暮らしている。行き来は自由である。そこに、外部の者が二人だけいる。南と北に属する軍人、「でもしか」兵士というのが居るとすれば彼らのような、といった様子でもある。・・だがこの平穏な村にも「分断」の事実の帰結として、変化が訪れる。対立、関係の変容、そこに兵士達も絡んで、ラストへと流れ込む。 農民たちの土地へのこだわり、素朴さ、単純な家族愛、それを疎ましがりつつ自分自身の人生を探る子供たち、軍人というものの本質、本分。語るべき要素がしっかりこめられている戯曲だ。
 惜しいのは、セットがもう一つ平板で、「土」を感じたい所、板の上を歩く音が興ざめになる。それもあってか、農民たちの「百姓」らしい土っぽさがいまいち感じられず、何かもったいなさが残る。 タッパがある劇場で、高さを感じたかったが、昔のセットのように杉の木立か何かを配するとか、緑、茶、あるいは夜の空の群青とか、視覚的な美しさも、農村にはあるという所を見せてほしかった。・・私は贅沢を言いすぎだろうか。

東京裁判 pit北/区域閉館公演

東京裁判 pit北/区域閉館公演

パラドックス定数

pit北/区域(東京都)

2015/12/22 (火) ~ 2015/12/31 (木)公演終了

満足度★★★★

歴史エンタテインメント
完成度の高い「史実に基づく」戯曲であるが、難点も書かせて頂く。(ああ、歴史と言えばこいつの例の話・・その通り)
 作者の作品には今年、青年座でやった「外交官」にて初めて触れたが、ぜひとも自劇団での舞台を見たいと思った(青年座俳優の演技の質感が書き手の想定と若干違うと思えたので)。 今回は内容も「外交官」に通じる、十五年戦争を総括する場に立ち会う日本人の会話劇で、こちらの方は史実としてよく知られた「東京裁判」、構図も判り易かった。 そして俳優のテンポの良い演技は予想通り、これでなくては、というハマリ具合に納得。
 難点というのは言うまでもなく、登場人物(東京裁判に臨んだ弁護団)5人が、日本側に都合の良い主張ばかり選んで構築し、負の歴史(加害の側面)を見ず、自分を負かした相手に文句を言う事だけやっていたい日本人にとって心地よい、ガッツポーズの出る戯曲として作られている点だ。・・それを言っちゃ実もふたもないのだが、しかしエンタテインメントとしては知らなかった事実も(よく調べたものだ)知れたし、最近睡魔を覚えなかった芝居は少なく、その一つであった。
 「うまい」という評価は「良い」内容とセットでなければ意味がない。上に挙げた長所は実のところほめ言葉ではない。なら良い所はなかったのかと言えばさにあらず。
 (以下ネタバレで)

ネタバレBOX

日本の「戦後」を嘆く向きに一理あるとすれば、それはアイデンティティの問題だ。一度日本人として徹底して自らに負わせられた不当さに抗い、弁明する、それだけの誇りと責任を「自国」に対して持とうとする態度は、正常だと思う。 確かに自国民意識は戦後、希薄だった。実はそれは米国への信頼(実は従属)とともにあり、在日米軍に撤退していただく好機であった冷戦終結後も自ら望むかのように米国追従を正当とする言説にすがり続けているのは、憂うべき現状だ。そうなっている理由は、日本人が何か大事なものを抜かれてしまったからに他ならない、と考えるのも正常だと思う。だから、正常さを取り戻すために敢えて、東京裁判にみられる欺瞞を的としつつ、自らの正当性を主張するのは通過点として「有り」かも、と思う。
 もっとも小林正樹は批判的な視点で既に映画を撮っているし、この種の主張は右からも左からも言われてきた特段新しくもない代物だ。ただ、右からは戦前回帰を望むかのようないささか幼稚な主張、左からは原水爆禁止の視点と米国追従批判という風に、パターン化と言ってはナンだが、ありきたりのスローガンに耳が馴れてしまった感すらあったのではないか。
 そういうものを知らない世代には、改めて史実に触れる機会になっただろう。
 だが、年寄りくさい事を言えば、日本の国内だけで通用する従軍慰安婦否定論や南京大虐殺についての言説が、「相手国批判」とセットでしか発されない事に表われているように、冷静な歴史論議とは別物である。と同じく、東京裁判の不当性に対する憤怒からの言動も、対欧州イシュー(満州へのリットン調査団、国連脱退~対米戦争)が深刻化する以前の事実(アジア侵略・収奪)に一切触れないことに特徴がある。
 戦争で行われた殺人は通常、殺人罪には問われない・・、とは言っても、南京事件の起きた対中国進出を日本では「事変」と呼び、宣戦布告を伴わない不当な戦争、との非難をかわしていた、にもかかわらず実際には「民間人」を死なせている。
 劇中、東京裁判の弁護人の主張でパリ不戦条約の規定(=民間人殺害は戦争犯罪)にも言及されていたし、それは米国の原爆投下が焦点化した所で出されているのだが、日本軍は原爆よりうんと以前に民間人を殺しまくっていた。(「まくっていた」、という表現が事実に近い・・と私は知り得た事実から判断している。)
 そんな事で、今回の芝居の「東京裁判」が描いた史実とその視点をそのまま受け入れてしまっては困る、という思いはある、ものの、実に面白く見れる作品であることは確かで、これだけの筆力があれば、日本にとって今は「不都合な真実」とされている事実も織り込んで、骨太な作品が書けるのではないか・・ 主義主張の違い?と言われれば黙るしかないが、正直な所である。
ドアを開ければいつも

ドアを開ければいつも

演劇ユニット「みそじん」

atelier.TORIYOU 東京都中央区築地3-7-2 2F tel:03-3541-6004(東京都)

2015/12/24 (木) ~ 2016/01/12 (火)公演終了

満足度★★★★

通りからそのまま、お二階へどうぞ。
昇りきって右=入口で靴を脱いで廊下を行けば、すぐ受付。家屋がすでに「おうち」の雰囲気で、小さい頃親戚の家にお邪魔した時の、知った間柄でもちょっと遠慮がちに、きゅっと締まる感じがして懐かしくなる。そういう古い木造の内部だから気分はこの「場」のワールドの浸潤を受けている。廊下の行き当たりを右へ。見れば六~八畳に椅子と座椅子が置かれているが、詰め詰めでも二十人位ではないか。真に親類縁者を招いてのお芝居披露の光景で、これは贅沢というのだろうか。演劇界では著名な俳優諸氏の顔も。
 四人姉妹のお話は、借景のリアリティにやや及ばないながら(・・何しろ「場」が満点はじいてるので)拮抗するだけの家族ドラマを作れていたのではないだろうか。 難点を言ってしまえば、リアリティという点で、たとえば家族同士なら互いを知りすぎている分、もっと大雑把が許されたり、悲壮な事には決してならないところ、思いを改めて言葉化したり、普段と違う反応が起きるという展開のためには、お互いの何かが掛け違うための事件や、非日常的な状況が舞い込むとかがほしい。後半、「悲壮」の土俵に乗ってからの、互い互いの反応の引き出し合い、ヒートアップの具合はよくぞやりました、と判子を捺せた。ので、そこは惜しい。 
 ・・胸にしまい続けてきたものをついに吐き出さずに社会に出、結局はしまい続ける事になるんだろう・・それが家族という共同体を「成立」させる方途であるとわきまえていたりするし、不条理と混沌の揺籃期をどうにかこうにか経て抜け出せたからこそ、今の自分がある・・ 家族とはそういうものだと割り切っていたりするものだが、それでも人としての権利や平等、正義を求める心は「過去」に触れて叫びを上げる。これを言葉にしてout putし、心にたまった澱をそぎ落とす機会など現実にはそう訪れないことだろう。 この芝居はその意味でHappy Christmas!なドラマだ。何よりも、この「吐き出し」の儀に体当たりした役者の入魂ぶりに、感動を催すのだろう。
 廊下を通って靴を履き、階段を下りて築地の通りへ。単なる「場所借り」でなく建物に入った時点から「演出」の守備範囲の中にあり、芝居ともども成功していた。
 ただ贅沢を言えば、選択された「場」は時間の経過、ギャップをはらむので、完全なるハッピーエンドというのは(「場」と芝居がリンクしているなら)懐古主義にとどまる、という事に理論上なるし、実際のところ自分の感覚としてもそうだった。よいお話をパッケージとして提示した、という事にとどめない「何か」を、感じたいというのは正直な(贅沢な?)願望だ。
 具体的にどこがどうとは言えず、また今回の公演が作り手の主観としてはどうなっているか、読み取りきれていないかも知れないから、ここまでとする。

『うそつき』/『ジョシ』『紙風船』

『うそつき』/『ジョシ』『紙風船』

アマヤドリ

スタジオ空洞(東京都)

2015/12/21 (月) ~ 2015/12/23 (水)公演終了

不足感の理由
「紙風船」と「ジョシ」の二本立て公演は少々寂しいものだった。岸田國士作「紙風船」の演出は、夫婦の喋りの口調や発声の奇抜さ、その組合せを楽しむもので、随分以前参加したワークショップの光景(台詞を極端に感情を変化させながら言う・・とか)を思い出し、あれと本質的にどう違うのかな、、という感じだった。この作品をある解釈に基づいて演出を施したという苦労が感じられず、ただ古典と言われるものをいじって遊んでみたい以上の動機を汲み取れなかった。「遊び」は良いのだが、方法論に思想が無いか、薄い。 ただ、二人の台詞の緩急の付け方や、動きは面白く、そこに何かを読み取るとすれば「現代への置き換え」であったか。。もっとも現代のリアルな二人が居る、というアレンジではなく、先述したように「奇抜」な発声がくり返されるので「置き換え」という意義深い趣向は否定されているが‥その「部分」になり得る瞬間はあった、という事だ。
 「ジョシ」は入団したての双子の女の子による、二人のために書き下ろしたような劇。一人の人生のバトンを引き継ぐ者として出現した「もう一人の自分」のような存在とのやり取りが続く。そこには有限なる命をどう意味づけるのか、納得するのか、という問いが含まれているようだが、作者の観念を台詞に起こしたようなもので、具体的な(人間)存在がぶつかり合う、その現象として書かれているとは言い難い。演劇はやはり人間がそこで出会い、そこで化学反応を起こし、つまり身体性の制約の中に実現する点に快楽がある芸術である(と私は思う)、ので、ただ他人のコトバを喋る道具としての身体を観るのでは折角の演劇が甚だ退屈なものに終わってしまう。(台詞を血肉化できていない俳優の拙さもあったが血肉化=身体を潜らせ得る言葉であったかに疑問)

 番外公演だからか安く料金設定しているようだが、果たして安いのか・・・まァお金の事は追及しないにしても、出し物としてこれで良いとしているフシが気になった。
 作品に戻れば、「紙風船」については、最も取り上げられる事の多い岸田作品を選んだ理由、「ジョシ」については、生身の二人が居る場面での演劇的リアリティを、掘り下げてほしかった。特に後者は戯曲として洗練の余地あり、(本当に書きたい内容だったのなら、の話だが)練り上げてほしい。

書を捨てよ町へ出よう

書を捨てよ町へ出よう

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2015/12/05 (土) ~ 2015/12/27 (日)公演終了

満足度★★

作品の中で一つの視点を貫徹する必要性の無い、という事は作り手(この場合藤田氏)にとっても必要のなかっただろう、作品。
原作はドラマでもなく元々は同タイトルの著作(論じる対象も多岐にわたる)、しかも寺山の代名詞にもなり得るタイトルだから、要は作り手が寺山の仕事から何を「自分にとっての問題」として発見し、汲み出すのか、という話になるんだろう。一つの視点に立って数多ある寺山のテキストや仕事からチョイスし構成する事で、今の自分にとっての寺山修司とは。という作品になる。が、今回の舞台で藤田氏は一体何をやろうとしたのか、やりたかったのか、果たして「やりたい」何かを本当に見つけたのか、怪しいと訝ってしまう。 もちろん作者なりの「説明」というものはあるんだろうが。。
 如何に抽象的な「アート」に属する作品でも何か全体としての統一感がみられたり、オチが付けられたりという事があるが、今回のにはその「感じ」が無い。何かおいしいコンテンツ(例えば又吉のインタビュー?)を並べて、お茶を濁している、間をつないでいる。 空間構成や多分野の仕事を組み合わせたりするアイデアは色々と持っているんだろう、けれども・・・自分で探してきたものでなく提供された素材を組み立てた作品なのかな、と疑問が湧く。子供の絵みたく、それとしての味わいはあっても、だったら低予算でクレヨンと画用紙でいいじゃん。と思ってしまう。藤田氏に与える玩具、前回の「小指の思い出」で感じたが、高価すぎやしないか?と思う。「大人」達は一体彼にどんなものを期待してるんだろう・・未だよく判らない訳である。 自劇団の作品はそれなりに面白く見れた。もっと「自分」発での舞台世界の構築に専念してはどうか。

(評価の高かったらしい「cocoon」は観ていないのだが、原作を読む限り、ある人々にとっては適度な刺激=「戦争への想像力の喚起」を伴う甘口のメッセージ性を持ちそう‥との印象。その社会派的イメージと相まって過大な評価をしてしまったのではないか・・・と推測。意地悪くみているつもりも、恨みも全くないのだが。)

ネタバレBOX

例えば足場を組む、そういう所から芝居を始める、悪くない始まりだ。眼球の話も期待を持たせるにバッチリ。だがそれ以降、混迷する。 キャスター付きの足場を位置替えしたりして、場面を転換するが、何のためにその場面がそうである必要があるのか、必然性のみえない所で場転の作業だけが生じている。これをもって「労働者を食わせるために仕事がある」、それは有りだ、という思想でも良いだろう。だがそれならそれを示唆する別の何かがあり、二つを繋いで「示唆」を読み取る、その材料は欲しい。
 ファッションショー的な場面もあった。後から読めば衣裳スタッフがそういった仕事もやっている人で、だからあれをやったのか?・・・だとしたら安直だ(というか意味がよく判らない)。 音響とは別にドラマーが生演奏をする。ジャズ系のうまい叩き手だが、演奏者自身がこの劇に対しどういう構え方で叩いているのかがこれまた判らない。何らかの指示はもちろんしたのだろうが、見る側からすると方向性が不明。映像で登場する二名の話も同様。それらの「要素」そのものは興味深く見れたりするのだが、それらが構成する全体は何であり、どう全体に貢献しているのか分からないんである。
 そりゃ、映像に出た二人はその道のプロだし、ドラマーも衣裳担当も、もっと言えば照明も音響も、プロだからそれ自体で「ウマいなァ」「綺麗だなァ」と賞味できる。さて、いったい演出はどこにいるのか。
これと、これを使って一つ舞台をお願いします、と依頼され、確かにそれらを使って作りました。うまく繋げたでしょ?それが何か? と言っている声が聞こえる、ほどひどくはなかったと、思う。 その声が聞こえるような舞台とは、失礼ながら白井晃演出のそれ。三作観たうちのどの舞台にも感じてしまった。
汚れつちまつた悲しみに…―Nへの手紙―

汚れつちまつた悲しみに…―Nへの手紙―

桜美林大学パフォーミングアーツプログラム<OPAP>

桜美林大学・町田キャンパス 徳望館小劇場(東京都)

2015/12/13 (日) ~ 2015/12/20 (日)公演終了

満足度★★★★

懐かしき日を、激烈に懐かしむ。
学生たちによる、文士(崩れ、或いは卵)達の魂のまるで憑依したような烈しい形象は、拙さの残る身体からどの方向へも絶えず放たれる熱によって、却ってしなやかさを帯び、それらが人物の半端なくぶつかるドラマの全体を「青春」の切なさに染め上げていた。 文学者なら、詩人なら、かくあるべし・・・、そして愛欲。 中原中也と小林秀雄、その共通の女性のエピソードから若き頃の作者が書き上げた「痛い青春」の一コマ。痛く烈しい「青春」の渦中に作者もあったと思わせる筆致の鋭さ、演劇への情熱の形もしのばれる。 水が、食い物の欠片がまき散らされ、役者に体当たりの演技をさせる場面がそこかしこに仕込まれている。それらは恐らくこれに取り組んだ学生にとって、そしてその結果、観客にとっても、「身体」なるものと向き合う時間となった。 思い出すと、血が沸き立つてくる。

海の五線譜

海の五線譜

青☆組

アトリエ春風舎(東京都)

2015/12/05 (土) ~ 2015/12/14 (月)公演終了

満足度★★★★★

「固有である」ということ
アトリエ春風舎の空間に申し分なくはまった・・というより使いこなした舞台。黒光りする古い木板の床や、少なく不便な出入りルート、そして空間のサイズそのものも「虚構空間」へと動員して、普段は頭から離れにくい「春風舎で見ている」感覚を、忘れるほど完成度は高かった。
 多言を弄しても掴まえる事の出来ない美、瑞々しさ、もう一つ(いや沢山)去来させるドラマ上の「何か」には、ただただ作り手の充実した創造の仕事がしのばれる事よ、と返すのが精一杯である。
 終演後、階段を上った出口にややご高齢の夫婦が居て、見送りに出た役者二人程に嘆息を漏らしていた。ふだん劇場に行きつけている様子でない、何がしか縁故あって時々芝居を見に重い腰を上げてやってくる、そんなタイプ(勝手な推量だが)に見えたその女性は何度も「よかった、よかった」・・と、幾ら言っても言い足りないとばかりに繰り返していた。一足先に劇場を出た後、その夫婦と私以外客がなかなか出てこない。「そうだやはり台本を買っておこう」と階下に下りて購入。チラと見ると多くが客席に座ったまま、舞台のほうを見ていたりアンケートを書いている。
 この光景が全てを物語ってるナ・・と良い気持ちになって劇場を離れたものであった。

 青☆組観劇は多分3度目くらい。存在は随分前に知っていたが、チラシの体裁等からイメージしていたのは「女の子らしい可愛い日常を描く小品」。ところが意外に骨太な構成をもつドラマを書く。 特徴は「過去のある時代」の風景を、往時をしのばせる「嗅覚」に訴えるような風俗をうまく取り込んで、世界を再現、再構築する。青☆組の舞台の重要なポイントだろうと思う。
 過去へと遡り、「その時代」でしか起こりえないディテイルを組み込んだドラマが展開する。この「時代性」のこだわりは、話じたいはフィクションだが「確かにこういう時代があった」、という事実のほうに重きが置かれているということである。 その時代にも人々は健気に、懸命に生きていた、その証であるそれらの風俗が、逆に現在を照らしてくる。 様々な「変化」を疑わず(携帯電話の普及が如実)、次々と過去へ置き去られていく、この「変化」への鈍感さ(適応のよさ?)は実のところ、「支配する側」には大変都合のよろしい性質に違いない・・・とそんな事も思う。

 今回の芝居、隙やほころびが殆ど見られない完成度をみた。もっとも、本当に良い作品に「完成」という言葉は使いたくないものだが、敢えて使うなら、この「完成」に対し、ひねた私はまず困惑するのである。
 演劇という芸術が「完成」をめざす営為であるのは当たり前なこと。だが、皮肉なことに「良い終わり方」で気持ちよくなる分、考えない。それでよいのか、と考えてしまう。
 今作も、「気持ちよく」終わる。感動がひたひたと来る。「海の五線譜」に感動したのならその所以は何か、私としては掘り返すべきなのだが、ただ感動の後味のまま、寝かせておきたい心情がある。
 しかしそれでは×だと、自分の声が言うので少し書いてみる。 ・・劇中のエピソードは決してありきたりではない、珍しいと言えるだろう、ただし誰しもこの程度の逸話は持っているものかも知れない、と言う程度のものでもある。 絶妙に独自性のあるお話を通して、この芝居は人生、愛、世代の継承、自分自身とは何かについて、問いを静かに投げかけている。
 この台詞に無い「問い」が可能であるのは、優れて「固有」な、確かに「そこにあった」お話としてリアルに再現されているからだ。
 しかし同時に、「固有」なものとして現前しているほど、一回性の生の儚さが息を吹き込まれた人形のように存在してしまっている。これはもう儚み、いとおしむしか手の出しようがない。
 かくして、この物語の登場人物---皆が皆切実な生を生きている---の輝きや「存在」感は、手の内におかれた命のようにそっと胸にしまいこむしか、やはりないのだ。 謙虚にそのことを認め、作者、そして俳優諸兄にありがとうを言いたい。

ピアノと物語『アメリカン・ラプソディ』『ジョルジュ』

ピアノと物語『アメリカン・ラプソディ』『ジョルジュ』

座・高円寺

座・高円寺1(東京都)

2015/12/18 (金) ~ 2015/12/20 (日)公演終了

満足度★★★★

評伝と音楽(「アメリカン・ラプソディ」)
ピアノ生演奏付の朗読舞台「ジョルジュ」と「アメリカンラプソディ」のうち前者は前に観ていて、後者を観た。 作者斎藤憐(れん)は劇作家の御大といった所で、硬い文体(台詞)のイメージが強かった(人間はそうでなかったようだが)が、ガーシュウィンの音楽の人間臭さ、猥雑さゆえか(彼はジャズの元祖とされている)、ぐぐっと迫ってきた。エピソードを時にユーモアをまじえて紹介し、硬いというより丁寧な文体は誠実で、ガーシュウィンの人生とその仕事に体するリスペクト(愛)がそれを説明するまでもない感じで伝わってくる。
  「語り手」として書簡を交わしあうのは、ガーシュウィンと縁のあった男女だが、それぞれ彼の人生にそれなりに噛んで居り、単なる紹介者でなく、次第に彼と彼を取り巻く人達との関係、時代との位置関係が像として立ち上がってきて、最後は作家の逆転勝利。即ち、演劇的感動が実現する。(感動の度合いの点では自分がジャズに傾倒していた事が大きいかも知れない)
 中央のグランドピアノには佐藤允彦がつき、それを挟むように上手にケイ(女性)、下手にヤッシャ(男性)が立つ。女性は声楽家の土居裕子が演じ美声(歌)を披露するが、演技も意外に深い所に達していた。男性は低い美声を持つ俳優座の斉藤淳(歌は披露しないが)。
 この「劇」の主役は、その生音が披露される「楽曲」である。それがまた彼の実人生という背景の前で、生き生きと立ち上がる。よく知られた「ラプソディー・イン・ブルー」は中でも大曲で、ジャズピアニスト(の中でも「楽譜を見て弾ける」基礎の出来た知性派の印象があった)佐藤允彦の演奏を通して、これが作曲者本人によって披露された1920年代当時の人々の驚きが想像させられ、唸った。同モチーフを繰り返しながら即興的に発展して行く形態は、ジャズそのものと言えるが、発展形のバリエーションの幅が大きく、構成に意図が感じられるので、即興演奏「的」ではあるが完成度の高い一つの楽曲である。
 ヨーロッパからの輸入でない、アメリカ独自の音楽を生み出したと評されたこの音楽家はロシア系ユダヤ人の移民の息子。黒人音楽から発展したジャズの要素を取入れて楽曲を作った彼自身は白人だが、小さい頃は喧嘩ばかりして育ち、ピアノに出会ったのは14歳という。急激に入れ込み、15歳の時にはピアノ弾きとしてお金を稼ぎ始めている。クラシック畑の評論家からは絶えず酷評を受け続けたが、大衆からの人気に押されてピアノ楽曲を書き、カーネギーの舞台も踏んだ。ブロードウェイへ楽曲を提供して興業的な失敗も経験するが、その一方で彼は自らの音楽家としての課題=オペラ楽曲(だったか、交響的な本格的楽曲)に取り組むため、管弦楽器の作曲法を学び直したりしている(一度ラベル、いやリストだったか‥に申し込んだが「天才に教える事はない」と断られている)。音楽というtoolを天から授けられ、それと共に爆走したガーシュウィンは多くの浮き名も流しながら、39歳の若さで天に召された。
 ジャズに入れ込んだ者としては、ガーシュウィンという存在はジャズ史では上代の領域の人。常に発展進化する宿命を課されたジャズは現在進行形での「変化」に躍動するものでもある。ゆえに過去作品に遡るのもせいぜいビバップ止りであった。だが今回の「音楽」の物語は当時の躍動する「変化」の場面に立ち会わせてくれた。ジャズへと繋がる瑞々しい萌芽、であると同時にそれ自身として輝く作品がそこにあった。

ネタバレBOX

若干の考察。。作者の「言葉」の媒介の働きが、大きいと思う。音楽はそれじたいで美を放つ、それが普遍的価値のある芸術、という言い方は間違っていないが、人間自身は変わる。時代の文脈の中に生き、いつしか内部に育んだ文化的な条件を下地にして芸術を味わう。 私たちはこの「下地」を耕し続けているのだと思う。他者の言葉や「作品」を鋤にして。それが偏狭から自分たちを救い、豊かさを地上にもたらす・・とこう行きたいものである。
 先人の仕事に感謝。
紛争地域から生まれた演劇シリーズ7

紛争地域から生まれた演劇シリーズ7

公益社団法人 国際演劇協会 日本センター

東京芸術劇場アトリエウエスト(東京都)

2015/12/16 (水) ~ 2015/12/20 (日)公演終了

満足度★★★★

「物語」の普遍性
今年7回目、毎年観るなど、況や全作品観る事など到底無理(時期的にも)だが本当は観たい・知りたい・参加したい企画だ。 「第三世界」という言葉はまだ有用であるのか知らないが、その演劇に触れるのは貴重。厳しい状況は演劇の価値を試される試験場のようにも思える。
三演目の内、フィリピン作家作品を観劇した。音楽劇だという。それで、リーディングにもかかわらず鳴り物・楽器を使った贅沢な出し物になっている。役者に加えて音楽担当もおり、端のほうで演奏する。役者も全員道具や楽器を使う。演出は黒テント出身、立山ひろみ。 リーディングという「分野」の可能性の点でも、興味深い演目。
 作品が取り上げているのはミンダナオを拠点とするモロ民族解放戦線とフィリピン政府との対立(紛争)問題である。 最近はこの問題を知らない若い人が増えているので、子供にわかる劇を、との注文を受け、作ったものだという。父母を失った兄妹と仲間が旅をし、やがて散り散りになり兄妹も分かれてしまう。そして兄はある土地のギャングに取り込まれ・・ 妹との不幸な再会、だが困難の中、勇気ある選択へ・・・「子供」目線で見れ、大人の鑑賞にも堪えるドラマだった。音、音楽の使い方も良い(出演者の一人が時々自動とあり、音楽担当もそうかと思えば所属が記されてなく、不明。ただ、それっぽい雰囲気。良い意味で脱力させてくれる音楽は私たちの皮膚から入り込むように心地よい。)
 戯曲を発注したのはPETA(フィリピン教育演劇協会)、かの地では住人の意識啓発や自立のための演劇を用いての活動が広く根気よく続けられており、70年代からPETAと交流のある黒テントを通じて今回紹介されるに至ったという。 
 お話にはイスラム教(モロ)と多数派のキリスト教の対立が描かれている。そうした対立がなく共存状態にあった村に育った兄妹は、それぞれキリスト教とイスラム教と宗旨が違っても普通に過ごしていた。ところがあるとき二人の何気ない会話の中の「イスラム」という言葉を、ある平均的なキリスト者の家庭(集団?)が耳にしただけで警戒し、さげすみ、排除する、という場面がある。
 この対立を利用・助長する勢力(はっきり言えば体制側)に同調するキリスト教マジョリティの存在が、ここ日本の、ある局面での自分と重なって来たりする。鋭くて痛い場面だった。
 優しく人間的なこの1時間のお話は最後まで「問い」を発しながら終わる。 観客に「あなたはどうしますか」と問いかけるが、(当然?)反応はなく、「そうか、今、考え中なんだ」と言う。「考え中」・・この語が何度もり返し発される。
 お説教でなくエンタテインメントでありながら、「問題」をしっかり刻みつけるお芝居、一つの判りやすい見本のように思われたが、「子供たち」と言えば、今の日本はどんな状況だろうか。
 正しいと信じることを大人も言えない時代の、子供の「知る」環境の劣化は考えたくもないが現実なのだろう。 
 ・・・・今は言いづらいが時が経てば言える時が来る、<今は忍耐の時>。だがその<今>は延長・更新され、「喋らない」我慢もいつしか追加注文され、受け入れてしまった日本人。 大人よりも、未来を担う「子供」への、演劇の可能性を探るのが今や正常な態度かも・・ともふと思う。さほど深く考えている訳でもないが、コトバにはしておこう。

高学歴娼婦と一行のボードレール

高学歴娼婦と一行のボードレール

猫のホテル

こまばアゴラ劇場(東京都)

2015/12/10 (木) ~ 2015/12/17 (木)公演終了

満足度★★★

ある女性についての女性の筆による劇
実話を基に書かれた舞台だというが、その基の事実が説明されない事には評しようがない所があった。台詞の中にヒントは散らしてあったようだが。前半、劇団員男子のだべりの戯れは団員の長い付き合いそのまま舞台に乗った塩梅が自然で緩急もよい。見事。「事件」の被害女性をめぐる、やや下品た会話の、隠微な部分への「踏み込み」具合が絶妙である。一転、いつしか男が消え、女性二人による対話のシーンでは、事の本質(女性の存在のあり方=生き方)に迫るやり取りが展開するが、これが非常に抽象的で、「何か切実なものがあったのだ・・」とある結論らしきものを仄めかして去る、と行きたい所、そのために置いたヒントが、ボードレールの詩、しかしこれがあまりピンと来なかった(何と言ったかは忘れた)。 他の何かでも置き換わる抽象度の高い表現で、着地がいまいち、対話の内容も熱をこめて語るわりに、語る役者の口に馴染んでいないのではないかと勘ぐられるような具合だった。 
 言うなら「思想劇」。・・これは余程深く思考を潜らねばやれない代物という事だろうか。 それとも、女性被害者をめぐる劇の言葉は、女性からは共感を獲得できていたのだろうか・・。

 ところでこの公演の趣向としてバーのママ役が日替わり(三名)で、おそらく出演者の参加事情からなのだろうが、私の観た回は平田敦子、体格さながら演技者としての骨太さを間近に堪能させてもらった。

宮地真緒主演  「モーツアルトとマリー・アントワネット」

宮地真緒主演 「モーツアルトとマリー・アントワネット」

劇団東京イボンヌ

スクエア荏原・ひらつかホール(東京都)

2015/12/08 (火) ~ 2015/12/10 (木)公演終了

満足度★★★★

演劇を建てるには音楽を犠牲にしなければならない、、のか。
東京イボンヌ初観劇。その期待を「観たい!」にも書いたが、舞台上にクオリティの高い演奏家を置き、芝居にもしっかりと噛む。如何にも贅沢な、未だ観ない光景だと思った。私の一方的な期待だが、舞台はそれとはやや違って、その違いは、この舞台を「演劇」として観る場合、大きかった。 「未だ観ない」とは括弧付きで、オケ付きの「舞台」としてはオペラがあった。こちらは得意分野では全くないが、ズバリ今回の舞台はオペラかオペレッタの崩しみたいだ、と思った。
 モーツァルトが登場し、声楽家も居るので「フィガロの結婚」の一節が歌われてもおかしくないが、本格的な声楽家(欧州在住日本人の声楽家をわざわざ呼んだというから気合いは半端ではない)が、そこでフィガロを歌ってしまったら、そこはフィガロの空間以外の何者でもなく、それを包みこんで物語が流れるはずの「芝居」のほうは、こいつには到底勝てない。
 全体にコメディの味付けが濃く、近世ヨーロッパの王道的傑物二人の懐の内に遊んでいるといった感じで、そうした細かな笑いを挿入することで傑物の傑物たる所を引き立てているとしても、以上にはならない。
 ドラマとして見た時、超有名人であるアマデウス・モーツァルトとマリー・アントワネットが何ゆえ「特筆」されるべき人物であるのかを、作家独自の視点で「説明」し得ているか・・それが気になった。 一般教養のレベルで、少し勉強すれば判るだろう・・、という前提を受け入れるにしても、作家自身の捉え方は作品の中に一本なければならないように思う。
 プロの声楽家にオペラの一節を歌わせること有りきで、その上で「演劇」を成立させるギリギリの努力をされたのだろう・・が、相対的に「演劇」が疎かになったとの評価は、否めないように思う。
 そのポイントを幾つか羅列すれば・・

○構造としては「芝居」が始まり、その中に「音楽」が組み込まれる、という外形はとっているが、「フィガロ」の一場面が歌われると、その場面の位置づけがあやふやになる。「オペラが上演されている場面」なのか、「芝居の進行上の挿入歌」なのか、何らかの意味を付されねばならないが、この舞台では「ひらつかホール」で声楽家が声を披露している」という事になってしまう。もちろんその側面があってもよく、それで拍手が起きてもよいのだが、しっかり「演劇」の中に組み込まれているかが問題だ。
○他の演奏場面も、「上演・演奏風景」として位置づけられている事が多かったが、生演奏の再現力はドキュメント性を強く持ってしまい、一節の終わりまでしっかり演奏する事で尚更、音は独り立ちしてしまう。「上演・演奏風景」以上のものになる。つまり「ひらつかホール」で演奏を披露している、という事にやはりなってしまう。
○これには、(他の投稿にもあったが)「物語」の流れに沿った音楽であったかどうかが「音楽そのもの」から伝わって来ないという事が大きかったのではないか。有名な曲目をチョイスしたのだとすれば、そのチョイスの仕方が既に「音楽・演奏ありき」で「演劇」は二の次だったとなりそうだが、実のところどうだろうか・・。
○また、これを言っては身も蓋も無い?が、複数の声楽家を招いたことで一定の「披露の場面」を準備することとなり、歌の比重が大きくなった、その事で「物語に沿った音楽」という使用はいよいよ狭まり(オペラ曲では尚のこと)、モーツァルトの仕事の中でも歌劇が前面に出ることになった。その事がストーリーの組み立て(あるいはモーツァルトという人物の位置づけ)に与えた影響は無かっただろうか。。
○同様の難点は、舞台の上方に演奏者がデンと終幕まで座って、「演劇」の中に生きる存在として見えにくいという事もあった。(他の難点がなければさほど気にならなかったかも知れないが)
○モーツァルトの音楽が「民衆」に対して、本来寄り添おうとするものだったという視点、モーツァルトの中に庶民性を発見する事が、フランス革命をドラマに大きく取り込むことの意味になると思われるが、(でなければ例えば、逆に彼の中の貴族性が暴かれ、彼自身の=神との約束との=葛藤が浮かび上がる、といった展開も可能?) フランス革命に対し懐疑的な描き方がされており、はっきりして来ない憾みがある(能力のないリーダーが威張ってみる等のギャグ)。 ・・権力の肥大化、その挙句の絶対王政の下、硬直した社会システムに苦しむ人々、そしてついに暴動に至った、つまり、「不平分子」が居たり「洗脳」によっては、大規模な革命など起きない。革命の前に支配と権力があり、沈黙する民衆はその下で疲弊する。さてそこへアマデウスは自らの音楽で何を変えようとしたか。そして「何に挫折したのか」、そこを鋭く描いてもほしかった。
彼の音楽が受け入れられていく、人気を博していく、という導入は良いが、人気の中身が何であったかについても、知りたい所だった。
○マリーとの接点は、フィクションであって良いけれど、モーツァルトがどこに立っており、マリーとどう出会ったのか(人に理解されない穴を埋めあう、とか、政治的立場が違うにも関わらず惹かれあう、とか・・)、アマデウスの物語にとっての、マリーの存在の「意味」。
○神に頼んで地上に降りたモーツァルト、という着想は色んな可能性を孕んでいると思う。ただこの部分にしても、神世界に属する存在が「人間」になった時、初めて発見することというのがありはしないか。それとも今回は何度目かの事か。何のために彼は人間界に来ようとするのか、そのメリットは・・。そういったディテイルはとても大事だと思う。彼にとっての「超課題」は何か・・「演劇」ならそここそ重要だと考える。

 難癖ばかりになってしまうが、舞台装置は見た感じからして辛いものがあった。横に長く、前後に狭い。中央で芝居をやると役者がはけるのに時間がかかったり。中央の(高台二つの切れ目の)通路はいまいち利用されていない(使いづらかったか)。上段に楽隊が占め、上手中央寄りにピアノも置かれ、動線の工夫も大変だっただろう。
 (これらも「演奏を聞かせるパフォーマンス」の一つと見直せば、有効な形なのかも知れない)
 様々な条件を制約と抱えながら舞台化を遂げた努力はしのばれ、「思い」のようなものは感じる、ものの、「演奏」を「演劇」(物語)の中に美しく組み込む試みは、まだその「始まり」に思えた。 難しい取り組みを、それでも取り組み続け、成果をあげて行って頂ければ私は嬉しい。
 ・・・と「演劇」(私定義による)好きの一人が長々と申したが、単に「違う路線」ゆえの「違い」に過ぎないかも・・

杏仁豆腐のココロ

杏仁豆腐のココロ

海のサーカス

ザ・スズナリ(東京都)

2015/12/09 (水) ~ 2015/12/13 (日)公演終了

満足度★★★★

「アジアンスイーツ」と同じスズナリで鄭義信作のスイーツを。
何年か前の「アジアンスイーツ」(鶴田まゆ、清水宏二ほか二人出演)は金久美子のために書下ろした遺作(金にとっての)の再演だったが、今回の「杏仁豆腐」は13年前の初演で演じた佳梯かこ本人による、相手役を新たにしての二人芝居。やや年齢差が気になる(佳梯氏のほうが幾分年を重ねている分、夫婦関係の設定が限られてくる)。次第にそれはそれと見えて来るが、鄭演出の「笑いをおいての、涙」への急落効果を成立させる演技面の要求に、夫役・久ヶ沢徹が必死に応えようとはしているがその分だけ夫婦関係のあうん、距離感、濃密感が出なかった嫌いがあるんじゃないか・・という風に思った。どうにか成立していたし大きな拍手をもらって良い芝居だったと思うけれど・・。
 ただ、後に明らかになる「不幸」(即ち別れの原因)を巡って、語る口が男の本音のありかを「それを口実に別れたいだけ」だとみる余地を与えていた(そう見えた)ので、これは狙いとは違うのではないかと想像する。後からそう思えて来てもそれはそれで良いが、その瞬間は本当の愛、愛ゆえに別れるという事が本当にあるならばその本当の愛が、肉感的に見えたかった。二人の(実年齢の)年の差は舞台上の夫婦関係にも影響していて、夫は最後には相手に強く出られない、という設定に見えなくなく、「愛ゆえに別れる」苦悩の深さを出すのは至難にみえた。
 しかし鄭義信の戯曲には心をさっと刷毛でさらうような、清涼感がある。ドロドロした夫婦の物語であるのに。実は二人は結局別れないのではないか、とそんな風にも見えるのは、多分戯曲の狙いではないんだろうな・・。如何に二人らしく「別れる」のか・・そのために二人は今そこでの時間を過ごしている。そして、そこには間違いなく愛がある、そんな贅沢にドラマティックな状況は、そうない。
結論は、「愛」である。

緑子の部屋

緑子の部屋

鳥公園

こまばアゴラ劇場(東京都)

2015/11/27 (金) ~ 2015/12/07 (月)公演終了

満足度★★★★

迂遠の虜
ここにいない緑子と接点のあった二人の男女と兄による会話劇。ただし読み解くのは至難だ。目の前で展開する言葉のやりとりと行為は、しかし不思議と何らかの背景に裏付けられているように見える。
 終盤、男の不可解な言動が始まり、女はそれに対して奇妙な対応をする。男の不可解さがポジで女の奇妙さがネガなのか、その逆なのか・・ 女のそれだろうと類推する。やはり女性目線で書かれた芝居であり、「男」は現象として現前し、女がどうふるまったか、が焦点化されているのだ。
 簡素だが一定の具体性を持たせた装置と、十全な説明未満にとどめた台詞、注意していないと意識されないが場の空気を支える音響、全体にストイックな作りは好みである。 
今回「素人」「プロ」について意識したという主宰の言であるが、素人性すなわちありのままの自分自身(の心?)だとすれば、今後の発展は作者の心の探求次第という事になるのだろうか・・。 
 今回再々演という事で、初演から関わる三名によるトークは興味深かった。色々なことを考え、独自な製作を行う西尾氏主宰の鳥公園の「発展」の形は予測しようもないが、ともあれ「発展」されんことを。

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